あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられたみ霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、はるかな異境に亡くなられたみ霊、皆さまの尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時も忘れません。
この前の戦争で命を落とした人たちの犠牲の上に今の日本の繁栄があるのだといういい方が戦死者の遺族にとって慰めになっているであろうことは私にもわかります。だが、それでいいのか?という思いが拭えないのです。
犠牲という言葉には二種類の意味があって、ひとつ目は戦争の犠牲者という意味です。これは空襲で命を奪われた人たち、外地から日本に引き揚げる途中で命を失った人たちを意味します。二番目は、目的を達成するために身をなげうって尽くすという意味であり、戦死した軍人や軍属が該当します。「貴い犠牲の上に平和と繁栄がある」といういい方は、二番目の意味(すなわち戦死した軍人や軍属)を意識していると思ってよいでしょう。(神戸に行って、「今日の神戸の反映は阪神大震災で亡くなった方々の犠牲の上にあるのです」といい方をする人はいないでしょう。)
では、彼らが出征し、あるいは従軍したのは何のためだったかといえば、家族を護り日本を護るためだったというのが広くいわれていることです。(実際には、喜んで行った人もいれば、嫌々行った人もいるはずであり、人によって異なるはずです。)
それでは、家族や日本を護るという目的が達成されたのかといえば、答えは否です。空襲や原爆、沖縄戦で亡くなった民間人は八十万人に及ぶとされています。これだけ多くの犠牲者を出したうえに、ポツダム宣言を受諾することによって日本は主権を失い、進駐軍が統治することになったからです。(沖縄と小笠原がいったん日本から切り離されたことも忘れてはなりません。)
ゆえに、あの戦争で戦死した軍人や軍属を「犠牲」として位置づけるのは誤りです。
「貴い犠牲の上に」といういい方は遺族を慰めるものですが、同時にあの戦争の責任についてすべてをうやむやにする言葉でもあります。
はっきり言うと、戦争で亡くなった民間人も含め、戦死者の中にも「死ななくてもよかった」人は相当数いるのではないかと思います。実際、戦死した理由として餓死や傷病が含まれているのですから、当時の日本軍が組織として機能せず、指導者が無能無策無責任であったことの証左であるといってよいでしょう。
近隣諸国からの脅威に対し、抑止力を高めるために日本には軍隊が必要だという主張をする人が増えているようです。そのように考えるのであれば、先の戦争において「なぜあれだけ大勢の人が死ななければならなかったのか?」という検証を先にすべきだと私は思います。それもせずに軍備を拡張し、憲法を改正すると、また大勢の「死ななくてもよかった人たち」を生み出すことになると思うからです。
そういう姿勢が現政権には微塵も見られないので、私は安保法制はもちろん憲法改正にも反対するのです。戦争はアニメや映画とは違うのですから。
参考までに、同じ戦没者追悼式で天皇はどのように述べたかを引用しておきます。
終戦以来71年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。