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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

 8月15日日本武道館で行われた戦没者追悼式での安倍総理の式辞に次の言葉があったのが気になりました。

 あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられたみ霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、はるかな異境に亡くなられたみ霊、皆さまの尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時も忘れません。

 この前の戦争で命を落とした人たちの犠牲の上に今の日本の繁栄があるのだといういい方が戦死者の遺族にとって慰めになっているであろうことは私にもわかります。だが、それでいいのか?という思いが拭えないのです。

 犠牲という言葉には二種類の意味があって、ひとつ目は戦争の犠牲者という意味です。これは空襲で命を奪われた人たち、外地から日本に引き揚げる途中で命を失った人たちを意味します。二番目は、目的を達成するために身をなげうって尽くすという意味であり、戦死した軍人や軍属が該当します。「貴い犠牲の上に平和と繁栄がある」といういい方は、二番目の意味(すなわち戦死した軍人や軍属)を意識していると思ってよいでしょう。(神戸に行って、「今日の神戸の反映は阪神大震災で亡くなった方々の犠牲の上にあるのです」といい方をする人はいないでしょう。)
 では、彼らが出征し、あるいは従軍したのは何のためだったかといえば、家族を護り日本を護るためだったというのが広くいわれていることです。(実際には、喜んで行った人もいれば、嫌々行った人もいるはずであり、人によって異なるはずです。)
 それでは、家族や日本を護るという目的が達成されたのかといえば、答えは否です。空襲や原爆、沖縄戦で亡くなった民間人は八十万人に及ぶとされています。これだけ多くの犠牲者を出したうえに、ポツダム宣言を受諾することによって日本は主権を失い、進駐軍が統治することになったからです。(沖縄と小笠原がいったん日本から切り離されたことも忘れてはなりません。)

 ゆえに、あの戦争で戦死した軍人や軍属を「犠牲」として位置づけるのは誤りです。
 
 「貴い犠牲の上に」といういい方は遺族を慰めるものですが、同時にあの戦争の責任についてすべてをうやむやにする言葉でもあります。
 はっきり言うと、戦争で亡くなった民間人も含め、戦死者の中にも「死ななくてもよかった」人は相当数いるのではないかと思います。実際、戦死した理由として餓死や傷病が含まれているのですから、当時の日本軍が組織として機能せず、指導者が無能無策無責任であったことの証左であるといってよいでしょう。

 近隣諸国からの脅威に対し、抑止力を高めるために日本には軍隊が必要だという主張をする人が増えているようです。そのように考えるのであれば、先の戦争において「なぜあれだけ大勢の人が死ななければならなかったのか?」という検証を先にすべきだと私は思います。それもせずに軍備を拡張し、憲法を改正すると、また大勢の「死ななくてもよかった人たち」を生み出すことになると思うからです。
 そういう姿勢が現政権には微塵も見られないので、私は安保法制はもちろん憲法改正にも反対するのです。戦争はアニメや映画とは違うのですから。


 参考までに、同じ戦没者追悼式で天皇はどのように述べたかを引用しておきます。

 終戦以来71年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

# by t_am | 2016-08-16 09:10 | その他
 ツイッターのTLで傑作だと評判になっているシン・ゴジラを観てきましたた。もう一回観に行ってもいいかなというのが感想です。

 ゴジラが街を破壊するシーンは時間にして全体の1割ちょっとくらいでしょうか、人間がゴジラに戦いを挑むシーンを含めても全体の三割にも満たないのではないかと思います。では残りは何かというと、政治家と官僚による会議、意見交換(石原さとみが登場するシーンもここに含まれます)が大部分を占めていように思います。そんな映画が面白いのか?と思うかもしれませんが、これが面白くてたまらないのですね。

 1%の嘘を信じ込ませるためには、99%の真実の中にその嘘を織り交ぜなければなりません。ゴジラというフィクションを観客に受け入れさせるには、残りすべてが緻密に計算されたリアリティに徹していなければならないのです。シン・ゴジラはそれを成し遂げることができたので、とても面白い仕上がりになっています。

 わたしのTL上で、ある人は、この映画の中で延々と続く会議(その中には的外れと思われる議論もあります)と自衛隊の隊員や防衛大臣(余貴美子が光ってました)が攻撃許可を求める手続きのくどさに民主主義のお手本を見いだしていました。
 映画館を出てから気づいたのですが、この映画にはバカな政治家と上司の顔色を伺う無責任な官僚がまるで出てこないのです。登場する政治家と官僚たちはそれぞれ使命感と責任感をもって私生活を省みることもせずに、己の仕事に取り組むという壮大なフィクションが描かれています。バカ、無責任、欲張りが一人も登場しないからこそこの映画は面白いものになっているのですが、冷静に考えるとちょっとありそうもないことですね。
 ただし、この映画に出てくる人物たちの行動は、観客が無意識のうちに望んでいる姿の投影であることも事実です。実際にはあり得ないかもしれませんが、大衆が好ましいと思う人物たちが描かれているというのもこの映画を面白くしている要因のひとつなのだと思います。

追記
 リアリティには2つあって、いかにもありそうな話のほかに、こうあって欲しいという願望が込められたリアリティがあるようです。後者は結婚詐欺師になぜ騙されるのかを理解する際に必須の要素であるといえます。庵野監督を結婚詐欺師に喩えるわけではありませんが、観客が心地よく物語に没入できるためにも、バカな政治家と無責任な官僚を排除するというのは必要であったといえるのです。
# by t_am | 2016-08-09 21:24 | その他

by T_am