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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

2011年 10月 19日 ( 1 )

 今日の朝刊の⒈面に、東電は、福島第一原発において、原発の一般的な寿命と考えられる50年間に、被害を防げる想定の最大5.7mを上回る津波が来る確立を最大約10%、炉心溶融を引き起こす10m超の津波の確立も約1%と見積もり、2006年のフロリダの国際会議で発表した、という記事が載っていました。
 記事の文脈は、このような評価結果が2006年に出されていながら東電がそれを生かしていなかったというものになっています。
 それから5年しか経っていないにもかかわらず、メルトダウンが起こるような津波が発生したわけですから、東電の不作為が責められるのは致し方ないと思います。

 そこで今回は災害発生確率をどう理解したらいいかについて考えて見たいと思います。

 まず確認しておきたいのは、確率というのは本来無時間モデルであるということです。さいころを1個振って1の目が出る確率は6分の1ですが、その場合時間という要素は考慮されていません。無時間モデルとはそういう意味です。
 06年の評価の算出方法は、原発の一般的な寿命である50年間で想定外の津波が発生する確率を求めているわけですから、これも無時間モデルであるといえます。というのは、原発の耐用年数の間に1回でも想定外の津波が発生する確率を計算しているのですから。

 そうなると、10%という確率が高いか低いかという判断になるわけですが、文化系の経営者にとっては100%に対する10%という考え方をしがちです。すなわち、発生しない確率は90%もあるのだから、まずそんなことは起こらないだろうと考えてしまうということです。ところが、技術者にとって10%という数値は看過できる値ではありません。技術者にとってはシステムが正常に稼働するのが当たり前です。したがって、事故や故障によってシステムがダメージを受ける可能性がわずかでもあった場合、なんとかしてそれを排除しようという発想をするのが普通であり、良心的な技術者であるといえます。
 さらにいえば、50年間というのは人間にとってはかなり長い年月であるともいえます。東電に限らず、大きな組織の管理者というのは自分の在職中は問題が起らなければそれでいい、という考え方をするものです。というのは、将来問題が発生するかもしれない要因があることを発見しても、それを解決するためには多くの手間とコストがかかることが明らかな場合、その問題に取り組んでも褒められることはないとわかっているからです。
 大きな組織で働く人間の考え方は、何も問題が起こらないのがベストであり、何か問題が起こった場合、自分には責任がないことを証明することを優先して考えるものです。問題を解決したとしても、関心は、責任の所在はどこにあるかというところにあり、解決したことに対する評価は意外と低いものです。まして、将来起こるかもしれない事故に対して、予防的に取り組んでも誰も評価してくれません。評価の対象はどれだけ収益をあげたかというものですから、進んで貧乏くじを引こうとする人間はよほどのお人好し(というか、はっきりいって「バカ」)であるというふうに思われているのです。
 当時の東電の社内でも同じような風潮があったのだと思います。だから、こういう評価報告が上げられても組織として対応することがなかったのでしょう。どうやら、企業経営もいつの間にか無時間モデル(あるいは近視眼的)になってしまっているようです。大切なのは1年もしくは四半期という単位の中でどれだけ収益を上げたかであって、津波対策のような収益に結びつかない投資は誰もやりたがらないのです。

 既に述べたように、確率は本来無時間モデルの事象を扱うものですが、災害発生確率の場合、地震発生確率でおなじみのように数十年単位での確率として発表されます。実をいうと、一般市民にとってこのような確率には意味がないと私は考えています。
 災害発生確率ではありませんが、降水確率を例に考えて見ましょう。昔の天気予報は晴れか雨か曇りかというシンプルな物でした。それだけに当たらないことがけっこうあったのですが、降水確率という発表のしかたに改めたことによって、天気予報が外れるということは基本的にはなくなってしまいました。というのは、降水確率10%という発表があった場合、雨が降れば10%の範囲にあったということになりますし、雨が降らなければ90%の範囲内ということになるので、降っても降らなくても外れたことにはならないのです。

 これは降水確率が60%であっても同じことです。

 したがって、降水確率とは、雨が降るか降らないかではなく、雨が降りやすいか降りにくいかを判断する目安にすぎないというふうに理解した方がよいと思います。そのうえで、傘を用意して出かけるかどうかは自分で判断しなければなりません。

 それでよいのだと私は思います。

 今日は、はたして雨が降るのかについて、ある程度の材料が提供されていれば自分で判断することができます。他人に判断してもらって、外れたらその人を責めるというのは大人のすることではありません。にもかかわらず、他人の判断を無条件で受け入れるというのは、詐欺に引っかかりやすいタイプの人であるといってよいでしょう。

 冒頭に述べたように、災害発生確率が0%でない場合、技術者にとってそれは見逃すことのできない数値となります。しかし、技術者でもない一般の人にとってはどうしたらよいかわからないという類のものでしかありません。
 地震発生確率(今後30年間で地震が発生する確率)は、日本中のどこにいてもだいたい数パーセントという数値となっています。地震が怖いのは震度6を超えた場合であり、それ以下であれば(普通の家屋の中にいる限りは)たいした被害はおこりません。高層ビルの場合は、長周期振動によりビルが共振することがあるので、危険な場合があります。したがって高層マンションに住んでいる人でもなければ、大事なのは、自分が住んでいる地域で震度6以上の地震が起こるかどうかということなのですが、地震発生確率はその疑問に答えてはくれません。
 一般の人にとって意味がないという理由のもうひとつは、30年や50年というスパンは長すぎるということです。仮に、海沿いに住んでいる人の地域で、今後30年以内に津波が発生する確率が10%以上あるという発表があったとして、高台に引っ越すという人がどれだけいるでしょうか? それよりは、「この地域は過去に千年周期で10メートルを超える津波が発生しており、前回津波が記録されたのは800年前である。ゆえに津波に対する備えをしておくことが望ましい、」といわれた方がより真剣に耳を傾けるのではないでしょうか。

 東日本大震災の後で、家具の転倒防止装置などの地震対策グッズが売れていると聞きます。自分が住んでいる地域の避難先がどこになるのか確認された方もいらっしゃると思います。このような行動は間違っているとは思いません。日本は地震国である以上、どこかで震度6を超える巨大地震が発生する可能性は誰にも否定できません。もしかしたら自分の住んでいる地域では震度4か5くらいで収まるかもしれませんし、そうでないかもしれません。それならば、地震に対する備えは怠らないようにしようと考える方が賢明だと思います。
 今後もなにかの拍子で災害発生確率が発表されることがあると思います。それは、日本のいつかどこかで大きな災害が起こるということであってそれ以上のことはわからないのですから、慌てる必要はないと思います。個人においては、災害時の備えをしておくこと、行政や研究所においては災害発生確率の算出にリソースを費やすよりも、過去に起こった災害で、どこでどれくらいの被害が起きたのかを調査することに費やした方がはるかに有用であると思います。

 災害発生確率を取り上げる際に、浜岡原発に対する菅前総理の停止要請を避けて通ることはできません。その根拠として、今後30年間でマグニチュード8.0の地震が発生する確率が87%である、ということがいわれました。このときは、87%という高い確率の根拠について検証されることはありませんでした。
 東海地震が起こるということはだいぶ前からいわれていました。浜岡原発はその真上にあるわけですから、実際に巨大地震が起こったときに浜岡原発が受ける被害は深刻なものになる恐れがあります。たとえ津波が襲ってこなくても、震度6を超える揺れに襲われると原子炉内部の配管が損傷するということは今回の福島第一原発の事故で明らかになったと思います。したがって浜岡原発が日本で最も危険な原発であるという指摘は間違いではないといえます。
 菅前総理の停止要請は、その懸念を突いたものでした。それゆえに、87%という根拠不明な確率について十分吟味されることもなく、原発の停止が行われたのです。確率が87%でなく、8.7%であったとしても、巨大地震が起きたときに浜岡原発が被害を受けることに変わりはありません。問題点は巨大地震が起こるか起こらないかではなく、日本の原発は巨大地震が起きたときに間違いなく被害を受けるような設計しかされていないというところにあります。そのような説明をせずに、唐突に浜岡原発だけを止めようとしたのが菅前総理でした。さらに悪いのは、中部電力による防潮堤建設を承認したことです。それによって、福島第一原発事故原因は津波によつ全電源喪失であると決めつけることになってしまいました。
 はっきり申し上げますが、このような確率の用い方は邪道であり、人の不安に付け込む霊感商法の教祖と何ら変わりはありません。(原発の危険性を指摘するのであれば、日本中の原発を止めさせるべきでした。)一国の総理大臣という要職にある人間がそれを行ったのですから、管直人という人は戦後最低の総理であったと申し上げなければなりません。

付記
 菅前総理がSPを連れてお遍路に出かけたことに対する非難がありました。いくら戦後最低の総理だったとはいえ、そのような非難は的外れであると思います。法律の規定こそありませんが、総理経験者にはSPがつくことになっています(その代わり家族にまではつかない)。心の傷(総理大臣というのはそれだけ割の合わない仕事です)を癒すためにお遍路に出かける権利まで奪う権利は誰にもありません。
by T_am | 2011-10-19 23:32 | 科学もどき