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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

正解のない争い

 第ニ京阪道路の建設予定地を強制収容するため、大阪府門真市での行政代執行をめぐり、当日の様子がテレビで報道されました。この映像の中で、府の職員ともみ合う保護者・保育園の理事の姿と泣き出す園児の様子が映し出されており、「なぜ、あと二週間待てないのか?」という言葉が強調されていました。



 その後、双方の言い分が少しずつ報道されましたが、言い分は真っ向から食い違っています。
 これが民間どうしの争いであれば、妥協点が見つけられない以上、現状維持がいつまでも続くということになります。今回は当事者の一方が行政ですから、公権力を行使して行政代執行という手段に出たものです。
 行政による土地の強制収容という事件が報道されると、いち視聴者としては、土地を取り上げられる人につい同乗したくなります。そういえば、北京オリンピックでもありましたね。

 土地をめぐる争いというのは古来からあり、境界争い、相続争いが代表的なところです。紛争があった場合、これを解決するには4つのパターンしかありません。1番目は妥協による合意。2番目は武力行使。3番目は第三者による裁定、4番目が多数決です。
 本来は合意が形成されて、関係者一同にこにこ笑って握手するというのが一番いいのですが、みんながハッピーという決着に至るのは極めて希な事態です。たいていはどちらか、あるいは双方が妥協して、「まあ、仕方ないか」というところで決着することが多いのです。ところが、妥協して決着するという行為は、冷静でなければできるものではありません。感情的になってしまうと、それが相手にも引火して手のつけられない状況に陥るということになりがちです。
 こういう場合、人類は武力行使に訴えるということをしてきましたが、それでは争いが絶えないということで、第三者による裁定という制度を設けました。安堵という言葉は、中世において土地の所有権を将軍や領主が承認することを意味しました(源頼朝の革命が成功したのは、土地の所有権を認めてもらいたいという武家の強い思いがあったからです)。
 現代社会で、第三者による裁定は何があるかというと、訴訟を想像していただいたらよろしいかと思います。
 しかし、第三者(公正中立がモットーとされています)による裁定を仰いでも、実際のところ恨みつらみは残るのであって、裁定が出たからにっこり笑って握手するということはありません。だから裁判では、地裁・高裁・最高裁と、判決に不服があれば控訴や上告ができることになっています。
 また、紛争とは異なりますが、スポーツにも審判がいて、公平な裁定をすることになっています。しかし、実際には審判が公平でないということはままあります。その場合、審判の判定に不服があって抗議しても、判定が覆ることは希です。その点、シドニーオリンピック男子柔道100kg超級決勝で、審判の誤審によって優勝を逃した篠原信一選手が「弱いから負けた」という以外何もいわなかったというのは立派であったと思います。

 こうしてみると、人間が争った場合、どのような決着をつけてもそこに正解というのはありません。あるのは当事者が納得しているかどうか、ということだけです。納得するためには、メリットとデメリットの差し引き計算をするとか、当初の目的が達成できるかという計算(名を捨てて実を取るというように、目的を達成するために相手のメンツを立てるという妥協だってありえます。)ができなければなりません。既に述べたように、あくまでも冷静でなければならないのです。
 妥協というと、純粋でないイメージがつきまといます。けれども、純粋さというのはひとつ間違えると原理主義に染まりやすいので、事態を紛糾させることになりかねません。むしろ、妥協してもいいものと妥協してはいけないものを区別できるということが大事なのであって、これを混同するところに問題があるのです。

 今回の門真市における行政代執行は、双方が感情的になった結果であろうと思います。お互いにいいたいことはあるでしょうし、ひとつひとつ話を聞けばいちいちもっともであると思うようなことばかりだと思います。お互いに妥協できなければ、あとは実力行使に移るか第三者の裁定を仰ぐかしかありません。
 そういう意味で行政代執行というのは、公権力による武力行使にほかなりません。世論は判官贔屓ですから、弱者や敗者に対して好意的です。テレビが、泣いて親にしがみつく園児の姿を映したのも、人間のこのような心理を計算したうえでのことでしょう。
 自分に危害が及ばなければ、他人の争いごとというのは面白い出来事です。これを野次馬根性といいます。そういう意味で、橋本知事のテンションの高さは、野次馬の興味を引きつけるものがあります。庶民受けするだけに、マスコミにとって貴重な人材というべきでしょう。
 実をいうと、橋本知事にはある種の「危うさ」があるような気がします。
 国会運営をみていると、議論がかみ合わないうちに審議が打ち切られ採決という多数決によって決着をつけるという安易な手法が横行しています。大阪府議会を見学したわけではありませんが、少なくとも橋本知事にはこのような「狡さ」や「姑息さ」はないように思えます。むしろ議論を好むタイプであるようですが、ちょっと独善的でないか、と思うときもあります。

 議論において相手を論破するというのは、滅多にあるものではありません。ほとんどの場合、唯一の正解というのは存在しないので、自らの(言葉ではなく)行動によってどれだけ多くの人を納得させられるかが、政治家に求められる資質であろうと思います。
by T_am | 2008-10-22 06:51 | 社会との関わり

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