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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

日本的政治システムと総理の辞任

 福田総理が辞任を表明しました。
 このニュースを聞いた人がそれぞれどのような反応を示しているかを見ると興味深いものがあります。
 利害が対立する野党は無責任であるとして批判していますが、これは、敵の失点は自分の得点、という政治力学によるものですから、割り引いて聞く必要があります。マスコミも似たような論調でいますが、これもその方が国民受けするかにほかなりません。
 福田総理の真意がどこにあるのかはわかりませんが、政治における日本独自のメカニズム(というのは言い過ぎですが)が辞任に追い込んだものと理解しています。




 ご存じのように、日本の総理大臣というポストは、アメリカと違って、国民が投票して選ぶものではありません。衆議院による指名によって選ばれるポストですから、原則として最大勢力を持つ政党の総裁や代表が総理大臣につくことになります。
 ところが、国会の勢力図は選挙によってコロコロ変わるので、総理大臣は国民の支持率がどのように変化しているかということに強い関心を持たないわけにはいきません。支持率が低下してくると、このままでは次の選挙に勝てないという観測が与党内に広まります。それがピークに達すると、与党の中でも総理を見限るという動きが出てくるようになります。 
 こうなると総理大臣のとるべき選択肢は3つしかありません。ひとつは国会を解散し総選挙をおこなう(総選挙後の国会召集のときに内閣は総辞職しなければなりません)というもの。ふたつ目は内閣が総辞職する(総理大臣が辞任すると内閣は総辞職しなければなりません)こと。そしてみっつ目は、居座ることです。ただし、居座ったとしても、いつ辞任するか死亡するかによって総理の職を失うことになるわけです。
 国会を解散し総選挙に打って出る場合も支持率がネックになります。支持率が低ければ選挙で負ける可能性が高くなるからです。それよりは、辞任すれば次の総理は与党から選出することができるので、解散よりは辞任の方が与党にとってはありがたいといえます。

 内閣支持率が下がると総理大臣の首が飛ぶというシステムには功罪があります。
 まずマイナス面を述べると、総理大臣が比較的短命に終わりやすいと欠点があります。戦後、2年以上持った総理大臣は、吉田茂(1949年2月16日-1954年12月10日)、鳩山一郎(1954年12月10日-1956年12月23日)、岸信介(1957年2月25日-1960年7月19日)、池田勇人(1960年7月19日-1964年11月9日)、佐藤栄作(1964年11月9日-1972年7月7日)、田中角栄(1972年7月7日-1974年12月9日)、三木武夫(1974年12月9日-1976年12月24日)、鈴木善幸(1980年7月17日-1982年11月27日)、中曽根康弘(1982年11月27日-1987年11月6日)、海部俊樹(1989年8月10日-1991年11月5日)、小泉純一郎(2001年4月26日-2006年9月26日)となります。特に平成に入ってからは、短命の総理大臣が目立ちます。最も短いもので64日という人もいました。(「日本国歴代内閣」 Wikipediaより)
 
 これを3年以上総理の地位にいた人とすると、6人にまで絞られてしまいます。戦後63年間に6人というのは少ない(そのうち5人は昭和時代の総理です。昭和時代が43年間、平成が20年間であることを考慮すると、最近の総理大臣が短命であることがよくわかります。)と思います。
 在任期間が短いということは、長期的ビジョンを持っていたとしても、それを実現するだけの時間がない(閣僚は内閣改造によりもっと頻繁に交代します)ということです。したがって官僚主導型の政治に陥りやすいということになります。

 次にプラス面について考えてみます。
 民主主義が断固回避しなければならないのは、ひとりの人間に長期間権力が集中するという事態です。長期間権力のいすに座っていると、その人間は独裁者になるか腐敗するか、いずれにせよロクなことがありません。(2006年に収賄容疑で逮捕された前福島県知事は、5期18年間知事の座にいました。5期目は任期途中で辞任。)
 そこで権力者にもどうすることのできない「歯止め」が設けられるわけです。日本の場合、総理は国会(衆議院)から選出されますが、それは総選挙の行方の影響下にあるということになります。
 ただし、それだけでは人心掌握術に長けた権力者が有利になるので、参議院という機関を設けています。
 福田総理をみてもわかるように、総理大臣というのは議会に対してはあまり強くはありません。なぜなら行政府は本来政策を執行するところであって、政策を立案(これは建前)・承認するところは議会だからです。総理大臣といえども議会が承認しなければ、政策を執行することができません。(それを可能にしているのは、最大勢力を持つ政党の代表であるということです。つまり過半数を握っているということ)。このため、総理大臣には解散権が与えられています。議会と対立したときに、どちらが正しいか国民に問うために総選挙を行う、というものです。
 ところが、参議院に対しては総理大臣も解散権を行使することはできません。しかもその任期は衆議院議員よりも長い6年ですから、選挙によって一度参議院の勢力図が確定すると3年間はそれが続く(参議院の選挙は、総選挙ではなく半分ずつ行われる)のです。 今の国会のねじれ現象はこのことに由来しています。
 小泉元総理の人気を受け継ぐ形で、2006年阿倍元総理が華々しく登場しました。阿倍さんは、郵政選挙によって衆議院の過半数を占めているので、教育基本法の改正や防衛庁の省昇格など重要な案件をエネルギッシュにこなしていきました。そこで、国民の間には、安倍総理はちょっとやり過ぎじゃないか、このままでは日本はとんでもない方向に向かうのではないかという危惧が生まれ、2007年の参議院選挙では与野党の議席数が逆転するという状況が生まれました(この件は内田樹先生の受け売り)。
 こうして、総理大臣といえども、どうすることもできないという状況が顕在化したのです。
 時間とともに下がっていく内閣支持率、いうことを聞かない参議院、この二つが福田総理にとって大きな足かせとなったことは皆様既にご存じの通りです。
 ただし、このことが、野党が主張するように自民党政権に対し国民がノーを突きつけた、と判断するのは早計です。なぜならば、民意というのはどこにも存在しないからです。あるのは国民ひとりひとりのばらばらの意識にすぎないのですが、それが総選挙によって互いに打ち消しあい、全体としてひとつの大きな流れに収斂しているかのように見えるだけなのです(川は流れていても、ひとつひとつの水の分子はばらばらの動きをしているのと同じことです)。まして、衆議院は小選挙区制なので、選挙戦術が大きく左右します。実際に、郵政選挙では自民党と民主党の得票数には大きな差はなかったという分析があります。自民党は得票数を議席に結びつけることができましたが、民主党はそれができなかったということです。小選挙区では、たとえ一票差でも当選すればその票は生きますが、落選してしまえばその票はすべて死に票となってしまいます。ですから、郵政選挙で国民が小泉改革を支持した、という人がいます(阿倍さんもそのひとりです)が、とんでもない話で、小泉さんの選挙戦術の勝利に過ぎないのです。自民党の国会議員が、小泉改革を推し進めていく、と主張するのは思惑があって述べているのであって、私たちがそれに同調するのは危険だと思います。 

 以上述べてきたように、日本の政治システムは、凡庸な政治家には早期に退陣していただく作用が働くことになっており、逆に、有能な政治家・人気取りの上手な政治家は長く務めることができるようになっています。(そこには何重にも安全装置がかけられているので、戦前に犯した過ちが繰り返される可能性は低いと思います。それだけに、これらの安全装置を撤去・無効化しようという動きには目を光らせる必要があると思います。)
 それだけに、福田総理は辞めるべくして辞めたのだと思います。
 なぜなら、自民党にはもはや解散・総選挙という選択肢しか残されていないからです。次期総理が決まった時点でご祝儀相場的に支持率が高まったタイミングで解散するのか、それとも何か実績をつくって支持率を高めてから解散するのかはわかりません。けれども、選挙で敗れても、政権を野党に明け渡せばいいだけのことであって、いずれまた政権が転がり込んでくることは確実であると思います。なぜかというと、政権交代当初は高い支持率を獲得するでしょうが、支持率が高ければそれだけ低下するスピードも速いからです。そうするうちに、参議院選挙の時期がやってくるので、ねじれ現象が解消されるチャンスを迎えるわけです。
 福田総理は、解散・総選挙をすれば確実に負けると思い、自分自身がそのときの自民党の最高責任者であるということがきわめて不名誉であると考えたのではないか(辞任会見のときに、「人ごとのようではないか」と記者から質問されて、「あなたとは違って私は客観的に自分をみることができる」と気色ばんだ様子が放映されました。相当プライドの高い人だということがわかりました)と想像します。戦略的撤退ということを選択肢から排除した時点で、(頭はいいかもしれませんが)凡庸な政治家として辞任する以外の選択肢を自らつぶしたといえるでしょう。誠にお気の毒です。


追記。
 日本的政治システムの構造的欠陥は、高級官僚に対していくらでも替えがきく、というメカニズムがないことです。せめて政府高官の半数は総理大臣が任命する(ということは総理が辞任すれば、その人たちも自動的に失職する)という仕組みがあれば、と思うのです。

                       t_am@excite.co.jp
by T_am | 2008-09-03 00:36 | 社会との関わり

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