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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

未来の選択肢(1)

 人生において、しょうがないと諦めざるを得ないときというのは、何度かあります。
 飛行機に乗れば3列席の真ん中しかとれなかったとき。あるいは空港に行ったら、搭乗する便が欠航となったとき。あるいは出張のため予約したビジネスホテルがとんでもなく古いホテル(香川に泊まったときは、フロントの人がジャージの上下を着て出てきたことがあります)だったとき。あるいは、家族揃って外食しようと、馴染みの店に行ったところ臨時休業だったとき。
 これが個人であれば、しょうがないと諦めることになりますが、取引先の接待だとか社長の現地視察だとかになると、しょうがないでは済まされません。遺漏のないように準備万端整えておかなければなりません。事前に社長を案内するルートの下見をしておいて、所要時間を見積もってからスケジュールを組むということもあります。当日、道を間違えたとか渋滞に巻き込まれたというのは、サラリーマンにとってあってはならないのです。
 このようにビジネスというのは、失敗が許されないだけにシビアですが、第三者から見ると案外滑稽に見えるものです。



 自分は正規の料金を払っているのだから、それに見合うサービスを要求する権利があるし、相手方にはその義務がある、という考え方が現代人には一般的でしょう。
 契約をすればそれを履行しなければならないという意識が常識として存在するのは近代社会が成り立つための前提条件であるといえます。
 ただし、日本人にはこのことが法理ではなく商道徳として、ずっと理解されてきました。すなわち、道に外れた商いをするものは一時は儲けることができてもいつか必ず罰が当たるのだから、末永く商売を続けるには誠実に商いをしなければならないという勧善懲悪の考え方です。だから、「契約を履行する」といういい方よりは「約束を守る」といったほうが、私たち日本人には理解しやすいのです。

 このように商人の誠実さというのは道徳の範疇に過ぎないので、いつの時代もこれを無視する輩が現れます。
 自社が扱う食品の偽装表示を指示する経営者、一人暮らしの老人を騙そうとする悪質リフォーム業者というのがそうですね。
 彼らにとっての商いというのは「契約」という法律行為ではありません。「売り買い」の約束を守るかどうかは、自動車を運転するときの速度規制と一緒で、マナーやモラルの範疇に過ぎません。他人がやっているんだから自分も許されるという考え方をします。食品の偽装事件が後を絶たないのはここに原因があります。

 このことから、私たちは次の3つのことを学習することができます。

 まず第一に、「売り買い」という取引は本来信頼関係を基礎とした法律行為(契約)であり、そこに例外はないと理解することです。法律行為であるからには、契約相手がたとえ誰であろうと(たとえば子供や老人や外国人であっても)、契約によって生じた義務を履行する責任があります。(これが道徳であれば、約束を破ってもゴメンナサイと謝るか頬被りすることも可能です。)
 近代社会とはルールが開示されたゲームのようなもので、そのルールさえ守れば誰でも参加できるということを保証しています。したがって、ルールを破るものが続出するとゲームが成立しなくなり、社会そのものが否定されることになるという危うさを持っています。

 第二に、法によって生じる権利と義務は近代社会の構成員のすべてに適用されますが、法という概念が未成熟なところ(すなわち近代社会ではないところ)ではこれが通用しないということです。
 外国旅行(それも後進国)へ行った人が、日本とは違い随分不便な思いをした(列車は定刻通り発車しない。バスはいつ来るか分からない。ホテルに泊まればお湯が出ない。それでも誰も文句をいわない。)という感想を持つのはこのことを見落としているからだと思います。ここは日本にいるときに当たり前だったことが当たり前ではない世界なんだ、ということになかなか気がつかないのです。
 法という文明の産物は外国人であっても理解可能ですが、このような地域では法が律するのではなく、「文化」が支配しています。したがって外国人にとっては慣れない限り理解しがたいのです。
 使用できる通貨が国や地域によって違うように、日本の文化が通用しないのは当然であり、法が万国共通の真理であると考えるのは誤りの元といえるでしょう。

 第三は、日本にはまだ近代社会が成立していないということです。
 経済のグローバル化ということで、それを推し進めて完全な近代国家にしようとする圧力がある一方で、それに対する反発も根強いものがあるのは事実です。
 面白いのは、この二つの矛盾する気持ちが同じ人間の中に存在するということです。
 官僚は法律によって社会を律するということが骨の髄までたたき込まれている人たちです。だから、自分たちに都合のいい法律をつくるのですが、そのことが日本人の道徳観に反することがあるということが自分でもわかっています。
 居酒屋タクシーの利用や道路特定財源のレクリエーション費への流用は法に反しているわけではありません。
 ですから、彼らは居直ってもよかったのです。現に最初は、法に反した行いではないと説明していましたが、結局は道徳に訴える世論(マスコミ)に屈しました。
 つまり、この国では道徳の方がまだ幅を利かせているということがいえるのです。このことは、同じ事件に対して法に基づく判断と道徳感情に基づく判断の乖離(飲酒運転で人をはねて殺しても、飲酒という事実の発覚を恐れて現場から逃亡し酔いが覚めてから自首するという行為に対して、現行法では適用できる量刑に限界がありますが、国民感情は極刑を求めている、など)が起こる要因となっています。

 日本人のこのような中途半端な性質は、例えば憲法に関する議論がいつまで経っても情緒的な議論から抜け出ることができないというデメリットをもたらしています。
 また、我が国には法を運用する官僚に大幅な自由裁量権を与えるという習慣があります。これは、運用者の道徳観が強固なものであれば上手く機能しますが、現代のように金を儲けたものが賢い(そうでない者はバカ)という風潮が蔓延ると、弊害の方が大きくなります。

 人間が集まって社会を構成するようになると、それを維持するために、個人がしてはいけない最低限のことを「倫理」という証明不要の公理として設けることを人類は学びました。(たとえば、不倫というのは人に道に外れた行いであるということになりますが、ではなぜそうなのだと改めて聞かれるとだれも合理的に回答することができません。殺人もそうです。ユダヤ人のすごいところは、本来「倫理」の範疇に属することを「十戒}という神との契約にしてしまったことです。姦淫するなとか盗むなとか、倫理からいえば当たり前のことですが、それを神との契約に反するとして縛ろうとしたわけです。そのおかげで契約という概念が発達することになりました。)

 人類の歴史をみると、倫理によって人を律するのか法によって支配するのかについては、次の3通りの事が行われてきました。

 第一に、倫理や道徳によって人を律する社会。
 第二に、倫理や道徳、法が混在して人を倫する社会。
 第三に、法のみによって、人を統治しようとする社会。

 一番目の倫理や道徳によって人を律する社会は、比較的小規模かつ(我々から見れば)未開の地域にみられます。あまり複雑な取決めを必要としないということなのでしょう。
 また、法のみによって人を統治する社会を実現しようという実験は悉く失敗しています。古代中国の秦は建国後二代目皇帝の治世で滅亡しましたし、マルクス主義理論によって国を運営しようとした社会主義国家はいずれも破綻しました。

 現代では、二番目のやり方をとっている国が残っているわけですが、これは矛盾する概念を抱えているので、これらの国ではそれぞれ問題を抱えています。
 所有するお金が多いほどよいという価値観が支配する社会は第三の道を志向しようとします。しかし国の中で流通する通貨は無限ではない(そんなことをしたら忽ちハイパー・インフレが起きる)ので、人よりも多くお金を持つ人が現れれば、その一方で人よりも少ないお金しか持たないという人が必ず現れます。つまり、通貨が流通する社会においては少数の金持ちと大多数の貧乏人というのは必ずセットで現れ、この現象はより顕著になる傾向を示します。
 政治の役割は、この偏在する富を吸い上げて、ある程度均等に分配することなのですが、それが上手く機能しなくなると政体は瓦解してしまいます。

 では、日本はどの方向を目指したらいいのかは、紙数も尽きたので次回整理してみることにします。
by t_am | 2008-06-30 06:51 | あいまいな国のあいまいな人々