判断基準としての座標系
人間が意志決定や評価をするときに、個人が持っているこの座標軸に照らし合わせて判断が行われますが、ほとんどの人が、何種類かの座標軸を持っており、ケース・バイ・ケースでどの座標軸がプライオリティを獲得するかが異なります。
のっけから抽象的な話をしてすいません。
具体的にいってしまえば、座標系というのは道徳観、倫理観、善悪感、正義感、処世観、金銭感覚といったものを総称したようなもので、その人の価値観といっても差し支えありません。
人間は、成長につれて、親・親戚・友人・教師・先輩・恋人・上司など他者の影響を受けるようになります。(ということは、自分も何かしらの影響を与えているということになります。)
その人たちの言動を見聞きするうちに、それが自分にとって共感できるものであればそのまま記憶されていきます。逆に共感できない場合、無視されるか反面教師として記憶されていきます。このようにして次第に個人の判断基準が形成されていくわけですが、それらは人間が群れの中で過ごすために必要なものとして身についていきます。
無人島に流れ着いてひとりで生きていくのであれば、このような基準は必要ありません。重要なのはサバイバルに必要な知識と知恵と、そして本能です。
けれども私たちは群れの中で生きているので、どうしても自分以外の他者と関わりを持たねばなりません。こういう場合に自分ならばどのように振る舞うか、という意志決定のための基準が学習によって構築されていきます。
その中には、どうすれば群れの中で余計な摩擦を起こさずに済むのか、どうすれば有利に立ち回れるのか、などといったことも含まれます。それらは、大げさにいえば、自分はどのように生きるのかということに収斂されていく、といってもいいでしょう。
これらの個々の判断基準は、それが適当なケースで適用されている限りにおいては、良い悪いということはいえません。いえるのは、自分ならばそういう選択はしない、ということです。
そのことから、他者をして、セコいだとか我が儘だとか、あるいはお人好しだとか不器用だとかいう評価が展開されます。けれども他者を批判する自分の拠り所が自分の持つ座標系である以上、自分もまた他の座標系の持ち主(すなわち他者)の批判に晒されるということから逃れられません。
ですから「正しい座標系」というのはもともと存在しないのです。
このような私の意見に対して、神は無謬である、という反論があるかもしれません。確かに大文字のGODはそのような存在として説かれているようです。(よくは知りませんが。)
しかし、ここでいう「神」は常に自分と対極の移置にある存在として認識されているのではないかと思うのです。その根拠として、「こういう場合にどうすれば神の御心に叶うか」という命題はあっても、「神ならばこういう場合にどうするだろうか」、という命題は導かれないのです。つまり、まず自分があって、それから「神」がどのように自分を見ているか、という論理があるのです。
「どうすれば神の御心に叶うのか」という命題は使うタイミングを誤れば問題を起こす可能性があります。それは何かというと、試みに「神」という単語を「夫」や「社長」という単語と交換してみるとよくわかります。
「どうすれば、夫は喜ぶのか?」
「こういう場合、どうすれば社長は満足するのか?」
最初のは世間一般によく見られる座標軸です。「夫」を「妻」といいかえることも可能ですし、「恋人」といいかえることもできます。このことが適当なときに用いられる(明日は夫の誕生日だからお祝いをしたいけれども、何をしたら喜んでもらえるか? などです)限り何の問題もありません。ごく微笑ましい考え方であるといえます。
ところが、再婚相手が我が子を躾のためと称して虐待しているときに、このような座標軸に沿って行動することは、自分も我が子に対する虐待に荷担することになります。子供が虐待されていれば、それを制止するというのがまず先でしょう。でもそうはならないのです。
2番目の例もよく見られる座標軸です。組織の中で出世する人は大概このような考え方が身についている人であるといってもいいでしょう。歴史上有名な人物の中では、豊臣秀吉が織田信長に仕えていた頃このような考え方をしていたと思われます。そういう意味では、成功につながる考え方であるといってもいいと思います。
その反面、このような座標軸に沿って行動することは、度が過ぎると阿諛追従ととられ、人の反感を買うかねないリスクがあります。さらにいえば、座標軸の目盛りが「トップの満足」なので、組織にとって有益かどうかよりもトップが満足するかどうかの方を優先させるという傾向があります。つまり大事なことは何も判断していないということにつながるのです。
そのように判断を他者に委ねてしまうことで、誰も責任を負わないという風土ができあがります。より大きな権限を持つ立場の人間が、自分で判断するという責任を放棄することは、結果として組織に害をなす、という事実を昨年の食品を始めとする偽装事件で嫌というほど見せつけられてきました。
これらのケースからわかることは、顧客に対し責任を負うよりもトップに対する責任を優先する方が組織の中では出世しやすいということです。
そのような風土の組織の中では、正義感の強い人は浮き上がり、干される運命にあることは容易に想像がつきます。現に出世している人からみれば、正義感の強い人というのは、能力はあるかもしれないけれども融通の利かないバカにしか見えないでしょう。
異なる座標系の持ち主は、互いに批判することがいくらでもできる、というのはこのような意味です。
トップにしか責任を負わない人は、それがどのような事態を招くのか気づかないという想像力の低さによって、自らが属す組織を破滅に追いやる(当然自分も心中することになります)可能性が高くなります。その一方で正義感の強い人は、その頑固さによって自分の立場を不利なものにしかねない(いつまで経ってもうだつが上がらない)という欠点があります。
したがって、自分ならばどうするか、その選択の結果生じることのツケを払うのは自分であるという覚悟さえあれば、思想信条の自由があるように、どのような座標系を持とうが構わないと思うのです。
映画「靖国」の上映中止を決めた映画館のニュースが報道され、それに対するコメントを様々な人が発表しています。また、マス・メディアも表現の自由が萎縮していくことへの危惧を表明しています。同様のできごととして、グランドプリンスホテル新高輪が日教組の教育研修集会の会場使用を拒否した事件もありました。
いずれも(コメントの発言者も、上映中止を決定した映画館やプリンスホテルの関係者も)自らの座標系に沿っての行動であるわけです。それらの言動の中には相反するものもありますが、よりマクロな目でみたときに一定の方向へ流れていく潮流が形作られていくのではないかと思います。