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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

あいまいな国のあいまいな人々(5) 総論賛成各論反対

 地球温暖化や環境破壊という問題に対する対応をみていると、総論賛成各論反対という言葉の見本のような展開を示しています。
 温室効果ガスが地球温暖化の原因であり、このままその排出が続けば大変なことになるという危機意識は多くの人が抱いています。



 ではどうしたらいいのか、ということになると具体的な方策は何もとられていないように思われます。
 その理由の最たるものは、今の自分の生活レベルを下げたくない、という思いが私たちの中にあるからです。エアコンのない生活・職場というのはもはや考えられませんし、エスカレーターがあれば階段よりもそちらを使ってしまいます。
 リサイクルということを考えれば、瓶ビールの方がはるかに「地球にやさしい」はずなのですが、めんどくさいために、缶ビールの方が売れています。(アルミをつくるには大量の電力を必要とします。)

 二酸化炭素の放出を削減するために駅のエスカレータを全面的に停止します、とJRが発表したらどうなるでしょうか? 日本中から非難を浴びるのは間違いありません。理由はいくらでもつけられます。子供やお年寄りなどの社会的弱者に配慮が足りないとか、一日中仕事をして疲れて帰るのにあの長い階段を上り下りしろというのかとか。
 でも本音は、今の快適な生活を捨てて不便な生活に戻るのは嫌だと、誰もが思っているのです。

 実は、本稿は地球温暖化のことを取り上げるものではありません。主張としては正しいと認めるけれども自分がそれを実行するのは嫌だ、という人間の気持ちを考察しようというものです。(温暖化のことをとりあげたいという思いはあるのですが、ではどうしたらいいのか、という問題に行き着くので、正直言って今のところ考えがまとまっていない、というのが実情です。)

 「あなたの主張はもっともであると思う。しかし、その具体策に対して私には不満がある。」こういうケースはいくらでもあります。
 小泉元首相が提唱した「痛みを伴う構造改革」がそうでした。道路公団民営化では、誰もが民営化すべきだと思っていました(国交省の官僚と道路族の議員は民営化は避けられないと観念していました)が、ではどのようにして民営化するか、これからの高速道路をどうするのかという議論になると混乱してしまいました。民営化委員のうち二人を残して後の全員が辞任してしまったことを覚えておいでの方も多いと思います。
 国政のレベルになると、このように、方向性には誰もが賛同するけれども、具体的な実施方法になると現場が反対するというのはいくらでもみられます。
 行政改革と公務員制度改革は一向に進みません。福田総理になってからは、渡辺大臣が一人浮いているように見受けられ、まさに四面楚歌といった感じがします。

 総論では賛成するが各論では反対であるということがなぜ起こるのかを考えると、イメージが一人一人異なる、というところが大きいと思います。
 総論は方向性を示すものなので、漠然としたイメージしかありません。したがって、誰もが自分に都合のいいように解釈することが可能です。それゆえに総論は大多数の支持を受けるわけです。
 けれどもその支持というのは、個人の勝手な思い込みの集合体ですから、具体論に移った段階でその利害が衝突するということになるのです。

 あるモノに対する思い込みが人によって異なる、という事実は至るところで見受けられます。身近なところでは、家庭や家族に対する考えの食い違いというのがあります。このことについてほとんど考えたことがない(したがって自分が家庭や家族に対してどのように考えているかわからない)、という人が大部分なので交際していても、このことで意見が衝突するということは滅多にありません。
 けれども、それぞれ家庭や家族に対するイメージが異なる男女が結婚して一緒に生活するのですから、遅かれ早かれ、こんなはずじゃなかった、と気づくことになります。
 では、結婚前に自分が考える家庭と家族のイメージについて二人の間で語り合うというプロセスを踏めばいいのでしょうが、そんなことをすればするほど意見の不一致が明らかになるだけで、二人の関係が破綻するのは目に見えています。たまたま二人の考えていることが近ければハッピーでいられますが、それはお年玉つき年賀はがきの切手シートが当たるくらいの確率(当たりそうでなかなか当たらない)であろうと思います。
 したがって結婚してからお互いのギャップに気づく、というのもやむを得ないと思いますが、そのこと自体特段問題があるとは思いません。なぜならば、考えの不一致というのは家庭や家族に対する考え方だけに見られるものではないからです。お金の使い方・貯め方、親とのつきあい方、子供の育て方、余暇の過ごし方、食べ物に対する嗜好、等々。こういったことをすべて結婚前にチェックしてうまくいきそうな人と結婚すればいい、というのは机上論にすぎません。

 各論で衝突したとき、日本人の伝統的思考法は「いったん棚上げにする」というものです。事をあまり荒立てない。こうすることで決裂という危機的状況は回避できます。和を優先させるために表面的な対立を避けるというスタイルで、ずっとうまくやってきたのですが、最近はどうやら綻びが目立ってきたようです。
 その理由として個人主義という考え方が導入されるたことがあげられます。全体の調和・秩序よりも個人の価値を重視しようというのですから、個人主義の立場に立つ限り、表面的な対立を回避するという「姑息」な手段とは相容れることができません。むしろ相手に勝ち、これを屈服させるという発想につながるものがあります。そのためには、議論で勝つ、武力で勝つ、権力で勝つ、ステータスで勝つ、などがあります。
 思うに私たちは、このように「相手に勝つ」ということだけを考えているような気がします。「自己決定自己責任」とは、勝負に勝った者が総取りすることが許され負けた者はすべてを失っても文句は言えない、という意味なので「勝っている自分しかイメージできない人」とは非常に相性がいいのです。
 パチンコ愛好者は、自分が勝つこを考えてパチンコ店に向かいます。負けるなどと思ってもいないはずですが、通算すると負けが多いと容易に想像できます。(そうでなければパチンコ店は倒産してしまうからです。)けれども私たちはパチンコ愛好者を嗤うことはできません。自分自身が精神的に彼らと同質であるからです。
 宮本武蔵は不敗のまま天寿を全うすることができましたが、実際には三十歳になる前に戦うことをやめています。戦いを続けていたらもっと早く死んでいたことと思います。
 無敵の人間(無敵の国)というのは存在しません。
 自分はいつか負ける。
 この当たり前の事実を受け入れて、自分が負けたときにどうするか、ということを誰もが考えるようになったときに日本人の考え方が変わるのではないかと思うのです。
by t_am | 2008-03-16 13:22 | あいまいな国のあいまいな人々

by T_am