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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

選挙と民意

 今回は、武雄市の樋渡市長のFacebook(3月25日付)の投稿を読んで思ったことを書きます。

https://www.facebook.com/keisuke.hiwatashi.9

 念のため、その全文を以下に引用しておきます。


武雄市長選の告示は30日(日)。一週間切っている中で、82歳の元北方町議(共産党)が出馬。実を言うと99%無投票だと思ってました。

これで、8年間のうち4回の選挙。投票は民主主義の原点だと思う。投票という行為があってこそ、僕らはあらゆる意味で鍛えられる。そして、選ばれれば一票差であろうが、それが民意。

そういう意味では投票率はとても大切。前回の80%並にいってくれればいいなと思っていますし、それは政策論争が全て。

選挙上等。4月6日(日)の投開票日まで全力で走り抜けます。


 樋渡市長は改革派として知られていましたが、武雄市図書館の運営をTSUTAYAに委託し、その利用者数が飛躍的に伸びたということで全国的な知名度を得た人です。今回わたしが感じたのは、「選ばれれば一票差であろうが、それが民意」というところです。
 「民意」という言葉は、政治家が自分の正当性を主張する根拠として使われるケースが多いと思います。すなわち、「自分は選挙によって選ばれたのであり、いいかえれば民意が自分を選んだのだ」という理屈です。
 けれども、わたしに言わせれば、「民意」などというのはその局面における住民や国民の行動の趨勢にすぎません。たとえば、消費税が増税になるということで一斉に買いだめに走る行為がそれにあたります。これも民意の発露の一例ですが、当然、その例外もあるわけですし、不変であるというわけではありません。

 いい例がこの前行われた大阪市長選です。

前回の府知事選とのダブル選挙の際の投票率は60,92%で、橋下市長の得票数は750,813票(得票率 58.96%。ただし有効投票数に対する割合)でした。今回行われた市長選挙では、投票率は23.59%、橋下市長の得票数は377,472票でしたから、前回のおよそ半分に減ったわけです。
 今回橋下市長の投票した377,472人は筋金入りの橋下支持者であるとわたしは思っています。大阪市の有権者はおよそ210万人とのことですから、結構多いと思います。その一方で、前回は橋下氏に投票したけれども今回は投票しなかった人たちというのは、新しいものに飛びつきやすく飽きやすいという人たちだと思っています。いわゆる浮動票ですね。

 210万人の有権者のうち、今回橋下市長に投票したのはおよそ37万7千人です。圧勝というイメージのあった前回でも得票数は75万票でしたから、およそ3分の1です。いったいこれで「民意」が自分を選んだのだといえるのでしょうか?

 では、武雄市の樋渡市長の場合はどうでしょうか?
 合併による平成18年の武雄市長選挙の際の有権者数は41,024人、投票率82.24%。樋渡市長の得票数は20,693票ですから、このときは有権者のおよそ半分弱の人が樋渡市長に投票したわけです。
 さらに、これまで何回か行われている市長選挙の結果をまとめてみました。

平成20年(市長の辞職による出直し選挙)
有権者 40,978人、投票率 70,84%。樋渡市長の得票数 15,739票

平成22年(市長の任期満了)
有権者 40,639人、投票率 79.20%。樋渡市長の得票数 18,170票

 これらを見ると、改革派で知られる樋渡市長をもってしても有権者の過半数の得票数を得ることができていないことがわかります。もっとも市長選挙は多数決とは違いますから過半数を超えればいいというものではありません。けれども「自分に投票しなかった人の方が投票してくれた人よりも多い」という事実が覆ることはありません。

 既に申し上げたように、民意というのはその局面においての趨勢にすぎないので、勢いの強弱はありますが、それを計量化することはできません。にもかかわらず、当選すればそれは民意によるものだというのはいささか強引な論理であると思います。
 
 それよりも、それよりも、今回自分に投票しなかった人を常に意識して政治を行うことが民主主義に適うのではないでしょうか? そういう人たちを代弁する議員が議会の中にいてもいいでしょうし、そもそも有権者が投票するというのは白紙委任状を提出するのとは違います。だからこそ議会がチェック機能を果たすことになっているわけです。
 これは樋渡市長の発言ではありませんが、最近よく耳にする「文句があるなら次の選挙で落とせばいい」というのは政治家の傲慢の現れであるといってよいと思います。その原因は、民意という測定不能なものを自己の正当性の根拠とするからでしょう。
by t_am | 2014-03-26 19:29 | その他

by T_am