改革に飛びつきたがる人びと
ようやくわかったのをまとめると次の通りとなります。
1.全体のうちの一部分を取り出して、それが問題であることを指摘する。
2.相手がそれに同意したところで、だから全体を変革する必要があると力説する。
3.変革によってこういうメリットがあると列挙する。
聞き手としては最初のステップで同意しているので、何か変だと思っても言葉にすることができないもどかしさを抱くことになるようです。
この論理の展開には、1と2のところに乖離があるという特徴があります。すなわち、部分的な問題を全体の問題に(悪くいえば)すり替えているのです。喩えていえば、この家は雨漏りをしているから、根本的な解決をするために家を建て直しましょうといっているようなものです。
雨漏りくらいで家を建て直す人はあまりいないはずですが、政治や教育・社会制度といったことになるとなぜか「抜本的な改革」の必要性が主張され、多くの賛同を得ることになっています。
その理由は2つあって、しょっちゅう問題があると聞かされているので、このままではいけないのではないかという意識が芽生えていることが第一の理由でしょう。
2番目の理由は、その変革にはどのような副作用を伴うのか誰にもわからないからです。家を建て直すということであれば、大金が必要であることは誰にでもわかります。そのことと雨漏りを我慢する不快さを比較した結果、建て直しという選択はあり得ないという結論を、私たちはほとんど無意識のうちに得ています。
けれども変革に伴う副作用がわからないと、問題をそのままにしておくべきではないという気持ちの方が優勢になるので、私たちは変革や改革に飛びついてしまうのです。
それでは変革を主張する人はどうかというと、やはり副作用に対する検証が十分でないという場合が多いように思います。というのは、その人の中で変革や改革を行う自体ことが目的になってしまっているからです。変革や改革は目的を実現させるための方法に過ぎないのですが、いつの間にか本来の目的が忘れ去られてしまっているわけです。だから、人民のための革命軍が治安維持のためと称して、人民に銃を向けたり拘束するということも起こるのです。
副作用についての議論はきちんとやるべきです。その手続きを省略して中傷合戦に陥ると、どちらが勝っても不幸になる人が増えるような気がします。そういうことを考えると、選挙期間はあまりにも短すぎるといえるでしょう。橋下候補は事前の周知に努めたといえるかもしれませんが、肝心の議論が行われなかったのですからどうにもなりません。その責任は平松市長にもありますが、冒頭に述べたような論理を駆使する橋下候補も責任を免れるものではありません。