緊急防護措置区域の設定について
1.原発の半径5km圏内(予防防災措置区域、PAZ)
特定の事故発生でただちに避難する地域
2.原発の半径30km圏内(緊急防護措置区域、UPZ)
原発から放出された放射性物質などを基準に避難や屋内退避をする区域
3.原発の半径50km圏内(被爆対策を準備する区域、PPZ)
屋内退避やヨウ素剤服用についての計画を策定しておく区域
「原子力発電所に係る防災対策を重点的に充実すべき地域に関する考え方(案)」
http://www.nsc.go.jp/senmon/shidai/bousin/bousin2011_06/siryo3.pdf
これまで、原発は安全であり事故が起こることなどありえないということから、防災対策がおろそかにされてきました。その結果実際に事故が起きたときに右往左往することになったわけです。現在停止中の原発を再稼働させるためには、このような区域をあらかじめ設定しておき、それぞれ強弱をつけた防災対策計画をつくっておくというのは避けられないと思います。
最初、新聞でこの案をみたときに、放射性廃棄物の拡散は風向きや地形の影響を受けるのだから、このような同心円状の設定は無意味ではないかと思いました。そうしたら、「原子力発電所事故による周辺環境への影響の大きさ、影響を与えるまでの時間は、異常事態の態様、施設の特性、気象条件、周辺の地形、住民の居住状況等により異なることから、将来的には、原子力発電所毎に、詳細に検討していくことが望ましい」と前掲の資料に書かれていました。
それならばはっきりと「原子力発電所ごとに詳細に検討していくべきである」と書けばいいのに、と思います。何を遠慮してるのかと思うのですが、今指定されている福島第一原発の警戒区域が30km圏内(後で飯舘村が計画的避難区域に加わった。飯舘村では住民が避難しているけれども車両が通過することは可能です。)と円状に設定されていることに配慮したのかもしれません。書き方を間違えると、今回の事故で政府が行ってきたことは誤りであったということにもなりかねないからです。
防災対策区域の設定にあたって地形や風向きなども考慮することは、より現実に即した計画ができあがるものと期待できます。その代わり、自分が住んでいる地域が原発からの風の通り道にあたっていることをはじめて知ったという人も出てくるでしょうから、それらの人々に対する説明も必要になってきます。そういう手間も考えたのかもしれませんね。面倒なことにはできるだけ関わりたくないと思っているのかもしれません。
実をいうと、今ある原発をすべて廃炉にしてしまえば、このような取り組みも不要となります。それも選択肢のひとつであることに違いはありませんが、現時点ですべての原発を廃炉にするというのは、日本という巨大な船が急激に舵を切るようなものです。動いている船に慣性があるように、社会にも慣性が働いています。にもかかわらず、いきなり方向を転換させようとすると、大きな混乱と軋轢が生じます。日本の景気が絶好調で国民にも活気が溢れているというのであれば、それによってもたらされる諸問題も比較的容易にクリアできるかもしれませんが、今はそうではないことは皆様よくご存知のはずです。
私自身の考えは、とりあえず何が起こっても重大事故にまで発展しないような対策を施した上で停止中の原発を順次再稼働させ、個々の原子炉の寿命がきたら順番に廃炉にしていくというものです。
事故が起こらなければ、原発を続けても構わないのではないかと思われるかもしれませんが、原発は放射性廃棄物を出し続けます。これらの最終処分場は未だに決まっていませんし、低レベル放射性廃棄物でも数百年、高レベル放射性廃棄物の場合二十数万年もの間管理しなければなりません。それは親がこしらえた莫大な借金の返済を子々孫々に至るまで押しつけるようなものです。(高レベル放射性廃棄物が無害化されるまで二十数万年かかりますが、人類の歴史は数千年しか経っていません。)
人としてそのようなことをしていいのか、私には疑問です。ゆえに、原発はやめる方向に持っていくというのが私の結論です。人類の文明ですら数千年の歴史しかないのに、それをはるかに超える期間に対し、誰が責任をとれるというのでしょうか。誰も責任をとれないのであれば、速やかにやめるというのがまともな考え方だと思います。ただし、止めるにあたっては無理のないやめ方をしましょうというものです。完全にやめるまでの間、時間的なゆとりが生じますから、その間に代替えエネルギーの問題の解決に心血を注ぐべきだと思います。
以上のことから、停止中の原発の再稼働には条件付きで賛成するというのが私の立場です。その条件とは、都合の悪いものは隠すのではなく、情報をきちんと開示し、透明性を維持するということです。情報が開示されれば、誰でも判断ができるようになります。大事なことは他人任せにするのではなく、自分で判断するということが民主主義では一番大切なことだと思います。
また、そうやって情報が開示されれば、これからやろうとしていることに対して、さまざまな角度から意見が述べられるようになりますから、その長所短所、問題点や課題も浮かび上がってきます。そのうえで修正すべき所は修正して、これならばしょうがないか、というものにしてから実施するというのが、正攻法の手続きです。
今回の事務局の発表を受けて早速マスコミからは、原発の立地によっては避難対象となる住民数が百万人に迫る地域もあることがマスコミによって指摘されています。
数十万人にも及ぶ大勢の人を短時間のうちに整然と避難させるための手法はまだ、確立されていません。現在でも連休ともなれば高速道路は大渋滞しますし、新幹線などの長距離列車も混雑を呈します。事故が起きたときにどこへどうやって避難するのか? これは市町村のレベルを超える難題です。最終的には、日本中のすべての都道府県で避難者を受け入れなければこれだけの人数をさばききれないと思いますが、そのひとつ手前の段階として、東北なら東北、関東なら関東というふうに、5~10県単位であらかじめ広域防災連合体制をつくっておくというのも一案でしょう。自治体と企業による1対1の災害支援協定はすでに多数結ばれていますが、複数の都道府県が互いに助け合う体制をつくっておくというものです。避難者の受け入れ、被災地への医療や物資の供給、生活再建の支援ということを考えれば、これは、原発事故だけでなく被害が広範囲に及ぶ自然災害に対しても有効であることがわかります。原子力安全委員会の今回の方針転換がそういう議論の契機になればいいのですが……
これは取り越し苦労かもしれませんが、「これだけ大勢の人を避難させることは所詮不可能なのだから、それよりも原発が二度と事故を起こさないよう、そちらに集中すべきではないか」という声が起こった場合、世論がそれに流されるのではないかと心配です。
非常に説得力のあるかのように見えるこの考え方については、「俺は事故を起こさない」といって自動車の任意保険に加入しようとしない、そんな人を連想してしまいます。自分一人で責任をとれるのであればそれでも構わないでしょうが、原発事故の問題はそういう次元のものではありません。
高度成長以降、私たちは効率化と称して社会的な安全装置をないがしろにしてきました。核家族化を推進させることで家族のつながりを希薄なものにし、地域のつながりを顧みない人も増えています。ところが、この震災を契機に、家族や地域のつながりの大切さも見直されてきているようです。このような社会的な安全装置を用意し整えておくというのは、私たちから孫子の代への贈り物になるのだということを最近考えるようになりました。私もそういうことを考える年齢になったということなのかもしれません。