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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

セイヤさんへの手紙   群盲像をなでる

 この間セイヤさんからもらったメールの中にとても興味深い一節がありました。

 ストーリーで、判り易いことが歴史に残っている。どんなに理論的に正しいことでも、ストーリーがつまらないと消えていきます。三国志はストーリーであって、歴史書ではないが、呼んだことが無い人でも知っているし、全巻読んだことにある人には会ったことが無いです。解釈理解解説が不全であっても、ストーリー中の解り易い部分がストーリー全体のイメージを作るのでしょうね。


 この「ストーリー中の解り易い部分がストーリー全体のイメージをつくる」というのは僕にも身に覚えのあることで、それが問題の原因となっている場合もあると思います。

 小泉元首相が「痛みを伴う構造改革」とぶちあげたときに、大勢の人が「構造改革」という言葉を自分に都合のいいように解釈して、小泉元総理に大きな期待をかけました。ところが現在では「小泉改革」を完成させようという動きは主流から外れてしまっています。
 また、昨年の政権交代は「政治改革」を期待した有権者たちが民主党に投票することで実現したものですが、「政治改革」をどのように解釈するかという合意が国民の間に形成されたわけではありません。したがって、鳩山総理のやり方によっては、「自分たちが期待する政治改革が進んでいない」と失望して内閣支持率が下がる可能性がきわめて高いといえるのです。そういうことを考えると、政党政治家はマーケットリサーチということについて、もう少し関心を持ってもいいのではないかとも思います。
 勢力を持った特定の組織や団体に利益を与える代わりに選挙では投票してもらうという手法は自民党のお家芸でした。そのやり方にNo を突きつけたのが前回の総選挙だったわけですが、政権交代後も小沢幹事長の行動をみていると自民党政権の手法をそっくり踏襲するものであるといえます。むろん自民党時代とは組む相手が異なっているのですが、やっていることは同じです。(小沢幹事長の特徴は、自分と対立する人間を平気で貶めることができるというところにあります。来日した中国首脳を天皇に面会させたときも、「宮内庁の何とかいう役人が」という言い方をしていました。こういうものの言い方は石原都知事にも通じるものがあります。)

 民主党のミスは選挙にかけては小沢幹事長の右に出るものはいないと思いこんでおり、参議院選挙は小沢幹事長抜きでは勝てないと考えているところにあります。組織票が物を言うのは投票率が下がったときのことであって、先の総選挙のときは民主党が浮動層の票を取り込むことができたから勝てたのだということを忘れているように思われます。民主党が浮動層を取り込むことができたのはなぜなのか? このことを忘れると、この夏の参議院議員選挙では苦汁をなめることになりそうです。

 群盲象をなでる、という格言があります。目の見えない人たち象を触わり、象とはどのようなものかをそれぞれ述べたところ、触った場所によってまるで異なった感想を述べるというものです。脚を触った人は「象とは大木のように太くて丸いものだ」と延べ、鼻を触った人は「いや、象とは太い綱のようなものだ」と延べ、耳を触った人は「象とは団扇のように広く薄いものだ」と述べるわけですが、どれも象の一部分でしかありません。
 人間の認識や理解というのは、このように目の見えない人が象を触るようなものであり、全体を知らずに自分の考えを持ち、意見を述べていることが多いと思います。まるで自分のことをいわれているようで冷や汗ものなのですが、こういう自覚だけは持っていた方がいいように思うのです。
 最近そのことを強く感じたのは日中両国の有識者による歴史共同研究委員会による報告の概要が報道されたときでした。日中の研究者の見解が大きく異なるという内容の報告書が提出されたとのことで、さもありなんと思います。
 「歴史の中の事実」は研究や調査によって発見することができるかもしれませんが、「正しい歴史」というのはどこにもありません。あるのは歴史の中の事実をどのように解釈するかという視点です。
 司馬遼太郎さんの著作が人気を集め、国民作家といわれているのはいわゆる司馬史観に共鳴する人が多いからです。僕自身影響を受けているけれども司馬さんの作品で外国語に翻訳されたのは少ないのだそうです。このことからわかるのは、司馬史観といえども歴史に対する視点のひとつにすぎないということであり、海外で受け入れられるだけの普遍性を備えているわけではないということです。
 司馬さんの歴史観の根底にあるのはご自分の戦争体験ですから、その点で司馬史観というのは時代の産物であるといえます。
 歴史学者の視点というのも時代から離れることはできないのですから、自分の思想信条や体験が大きく左右することは否めません。マルクス主義が盛んな頃は、唯物史観に基づいて日本史を解釈するということが流行していましたが、現在では廃れてしまいました。
 このように考えると歴史の解釈とは、歴史の中の一部をピックアップして他の部分は切り捨てるという作業の上に成り立つものであることがわかります。したがって日中の研究者の見解が異なるというのは至極当然のことであり、その溝を埋めて歴史の統一見解を打ち立てようというのはどだい無理な注文なのです。

 社会科学の弱点は実験によって仮説を検証することができないというところにあります。そもそも仮説とは目の前にある事実をうまく説明するための論理のことをいうのですから、うまく説明できるのであればどのような理論を展開してもいいということになります。
 科学においては、たとえどのような仮説であろうとそれが間違っていると実証されない限りは仮説として一応尊重しておきましょう、という姿勢をとらなければなりません。ここで忘れられやすいのは、誰の理論であろうと、またどのような理論であろうとも、仮説として等しく扱われなければならないということです。ところが実際には検証不能であるにもかかわらず、自分の仮説を真実として扱おうとする(すなわち、対立する仮説を誤りだといって攻撃する)傾向が強いのも事実です。
 ところが、あらゆる事実をうまく説明できる歴史の解釈など所詮は存在し得ないのですから、どちらが正しくてどちらが間違っているという論争ほど不毛なものはありません。まして政府が歴史の解釈に介入するなど言語道断です。どうせ現政権に都合のいい解釈をするに決まっているのですから。
 もっとも、今回の報告の概要を見る限りでは、両国の研究者たちは冷静に対応しているようにもみえます。双方の研究成果がまったく異なるものでありながらそれを併記するというのがその証左です。議論がどうしてもかみ合わないときに、両論併記という手法は決裂から回避するための有効な手法なのですから。

 科学的な思考法を身につけるということをもう少し教育の中に取り入れるようにした方がいいように思います。科学的な思考法とは、目の前の事実(出来事)を観察し解釈する力であり、同時にそれが真実であると立証されるまでは仮説にすぎないと割り切ることができることでもあります。さらには、仮説が真実であるかどうかを検証する際には誠実さが求められるということも重要です。
 このような誠実さはなにも科学者だけに要求されるというものではありません。需要予測を過大なものに見積もってその事業が十分採算のとれるものであるとして実施された巨大プロジェクトはいくらでもあります。アクアラインや本四連絡架橋がそうですし、全国各地で廃墟となりつつあるテーマパークもそうです。また、無理につくった地方空港も日航が事業立て直しのために就航路線を減らせばそのあおりをまともにくらうことになるのですから、今後ますます経営が苦しくなるはずです。
 これらの事業の失敗は巨額のツケを後生に負担させるだけにその責任は重大ですが、事業計画書を作成した人たちが責任をとったという話は聞いたことがありません。これらの事業の実施を決定したときに重要視されたのは、科学的な思考法ではなく、その事業がバラ色のものであることを示すプレゼンテーションの能力だったといってよいでしょう。
 政府を始め日本中の自治体がプレゼンテーションという一種の詐術に乗っかって虎の子の金を注ぎ込んだものの事業が失敗して借金だけが残った、というのが現在の姿です。それを可能にしたのが、事業の決定に至る議論が公開されないという政治の閉鎖性です。議会は行政の決定を追認するだけの機関にすぎません。
 事業仕分けという手法が有効なのは議論が公開されているからです。大勢の目にさらされれば詐術も通用しなくなります。議論が公開されたときに説得力を持つのが科学的な思考法に基づく論理です。同時に公開された議論を監視する立場にある我々も科学的な施行法を身につけておく必要があります。
 数学や物理の問題の解き方をいくら覚えても科学的な思考法が身につくというものではありませんが、現実には問題の解き方をより多く覚えた学生が受験で有利になっているという現実は変わりません。

 縦割り行政という言葉があります。それぞれの分野で専門的な知識と能力が要求されるのですから官僚が縦割りになるのはやむを得ないといえます。そのかわり、官僚という群網がそれぞれの分野で象をなでて政策を立案するわけですから、国家全体ではちくはぐなことをやっているということになりかねないという危険性も否定できません。そのために政治家がいるのであり、より高い次元で全体を俯瞰したうえで政策を決定していくというのがあるべき姿でしょう。
 そう考えると能力のない政治家が多すぎると思います。特に民主党の新人議員は存在感がまるでありません。それは議員定数が多すぎるということが原因なのですから、いっそのこと百人くらいに絞り込んだ方がいいというのは僕の持論です。そして、議会も公開するのであれば一般人が傍聴しやすいように週末や夜間に開催するくらいのことをやってもいいと思います。
 目的は議論の内容を大勢の人の目にさらすことによって誤りを防ぐということにあります。毎日だらだらやれば労働強化になってしまい、事務方はたまったものではありませんが、短期間に集中してやればそれほど問題にはならないはずです。
 特に、財政再建団体に転落しそうな自治体では市民が議会を傍聴しやすいように運営に配慮すべきです。平日の昼間に議会が開かれていては、勤め人は聴きに行くことができないというのはこどもでもわかる理屈です。そういうこともせずに、閉鎖された場所ですべて行ってきたから現在の窮状に陥っているということにいい加減気づくべきでしょう。

 ひとりひとりが科学的な思考法を身につけること、そういう人たちが議論を監視できる場を設けること。そういう取り組みがこの国には必要なのだ思います。
by T_am | 2010-02-14 09:07 | セイヤさんへの手紙

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