人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

衰退する文明

 12月24日の共同通信社のサイトで「熱帯林3分の2消失の危機 国際研究チーム試算」という記事が掲載されていました。

 これによると、米国、英国、オーストラリアなどの研究者で組織する国際研究チーム「陸域炭素グループ(TCG)」」というのがあって、そこがまとめたレポートには、「森林に関するデータがそろっている73の途上国について、森林の総面積や経済的に価値がなく、簡単に農地に転換されてしまうような森林の面積、森林保護区の面積などを分析。これまでの各国の森林面積の変化などを加味して、長期的に破壊される危険性が高い森林の面積を推定した」ところ、「現存する熱帯林のうち破壊される危険が高い森林は、アジアの森の57%、中南米は63%、アフリカは67%に達することが判明」したというものです。
 これを読んで大変だと思う方もいらっしゃるでしょう。けれどもこれは「推測」であって、確実にこうなるといっているわけではありません。「破壊される危険が高い」と書いてあるにすぎないのですから。
 そうかといって、そんなことにはならないと否定することもできません。

 熱帯林をどうするかはそこに暮らす人たちが決定権を持っています。そこに住む人たちが、自分たちも飢えることなく豊かな生活を送れるようになりたいと考えることは誰にも止めることはできません。

 先日行われたCOP15ではたいした成果もなかったと報じられていました。その理由の大きなものとして、先進国と発展途上国との意識の違いがあげられています。
 先進国は、過去に自分たちが行ってきた「環境破壊」を反省し、これが今後地球規模で進展するならば気候変動を引き起こし、人類にとって大きな脅威となっていく、という心配をしています。これに対し途上国では、先進国のいう脅威があることは理屈としてわかるが、それ以上に自分たちだって豊かになる権利がある。先進国が環境破壊を行った結果今日の豊かさを享受しているのだから、自分たちに対し、そういうことはやめろというのはおかしいのではないか、と主張しています。
 なんとなくうやむやにされていますが、CO2の排出量は化石燃料(特に石油)の消費量に連動しています。
 現代の文明は石油に依存しているのですから、その社会が豊かになるということはそれだけ多量の石油を消費するということを意味します。
 ガソリンの価格が昨年高騰しました。今は少し落ち着いていますが、かつてのように1リッターあたり100円を切るような水準になることはもうないだろうと思われます。というのは、世界的に石油の需要が伸びているからです。需要が増えれば値段が下がらないのは当然のことであり、その背景には中国やインドの経済成長があります。誤解を招くかもしれませんが、これらの国での石油の需要が伸びたことが、世界全体の石油の消費量を押し上げることになりました。その分CO2の排出量も増えることになるのです。
 だからといって、中国やインドに対して石油の消費を減らすべきだという理屈は成り立ちません。自分たちは湯水のように石油を使っているのですから。
 COP15という会議体は、先進国も石油の使用を制限するようにするから途上国も協力してほしい、ということをCO2の排出量削減というスローガンに託して議論した場であると理解することができます。だからこそ途上国が反発し、中国がそれを上手に利用した結果、会議が紛糾して実質的なことは何もまとまらなかったのです。
 
 話はちょっと寄り道しますが、中国という巨大な国が維持できているのは経済成長を持続しているからです。民族問題、貧富の格差の拡大、官僚組織の腐敗など様々な問題を抱えていながら、あれだけ巨大な国が崩壊しないでいられるのは資本主義を導入し経済成長路線に転換したからです。とりあえず豊かになることができている以上、現体制に対する不満はそれだけ抑えられることになります。
 その代わり中国の経済成長がストップするようなことになると、それまで隠れていた不平不満が一斉に噴き出すことになり、最悪の場合はソ連のように国家が崩壊することになります。
 経済成長を続けるためには、中国が使うことのできる資源が安定的に確保されなければなりません。だから中国は中東やアフリカなどの発展途上国に対し積極的に働きかけているのであり、COP15では中国のこれらの国に対する影響力が強くなっていることがまざまざと見せつけられました。
 今回中国がCO2の削減を表明しましたが、それはGDP対比という計算方法ですから、経済成長が続く限りCO2の排出は増えていくことになります。こういうことを打ち出してきたのは、CO2の排出削減に世界的な関心が高まっているだけに、非協力的であると思われては困るけれども経済成長を放棄するわけにはいかないということから、とりあえず体裁だけ取り繕ってみたというものでしょう。
 本音はCO2の削減などどうでもいいというところにあると思われます。
 こう書くと、中国はけしからんではないかと思われるかもしれませんが、先進国でも本音は似たようなものであるといえます。地球全体での排出量削減が必要であるというのは認めても、自国の削減義務はできるだけ軽いものにしたいという気持ちが先進国の間にはあります。それが自分の国で使うことのできる石油の消費量に結びついてしまうからです。
 
 地球温暖化問題というのは、地球の温室効果が過剰に働いて気候変動を起こすのではないかという懸念を政治が利用したものです。地球が温暖化しているという様々な「証拠」が次々と報告されますが、それに対する反論がまともに取り上げられることがないというのは、この問題がすでに政治問題になってしまっていることを物語っています。
 それでは何が問題視されているのかというと、これまで再三述べてきたように石油問題なのです。石油資源は無限にあるわけではありませんから、いつかは枯渇してしまいます。それは避けられませんが、そうなるまでの間自分たちが使うことのできる石油を確保しておきたい。それには他人に使わせないようにするのが一番であるけれども、石油を使うなというわけにもいかないので、CO2の排出量増大=地球温暖化という構図を持ち出して、だから各国とも石油の消費を抑制しましょうという論理を展開しているのです。ところがそれだけでは賛同を得ることができないものですから、排出権取引という架空の取引によって金儲けができる仕組みが提唱されました。
 考えてみればこれほど奇妙な制度はありません。CO2の排出権が取引されるというのはCO2の排出量が減っていないということを意味します。推進論者は、CO2の削減が進まない事業者や国に対してペナルティを科すことでCO2の削減が進むはずだと主張しています。そこだけみればその通りなのですが、推進論者たちはCO2の排出が人間の経済活動(すなわち石油の消費)によって発生していることに触れていません。つまり工業生産や流通、消費、人の移動という活動が活発に行われる限りCO2は発生し続けるのです。排出権取引によって移動した資金はそこで新たな経済活動の原資となるのですから、それだけ余分にCO2が発生することになり、それでは全体のCO2削減に寄与することにはなりません。
 また、排出権取引制度を設けることで省エネ技術の開発や導入を促すという論理もありますが、エネルギー効率が高まったことによってエネルギーの消費量が減ったという事例は過去に一度もありません。そのことはオフィスのコピー機の性能が高くなればなるほどコピーの枚数が増えるという事実や車の燃費がよくなれば長距離ドライブが増えるということをみればわかることです。
 にもかかわらず、行政府が排出権取引に積極的なのは、取引に伴って手数料を稼ぐことができるからです。つまり金儲けの材料とするために地球温暖化が問題であるといっているのです。
 こういう架空のものを対象にして取引をするというのは健全な姿ではありません。額に汗してお金を稼ぐのではなく、金が金を生む仕組みが蔓延すればそれだけ不幸になる人が増えるという事実を忘れてはなりません。
 地球が温暖化するとこういう被害が発生するということを並べ立てて人を不安にさせておいて、「それを避けるために排出権取引を行いますから協力してください」とか「地球温暖化対策のために環境税を設けますから負担してください」というのは霊感商法の手法と変わりません。政治家や官僚が率先して霊感商法に乗り出そうというのですからもはや世も末といってよいでしょう。

 私たち日本人は豊かな生活を送っています。住居やほとんどの職場では冷暖房が完備されていて暑さ寒さに苦しむことはありません。また、下水道や浄化槽も普及しているので衛生的な生活を送ることができます。休日になれば自動車や飛行機に乗って旅行に出かけることもできます。そういう生活を送ることができるのも、かつてあった自然林を破壊し、山を切り開き、地面をコンクリートとアスファルトで覆うことにしたからです。(養老孟司先生はこれを「都市化」と呼んでいます。)
 そういうことをしてきた私たちが、熱帯林が消失すると蓄えられていたCO2が大量に放出されるのではないかと心配し、これらを保護しなければならないと考えるのは都会人の身勝手というものです。自ら熱帯林に移り住んで森を保護するというのであれば別ですが。
 熱帯林にすむ人々にも豊かになりたいと願う権利はあり、私たちがそれを奪うことは許されません。他人の権利を奪う者は自分の権利が奪われても文句は言えないからです。

 ではどうしたらいいのか?

 結論をいってしまうと、CO2の削減とか地球温暖化とかいうことを気にしないのが一番いいのです。この問題を政治利用する人たちも、金儲けに利用しようともくろんでいる人たちも、庶民の心配につけこんでいるのですから。国民がこの問題に関心を持たなくなれば、そのような動きは衰退していきます。
 地球の温室効果を食い止めるために2050年にはCO2の排出量を80%以下にしなければならないという指摘もあります。理屈の上では毎年4%ずつ減らしていけば40年後には80%削減されることになりますが、所詮は机上の空論です。それは石油の消費量を80%削減することが本当に可能かということを考えればわかります。今の2割しか石油を使わないでこの社会が維持できるとはとても思えないからです。
 CO2の排出量を減らすというのは実は石油を含む化石燃料の消費量を減らすということに等しいのです。でも政府はそういうことをきちんと国民に伝えようとはしません。言えば経済界はもとよりあらゆるところから猛反発を食らうことは確実だからです。
 しかし、CO2が地球温暖化の犯人であるというシナリオから導き出される結論は、もはや石油を使ってはいけないという以外にありえません。そのことは現代の文明社会のあり方を否定して中世の生活様式に戻ろうというようなものです。それが不可能であることは明白です。かといって地球温暖化という危機を煽ることもやめられないので、2050年の削減目標などという意味のないことを持ち出してお茶を濁さざるを得ないのです。
 
 正月を海外で過ごすために成田空港からおよそ4万7千人の人が出国したという報道がありました。その中には、レジ袋削減に協力するためにマイバッグを持ち歩いているという人もいることでしょう。またエコ家電やエコカーに買い換えたという人もいるでしょうし、もしかすると太陽光発電装置を自宅に設置したという人もいるかもしれません。
 ところが、ジェット機が海外に飛ぶために排出するCO2の量はこれらの「努力」を帳消しにしてしまいます。地球温暖化を防ぐために、レジ袋は駄目だけれども海外旅行は構わないというのが私には理解できません。

 雰囲気に流されて、意味のないことに取り組むのはもうやめにしませんか?

 今の生活水準を維持していたい。自分たちの子や孫の世代にも同じ生活水準ができるようにしてやりたい。私たちがそう考えるのであれば、石油資源が残っているうちに代替えエネルギーの技術を確立することに心血を注いだ方がましです。石油を初めとする化石燃料が枯渇してしまえば、人類は薪と炭を燃料にしなければならなくなります。そうなれば車も動きませんし、飛行機も飛ばなくなります。海上輸送は帆船に頼ることになり、陸上輸送は人馬に頼ることになります。中世の生活に逆戻りせざるを得ないのです。

 石油資源の減少がはっきりと目に見えるようになると、おそらく石油の奪い合いが起こると思われます(戦前の日本はアメリカに頼っていた石油の輸入が絶たれたことにより仏領インドシナに軍を進めて石油を確保しようとしました)。
 しかし、紛争や戦争は石油の浪費につながります。それだけ石油が枯渇するXデーの到来が早まることになるのですが、紛争の当事国の指導者たちはそのようには考えません。むしろ競争相手が減れば自分の取り分が増えると考えるのです。
 あるいは、世界の人口が今の半分になればCO2の排出量も(理屈の上では)半分になります。けれども世界大戦でも起こらない限り人口が半減することなどありません。だからといって人口を減らすために戦争を起こすなど言語道断であり、許されるものではありません。

 このように考えてくると、いつか必ず訪れるXデーに備えて代替えエネルギーの開発に優先的に取り組まなければならないことがわかります。
 そのことから目をそらして、金もうけや石油の奪い合いにうつつを抜かしていると、そのツケは高いものになそうです。
 日本だけでみると、これから人口が減少していくという局面に入りつつあることは、むしろ時宜にかなったものであると考えることができます。残り少なくなった化石燃料を少ない人数で分け合うことは十分可能でしょう。それもなくなってしまい、薪と炭に頼る生活を余儀なくされたときには、自然林が再生可能な範囲内で伐採を行い、かつ植林していかなければなりません。そういう時代には、人口が少ないほうが自然にかかる負荷が少なくなります。
 人間も地球上で生きている以上、自然の包容力を超えて人口が増えていくということはありません。現在の人類の総人口は地球という限られた自然のキャパシティを既に超えていると思います。それを可能にしたのは石油や他の化石燃料を活用したからなのですが、それらがなくなれば、人類の総人口は自然のキャパシティの範囲内まで縮小することを迫られます。
 そういう状態になるまでにはまだ時間的な余裕があると思いますが、地球温暖化の方に目が行っているために、エネルギー問題を重視する人はあまり多くありません。

 数十年数百年という長期に渡ってみれば気候は変わって当たり前であり、人類がその変化に介入するというのは無理な相談です。数年おきに発生している冷夏や猛暑、暖冬や豪雪という局地的な気候現象でさえ私たちにはどうすることもできないのです。それなのにもっと大きな地球規模での気候の変化を食い止めることができると考えるのは、地球温暖化という現象の原因がCO2などの温室効果ガスの濃度が高くなっているからだという仮説が正しいと信じられているからです。
 仮にその仮説が正しいとすると、温室効果を食い止めるためにはCO2の濃度を下げなければなりませんが、それは既に述べたように石油などの化石燃料の消費量を劇的に減らさなければならないということです。でも、そういうことは政治家もいいませんし、官僚も口を拭っています。そんなことはできるものではないと誰もがわかっているからです。そこでCO2の排出削減という何だかよくわからない言い方をしてごまかしているわけです。
 できもしないことに巨額の予算をつけるために環境税という新税を設けたり、排出権取引市場を創設して手数料収入を稼ごうというのが日本の温暖化対策論者の本心です。他の先進国ではさらに、自分はともかく他国(特に途上国)の石油消費量を抑制したいというエゴが加わっています。キリスト教を奉じるこれらの人々の中には、たとえばシーシェパードのように、正義のためには自分が何をしようと許されると考えている人たちもいて、事態をややこしいものにしています。
 一方途上国では、先進国から援助を引き出すことには関心があっても(だからCOP15に参加したといえます)、自分たちがCO2の排出削減義務を負うのはまっぴらだと考えていますから、今後各国が共同歩調をとってCO2の排出削減に取り組もうという合意が成立する可能性はきわめて低いと思われます。万一何らかの合意が成立したとしても、それが履行される可能性はきわめて低いと申し上げないわけにはいきません。
 政治家や官僚たちが国民に対し世界の情勢はそのような状況にあることを誠実に打ち明けるとは到底思えません。鳩山内閣は環境税の導入を見送ることにしましたが、諦めたわけではありませんから、いずれまた時機をみて環境税の導入を目論むものと思われます。
 したがって、このことについてもはや右往左往しない、政府やマスコミがいうことを鵜呑みにせずにわからないときは判断を留保する、というのが我が身を守る最善の手段となります。
 私たちがレジ袋をやめてマイバッグを持ち歩いたり、エコ家電・エコカーに買い換えたり、自宅に太陽光発電装置を設置しても、人類が石油を消費する以上世界全体のCO2濃度は確実に増えていきます。私たちが環境税を負担することになってもCO2の排出量が減ることはありません。
 自分が騙されていることに気づかないというところが霊感商法の巧妙かつ悪質なところであり、被害者たちの思考を停止させることで霊感商法は成立します。善良な人ほど自分の思考が停止していることに気がつかないので被害に遭いやすいといえます。
 地球温暖化をめぐる動きを俯瞰してみるとこうなっています。
1.南極の氷やヒマラヤの氷河が溶けているなどの「今起こっている危機」が紹介されています。
2.このままでは大変だということで、各国が掲げたCO2の削減目標はなぜか「15年後の2025年」であったり、「40年後の2050年」であったりしています。これはそれまでの間温暖化の進行が止まらないことを意味します。
3.そして、経済界は自分の国が過大な削減義務を負わされることを警戒しています。

 こうしてみると、大変だと騒いでいる割には、政治家も官僚も経営者たちも温暖化の防止に真剣ではなく、心配しているのは庶民だけであることがわかります。
 その庶民の心配につけ込んでいる人たちがいると考えれば地球温暖化問題が霊感商法のようなものになっているということになりますし、逆に政府や経営者たちはもっと真剣に取り組むべきだと考えることもできます。
 しかし、何度も申し上げますが、そのような善良な人々がどれだけ「自分にできること」をやってCO2の削減に協力してもCO2の排出量が減ることはないのです。まじめに努力することでかえって世の中が悪くなっていくということがあります。教育行政などはその典型的な例ですが、地球温暖化もそうだといえます。
 
by T_am | 2009-12-27 08:37 | その他

by T_am