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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

止められない流れ

 ニュースをみていると、私たちはどうやら無駄な努力をしているのではないか、と感じるときがあります。
 地球も、私たちが住む日本も、これまでずっと変化を続けてきました。ただし、それは長いスパンでの話です。人間の寿命はせいぜい120年くらいですが、日本は約二千年(縄文時代も含めると一万年近く)の歴史があります。これが地球になると三十数億年という気の遠くなるような長い時間軸を有しています。
 日本の歴史や地球の歴史に比べると、私たちが持っている時間軸の目盛りは余りにも短いといえます。そこで、私たちが様々な出来事について考えるときは自分が持っている時間軸に沿って考えるということになりがちです。
 五十年前、私は幼児でしたので当時の記憶はほとんどありません。物心がついてから今日までの間に自分が経験したり見聞きした出来事に基づいて考えるしかできないのですが、その間に起こった変化というのはタカがしれています。その間の日本の変化や地球の変化も微々たるものですから、今後日本や地球が変わっていくということを受け入れることができないのです。
 人間は誰でも、今の状態がいつまでも続くものと思いがちです。あるいは、過去と今を比較すると、過去の姿の方が正常であり現在は異常であると思い込んでしまうものです。したがって過去の正常な姿に戻すべきである。このように考えてしまう傾向が私たちにはあるのです。

 このことは私にもあてはまりますし、この文章をお読みのあなたにもあてはまることです。たぶんすべての人間にあてはまるといっても間違いではありません。しかしそれらはすべて「錯覚」であるといえるのです。

 今日の私たちが抱えている問題は、すべてこのような「錯覚」が生み出したものだと考えることも可能です。もう少し正確にいうと、地球温暖化、不景気、少子化・人口減少などの現象を私たちが問題だと思っているのは、すべてこのような「錯覚」に基づくものである、ということです。
 この世に存在するもので、永遠に不変というものはありません。どれも少しずつ変化しています。けれども私たちが持っている時間軸の目盛りではそれがわからないことも多いのです。
 これらの現象を、変化を続けている中の一局面であると理解するのか、それとも問題であるととらえるのかによって、私たちのとるべき対応がまるで違ったものになります。
 問題だと認識すれば、では元の正常な状態に戻すにはどうしたらいいのか? という発想に結びつきます。しかし、それらの現象を問題としてとらえるのではなく、変化しつつある中の一局面であると理解すれば、自ずと違った対応が模索されることになるはずです。

 どちらのとらえ方をするかは人によって異なります。また、どちらのとらえ方が正しいのかということは実は誰にもわかりません。私自身は、自分のとらえ方の方が適当ではないかと思っていますが、もしかしたらもっとうまく説明できる論理があるかもしれないとも思っています。
 どちらの考え方も実証不可能な仮説に過ぎないのであり、仮説である以上何が正しいかではなくうまく説明できるのはどれか、という視点で判断する方が妥当です。

 地球温暖化を問題だと考えている人たちは、今の状態は異常であり、あってはならないことであると思っています。これに対し、地球の温暖化といっても長い時間軸の中での変化の一局面であると考える人たちは、そのことによって発生するメリットを活かし、デメリットにより私たちが被る被害を最小限にするにはどうしたらいいか? このような発想をします。
 地球温暖化という言葉を、最近マスコミに取り上げられている他の言葉(たとえば「不景気」「少子高齢化」「人口減少」「新型インフルエンザの流行」「普天間基地の移転」「日米間の核密約」など)に置き換えても同じです。
 
 私がこのように思うのは、世の中には「時代の流れ」というものがあって、それは誰にも止められないと思うからです。
 たとえば、人間は新しい政治体制をつくることができますが、それを永続させることはできません。そのことは歴史をみれば明らかです。ローマ帝国は共和制からスタートしましたが、やがて共和制が行き詰まると皇帝という絶対的な権力を持った中央集権体制に移行しましたが、やがて国そのものが消滅してしまいました。日本の歴史をみても、王制があり、次に武家による封建制が登場し、それが行き詰まると明治政府が誕生して中央集権体制に変わり、現在は中央集権体制を残した民主主義体制に変わっています。今後は地方分権に基づく共和制に変わっていくかもしれません。また、現在の民主主義体制が永遠に続くという保証もどこにもありません。もしかしたら独裁体制に移行する可能性も否定はできないのです。
 このような変化をもたらすものが何であるか、人類はまだ解明できていません。そのような潮流は人間の社会にもありますし、自然界にも存在します。それがもたらす変化は誰にも止めようがないのです。
 潮流を押し止めようとするのは無理な相談であり、美しいと映るかもしれませんが、無駄な努力であるといえます。
 その代わり、潮流に乗ることはできるのであり、自然界ではそれができた生物種だけが生き残ることができたことを忘れてはなりません。これを自然淘汰といいますが、何も過去の出来事ではありません。現在も絶えず進行していることなのです。

 このように考えると、「こうしなければならない」という唯一の正解は存在しないことがわかります。むしろ正解は無数にあるといえますが、共通するのは「潮流に乗っているか」ということです。
 したがって、先ほど列挙した出来事にも、こうすればその問題が解決できるという解答は存在しません。それよりも、単なる変化の一局面に過ぎないと理解して、どうすればその流れに沿って行動できるか、そのように考える方が遙かに合理的であると思います。
 今まで述べてきたことをたとえ話で申し上げると、大河の水が濁っているのは環境上問題であり、あってはならないと考えるようなものです。だからといってすべてを濾過して人が飲めるようにするのが不可能であることはちょっと考えれば誰にでもわかることです。しかし、そのごく一部を人が飲めるようにすることは十分可能です。
 できもしないことに人と物と金を注ぎ込むのは壮大な浪費です。もしかするとその努力の途中で思わぬ技術の発見があるなど副産物もあるかもしれませんが、収支バランスを考えると大幅な持ち出しとなることに変わりはありません。税収よりも赤字国債の発行額の方が大きくなるというのが今のわが国の状況なのですから、資金と人的資源の注ぎ込む方向をそろそろ再考した方がいいと思います。従来の思考法に基づいて今まで一生懸命やってきた結果がこの状態なのですから。
by T_am | 2009-12-12 00:12 | その他

by T_am