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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

変な日本語

 ご存じの通り、この夏の甲子園大会で、日本文理高校が新潟県代表としては初めて決勝戦に進出しました。今までは一回戦突破が当面の目標というのが県民の間の暗黙の合意事項でしたから、決勝戦にまで駒を進めたというのは望外の出来事だったのです。
 打撃戦となった決勝戦の結果は、9回裏の攻撃で1点差にまで詰め寄りましたが最後はサードライナーで幕を閉じました。一発勝負の高校野球の中で久しぶりに興奮させられた試合だったせいか、終了後、新潟県内の新聞、テレビで「夢と感動をありがとう」というフレーズが横行しました。

 はて、夢や感動というのは他人から与えてもらうものだったかな? と今でも不思議でなりません。
 実を言うと、「夢をありがとう」という言い回しを私が初めて聞いたのは、1993年のワールドカップアジア地区予選の最終戦で日本が敗れたときのことです。「ドーハの悲劇」と語り継がれているこの試合は、試合終了間際のロスタイムで同点にされたことにより、手にしかけていたワールドカップの出場権を失ったというものでした。もしかするとワールドカップに出場できるかもしれないと、その瞬間をこの目で見ようとして、カタールのドーハまで応援に駆けつけた日本人サポーターも多かったのです。
 試合終了後、テレビのレポーターがそのサポーターの内の一人にマイクを向けました。彼が叫んだのが「夢をありがとう!」という言葉でした。
 この言葉を聞いたときに、ずいぶんと気障なことをいう人だなと思った記憶があります。わざわざドーハまで応援にかけつけたにもかかわらず、最後の土壇場で同点にされてワールドカップの出場を逃してしまったわけですから、日本団表チームに対する恨み言を述べても当然とされる状況でした。ところがこの人は「夢を(見させてくれて)ありがとう!」と叫んだのです。最後まで一生懸命戦った日本代表をねぎらう言葉としては、気障ないいまわしでしたが、充分意図が伝わるものでした。もっとも、興奮冷めやらぬ中だから言えた言葉であって、冷静であってはとても口にできなかったと思います。
 
 「夢と感動をありがとう」をいうのを聞くと「夢と感動を(与えてくれて)ありがとう」といっているように聞こえてなりません。事実、地元の新聞社は「感動を与えてくれた」という書き方をしていました。
 本来、夢は持つものであり、感動はするものです。つまり、主体はあくまでも自分なのです。
 今まで、甲子園に出ても一回戦敗退が多かった新潟県勢でしたが、決勝戦まで勝ち進んだので、ひょっとすると優勝するんじゃないかという期待を持った新潟県民も多かったはずです。それを「夢」というのはいくら何でも大げさではないでしょうか? もっともこういう言い方をしているのはマスコミと広告関係者だけであり、普通の人が言っているわけではありません。そりゃそうだよね。夢をありがとう、なんて素面ではとても言えないものね。
 「夢」という言葉には二通りの意味があって、覚めたときに消えてしまう儚い方の「夢」と、将来はそうなりたいという「夢」がそうです。ひょっとしたら勝って優勝するかもしれないという期待は結果として適わなかったわけですから、儚い夢であったといえるかもしれません。けれどもつかの間でも盛り上がることができたわけですから、それを言うなら「いい夢を見させてくれてありがとう」という表現となるはずです。適わなかった夢を与えられて喜ぶという人はいないのではないでしょうか。

 もっとわからないのが、「感動を(与えてくれて)ありがとう」という言い方です。本を読んで感動したので、作者に向かって「感動を与えてくれてありがとうございました」という礼状を書く人がいるとは思えません。「感動しました。これからもいい作品を書いてください。」と書くのが普通でしょう。これは他の芸術作品でも同様です。
 けれども、スポーツの世界に限ってはこのような「ありがとう」という表現が成り立つのだから不思議です。その理由をなんとかこじつけてみると、勝つことはできなかったけれども選手たちが特別なことを成し遂げた、という思いが「感動」という表現をさせるのではないかと思われます。さらに意地悪な見方をすれば、自分には選手たちが特別なことを成し遂げたということがちゃんとわかっており、それを「ありがとう」という気の利いた表現をすることによって、選手たちと自分との間に強引に結びつきをつくってしまおうという嫌らしさと、自分は素直にありがとうと言える人間であるという自己アピールが感じられます。つまり本当に言いたいのは「ありがとう」という言葉の方であり、それを用いるために「感動を与えてくれた」ことにしているのだと思います。「感動した」では「ありがとう」とはつながらないからです。マスコミや広告関係者が好んで使う理由がここにあります。

 「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!」と叫んだのは小泉元首相(2001年夏場所で優勝した貴乃花に対する表彰式)でした。率直というか芸がないというか、フレーズをぶつ切りにして叫ぶ独特な様子をご記憶の方も多いと思います。
 このように、たいていの人は自分の気持ちをその場で表現しようとするとき、なかなか気の利いた言い方はできないものです。
 例外があるとすれば、何らかの下心があるときです。
 プロポーズするときも、要は「愛してる。結婚してほしい。」という意味のことを、一生の思い出に残るような名文句にしようと思う(これを下心と呼ぶのは気の毒ですね)から、男はない知恵を振り絞ることになるわけです。女の方もそのことをよく心得ていますから、ストレートに「一発やらせてくれ」などと言おうものなら殴られても仕方ないと思います。
 ですから、人生には気の利いた言い回しをしなければならないときがあるということを否定するわけではありません。むしろ、時と場合を選びさえすれば大いに結構であると思います。

 しかし、「夢と感動をありがとう」というような言い回しはおそらくこれからも使われていくでしょうし、廃れることはないだろうと思います。私には、このような歯の浮くような言い方が、素面でできる人の気が知れません。
by T_am | 2009-09-08 00:58 | その他

by T_am