大人の映画「グラン・トリノ」
この映画は、派手なアクション・シーンもなければCGによる特撮もありません。絶世の美女もいなければ、豪華絢爛な見せ場もありません。アメリカ中西部(ミシガン州だそうです)のひなびた町を舞台に普通の人たちが登場するだけなので、残念ながら大ヒットするような要素のある映画ではありません。地味な素材を扱っているので、ガールフレンドを連れて観に行くような映画でもありません。いや、別にデートで観に行ってもいいのですが、どうせならもっと楽しいものはいくらでもありますよ、ということです。(あなたが女で、何かの成り行きで彼氏と観に行ったとします。映画が終わったあとで、隣の彼氏の方を伺うと涙をこらえているのがわかり、あなたはなぜかほっとして、彼氏に寄り添って頭を預ける。そういう人と結婚できたら、お互いにそれだけで幸せであるといえます。)
アメリカではこの映画は興行収入1億ドルを超えた大ヒットになっているそうなので、アメリカ人の心の琴線に触れる何かがあるのでしょう。
クリント・イーストウッドの映画をずっと見てきた人にとって、この映画は特別な意味があるのかもしれませんが、僕はそうではないので感じたままを書かせてもらいます。少なくともこの映画は、観たということを誰かにしゃべりたくなるような映画であることに違いはありません。
これは、かつての「強い男」が老いて衰えているというやるせなさが随所に漂っているところから始まる映画です。老いとともにかつての意志の強さが偏屈さとして周囲に誤解されている孤独感が冒頭から描写されています。
主人公は、ところ構わずつばを吐く行儀の悪さと差別用語のオンパレードという口の悪さから、頑固というよりはむしろ偏屈ジジイとして描かれています。意志の強さゆえに鋭角を丸めきれない辛さとコミカルさ(何度も笑わせてもらいました)が両立しているところが、地味なテーマであるにもかかわらず2時間の長丁場に観客をつきあわせるという離れ業を可能にしていると思います。
この映画のポイントは、要約してしまうと次の3つになります。
1)かつての「強い男」が、歳とともにその強さが時代遅れのものとして軽んじられるようになったことによる悲哀から始まって、異民族の隣人(それはアメリカ人ではないというところに注目)との関わりの中で自らの張り合いを見出していく過程。
2)この社会は理不尽な仕打ちに満ちており、その中で「強い男」としての矜持を全うするにはどのような生き方(?)があるのかという問いに対して、回答として提示された主人公の選択のやるせなさと明るさ。
3)人間は他人に贈り物(必ずしも物質であるとは限らない)をしなくてはいられない生き物であるという事実。
すぐれた映画は、登場人物の台詞のひと言でさえも、細心の注意を払ってつくられているので、それが持つ意味を探るという楽しさを備えています。この映画には、アメリカ人であれば説明不要の事実がちりばめられているのだろうとはわかるのですが、日本人である僕にとってはいちいち考えないとわからないという不自由さ(それが楽しさでもあったりする)があります。だから日本では大ヒットするということは期待できないと思うのですが、そういうハンデを負っているにもかかわらず、(生きるというのは切ないことだとわかっている)大人の映画として、観るべきものがあると思います。
じいさん、あんた、カッコよかったよ。