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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

教育について考える  学力テストと学力

 前回の続きです。
 学力テストをどれだけ実施しても子どもの学力を高めることにはなりません。こう書くと意外に思われるかもしれません。なぜなら学力テストは入試ではないからです。
 テストとは、本来子どもが学習した習得度合いを測定するためのツールに過ぎません。唯一入学試験だけが、受験生をテストの結果に基づいて順位付けし、上から順番に合格としていく仕組みを持っています。したがって、生徒が勉強するのは、将来自分が受けることになる入試でいい成績を取るため、ということに目的がはっきりしています。
 このような状況では、学力テストはどの高校を受験したらいいかという参考資料にはなると思いますが、それ以外の使い道はありません。
 知事や県会議員は自分の県の平均点が全高平均よりも高ければ満足するでしょうが、でも、それがどうしたというのでしょう? 地方では、地元にそれだけ優秀な子どもがいても、大学へ進学するときは県外の大学へ行っているのであって、卒業するときになっても必ずしも地元に戻って来るわけではありません。人材が流出しているわけですから、平均点が高くても何にもならないと、私は考えます。逆に大阪府のように大都市を抱えるところの平均点が全国平均を下回っていたとしても、他の都道府県から優秀な学生が集まり、卒業後も地元に帰らずに大阪に残ってくれる方が、大阪にとってよほどメリットがあると思います。

 それでも日本全体でみれば、優秀な学生を育てなければ国際競争力がつかないと考える方はいらっしゃると思います。
 実は、学力テストに頼らなくても、子どもの成績を上げることは可能です。その答えは単純で、いわゆる「詰め込み教育」をもう一回やればいいのです。
 二十年前、三十年前と比較して子どもの学力が低下しているという指摘は正しいと私も思います。というのは、子どもたちに教えるカリキュラムの総量が年々減ってきているからです(このことは教科書をみるとわかります)。
 したがって、カリキュラムの総量を増やせば、学力テストの平均点は向上します。
 
 その代わり「落ちこぼれ」も多数発生することになります。
 それでは勉強について行けない子どもがかわいそうだということで、カリキュラムが年々減ってきたわけですし、その極めつけがゆとり教育の実施です。
 現在の教育行政は、子どもの学力低下という指摘を受け止めて、ゆとり教育という従来の方針から大きく梶を切りつつあるように見受けられます。学校の授業時間が増えているのはその現れでしょう。ですから遠慮なくカリキュラムを増やして、子どもたちに「詰め込み教育」をする、今が好機であるといえるのです。
 このような書き方をすると、お前は「落ちこぼれ」た子どもがかわいそうだと思わないのか、という批判を浴びることはわかっています。
 しかし、よく考えてみてください。
 「落ちこぼれがかわいそうだ」というのは、「勉強ができるのはいいことだし、勉強ができないのは悪いことだ」という意識の裏返しに他なりません。このような意識が国民的合意となっていることこそが、勉強のできない子どもを差別していることに気づくべきです。
 ある程度の漢字が読み書きできて簡単な四則計算ができれば、テストの成績が悪いというのは、足が遅いとか逆上がりができない、絵を描くのが苦手、あるいは音痴であるというのと大差ないと思います。確かに、自分が音痴であれば、友達とカラオケに行ったときは引け目を感じるでしょう。しかし、、誰でも得意なことと不得意なことがあるのであって、特定のことが不得意(たとえばテストの成績が悪い)だからといって、その人の人格が否定されるわけではない、ということを私たちは受け容れるべきではないかと思います。
 何でも自分一人でできるというのはきわめて稀な存在です。むしろ、できないもの同士が自分にできるものを持ち寄って共同作業をしていく方が、遙かに大きな成果を上げることができるものです。
 私がこんなことを書くのも、ある程度の漢字が読み書きできて、簡単な四則計算ができれば、それ以上勉強ができてもそれは学力ではない、と思っているからです。
 教育の目的は、一番目がリテラシーを身につけさせることです。
 昔風にいえば、この「読み書きそろばん」の能力が「基礎的な学力」であって、どの程度のレベルで習得するべきなのかは、仕事に就くにあたって最低限身につけておいてほしい能力として、社会的合意に基づいて決めることができます。別に、微分積分がわからなくてもたいていの職業に就くことはできますし、南北戦争が起きたのがいつかわからなくても仕事に支障はありません。したがって、これらの勉強は「基礎的な学力」の範疇からは逸脱しているということがわかります。

 これはよく指摘されることなのですが、テストの問題にはあらかじめ解答が用意されています(そうでなければ採点ができないからです)。そこで、色々な問題の解き方を覚えておくことが効率的な試験勉強であるということになります。言い換えれば、受験勉強というのは、考える力ではなく、問題の解き方をどれだけ覚えたかの差によって勝負が決まるといってもよいでしょう。
 日本では、そのような競争を勝ち抜いてきた秀才たちが国をリードするという仕組みになっています。このような仕組みは、今日は昨日の延長であるという時代であれば、何の問題もなく効果を発揮するでしょう。何か問題や課題が発生しても、どう対処すればいいかの解答(前例)は過去をひもとけばあるわけです。
 ところが、少子化という局面に入った以上、日本が抱える問題に対する解答は過去にはありません。つまり、解き方がまだ発見されていない問題なので、どれだけ問題の解き方を覚えるか、という思考法を繰り返してきた人にはこの問題を解くことができません。未知の問題を解く力はないけれどもテストの成績はいい、という人は果たして学力が高いといえるでしょうか?
 このことは、日本人の勉強する目的が、とりあえずいい大学へ入る(そうすれば収入の高い仕事に就くことができるから)というところにあることに由来しています。いい大学へ入ることができるかどうかで勝負が決まるのですから、当然そこには効率よく立ち回るテクニックが確立されることになり、それが「どれだけ問題の解き方を覚えたか」ということになるわけです。だから、昔から(私よりも年上の世代から)ずっと大学の4年間というのは学生にとってはモラトリアムと思われてきました。
 私は、そのことを否定するわけではありません。それもアリだと思います。しかし、誰もがみんな同じような考え方をした結果、テストでいい成績を取ることが学力だと思いこむようになったのは間違いだと思います。もっといえば、別にいい成績を取らなくてもいいんだよ、と子どもに安心していえる社会の方が住みやすいのではないでしょうか?

 ではお前のいう学力とは何なんだ? と訊かれれば、それは既に述べたように「未知の問題に取り組む力」のことであるということになります。
 未知の問題に対して解答を導き出すのは、実は容易にできます。このことは、教育問題に多くの人がそれぞれ異なる意見を述べていることでもわかります。ただし、それらはすべて「仮説」であって、それが正しいと証明されるか、あるいは明らかに間違っていると証明されるまでは「仮説」に過ぎません。
 仮説を申し立てることは、現に私がしているように、誰でもできます。これらは玉石混淆ともいうべき状態なので、それぞれの仮説を比較し吟味していく中で、次第に取捨選択されていきます。そのとき大切なのは、間違いを見抜く力(これを身につけるためにも勉強は必要です)と自分に過ちがあったときにそれを認めることができるかどうかです。
 事実に基づいて仮説を導き出す力も含めて、このような力を学力であると思います。以前、このブログで、孔子の「学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやうし)し。」について述べました。二千五百年も前の人がこのような指摘をしており、その言葉が今日まで生き残っているという事実からは、この言葉に納得する人がいつの時代にもおり、それぞ後世にこれを伝えてきたということがわかります。
 孔子の時代は学力テストなんてものはありませんでした。官僚登用のための試験制度ができたのはおよそ千年後の随の時代です。にもかかわらず、いつの時代にも高い学力を身につけた人は登場していました。
 さらに中国における受験地獄ともいえる科挙に合格した人を官僚に登用しても、それぞれの王朝が衰退し滅びることは避けられませんでした。
 これらのことを思うと、学力テストが生徒の学力を向上させるのではないこと、また、試験に合格した人を官僚に登用する制度を設けても国力の維持には寄与しないことがわかります(明治維新で活躍した人たちは、学力テストに合格して世に出たわけではありません)。
 なお、既に述べた説明から、個人が持っている学力を学力テストで測定することはできないこともおわかりいただけるかと思います。
だから、これ以上学力テストのことで騒ぐのはやめにしませんか? というのが今回の私の結論です。
by T_am | 2008-12-20 06:53 | あいまいな国のあいまいな人々

by T_am