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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

居場所についての考察

 人間は誰でも「居場所」を持っています。今まで何回かこの「居場所」についての考察を述べましたが、重複を恐れずに今回も述べてみたいと思います。

 「居場所」とは、人間との繋がりのことをいい、普通、人は複数の「居場所」を持っています。自分の「居場所」がいくつあるかは、次の質問に回答することで簡単に数えることができます。

 過去1ヶ月間(もしくは1年間)に、あなたが面会した人を分類するとそれぞれどのカテゴリーに属しますか?

 ほとんどの人に共通するカテゴリーは「家族」と「仕事」または「学校」となります。要は、これ以外にいくつカテゴリーを数えることができるかであって、その数だけ自分の居場所があることになります。
 ただし、「居場所」には濃密なものと希薄なものとがあり、濃密であればあるほど、その「居場所」を訪れる頻度は高くなり、訪れる頻度が低い「居場所」はそれだけ希薄であるといえ、やがて失われてしまう可能性があります。
 なお、キャバ嬢やホスト、コンビニやマクドナルドのレジ係などは、「面会した人」に数えてはいけません。なぜならば、これらの人たちとは「人間の繋がり」がないからです。こう書くと、「いや、そんなことはない。キャバ嬢のリカちゃんは俺のことが大好きだと言ってるし、俺もリカちゃんに会っていると楽しい。」というようなことを思われる方もいらっしゃるかもしれません。キャバ嬢のリカちゃんが、お金を持っていないあなたに喜んで会ってくれるのであれば、「面会した人」に数えることができるでしょうが、たいていの場合、キャバ嬢はお金を持っていない男を相手にすることはありません。これはお店のレジ係も同様で、お客が支払うお金に愛想を振りまいているのだと、まずは考えるべきです(例外は、お客であるあなたがお金以外のものを「贈った」ときです)。

 「居場所」にはいくつかの特徴があり、以下、それについて述べてみます。

・人間は、自分の「居場所」に対して、それぞれ責任を負っている。
 たとえば、親は「家庭」という「居場所」に対して責任を負っていることはおわかりいただけるでしょう。同様に、子どもも「家庭」に対して、その一員であるという責任を負っており、家族がなすべき務めを放棄した「家庭」はやがて崩壊することになります。

・「居場所」は、外界から隔離された空間に設けられる。
 家庭や職場、学校、部室、道場などは人間にとって典型的な「居場所」ですが、これらは皆外界から隔離されているという特徴があります。同窓会や友達など、固定的な空間を持たない「居場所」もありますが、それらが「居場所」として機能するときは、そこが駅の雑踏の中であっても、必ず外界から隔離されています。

・自分だけの「居場所」というのもある。
 自分の部屋、お風呂、布団の中、トイレ、車の運転席など「自分が一人になれる場所」というのも人間には必要です。夫婦や大家族における子どもなどは、自分だけの部屋を持つことはできませんが、代わりに自分が座る定位置を持っており、そこでは自分一人になるということも可能です。この、自分一人になる(=自分自身と向き合う)というのは、他人と繋がるうえで絶対に必要です。ただし、自分だけの部屋を持つことができない場合でも人間は自分一人になることができるので、子どもには個室を与えてやらなければいけない、ということではありません。実際、結婚すると自分だけの部屋というのは持てなくなるのが普通です。要は、定位置があればいいのです。

・「居場所」は心地よさを与えてくれる。
 ほかの人間と繋がることは本来心地よいことです。子どもが学校へ行くのが楽しいと思うのはここに理由があります(もう一つは「学ぶことの面白さ」を知っている場合)。逆に、学校に自分の「居場所」がなければ、学校へ行くことは苦痛になります。これは職場も同様であり、あらゆる「失われた居場所」に共通していえることです。

・「居場所」は奪われることもあれば、失うこともある。
 いじめは人間の「居場所」を奪う行為です。本人に落ち度のない不当な解雇、事故や殺人も同様です。これらはすべて理不尽で受け容れがたい行為ですが、残念ながら人間の社会からこれらの行為が根絶されることがないのも事実です。というのは、他人の「居場所」を平気で奪える人間は、他人からその「居場所」を奪われても文句をいうことができないことに気づいていないからです(会社で、誰を解雇するかというリストを作成するのは経営者ではなく管理職です。管理職もまた経営者から解雇されることがあります。さらに経営者は会社が潰れることによって、その地位を「追放」されることがあります)。
 また、他人に「贈る」ことをせずに「受け取る」ことだけを期待していると、人との繋がりはしだいに希薄なものになっていきます。それが限界を超えてしまうと、自分の「居場所」が失われてしまいます。これは誤解を招きかねない言い方になるのですが、相手から「受け取る」ものに不満が募ると、その人との関係性は破壊されることになります。友達が友達でなくなったり、つきあっていた人と別れる、夫婦が離婚するというのは、それぞれ我慢の限界を超えたときに起こることであると思います。それが悪いといっているのではありません。また、どちらが悪いというのでもありません。
 「居場所」を奪われたり、失ったりすることはとても辛いことですが、これらのことは誰もが経験することであり、人間はそれを乗り越えなければならない、ということです。

・「居場所」はお金で購うことはできない。
 このことは、お金を持たない子どもでも自分の「居場所」を見つけることができることからもわかります。時間が万人に平等に与えられた資源であるように、「居場所」を手に入れることは万人に平等に与えられた権利なのです(権利である以上、当然義務と責任が伴います)。
 資本主義社会の住人である私たちは、お金を注ぎ込むことで自分の人生が豊かなものになるという意識(このことは、お金がなければ惨めであるという強迫観念に結びついています)に染まっているので、「居場所」についても多くのお金を注ぎ込んだ方がいと思いがちです。親が子どもに対し不自由な思いをさせたくないと考えるのは自然なことですし、友達や恋人に喜んでもらいたいと考えるのも、人間として自然な気持ちの表れであるといえます。お金をかけるというのはそのための手段のひとつに過ぎないのですが、手段と目的を混同するのは、人間が犯しやすい過ちのひとつです。
 人が他者に「贈る」ことができるのは、モノやお金だけではありません。女の人はこの辺をよく心得ていて、好きな人からもらったモノであれば、たとえそれが夜店で買った安物の指輪であっても喜びます。それは、わざわざ自分に買ってくれたという「気持ち」が嬉しいわけです。もっとも、女の人の場合、他の女と比較して自分が負けていると思うと腹が立つという困った面もあるのですが(彼女に、誕生日プレゼントを贈るのとクリスマスプレゼントを贈るのとではどちらにお金をかけるべきかというと、これは断然クリスマスプレゼントの方です。なぜなら、クリスマスプレゼントは彼女の友達がもらったプレゼントと「比較」されるからです)。
 他者に「贈る」ものの中にはお金では換算できない価値がある、ということが忘れられがちになる理由は、既に述べたように、お金をたくさん持っている人の方が充実した人生を送ることができ、お金を持たなければそれだけ惨めになるというイデオロギーが、私たちにとってほとんど血肉化していることにあります。
 しかし、人間の繋がりである「居場所」を手に入れる権利は本来万人に与えられているのですから、各々が自分の「居場所」を大事にすること、そのために自分の義務と責任を果たそうとすることが、お金の有無がすべてを左右するというイデオロギーから私たちを解放してくれることになるのではないか、と思うのです。
by T_am | 2008-12-16 07:05 | 社会との関わり

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