ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

教育について考える(学ぶということ)

 独身のうちは教育についてまるで関心がなかったのですが、子供が生まれてその子供が学校へ行くようになる頃から、教育問題について関心を持つようになりました。こう思うのは私だけではないようです。
 そこで教育について改めて考えてみたいと思います。



 最初に、(以前も述べましたが)、「学ぶ」ということについて整理してみたいと思います。「学ぶ」という行為は、教育という大きな問題のほんの一部分に過ぎませんが、きわめて重要なことがらです。というのは、これを曖昧なままにしておくと、この後の考察がおかしな方向に行ってしまうからです。
 そこで、自分でもおさらいするつもりで、もう一度整理することにしました。

 つい最近出版された、「街場の教育論」(ミシマ社)の中で、著者である内田樹先生は次のように書いておられます。

「教育の本質が『こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち』との回路を穿(うが)つことにあるからです」(同書P40)

 これを読んで、目から鱗が落ちる思いをしました。人間は学ぶことによって、それまでの自分とは違う自分になることができる、ということは理解していましたが、このようなジャストフィットした表現もあるのだと知らされからです。
 そのことについて、ちょっと整理してみますね。
 たとえば、今の自分に満足しており、このままで構わないと思う人がいるとするならば、その人は教育とは無縁になります。これが第一点。
 二点目は、「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」へ通じる扉を開いてくれるのは教育だけの専売特許ではありませんが、そこへ行くことのできるパスポートを取得できるのは「学ぶ」という行為を経なければならない、ということです。
 私の息子が3歳か4歳の頃、私が休日になるとレンタルビデオ店でドラえもんのビデオテープ(劇場版)を借りてきては、息子と一緒になっ観ていたものです。息子はドラえもんが大好きで、一度見終わるとすぐ巻き戻しをかけて、また最初から観るのです。それを朝から晩まで4回くらい繰り返していました。流石にこちらは途中で疲れてしまいましたが、子供というのはタフですね。全然疲れを見せないのです。
 ここで、話は突然変わりますが、1971年(昭和46年)に公開された「小さな恋のメロディ」というイギリス映画がありました。日本でだけヒットしたこの映画には、当時小学生から中学生の女の子たちが熱狂しました。確か、私の妹はこの映画のサウンドトラック盤を8トラで買って、父親の車のステレオで聴きまくっていました(当時我が家にはまだステレオがなかった)。同級生の女の子で4回観に行ったという娘がいました。また、後輩の女の子(封切り当時小学生)は、なんと6回観に行ったとのことでした。
 なぜ、こんなことを長々と述べたかというと、すぐれた物語は、内田先生が指摘するように、「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」を私たちに示してくれるからです。それはひと言で言ってしまえば「こことは違う世界」ということになります。
 すぐれた物語は、私たちに別な世界への扉を開いてくれたうえで、その世界を「擬似的に」体験させてくれることができます。その世界が(ハリー・ポッターや指輪物語のように)ディテールまできちんと創り上げられていると、それは魅力に溢れたものとなり、私たちは何度でもそこを「擬似的に」訪れたいと思うのです。
 しかし、物語は私たちに違う世界への扉を開いてはくれますが、本当に行くことはできません。
 教育も今の自分が属しているのとは「違う世界」を私たちに示してくれます。物語と違うのは、その世界は他人が想像力によって創り上げたものではなく、私たちがその気になれば(つまり「学ぶ」ことによって)、実際にその世界の一員になることができるというところです。

 「学ぶ」という行為は自分が主体となります。自分が「学ぶ」相手は自分で見つけなければなりません。その選択には、もしも「学ぶ」相手を間違えると、その場合は自分を破滅させることもある(しかし本人はそのことに気づいていない)というリスキーなところがあります。
 ここでいう「学ぶ」相手とは、必ずしも教師であるとは限りません。また、自分が一面識もない人である場合もありますし、既に死んでいる人でも構わないのです。「学ぶ」相手との関係は、この人こそが自分の師匠であると自分が決めた瞬間に一方的に成立します。これを私淑するといい、先方の都合は一切無視しているので、相手が死んでいようと会ったことがない人であろうと構わないことになります。
 これに対し、師弟関係というのは、師と弟子との間でそれぞれ「自分は師匠である」あるいは「自分はこの人の弟子である」という自覚がある場合をいいます。落語家や相撲取りがそうですね。さすがにこれらの技能は私淑によって「学ぶ」ことはできません。というのは、これらの技能が身体を使うことだからです。
 身体を使う技能には言葉で伝えきれないところがあります。ところが、本を読んでも身体は理解することができません。どうしても教えてくれる師匠がいるのです。

 「街場の教育論」の中で、「学ぶ」ということについて、内田先生は非常に重要なことを述べておられます。

「学びの扉を開く合言葉は、『知りません。教えてください』なんです。」(同書P121)

 これは全くその通りで、私自身この合言葉のおかげで今までずいぶん得をしてきました。もっとも、私の場合、「○○さん、すいません。ちょっと教えてください。」ということにしています。
 こうお願いすると、ほとんどの人が、
「おう、何だ?」
 と親切に教えてくれるのですから、まさしく魔力を持った合言葉です(今まで、こうお願いして、教えてくれなかった人はたった一人だけです)。
 ただし、合言葉の魔力は、使いすぎると力を失ってしまいます。のべつ幕なしに使っていると、あいつは自分で考えようとしない、とうるさく思われることになるからです。
 この合言葉が強い魔力を発揮するのは、「教えてください。」という言語化されたメッセージといっしょに、言語化されていない二つのメッセージが込められているからだと思います。
 ひとつは、「そのことを是非知りたいのです。」というもの。もうひとつは、「頼れるのはあなただけなんです。」というメッセージです。
 こういう言語化されないメッセージ(メタ・メッセージといいます)は結構重要です。「学ぶ」ということは、個人対個人という関係の中で行われるので、コミュニケーション能力の高い方がいいのです。
 教える側からすれば、相手の熱意に引きずられることがあります。「こいつは、あまり熱心に聞いていないな。」と思えば、適当に話を切り上げるでしょう。逆に、相手の熱意を感じると、訊かれるままに色々なことを話してくれるようになります。
 ここで重要なのは、「教えてください。」とお願いする相手を、自分が「選んでいる」ということです。だれかれ構わず「教えてください。」とお願いしているわけではありません。この人なら自分の疑問に答えられるだろう、とアタリをつけて尋ねるわけです。それは、失敗する(訊いた相手もわからない)こともありますが、親切な人であれば、その疑問に答えられる「誰か」を教えてくれるか、あるいは取り次いでくれるものです。それだけの魔力をこの言葉は持っているのです。

 「学ぶ」というのは、おおざっぱに分けると、知識を蓄積する段階を経てから蓄積された知識が相互にリンクして自在に使いこなせるようになる段階に至ります。
 皆様経験がおありかと思いますが、知識を蓄積する段階では苦痛を感じることがあります。たとえば、これから分厚い本を読もうとしているときに、その厚さにちょっとたじろぐ、みたいな感覚です。それでも読み進めるうちに、本の厚さが次第に気にならなくなりますし、もっと読み続けたいと思うようになるものです。
 蓄積された知識が相互にリンクする、というのはこういうことです。蓄積してきた知識(情報)にはそれぞれ固有の意味がありますが。知識の絶対量が限られている間は、ここの知識は孤立しています。しかし、知識(経験)が一定量を超えると、新しい知識が入ってきたときに、過去に蓄えた知識(経験)との中から関連性のあるものが見つかるようになるのです。こうなってくると、「学ぶ」ということが俄然おもしろくなってきます。
 「学ぶ」快感を一度覚えると、正直言って、病みつきになります。人間には、快楽の対象に飽きるという性質があります。毎日ご飯を食べているとたまにはパンやうどんを食べたくなる、ということがあるでしょ。食欲や性欲などの生物が持っている基本的な欲望は対象に飽きる(たまには違うものが欲しいと感じる)ことがありますが、「学ぶ」ことによって得られる快楽は、その対象が常に「新しい知識や経験」になるので飽きるということがありません。ですから、意欲と体力があれば、死ぬまで学び続けることもできるのです。

 「学ぶ」という行為は教わる側と教える側の両方がなければ成立しませんが、主体はあくまでも「学ぶ」側です。自分が教わりたい人は誰か、それは教わる側が決めることです。
 こう書くと、学校や研修はそうではない、と反論されそうです。その疑問については、次回考察することにしたいと思います。
by T_am | 2008-11-30 10:36 | 社会との関わり