権利意識の「過剰」な芽生え
そういった視点で、今回は、私たちの中にあるいくつかの意識について考えてみたいと思います。
もう三十年近く前のことになりますが、当時学生だった私がガールフレンドとのデートで、デパートへ行ったことがありました。そこで棚にのっていた衣料品を広げて元に戻すときにそのまま戻そうとして、彼女に注意されたことがあります。
「ねえ、ちゃんとたたんだ方がいいんじゃないの。」
「いいんだよ。商品をきれいにたたむのはお店の人たちの仕事なんだから。」
彼女は怪訝な顔をしていましたが、私は気にもとめませんでした。
今にして思えば、これが当時、すでに私の中にあった「お客様意識」です。自分は「お客様」なんだから、たいていの我が儘は許してもらえる、という意識のことです。当時でも、おばさんの図々しさは指摘されていましたが、それとはちょっと異なるのではないかと思います。というのは、おばさんの図々しさは相手を選びませんが、お客様意識というのは相手を選ぶからです。
私の中にもう一つあったのは、「これは私の役割、それはあなたの役割。お互い自分の役割に基づいた責任は果たそうね。」という広い意味での「自己責任」という意識だったと思います。これは、職人は「自分が引き受けた仕事はきちんとこなす」という意識の彼岸にある考え方かもしれません。職人は自分の考え方を他人に強制することはありませんが、「自己責任」という人間は、他人にそれを強いていることになるのです。
当時の私の中にあったのは、店にきた客が商品をみて棚に戻すときに、きれいにたたむことはできないのだから、それを整理するのは店の人の仕事だろ、という気持ちです。それは、言い換えると、自分の仕事じゃないから僕はやらない、ということでもあります。そのような考え方は、当時は普遍的ではありませんでしたし、自分勝手と思われてもしかたありませんでした。そのことは、彼女にひんしゅくを買ったことでもわかります。今にして思えば、彼女の方がずっとまともだったということです。
人間の考え方というのは一人一人違います。それでも数百人数千人という単位では、似通った考え方をする人がいるはずであり、それがある時点では少数派でも、時間の経過とともに多数派になってゆくという現象がみられるということを前回ご説明しました。
日本人ならたぶん誰でも知っているであろう言葉に「お客様は神様です」というのがあります。もともとは歌手の南春夫さんが、地方公演の際に、歌の合間の語りの中で用いたフレーズでした。会場に来ているお客は「そんな大げさな」と思って聞いていたことでしょうが、いつの間にかこの言葉だけが一人歩きしてしまいました。
ここで「神様」という言葉の持つ意味は、「誠にありがたい存在」ということでしょう。しかし、持ち上げられた方は、最初はくすぐったい思いでいるかもしれませんが、次第に我が儘になっていきます。このことは、ご自分のまわりの人間関係をご覧になればおわかりいただけると思います。こちらが下手に出れば出るほど相手はつけあがる、というのが人間の性質でもあるのです。
「お客様意識」と「自己責任」という考え方が結びついていくと、その化合物として「権利意識」という成分が生成されるのではないか? と思います。
権利意識というのは、「自分はあなたに対して、特定の物やサービスの提供を受けるために代金を支払っている。ゆえにあなたはその期待に応える義務を負う。」というものです。ここに「契約に基づく取引」という概念が注入されると、権利意識はいっそう過激に発露されることになります。
権利意識が理論武装すると、相手に対して、回答を文書で要求する(しかも期限つき)というのが常套手段になります。しかも、うんざりするほどしつこい、あるいは、大きな声を出す、という特徴があります。
これだけ資本主義が発達している日本では、お金さえ持っていれば、私たちはいつでも好きなときに「お客様」になることができます(自販機でさえ「ありがとうございました」と行ってくれる世の中です。もっとも相手が人間ではないので、誰もまともに聞いてないと思いますが)。
欧米の概念では「物の売り買い」は「売買契約」であるということになります。契約というとなんだか堅苦しく聞こえますが、「約束」といっても差し支えありません。自分と相手が合意したことはすべて「約束」であり「契約」になるのです(だから結婚も契約になります。結婚式で神父だったか牧師だったかが「死が二人を分かつまで」といいますが、あれは、この結婚という契約の有効期間はどちらかが死ぬまでに限られる、という意味なのです)。
話がややこしくなるので、ここでは便宜的に個人間の合意を「約束」と呼び、それ以外(つまり個人と会社、会社と会社)の合意を「契約」と呼ぶことにします。本当は区別する必要はないのですが、あくまでも便宜的にそうさせていただいて、以下話を進めていきます。
お互いの合意により「契約」が成立すると、そこには、約束したことを守る義務(債務)と相手に約束を果たしてもらえるという権利(債権)が発生します。通常の契約(約束といっても構いません)では、義務を負う人(これを「債務者」といいます)は、約束に基づいて、自発的にその義務を果たしています。義務がきちんと履行されていれば何の問題もないわけです。
ところで、契約書というのは契約の内容を書面にしたものをいいます。契約書をつくらなければならないということはないのですが、契約書という文書を作っておく利点のひとつに、「契約書に書いてある内容に基づいて、相手に対して義務の履行を強制できる」ということがあります。それが可能になるためには、契約書がそういう書き方になっていなければならないのですが、このことは世間一般には認知されていないようです。どういうことかというと、契約書に書くことによってお互いに確認合意したことについてのみ強制力を持つということです。したがって、当事者が確認合意していないことについてまで、相手に強制することはできません。
「自分はあなたに対して、特定の物やサービスの提供を受けるために代金を支払っている。ゆえにあなたはその期待に応える義務を負う。」という権利意識は、お互いの間に契約という約束事があるという認識によって強化されます。これはその人の仕事のありようも反映されるようです。
日常の仕事の中で、相手に対して期限を切って回答や成果を求めている人、または求められている人は、仕事以外の「取引」においても同じような発想(自分が要求することを相手は実現して当たり前)で接しようとする傾向があるようです。
そのときに、自分の方が絶対に正しいという意識や欲望がその人の背中を押すと、クレーマーやモンスター・ペアレントとのできあがりとなります。
自分は、相手に申し立てることができる正当な権利を有しており、しかもお客様なのだから自分の意見は最大限尊重されるべきだ、というのがこの人たちの心理の根底にある意識です。
昔もクレーマーみたいな人がいたことは事実です。しかし、それは単なる「いいがかり」とみなされて、そういうことをいってくる人はどちらかというと変人扱いされていました。当時は今と違って、そういう人はほんのわずかしかいなかったからです。
しかし、まじめで勉強熱心なビジネスマンがビジネス理論を学ぶと、社会の森羅万象がこの理論で解決できると思いこんでしまうという傾向があります。世の中のあらゆる問題に対して、経済的合理性という見地から解答を導くことができ、自分はその鍵を手にしているという考えは、確かに魅力的であると思います。そういう人たちは、実際に仕事ができるので、会社の中でも相応の地位を占めるようになっており、その影響力は大きなものがあります。こうして、今日では、経済的合理性とか効率化とか競争原理という手法があらゆる分野で導入されるべきだという主張が強くなってきました。この主張の是非については本稿のテーマではないのでこれ以上は触れませんが、経済的合理性の信者はますます増えているようです。
権利意識が過剰な人たちに共通する特徴は、自分の利益を極大化させるためには他人が不利益を被ることになっても一顧だにしないということです。困ったことに、そういう人ほど社会的地位が高かったり、お金持ちであったりするので、それを見習おうとする人が後を絶ちません。
これは、人間一般に言えることですが、ある特定の主義思想に耽ると、その道筋から外れた思考ができなくなるという性質が私たちにはあります。歴史上、人類に強い影響を与えた主義思想として、宗教・全体主義・科学至上主義・マルクス主義などがあります。いずれも妄信すると独善的になるというところがあるのは同じです(中には主義主張のために、自分と意見を異にする者を迫害したり、殺人やテロに結びつくものもあります)。日本においては近い将来このリストに権利意識が加えられるようになるのかもしれません。