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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

お金の持つ記号性

 今回は前々回(数値化された属性に対する勘違い)の続きで、お金の持つ記号性について考えてみたいと思います。



お金というのは人間が発明した概念ですから、その本質は記号性にあります。日常私たちがお金として使っている紙幣や貨幣は、それをお金として扱うという約束事のもとで流通している物体に過ぎません。ですから、日本で流通している紙幣や貨幣をアメリカに持ち込んでも、それで買い物をすることはできません。同様に、日本のコンビニでドル紙幣を使うこともできません。紙幣や貨幣というのは、原則として、その国内でしか使えないのです。
 以前、株を取引する際に、証券会社が間違って売買金額と数量を取り違えて注文を出してしまったという事件がありました。数十万円する株を1株売りに出すつもりが、間違って1円で数十万株売りに出してしまったのです。これは間違った注文であったにもかかわらず、取引として成立してしまい取り消すことができませんでした。この証券会社は巨額の損失を被ることになりました。
 金融機関や小売店に勤める人を除けば、私たちが日常手にする現金の額というのはたかがしれています。クレジットカードが普及しているので、財布の中に数万円もあれば、まず不自由することはありません。
 金融制度が発達しているおかげで、取引にあたって、現金を動かす必要がない世の中になっています。私の場合、仕事で数十万円から数億円という単位のお金を扱うことがありますが、そのことについて特段の感慨はありません。もっとも、昔、初めて起こした注文書の金額が一千万円を超えたときは流石に緊張した記憶がありますが、いつの間にか感覚が慣れてしまいました。
 人間には金額の単位が大きくなればなるほど、実感がわかなくなるという性質があります。日本の国債残高はおよそ680兆円あるといわれても、誰もぴんと来ないでしょう。その代わり、借金の合計を人口で割って、国民一人あたりの借金の額はおよそ580万円であるといわれると、そんなにあるのか、と思ってしまいます。(念のため申しておきますが、だから大変だ、というのではありません。大きな金額の例として出しているだけで、それ以外に意味はありません。)
 もっと身近な例でいえば、住宅ローンの残高を数千万円抱えている人はいくらでもいます。だからといって、心配で夜も眠れないという人はいません。こつこつ返していけばいつかは返し終えると思っているからです。失職するとか、給料やボーナスがカットされて返済ができなくならない限り慌てるということはありません。
 これもお金の持つ記号性によるものだと思います。

 お金に対して実感がわかなくなるということは、お金のやりとりが簡単にできるということでもあります。振り込め詐欺というのはそのことの弊害でしょうし、口座にお金がなくてもサラ金でお金を借りることは簡単にできます。誰でも、その気になれば、自分の収入以上にお金を使うことが簡単にできる世の中になっているということです。
 今日のように、経済の先行きが不透明な時代では、自分の身を護ろうと思ったら、収入以上のお金は使わないということを頑固に守るのがもっとも確実な方法です。買い物は現金で行い、手持ちのお金が足りないときは我慢するというのが健全な行動であるといえます。
 以上は個人の話です。
 企業においてはどうかというと、先ほどもちょっと触れましたが、実感が伴わないので巨額のお金を動かすのに抵抗を感じなくなっていきます。そこには、所詮他人の金であるという意識もあるのかもしれません。そうすると、お金の扱いがどうしてもぞんざいになってしまいます。
 社会保険庁における消えた年金記録の問題や記録の改竄という問題は、こういったことが背景にあると思います。
 一般に、従業員による現金の使い込みは少額の金額の積み重ねとなります。というのは、一度に多くの現金を使い込んでしまうと発覚してしまうからです。最初はびくびくしながら使い込むのでしょうが、しだいにやめられなって、金額がかさんでいくことがわかっています。
 けれども、コンピュータを使った横領は数百万から数千万、ときには数億円という金額に達するものもあり、現金の使い込みとは桁が異なります。これは、コンピュータではお金を記号として扱うことに由来すると思います。
 このほかにも、お金がからむと、人間は他人に対して無慈悲になることができる、ということがいえます。けれども、相手がよく知っている人だと、お金の取り立てもしづらくなります。現に、友達やご近所の奥さんに貸した1万円は、その人がお金に困っているとわかっていれば、それだけ返してくれとはいいにくくなるものです。もちろん、そのことが原因で仲違いすることだってあるのですが、どうしても強くいえないという場合もあります。このことは、あまり親しくない人は自分にとって記号のような存在であるということがいえるのかもしれません。
 それが記号である以上、情が移るということがないので、無慈悲で事務的に接することができるというのが人間という生き物なのでしょう。
by T_am | 2008-11-21 00:59 | あいまいな国のあいまいな人々