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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

 今回は自民党の憲法改正草案(以下「草案」)のうち「第一章 天皇」について読んでみます。草案の第一章は現行憲法の上書きといったイメージですが、新たに追加された条項もあります。

(日本国憲法との違い)
1.天皇を元首であると規定していること(第一条)
2.国旗を日章旗とし、国歌を君が代と定めたうえで、国民にこれを尊重する義務を課していること(第三条)
3.元号は、皇位の継承があったときに定めるという規定を設けたこと(第四条)
4.天皇が行う国事行為については内閣の進言(日本国憲法では助言と承認)を必要とするとさだめたこと。(第六条4講)
5.衆議院の解散は総理大臣の進言によると明文化したこと(第六条4項)
6.天皇は国事行為の他、国や地方自治体その他の公共団体が主催する式典に出席すること、および公的な行為を行うと定めたこと(日本国憲法にはこの規定はなく、国事行為のみを行うという規定があります)

(天皇を元首として定めることについて)
 日本国憲法には、天皇は日本国民統合の象徴であるという規定はあるものの元首であると明確に規定しているわけではありません。そもそも元首とは国を代表する資格を持つわけで、外交儀礼上、現状でも天皇が元首である解釈することは可能です。さらに、日本国憲法憲法第七条に定める天皇の国事行為はまさに元首がなすべきことですから、案の第一条だけを読むと、天皇が元首であると明文化することは妥当であるかのように思われます。けれども第六条4項のように、天皇の権限が強化されそうな文言が入っているところが気になります。

第六条4項 天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。

 草案の第六条4項では、進言の伴わない国事行為はできないと解釈できますが、進言という言葉は天皇が拒否することもできるという解釈も成り立つように思います。(実際に天皇が拒否することは可能であるかどうかは別の問題です。)そのうえで天皇が下した判断は「聖断」であって何人も批判してはならないと言い張ることも可能になると思います。それで誰が得をするのかというと、天皇に進言することができる地位にいる人であることはいうまでもありません。


(国旗と国歌の尊重義務)
 日本には既に国旗と国歌に関する法律があります。そのうえ国旗と国歌を憲法で定める必要があるのでしょうか? 憲法でもこれを規定する理由は、国民に国旗と国歌を尊重する義務を課すことだと考えられます。現状では公務員が国歌斉唱の際に起立しなかった場合、条例によって処罰されることがありますが、この草案の通りになると、一般の国民も処罰の対象になっても不思議ではなくなります。すなわち、思想信条の自由が制限されることにつながっていく可能性を秘めた規定であるといえます。

(元号規定について)
 草案の文言は、「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する」です。実は元号法というべき法律が既に制定されていて、その条文は次の通りです。

1  元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。

 既に元号法がある以上憲法に書き加える必要があるのかと思いますが、憲法に元号を書き込むことによって、「元号の廃止が簡単にはできないようになる」という面はあります。現行の法体制では元号をなくすには号法を廃止すればよいのですが、憲法に書き込むと、憲法改正をしなければ元号が廃止できなくなるからです。
 もしかすると、草案をつくった人たちには、日本の元号は645年の大化から始まり、以来千四百年弱続いてきた制度であって、日本の文化と深く結びついているものであるから、これを憲法に盛り込むことは当然であると考えているのかもしれません。その可能性は極めて高いと思いますが、そこには、憲法を金科玉条のように思っている一方で、日本国憲法を蔑ろにしているという矛盾が感じられます。そういうと、「いや、あれはGHQに押し付けられた憲法だから本当の意味での日本の憲法とはいえないのだ」と反論されるかもしれません。憲法改正を主張する皆さんが心からそう思っているのであれば、日本をアメリカの属国のように位置づけている日米地位協定の改定を主張してもよさそうなものですが、残念ながらそういう主張はなされていないようです。

(衆議院の解散権について)
 日本国憲法に定める衆議院の解散の規定は、第六十九条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」と天皇の国事行為を定めた第七条のうち第三号「衆議院を解散すること」の2つです。七条の規定は、天皇は内閣の決定を追認するというものですから、第七条三号の規定は、総理大臣に対し、任意に衆議院を解散できる権限を与えていると考えられているようです。
 にもかかわらず、草案では「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」(第五十四条)という規定を新たに設け、さらに第六条4項ただし書きとして「衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による。」という文言を追加しています。
 なぜこういう文言を追加するのかというと、現行の規定のままでは、総理大臣の解散権があまりにも曖昧であるからです。普通に考えれば、憲法の中で衆議院の解散について書かれているのは第六十九条の「衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したとき」だけですから、これ以外に衆議院を解散してもよいと考えるのは乱暴な気がします。衆議院議員も総選挙によってその地位を得た人たちなのですから、内閣総理大臣の気持ちひとつでその地位を奪ってよいものか甚だ疑問に思います。
 総理大臣は国会が指名した人であることを考えれば、総理大臣も衆議院議員も国民の信託を受けた人と解釈することができます。その衆議院と総理大臣(内閣)の間でが対立が生じ、容易に解決できそうもないとき(不信任決議が可決されたとき)の解決策として内閣が総辞職するか衆議院を解散するかどちらかを選ぶとしているわけです。
 要はそれ以外に衆議院を解散する必要がどこにあるのか、ということです。総選挙を1回やればその間政治的な空白が生じますし、選挙に世する費用は税金の負担も候補者の負担もそれぞれ大きなものになります。
 とはいうものの、小泉元総理が行った郵政解散のように、総理大臣が自らの政策の信を国民に問うという意味での解散まで否定できるかというと、そうではないようにも思われます。
 したがって現実的な考え方としては、総理による解散権は認めつつも、解散ができるのはこのようなときと法律で定めることで解散権を制限するというのが妥当だと思います。

 ところが、草案の第五十四条には「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」とあり、しかも「法律の定めるところにより」という文言もない以上、総理大臣に対し任意に解散権を行使することをはっきりと認めることになるといっても差し支えないと思います。


(公的な行為を行うという規定について)
 ここでいう公的な行為というのは地方公共団体が主催する公的な式典や国会の開会式で「おことば」を述べることなどが想定されているようです。(「日本国憲法改正草案Q&A」自由民主党 P8 より)

https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf 

 したがって、これらの公的行為を憲法によって合法化するのは一見もっともなようにも思われますが、ここにも「法律の定めるところにより」という文言がありません。この文言があれば、天皇が出席する式典や公的行為が何なのかが明白になるのですが、それがないということは、何が公的行為にあたるのかという判断、および天皇がどの式典に出席するかという判断は内閣に委ねられるということになります。たとえば、将来全国戦没者追悼式を靖国神社で行うと内閣が決めた場合(昭和39年の追悼式は靖国神社で行われた)、当然天皇も出席を求められるでしょう。政教分離の原則を持ち出して靖国神社での開催を批判しても、過去に実施したことがあるという前例を持ち出され、うやむやのうちに強行されるものと推測されます。なぜならば、国家元首である天皇が靖国神社に詣でるという事実こそが、この草案をつくり支持する人たちが願ってやまないことだからです。


 本稿で述べたことは穿ったものであると思われるかもしれません。しかし、現政権のこれまでやり方をみると、想定されるあらゆるケースを検討しておくことは決して無駄ではないように思えてなりません。
# by t_am | 2016-07-18 12:20 | その他
 今回は、自民党の憲法改正草案の前文を検討する2回目の試みになります。


(前文)
 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。



 この前文の特徴として独特の言葉遣いがあげられるといえます。以下並べてみましょう。

・「長い歴史と固有の文化」
・「誇りと気概を持って」
・「和を尊び」
・「互いに助け合って」
・「美しい国土と自然環境」
・「活力ある経済活動」
・「教育や科学技術を振興」
・「良き伝統」

 これらの言葉に共通するのは、なんとなくわかったような気になるものの、具体的に何を意味するのかということを突き詰めて考えようとするとよくわからなくなるというところです。しかも、ここに書かれていることは特段悪いことではないだけに、余計に質が悪いのです。というのは、どれも反対しづらいことが書かれているわけですが、実際には「誇りと気概を持って」と判断するのは「わたしではない誰か」になるのはいうまでもありません。同様に、「良き伝統」と判断するのも「わたしではない誰か」になるのです。
 さらにいえば、「互いに助け合う」ことができない場合だってあるはずですが、そのときはどうなるでしょうか? そもそもこういうことまで憲法で規定しなければならないのでしょうか?

 思うに、これらのことは、この草案をつくった人たちの心の中にある「良いもの」なのかもしれません。そのような「良いもの」で溢れた国にしたいという思いがあってこのような前文になったのかもしれません。問題なのは、それを実現させるためには個人に対し義務を課し、権利を制限することも厭わないという点です。

 自分の価値観を実現させるためには他人に対しその権利を制限し、義務を課してもよいのだという考え方に与することはわたしにはできません。個人の趣味嗜好としてファンタジーの世界を思い描くことは勝手ですが、それを現実の社会に摘要させようというのは正気の沙汰とは思えません。
 この間の参院選で、神奈川県でトップ当選した三原某の発言である「神武天皇の建国のときからの歴史というもの、そのすべてを受け入れた憲法をつくりたい」に対し、呆れたり批判する声が聞こえてきていますが、わたしには改憲草案の前文も同じレベルであると思われます。
 というのは、自分たちのファンタジーを現実の政治に持ち込もうとする姿勢と、そのことに何の疑いも抱いていないというところが同じだからです。

 同調圧力が高いと言われている日本社会において、ファンタジーを政治に持ち込むということが現実のものになったらどうなるのか? その答えを、およそ80年前の日本人は経験しました。当時は国を挙げて無謀な戦争に取り組んでいた時代でしたから、その矛盾から国民の目をそらすためにも同調圧力が意図的に高められていました。このことは是非覚えておいたほうがいいと思います。国民の一挙手一投足に文句をつけるような世の中になりつつあるとき、それは決まって権力にとって不都合なことが進行しているということなのですから。

 自民党の改憲草案の前文を読むと、将来日本がそのような方向に進んでいく途を拓くものであるといわざるを得ません。もしかすると、この草案をつくった人たちの間にも、「自分たちが戴くファンタジーには矛盾があっていつか破綻するだろう」という予感がこのような言葉を選ばせたのかもしれません。
 もっともそのツケを払うのは彼らではなく、社会の動きに無関心でいた国民の方なのですが・・・


追記
 前文の中に、「平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」という文言がありますが、これはアメリカを中心とした国際秩序の維持を前提としたものです。平和主義といっても、アメリカと敵対する国がその対象とはならないことはイラク戦争を見れば明らかです。アメリカもイギリスもイラク戦争は過ちであったという反省がなされていますが、日本政府の見解は「大量破壊兵器があるという嫌疑をかけられて、そうではないと証明しなかったイラクの方が悪い」というものです。これは言いがかりをつけておいて、その相手が自分は無実であると証明できないならば武力に訴えても構わないといっているのに等しいわけです。このようにならず者の理屈を公然と口にする政権の積極的平和主義がどのようなものであるか、想像するのはそれほど難しいものではないと思います。
# by t_am | 2016-07-13 23:36 | その他

by T_am