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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

 ツイッターのTLで傑作だと評判になっているシン・ゴジラを観てきましたた。もう一回観に行ってもいいかなというのが感想です。

 ゴジラが街を破壊するシーンは時間にして全体の1割ちょっとくらいでしょうか、人間がゴジラに戦いを挑むシーンを含めても全体の三割にも満たないのではないかと思います。では残りは何かというと、政治家と官僚による会議、意見交換(石原さとみが登場するシーンもここに含まれます)が大部分を占めていように思います。そんな映画が面白いのか?と思うかもしれませんが、これが面白くてたまらないのですね。

 1%の嘘を信じ込ませるためには、99%の真実の中にその嘘を織り交ぜなければなりません。ゴジラというフィクションを観客に受け入れさせるには、残りすべてが緻密に計算されたリアリティに徹していなければならないのです。シン・ゴジラはそれを成し遂げることができたので、とても面白い仕上がりになっています。

 わたしのTL上で、ある人は、この映画の中で延々と続く会議(その中には的外れと思われる議論もあります)と自衛隊の隊員や防衛大臣(余貴美子が光ってました)が攻撃許可を求める手続きのくどさに民主主義のお手本を見いだしていました。
 映画館を出てから気づいたのですが、この映画にはバカな政治家と上司の顔色を伺う無責任な官僚がまるで出てこないのです。登場する政治家と官僚たちはそれぞれ使命感と責任感をもって私生活を省みることもせずに、己の仕事に取り組むという壮大なフィクションが描かれています。バカ、無責任、欲張りが一人も登場しないからこそこの映画は面白いものになっているのですが、冷静に考えるとちょっとありそうもないことですね。
 ただし、この映画に出てくる人物たちの行動は、観客が無意識のうちに望んでいる姿の投影であることも事実です。実際にはあり得ないかもしれませんが、大衆が好ましいと思う人物たちが描かれているというのもこの映画を面白くしている要因のひとつなのだと思います。

追記
 リアリティには2つあって、いかにもありそうな話のほかに、こうあって欲しいという願望が込められたリアリティがあるようです。後者は結婚詐欺師になぜ騙されるのかを理解する際に必須の要素であるといえます。庵野監督を結婚詐欺師に喩えるわけではありませんが、観客が心地よく物語に没入できるためにも、バカな政治家と無責任な官僚を排除するというのは必要であったといえるのです。
# by t_am | 2016-08-09 21:24 | その他
 相模原市の知的障碍者施設で7月26日に起きた殺傷事件についてずっと考えていました。たった一人の人間が、19人の命を奪い、26人を負傷させるという事件をどう受け止めたらいいのかわからなかったのです。
 ニュース番組で映される犯人の写真は、どれも不気味に笑っているものであり、犯人の異常性を強調したものになっていると思います。さらに、今年2月には犯行の予告をしたためた大島衆議院議長宛の手紙を議長公邸に持参したこと、施設の同僚に向かって重度の障碍者の安楽死を容認する発言をしたこと、これを受けて施設が警察に通報した結果緊急入院という措置を受けていたこと、さらに大麻の陽性反応があったことなどの一連の常識とはかけはなれた行動が明らかにされています。

 こうしてみると、一人の精神異常者による犯行という見方も成り立つようですが、それで片付けていいのか?という疑問を感じています。
 
 「犯人の植松某は大麻の常習者であり、精神に異常をきたしていたのであるから、あのような残虐な犯罪を犯したのも頷ける」という論理は、精神障害者は犯罪を犯すものだと主張しているのに等しいといえます。この論理は、さらに、「精神障害者は責任能力がないとみなされ、罪を犯しても無罪とされることもあるので、罪を犯す前に拘束したり隔離するなどの予防的措置も許される」という考え方につながっていくと思いますが、これは精神障害者に対する差別を合法化するものです。ここでいう「予防的措置」を「殺害」と言い換えれば、それはまさしく今回の犯人が行ったことにほかなりません。

 今回の犯人の行動をみれば、計画的な犯行であることは明白です。そして被害者は皆犯人よりも弱い人たちであることを考えると、自分に手向かう恐れのない弱者だけを狙った卑怯千万な犯行であるといえます。このような輩は人間の屑であると断定して構わないと思います。
 犯人がどのような供述をしようとも、このような輩に命を襲われた被害者の驚きと恐怖、そしてそのご家族の悲しみと無念さを思うと言葉を失ってしまいます。せめて自分にできることは何かないのか考えると、この事件をどのように理解し、どのような姿勢で臨むのがを整理することが先だろうと思ったので、本稿を書いています。

 犯人の植松某について、卑怯者であり人間の屑であると書きました。それでも、植松某を裁くのは法でなければなりません。このような残虐な事件を起こした犯人を極刑にせよと求めるのは自然な感情でしょうが、裁くのはわたしたちではありません。そこを間違うと、わたしたち自身が植松某と同じになってしまうと思います。

 114,171。
 
 この数字は、7月31日に行われた東京都知事選で桜井誠候補が獲得した票の数です。桜井誠氏は「在日特権を許さない会の初代会長」であり、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチで有名になった人物です。
 人が罪に問われることがあるとすれば、それはその人の行いを咎めているのであって、その人の存在そのものを罪に問うということはできません。にもかかわらず、その人の存在そのものを問題視し、排除しても構わないのだと主張しているのが植松某であり、桜井誠氏です。これがこの二人の共通項なのですが、今回桜井誠候補に投票した114,171人の有権者にも通じるようにも思います。

 実際には投票に行かなかった人の中にも桜井誠氏に同調する人はいることでしょう。そして、東京都の人口が日本全体のおよそ1割であることを考えると、桜井誠氏と同じような考えを持つ人は全国で百万人を優に超えるかもしれないということになります。

 他人に対し、その存在が罪であるからこれを断罪してもよいという考え方は、わかりやすくひと言でいえば「魔女狩り」そのものです。魔女狩りに加わった人たちには、自分たちの行いに対し責任をとるという意識が皆無だったという特徴があります。自分たちは正義なのだと思っているの当然なのかもしれません。けれどもその矛先がもしかして将来自分に向けられるかもしれないということまでは気がつかないという特徴もあります。自分が同じ立場になったとしても、一切文句は言わないという誓約書に署名しているに等しいのですが、そういう認識もないようです。

 たぶん、このような人たちは今後ますます増えていくものと思われます。そしてこの現象は日本だけのものではないということは、もうお気づきのことと思います。
# by t_am | 2016-08-02 23:20 | その他