ブログトップ

カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

<   2016年 08月 ( 4 )   > この月の画像一覧

 天皇が自分の考えをメッセージとして公表したことに対し、天皇の退位を認めるべきだと考える人が大部分を占めていることが世論調査によって明らかになりました。もっとも中には、天皇の退位を憲法改正と結びつけて世論調査を行っているメディアもあって、忠義面をした輩が実は天皇を利用することしか考えていないということも改めてはっきりしたことだと思います。

 余談になりますが、「生前退位」という屋上屋を重ねる言葉が用いられるようになったのは、2013年2月にローマ法王ベネディクト16世が退位を表明したときに遡るようです。退位と崩御は違うのだから、わざわざ「生前」などという言葉をつけなくてもよさそうなものですが、一度定着した言葉というのは強いですね。今では猫も杓子も「生前退位」という言葉を使っています。

 さて、天皇皇后を筆頭に現在の皇室がこれだけ国民から敬愛されているのは、天皇自身が述べていたように「公務に全身全霊をかけて取り組んで」きたからに他なりません。摂政だった頃から数えるとおよそ三十年間、公人としてこれだけ誠実に己の職務に取り組んで来た人は他にいません。
 今上天皇と皇后の偉いところは、この三十年間絶えず己の人格を磨き続けて来たという点にあります。凡人があの地位にいれば、三十年の間に驕慢に陥っても不思議ではないのですが、そのような堕落とは一切無縁に過ごしてきたわけですから、その精神力の強さはなかなか真似のできるものではありません。

 その辺の嘘つき政治家とは人間の器が違うといってよいのですが、そのような輩に利用されかねないというのが天皇制が抱えている弱点です。その弊害をもっとも薄める工夫が今の象徴天皇制であるといえます。

 天皇は象徴であるがゆえに天皇なので、象徴であることに伴う職務(国事行為)ができなくなったときにどうするのかを考えてほしいというのが、今回天皇が発したメッセージです。ごく普通に考えれば、退位を可能にするよう皇室典範を改正すれば済むことであり、多くの国民がこれに同意するであろうことは明かです。

 一方政府の動きはどうかというと、どうやら今上天皇一代限りの特別立法でお茶を濁す可能性が出てきたようです。なぜかというと、皇室典範を改正するよりも特別立法の方が手間も時間もかからないからです。

 悠仁(ひさひと)親王が生まれる前は、皇位継承者が皇太子と秋篠宮しかいなかったために、このままでは皇室の血統が絶えてしまうということが懸念されていました。そのため愛子内親王の即位を念頭においた女性天皇の可能性の検討がなされたものの、悠仁親王が生まれた途端にこの議論は終息してしまいました。難易度が高く手間がかかる問題だけに、先送りにされたわけです。

 今回の特別立法で対応できないかというのも、面倒なことは先送りしたいという気持ちによるものでしょう。その一方で、はるかに難易度の高い憲法改正に取り組もうとしているのは、要するにやる気がないとみなしてよいと思います。安倍総理が改正論議のベースにしたいと考えている自民党の改正憲法草案では、天皇を元首にすることになっています。その割には天皇の意向を蔑ろにしていると思います。これを機会に、将来再燃するかもしれない皇位継承問題にも手を打っておくというのがあるべき姿だと思うのですが、政府首脳にはそういうつもりはないようです。
by t_am | 2016-08-16 19:42 | その他
 8月15日日本武道館で行われた戦没者追悼式での安倍総理の式辞に次の言葉があったのが気になりました。

 あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられたみ霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、はるかな異境に亡くなられたみ霊、皆さまの尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時も忘れません。

 この前の戦争で命を落とした人たちの犠牲の上に今の日本の繁栄があるのだといういい方が戦死者の遺族にとって慰めになっているであろうことは私にもわかります。だが、それでいいのか?という思いが拭えないのです。

 犠牲という言葉には二種類の意味があって、ひとつ目は戦争の犠牲者という意味です。これは空襲で命を奪われた人たち、外地から日本に引き揚げる途中で命を失った人たちを意味します。二番目は、目的を達成するために身をなげうって尽くすという意味であり、戦死した軍人や軍属が該当します。「貴い犠牲の上に平和と繁栄がある」といういい方は、二番目の意味(すなわち戦死した軍人や軍属)を意識していると思ってよいでしょう。(神戸に行って、「今日の神戸の反映は阪神大震災で亡くなった方々の犠牲の上にあるのです」といい方をする人はいないでしょう。)
 では、彼らが出征し、あるいは従軍したのは何のためだったかといえば、家族を護り日本を護るためだったというのが広くいわれていることです。(実際には、喜んで行った人もいれば、嫌々行った人もいるはずであり、人によって異なるはずです。)
 それでは、家族や日本を護るという目的が達成されたのかといえば、答えは否です。空襲や原爆、沖縄戦で亡くなった民間人は八十万人に及ぶとされています。これだけ多くの犠牲者を出したうえに、ポツダム宣言を受諾することによって日本は主権を失い、進駐軍が統治することになったからです。(沖縄と小笠原がいったん日本から切り離されたことも忘れてはなりません。)

 ゆえに、あの戦争で戦死した軍人や軍属を「犠牲」として位置づけるのは誤りです。
 
 「貴い犠牲の上に」といういい方は遺族を慰めるものですが、同時にあの戦争の責任についてすべてをうやむやにする言葉でもあります。
 はっきり言うと、戦争で亡くなった民間人も含め、戦死者の中にも「死ななくてもよかった」人は相当数いるのではないかと思います。実際、戦死した理由として餓死や傷病が含まれているのですから、当時の日本軍が組織として機能せず、指導者が無能無策無責任であったことの証左であるといってよいでしょう。

 近隣諸国からの脅威に対し、抑止力を高めるために日本には軍隊が必要だという主張をする人が増えているようです。そのように考えるのであれば、先の戦争において「なぜあれだけ大勢の人が死ななければならなかったのか?」という検証を先にすべきだと私は思います。それもせずに軍備を拡張し、憲法を改正すると、また大勢の「死ななくてもよかった人たち」を生み出すことになると思うからです。
 そういう姿勢が現政権には微塵も見られないので、私は安保法制はもちろん憲法改正にも反対するのです。戦争はアニメや映画とは違うのですから。


 参考までに、同じ戦没者追悼式で天皇はどのように述べたかを引用しておきます。

 終戦以来71年、国民のたゆみない努力により、今日のわが国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

by t_am | 2016-08-16 09:10 | その他
 ツイッターのTLで傑作だと評判になっているシン・ゴジラを観てきましたた。もう一回観に行ってもいいかなというのが感想です。

 ゴジラが街を破壊するシーンは時間にして全体の1割ちょっとくらいでしょうか、人間がゴジラに戦いを挑むシーンを含めても全体の三割にも満たないのではないかと思います。では残りは何かというと、政治家と官僚による会議、意見交換(石原さとみが登場するシーンもここに含まれます)が大部分を占めていように思います。そんな映画が面白いのか?と思うかもしれませんが、これが面白くてたまらないのですね。

 1%の嘘を信じ込ませるためには、99%の真実の中にその嘘を織り交ぜなければなりません。ゴジラというフィクションを観客に受け入れさせるには、残りすべてが緻密に計算されたリアリティに徹していなければならないのです。シン・ゴジラはそれを成し遂げることができたので、とても面白い仕上がりになっています。

 わたしのTL上で、ある人は、この映画の中で延々と続く会議(その中には的外れと思われる議論もあります)と自衛隊の隊員や防衛大臣(余貴美子が光ってました)が攻撃許可を求める手続きのくどさに民主主義のお手本を見いだしていました。
 映画館を出てから気づいたのですが、この映画にはバカな政治家と上司の顔色を伺う無責任な官僚がまるで出てこないのです。登場する政治家と官僚たちはそれぞれ使命感と責任感をもって私生活を省みることもせずに、己の仕事に取り組むという壮大なフィクションが描かれています。バカ、無責任、欲張りが一人も登場しないからこそこの映画は面白いものになっているのですが、冷静に考えるとちょっとありそうもないことですね。
 ただし、この映画に出てくる人物たちの行動は、観客が無意識のうちに望んでいる姿の投影であることも事実です。実際にはあり得ないかもしれませんが、大衆が好ましいと思う人物たちが描かれているというのもこの映画を面白くしている要因のひとつなのだと思います。

追記
 リアリティには2つあって、いかにもありそうな話のほかに、こうあって欲しいという願望が込められたリアリティがあるようです。後者は結婚詐欺師になぜ騙されるのかを理解する際に必須の要素であるといえます。庵野監督を結婚詐欺師に喩えるわけではありませんが、観客が心地よく物語に没入できるためにも、バカな政治家と無責任な官僚を排除するというのは必要であったといえるのです。
by t_am | 2016-08-09 21:24 | その他
 相模原市の知的障碍者施設で7月26日に起きた殺傷事件についてずっと考えていました。たった一人の人間が、19人の命を奪い、26人を負傷させるという事件をどう受け止めたらいいのかわからなかったのです。
 ニュース番組で映される犯人の写真は、どれも不気味に笑っているものであり、犯人の異常性を強調したものになっていると思います。さらに、今年2月には犯行の予告をしたためた大島衆議院議長宛の手紙を議長公邸に持参したこと、施設の同僚に向かって重度の障碍者の安楽死を容認する発言をしたこと、これを受けて施設が警察に通報した結果緊急入院という措置を受けていたこと、さらに大麻の陽性反応があったことなどの一連の常識とはかけはなれた行動が明らかにされています。

 こうしてみると、一人の精神異常者による犯行という見方も成り立つようですが、それで片付けていいのか?という疑問を感じています。
 
 「犯人の植松某は大麻の常習者であり、精神に異常をきたしていたのであるから、あのような残虐な犯罪を犯したのも頷ける」という論理は、精神障害者は犯罪を犯すものだと主張しているのに等しいといえます。この論理は、さらに、「精神障害者は責任能力がないとみなされ、罪を犯しても無罪とされることもあるので、罪を犯す前に拘束したり隔離するなどの予防的措置も許される」という考え方につながっていくと思いますが、これは精神障害者に対する差別を合法化するものです。ここでいう「予防的措置」を「殺害」と言い換えれば、それはまさしく今回の犯人が行ったことにほかなりません。

 今回の犯人の行動をみれば、計画的な犯行であることは明白です。そして被害者は皆犯人よりも弱い人たちであることを考えると、自分に手向かう恐れのない弱者だけを狙った卑怯千万な犯行であるといえます。このような輩は人間の屑であると断定して構わないと思います。
 犯人がどのような供述をしようとも、このような輩に命を襲われた被害者の驚きと恐怖、そしてそのご家族の悲しみと無念さを思うと言葉を失ってしまいます。せめて自分にできることは何かないのか考えると、この事件をどのように理解し、どのような姿勢で臨むのがを整理することが先だろうと思ったので、本稿を書いています。

 犯人の植松某について、卑怯者であり人間の屑であると書きました。それでも、植松某を裁くのは法でなければなりません。このような残虐な事件を起こした犯人を極刑にせよと求めるのは自然な感情でしょうが、裁くのはわたしたちではありません。そこを間違うと、わたしたち自身が植松某と同じになってしまうと思います。

 114,171。
 
 この数字は、7月31日に行われた東京都知事選で桜井誠候補が獲得した票の数です。桜井誠氏は「在日特権を許さない会の初代会長」であり、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチで有名になった人物です。
 人が罪に問われることがあるとすれば、それはその人の行いを咎めているのであって、その人の存在そのものを罪に問うということはできません。にもかかわらず、その人の存在そのものを問題視し、排除しても構わないのだと主張しているのが植松某であり、桜井誠氏です。これがこの二人の共通項なのですが、今回桜井誠候補に投票した114,171人の有権者にも通じるようにも思います。

 実際には投票に行かなかった人の中にも桜井誠氏に同調する人はいることでしょう。そして、東京都の人口が日本全体のおよそ1割であることを考えると、桜井誠氏と同じような考えを持つ人は全国で百万人を優に超えるかもしれないということになります。

 他人に対し、その存在が罪であるからこれを断罪してもよいという考え方は、わかりやすくひと言でいえば「魔女狩り」そのものです。魔女狩りに加わった人たちには、自分たちの行いに対し責任をとるという意識が皆無だったという特徴があります。自分たちは正義なのだと思っているの当然なのかもしれません。けれどもその矛先がもしかして将来自分に向けられるかもしれないということまでは気がつかないという特徴もあります。自分が同じ立場になったとしても、一切文句は言わないという誓約書に署名しているに等しいのですが、そういう認識もないようです。

 たぶん、このような人たちは今後ますます増えていくものと思われます。そしてこの現象は日本だけのものではないということは、もうお気づきのことと思います。
by t_am | 2016-08-02 23:20 | その他