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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 国際協調主義に基づく「積極的平和主義」というわかりにくいフレーズは、どうやら、「欧米が中心となって築いてきた国際協調体制の枠組みの中で日本は利益を得ているのだから、今後もこの体制を堅持するため、日本も積極的・自発的に関わっていかなければならない」という考えかたが出発点にあるようだ。
 その目指すところは、国際協調体制を脅かす国や勢力が登場した場合、日本も他の国々とともに武力行使に参加するというものではないかと睨んでいる。大雑把ないい方をすれば、平和を維持するためには武力行使も辞さない、ということになる。
 このように、一見理にかなった政策であるかのように思えるが、この政策が妥当かどうかを判断するには、今の国際協調体制について再考する必要があるだろう。まず思い浮かぶのは、富の集中による格差と貧困の拡大である。虐げられた人々が抱く不満は、たとえばネオナチなどの極右勢力の伸長を促している。極右勢力は、その不満のはけ口として、社会の中のマイノリティを差別し迫害するようになる。そうやってはじき出された人々の中からたとえばISに加わる人間も出てくるようになるわけだ。(実をいうと、ISとはイラクやシリアの中の極右勢力-ネオナチのようなもの-が急成長したものだと思っている。)
 こうしてみると、欧米が中心になって築いてきた国際協調体制もだいぶ制度疲労が進行し、それがもたらすメリットはともかくとして、デメリットの方が目立つようになってきているように思える。そういう決して未来が明るいとはいえない国際協調体制を堅持するために、日本がこれまで以上にコストをかけ、さらに武力行使というリスクを負うというのは果たして賢明な選択といえるのだろうか?
 誰がこのような政策を支持するのだろうかと考えてみると、ひとつには現行の国際協調体制の中で恩恵を蒙っている人たち(具体的にいうと、この円安株高で大儲けしている人たち)があげられる。次に想像できるのは、戦争による特需を期待している人たちである。武器輸出三原則も「防衛装備移転三原則」と名前が変わり、武器の輸出が基本的に認められるようになったので、着々とレールが敷かれていると考えた方がいいのかもしれない。
by t_am | 2015-03-21 00:53 | その他
 今回は、釈迦が発見した人を苦しめる主な原因について述べて見たいと思います。


人を苦しめる「貪欲(とんよく)」
 仏教では過剰な欲望のことを貪欲と呼ぶそうです。なぜ貪欲が人間を苦しめるのかというと歯止めが利かなくなるからです。あれは韓国だったでしょうか、美容整形手術の盛んな国でもっと美しくなりたいと整形手術を繰り返した結果かつての面影を全くなくしてしまった女性がかつてテレビで取り上げられていたことがあります。それだけ整形手術を繰り返したのだから本人は満足しているかというとそうではありません。むしろ手術をすればするほど、今度はここをこうしたい、あそこをこうしたいと不満が募る一方であり、であるがゆえに何度も整形手術を繰り返すことになるわけです。
 実をいうと、この人の顔は度重なる整形手術に耐えきれずにとうに崩れてしまっているのですが、本人はそのことにまったく気づいていません。むしろ瞼は二重の方が美しく見えるとか鼻は高い方がいいとか、個々のパーツを手直しすることにばかり目を向けていて、その結果総合的にどのように見えるのかということにはまるで目を向けようとしないのです。ここにも、妄想は合理性・整合性を欠き、訂正を受け入れようとはしないという典型的な症状が現れていることにお気づきでしょう。


人がものを認識する仕組み
 よくいわれることですが、人は「自分が見たいと思うものを見て、聞きたいと思うことを耳に入れる」という性質を持っています。つまり、わたしたちが認識している世の中の姿とは、ありのままの姿ではなくて、自分自身の価値観によってフィルターがかけられ編集された姿であるということになります。
 そのいい例がFacebookやツイッターです。Facebookをやっている方はご自分のウォールをもう一度ご覧になってください。そこに載っている投稿は、そのほとんどがあなたの好みに合ったものに限られているのではありませんか? なぜならば、あなたが友達として承認したのには理由(というかある種の基準)があるからです。つまり、その基準に合致しない情報はあなたのウォールに載ってくることはありません。

 これはツイッターでもほぼ同じです。
 
 ネトウヨと呼ばれる人のタイムラインは似たようなツイートで溢れているものですし、これは左翼と呼ばれる人も同様です。

 そして苦しみから逃れるためには、自分自身がこれまで気づいてきた価値観の枠組みをいったん外して、世の中のありのままの姿を見るように心がけるということが重要になります。その際にポイントとなるのは「こだわらない」ということです。つまり、いつでも自分を相対化できるようにしておくということですね。


自分自身を抑えきれない心「瞋恚(しんに)」
 瞋恚というのはどちらも怒りという意味です。同じ意味の感じを二つ並べることで以下入りの様子がただごとではないことを示しています。
 しょっちゅう怒っている人がいるとして、その人自身はどうでしょうか? おそらくは血圧は高くなっているでしょうし、すぐ激高するので他人には敬遠されているかもしれません。あまり好かれるタイプとはいえないでしょうね。本人も、他人がそのような目で自分を観ているということに薄々でも気づいているでしょうから、当然愉快であるはずがありません。そうするとますます怒りっぽくなるという悪循環が生まれることになります。
 また、怒りっぽい人が陥りやすい罠として、他人がバカに見えるというのがあります。しょっちゅう起こっているということはそれだけ自分を正当化しているわけですから、自尊心が肥大していくわけです。その結果、自分以外の他人はみんなが愚図でのろまで分からず屋であるということになってしまいます。

 本稿をお読みの皆様の中には、いったいなぜ怒ることが苦しみの原因になるのだと不思議に感じる方もいらっしゃるかもしれません。
 怒るというのはものごとに囚われるということですから、それだけ自分自身を相対化することができなくなってしまいますし、客観的に自分を見つめるということなどできるはずがありません。ですから、妄想に囚われやすいタイプの人には、(それほど多くの人を知っているわけではありませんが)もしかするといつも文句をいっているタイプが多いのではないかという気がしています。

 ところで仏教では、怒りから自分を解放する方法も研究されています。
 その最初のステップは呼吸を整えること。具体的にいうと吐く息を長くし、吸う息を短くするというものです。起こっている状態というのは、呼吸が激しく短くなっているので、呼吸を整えることで興奮状態を鎮めることができるというわけです。そして、思考や感情、心の動きを意識的にストップしてしまいます。それができたら、次は自分の心の動きを観察します。そうすることで自分自身を「腹が立つ」という感情が支配するのではなく、「わたしは今、腹が立つという現象に直面している」と認識するのです。これは、それほど難しいことではないので、何度か試してみていただきたいと思います。慣れてくると、人間関係が楽になってくるはずですから。



わからないことから生じる「苦しみ」(愚痴)
 ここでいう愚痴というのは、いわゆる愚痴をこぼす(いっても仕方のないことをいってしまう)方の愚痴ではなくて、愚かであること、ものごとを正しく認識できないこと、無知であることを指します。
 これまで述べてきた貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)にこの愚痴を加えたものを仏教では三毒と呼び、人間に苦しみをもたらす最も根源的な三つの煩悩であるとしています。なぜ無知であることが苦しみをもたらすのかというと、無知であるがゆえの誤解や思い込みという場合があるからです。
 また、ものごとの本質がわからなかったりすることが原因で苦しんだり、右往左往することがあります。「この人はなぜわたしに辛くあたるのだろう?」とか、「どうしたらこの人は満足してくれるのだろう?」とかいうケースは結構あるのではないかと思います。それらもひっくるめて愚痴(愚かであること)というのは酷であるかもしれませんが、ものごとの本質がわかるとぐっと楽になるということが往々にしてあるものです。
 このように、正しく知ろうとする気持ちを持つことは思い込みを排除することにつながり、苦しみを相対化して客観的に理解することにもつながります。
 ただ、それも度が過ぎると理屈っぽい奴だと敬遠されることがあるかもしれないので、ほどほどにしておいた方がいいと思います。


 これまで、仏教の教えについて述べてきました。けれども人間は誰もが釈迦のように賢くもなければ意志も強いわけではありません。それではそういう人は救われないのかというと、そうでもないと私は思っています。
 そこで、次回は人間に備わっている苦しみを軽減するメカニズムについて述べて見たいと思います。
by t_am | 2015-03-07 19:55 | 心の働き
 前回は、負の感情が人を捕らえて離さないのは、人間が本来持っている心と体のメカニズムが暴走しているのだということを申し上げました。
 今回は、そのような状態に陥らないようにするにはどうしたらいいかについて考察してみたいと思います。

 実をいうと、今からおよそ二千五百年ほども前に、この問題に取り組んだ人がいました。その人の名前を釈迦といいます。釈迦が導き出した悟りは仏教として今日まで伝わっているので、冒頭で取り上げた問題への解答は仏教の教えからの受け売りということになります(ただし、わたし自身の言葉で書いています)。そのつもりでお読みください。


 前回申し上げた負の感情は、ブラックホールのようなものです。といっても最初からブラックホールなのではなく、いったん人の心の中で生まれると少しずつ成長していくのだと考えた方が妥当でしょう。その核となるのは、その人の心の中にある不満や不安などです。これらが負の感情を捕まえては次々と取り込んでいきます。そしてそれらがある閾値を超えると制御不能のブラックホールになってしまい、本人の心を蝕むようになります。 いったんそうなってしまうと、自分自身でもどうにもならないという状態に陥ってしまいます。ですから、そうなる前にそこから逃れることを考えなければなりません。
 ポイントは、負の感情の虜になるというのは決して他人事ではなく、もしかしたら自分の身にも起こりうることなのかもしれないという認識を持つことです。他人事だと思っていると、この後に申し上げることが伝わらないからです。


 最初にすべきことは、自分自身の負の感情の芽は何から生まれているのか、その原因を見つめることです。負の感情は自分の心の中の働きであり、そこには必ず何かしらの原因があります。人によってそれは異なるのですが、それが何かをまず見つける(意識する)ことから始まります。
その次に、その原因がなぜこれほどまでに自分を苦しめるのだろうということについて考えてみることが欠かせません。というのは、原因という出来事は同じでも、人によってそこから受ける苦しみはまるで異なるからであって、それはなぜなのかに目を向けることが必要なのです。
 この過程は結構難易度が高いので、結論を先に述べてしまうと、自分がこれだけ苦しんでいるのは苦しいと思う自分がいるからだということに気づけるかどうかがポイントになります。つまり、自分を苦しめている原因はあるけれども、苦しいと思う自分がいるからこそ自分は苦しいと感じるのだという事実に気づくと、では苦しいと感じる自分とは何者なのだというところにに目が向くことになります。そうやって自分自身を見つめ直していくと、自分自身を形づくっている檻のようなものがあることに気づきます。
 今、わたしはこれを檻と呼びましたが、むしろその人の「価値観」といった方がイメージ的には近いように思います。損か得か、美しいか醜いか、心地よいか不快か、欲しいと思うか思わないか、効率的かそれとも無駄が多いのか、などその人の価値観を測る物差しはいくつもあり、また目盛りの刻まれ方も人によって異なります。こういう価値観の物差しがいくつも集まってその人らしさを形作っているというこをはおわかりいただけると思います。このことは、見方を変えれば、その人の価値観という物差しが集まってできあがったもの(枠組み)が、ときとしてその人を縛る檻にもなるということを意味します。たとえば、「こどもたちを家に縛りつけるようなことはしたくない」といういい方をすることがありますよね。そこから類推していたければ、自分が持っている価値観の集合体である枠組みが自分自身を縛っているということがおわかりいただけるかと思います。

 このように自分自身を縛る檻のことを仏教では「執着(しゅうじゃく)」というそうです。

 ここで、誤解しないでいただきたいのは、このような枠組みはわたしたちが社会生活に適応するために必要であって、それらを無視した方がよいと主張しているのではないということです。この枠組みは生きていく上で必要不可欠のものですが、ほどほどにしておかないと自分自身を縛る檻にもなりかねないということを理解していただきたいと思います。

 話は変わりますが、わたしは学生時代に部活で禅寺へ行って修行のまねごとをしたことがあります。そこでは早朝4時に起きて読経した後に座禅を組み、その後は掃除と食事・練習の後に昼食、午後からはまた練習があってその後夕食。夕食後に銭湯へ出かけるのですがこれが唯一の息抜きでした。帰ってからはミーティングがあって10時就寝。翌朝4時になると修行僧がチリンチリンと鈴を鳴らして起床時間が来たことを知らせます。うつらうつらとしている中で聞こえる鈴の音は地獄の鈴であるかのように思えたものです。
 昔話を長々としてしまいましたが、なぜ禅寺ではこのような非日常的な生活をしているのかというと、そうやってその人が持っている価値観をいったん壊すことが目的なのだそうです。といっても全て壊してしまうと人間は野獣と変わらなくなりますから、最低限必要なものだけは残すわけです。そうやって、無我夢中で毎日を過ごしているうちに、かつてあれほど自分が苦しいと思っていたことがすっかり失せているということに気づくのです。

 このように、自分を縛る「執着」から自分自身をいったん解放してやることで、苦しみから解放されるわけです。では、そういうことは禅寺へ行って厳しい修行をしなければできないのかというと、そういうわけではないと思います。
 「諸行無常」という言葉を聞いたことがおありでしょうか。この世にあるものはすべて変化し、いつまでも同じ形をとどめていることはできないのだという意味です。人間というのは不思議なもので、今のこの状態がいつまでも続くものだとなんの根拠もないのに思い込んでしまう生き物です。ですから、変化する(というよりも変化を強いられる)のをものすごく嫌がるという性質を持っています。これも「執着」の一種ですね。そういう自分自身の姿に気づくことが執着から解放されることにつながるのだといってよいでしょう。
 ですから、なにも禅寺へ籠もって厳しい修行をするばかりが能ではありません。毎日の暮らしの中で他人の言葉に素直に耳を傾け、周囲の出来事を虚心に見つめることの繰り返しの中からでも、自分が持っている価値観の枠組みが実は相対的なものに過ぎないのだと気づくことは可能だと思います。

 次回では、仏教が教える苦しみの原因についていくつか述べてみたいと思います。それがわかれば、苦しみもいくらか軽減されるはずだからです。
by t_am | 2015-03-07 19:50 | 心の働き
 前回に続いて、負の感情が働くメカニズムについて考えてみる第2回目となります。

(被害妄想)
 他人に対するカン違いがきっかけとなって、その人が自分に害を加えようとしていると思い込んでしまうことは誰にでも起こりうることです。ほとんどの場合、些細なことで済んでしまうのですが、ごく稀にエスカレートしてしまう人がいて、そういう心の状態を被害妄想と呼んでいるようです。
 既に申し上げたように、妄想の特徴は合理性・整合性を欠いていること、そして他人の意見を聞こうとしない(訂正を受け入れようとしない)ところにあります。傍で見ているとわかるのですが、なんでこんなことにこだわるのだろうと不思議に思うくらい「囚われている」ことに気づきます。何に囚われているのかは人によって違うのですが、そこには囚われるだけの理由があるようにわたしには思われます。
 嫉妬が妄想に結びついていく条件として「何かしら不満を感じている」ということを申し上げましたが、被害妄想の場合も、同じように「何かしら罪悪感(もしくは不満)を抱えている」ことが、妄想を生み出す要因となっているのではないかという気がしています。
 「罪悪感」というのは、何か失敗を犯したときに、自分が叱責されたり処罰されたりするのではないかと不安に思うことに由来するのではないかとと思います。人は不安を感じているとき、センサーが過敏になっているので、ちょっとしたことであっても自分が心配に思っていることと結びつけて考えがちになります。周囲の人からみれば、そんなの考えすぎだよ、と思うようなことでも本人にとっては無視することができないのです。
 困ったことに、このような「関連づけ」がいったん成立してしまうと、似たような「関連づけが」次から次へと行われるようになってしまいます。こうなると、考えたくないと思ってもつい考えてしまうという制御不能の状態に陥ってしまいます。何かのきっかけで他のことに注意が向いて気が紛れたとしても、それは一時的なものであり、またすぐに妄想の迷宮に立ち戻ってしまいます。このような負のスパイラル(連鎖)が続くと心身ともに疲弊し、本当に病気になってしまうことがあるので、周囲は心配することになります。


(強迫観念)
 出かけた後や車を降りた後で「そういえば鍵をかけただろうか?」と何度も気にしたりすることはありませんか。このようなとき、最も有効な解決策は「確認する」ということに尽きるのですが、それができない場合もあります。そうなるといつまでも不安は消えずに残ります。何か他のことに集中していったんは忘れたとしても、またすぐに思い出して囚われてしまうことになりかねません。
 これまでの例と同じように、ごく軽微な強迫観念というのは誰にでも起こりうる現象です。ところが、それが笑い話で終わってしまう(つまりたいして気にしないでいられる)人がいる一方で、次第にエスカレートしていく人がいることも想像に難くありません。
 たとえば、ジンクスを異常に気にするセールスマンがいるとします。その人には以前得意先を訪問する前にたまたまカツカレーを食べたところ商談が大成功になったという経験から、大事な商談の前には必ずカツカレーを食べるというジンクスをかついでいると思ってください。運良くカツカレーを食べることができれば、このセールスマン氏はリラックスして商談に臨むことができとんとん拍子に話が進む可能性が高くなるといえます。ところが逆に、カツカレーを食べることができなかったとき、このセールスマンの気持ちの中には「もしかしたらうまくいかなくないではないか?」という不安が生まれることになります。不安は余計な緊張をもたらしますから、些細なミスを招きやすくなります。そうするとさらに緊張感は増してしまうので、一層ミスを犯しやすくなるといえます。
 こういう経験が何度か繰り返されることによって、セールスマン氏の中で「商談前にカツカレーを食べると成功する」というジンクスはますます強固なものになっていくわけです。

 ごく軽微な強迫観念は誰にでも起こりうるものですが、それが重度のものに発展していくには「本人の自信のなさ」というのも影響している場合があるのではないかと思います。(もちろん例外もあるでしょう。むしろそうでないケースの方が多いかもしれません。このように例外が常に存在すると思えることが心の健康を保つ上で重要だと思っていただいてよいのです。)
 人間にはいろんな人がいて、中には自信過剰というか根拠のない自信の凝り固まりという人もいます。そういう人は強迫観念とは無縁であろうと思います。

 それでは逆に、他人によって自信を奪われた人はどうなるのでしょうか? よくいわれるのがパワハラというやつです。これは、自分が優越的な地位にあることを利用して、自分よりもより弱い者に対していじめや嫌がらせをするというもので、相手の人格を否定するということも行われます。
 パワハラの被害者が強迫観念の虜になるであろうことは容易に想像できます。たしかにパワハラは物理的に外傷を負わせるわけではありませんが、被害者の心に傷を負わせるという点で加害行為であることに疑いはありません。心の傷によって体調を崩し、病気になったり最悪の場合自らの命を絶つということも起こるわけです。(ただし、心の傷とパワハラとの因果関係を立証するのは困難ですが・・・)

 他人によるいじめやパワハラげ原因で起こる心の傷の進行をくい止めるには、原因となっているパワハラやいじめを止めることが一番の解決策になります。ところが、そうはいっても口でいっていうことをきくような相手であれば何も苦労するはずはないのであって、加害者から身を隠すというのも有効だと思います。
 

(負の感情はなぜ連鎖するのか)
 既に申し上げたように、負の感情は脳内にドーパミンのような物質を分泌させるのではないかとわたしは考えています(根拠はありませんが)。そして、これらの脳内物質は習慣性・依存性・耽溺性をもたらすものと思われます。
 ではいったいなぜ、負の感情が脳内物質の分泌を促すのかというと、これも憶測に過ぎないのですが、「そのほうが個体としての生存に有利だから」と考えた方がいいように思っています。
 なぜかというと、これまで述べてきたような負の感情の連鎖というのは、条件さえ満たせば誰にでも起こりうることであって、その理由は「わたしたちの中にはそのようなメカニズムがあらかじめ組み込まれている」と考えた方が説明がつくからです。自然淘汰の原則からいえば、そのようなメカニズムをもった人間がメカニズムを持たない人間よりも生存競争上有利であったがために、メカニズムを持たない人間が子孫を残すことができず、メカニズムを持った人間の子孫が増えてきたのだと考えることができます。

 このように考えると、負の感情があたかもブラックホールであるかのように人の心を虜にし、捕らえて放さないというのは、人間が本来持っている心と身体のメカニズムが暴走しているのだと解釈することができます。

 そのことがわかれば、では負の感情に囚われないようにするにはどうしたらいいいか?ということが次の問題になるわけです。
 そこで、次回は負の感情から自分を解放するにはどうしたらいいかについて考察してみたいと思います。
by t_am | 2015-03-07 19:48 | 心の働き
 ドメスティックバイオレンス(DV)という言葉を聞いたことがあると思います。広辞苑によれば「夫や恋人などの親密な関係にある男性から、女性が加えられる暴力」と説明されていますが、逆の場合もあるような気がします。また、交際中のカップルの場合、デートDVという言葉もあるくらいですから、割と頻繁に起きていることなのだろうと思われます。

 DVは次第にエスカレートしていく特徴があるようで、こういういい方が適当かどうかはわかりませんが、習慣性と耽溺性があるような気がします。なんだか麻薬みたいですね。

 タイトルにあるように、負の感情(嫉妬、妬み、憎悪、不安、恐怖、自虐など)に囚われた人がなぜそこからなかなか抜け出せないのかを、本稿では考察するものです。そのうえで、負の感情から逃れるにはどうしたらいいのか、ということも考察してみたいと思います。

 いわゆる負の感情とは反対の「明るい感情」(嬉しい、楽しい、心地よい、感動、など)は、負の感情とは違って一過性のものであり、長続きするということはないようです。たとえば、交際中のカップルを例にあげると、好きな人と一緒にいる間楽しいと思っても、いっしょに暮らしているわけではないので、夜になれば家に帰らなければなりません。一人になった後しばらくは余韻を楽しむこともあるかもしれませんが、それまで感じていた楽しさを感じることはなくなります。これは、「嬉しい」「心地よい」「感動」といった他の「明るい感情」にもいえることです。

 そこで不思議に思うのは、なぜこれらの「明るい感情」は長続きしないのか?ということです。

 これは仮説に過ぎないのですが、これらの感情がわき上がるにはエネルギーというか燃料のようなものが必要だというのがわたしなりの回答です。つまり、好きな人と一緒にいるという行為がエネルギーとなって注がれ、楽しいという感情を維持するのだということです。「嬉しい」「心地よい」「感動」といった感情も同様であることはおわかりいただけると思います。

 このことは、人間は自分一人の力では「明るい感情」をつくり出すことができない、ということを意味します。

 かねてより申し上げていることに「幸せか不幸せかというのは、そのときの心の状態を現す言葉であって、その人が置かれた境遇を示すものではない」というのがあります。ですからこうすれば間違いないなく幸福になれるという処方箋は存在しません。意中の人から「好きです」と告白されて「やったー!」と叫びたくなるときもあれば、「えー? ごめんなさい、ちょっとパス」といいたくなる場会だってあるかもしれません。あるいは、高学歴高収入高身長の男性と首尾良く結婚できたとして、一生幸せでいられるかどうかは別問題であるというのはどなたにもおわかりのことと思います。
 ここでいう「心の状態」というのは、自分に対して影響を及ぼす何かの出来事があってそれに自分の心が反応したのだ、ということを意味します。「明るい感情」というのは、まさにこの過程を経て生まれるものなのでしょう。何もないところに、感情を生むことはできないのです。

 とはいうものの、記憶を呼び覚ますことによって、かつて味わった「明るい感情」を再体験することは可能です。一般に「想い出」といわれるこれらの記憶は人を幸せな気分にしてくれますが、時間の経過によってかつての記憶が次第に淡いものになっていくのは避けられません。この「忘れる」ということは、一見都合のわるいことのように思われますが、人間にとってなくてはならない能力であると思っています。(その理由は後で述べます。)

 感情の生成は、私たちの心に影響を及ぼす出来事によってもたらされるのですが、冒頭にあげた「負の感情」は、「明るい感情」とは違ってどうやら自燃性を持っているようにわたしには思われます。これはいい方を変えて、「人間は妄想という思い込みによって負の感情を育てることがある」とした方がわかりやすかもしれません。

(ドメスティックバイオレンスについて)
 一つの例として、嫉妬という感情を取り上げてみましょう。相思相愛のカップルがいたとして、傍から見ると幸せそうな二人に見えるものですが、愛情は相手を独占したいという思いにつながることがあります。好きな相手が誰か他の異性と楽しそうに話しているのを見て嫉妬を覚えるというのは、たぶん誰もが経験しているのではないかと思います。ここで興味深いのは、「嫉妬の感情はなぜか女の人に対して向けられる」ということです。男であれば、自分の彼女に対して「なんでそんな奴と楽しそうに話してるんだ」という思いを持ちますし、女の人であれば「何よ、この女」と、自分の彼氏と楽しそうに話している女の人に対して思うのです。不思議だと思いませんか?

 嫉妬というのは他愛のない誤解に基づくのですが、ある条件の下でそういうことが二度三度続くと習慣性を帯びていきます。すなわち嫉妬が妄想に結びついていくのですが、その条件というのは「何かしら不満を感じている場合」のことです。恋愛関係に何も不満がなければ、おそらく嫉妬という感情も起こらないものと思います。
 ところが、常々何かしら不満を感じている場合、それは嫉妬の炎を燃やす酸素の役割を果たします。確証はありませんが、もしかしたら脳の中でドーパミンのような物質が分泌されているのかもしれません。
 そのように考えると、嫉妬が重なるとその感情の激しさが次第にエスカレートしていくというのも頷けるような気がします。なぜならドーパミンは快をもたらす物質なので、習慣性があったり、より強い刺激を求めるようになるという可能性も否定できないからです。
 暴力や虐待が快楽をもたらすということに異論のある方はいらっしゃらないと思いますので、嫉妬がDVに結びつきやすいということもご理解いただけるものと思います。
 こうして嫉妬という感情がDVという行動にまで発展してしまうと、その人にとっての最大の目的はDVを継続することになってしまいます。もともとあった「何かしらの不満」が解消されない限り、嫉妬や攻撃衝動によってそれを紛らわせるということが続きます。問題は、その「何かしらの不満」が本人の人格の未成熟(相手の気持ちを理解し、思いやることが出来ない。あるいは相手を支配したがる。)によるものである場合、それがもたらす妄想は合理性・整合性を欠き、訂正を受け入れなくなる(他人の話を聞こうとしない)という状態に陥ります。そうなってしまうと、相手を虐待すること、虐待する自分と虐待の対象としての相手という関係を維持することが最大の目的になってしまうのではないかと思っています。
 したがって、DVの加害者が時折見せる見せかけの「優しさ」は、その関係を維持するための演技にほかなりません。相手に逃げられては元も子もなくなるからです。

 今回のテーマはかなり大きいので、本文もそれだけ長くなってしまいました。
そこで、2回に分けることにし、次回は「被害妄想」と「強迫観念」について考察したうえで、負の感情はなぜ連鎖するのかについても考えてみたいと思います。
by t_am | 2015-03-07 19:45 | 心の働き