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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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面白いブログを見つけました。

(Chikirinの日記 2015-01-10 通勤手当なんて廃止すべき)
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/

 首都圏で働く人の多くが通勤に1時間半とか2時間とかの時間を費やしているのは無駄だし混み方も尋常じゃない、ということでそれらの問題を解決するためには、まず通勤手当の廃止から始めたらいいんじゃないかという提案です。
 このブログの筆者である Chikirin氏によれば、「通勤ラッシュをなんとかする」っていう方向で、みんなが考えるべきなんじゃないの? ということでこの記事を書かれたようです。
 Chikirin氏はこうも書いています。

大事なことは、
・問題を問題と認識し、
・問題を解決するためにはなにをすればいいのか
という方向で思考することです。
 
 そうですね。私もその通りだと思います。
 そこで、Chikirin氏 の主張についてもう一度読みかえしてみました。
 Chikiri氏が指摘する問題は「通勤ラッシュをなんとかする」ということと「長すぎる通勤時間を短くして、会社に拘束される時間を短くできないか」という2つです。

 最初の問題である「通勤ラッシュをなんとかする」ということについては、会社の所在地が変わるか、出勤時刻を大幅に変更しなければ、社員がどこに住もうが通勤ラッシュはなくなりません。通勤ラッシュが起こる理由は、長時間電車やバスに乗る人が多いからではなく、大勢の人が同じ時間帯に同じ電車やバスに乗るからです。したがって、通勤手当を廃止して、社員が会社の近くに住むよう促しても徒歩通勤でもしない限り通勤ラッシュはなくなりません。

 せっかくChikiri氏が問題提起しているので、私なりに答えを考えてみたいと思います。
まず、「通勤ラッシュをなんとかできないか」という問題に対して、比較的実現可能だと思われるのは、時差通勤・時差通学をさらに広めるということだと思います。つまり、電車やバスを利用する通勤通学客の総数は同じでも、交通機関を利用する時間帯が分散すればそれだけ通勤ラッシュが緩和されるということです。
 その他の案として、土日祝日を営業日とし、その分平日に休むというやり方もあると思います。ただし、この案には心理的な抵抗も強いことと思います。それらを克服するためには発想を転換するしかありません。すなわち、官庁を筆頭に年中無休とし交代で休みを取るというものです。労働法では一斉休日一斉休憩が原則ですが、年中無休の方が設備の稼働率は高くなるわけですから経営側にも受け入れられやすいのではないかと思います。また、住民票の申請や病院で診察してもらうことが土日祝日でも可能になるわけですから、労働者側にとってもメリットは大きいといえます。
 
 もうひとつの問題である「通勤時間を短縮する」については、企業が郊外へ移転するというのが即効性のある解決策であると思います。
 Chikiri氏の提案は「通勤手当を廃止する」ということですが、単に通勤手当をカットするのであれば、労働者の不平不満がたかまるだけでなく、可処分所得が減少することになるので消費支出がそれだけ減るという日本経済にとってマイナス効果を及ぼします。Chikiri氏は「通勤手当の2万円を給与として払えば」とさらっと書いていますが、現実はそんなに単純ではありません。同じ仕事をしていて同じ給料の人が2人いて、Aさんは通勤手当が2万円、Bさんは通勤手当が1万円というケース(人によって通勤手当の額が違う)がほとんどのはずです。それをどうやって吸収したらいいのでしょうか? 

 つまり、通勤手当を廃止するというのは一見合理的に見えて、実は新たな問題を引き越しかねない方法なのです。
 
 自分が引越をした、あるいは会社が移転したという理由で通勤手当が変更になっても文句をいう人は一人もいません。ゆえに通勤時間を短縮するというのであれば、会社を移転するというのが最も現実的かつ可能性の高い方法だといえるでしょう。首都圏に住む人で都心に通勤するという人はホワイトカラーがほとんどでしょう。であるならば、都心の手前にサテライトオフィスを設け、そこに通勤するという方法も考えられます。
 サテライトオフィスだと社内のコミュニケーションが図れないのではないかと思うかもしれませんが、現代の通信環境は昔とは比べものになりません。既にSkypeなど無料で使えるテレビ会議も登場しています。家賃の高い都心にオフィスを構えて従業員に通勤手当を支払うよりは、23区の外側にサテライトオフィスを設けた方が、はるかにコストを節約できるはずです。

 本来ならば、通勤は自己解決するというのが当然でしょう。つまり、社員がどこに住もうがどのような手段で通勤しようが会社は関与しない、したがって通勤手当を支給することもしない、というものです。
 しかしながら、日本の企業で、諸手当をついている給与体系が多いのは、そうすることによって基本給を低く抑えられるメリットがあるからです。具体的にいうと、基本給が低ければ、賞与や退職金もそれだけ低く抑えることができます。逆に、基本給が充分に高ければ通勤手当などの余計な手当は一切つける必要はなくなるわけです。

 この問題について考えていくと、雇用形態を「ジョブ型」(労働者が提供する職務をあらかじめ労働契約として定めてしまう、同一労働同一賃金制)にするのかそれとも「メンバシップ制」(包括的労働契約で終身雇用制)がいいのかというところに結びついていきます。それは大きな問題なので、別な機会に申し上げることにしたいと思います。
by t_am | 2015-01-12 13:48 | その他
 自分の考えを整理するために、思っていることを文字にするというのはとても大事なことです。脳というのは、曖昧な情報を扱うのに長けているので、私たちは曖昧な情報であってもそれ以上突き詰めるということに気づかない場合も多々あります。まして、日本語の場合主語がなくても通用しますし、二人称がありませんからどうしても曖昧なままになりがちです。ところが言葉にすることで、自分の考えの曖昧さが排除されることになります。

 前回に続き、今回も他の人の文章を読んで、自分の考えを整理することにしたいと思います。今回取り上げるのは、ちょっと前の情報ですが、1月3日(土)付のBLOGOSに、橋下市長のツイートをまとめたものが掲載されていたので、それを取り上げることにします。

(橋下市長のツイートのまとめ)
http://blogos.com/article/102705/

 ここで、橋下市長が書いていることを要約すると、前半部分は「新年早々悪いことが起こると書いている学者がいるが、そう思うんなら少しでもよくするように行動しないのか。政治家行動するが、学者は嫌み充分に指摘するだけ。国民全部が評論家になったら日本は沈没する。」というものです。
橋下市長がここで書いている「学者」というのは内田樹さんのことで、次のブログがきっかけになっているようです。

(2015年の年頭予言)
http://blogos.com/article/102705/

 両方を読み比べて感じるのは、橋下市長という方は教育者に対し、ほとんど憎悪といってもいいくらいの感情を抱いているのだということです。先ほどの橋下市長のツイートに似た主張に「文句ばっかり言ってないで、対案を出せ。」というものがあります。最初にこれを言い始めたのは小泉純一郎元総理だったでしょうか。
 「たしかにそうだよな。」と思わせる力のある語法なのですが、この意味するものは、「対案を持たない者は意見を言うな。」ということです。つまり相手の反論を封じ込めるレトリックなのですね。

 橋下市長はさらっと書いていますが、政治家というのは有権者が持ち得ない強力な権限を持っています。権限が大きいということは失政や悪政による被害もまた大きくなるということです。ところが、失政や悪政の張本人である政治家が責任をとることはまずありません。せいぜい選挙で落とされて職を失うくらいです。それでも首長の場合は退職金が支給されるわけですし、国会議員の場合は在職10年以上であれば年金が支給されることになります。民間企業ならば、会社に損害を与えた社員は最悪の場合懲戒解雇となり、退職金も貰えないことになります。政治家の失敗は損害の桁が違うと思うのですが、「民間ではあり得ない」ことが、ここでは行われているわけです。橋下市長も、この「民間ではあり得ない」という語法がお好きなようですが、「気に入らなければ次の選挙で落とせばいい」ともおっしゃっているように、ご自分がそれを実践しているというのは皮肉なことだと思います。

 このように、政治家は自分の失敗に対し責任を取ることはない(例外は革命が起きたとき)にもかかわらず、強力な権限を与えられるわけです。万一その政策が失敗したときの被害は国民が被ることになります。見方によっては、その政治家を選んだ有権者が責任をとるといってもよいと思います。ずいぶん理不尽な話ですね。
 そこで、民主主義制度においては、政治家は批判に晒されることに対して文句を言えないということになっています。批判に対し反論する権利はもちろんあるのですが、批判を封じ込めるということは許されません。それが可能なのは王制です。

 もっとも、最近はマスコミも政権に対する批判を遠慮するという風潮が目立ってきています。民放や新聞社は営利企業ですが、公共の財産である電波を使うことが認められていたり、税制上の優遇措置を受けているのは、マスコミの果たす役割が民主主義には不可欠だからです。これは受信料を徴収するNHKでも同じことです。国民から平等に受信料を取っておきながら、政権に都合のいい放送しかしないというのでは詐欺みたいなものであるといわれても仕方ないでしょう。政権の広報機関となるのであれば、特権を返上してからにしてもらいたいと思うのは私だけでしょうか?

 話が逸れてしまいましたが、このような観点から橋下市長の言動を眺めると、あまり民主的とはいえない姿勢が目立つように思えます。
 
 たとえば、さきほどのツイートの中には、「言うだけの面々が偉そうに」とあるように、自分の感情を持ち込んでいます。これは読む人に伝染する効果のある書き方ですから、批判されている相手は(自分が反論できない場所で)どんどん悪者になっていきます。
 冒頭に申し上げたように、教育者に対する橋下市長の憎しみは、同じような思いを抱いている人たちの共鳴を引き起こします。その対象は、一般大衆よりもちょっと恵まれていて、しかもちょっと偉そうに見える人たち(たとえば教師や公務員、市バスの運転手、文楽、学者など)を既得権益にしがみつく悪者と規定しては敵に仕立て上げ、容赦ない批判を浴びせることでそれに同調する人たちを自分の味方につけるというのが橋下市長の一貫したスタイルです。
 そのうえで、改革によってそういう悪を正すのだという論理を展開するのですが、これは「改革=善」であるという私たちの思い込みを利用したレトリックに過ぎません。

 何か問題があるから改革するのだというのは、その通りだと私も思います。けれども、人間は誰でも長所と短所があるように、人間がやること・つくり出したものにも必ず長所と短所があります。ところが、改革をしたがる人たちというのは、現行の制度の短所を並べ立てますが、長所を指摘することはまずありません。同様に改革案の長所を強調しますが短所について触れることはほとんどありません。
 たとえば教育改革や税制価格はしょっちゅう行われてきましたが、その効果が上がっているとはとてもいえないはずです。効果が上がっているのであれば、改革がそれ以上行われることはないからであって。しょっちゅう改革が行われるということは、直近の改革が効果なかったということの証明になると思うのですが、いかがでしょうか?

 橋下市長が行った改革がどのような成果をあげているのか、わたしには詳しいことはわかりません。伝わってくるのは、地下鉄の売店の営業をコンビニに委託したことや、公募によって任命された区長や校長の中に問題を起こして更迭された人がいるということ、あとは大阪市の教員志望者が激減していること、さらには多忙な上に待遇も悪化しているということで教頭のなり手がいないというニュースくらいでしょうか。

市長と教育委員の協議(第3回) 平成26年8月12日
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000278/278101/kyougigaiyou0812.pdf


 これまでも改革の好きな政治家はたくさん登場しましたが、不思議なことに警察改革と宗教法人に対する課税を打ち出した政治家は一人もいないというのが不思議です。自浄作用が働かず警察の不祥事が止まないというのであれば、政治家が改革に乗り出す以外にないのではないかと思うのですが、そのあたりどのように考えているのか橋下市長の声を聞いてみたいような気もします。
by t_am | 2015-01-11 14:30 | その他
 Facebookで、ときどきBLOGOSの紹介が表示されることがあり、先日は下記のブログが掲載されていたので読みに行ってきました。

「ゲスの中のゲス」
http://blogos.com/article/94707/

 リンクを辿るのが面倒だという人のために概略を書いておくと、父親を亡くした芸能人が、葬式を済ませたばかりの母親の所に週刊誌が取材に来たといって怒っているというニュースをに対する、フリーランスのアナウンサーの控えめな反論です。
 ごく大雑把に書くと、趣旨は以下のとおりです。

(1)そうやって怒ってるあんただって、自分の家族の話をネタにしてたでしょ。
   (だから取材に行ったんだよ。)
(2)視聴者が知りたがってるから、悪いと思いつつやってるんだ。

 ここで面白かったのは、この筆者にとって世の中の人は視聴者(自局のテレビ番組を見てくれる人)以外に存在しないと思っているということです。王監督の奥さんが亡くなったときにインタビューに行ったエピソードが書かれていますが、行く前にディレクターから、「辛いのは分かるけどな、そもそも俺らテレビやマスコミなんて、世間の鏡でしかないんだぞ?」と言われたそうです。
 このディレクター氏は世間といってますが、要するに、「奥さんが亡くなったことについての王監督の声を聞きたがっている人」がこのディレクター氏にとって世間の人なんですね。それ以外の人は眼中にないわけです。
 そういうゴシップに興味のない人がいるということは、理屈では理解しているのでしょうが、自分の顧客だとは思っていないことがわかります。
 一人の例外もなく万人に受け入れられる番組などあり得ないがゆえに、より多くの人の興味を引きそうな話題を求めるというのは、番組制作のあり方として正しいと思います。問題は、自分が視聴者だと思っている人が実際にどれだけいるのかという検証を、おそらくこの人たちはしていないというところにあります。その結果がテレビ離れであり、民放各局にとっては広告料収入の減収という形で現れているといってもよいと思います。テレビ離れについては、ゲーム機やスマホの普及が原因であるという指摘もあることでしょうが、要するにテレビ番組がつまらなくなってきている(スマホやゲームの方が面白い)ということに違いはありません。

 せっかくのアナウンサー氏の意見ですが、こういう意識でいる以上テレビの凋落は止まらないのだろうなと思った記事でした。
by t_am | 2015-01-04 17:55 | その他