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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 6月の終わりから7月の初めにかけて蛍が飛び交う時期となります。新潟市では旧巻町にあるじょんのび館が蛍の名所として有名ですが、隣町の岩室温泉街を流れる岩室払川の上流にある冬妻湧水も冬妻(ひよつま)ほたるの名所として知られています。
 岩室温泉街から岩室払川の上流に向かって林道に入り、そのまましばらく歩いて行くと、右手に石碑が二つ並んで建てられており、それを挟むようにして三本の紅しだれ桜(福島県三春町の瀧桜の分枝)が植えられています。

(桜の碑、蛍の碑)
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 この石碑は、岩室温泉ほたるの会が、今年が岩室温泉開湯三百年にあたるためその記念にと、ついこの間建立したばかりのものです。右側にある石碑が桜の碑で、「冬妻紀さんしだれ」と刻まれています。この林道沿いには紅しだれ桜のほかにも、地元の人たちや子供会、ほたるの会員の共同作業により頂上付近までソメイヨシノや八重桜が植樹されているそうですから、春になったらまた来てみたいと思います。

(桜の碑)
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 左側にあるやや背の低い方の石碑は蛍の碑で、女将俳人として知られた鈴木真砂女が岩室温泉に宿泊した際に詠んだ句が刻まれています。

死なうかと ささやかれしは 蛍の夜

恋を得て 蛍は草に 沈みけり

 以下、鈴木真砂女について調べたことを書きます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E7%9C%9F%E7%A0%82%E5%A5%B3

 1906年、千葉県鴨川の老舗旅館の三女として生まれ、恋愛結婚により一女をもうけたものの、夫が賭博の末に蒸発してしまったため、実家に戻ることになりました。
 その後、28歳のときに、旅館を継いでいた姉が急死したために、家業を守るために義兄と再婚しました。姉が残した俳句の遺稿を整理するうちに自らも俳句に興味をもつようになり、大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門。万太郎死後は安住敦に師事したとのことです。
 30歳のときに旅館に宿泊した年下で妻子持ちの海軍士官と恋に落ち、出征する士官を追って出奔するという事件を起こしたのですが、結局実家に戻ることになったそうで、最初の結婚といい、あまり幸福な結婚生活を送ったとはいえないようです。
 50歳のときに、銀座1丁目に「卯波」という小料理屋を開店し、以後は「女将俳人」として生涯を過ごしたとのことで、2003年に95歳で亡くなりました。
 岩室温泉には何度か宿泊したことがあり、冬妻ほたるを気に入っていたそうですから、蛍の群舞にかつての激しくはかない恋を重ね合わせたのでしょう。そんなことを思いながらこの石碑を眺めると、特別な趣が感じられること思います。

(蛍の碑)
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 参考までに、岩室温泉開湯三百年祭のサイトをご紹介します。そこの「冬妻ほたる祭り」(7月7日まで開催)のページにマップが掲載されています。

http://www.iwamuro300.com/
by t_am | 2013-06-30 22:33 | 写真日記
「駟も舌に及ばず」ということわざがあります。駟は四頭立ての馬車の意味で、古代では最も速い乗り物でした。この意味は、いったん口にした言葉は四頭立ての馬車であっても追いつくことはできないのだから、言葉を慎むべきであるというものです。
 現代では、ネットというツールが登場したおかげで誰でも自分の意見を述べることができるようになった反面、舌禍事件も増えています。たいていの場合、本人の無知や不注意(無神経)が原因ですが、なかにはいい年を下大人がなぜ?と思われるような場合もあります。せっかくですから、直近の事例をご紹介します。

(小泉みつお岩手県議会議員、病院にて番号で呼ばれたことに激怒しクレームで炎上) 
http://getnews.jp/archives/356246

(病院にクレームの小泉みつお岩手県議員、ブログ閉鎖も『とくダネ!』で全国デビュー)http://getnews.jp/archives/357938

(被災者や議員へ中傷ツイート連発〜復興庁「支援法」担当)
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1598


 最初の2つは、ブログに本音を書いたところ炎上してしまい、ブログを閉鎖した上で謝罪に追い込まれたという事例であり、3番目はツイッターに本音を書き込んだところ、マスコミに取り上げられ、問題となって最終的に本人が更迭されたというものです。

 小泉議員に関する記事を読んだときは、自分が経営コンサルタントか何かとカン違いしてるんじゃないかと思いました。病院の運営について経営コンサルタントが口を挟むというのはあると思いますが、それでも料金を払わずに帰ってきたということを公にするコンサルタントはいないでしょうね。ましてこの人は県会議員なのですから、病院の事務作業を妨害する(お金を払わずに帰ってきたことで、病院の事務が支払いの督促の電話をする羽目になった)ようなことをしていい立場ではありません。

 復興庁の参事官氏のツイートも、自分が書いた悪口が相手の目に触れるかもしれないということを考えなかったのでしょうか?この人の仕事は、いろいろな人に説明をし、あるいは意見を聞いて政策に反映するというものですから、相手との間に信頼関係を築くことが不可欠であることはおわかりいただけると思います。その点で、原発事故の対応のまずさから、政府や官僚の発言が信用されなくなっているというハンディキャップを抱えて仕事に臨まなければならなかったという辛さは理解しますが、ストレス発散の方法を誤ったと言わざるを得ません。信頼関係を築かなければならない相手の悪口をこっそりツイートしていたわけですから、それが相手の耳に入れば怒りを招くことは必定といえます。いい歳をしてそういうこともわからないのでしょうか。

 思うに、小泉議員も参事官氏も、もしかしたら自分が間違っているかもしれない、と思ったことは一度もないのでしょう。自分の考えが間違っているかもしれないと考えたことがないからこそ、臆面もなくブログやツイッターに投稿できるのだと思います。(こういう書き方をすることは天に向かって唾することになりかねないと自覚して、これを書いています。)
 そうえば、石原慎太郎氏や橋下徹氏も本音を語るタイプの政治家です。橋下市長の方は最近慰安婦発言で苦労しているようですが、それでも根強い人気があるようです。
 同じように本音を話して、人気が出る人と嫌われる人に分かれるのは面白いと思います。一体何が異なるのでしょうか?

 明らかに異なるのは、石原氏と橋下氏の方は、一歩か二歩先の未来のことも語っていますが、小泉議員と参事官氏の方は本音という感情だけを並べているということです。政治の世界で本音というのは、要するに現状の追認ということですから、それだけ聴かされると気が滅入ってしまいます。そこで、現状はこうだけれども目指すべき未来はこうなんだという話法が必要になるわけです。
 本音として感情を述べてもそれが風刺になっていればギャグとして受け取ってもらえますが、お二人ともにそういう配慮をした形跡はみられません。本人はギャグのつもりかもしれませんが、傍から見れば単なる独りよがりや愚痴にしかみえません。

 小泉議員と参事官氏の失敗は、自分の社会的立場をわきまえずに、ブログやツイッターのように誰が見るかわからない場で本音を述べてしまったことです。
 ネットで意見を述べるというのは、一歩間違うと思わぬ恥をさらしてしまうツールであることがわかったと思った矢先に、安倍総理がフェイスブックに不用意な投稿をしてくれました。事実確認をせずに思い込みによる書き込みをしたということなのですが、この人ちょっと軽率なところがあるんじゃないの?と思わせる出来事でした。

 そういえば自民党の高市政調会長が、自らの「福島第1原発事故で死亡者は出ていない」という発言を撤回し謝罪しましたが、毎日新聞によればそのそのいい方は「全てを撤回する。福島県のみなさまが大変つらい思いをされ、怒りを覚えられたなら申し訳なく、おわびする」というものでした。

http://mainichi.jp/select/news/20130619k0000e010254000c.html

 「怒りを覚えられたなら」といういい方からは、「わたしは悪くないんだけどさ」という気持ちが感じられます。気が強いというか、懲りてないというか、よほどプライドの強い人なんだと思います。
by t_am | 2013-06-20 21:45 | その他
 自民党の憲法改正案では、日本国憲法にある「公共の福祉」という言葉がすべて「公益及び公の秩序」といういい方に変わっています。
 私が中学生の頃、公共の福祉について習ったのは、「個人の権利は無制限に主張できるのではなく、大多数の利益に反しないようにしなければならない。」というふうな内容でした。平たくいえば、「一人が我が儘を押し通すとみんなに迷惑がかかるので、慎まなければならない。」というようなことでした。
 そういう教育を受けた者としては、自民党の憲法改正案に書かれている「,公益及び公の秩序に反しない限り」という言い回しはそんなに違和感がないような気がするのですが、実は中学生の頃に教わった公共の福祉の意味が間違っているのです。

 人権という概念の根本にあるのは、人間は生まれながらにして人権を持って居るという考えかたです。それらの権利は憲法以前に存在しているものであって、憲法でそれを追認することで保障することができると考えられます。よく引き合いに出されるアメリカの憲法改正はこの考えかたに沿ったものであり、保障すべき個人の権利がその都度修正条項として追加されるという手続きをとってきました。その点では憲法改正というよりは条項の追加と理解した方が現実に近いと思います。
 日本国憲法における人権の考えかたも同様です。日本も含めた近代国家の考えかたというのは、主権者である国民が集まって国をつくり、その際に、どういう国にするのかという理念と国民の代表者が運営する政府に対し制約を課すというのが憲法であるというものです。
 そういう観点から大日本帝国憲法を見ると、日本という国は天皇という神聖不可侵の存在が統治する国であり、その統治に反しない限りにおいて個人の権利を認めるというものでした。
 日本国憲法では、それまでとは正反対に「すべて国民は、個人として尊重される。」(憲法13条)と規定しています。これは、人間は生まれながらにして人権を持っているという意味です。したがって、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。」(憲法13条)というのは、政府に対してつけている注文なのです。(これは非常に大切なポイントです)
 一方自民党の改正案では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書かれており、政府に対して、「公益や公の秩序を優先してもいいよ。それらと人権が対立した場合は、人権の方を制限する法律をつくってもいいよ。」と許可する条文になっています。
 言葉を一部変えるだけで憲法の性格がまるで変わったものになってしまうわけです。自民党はそのことをもっと丁寧に説明すべきですが、そういう意識は低いようです。まるで訪問販売のセールスマンが契約書の内容をロクに説明しないまま、消費者に対しハンコを押させるようなことをしていると私には思えます。

 ところで、公益や公の秩序と人権が対立する場合とはどういう場合が考えられるでしょう?

 たとえば、東京都ではオリンピックを誘致しようとしていますが、オリンピックのための施設を新たに建設しようとしたときに、建設予定地の地権者が土地の買収に応じない場合、法律によって強制的に立ち退かせることができるようになります。(現在でも土地収用という規定はありますが、公共的性格を有する事業のために欠かすことのできない道路や線路、水路、池、材料置き場にするために、所定の手続きを経てはじめて収用することができるというものでかなり制限がかかっています。)
 あるいは、戦前にあった讒謗律のような法律をつくって、政府や政治家を風刺したり批判することを禁止し、違反した者を逮捕できるようにすることも可能となります。

 私は自民党の改正案に批判的な立場で本稿を書いていますが、少し見方を変えてみましょう。たとえば、現在問題となっているヘイトスピーチやデモはけしからんと思う人が増えて、これをなんとかしなければならないという思いから、法律によって取り締まるべきだと考えるのであれば、それはこの自民党の憲法改正案に近い位置にいるといえるでしょう。
 また、凶悪犯罪が起こったときに、警察にもっと強力な権限を与えて凶悪犯罪の防止を図るという考えかたも根強いと思いますが、それも自民党の改正案に近い位置に立っているといえます。

 これまで何度も書いてきたことですが、人間がつくった制度には必ず長所と短所があります。今は長所の方が目立つ制度であっても、時代が移り変わるにつれて短所の方が目につくなるようになるということは往々にして起こりうると考えるべきです。ここの制度であれば事情にそぐわなくなれば改めればいいと思いますが、憲法のように、国の根幹にかかわるものについては、それを書き換えるということはせずに、時代に追いつく必要がある場合に限って条項を新たに追加していくというやり方をとる方が後々に悔いを残さないのではないかと思います。
by t_am | 2013-06-19 17:25 | その他
 自民党の憲法改正案は、「公共の福祉」という言葉をすべて「公益及び公の秩序」といういい方に置き換えて、人権よりも「公益及び公の秩序」の方が優先するというものになっています。
 これは統治者にとって都合のいい内容です。たとえば、原発をつくろうとしたときに、建設予定地の地権者が反対して土地を売ろうとしない場合、強制的に土地を収用することもできるようになります。また、戦前にあった讒謗律(官吏や為政者に対する風刺や批判を禁じた法律)のような法律をつくっても憲法違反ではなくなります。
 したがって、自民党の憲法改正案が成立すると、もはや今までの日本とは異なる国になってしまうと理解した方がよいと思います。
 それでそういう統治者にとって都合がいい法体系や制度・組織を持った国がどうなったかについて歴史を振り返ると、悉く滅亡するか国力の低下に苦しんでいることがわかります。滅んだ例としては、ナチスドイツ、旧ソ連、大日本帝国などがあり、専制君主国家もその中に入ります。また、滅んではいないものの、国民が貧窮している国としては北朝鮮が思い浮かびます。では中国はどうなのだ? と言われそうですが、中華人民共和国の場合世襲制の皇帝がいないだけで、事実上は共産党王朝といってもよいと思います。体質的にはこれまでの専制君主国家と変わっていないので、いずれいろいろな矛盾が噴出することになるはずです。もっとも中華人民共和国の場合、できてから日が浅いので衰亡するまでまだ百年単位の時間を要するものと思います。

 戦前の日本がそうであったように、統治者に都合のいい体制を維持するには、どうしても軍と秘密警察(戦前日本の場合は特高警察)を通じた統制を強化しなければなりません。自民党では今のところ秘密警察をつくろうという考えは浮上していないようですが、国防軍をつくることは改正案に明記されているので、その点で、自民党の政策は本能的に正しい選択をしているといえます。
 軍の役割が大きくなればなるほど軍事費が突出して増大につながっていきます。けれども軍隊は基本的には浪費するだけで生産しない組織です。一発数億円もするミサイルも一回撃ってしまえばパーになるわけですから、壮大な無駄遣いであるといえます。さらに、ミサイルをきちんと飛ばすためにも普段からメンテナンスを欠かすことはできませんし、そのための費用も必要ですし、技術者も配置する必要があります。
 植民地主義の時代であれば、戦争に勝てば領土が拡張できるという成果がありましたが、現在の国際情勢では国際紛争に勝利してもせいぜい自国の領土の獲得の維持ができるだけです。仮に尖閣諸島で某国と武力衝突が発生し、それに勝利したとしても日本にとって何かプラスがあるわけではありません。どうせ賠償金も取れないでしょうし。また、某国が勝ったとしても、これまでも尖閣諸島周辺で漁をする漁船はいたわけですし、大陸棚の開発やガス田の試掘も行ってきているわけですから、現状が維持されるだけで何かプラスになるというわけではないのです。お金を湯水のように注ぎ込んだ結果が現状維持でした、というのでは会社の経営者であれば株主総会で厳しく追及されるでしょう。国の場合もトップは退陣に追い込まれるのは確実だと思います。
 このように、軍に資金を注ぎ込んでもいったん戦争が起こればすべてが灰燼に帰してしまうわけであり、そのことが皆わかっているので、日米安保条約を堅持して米軍の傘に入っていた方が利口だと思っているのです。

 仮に、自衛隊が国防軍に昇格したとして、軍が肥大すればそれだけ国力は低下していきます。そうかといって軍を弱体化させれば自分の権力が危うくなるわけなので、軍に依存する体質から抜け出すことはできません。それが行き着くところまで行くと国が滅んでしまうわけです。(敗戦か内戦による国の解体)
 そこに至るまでには、多くの国民の命が失われたり、財産が奪われたりすることは歴史が証明しています。私たちの世代には無縁の出来事かもしれませんが、私たちの子や孫の世代には次第に現実のものになっていくことでしょう。

 その一方で、人権を保護しようとする国では、警察があれば治安維持は可能であり、統治のための軍隊は不要となります。具体例を挙げれば、今の日本がそうであり、世界にも稀な治安の良さを誇っています。また、決して治安が良いとはいえませんが、人権国家の代表的な国であるアメリカ(最近はだいぶ怪しくなってきていますが)は建国から既に二百年が経っており、現存する国の中では古い方の国に属します。

 このように国の寿命という観点からは、人権を保護することで活動を賦活化することが可能になり、大きな視野に立てば、その方が国全体のメリットが大きくなることわかります。逆に人権に制限を加えようとする国は、短期的には統治者にとってのメリットはあるでしょうが、長い目でみれば亡国に向けた舵取りをしていることになると思います。

 悪政を選択するのは現在の国民ですが、そのツケを払うのは未来の子孫たちです。
by t_am | 2013-06-19 11:43 | その他