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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 平成25年3月27日、兵庫県小野市(同年2月末人口は50,241人、世帯数18,984世帯)で、生活保護受給者や児童扶養手当の受給者に対してパチンコなどのギャンブルでこれらの手当を浪費することを禁じた条例が可決されました。このことは新聞やテレビで報道されていますから、ご存知の方も多いのではないかと思います。
 この条例の特徴は、さらに、「市民及び地域社会の構成員の責務」として、次の3つの義務を設けているところにあります。

(1)市やその関係期間の調査に積極的に協力する義務。また、指導者の業務に積極的に協力する義務。

(2)保護を必要とする人を見つけたら、市や民生委員に連絡する義務。

(3)受給している手当をパチンコなどのギャンブルや遊興に使っている人を見かけたら市に通報する義務。

「小野市福祉給付適正化条例」より
http://p.tl/DbLm


 こららの「義務」に対して、兵庫県弁護士会は林晃史会長名での反対声明で「受給者に対する差別や偏見を助長し,受給者の市民生活を萎縮させる」と指摘していますが、条例の提案者である蓬莱務市長は、「小野市のような規模の町では当てはまらない議論で」あり、小野市は、「市内各地に昔からの小さなコミュニティが残っており、『監視』ではなく、地域の絆を深める『見守り』社会を目指している」と反論しています。

(兵庫県弁護士会会長の反対声明)
http://p.tl/rz7o

(こんにちは市長です《当たり前のことを当たり前に》)
http://p.tl/HF9Y

 東日本大震災以降、よく耳にするようになった「絆」という言葉ですが、この言葉には離れがたくつなぎとめているものという意味があって、もともとは牛馬などを引っ張るひもの意をあらわす形成文字なのだそうです。いい意味で使われることが多いのですが、その反面、自由を束縛するものという意味もあります。まあ、程度の問題ということなのであって、まったくダメと決めつける必要もありませんし、かといって手放しで賛成するというのもどうかと思います。ここで、蓬莱市長の用いた「絆」という用法は、言葉の持つよいイメージを借りて論理を補強するというものです。「地域の絆を深める『見守り』社会を目指す」というのは上記(2)のように、本来生活保護を必要とする境遇なのにそうではなく生活に窮している人を見つけたら市や民生委員に通報するという点では必要なことであると思います。しかし、(3)がどうして「見守り」になるのか私には理解できません。
 ネットには、この部分について、「そもそも誰が生活保護を受給しているかわからないのに、受給者がパチンコをしているという通報ができるはずがないではないか」という指摘をされる方もおられました。慧眼であると思います。(3)について、蓬莱市長は、あそこは母子家庭(あるいは父子家庭)だから生活保護をもらっているのではないかという憶測に基づいて、周囲の人たちがその人の生活ぶりを「見守る」社会の到来を期待しているのかもしれません。もっとも、そういう行動は金棒引きを量産することにつながり、地域社会を息苦しいものにすると思います。それも地域社会の絆を深めるという意味において間違っているわけではないのですが・・・


 この条例については、兵庫県弁護士会会長による反対声明が指摘する通りの問題点があると私も思います。
すなわち、

(1)生活保護や児童扶養手当は憲法に定める生存権をすべての国民に対し担保するための制度であって、貧乏人に対する施しではない。

(2)受け取った手当をどのように使おうとそれは本人の自由である。

(3)現行法の下で、市民は、犯罪ですら通報義務を負っていないのに、犯罪を犯したわけでもない受給者の生活状況に対して通報義務を課すというのはおかしい。


 報道によれば、小野市のこの条例案に対し、これまでにおよそ二千件もの意見が寄せられ、その六割が賛成意見だったとのことです。
 こう書くと、小野市の市民から二千件もの意見が寄せられたのかと思いがちですが、実際には全国から寄せられた意見が二千件あって、その中のおよそ六割が賛成というものだったということのようです。
 世論調査の結果を読むときは、常にそうですが、なんらかのバイアス(偏り)がかかっているのではないか? という意識を持つことが大切です。この場合、普通の人は自分の意見をわざわざ市に伝えるようなマネはしないということが考えられます。概して、多数派は沈黙し、騒ぎ立てるのは常に少数派です。ですから、わざわざ市に対して意見を述べるというのは、こういう問題に敏感に反応する人が多いのですから、その意見というのは、どちらかといえば極端なものに近いと考えた方がよいと思います。

 この条例の可決に関する報道のうち、批判的なスタンスをとっているのが毎日新聞ですが、同社が配信した記事にツイートした人たちの呟きの内容を見ていると、条例に賛成している人も多いことに気づきます。

(生活保護費:パチンコなど浪費「通報を」 兵庫・小野市で条例成立 「監視日常化」の懸念)毎日新聞 2013年03月28日 東京朝刊より
http://mainichi.jp/select/news/20130328ddm012010068000c.html

 (ツイートの内容を見るには、このサイトの最初の方にあるツイートボタンの右側にある数字をクリックします。)
 
 賛成している人のツイートを読んでいると、昨年の大阪市の文楽協会に対する補助金の支給問題を思い出します。この問題については、橋本市長のやり方を批判する人と擁護する人が真っ二つに分かれて議論していましたが、基本的な構図はとてもよく似ています。

 文楽=既得権益に甘えて自助努力をしていない。ゆえに、税金を原資とする補助金の投入はおかしい。

 一言でいうとこういう構図ができあがっていました。文楽協会という組織に対する批判がいつの間にか文楽という芸能全体の問題にすり替えられてしまったのですが、生活保護
を巡る議論もまったく同じです。一部の不正受給者があたかも全体であるかのように取り上げられる中で、別に不正受給しているわけでもない人たちが肩身の狭い思いをしなければならない状況に追い込まれています。
 税金から生活保護をもらっているのだからパチンコなどに使うなどもってのほかであるという意見ももっともであるかのように聞こえます。しかし、兵庫県弁護士会が指摘しているように、生活保護や児童扶養手当は憲法が定める生存権を担保するために設けられている制度であって貧乏人に対する施しではありません。施しであれば、やるかやらないか、またいくら渡すかについては自分が自由に決めることができます。ところが、生活保護や児童扶養手当はそうではなく、生存権を国民に担保するための制度なのですから、行政がその運用を恣意的に裁量していいというものではありません。
 生活保護法第60条では(生活上の義務)として、「被保護者は、常に、能力に応じて勤労に励み、支出の節約を図り、その他生活の維持、向上に努めなければならない。」という規定がありますが、受給した手当をどのように使うかはその人の自由に委ねるというのが近代社会の考えかたでしょう。それに対して、税金という公金を投入するのだから、その使い途について口を挟むのは当然という考えかたがあります。これは生活保護に限ったことではなく、昨年の文楽に対する補助金の扱いを巡る議論の中でも言われていたことです。大阪市の橋下市長と日本維新の会の議員がこういう立場に立って発言していたことは記憶に新しいところです。
 生活保護の被保護者が、自分が納めた税金をお金をパチンコに使うのは納得できないというのは心情的にわかる気もしますが、制度のあり方をそのような感情論で変更してよいのかというと、そうではないだろうと思います。
 たぶん、それぞれ自分の善意や正義感に基づいて発言しているのでしょうが、広い目で見れば、善意も正義感も感情のひとつにすぎません。これまでの歴史を振り返ると、感情論が世論を支配するとロクなことがありませんでした。にもかかわらず、国民の感情を刺激するというのは、政治家にとって自分の支持者を増やすために極めて効果的な手法であることも事実です。どうも、この手法を濫用する政治家が増えてきているように思えてなりません。
 現在政治の世界で第一線にいる人たちというのは、一部の例外を除けば、50歳代の後半以降の人たちです。その人たちは、どちらかというと老い先短い人たちですから、国民の感情を刺激することによって国の仕組みを変えた結果がどうなるのかを最後まで見届けないうちに墓場に行ってしまう人たちが多いわけです。つまり、笛を吹いて踊らせた人たちは途中で退場してしまい、それに踊らされた若い世代の人たちが最後まで残ってそのツケを支払うということになります。

 小野市の条例は、具体的には、生活保護や児童扶養手当をパチンコなどのギャンブルに使ってはならないというものですが、言い換えると、国民の大多数が不適当だと思えば、個人の権利を制限しても構わないという社会にしましょうというものです。そこで思い出すのは、「欲しがりません。勝つまでは。」という戦前の標語であり、武器をつくるために制定された金属回収令です。お寺の鐘までもが対象になったそうですから、まさに世も末というところまで行き着いたと思います。このように、かつて、個人の権利を制限し、その財産を国が奪うことが正当化された時代がありました。よく考えると、小野市で可決された条例は、戦前の日本社会の再現につながる道であり、同時に、先の戦争で軍人と民間人をあわせて三百万人を超える犠牲者と引き替えに手に入れた戦後の社会を遺棄するものでもあります。しかしながら、そのような動きをみせているのは小野市だけではありませんし、多くの人が賛成する世の中になりつつあるように私には思えます。
by t_am | 2013-03-31 18:56 | その他
 Webでこんな記事を見つけました。

(【高橋昌之のとっておき】無責任体制の根源・教育委員会制度は廃止すべきだ)MSN産経ニュースより
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130320/plc13032018010010-n1.htm

 記事の内容をかいつまんでご説明すると、日本維新の会が教育委員会制度を廃止するための関連法改正案を今国会に提出する方針を固めたことに対し、産経新聞記者の高橋昌之氏が賛成意見を表明しているものです。
 その根拠としては、今の日本の教育には「いじめによる自殺問題、体罰問題、さらには歴史教育問題」(上記記事から引用。以下同じ)などの難問が山積みされており、その中で「『教育の無責任体制』がはびこっている根源は、教育委員会の存在だ」と高橋氏も考えていたからなのだそうです。
 「教育の無責任体制」とは、高橋氏によればこういうことです。(2)に、高橋氏が過去に教育委員会を取材した経験から「教育委員会は委員が単なる名誉職化しており、委員会自体も実質的な議論はせず、事務局の案を追認しているだけでした」という教育委員の無責任ぶりを指摘する記述があり、さらに「仮に都道府県、市町村内で教育に関する重大な問題が生じれば、本来なら教育委員会が責任をとるべきでしょうが、そういうことはまずありません」とも書かれています。そして、「仮に責任をとるといっても、その職を辞する、あるいは解かれるだけの話ですから、別に職業を持っている委員本人にとっては痛くもかゆくもないでしょう。そうした教育委員会に形式上、教育行政の決定権限が与えられているため、首長はそれを「隠れみの」にして責任をとらなくていい、つまり、だれも責任をとらなくてすむシステムになっているのが、日本の教育の現状なのです。」とあり、要するに、何か重大な問題が起こっても誰も責任をとらなくてすむシステムになっていることが「教育の無責任体制」だと言っているわけです。

 教育委員が任命される手続きは、この記事の(3)に書かれてある通りですが、候補者の人選は事務局が行い、首長が承認した上で議会に提案されるのだろうと思います。現に、大阪府では2008年に橋下知事が就任した後に、陰山メソッドで有名な陰山英男氏が大阪府の教育委員に任命されており、この人事には当時の橋下知事の意向が強く働いていたことが陰山氏によるツイートからもわかります。

(陰山英男氏ついに大激怒!教育委員長は辞めます)
http://togetter.com/li/298816


 このように、教育委員の人事には首長の意向が反映されるのですから、首長が委員の人選に責任を持てばいいだけのことであり、それを怠って事務局が上申してきた人事案をそのまま議会に提案するから、高橋氏が指摘するような「単なる名誉職」くらいの意識しかない教育委員ができあがるのでしょう。つまり、現行の制度でも、責任感のある教育委員を選出することは可能なはずですし、言い換えれば、もともとたいした使命感のない人を委員として任命するから責任感の希薄な教育委員会になってしまうのだと私は思うのですが、高橋氏にとっては教育委員会という存在がそれだけで無責任体制を生み出しているように思えるのでしょう。
 それならば、教育委員と同じような手続きを経て任命される日銀総裁と副総裁も責任感の希薄な人たちということになるのでしょうか? いくらなんでもそんなことはないはずです。つまり、教育委員の責任感が希薄だというのは、そのような人物しか任命しない地方自治体の事務局と首長にこそ問題があると考えるべきでしょう。
 
 既に述べたように、大阪府の教育委員になってくれるよう陰山氏に頼み込んだのは当時の橋下知事でしたが、日本維新の会では教育委員会を廃止しようという法律の改正案を提出する方針を固めたとのことです。日本維新の会の政治家たちにとっては、首長に楯突いてくる教育委員が目障りでしょうがないのだと思います。幸いなことに、教育委員の大半は無能無気力な人たちだと思われていますから、これを廃止して首長が直接教育に責任を負うという体制に改革するのだといえば聞こえがいいと計算しているものと思われます。

 今回の高橋氏の記事がどのような思惑で書かれたものなのかはわかりませんが、その主張をみるとどうも的外れであるように私には思われます。記事の(3)には、教育委員会を廃止する根拠として、さらに、「教育委員会は日本国憲法などと同様、戦後、米国から押しつけられた制度という側面があります。その米国が掲げた大義名分も、公選制の廃止や教育委員会の形骸化によって、今や意味をなしていません。」と書かれています。
 アメリカによる押し付けというのは、憲法を改正しようと主張する人たちの論拠となっているのはご存知の通りです。押しつけだから悪いと決めつけるのはちょっと短絡的(はっきりいうとバカ)だと申し上げざるを得ません。卑近な喩えで恐縮ですが、親が決めた結婚相手でも夫婦仲がよかった例はありますし、恋愛結婚した間柄でも夫婦仲が冷めてしまって離婚したという例もいくらでもあります。つまり、押し付けという事実とその後の経緯の間には明確な因果関係は存在しないのですが。これは憲法も同様であるように教育委員会制度にもいえることです。まして、教育委員会制度が形骸化したというのは、行政サイドの役人と首長がそのような人事を繰り返してきたのが原因ですが、高橋氏はそのことにはひと言も触れていません。こういうのを責任転嫁といい、問題の所在をわからなくする悪質なやり方であるといってよいと思います。
 また、高橋氏の首長はあと二つあって、「文部科学省によると、教育行政の決定権限を『教育委員会』という行政から独立した機関に与えているのは、米国と日本だけ」であり、「その米国も、州や地方学区ごとの教育委員会のうち95%は公選制がとられており、日本のように首長が任命しているのはわずか5%にすぎません。それを考えても日本の教育委員会制度は、国際的に奇妙な制度なのです」というのが一番目です。国際的に数が少ないからダメというのは理屈になっていないというのはおわかりいただけるでしょうか。それをいうなら日本の皇室は、王室として世界最古の家系を辿ることができる国際的にも珍しい存在ですが、だからといって奇異な目で見られるということはなく、そのことでかえって尊敬を受けているという側面は否定できません。(それ以外にも皇族の方々の人間性も大きいと思いますが。)
 残る二番目の根拠は、「有権者から選挙で選ばれている首長が、教育行政についても権限を持ち、責任をとるようにすべきだ」というものです。これなどは、民意を受けて当選した首長のやることは絶対に正しいという幻想を振りまいているのに等しい意見ですからとうてい看過することはできません。というよりも、マスコミに籍を置く人間の言葉とも思えません。
 人間は誰でも間違いを犯す生き物なので、投票によって選ばれた首長や政治家であっても任期が4年ないし6年と限られているのです。その理由は、有権者による投票が間違った選択であったとしても4年間ないしは6年間我慢すれば、その後は罷免することができるという安全装置を設けているわけです。そうはいっても、首長が好き勝手を始めては困るので、監視するために議会を置き、さらにはマスコミという利害関係がないはずの機関によっても監視するようにしているわけです。
 民主主義というのは、独裁者による被害をいかにしてくい止めるかという観点から設けられた制度ですから、権力者に与える権限をできるだけ制限しようとしています。ところが、「決められない政治」といういい方をして政治家に権力を集中させようとする動きが見られ、マスコミもそれに同調するという現象が起こっています。今回取り上げた高橋昌之氏の記事がまさにそうであり、マスコミが政治家のお先棒を担ぐようになったときに何が起こったかは、昭和の時代の歴史を見れば明らかです。
 であるがゆえに、このようなマスコミの動きには異論を申し立てておかなければならないと思うわけです。
by t_am | 2013-03-21 00:41 | その他
 よく「責任をとる」とか「任命責任」とか、あるいは「責任者出てこい」といういい方をします。あるいは「無責任」という言葉もよく聞く言葉です。
 3月18日に全日本柔道連盟の理事会が開催されましたが、大方の予想に反し、現施行部全員の留任が決まったそうです。マスコミ各紙が、誰も責任をとらないと批判しているこの問題、責任というものを考える上で格好の材料となりそうです。

 ところで、「責任」とはどういう意味なのでしょう? 大辞林によれば次の3つに大別しています。

(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。
(3)法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。


 まず、(1)について、自分が任務を引き受けると同時に一定の権限が付与されるのが普通です。権限の中には、任務を遂行する権限(たとえば医療従事者には、これはできるけれども、これはしてはならないと定められている場合があります)や提案する権限もあれば、他人に指示命令する権限や決定する権限もあります。権限の中でもっとも大きななのが決定権であり、通常は組織のリーダーやトップ(行政組織では首長や首相)のみが決定権を持っていますが、組織が大きくなると何でも一人で決めるのは無理になっていきますから、その一部を限定して部下に委譲することがあって、これを権限委譲と呼んでいます。たとえば、大臣の決定権は、首相から大臣として任命されたと同時に権限委譲されたものであるといってよいように思います。(首相が大臣を任命しなければ自分がその業務を行わなければならないわけです。)

 絶対主義とは、一人の人間に強大な権限を集中させるものですが、その弊害が極めて大きいものであったという反省から、近代社会は三権分立によって権限を分散させることにしました。とはいうものの、それでも行政府の権力は強大であるために、行政府には予算の立案権と執行権を持たせ、決定権は議会が持つという形にしています。これは、言い換えれば議会が決定しなければ予算の執行もできないということを意味しています。たとえば、衆議院議員選挙が行われた時期の問題もあって、安倍内閣が作成した平成25年度予算案は、通年よりも遅れた1月末に提出されました。国会の審議を経て議決されるわけですが、日程的に間に合いそうもないために、安倍内閣では当面必要な最低限の項目(職員の人件費など)だけに絞り込んだ補正予算案を提出しようとしています。、

 一般に、大きな責任を負う人はそれだけ高い報酬を得ることが約束されています。会社でいえば、社長が一番高い給料(役員報酬)をもらい、次に副社長・専務・常務・役員・部長・課長・係長と続き、新入社員の給料は一番低くなっています。(パート・アルバイトはさらに低い。)それは責任が大きければその結果も大きいからだと考えることができます。
 このようにして考えてみると、責任には権限と報酬とがセットになっているということがわかります。
 なお、年俸制というのは、あらかじめ話し合って決めた基準以上の成果をあげることを前提に(概して高い)報酬を支払うという雇用形態をいいます。プロ野球やJリーグの選手に見られる雇用形態です。基準に満たない成果しかあげられず、今後も達成できる見込みがない(責任を果たすことができない)場合、雇用契約は打ち切られても仕方ないということになります。

 次に、(2)についてですが、ここでは「自分がかかわった事柄や行為から生じた結果」があまり芳しいものではなかった場合であると解釈できます。たとえば、「責任を全うする」というのは後始末をきちんと行うという意味ですし、「無責任」というのは知らん顔をするということです。また、「責任をとる」というのは義務を背負うとか償いをするという意味を含んでいて、たとえば、つきあっている女の子が妊娠してしまった場合に「責任をとって結婚する」といういい方をする場合があって、これは、その女性と結婚することで生まれてくる子どもを養育する義務を負うということを意味しています。(ほかに、「責任をとって辞職する」という場合もありますが、これについては別稿で考えたいと思います。)
 また「責任者出てこい」といういい方をする場合、「責任者」とはその任務を遂行する集団やグループの中でもっとも大きな権限(決定権)を持っている人を指すと考えられます。つまり、「責任者出てこい」というのは、決定権を持つ者に対し、事情説明と謝罪を要求する意図が込められた言葉だと解釈できるのです。
 「任命責任」というのは、権限委譲された人が何か問題を起こしたときに、権限委譲をした人が連帯責任を負うという意味を持つ言葉です。ただし、任命責任が問われるケースというのはある程度限定的であって、たとえば権限委譲された人が不適格であると非難されている場合に限られるように思われます。

 なお、(3)は法の定めによって問われるものですから、ここでは考慮の対象外とします。

 さて、冒頭に申し上げた全柔連の理事会では上村春樹会長が辞任するのかどうかということが焦点となっていました。というのは、女子選手に対するパワハラ指導が表面化し、監督が責任をとって辞任した事件をきっかけに、指導者によるパワハラは柔道界に蔓延る体質ではないかという指摘がなされ、そのような状態を招いた全柔連の執行部の責任が問われるのではないかと思われていたからです。ここでいう責任を問うというのは、上記の(2)の意味であることはおわかりいただけるでしょう。執行部として全柔連を指導する立場にありながら、結果としてパワハラ指導が起きてしまっただけでなく、問題が発覚し多後の対応も杜撰であったとみなされていたわけです。
 したがって、組織の指導者としての適格性という観点からは、全柔連の執行部は不合格とみなされても仕方ないと思われていたのですが、結果は執行部全員が留任。理事会後の記者会見で上村会長は「今やるべきは第三者委員会の提言を実現していくのがわれわれの仕事だ」と述べたそうです。今までやろうとしてこなかった人たちから、「第三者委員会の提言を実現していくのが我々の仕事だ」といわれてもねえ。信用しろいう方が無理というものです。
 こうしてみると、(2)の「責任をとる」というのは、自らとろうとすることをいうものであり、第三者から強制されて「責任をとらされる」というのは、懲罰にすぎません。

 ときどき耳にするのは、「私が辞めても事態がよくなるわけではありません。それよりも、今の事態を収拾することが私の責任であると考えます。」といういい方です。こういういい方はとても説得力があるように聞こえますが、かなり限定された局面でのみ有効な理屈だと私には思われます。それはどんな場合かというと、事件や事故が進行中であり、現時点で責任者を交代させたり処罰することは得策ではないと思われる場合(たとえば、船が座礁して沈みかけている場合や工場が大規模な火災を起こしている場合など)に限られると思うのです。
 全柔連の場合はそうではありませんから、これだけ大きな事件を起こしてしまった以上、本来であれば責任者は自らを律するということが行われて当然だったのではないかと思います。

 ところが、本来責任をとるべき立場の人が責任をとらないというのは今回の全柔連が初めてではありません。これまでも何度も同じようなことが繰り返されてきました。たとえば薬害エイズ事件は厚生省の責任ですが、当時の官僚で誰か責任をとって辞任したという人がいるのでしょうか? あるいは、旧社会保険庁の管轄になりますが、年金記録が消えたことで誰か責任をとった官僚がいるのでしょうか? もっというならば、年金の原資を他の用途に流用できる(リゾート法案によって年金資金がグリーンピア建設に費やされ、結果として不採算事業となった挙げ句に二束三文で叩き売る羽目になった)という法律に賛成した政治家で誰か責任をとった人がいるのでしょうか? 
 残念なことですが、日本には、大きな事件を起こしたり、国に大きな損害を与えた場合でも、公的な立場にいる人は誰も責任をとらないという習慣があるといってもよいと思います。このことは何も最近始まったことではありません。太平洋戦争や日露戦争のときでも、大勢の兵士を殺す作戦を立案した参謀やこれを取り上げて実行した将官たちも責任をとるということはしていませんし、責任を追及されるということもありませんでした。(ただし、神風特攻隊を創設した大西瀧治郎中将は、敗戦の翌日16日に割腹自殺を遂げたそうです。これは、現代という視点でものをいわせてもらうのですが、もう少し違う責任のとり方があったのではないかと思いますし、そういう考えかたをしていればあのような悲惨な戦争にはならなかったのではないかと思います。これは、歴史に「たられば」を持ち込むつもりではなく、今後のことをいっているのです。)
 
 話が脱線してしまいましたが、権限のある人が本来とるべき責任をとろうとしない組織はいずれ崩壊する運命を免れることはできないと思います。というのは、その組織が責任を果たす能力のない人に率いられているからです。
 何か問題が起こったときに、自ら責任をとろうとする人は、よほど運がよくない限り組織のトップの地位に就くことはできないのかもしれません。(その前に、どこかで挫折するから。)そうだとすると、責任をとろうとしない人ほど出世できるということになります。

 今回のWBCは日本が3位に終わるという残念な結果になってしまいました。代表チームの通称を侍ジャパンといっていたようですが、能力もなくかといって責任をとろうともしないまま握った権限を離さない人が横行している今の日本において、このようなチーム名がつけられるというのは何とも皮肉なことだと思います。(断っておきますが、本稿はWBCの日本チームについて書いたものではありません。)
by t_am | 2013-03-20 18:37 | その他
 3月1日から4月3日まで、新潟県村上市で、村上町屋商人(あきんど)会の主催で、「町屋の人形さま巡り」というイベントが開かれています。テレビや雑誌でも紹介されているので、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。もともと村上は北前船が寄港した城下町でしたから、裕福な商家も多く、それらの家々に代々受け継がれてきた雛人形や五月人形が、この時期いっせいに一般公開されるというイベントがこの「人形さま巡り」です。


(享保雛と御所人形)
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(古今雛) 比較的時代が新しいせいか享保雛に比べ写実的な顔立ちになっています。
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(歴史の古い町屋では人形が次第に増えていきます)
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(打ち掛けと人形をいっしょに飾っているお宅もあります)
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(御殿飾り その1)段飾りとは異なる飾り方があることを今回初めて知りました
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 人形と建物のスケール比が合わせるようにつくられています。(部屋の右側に見えるのは屏風です。)

(御殿飾り その2)
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(ちょっと変わった組み合わせ)中央に翁と媼がいます
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(貝合わせ)貝と人形は現代のものですが、顔立ちがきれいですね
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(竹田人形と加藤清正人形)人形が見得を切っているのが面白い
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(大浜人形)瓦職人が焼き物でつくった人形
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(押し絵)布の切れ端でつくった絵です。立体感があるのが特徴です
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(陶器の人形)
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(市松人形と聖徳太子)熊倉聖祥 作
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(漆を塗り重ねてつくった像と盆)とても手間のかかるつくりかただそうです
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 また、同じ時期に村上市郷土資料館(おしゃぎり会館)では「城下町村上に伝わる雛人形展」も開催されています。町屋が商家であるのに比べ、こちらの方は旧村上藩主の家に伝わる雛人形や家老職の家に伝わる雛人形などが展示されています。さらに、皇太子妃の実家が村上藩士だったことから、皇太子のご成婚雛などの皇室にゆかりのある品々も展示されています。


(村上藩主内藤家の雛人形)
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(村上藩家老の家の雛人形)
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(雛人形といっしょに飾る道具)
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 江戸時代は、こういう精巧な工芸品をつくる技術が発達した時代でもありました。


(皇太子殿下のご成婚雛)
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(堆朱の技法でつくられた二斗杯)
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 城下町といっても五万石という比較的小さな規模のまちですから、公開している町屋(店舗)のある地域も固まっており、1日かけて歩けば74軒ある展示会場のすべてをまわることも不可能ではないと思います。おしゃぎり会館以外は無料で公開されており、きちんと挨拶して入って行けば、どの店でも快く迎えてくれ、質問にも気軽に答えてくれます。また、中にはお茶を振る舞って下さるお店もあり、歩き疲れが癒される思いがします。
 このイベントが始まった頃は、まさか江戸時代から伝わる人形であると知らずに飾っていた家も多く、観に来た人形に詳しい人から教わって初めて知ったというお話しを何件かの家で伺いました。この催しも今年で14回目となるそうですから、お店によっては専門のガイドさん顔負けというくらい説明の上手な方もいらっしゃいます。
 雛人形といえば、七段飾りくらいしか知らなかったのですが、今回村上へ行って初めて御殿飾り雛やつるし雛というものもあることを知りました。さらに、陶器の雛人形というのも初めて見ました。(これらの写真は後で掲載しておきます。)それというのも、これだけ多くの人形をまとめて観る機会があったからなのだと思います。
 なお、古い人形が多く、特に着物などは修繕がきかないこともあって、フラッシュ撮影はお断りとしているところもあります。写真を撮るときは店の人に断ってから撮るようにしましょう。


(参考:ひな人形の種類))
http://www.town.nakayama.yamagata.jp/gyosei/bunka/bunkahinaten.htm
by t_am | 2013-03-06 09:23 | 写真日記