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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 河本某の母親の生活保護の受給について、自民党の片山さつきが国会で追及し、厚生労働大臣である小宮山洋子が答弁していました。
 5月26日の片山さつきのブログには、「政府は消費税増税や年金額切り下げなど、国民に痛みを強いる改革を進めており、生活保護制度に不公平感が高まりつつあるために、生活保護費も聖域化しないと判断。自民党は10パーセントの引き下げを求めている。小宮山大臣は、夜、生活保護受給者の親族が扶養できないなら、扶養が困難な理由の証明責任を親族側に課す法改正、これは私が会見で18日にも主張したことの一つですが、検討を表明しました!」と書かれています。
 また、小宮山洋子厚生労働大臣は25日、衆議院の社会保障と税の一体改革特別委員会で「生活保護費の支給水準引き下げを検討する」考えを表明し、さらに、生活保護の受給開始後、親族が扶養できると判明した場合は積極的に返還を求める意向であることも述べました。

 生活保護という制度ができたのは戦後(1946年)のことです。戦後の混乱期に、生活の糧を得ることができない生活困窮世帯を救済する目的でつくられたのですが、その対象は主に都市労働者であったと思われます。
 農家の次男三男が都会に出て行き労働者となるというのは江戸時代からあった現象ですが、日本が近代化するにあたり、農村から都会への人口移動が政策的に進められるようになりました。それは、言い換えれば大家族を解体させ、核家族をつくっていくというものでした。大家族制のもとでは歳をとれば家族に面倒をみてもらうことができますが、核家族ではそうもいきません。そこで、老後の生活を支援するという目的で1960年に年金制度が設けられました。
 経済不況と少子高齢化により、年金財政が危うくなっており、将来自分が年金をもらえるのだろうかと不安に思っている方も多いと思います。

 核家族化という政策を進めてきたのは自民党です。その場合のセーフティネットとして生活保護が設けられているのですが、財政難を理由に「自民党は10パーセントの引き下げを求めている」というのはあまりにも無責任であると思います。そもそも、現在の財政難を招いたのは自民党の政策(とそれを支持した国民)によるものです。それでも景気が上向けば税収も増えますから、借金も返済しやすくなるのですが、財政出動を繰り返しながらいっこうに景気はよくならなかったわけです。

 そういう過去からの文脈に頬被りをして、国民感情につけ込んで、あたかも自分が正義の味方であるかのように振る舞うという片山さつきには品性の卑しさを感じ、怒りすら覚えます。

 また、小宮山洋子の「生活保護費の支給水準引き下げを検討する」を聞いたときは、この人は厚生労働大臣としての資質を欠いた人であると思ってしまいました。政治家である以上、優先的に取り組むことは「生活保護を受給しなければならない世帯を減らしていく」ということであると思います。しかしながら、バブル崩壊後は生活保護の受給世帯は増加を続けているというのが現実であり、この点で歴代の内閣が有効な手を打つことができなかったことは明白です。
 普通の神経の持ち主であれば、今まで自分たちがやってきたことは何の効果もあげることができなかったと反省するところでしょうが、片山さつきも小宮山洋子もそういう反省とは無縁のようです。(別にこの二人に限ったことではないのですが。)
 厚生労働省という官庁の存在意義は、病気になったり生活に困ったりして、支援を受けなければならないようになった人に対する支援が必要十分な水準となるようにするというところにあると思うのですが、小宮山洋子は自らそれを否定して見せたわけです。そういう発言が出るということは、邪推になるかもしれませんが、企業でいえば課長や部長クラスの意識しか持たないことの証左であるといえます。コスト削減を立案し実行するのは部課長の役目であり、経営者はもっと高い次元でものごとを判断するのが仕事です。国政を預かる政治家が部長や課長クラスの意識しか持っていないというのは情けないことですよね。

 子供が親の面倒を見るのが当然という考えかたを小宮山洋子はしているようですが、親の面倒を見る子供の数が増えればそれだけ支援が容易になるというのは誰にでもわかる理屈です。自民党や民主党が今まで、それと逆のことをしてきたからこそ、こうして悪口を書いているわけです。
 そういえば、この人は少子化担当大臣も兼務しているはずですが、そちらの方での実績を上げてからこういう発言をされたらいかがなものでしょうか。

付記
 私の場合、人の名前を書くときは、基本的にはさんづけをするのですが、例外として心底軽蔑する人物に対してはフルネームで呼び捨てにするということにしています。
by t_am | 2012-05-27 09:14 | その他
 人気お笑い芸人である次長課長の河本某の母親が生活保護を受給していたという一連の報道は、本人による謝罪の記者会見でピークに達したようです。ハイエナのようにめざとい政治家がこの問題を取り上げたりして大きな騒動に発展したのですが、私には、自分の親の面倒を見るかどうかについては所詮は個々の家庭の事情にすぎないと思えます。

 河本某を責める人たちは、金を持っているくせに母親に生活保護を受けさせるのはけしからんという気持ちを持っているようです。そう思うのは当然だと思いますが、それを口にするかどうかはまた別の問題でしょう。「河本某はああいうことをしたけども、自分はそんなマネはしないでおこう」と考えるのは潔いといえますが、だから責めても構わないのだというのは違います。あなたがたは、この国を、「他人の財布に手を突っ込んでその使い途を監視しても構わないのだ」という国にしたいのですか?

 親の面倒を見るのが当然という考えかたがあります。だからといって、他人に対し、お前が親の面倒を見ないのはけしからん、と口にするようなことではないでしょう。それを言っていいのは、当人の親戚や家族に限られます。けれども、よく考えていただきたいのは、そういう家族や親戚からの干渉を息苦しいと感じたからこそ、大学進学や就職を口実にして親元を離れた人が多いのではないでしょうか? それが悪いと申し上げているのではありません。自分が息苦しいと感じたことを、他人に押し付けることはどうなのかと申し上げているのです。

 また、金を持っているくせに生活保護という税金を受け取るのはけしからんという思いもあるようです。これも一見もっともな考えかたのようですが、よく考えるとおかしいと思います。というのは、私たちが払っている税金はこの社会を維持するために必要な資金として払っているのであって、日本の社会のシステムがもたらす恩恵は誰もが平等に受けています。普段あまり意識しませんが、医療や教育、治安、食糧供給など国民生活を支えるために税金は使われているのであり、そういう意味で、私たちは平等に税金の恩恵を被っているといえるのです。
 さらに、さまざまな補助金や助成金という制度もあって、個人を対象にしたものと企業を対象にしたものとがあります。個人レベルでは公的機関による職業(技能)訓練もそれに該当します。これらの助成制度は、受益者が金持ちであるか(企業であれば利益を出しているか)どうかは問いません。つまり、貧乏人が税金による庇護を受けるのは構わないけれども、金持ちは税金の恩恵を受けてはならないという理屈は成り立たないのです。

 このように書くと、生活保護は支援してくれる人もなく自立できない人の生活を支えるための制度なのだから、子供が親を扶養できるだけの収入をもっていれば生活保護を受給するのはおかしい、という反論を受けると思います。これに対しては、河本某の家庭の事情ではなく一般論で申し上げるのですが、子供が親を扶養する義務と親がそれを受け入れるかどうかはまったく別の問題だと考えるべきでしょう。親の中には、歳をとれば子供に面倒を見てもらうのは当然と考える人もいますし、逆に、子供に迷惑をかけるわけにはいかないので自分の事は自分でなんとかすると考えている親もいます。したがって、親の面倒を見るかどうかは、個々の家庭によって事情が異なるのですから当人同士で話し合って決めればよいことであって、他人がこうでなければならないと決めつけるのはおかしいと思うのです。
 くどいようですが、そういう親や親戚からの干渉を息苦しいと感じて親元を離れた人も多いはずであり、そのことを忘れて河本某を非難するというのは矛盾しています。

 話が飛躍するようですが、親の面倒を見るという行為の中には、さらに介護という要素が入り込んでくるのは避けられません。介護経験のある人から、その負担(経済的な負担と精神的な負担)がいかに大きいものであるかを聞いたことがあります。けれども現行の制度では、介護する家族を支援する仕組みはまだまだ貧弱です。そういう現実に目を背けて、子供が親の面倒を見るのは当然と決めつけていいのかということもあります。

 次稿で述べますが、生活保護の支給水準を引き下げようという目論んでいる政治家たちにそういう世論が利用されかけています。河本某を責めて溜飲を下げるという気持ちも理解できないわけではありませんが、そのことが社会の弱者の切り捨てにつながっていくということも知っておいたほうがいいと思うのです。
  
by t_am | 2012-05-27 09:13 | その他
日本国内に限ってですが、野田総理よりも存在感のある政治家が二人います。一人は石原都知事であり、もう一人が橋下市長であることはいうまでもありません。この二人には、自分の価値観と異なるものは認めないという共通点がありますが、石原都知事には橋下市長ほどの攻撃性と執拗さはありません。その違いはどこからくるかというと、橋下市長にある憎悪が石原都知事にはないように思われます。

たとえば、怒りは人間にエネルギーを与えますが、あくまでも一時的なものであり持続させるのは困難です。ところが、憎悪はそれ以上のエネルギーを持続的に人に与えます。そのように考えると、市長の攻撃性と執拗さが理解できるように思えるのです。

橋下市長の憎悪が何に対して向けられているのかといえば、具体的には教師であり公務員です。もう少し正確にいうと、不逞教師であり不逞公務員ということであり、きちんとやるべきことをやらないで特権や既得権益にあぐらをかいている連中であるということになります。そして、大阪の庶民の間にもその連中に対して、快く思っていないという感情があります(大阪庶民の間にあるその感情は、東京などに比べるとかなり強いというのは小田嶋隆さんが指摘されています)から、市長が彼らを攻撃すると庶民が喝采を浴びせるという構図ができあがるわけです。

 既得権益をめぐる利害関係者の集団を非難することと、今後それを解体して新しい形をどのようにしてつくっていくかという「改革」はまったく異なる性質のものです。問題意識を持つことは重要ですが、問題意識を持ったから改革に成功するとは必ずしもいえません。失敗することもありますし、かえって悪くなったということもあるわけです。

 政治的なリーダーを選ぶ際に、自分が共感できる人物を選ぶというのは至極もっとも選択だと思います。ただ、橋下市長には、その根底に憎悪があるだろうと推測できる一方で、それほど単純な人ではないとも思ってしまうのです。喧嘩に勝つためには何をすればいいかという勘の良さは超一流ですし、反対意見を封じ込めるロジックの展開も見事だと思います。

 そういう能力に恵まれた人が人気を集め、権力を手にしたときに何をしでかすか分からない、という不安を持つ人は、橋下市長を独裁者と結びつけて考えるのではないかという気がしています。そういう不安も理解できますが、実際のところ、今後大阪では混乱は生じるでしょうが、破滅的な状況に陥るとは思いません。(その代わり、混乱から回復するのに長い時間を要すると思います。)
 というのは、独裁者というのはそれをさせる組織があって初めて成立するものなのですが、橋下市長はまだ組織を持っていないからです。大阪維新の会は組織じゃないのかといわれるかもしれませんが、あれは今のところ政治勢力であってまだ組織にはなっていないといえると思います。
 たしかに、次期国政選挙を視野に入れて、候補者を養成するための政治塾を開設するなど、その影響力がさらに大きくなると予想されていますが、それもあくまでも橋下徹市長個人の人気に負うところが大きいわけで、たとえていえば、一人のスーパー・プレイヤーが率いるスポーツチームのようなものです。チームとしての力がどの程度のものなのかはまったく未知数であるといえます。
 そういう視点で、この間発表された家庭教育支援条例案を巡る騒動を眺めてみると、やっていることがあまりにもお粗末です。このことは、大阪維新の会がまだ組織としてかたまっていないことを示す思いますし、今後、政治塾が本格的に稼働し、議員の数が今よりも大幅に増えたときにどうなるかを考えると、維新の会が政治をリードする組織になっていく可能性は極めて低いと思われます。

毎日新聞「大阪維新の会:家庭教育支援条例案を白紙撤回 抗議受け」5月7日
http://mainichi.jp/select/news/20120508k0000m010085000c.html


 憎悪が目指すのはとりあえず破壊ですから、「グレートリセット」というスローガンが設けられるの当然といえるでしょう。それよりも問題はリセットした後どのようなものをつくっていくのかということの方です。
 橋下市長のブレーンとしてきら星のごとく人材が集まっていますが、肝心の組織がないところにスタッフがいくら集まっても「船頭多くして船、山に登る」という諺どおりの結果になるのではないかという気がしてなりません。また、そのスタッフも、経済成長というところに力点を置いた価値観の持ち主が揃っているようです。少子高齢化による総需要が減衰している局面の中で経済成長を謳うのは、今後給料が目減りしていくのがわかっていながらこれまで以上に豊かな生活をおくりましょうといっているようなものです。誰でも今の生活水準を下げたくないと思っているのは事実であり、たとえばギリシャの状況をみれば、経済成長がなければ国は危機に瀕するといわれればそうだろうなと思ってしまいます。
 その代わり、そうやって成長戦略を進めていくことは格差を拡大させ、しかも固定化させていくという副作用を伴うことにそろそろ気づいてもいいのではないかと思ってなりません。
by t_am | 2012-05-21 06:40 | その他
Excelの関数はセルの範囲を参照するものが多いことは経験的におわかりいただけると思います。セル範囲といっても所詮は行と列の番地に過ぎないので、わかりにくい・覚えにくいという側面があることは否定できません。
ところが、Excelにはセルの範囲に名前をつけることができるという機能があって、これを活用すると表の作成とメンテナンスの効率が大幅にアップします。

今回は、「名前」についてご紹介します。

なお、例によって、 本稿で紹介しているサンプルファイルをインターネット上で公開しています。「名前」というファイル名です。Excel2003以前のもの(拡張子xls)と、Excel2007以降のもの(拡張しxlsm)と2種類あります。興味のある方は下記のリンクをクリックしてダウンロードしてください。

http://bit.ly/JmX4VJ



1.「名前」とは何か
たとえば、次のような数式があるとします。

=Sum(C3:C90)

=Vlookup(A3,C2:F500,2,false)

これらの数式が何を意味しているかは、その参照範囲を見ない限り理解することはできません。またデータを追加した場合、その範囲を参照しているすべての数式を修正しなければならないということになります。
けれども、セルの範囲に名前をつけると、上記の数式は次のように書き換えることができます。

=Sum(4月度売上げ)

=Vlookup(A3,2011年売上げ,2,false)

このように、数式の意味がわかりやすくなるだけでなく、元のセル範囲を修正しても数式をいちいち修正する必要はありません。(下図参照)


c0136904_2242877.jpg



c0136904_22432325.jpg




2.名前の作成
セルの範囲に名前をつけるには、数式バーの左側にある「名前」ボックスを使うのが簡単です。(下図参照))


c0136904_22435480.jpg



(1)まず、名前をつけたいセルの範囲をドラッグして選択状態にします。
このとき、「名前」ボックスにはD1:E17と表示されます。

(2)次に、「名前」ボックスに名前を入力します。ここでは「データベース」と入力します。

セルの範囲に名前をつけるのはこれで完了です。「名前」ボックスの使い方に慣れるために、いったん他のセルをクリックしてから、「名前」ボックスの右端にある「▼」をクリックしてみましょう。「データベース」という名前が表示されるので、それをクリックしてみてください。すると、さきほどのようにD1:E17が選択状態になります。

3.数式や関数で名前を使用する
下図のように、セルH15に次の式を入力します。

=VLOOKUP(G15,データベース,2,FALSE)

c0136904_22451153.jpg



セルG15の値を変えると、セルH15に表示される都道府県がそれに応じて変化します。


4.名前とセル範囲の関連づけの修正
一度定義した名前の管理は、「数式」タブの「名前の管理」をクリックします。(下図参照)

c0136904_2246529.jpg



「名前の管理」ダイヤログボックスが表示されるので、「参照範囲」を書き換えればよいのです。


c0136904_22483353.jpg

このことも、以前に申し上げた「細かいパーツに分けて考える」ということに該当します。ひとつのまとまりとして考えるのではなく、全体を細かいパーツに分解して考えることで、修正が必要になったときはその部品だけを直せばいいようになるからです。


5.名前で定義した範囲を修正するマクロ
名前で定義したセルの範囲は、「名前の管理」によって修正すればよいのですが、データベースのように日々更新される場合、いちいち手作業で修正するのは面倒です。そこで、名前の範囲を修正してくれるマクロについてご紹介しておきます。

(1)事前準備
名前をつけて定義したセルの範囲というのは、先頭セルの番地と最終セルの番地で囲まれた範囲をいいます。セルの範囲が変わるというのは、通常は最終セルの番地が変わる訳ですから、その値を取得するようにすればいいわけです。
ここでは、そのために次の2つの数式を用いています。

(セルH6の数式)
=COUNTA(E:E)

これはE列に入力されている文字列の個数を数える数式です。先ほどの図を見ると、図を最初の行からまんべんなくデータが入力されていることがわかるので、こういうふうに数式を入力しました。
けれども、データベースによってはE列の途中で空白のセルができることもあると思います。そうすると、COUNTA関数は空白のセルを数えないので、これでは正しい結果が得られなくなります。その場合、データベースの先頭列(通常この列に空白セルができることはありません)に対し、COUNT関数を使うことで最終行の値を求めることができるようになります。

(セルH7の数式)
="=Sheet1!R1C4:R"&H6&"C5"

セルH6に表示されているデータベースの最終行の値を使って、名前で定義するセル範囲を指定するための数式です。普段見慣れない表示方法になっていると思いますが、これはR1C1形式というスタイルでセルの範囲を指定しているためです。
この形式は、セルの番地を行番号と列番号の組合わせで表示するというもので、「R1C4」というのは「1行目の左端から4列目のセル」という意味になります。同様に最終セルの番地をこの形式で表現してやればいいのですが、セルの番地は文字列であることから、数式の中に組み込むためには、文字列を” ”で囲み、式と結合するために「&」という演算子を使っています。
したがって、セルH7に入力されている数式は、「Sheet1の1行目の左端から4列目のセルから最終行の左端から5列目のセルの間」という意味になります。

(2)マクロの記述
VBAエディタを起動して、「標準モジュール」のModule1をクリックしたら、「表示」メニューの「コード」をクリックすると、コードを記述するウィンドウが開きます。そこに次のようにコードを入力します。(面倒くさい人は、後述する赤い文字列のコードをコピペしてください。)

c0136904_22503149.jpg



Sub 範囲()
'
' 範囲 Macro
'

'
Dim 最終行 As String

最終行 = Range("H7").Value


With ActiveWorkbook.Names("データベース")
.Name = "データベース"
.RefersToR1C1 = 最終行
.Comment = ""
End With

End Sub



(コードの解説)
Dim 最終行 As String

名前で定義するセルの範囲の値を取得するために「最終行」という変数を定義しています。Stringというのは変数「最終行」が文字列型であることを指定するための記述です。


最終行 = Range("H7").Value

変数「最終行」に、セルH7の値を代入するというコードです。


With ActiveWorkbook.Names("データベース")
.Name = "データベース"
.RefersToR1C1 = 最終行
.Comment = ""
End With



ひとつの処理対象に対して、一連の処理をするときに、With~End With という構文(Withステートメントといいます)を使います。
ここでの処理対象は、「ActiveWorkbook.Names("データベース")」であり、これは、今開いているブックの中にある『データベース』という名称をつけた「名前」であることを示しています。
ここで重要なのは、RefersToR1C1 = 最終行 というコードです。(あとは決まり文句のようなものですから、深く考える必要はありません。)これは、『データベース』という「名前」の範囲がR1C1形式では右辺の値になるということを意味するコードです。実際には、右辺には変数「最終行」が指定されているので、その値はその前に代入されたセルH7の値ということになります。
なお、Withステートメントの最後には、End Withというコードを記述しておきます。


6.マクロをボタンに登録する
せっかく名前の範囲を修正してくれるマクロを作成したのですから、ワンクリックでマクロを実行できるようにしておきます。そのために、「挿入」→「図形」→「四角形」でボタンを作成し、右クリックで「マクロの登録」を選択します。ここで先ほど作成したマクロ「範囲」を割り当てれば完成です。
試しに、このシートのセルD18に「17」、E18に「新潟県」と入力し、セルG15に「17」と入力してみましょう。すると、下図のようにエラーとなります。

c0136904_22521575.jpg



そこで、更新ボタン(マクロを登録してあります)をクリックすると、正常に新潟県と表示されるようになります。
by t_am | 2012-05-13 22:54 | Excel のあの手この手
 連休中の橋本市長のツイートを拝見していたところ、大阪府教育委員会の景山委員長に対し、君が代斉唱を職務命令として発令したのは教育委員会なのだから、大阪府立和泉高校の中原校長が批判されたときに、なぜ教育委員会として擁護しなかったのかという趣旨のコメントが繰り返し披露されていました。

 論理として、橋本市長の発言は全く正しいと思います。そもそも職務命令というのは、命令の遂行状況の報告と上司による承認を経て完了します。命令→実行→報告→承認というプロセスをたどるわけです。
 自分の職務に忠実な人であれば報告をおろそかにするようなことはしませんから、中原校長が教師の口元チェックを部下にに指示したというのは当然のことであるといえます。そういう忠実な人材を見捨てるようなことをしてはいけないという橋本市長の指摘は至極まともであると私も思います。

 とはいうものの、世の中には、正しいことをしていても他人から批判されるという場合があります。そういう場合に、人の上に立つ者としては部下を庇うということも大切ですが、部下が非難されないようにあらかじめ手を打っておくということの方がはるかに人としての器が大きいといえます。

 そのように考えると、ここはやはり監視カメラを大阪府下の全公立学校に設置するというのがベストの選択でしょう。橋本市長には、景山委員長を責めるはこれくらいにして、来年からはこのような不幸な事態が起こらないようにするために、せめて大阪市の公立学校には監視カメラを設置するという予算を計上された方がいいのではないか、また、大阪維新の会の議員の皆様にはその予算化に一肌脱いでいただく方が、有能な人材に思う存分手腕を発揮してもらうことにつながるはずだと、老婆心ながらお勧めする次第です。
by t_am | 2012-05-08 21:43 | その他
 武雄市(佐賀県)が、市立図書館の管理業者に「TSUTAYA」を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(以下「CCC」)が決定し、同社との間で合意文書を交わしたとのことです。

(5月5日付西日本新聞より)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/300562

 武雄市の発表によれば、CCCのノウハウを活かし、利用者サービスをアップを図るとのことで、具体的には開館時刻を現行午前10時~午後6時を拡大して午前9時~午後9時にし、さらに年間30日ある休館日をなくし年中無休にしたうえで、飲食のできる喫茶店を設け、また雑誌やオリジナル文具の販売も計画しているそうです。書棚を増設して蔵書を現在の2倍半の約20万冊にすることも計画しているそうですから、利用者の視点に立った図書館となることも期待できそうです。

 武雄市の樋渡啓祐市長(2期目)は、これまでも武雄市民病院の民間移譲を行うだけでなく、フェイスブックやツイッターを市政に活用してきていることでも知られています。そういう人だけに、民間のすぐれたサービスを取り入れることに何のためらいもないのでしょう。
 また、武雄市の財政としても、現在年間1億4500万円かかっている図書館の運営費を約1割削減することを見込んでいるそうですから、実務家としての手腕も持ち合わせた人なのだろうと思います。

 CCCとの運営提携は、今後の市議会の承認を経て現実のものとなっていき、来年度からスタートしたいとのことです。市立図書館の運営がうまくいけば、同様の取組みが全国に広がっていくことになるでしょう。そういう意味では、今回の武雄市の動きはテストケースとなるので、今後どのようになっていくのか注目したいところです。

 図書館を民間企業が運営することについての、私の基本的な考えは以上の通りですが、実をいうと懸念されることがいくつかあります。ここではそのひとつだけを申し上げることにします。
 上記の西日本新聞のニュースにも記載されていましたが、「図書館の利用カードは、全国で約3900万人が加入するCCCのポイントカード「Tカード」に切り替え、本を借りると、CCCの提携企業の店舗で使えるポイントがたまる仕組みにする。」とのことです。これはちょっとみると、利用者にとってお得なようですが、見方を変えると個人の情報がデータベース化されることに公的機関が与するということになるのです。

 図書館の貸し出しカードがTポイントカードになることで、誰がどんな本を借りたかという情報がCCCに供給されることについて、樋渡市長は、「何を借りたかというのがなんで個人情報になるんだと疑問に思っている。」と記者会見の席上で答えていたそうです。もっとも「市民の同意が必要だが。」とフォローしていたそうですから、ヤバイと思ったのかもしれません。

 実をいうと、図書館で誰が何を借りたかという情報は、それほど価値のあるものではありません。価値が増すのは、そのような情報がいくつも組み合わさったときです。ポイントカードは小売業各社が発行しているので、持っておられる方も多いことと思いますが、それらはしょせん自社の店舗での買い物が情報として記録されるだけのカードにすぎません。また、企業によって情報の活用能力に差があるので、収集された買い物情報が社会問題化することもまずないといってよいでしょう。
 ところが、Tポイントカードは、たぶん加盟店が日本でもっとも多いカードなので、傘下の加盟店で収集された買い物情報を集めると巨大なデータベースができることになります。それはいいかえれば、それまで点に過ぎなかった個人の買い物情報が線になり、しかも今後さらに緻密なものになっていくということにもつながるのです。

 すでにネット通販では、利用者に対し、次の商品を勧めるというプッシュ型のマーケティングが当たり前になっています。たとえば、本を買った人には、その著者の新刊の案内が送られるということが行われていて、これも個人の買い物情報を「活用」してるからこそ、このようなマーケティングが可能となるわけです。

 Tポイントカードは、個人の買い物情報をはるかに幅広く収集することができる可能性を持っています。極端ないい方をすれば、その人が、いつ、どこへ行って、どの店で、何を買ったか(あるいは借りたか)という情報が次第に蓄積されていくということにつながるのです。

(参考)T会員規約
http://www.ccc.co.jp/fileupload/pdf/member/20111001_Tmember.pdf

 個人情報というと、その人が誰か特定できる情報という意味で使われていますが、それがデータベースの中に組み入れられるようになると、個人の趣味や嗜好といった属性の情報が第三者に対して明らかになっていきますし、さらには行動の履歴までもが記録されることになっていきます。
 その店でしか使えないポイントカードよりは、どの店でも使えるポイントカードの方が利用者にとって便利であることは間違いありません。そうやって利用者が増えれば増えるほど、加盟店も増えていくことになるので、データベースはますます巨大化していきます。

 データベースの価値は、蓄積されている情報量に比例して高まっていきます。ということはその情報を欲しがる人や企業・組織がそれだけ増えていくということになり、自分の知らないところで自分に関するデータがやりとりされるケースが増えていくということを意味します。

 もっとも、個人の買い物情報がデータベース化されるといっても、当面はダイレクトメールが送られてくるくらいでしょうから、興味がなければ無視するか消去すればいいだけのことですから、自分の情報が知らないところで蓄積されていっても、構わないというひともいることでしょう。それが嫌だという人は、ポイントカードを使わないで買い物をするという選択肢も残されています。
 けれども、今回の武雄市の図書館の場合は、貸出しカードをTカードにするという構想のようですから、Tカードを持ちたくないという人は図書館で本を借りることができないということになりかねません。

 おそらく、実際の運営が始まるまでには、図書館の利用者はTカードを使うかそうでないかを選択できるようになることと思います。しかし、運営する企業としてはTカードの会員数を増やしたいでしょうから、もしかするとTカードの有無によって受けられるサービスのレベルに差がつくようになるかもしれません。市立図書館として、それでいいのかという疑問と、市が一企業の便宜を図るような枠組みをつくることに対する懸念が残るのですが、今後の議論の進展がどうなるか興味深いところです。

 図書館の運営を民間企業に委託して、それでサービスレベルが向上するというのは市民にとって歓迎すべきことなのでしょうが、個人情報の取り扱いということに関して、もう少し神経を使ってもいいのではないか、そんなことを考えさせられたニュースでした。
by t_am | 2012-05-06 18:41 | その他
誰でも(その中には私も含みます)ブログやツイッターを自由に使えるようになったおかげで、自分の意見を忌憚なく表明することができるようになりました。これはかつてないことであり、とても貴重なツールであるといえます。なぜ貴重なのかは別な機会に申し上げることにして、本稿では、ブログやツイッターというツールが私たちの心の中のある部分を無防備に開放するということについて書いてみたいと思います。

私たちは、自分の好みに合うツイートをフォローするように、ブログも自分の好みに合うもをお気に入りに登録する傾向があることは同意していただけると思います。それは人間の性癖にすぎないので、いいも悪いもありません。ただし、そのような言葉に絶えず接していると、次第に自分の思いも共鳴してその振幅が大きくなっていくということは知っておいた方がよいと思います。

既に何度も申し上げているように、人間は自分が見たいと思うものを見るのであり、聞きたいと思うことに耳を傾ける生き物です。半ば無意識のうちに情報の取捨選択を行っているうちに、自分の思いは偏った方向に進化を遂げる場合があることは、ツイッターのタイムラインや特定の個人に対するメンションを見ていればわかることです。

興味深いのは、そのようにして発達した思いというのは、まずは自分と異なる意見を否定したあげくに、自分と異なる意見の持ち主の人格を否定する方向に作用するということです。恥ずかしながら、これは経験則として申し上げているので、中にはこれがあてはまらないという方もいらっしゃるかもしれません。もしくは、だからどーした、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。(もっともそういう方は、こんなブログに眼を通すなどという悠長なことはしていないと思うのですが…)

前置きばかり長いのもどうかと思うので、そろそろ結論を申し上げると、自分と相容れない意見はまだしも、その人の人格までも否定するようになると、そこから先は不毛の世界のみ待ち受けているということです。
不思議なことに、自分と異なる意見に対し黙ってはいられないと思うようになると、その行きつく先には他人の人格を否定したいという欲望が待ち受けている場合が多いのです。(いつもそうだというわけではありません。)

たぶん、思いの強さを与えるエネルギー源の一つに感情があるのでしょう。そのような感情には、正義感や善意というものも含まれます。それらは決して悪いことではありませんが、自分の感情という燃料を燃やし続けると、いつしか火の手を制御することができなくなる場合があるということを申し上げているのです。

たとえば、上杉隆さんという「元ジャーナリスト」がいます。この人をデマ野郎と呼ぶ人もいれば、この人の行動を支持する人が多くいることも事実です。その際立った違いは福島第一原発の事故後の、この人が伝えた報道によるものだと思いますが、私には、どちらの意見も間違いではないと思われますし、どちらの意見も十分に正しいとは思えないのです。
上杉隆さんが伝える報道は、私のような素人が読んでも、人びとを煽動しようとしていると思える節があって、この部分を取り上げてデマ野郎と呼ぶ人もいるわけであり、それはその通りだと思いますが、だからといって、全人格をデマ野郎というひと言で片付けることには与しません。また、氏の放射線の危険性を訴えるいう姿勢に共感するという正義感は理解しますが、事実と異なる情報までも事実として鵜呑みにするというのもどうかと思います。

念のため、お断りしておくのですが、その人を信用しないというのと人格を否定するというのは同じように見えて実は違うということを申し上げておきます。

こうして、事実の一部分だけを拡大鏡を見るようにして見つめた人たちが、ツイッターやブログで発言するわけです。(もっとも、そうでない人の方がはるかに多いということも指摘しておきます。念のため。)

ブログやツイッターというのは、そういう(他人の意見や人格を否定する)点と相性のいいツールなのだと思っています。これに対して、フェイスブックというのは基本的には他人の意見や存在を肯定することによって発展していくツールだと思います。ブログやツイッターにもそういう面はあるのですが、そうでない面もあって、ときとして歯止めがきかなくなるということがあるのです。私は、これを否定する文脈と呼んでいます。

否定する文脈の目的はただひとつ、自分と異なる意見の否定にあります。ゆえに、否定する文脈の応酬が発展的に新しいものを生み出すということはありません。生み出すものがあるとすれば、それは悪意、もしくは無視、無関心ということになります。


 僕には君が何を考えているかがわからない。
 たぶん君も僕が何を考えているのかわからないと思う。


これは以前書いたブログの一節です。
人間は複雑であり、他人を理解する(他人に理解してもらう)のは本当に難しいということは同意していただけるのではないかと思います。

だから僕たちは一緒にはいられない、と思うのか、でも僕たちは一緒にいることができる、と思うのかによってその人の人生はまるで違ったものになると思います。どちらを選ぶのかはその人が決めることなので、どちらの方がよいと申し上げることは無意味でしょう。
けれども、他人を無視する、あるいは無関心でいられるというのは、自分も他人から無視されでもかまわない、関心を持たれなくても構わないという強さがなければとうてい続くものではありませんし、そういう強さを持った人を私はこれまで見たことがないということだけは申し上げておきたいと思います。
by t_am | 2012-05-03 23:15 | その他