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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 大阪維新の会では参議院を将来的には廃止も視野に入れて、首長が兼務する代表機関に改める方針という報道が「維新八策」の骨子を伝えるニュースの中でありました。

(産経新聞の記事)
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120213/waf12021312210007-n2.htm

 松井知事は、「『衆院のカーボンコピー的な形はいかがなものか。首長が兼務すれば、国と地方の意思伝達がスピーディーに協議できる』とメリットを語った。」のだそうです。参議院が衆議院のカーボンコピーになっているという指摘は頷けないでもありませんが、首長が兼務するといっても、今でも忙しい知事の皆さんにそんな余裕があるのでしょうかね? 今の国会議員が片手間でできるレベルの仕事しかしていないから、自分たちが片手間にやる方がはるかにマシ、ということなのでしょうか。そういえば、過労死した平社員というのはよく聞きますが、過労死した社長、知事というのは聞いたことがありません(夜逃げした社長、自殺した社長というのは聞いたことがありますが・・・)。

 参議院が衆議院のカーボンコピーになっているというのは、みんなで寄って集ってそういうものにしてしまったからです。選挙区は各都道府県に1つという中選挙区制ですが、29の選挙区(県)では1回の選挙での当選者は1人ですから事実上の小選挙区制になっています。(参議院では3年毎に半数が改選されるので、1人区の県では参議院議員が2人いることになります。)
 また、定数96人の比例代表に立候補できるのは政党に所属する候補だけであり、選挙区とともに政党に属さない人は立候補すらできない状況になっています。つまりせっかく二院制を採用していながら、国会議員になれる人が衆議院と参議院とでは変わらないという状況になってしまっているのです。
 こういう状況では参議院が衆議院のカーボンコピーになるのは当たり前であり、そうならない方がむしろおかしいといえます。それではなぜこういう状況になったのかというと、政党が数を追求する団体だからです。国会だけでなく議会での議決は多数決で行われるのですから、議員数=政党のパワーということになります。(どんなに声望が高い人でも、それは政党に所属しているからであり、大きな勢力を持つ政党を離れて新たにミニ政党を結成したとしてもその力は大きく減殺されてしまいます。)
 政党がパワーを維持し拡大していくための大前提は新規参入を抑止することです。選挙に金がかかるのはそのためですし、ネットの活用がなかなか解禁されないのもそのためだといえます。今流行の言葉でいえば、競争原理が働かないようになっているわけです。

 そのような状況を頬被りしておきながら、参院は衆院のカーボンコピーになっているという指摘は間違いではありませんが、フェアでもありません。逆に、おなじみのねじれ現象によって、参議院はその存在価値を高めているといえるのです。

 衆参ねじれ国会の原因は衆議院の小選挙区制にあります。小選挙区制では敵(=悪者)を仕立て上げ対立軸を鮮明にした政党が劇的な勝利を収めます。郵政解散選挙や民主庁に政権交代したときの選挙を思い浮かべてください。要するに、小選挙区制とはそのときの雰囲気に左右されやすい選挙制度なのです。ところが、参議院の選挙は3年毎に行われることになっていますから、そのときの熱狂が冷めた頃に参議院の選挙が行われることになります。安倍政権での参院敗北、民主党政権の参院敗北。いずれも与党の独走を抑制する方向で票が動いています。したがって、維新八策にある参議院の廃止も視野に入れた改革というのはそのときの与党を利することになるのです。
 だいたい選挙に勝ったからといって有権者の白紙委任状を手に入れたと思うことが傲慢であるといえます。投票率によっては、有権者の3割以下の得票しかなくても当選できるのが小選挙区制です。しかし、当選者は自分に投票しなかった人のことなど歯牙にもかけなくなるのが普通です。その挙げ句、自分は民意によって選ばれたと臆面もなく公言するわけです。あのね、民意によって選ばれたといいたいのなら、選挙制度を「改革」して、有権者の過半数の票を獲得する候補者がいない場合はその選挙は無効とするとか、せめて投票率が90%以下の場合は選挙を無効とするとかしてから言ってくださいね。あなたに投票しなかった人の方が多いという事実を無視するのはおかしいのではないのですか。
 そんなわけですから、実際に支持する人が少数派でありながら政権党になることもできる以上、政権党の独走に歯止めをかける仕組みを残しておく必要があるのです。

 ねじれ国会で何も決められないのは、国民が共感する政策が打ち出されないからです。野党が党利党略に走って国民が認める重要法案をないがしろにするのであれば、世論はそれを許さないでしょう。(自民党の支持率が低迷したままであるのもそのためです。震災直後に大連立に応じていれば状況は変わっていたかも知れないのに、惜しいことをしましたね、谷垣さん。)
 それというのも自分に投票しなかった人にも納得してもらえるような説明をしようという丁寧さを持った政治家がいないからです。自分に反対する人たちを説得しようというアクションを通じて国民も納得する政策が作り上げられることになるはずです。それがそうならないのは、選挙に勝てば全権を委任されたと政治家が勘違いするからです。(これは大阪維新の会の皆様も同じであるといえます。)
 野田総理は就任直後は、反対派に対しても丁寧な説明をして同意してもらえるように努めるというようなことを言っていましたが、実際にやっていることはごり押しであり、言っていることとやっていることがかけ離れている政治家として、後世に汚名を残すことになりそうです。
 そもそも国民に納得してもらおうというプロセスを無視して法案をごり押ししようとしておきながら、何も決められないのは衆参ねじれ国会のせいだというのは責任転嫁以外の何物でもありません。大事なことは法案を成立させることではなくて、協議を重ねながら反対派にも(ということは国民にも)納得してもらえる法案を練り上げることなのです。
 民主自民公明3党協議によって法案の成立を図るというのは、政治家が数の論理に囚われているという証左にほかなりません。本当に成立させなければならない法案であれば、政党の枠を超えて可決されるものなのですから。

 仮に、大阪維新の会が掲げるように、将来参議院が廃止された場合にどうなるかを考えてみると、議院内閣制(国会で最大多数を占める政党から総理大臣が選出される)の下では、首相とそれを支える与党勢力に対し歯止めをかける機能が失われてしまうことになります。大阪維新の会が主張するように首相公選制が実施された場合、国会と首相とが互いに独立するかのようにみえますが実際にはそうはなりません。2つの選挙の間には時間をおいて、そのときの雰囲気に左右される要因を極力排除する仕組みが必要になるのです。

 小田嶋隆さんは、橋下市長は水戸黄門のようなものであるという指摘をされました。それは、大阪市民・大阪府民の間には役人に対する不信感があって、それを懲らしめる存在としての橋下市長に対する期待の大きさが水戸黄門(悪代官を懲らしめる、より上位の権力者)の構図と一致しているというご指摘です。水戸黄門は、悪代官を懲らしめて再び旅に出ることができる(後は知らない)というお気楽なキャラクターですが、橋下市長はそうではありません。任期中は「旅立つ」ことはできないのです。(それをやったのが前の横浜市長です。)
 4年という市長の任期は結構長いので、その間に当初の熱狂は冷めることも充分あり得ることです。最初は支持していた人たちも途中で不支持に回ることもあるかも知れません。
そうなったときに、それらの「民意」を反映させる仕組みを残しておく必要があるのであって、国政レベルでは3年毎に半数改選が行われる参議院がその枠割を担っているのです。

 ゆえに、大阪維新の会が掲げるように参議院を廃止するというのは非常に危険なのことであると私は思います。内田樹先生(この方も橋下市長から攻撃されています)がいみじくも指摘しているように、「国民に喝采と服従だけを求める政治家」にとって参議院という装置は邪魔なのでしょうね。
by t_am | 2012-02-27 21:27 | その他
 生活するために必要最低限の現金を全国民に一律に支給するというのがベーシック・インカムの考え方です。現行でもセーフティ・ネットの制度はいろいろあるのですが、複雑であり、実際に自分が利用する立場になったときに、どういう手続きをしたらいいのかわからないという状況になっています。(民生委員に訊けばいいといわれるかもしれませんが、そもそも自分が住んでいる街の民生委員が誰なのか知っている人はあまりいないと思います。)
 その点、ベーシック・インカムはシンプルな制度であり、そもそも申請の必要がないという利点があります。また、仮に失業したとしても、独断の手続きをしなくとも最低限の現金の支給は継続されるわけです。
 現実には、失業する恐怖から理不尽な業務命令に従ったり、パワハラ・セクハラに耐えているという人も多いはずです。ベーシック・インカムが導入された場合、そういう劣悪な職場を辞めやすくなるのではないかと思われるので、過労死やパワハラ・セクハラの被害者が減るのではないでしょうか? 茂木健一郎さんは、ベーシック・インカムが導入されると、失敗を恐れる必要がなくなるのでどんどん新しいことにチャレンジする人が増えるのではないかと述べておられますが、その通りだと私も思います。

 そこでベーシック・インカムを推進する立場に立って、さらに一歩踏み込んで考えてみましょう。それは「いったいいくら支給すればいいのか?」という問題です。
 仮に、一人当たり1ヶ月5万円としてみましょう。4人家族であれば、5万円×4人=20万円/月が支給されることになります。充分とはいえませんが、これだけあればなんとか生活していくことはできると思います。
 それでは、一人暮らしの人はどうでしょう? この場合は毎月5万円が支給されることになりますが、アパート代を払えばそれで終わりであるか、もしかしたら足りないかもしれません。ベーシック・インカムが導入されれば公的年金も廃止になりますから、一人暮らしの高齢者の場合、これでは生活していくことはできません。持ち家であったとしても、固定資産税や修繕費は発生しますから毎月の水道光熱費を支払えば食費にも事欠くという事態に陥ることになりかねません。
 これは失業中の若者であっても同じことです。そういう人はたいていアパート暮らしですから、家賃を払ってしまえばそれで終わりなので、就職活動にゆとりはありません。ですから、いざというときのために蓄えをしておかないと悲惨なことになります。
 このように考えてくると、「生活するのに最低限必要な現金」をどうやって決めるのかがポイントになることがわかります。一人暮らしの高齢者の場合、アパート代が払える程度の支給額ではいずれ電気もガスも止められ、その挙げ句餓死する運命が待っているといえます。
 一方働くことができる人は、ベーシック・インカムに対し、収入を上積みすることができるので、働けない人とは事情が異なります。(それでも病気になって長期入院ということになればたちまち貧窮することは目に見えていますが。)

 「生活するのに必要最低限のお金」とひと言で片付けてしまうのは簡単ですが、実際には個人差もあれば地域差もあるはずです。そういう事情を無視して全国民一律に支給するというのは流石に無理があると思います。
 ここで、ベーシック・インカムの財源について考えてみましょう。全国民一律に1ヶ月5万円を支給するという場合、必要な財源を大雑把に計算すると、5万円×1億2千万人×12ヶ月=72兆円/年となります。一般会計(約90兆円)と比較するとかなりの金額です。ただし、ベーシック・インカムによって公的年金と雇用保険が吸収されることになりますから、それらの保険料収入も財源となります。公的年金の保険料収入の合計が約28兆円、労働保険の保険料収入が約3兆円なので、合計すると31兆円。72兆円-31兆円=41兆円が税金から充てられることになります。これがどれくらいの金額かというと、平成23年度の2次補正後の一般会計予算の歳入のうち税収は約40兆円(うち消費税は約10兆円)でしたから、いかに大きいかがわかります。(これは、今まで積み立てられてきた年金を取り崩さない場合です。取り崩すということであれば、税金からの支出はもう少し少なくなります。ちなみに平成21年度末の年金の積立金残高は約119兆円でした。)

 こうやってみると、ベーシック・インカムという着想は面白いのですが、実際に行ったとすると必要とされる財源の大きさに比べ、本当に保護が必要な人にとっては足りないし、必要としない人にとっては貰い得という中途半端なものになりそうな気がします。これというのも「全国民一律に支給する」というのが原因です。一律支給を行うからこそ行政組織もシンプルなものになり、事務コストが大幅に削減できるのですが、そればかりを追求すると肝心の受給者はどうでもいいということになってしまいます。それではセーフティネットになりません。

 ではどうするのか?

 端的にいってしまえば、セーフティネットを必要とする人とそうでない人がいるわけですから、必要としない人にまで支給しなくてもいいのではないかと思います。現在必要としていない人の分を削り、その代わり必要とする人に上積みする方が現実的でしょう。その額をどの程度にするのかは財源の見積もりと照らし合わせながら検討する以外に方法はありません。
 その場合でも、次の課題は残ります。

1)税を公平に徴収するための国民総背番号制の導入
2)税収を一元管理するための歳入庁の新設と国税庁の吸収
3)不公平税制の改正(宗教法人への課税や家族経営の「節税」をどうするか)
4)現行制度における不正受給者対策
5)働けるのに働かないで不当に手当や助成金を受給している人の問題

 全国民一律支給であれば4)と5)は自動的に解消されるのですが、個人毎に支給額を査定する方式だと4)と5)の問題は避けて通ることができません。そういう査定という作業も含めると行政コストがどれだけ削減されるのかについては疑問符が残ります。

 話が長くなってしまいました。ここでいったん整理してみましょう。

A)セーフティネットは、個人の生存権が侵害されるの防ぐことを目的とする制度のひとつである。ただし、生存権の中身(健康で文化的な最低限の生活)は時代に変化する。
B)前項の目的が達成されるのであれば、セーフティネットの中身は柔軟に変化しても差し支えない。
C)したがって、セーフティネットの制度設計は、1)の目的を達成できる範囲内でもっとも有利な(最小のコストで最大の効果が得られる)方法は何か?という視点で行われなければならない。

 A)にあるように、生存権が侵害されないようにセーフティネットがあるわけです。したがって、全国民に一律支給を行うというベーシック・インカムは、メリットも多い構想ですが、やはり無理があると思います。そうなると現行の制度をA)B)C)に沿って見直しするという方法もあるわけで、何も「グレートリセット」しなくてもよいということになります。
 一般論ですが、現実には制度設計をするにあたり、利権絡みとなっているためにコストと成果を無視した制度ができあがることも珍しくありません。また運用にあたる窓口の職員の態度の悪さ・不親切さも現行制度に対する不信感の一因となっているようにも思います。だからいったん壊して作り直した方がいいのだ、という考え方が出てくるのもわかりますが、そのように苦労してつくりあげた新制度であっても利権に結びつけようとする輩は登場するはずでし、窓口業務にあたる職員がすべていい人になるという保証もありません。
 ゆえに「グレートリセット」は苦労の割に効果が薄いやり方ではないかと思いますし、その一環としての位置づけが検討されているのであろうベーシック・インカムについても、惜しいとは思いますが、根幹で問題を抱えている構想であるように思います。
by t_am | 2012-02-26 11:01 | その他
 今日の橋下市長のツイートにはビックリしました。

 世界では自らの命を落としてでも難題に立ち向かわなければならない事態が多数ある。しかし、日本では、震災直後にあれだけ「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています。
http://twitter.com/t_ishin/status/172897650386010112 から引用

 もともとは、今朝の産経新聞の「正論」に載った阿佐々淳行さんの、維新八策には安全保障が抜けているという指摘と提言に応えた連続ツイートの一部なのですが、こういう論理の展開をしてくるとは思いませんでした。
 この発言に対して、おちょくるようなツイートが多数登場したとのことです。

(橋下徹大阪市長の「全ては憲法9条が原因だと思っています」が爆発的ブームに)
http://rocketnews24.com/2012/02/24/186374/

 私が見かけたのは、茂木健一郎さんの「郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、#全ては憲法9条が原因だと思っています」というものでした。暇な方は「憲法9条が原因」というキーワードでツイッターを検索してみてください。ツイートしている人の中には、こういうおちょくりに対して怒っている人もいることに気づくはずです。揶揄もまた庶民の気持ちを代弁する形態のひとつであること考えると、どっちも頑張れ、といいたくなります。

 橋下市長のこのツイート自体は論理性がなく、こじつけに過ぎません。多くの日本人が「頑張ろう日本」「頑張ろう東北」「絆」といっていたのも本心ですし、そのうちの一部の人たちが瓦礫を拒絶するのも本心からです。こういうのを総論賛成各論反対といい、何も今回に限ったことではありません。
 前回も申し上げましたが、人間は自分に影響がないと思えば賛成しますし、その後自分に不利益が生ずるとわかった途端に反対に転じるという生き物です。人間のこの性質が憲法9条とは何の関係ないことは小学生にもわかることです。事実、憲法9条に相当する規定のない国であっても、総論賛成各論反対という現象が起こっています。
 それではなぜ、小学生にもわかることが橋下市長にはわからないのか、ということを考えると、これは推測に過ぎませんが、橋下市長にすれば、日本人が安全保障について真剣に考えようとしないのは憲法9条があるせいだと考えているからなのかもしれません。さらには、平和を求める割に何ら汗を流そうとしない日本人に対し苦々しく思っているのかもしれません。(せいいっぱい好意的に考えるとこういう可能性があるということで示しています。無論これが正しいかどうかは誰にもわかりません。)

 仮に、そうだとしても、この論理の展開は唐突すぎると思います。

 翻ってみれば、この人のロジックは常にこのパターンであるということに気づきます。すなわち、最初に誰もが問題に感じていることを指摘し、相手に認めさせたうえでその解決策はこれだ、というフレームをつくりあげて、以後はそのフレームの中だけで議論を進めるというものです。反対意見が出たとしても、問題であるという認識が間違っているわけではないので、どうしても反対意見の歯切れは悪くなります。そのうえ、そこまで言うなら対案を出せと迫ることで、議論をあくまでもそのフレームの中だけで進めてしまおうとしています。そうすれば自分が負けることは絶対にないとわかっているからです。さらに念の入ったことに、「徹底的に議論を重ねた後で決断するのは政治家の責任。その決断を有権者が気に入らなければ次の選挙で落とせばいい」とも言っています。さすがは弁護士。弁が立ちますね。ほんと、感心してしまいます。

 教育基本条例にしても、発端は大阪の学力テストの結果が全国でもワースト5に入るということでした。それが、保護者が望む教育が学校ではなされていないという指摘になり、教育委員会と教師が悪いのだという論理が展開されていったわけです。保護者が望む教育がなされていないということと教育委員会と教師が保護者に目を向けていないということは大阪に限ったことではありません。(保護者が望む教育をすることがいいかどうかは別な問題です。)どの都道府県でも似たり寄ったりの状況でしょう。にもかかわらず大阪の学力テスト結果が悪い、というのは他に原因を求めなければなりません。しかし、そのようには考えないのです。そして大阪の人たち(といっても全部がそうだというわけではないでしょうが)も橋下市長を支持しています。それはなぜかというと、小田嶋隆さんが指摘されているように、大阪の人たちの間には公務員や教師といった身分の人に対する不満と不信感が特に強いからなのだと思います。

 この手法は、小泉純一郎が自民党総裁になったときにも使われていました。社会に漂う閉塞感を代弁するかのように、その原因はこれだ、と明解に指摘することでみんながわーっと飛びつくというものです。かくいう私もそれに飛びついた一人ですから、それがどんなに危険なことかがわかるのです。

 沖縄の米軍基地の問題に決着をつけようとするのであれば、日本の安全保障をどうするのか、という議論を避けて通ることはできません。これまで通り米軍に頼りっぱなしでいき、その代償として沖縄や岩国、厚木といった基地を米軍に差し出し、治外法権ともいえる状況を継続させるのか、それとも自らの手で日本の防衛に取り組む姿勢に転じアメリカと対等の関係を築こうとするのか(そのかわり軍事費の支出は増えるでしょう。世界第6位の面積を誇る排他的経済水域を守るということはそういうことにつながるのです)、そろそろそういう議論をした方がいい時期にさしかかっていると思います。日本人の中には米軍のことを日本が金を出して雇っている用心棒くらいに思っている人もいるかもしれません。しかしながら、この用心棒が雇い主に忠誠心を持っているかというとそうではありません。用心棒にはボスがいて、そのボスのいうことしか聞かないのです。そのうえ素行が悪く、雇い主の家族といざこざを起こすこともしょっちゅうあるのですが、雇い主の方でも見て見ぬふりをしています。内心では、「自分が金儲けだけ考えていられるのは用心棒がいるからなのだ。だから少しくらい嫌な思いをしても我慢しなければならない。」と考えているからです。

 憲法9条は「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という第一項と、「2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という第二項の規定によって成り立っています。これらの規定は、日本の自衛権までも放棄したものではなく、自衛のための戦力の保有も認めないというものでもありません、その傍証として、憲法66条には「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定されています。(一切の戦力を認めないというのであれば、大臣を文民に限るという規定は意味を持たないことになるからです。)
 このように考えてくると、日本が自国の安全保障を自前で行い、アメリカと対等の関係を築こうとしたとしても憲法9条の規定とは矛盾しないことがわかります。橋下市長の今日の連続ツイートは憲法9条の改正を前提に安全保障についての議論を行うというものでした。自衛のための戦力を持つことが憲法9条と矛盾しない以上、憲法9条を改正する理由を示さなければならないはずですが、橋下市長の論理は「全ては憲法9条が原因だと思っています」という突拍子もないものです。

 橋下市長が好んで使ういい方は、「議論を徹底的に尽くし、そのうえで政治家が最終判断する。その過程で、マスコミによるチェックと議会によるチェックと選挙によるチェックを受ける」というものです。字面を見ればまことに民主的な手続きに則っているかのようですが、はたしてそうなのでしょうか?

 被災地の瓦礫の受け入れを拒絶する住民の気持ちは、私には情緒的すぎると思えます。これ以上放射性物質の拡散を認めてはならないという主張は理解しますが、それならば瓦礫の持込み反対する前に、今も続いている福島第一原発からの放射性物質の拡散についてただちに止めさせろという主張の方が先でしょう。福島県や隣接する茨城県や栃木県の一部に放射性物質が飛来するのは構わないというのは単なるエゴに過ぎません。しかも実際にはそれ以上に広い範囲に放射性物質のチリが飛来しているのです。
 新潟県でも下水道の汚泥から放射性物質が検出され、それら汚泥を持っていく場所が決められないために、今も処分場の敷地内に仮置きされたままという状態が続いています。空気中を漂う放射性物質はごくわずかな量ですから空間線量を測定してもほとんど検出されないというのが実態でしょう。それらが地上に落ちても状況は同じです。けれども雨水と一緒に下水道に流れ込むと、それらの放射性物質は汚泥の中で濃縮されていくので、結構な濃度の放射性物質が検出されることになるのです。
 この状況は新潟県だけでなく、関東も含めた東日本に共通することだろうと思います。そもそもこんな狭い国土で原発事故が起こったわけですから、その影響が福島県だけにとどまっていると考えてよい根拠はどこにもありません。幸か不幸か、その影響とは人が住めなくなるほどには汚染されたわけではないけれども、かといって汚染が皆無であるというわけでもないと考えた方がよいと思います。そうなると、考えられる方針としては、環境中に薄く広く拡散してしまった放射性物質をあらゆる手段を使って集め、二度と拡散しないように封じ込めてしまうというのがもっとも現実的でしょう。そのためには、放射性廃棄物の保管場を確保することが不可欠なのですが、遅々として進みません。地元の住民の反対があることもわかりますが、既に下水道処理施設の敷地内には放射性物質を含んだ汚泥が大量に仮置きされているという事実にも目を向けるべきでしょう。

 そうかといって、被災地からの瓦礫の持込みを拒絶するという圧力が行政に勝手なマネはさせないという効果を上げていることも事実です。表だった反対がなければどんどん事を進めていってしまうというのが政府や自治体のやり方ですから、それに対する歯止めとなっている効果は大きいと思います。
 それではどうしたらいいのかというと、反対派の人たちを説得すること、および反対派の人たちを納得させられるだけのプランを提示すること、このふたつを繰り返し行うことにつきるといえます。
 人間が大勢集まって社会をつくりあげている以上、何をやるにしても反対意見はつきまといます。意見や利害の対立による紛争を回避するためのシステムとして民主主義ができあがったと私は思います。専制国家が紛争や弾圧も辞さないということを考えれば、意見や利害の対立する人たちといかにして折り合いをつけていくかを探るのが民主主義の根幹であることがわかります。意見や利害の対立に決着をつける制度として、多数決や投票、裁判などがあります。これらの制度が有効であるのは、結論を出す前に意見が出尽くしている、それほど議論がなされているということが前提となっています。
 橋下市長は民意という言葉が好きなようですが、選挙に勝った候補者が民意を反映しているというのは強弁です。反対候補に投票した有権者もいるはずですし、棄権した有権者もいます。さらに投票率も考慮すると、当選者に対し投票した人というのは有権者全体のせいぜい3~4割程度にとどまるのが普通です。これは大阪市長選挙であっても同じことであり、橋下候補に対し消極的に投票しなかった有権者および積極的に投票しなかった有権者の方が投票した人よりも多い以上、自分は民意を代表するものだと思いこむのは間違いのもとだといえます。
 さらに、この候補者ならば4年間の任期中白紙委任状を託してもいいと考えて投票する有権者などどこにもいません。今は橋下市長を支持している人でも、今後不支持に回るかもしれないという可能性は否定できないのです。
 思い込みによって余計なことをされては迷惑だと考える市民が今後増えるとすれば、それこそ総論賛成各論反対そのものでしょう(小泉政権がそうなりました)。それを「全ては憲法9条が原因だと思っています」と決めつけるのは質が悪いといえます。橋下徹という政治家が稀に見る実行力の持ち主であるだけに、その弊害もこれまでの無能な政治家の比ではないと懸念されるのです。
by t_am | 2012-02-25 00:08 | その他
 橋下市長のツイートを読んでいたら2月15日には「ベーシックインカム」という言葉が登場しました。このツイートに関連して茂木健一郎さんもツイートをしていたので、どんなものなのか調べてみることにしました。

(橋下市長と茂木健一郎さんのツイート)
http://togetter.com/li/258030

 まず、Wikipediaによれば、ベーシックインカムとは「国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するという構想」という説明がなされています。つまり、毎月いくらかの現金を老若男女を問わずすべての国民に対し支給するというものであることがわかります。
 この世の森羅万象はもとより、人間がやることにも有益な面と有害な側面とがあります。有益な面の方が優勢だと判断されれば、その構想は実現されますが、時代や社会情勢が変わることによって有害な側面が強く出てくるようになると改革や廃止がなされるわけです。
 そのことを踏まえながら、以下ベーシックインカムという構想について考えてみたいと思います。

 橋下市長がベーシックインカムに興味を持つ理由は、行政組織をスリム化しコストを劇的に削減することができるというところにあるようです。たとえば2009年12月31日に廃止された社会保険庁の定員は18,622だったとのことです。(翌日設立された特殊法人である日本年金機構の職員は設立時22,000人であり、その内訳は正規・准職員12,000人、有期雇用職員10,000人。)要するに国民から集めた保険料を年金(ただし国民年金と厚生年金。公務員の共済組合は対象外)として配るためにこれだけの人員が必要だとされているわけです。仮に、ベーシックインカムが実現し、年金が生活保護や他の補助金や助成金と一本化されたとすると、これまで別個の事務処理をしていたものがすべてひとつに統合されることになります。したがって事務経費が大幅に削減できるという効果が期待できるわけです。

 この点に関して、堀江貴文さんがそのブログの中でこのように意見を述べておられます。「農業革命で人々は飢えることからある程度開放された。
産業革命で人々は労働時間からある程度開放され、余暇の時間を持つことができるようになった。
実は、多くの人はもう働かなくてもよくなった状態にあるのかもしれない。

でも働かないといけないという古い倫理観は残り、実は社会全体の富を増やす労働ではなく、社会全体の富を食いつぶしている負の労働があるのではないか、と思っている。

月20万の給料を貰って、実は社会全体は、その労働を作り出すのに月30万のコストをかけている、というような。だったら、ダイレクトに20万渡せば10万円セーブできるんじゃないかと思う。例を挙げるのはここでは控えるが、いくらでもあると思う。」

(堀江貴文さんのブログ)
http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10178349619.html
 
 「月20万円の労働を作り出すために社会全体は月30万円のコストをかけている」という意見は、私も全く同感であり、特殊法人への公務員の天下りはその典型的な事例であろうと思います。
 ベーシックインカムによって事務経費が削減されるということは大いに歓迎すべきことでしょうが、同時に公務員の余剰が発生するということでもあります。行政コストを削減するという目的からすれば、これらの余剰人員を別な部署で吸収するというのは許されるものではありません。ゆえにこれらの余剰人員となった人たちにはいったん失業していただいて、再就職は自己の努力と責任で行っていただきたいということになるのでしょう。

 同じようなことは、かつて明治政府により秩禄処分という形で行われました。徴兵制の実施により、士族の存在理由がなくなったことを契機に、士族に対し金禄公債を与え、その利息で生活するかそれを元手に事業を興すかして後は自力でなんとかせよ、というものでした。背景には財政難もあったのですが、要するに退職金を与えて一斉にクビにしたわけです。この政策によって士族の生活が苦しくなったことは事実であり、それが直接の原因というわけではありませんが、一連の不平士族の反乱(西南戦争など)が起こる要因のひとつになったと考えてよいと思います。
 私は、行政のスリム化に反対しているわけではありません。むしろ、野田総理がことある毎に強調しているように、(現状のやりかたを続けるためには)増税が不可欠であるというのも理解できます。その代わり、増税によって財源を確保できたとしても、そう遠くない未来に再び増税する必要に迫られる状況に陥るだろうということも目に見えています。ゆえに行政をスリム化することに賛成し、消費税の増税には反対する立場なのですが、あまり急いでや改革を進めるとと痛みが大きくなりますよ、ということを申し上げているのです。

 橋下市長が指摘するようにいろいろな補助金や助成金といった制度があり、それぞれ所轄している官庁も違えば部署も異なるわけです。ということはそれらの事務コストを削減しようとするならば、制度をシンプルなものにする以外にないということは私にもわかります。
 だからといって、セーフティネットをベーシックインカムというただひとつの制度に絞ってしまうのは弊害の方が大きくなると思います。なぜならば、生活していくのに必要最低限の金額というのは人によってまるで異なるからです。にもかかわらず、一律に支給するという硬直した発想では、それこそ餓死者が大量に発生することにもなりかねません。人によって支給額を変える(ということはそれを査定する)仕組みと人員を残しておかなければならないはずです。(これについては別稿で詳しく述べます。)

 バブル崩壊以降、コストというのは経営者にとってガン細胞に等しい存在になってしまったかのように思われます。利益=収入(粗利益)-経費(コスト)という単純な数式があるわけですから、コストを削減すればそれだけ利益を増やすことができるという考え方が間違っているとは思いません。しかし、そのような考え方で突っ走ってきてやがて二十年が経とうとしている現在、そろそろ弊害の方が大きくなってきているように思われてならないのです。
 別に人件費は聖域であるとは申しませんが、従業員を人件費(=コスト)という数値に置き換えて処遇してきた結果、自分がいつリストラされるかわからない、病気になったら医療費をどうやって捻出しようか、などの将来に対する不安が払拭できない社会になってしまったと思います。そういう社会では、宵越しの金は持たないという脳天気な消費行動をとる人がいるとは思えません。
 だからこそ、安心してお金を使い切ることができるようにするためにセーフティネットとしてのベーシックインカムが必要なのだということになるのかもしれませんが、生活保護や雇用保険、年金(国民年金は不十分ですが)といったセーフティネットは既に存在しています。それでも消費が伸び悩んでいることに現代社会の深刻な問題があるわけです。橋下市長を始め、多くの人たちは経済成長を達成することでその問題を解決することができると考えているようですが、ベーシックインカムを導入しても経済成長に寄与することはありません。消費に対して補助金を出しても効果はないのです。
 これまでも地域振興券や子ども手当、エコカー減税と補助金などさまざま制度が行われてきましたが、一部の企業の収益に貢献したという例はあっても経済成長に結びついたという成功例はありません。いや、それは今までの制度が一時的な支出にとどまっていたからであって、ベーシックインカムのように毎月支給するという制度であれば状況は変わるはずだといわれるかもしれません。けれども、公的年金として1年間に48兆円ものお金がが支給されている(平成21年度、厚労省の統計から)にもかかわらず、経済成長は達成されていないのです。
 ベーシックインカムも含めセーフティネットのための資金を企業に喩えると、運転資金を企業に融通するようなものです。運転資金を融通されたら企業が成長するかといえばそんなことはないのであって、企業が成長するには投資に充てる資金が不可欠なのはいうまでもありません。
 セーフティネットがなぜ必要なのかといえば、それがないと餓死しかねない人たちがいるからです。セーフティネットを経済成長に結びつけて考えるのは間違っています。

 余談となりますが、明治政府があれほど弾圧的な統治スタイルをとったのは、不平士族の反乱に懲りたからだともいえます。民衆というのは放っておけば何をするかわからないのだから、強権によって抑えつけなければ秩序を維持することができない。最悪の場合は政権が転覆しかねないという発想が出てくるのは当然でしょう。現代でも、海の向こうを始め、そういう国はいくらでもあります。
 明治政府に学ぶところがあるならば、急激な改革にはそれだけ大きな軋轢がつきまとうのであり、それを放っておけば政権の転覆につながりかねないのですから、政府に対する不平や不満を抑え込んで秩序を維持しようとするのであれば、国家は強権を発動する道を選択するということです。
 総論賛成各論反対という言葉があるように、人間は自分に直接影響がないと思えば改革に賛成しますが、実際に改革の内容が具体化されてきて自分に不利益が生じるとわかるとただちに反対に転じるという生き物です。明治維新は、政府がそのような反発に対し、不退転の決意で臨み、これを抑えつけて完成させた革命だったといえます。
 橋下市長が率いる大阪維新の会も同じ「維新」を名乗っています。そこには、いかなる反対があろうとも、断固としてやり遂げるという強い決意を持っているのでしょう。今、橋下市長を支持している人たちが将来反対する立場にまわるということも十分考えられることですが、そのとき橋下市長がどのような態度に出るのか、敵対する勢力に対する市長のこれまでのやり方をみていると既に答えはでているにように私には思えます。
by t_am | 2012-02-23 21:32 | その他
 「しあわせになりたい」とか「この人をしあわせにしてあげたい」というのは誰もが持つ気持ちであろうと思います。不幸になりたいという人も中にはいるかと思いますが、大部分の人はしあわせになりたいと思っているはずです。
 この「しあわせになりたい」には二通りの意味があって、「今はしあわせではないからしあわせになりたい」という場合と「今はしあわせだけれども、将来もしあわせでいたい」というものです。それはとても自然なことなので、とやかく言う必要はないのですが、このような時代にあって、しあわせとは何だろうかと一度考えてみることもいいのではないかと思います。

 しあわせとは何かを考えるうえで、ひとつ実験をしてみましょう。決して難しいものではありません。あなたがしあわせだと思うことを想像していただくだけでいいのです。ただし、ひとつではなくふたつ以上、多ければ多いほどよいでしょう。ちょっと考えてみていただけますか。



 はい、いくつか思い浮かんだことと思います。
 そこで質問ですが、「あなたがしあわせだと思うことにはどれも共通するものがひとつあるはずです。それはなんでしょう?」というものです。私には、あなたがしあわせだと思うものが何かはわかりません。でも、それらの中に唯一絶対に共通するものがあるということはわかります。それはなんだと思いますか?



 あなたが思い浮かべたしあわせの中で、唯一絶対に共通するもの。それは、「あなた自身がそこにいなければならない」ということです。あなた自身がそこにいなければ、それはあなたにとってしあわせであるとはいえませんよね。
 このことは別な見方をすれば、しあわせだと感じるあなたがいるからしあわせなのだ、ということになります。なぜ、しあわせだと感じるのかという理由は無数にあります。以前しあわせだと感じたのと同じ状況が再現されたとして、同じようにしあわせだと感じられるとは限りません。むしろ、それはあなたにとって当たり前のものであり、今更しあわせだというのも変だということになるのではないでしょうか。
 そのように考えてゆくと、しあわせというのはそのときの心の状態をあらわす言葉であって、その人が置かれた状態や境遇を示すものではないということに思い当たります。したがって「しあわせになる」というのは、実は「しあわせだと感じられるようになる」というのと同義語であって、それには2通りのアプローチがあります。
 ひとつは自分のまわりを変えること。それは「自分が今持っていないものを手に入れる」ことで達成されます。車、洋服、家、恋人、赤ちゃん、etc…。
 その代わり、これらのものは手に入れてしまえば、それ以降は「あるのが当たり前」となりますから「しあわせだと感じられる」状態が長続きするものではありません。だから、人は次々と色々なものを手に入れたいと思うわけです。運良く手に入れられればよいのですが、そうでない場合その人は「しあわせだと感じられない」状態が続くことになります。それだけならよいのですが、今度は逆に「失うことの悲しみ」も背負う場合もあるということは覚えておいた方がよいと思います。

付記
 わが子が成長して親元を離れてゆくのは、こどもを失うことではありません。三砂ちづるさんがその著書「オニババ化する女たち」(光文社新書)の中で、カーリル・ギブソンの「預言者」という本に出てくるこどもに関する詩を紹介しています。
『子どもはあなたの子どもではない。あなたの弓によって、生きた矢として放たれる。弓をひくあなたの手にこそ、喜びあれと』


 ふたつ目のアプローチは、「しあわせだと感じられる」ハードルを下げることです。(これは村上春樹さんもエッセイの中で、「小さくて確実な幸せ」として指摘しています。)
 昭和三十年代がよい時代であったと懐かしむ動きがあります。あの時代は現代と比べると何もない時代でした。ものの豊富さ、社会の豊かさからいえば現代に暮らす私たちの方がずっとしあわせであるはずですが、それならばあの時代を懐かしむ必要はないことになります。
 ということは、人間はなにも持たなくともしあわせだと感じることができる、ということであり、すなわちあの時代の人たちは「しあわせだと感じられる」ハードルが現代よりも低かったということになるのです。


 今自分が持っていないものを数えて、しあわせを手にするエネルギーとするのを私は否定しません。現に人類はそうやって今日までやってきたのですから。
 ただし、そうやって手に入れてきたものの中には嘘やペテンまがいのやり方で入手したものもあって、その綻びが明らかになったのがあの原発事故だったのではないかと思います。
 あの事故に学ぶところがあるとすれば、私たちがこれまで通り「今自分が持っていないものを求めてしあわせを追求する」道をとるのか、それとも「すでに自分が持っているものをみて満足する」道を選ぶのか、そろそろ選択する時期に来ているのではないかということになると思います。
by t_am | 2012-02-06 23:13 | その他
5.教育に競争原理を導入したらどうなるか
 競争原理の前提は自由競争(誰でも自由に市場に参入できること)が担保されていることであると申し上げてきました。教育に競争原理を導入するというのであれば、新規参入が自由にできるように規制を撤廃するか、既存の学校の自由度を大幅に高めてやらなければなりません。その際に、教育における優勝劣敗とは何なのかという合意が明示的に成立させておく必要があるといえます。
 「すぐれた教育をする学校は生徒が集まり、そうでない学校は定員割れを起こす」という指標は有効なようにみえますが、そもそも募集定員という数字はいくらでも変えられるわけです。私が大阪市の学校の校長だったら、自分の学校を存続させるために地域の児童数よりも少なめの定員を設定し、余った教室は貸出して収入を上げる、くらいのことはやるでしょう。
 あるいは、以前も書きましたが、成績別クラス編成を断固実施して教育の効率を高めるということも行うかもしれません。その場合、算数は得意だけれども国語は苦手というこどももいるので、科目別にクラス編成が異なるということになります。そのようなやり方は教育の効率を高めることにはなりますが、こどもたちを分断するものですから、いつまで経っても友達ができない生徒も出てくるかもしれません。
 
 いささか極端な例を書いてしまいましたが、どの学校を選択するかという決定権が子供にあるわけではなく、実際には親がその決定権を持つことになります。そうなると、親の目から見て「よい学校」には生徒が集まり、そうでない学校には生徒が集まらないということになると思われます。

 親から見て「よい学校」とはどういう学校なのでしょうか? それはこどもにとっても「よい学校」なのでしょうか?

 ビジネスにおける市場では、「ものすごく売れる商品」と「そこそこ売れる商品」と「あまり売れない商品」と「まるで売れない商品」とがあります。「あまり売れない商品」を買う人というのは「ものすごく売れる商品」では満足できない人です。(ユニクロで売ってる服では満足できない人というものを思い浮かべていただいたらよいと思います。)
 さらに、市場には消耗品のように「消費者がしょっちゅう買い求める商品を扱う市場」と「一度買ったら十年は買い換える必要のない商品を扱う市場」があります。

 学校が、社員教育のように単一の目的の教育を行うところであれば、競争原理を導入しても何の問題もないと思います。しかし、すべての子供がホワイトカラーになるわけではありませんし、商社やメーカーに就職して海外勤務に従事するわけでもありません。私たちの社会は様々な職業の人によって成り立っているにもかかわらず、学校をその一部だけを対象にした人材養成所にしてどうするのかと思ってしまいます。
 こどもが学校に求めるものは、勉強したいという思いを充たしてくれるところであることはもちろんですが、それ以外に、自分の居場所がそこにあることだと私は思っています。
 こどもの居場所を守るために教師は存在するのであり、ときにはそのために身を張ることだって求められるかもしれません。

 ここまで書いて、昔読んだ星新一のショートショートを思い出しました。うろ覚えですが、だいたいこんな感じだったと思います。

 特殊な体臭(腋臭をもっと強烈にしたものを想像してください)を消し去る石鹸を製造している会社があった。それは本当にすぐれた石鹸で非常に高価なものだったが、どのような悪臭であっても消し去ることができた。ところが、どんなに宣伝しても1ヶ月に5個しかその石鹸は売れなかった。どんなに頑張っても赤字が解消できなかったので、その会社ではやむなくその石鹸の製造と販売を中止した。
 その翌月5人の女が自殺した。


 教育に競争原理を導入することは、大人にとってはよいことなのかもしれませんが、こどもにとってはどうなのでしょうね?
by t_am | 2012-02-05 17:39 | その他
4.進化論的幻想と市場原理が成立するための前提
 「競争社会では優勝劣敗のメカニズムによってすぐれた特徴を持つものが残り、そうでないものは退場させられることになる。これを繰り返すことによって経済は繁栄発展し、国民生活は豊かなものになっていく。」というのが新自由主義者たちの主張です。既に申し上げたように、自由競争が担保されている業界ではその通りになるかもしれませんが、何が豊かな生活なのかという座標軸が変われば違う結論が導かれるのではないかと思います。
 自動車を例にとってみると、今では軽自動車であってもオートエアコン、パワステ、パワーウィンドウ、キーレスエントリーは標準装備というようになっています。装備がいい車がそうでない車を市場から駆逐するという優勝劣敗のメカニズムが働いた結果このようになったわけです。たしかに軽自動車はより便利で快適な乗り物となりましたが、その代わり車体価格が百万円を超えるのが当たり前となりました。十年以上デフレ傾向が続いている中で、このような「値上げ」は、地方で暮らすユーザーにとっては痛手です。(都会であれば車を持たないという選択もできるのでしょうが…。)
 もうひとつ、パソコンのソフトを例に取ってみましょう。代表的なソフトでMicrosoft Officeはここ15年間の間に5回のバージョンアップを繰り返してきました。そのたびに機能が追加され、より便利により使いやすくなったのは間違いありませんが、Excel97を未だに使っている事務所の生産性がExcel2010を使っている事務所の生産性よりも劣っているという報告は聞いたことがありません。通常の業務に必要な機能というのは、別にバージョンアップしなくても、最初から搭載されているからです。(世の中には未だにOffice97を使っている会社もあります。)
 パソコンソフトの場合デファクトスタンダードとなることを目指してつくられているわけですが、機械と違って耐用年数というものがありません。したがって理論的には未来永劫そのソフトを使い続けることは可能となります。しかし、そんなことをされたらソフトウェア・メーカーはたちまち倒産してしまいますから、適当なタイミングでバージョンアップを行うわけです。その場合デファクトスタンダードとなっているソフトであれば、皮肉なことに自社の旧製品が競合製品ということになります。そこで、何とかして新しいバージョンのソフトを購入してもらおうとするわけです。
 最近、adobe社では、年間契約により月額5千円を払い続けることによりすべてのクリエイティブ製品を使うことができるという「サブスクリプション」制度をスタートさせると発表しました。月額5千円を払ってもらえば常に最新バージョンの製品を使い続けることができるというものです。これは無期限の分割払いみたいなものであり、自動車に喩えれば、3年のオートリースを繰り返すことで絶えず新車に乗ることができるようなものだと思えばよいのかもしれません。そういえば、コピー機もリース期間が終了するとより進化した新しいコピー機でのリース契約がスタートすることが多いようです。便利になる代わりコピー枚数が大幅に増え、コピー用紙などの消耗品の使用量が大幅に増えるという副作用もありますが…。

 すぐれた新製品の市場への投入が従来の製品を駆逐していくのは事実(同一メーカーで競合する場合旧製品の生産を打ち切るから)であり、見た目は優勝劣敗というメカニズムが働いているかのように見えます。その結果として社会全体ではより便利で快適な生活が実現されるということも事実でしょう。
 そうやってすぐれた製品やサービスが劣ったものを淘汰していくという説明が行われていますが、実際はそうでもないように思われます。むしろ、新しい製品やサービスが投入されるのは消費者に買い換えてもらうためであり、その動機付けとして新しい機能が附加されているのだろうと思います。極端ないい方をすれば、今使っているものを捨ててもらっても構わないので新しいものに買い換えてほしいというのが供給する側の本音ではないでしょうか。
 冒頭に申し上げたように、「競争社会では優勝劣敗のメカニズムによってすぐれた特徴を持つものが残り、そうでないものは退場させられることになる。これを繰り返すことによって経済は繁栄発展し、国民生活は豊かなものになっていく。」ということが実現するためには消費が停滞するようなことがあってはならないわけです。食品や消耗品のように使ってしまえばなくなるというものはともかく、耐久消費財では一定の期間が過ぎたらすみやかに買い換えてもらった方がいいわけです。ゆえに、市場原理とは旺盛な消費活動が持続的に行われる社会で成立するものであるといってよいと思います。

 時代は変わり、現代は誰もが将来の心配をしながら暮らしている時代であるといえます。資源やエネルギーの心配もさることながら、自分が年老いたときの年金はどうなるのだろうかとか、給料が上がる可能性は低いのに増税が既定路線のように語られ、社会保険料の負担は増えていく、といったのが現代の社会です。そのような社会では耐久消費財の買い換えについて誰もが慎重になります(現に自動車の買い換え年数が延びています)から、その分消費は停滞することになります。さらに、少子化も進行しているのですから、市場規模は将来に向けて間違いなく縮小していくことになります。
 そのような社会であっても競争が発生することに変わりはありません。縮小する市場での競争がどんなものか想像してみると、誰もが本来必要とするだけのパイを得られない状態、というのがまず考えられます。多くの企業で損益分岐点を下回る売上しかあげられないために、リストラや不採算事業のカットを繰り替えさえなければならないことになるでしょう。その分失業者は増えることになり、運良く再雇用された労働者もパートや非正規雇用がほとんどであり、以前のような収入を維持することは難しくなると思われます。そうなると、家計の購買力はそれだけ衰えることになるので、市場はさらに縮小していきます。

 その行き着く先は寡占です。

 自由競争が行われない産業では寡占化が進み、市場が縮小する場合でも寡占化が進むわけですから、市場原理や競争原理は限られた条件の下でのみ有効に作用すると考えた方がいいのかもしれません。
by t_am | 2012-02-05 17:37 | その他
2.敗者が脱落する事情 その1
 競争原理と市場原理の教えるところは、市場に選択されなかった製品やサービス、企業は退場するというものです。簡単にいってしまえば、ものが売れなければ事業として成り立たないという理屈なのですが、実際のところはちょっと違うのではないかと思います。
 今週、ソニー、シャープ、パナソニックという家電メーカーが軒並み赤字に陥るという発表がありました。その理由としてテレビ事業の不振ということがあげられています。韓国のメーカーとの競争により、テレビも価格競争に陥ったことで収益があげられなくなったというのです。
 日本のメーカーのテレビが売れていないかといえばそうではありません。売れてはいるのですが、安い値段で売らざるを得ないために利益が出せない(高くすれば売れなくなる)というジレンマに陥っているわけです。
 この場合、市場は日本メーカーのテレビを選択していないということになるのでしょうか? だって相変わらず売れているのですよ。消費者はメーカーの収益構造を考えて買い物をするわけではありません。消費者が欲しいと思うものが「市場が選んだもの」であり「すぐれた製品やサービス」なのです。
 このように考えると、競争の敗者が脱落するのは「市場に選ばれなかった」ためではなく、「その事業では収益をあげられなくなった」ことが理由なのではないかということに思い当たります。逆のいい方をすれば、収益さえ上がっていればあまり売れなくても事業を続けていくことは可能です。
 唐突ですが、しゃもじといえば炊飯ジャーの付属品を使っているご家庭が多いのではないでしょうか(我が家もそうです)。材質はポリプロピレンがほとんどであり、木のしゃもじを使っている家庭はほとんどないといってもよいとおもいます。つまり、しゃもじの市場はポリプロピレンの製品に席巻され、昔ながらの木のしゃもじは敗者となってしまっているわけです。それでは木のしゃもじをつくっているメーカーが「退場」しているかというとそうではありません。
 広島県の宮島(厳島神社のあるところ)ではあいかわらず木のしゃもじの生産が島の重要な産業となっています。(ただし、工芸品としてのしゃもじの生産も行っていますし、広島県に本拠地をおくスポーツチームの試合の応援ではしゃもじが使われています。)また、青森県の田子町には青森ヒバを使ったしゃもじの通販を行っている会社もあります。(ただししゃもじだけを扱っているわけではありません)
 全国規模でみれば、木のしゃもじの販売数量などタカが知れているわけですから、優勝劣敗の原則からいえば、これらのしゃもじを製造しているところはとっくに退場していていいはずです。しかし、実際にはそうはなっていないのですから、競争の勝者となれなくともその事業による収支が合っていれば事業を継続することができると考えるべきでしょう。要は、その製品やサービスに対する需要に見合った規模の企業であれば何ら問題はないわけです。現に、商店街の店舗などはどれもこのパターンに合致するといえます。


付記
 日本の家電メーカーの赤字の要因として記録的な円高による輸出の減少もあげられています。為替相場の変動や天災による工場の操業停止という要因による供給の変動を競争原理も市場原理も想定していません。理由はどうであれ結果しか見ないよ、というのがこれらの考え方です。それで優勝劣敗というのは現実と乖離しているのではないかとも思います。



3.敗者が脱落する事情 その2
 商店街の爺さん婆さんが何とか食べていけるだけの売上しかなくても店を続けていくことは可能です。それでも現実には商店街は衰退する一方であり、シャッター通りとなっている商店街も全国の至る所にあります。その理由の最たるものは、後継者がいないということに尽きます。息子や娘がいても家業を継ぐわけでなく、勤めに出てしまっているので、店番をしている爺さん婆さんの身体が動かなくなれば店を閉めざるを得なくなるのです。
 このような個人商店を競争の勝者であるということはできないでしょうが、勝者でなければ敗者だとしてひと言で片付けてしまうのもどうかと思います。市場というのは売り手と買い手の総体であって、その中にはさまざまな需要と供給が存在します。宮島や青森ヒバのしゃもじにしても、経営コンサルタントは「細分化された市場の中での勝者である」というかもしれません。つまり、しゃもじ全体の市場ではなく、木のしゃもじに対する需要という市場の中での勝負という考え方をするだろうということです。しかし、それを言い出すと、優勝劣敗の原則に基づき市場に選択されなかった企業や製品、サービスには退場してもらうという新自由主義者たちの主張に矛盾が生じることになります。市場を細分化するたびに勝者が生まれるわけであり、競争に敗れたから退場するという主張の根拠とはならないのです。
 どうやら、彼らの主張は「市場から実際に退場したものが敗者であり、残っているものは勝者である」(つまり、ほとんど無意味)と理解した方がよいのではないかと思います。

(この稿さらに続く)
by t_am | 2012-02-04 16:36 | その他
 かつて日本経済は政府が介入して供給を調整するという方法がとられていました。それは、規制によって市場への新規参入を抑制し、同時に1ドルを360円に固定することで輸出を促し、輸入品の流通を制限するというものでした。敗戦後の日本経済の復興にあたり、このようにひな鳥を育てるかのような手法が有効であったことは否定できません。供給の調整が日本の経済成長に寄与したところは大きかったと思います。(その代わりマイナス面も大きかったのですが・・・。)
 その後日本の市場規模が大きくなり、アメリカも日本に対する輸入超過が無視できない水準になったことから、日本に対して政策の転換を求めるようになりました。まず、円が変動相場制に移行しましたが、日本企業は為替の変動による価格の上昇を吸収することによって相変わらずアメリカに対する輸出超過(向こうからすれば輸入超過)が続きました。
 そこでアメリカは日本に対し市場の開放を要求するようになったのです。1980年代に農産物の自由化(その象徴としてオレンジの自由化)が議論の対象になったことをご記憶の方も多いと思います。中曽根内閣では内需拡大というスローガンを掲げ、それに呼応するように豊かな消費生活がいわれるようになりました。日本人はウサギ小屋に暮らす働き蟻であるという指摘が紹介されたのもこの頃だったと思います。
 国内でも、流通業のように、規制に辟易する新興勢力の台頭もあって、自由競争の実現こそが経済社会を繁栄させるのだという思想が語られるようになったのもこの頃であり、その影響は今も強く残っています。

 自由競争とは、誰もが市場に新規参入できるという機会の平等を担保するものであり、競争原理が有効に機能するための大前提となっています。競争原理とは勝者が獲得し、敗者は得ることができない(優勝劣敗)という苛酷な原理ですが、自由競争によって新規参入が続くことによって市場は絶えず活性化され、競争の参加者たちに対し、よりよい製品やサービスを市場に供給することを促します。それができないプレイヤーは敗者として退場せざるを得なくなるからです。
 市場原理とは、政府が市場に介入するのではなく、自由競争に任せることで供給と需要のギャップが自動的に調節され、経済の繁栄と発展をもたらすという考え方のことをいいます。

 自由競争による市場原理が機能している事例として、最近ではYahoo!、Google、Twitter、Facebookなどのインターネットにおける新興企業の台頭によって私たちがその恩恵を蒙っていることがあげられます。

 このような事例が現実にあるものですから、市場原理を導入して市場の判断に委ねるべきだと主張する人の言い分にも一理あると思います。それはそれで構わないのですが、ビジネス以外の分野にも市場原理を導入するために競争状態を実現させようという主張もあります。教育に関していえば、安倍内閣のときに教育再生会議が設けられ競争原理を導入すべきだという提言が行われましたし、最近では大阪市の橋本市長も同様の主張をしています。
 この時期に競争原理の導入ということがいわれ出したのは、少子化による教育における需要と供給のアンバランス化が今後進行していくということもあったのかもしれません。戦後、こどもの人口が増えるにつれて高校や大学が新設され続けてきたわけですが、時代は変わり、少子化という局面に入っているのですから、学校の余剰問題をどうやってクリアするかという難題を抱え込むことになったわけです。そこで競争原理にお任せしようという目論見もあったのではないかと勘ぐってしまうのです。
 もちろん教育に競争原理を導入すべしと主張する人たちは、そうすることで教育がよくなると大真面目で述べているのであり、少子化時代における余剰校問題のソフトランディングということを念頭においているわけではないようです。

 いいことづくめであるかのようにみえる市場原理と競争原理ですが、ビジネス以外の分野でも導入すべしという主張には違和感を覚えます。そこで市場原理や競争原理は本当にいいものなのかをを本稿では考えてみたいと思います。

1.競争原理には前提がある
 既に述べたように、競争原理の大前提は自由競争が担保されていることです。TwitterやFacebookを興したのはどちらもアメリカ人の二十代の若者です。彼らがどれだけの資金を持っていたかは知りませんが、ほとんど徒手空拳というところから出発したからこそアメリカンドリームとしてもてはやされるのでしょう。(これはビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも同様です。)
 ところが、既に成熟している業界では新規参入が事実上不可能になっています。今から自動車メーカーを興そうという人はいませんし、一からコンビニのチェーンをつくろうという人もいません。なぜかというと、これらの成熟した業界は装置産業となっており、事業の展開には莫大な資金が必要になってしまっているからです。
 このような業界では新規参入という機会の平等が存在しません。それでも優勝劣敗というメカニズムは働きますから寡占化が進むことになります。
 売り手と買い手が対等の存在でいられるのは買い手の側に選択の自由がある場合です。買い手の側に選択の自由がなければ売り手が提示する価格で購入する以外に方法はありません。(そのことが深刻な問題として現れているのが昨今の労働市場です。)このような状況に陥ってしまうと競争が経済の繁栄と発展をもたらすというのは本当なのか疑問に思ってしまいます。

(この稿続く)
by t_am | 2012-02-04 16:34 | その他