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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 今週、マグニチュード7程度の地震が今後4年以内に発生する確率は70%という東大地震研究所の発表が報道されました。

(東大地震研究所のサイト)
http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/eqvolc/201103_tohoku/shutoseis/

 過去にこのブログに書いたように、数十年というスパンでの地震の発生確率を発表することについて、何か意味があるのだろうか(そんなに長い期間危機意識を持続できる人間はいません)というのが私の基本的なスタンスです。

(地震発生確率は意味があるのか?)
http://tamm.exblog.jp/10167478/

(災害発生確率と不作為がなぜ起こるのかについて)
http://tamm.exblog.jp/16993281/


 今回の東大地震研究所の発表は今後4年以内という比較的短いスパンでのものですから、人々を不安に陥れるものというよりは、地震に対する対策を速やかにとった方がいいという注意喚起のメッセージとして理解すべきだと思います。事実、東大地震研究所のサイトでも「※ 報道関係の方へ: 関連する内容を掲載の場合は,個々人の取れる地震対策にも触れてください.」という断り書きが掲載されており、同じサイトの後半にはどういう対策をとればいいのかが具体的に記載されていますから、この研究をまとめた酒井慎一准教授の真意もそこにあるのだろうと推測されます。
 東日本大震災の教訓は、事前の備えがあればもっと被害は少なくなっただろうということと、危機意識がなければ備えに結びつかないというものです。地震が起こる確率が70%というのは、起こらない確率が30%あるということにもなりますが、そのように数字で捉えて一喜一憂することにはあまり意味がないと思います。こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、30年以内の地震発生確率98%のように数字を細かくするともっともらしくなるということを忘れてはなりません。そもそも地震発生確率は統計によって導かれたものですから必ず誤差がつきまといます。問題はその誤差がどれだけあるのか(コンマ数パーセントなのか、数パーセントなのかあるいは数十パーセントなのか)が誰にもわからないところにあるということは忘れない方がよいと思います。したがって、細かい数字まで書かれているからといって、それが正確であるという保証はだれにもできないのです。
 そのようなことから、今回の発表は、大きな地震が起こる可能性が否定できないので、その備えをしておいた方がいいですよというメッセージであると考えた方がよいということがわかるのです。

付記
 素人に過ぎない私がこういうことを申し上げるのは僭越ですが、地震について冷静に考える材料になればと思うことを以下に書いておきます。

1)マグニチュードと震度の違い
 マグニチュードは地震の規模を示す数値ですが、地震による被害はその場所の震度によって左右されます。マグニチュード7程度というのは相当大きな地震であることに違いはありませんが、その地震がどこで発生するかによって被害の発生状況は異なります。
 マグニチュード7クラスの地震といっても、震源地から距離が離れれば、それだけ震度も小さなものになります。震度5ともなるとかなりのゆれを感じますが目立った被害が発生することはありません。本当に怖いのは震度6を超える激しいゆれに襲われた場合ですが、事前の他対策を講じておくことで被害を軽減することは可能です。
 
(地震から身を守るためのガイドライン)非常に有意義なサイトです
http://www.advertimes.com/20120126/article51667/


2)直接的な被害と間接的な被害
 地震の被害には直接的な被害と間接的な被害があり、それは区別して考えた方がよいと思います。
 直接的な被害(家具が転倒したり窓ガラスが割れる、屋根瓦が落ちてくる、地面が陥没するなど)は、震度6を超えない限り発生することはありません。ただし、その土地の地地盤が悪い場合は震度5以下であっても家屋の被害が発生することもあるので、ご自分が住んでいるところの地盤がどうなのか知っておいた方がよいと思います。一般に、湿地や田んぼを埋め立てた土地は地盤が悪いことが多く、また、地名にその土地が以前どういうところだったかを知る手がかりが残されている場合もあります。
 また、直下型地震の場合(このときはドーンというまるでトラックが衝突したかのような大きな音がします)は、たとえ地盤がよいところであっても縦揺れを伴うことがあり、そうなると震度5以下でも家屋に被害が発生することがあります。逆にいえば、大きな音を伴わない地震は直下型ではないということになりますから、激しいゆれを伴わなければ慌てる必要はないと考えてよいでしょう。

 間接的な被害とは、停電や断水、通信の途絶、鉄道の運行停止、道路の渋滞などをいいます。東日本大震災のときに東京で多くの帰宅難民が発生したように、間接的な被害は震源地から離れていて地震による直接的な被害がない地域でも発生します。
 一般に、地震対策として紹介されているものは直接的な被害に対するものが多いといえます。間接的な被害の対策として思い浮かぶのは水や食糧などの備蓄ですが、それ以外の対策として、たとえば停電が起きたらどうしたらいいか、あるいは電車が止まったらどうしたらいいかなどについて普段から考えをまとめておくとか家族で話し合っておくということが有効だと思います。

 たとえば、水道が断水した場合、水洗トイレは1回使ったらタンクの中が空っぽになりますから、次からは水を流すことができなくなります。(マンションのように貯水槽がある施設では貯水槽に水が残っている間は大丈夫です。)そのため、普段からお風呂の水はなるべく溜めておくように心がけておいた方がよいといえます。

 その際には安易に結論を出してしまわないことがポイントです。比較的簡単に考えつく対策は誰もが思いつくものですから、見方をかえれば皆がそれに殺到するということでもあります。東日本大震災では津波から逃げるために車を使う人が多かったために道路が渋滞し、結果として津波にのみ込まれたというケースが多発しました。このように予想もしなかった事態が起こることによって予定していた対策が不可能になることもあるのです。
 また、電話が通じなくなってもメールやツイッターは使える可能性が高いということが東日本大震災で明らかになりました。
 それでもメールだけが通信手段というのもリスキーですから、家族のツイッターのアカウントを知っておくというのも有効だと思います。(プライバシーの問題もあるので非常時用のアカウントをあらかじめ取得しておき、それを家族にフォローしておいてもらうという方法もあります。)

 三人寄れば文殊の知恵という諺があるように、ひとりで考えるのではなく、家族や親しい友人と話し合うことで効果的な対策を見つけ出すことができるはずです。できればその通りうまくいくのかどうか、実験しておくと完璧だと思います。
by t_am | 2012-01-27 01:13 | その他
橋本市長と水戸黄門
 唐突なタイトルですいません。この類似性は小田嶋隆さん(大阪に住んでいたことがあるそうです)の指摘です。

(平川克美さんと小田嶋隆さんの対談)
http://www.radiodays.jp/item_set/show/517

 どういうことかというと、大阪では市役所も郵便局も職員の態度が悪い(これは警察官も同じ)のだそうです。したがって庶民は役人を敵視しており、役人もまた庶民に対し「おいこら」という態度なのだそうです。
 水戸黄門では庶民を虐げる悪代官が登場し、それをより上位の権力者である水戸黄門が懲らしめる。それを見て視聴者はスカッとするという構図が同じです。
 だから橋本市長を独裁者と批判することは却って大阪の人たちの反発を招くことになるというものです。
 さらに、悪を糺すのは強力な権力を持った者であり、庶民が自ら立ち上がるわけではないとも指摘されています。この部分は大阪だけでなく日本人全体に通じることですね。

 これを聞いて橋本市長の人気の理由がわかったような気がします。気になるのは、水戸黄門は庶民に見送られて旅立てばいいのですが、橋本市長の場合はそうはいかないということです。気にくわない役人を懲らしめもらって、それでめでたしめでたしというわけにはいきません。むしろその後の方がはるかに大事なのです。
 逆説的な言い方になりますが、私たちが水戸黄門のようなキャラクターを歓呼をもって迎えようとする限り、私たちは水戸黄門によってしか救われない境遇からいつまで経っても抜け出せないだろうということです。
by T_am | 2012-01-25 21:54 | その他
 平成10年度以降自殺者が毎年3万人を超えている(平成9年度の自殺者はは24,391人。昭和53年以来毎年2万人を超えていました。)中で、政府が毎年3月に行っている自殺対策強化月間の今年度のキャッチフレーズを「あなたもGKB47宣言!」に決まったというニュースがありました。

(政府が自殺対策強化で「GKB47宣言!」 「ゴキブリ?」「馬鹿にするな!」とネットで非難-J-CASTニュースより)
http://www.j-cast.com/2012/01/24119773.html


 お気づきのように、このキャッチフレーズはAKB48をもじったものであり、内閣府自殺対策推進室もそのことを認めています。それでも「今回これだけ話題になり、メディアで取り上げていただいたことは、自殺者をなくすための大きなPRになったのではないか、と考えています」というコメントを出しているとのことです。
 まあ、別にキャッチフレーズなどどうでもいいのであって、今回これを取り上げたのは、下記にあるとおり少なくとも平成20年度から予算がついて活動を行っているにもかかわらず3万人を超える自殺者の発生に歯止めがかかっていないからです。


平成20年度予算     14,446,242千円(自殺者 32,249人、警察庁発表による)
平成21年度予算      13,577,505千円(自殺者 32,845人)
平成22年度予算      12,446,000千円(自殺者 31,690人)
平成23年度予算(案)   13,421,344千円(自殺者  -    )


(内閣府「自殺対策」のサイトのうち「自殺対策関係予算案」)
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/yosan/index.html


(自殺者数の年度推移)
http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm

 自殺対策推進室の中には真面目に仕事に取り組んでいる職員もおられるはずなので、このようなことを申し上げるのは心苦しいのですが、毎年百億円以上の予算を使っていながら効果がほとんど現れていないというのはやり方に問題があるといわざるを得ません。(そういうところを放置しておいて、国の借金は1千兆円に迫っているだとか財政再建は待ったなしだとかいわれても、まともに耳を傾ける気にはなりません。)

 毎年巨額の予算を使いながらなぜ効果が上がらないかというと、自殺対策推進室に何の権限も与えられていないからです。警察庁発表資料によれば、職業別自殺者数をみると、ワースト3は無職者、被雇用者、自営業となっています。つまりこれらの人々に対するセーフティネットを整備しなければ自殺者数を減らすことはできないのですが、そのために面倒な手続きと制約の多い申請条件がネックになっているものと想像されます。すなわちセーフティネットが一応あるにもかかわらず充分に機能していないと考えられるのです。それを改善するには各省庁の縦割り行政の壁を突破しなければなりませんが、自殺対策推進室に対しそれだけの権限が与えられているわけではありません。また、被雇用者の自殺は職場のパワハラが原因の多数を占めているものと思われます。大企業ではパワハラやセクハラに対する窓口を設けているところもありますが、中小企業ではまだまだ不十分です。窓口がある企業でもそれが活かされているかどうかは疑問です。相談したことによってかえって上司による報復を受けるかもしれないと二の足を踏む人もいるでしょうから。そこで、たとえばパワハラが原因と思われる患者を診察した医師は、そのことを市町村の窓口に通報することを義務づけるなどの法整備も必要だろうと思います。
 そうなると政府全体を動かさなければならないのですが、それだけの権限が自殺対策推進室に与えられているわけではないでしょう。だからこそ、自殺対策強化月間などというお茶を濁すようなことに大真面目に取り組んでいるわけです。

 自殺対策推進室という名称がつけられていますが、実体は事務処理のための組織に過ぎないのでしょうね。だから自殺対策推進会議(第1回は平成20年2月12日に行われています。平成24年1月23日に開催された会議は第15回とのことです)を延々と行っていながら、あいかわらず毎年3万人を超える自殺者が発生しているわけです。

(自殺対策推進会議)
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/suisin/index.html


 私は自殺対策がムダだと申し上げているわけではありません。毎年百億円を超える予算を使いながらたいした効果も上げられない自殺対策推進室という組織の仕事のやり方が無意味だと申し上げているのです。その挙げ句「あなたもGKB47宣言!」であり、しかもポスターまでつくって全国に配布するというのですから、気楽な職場だと思います。結局自殺者対策に取り組んでいますというアリバイづくりが政府の目的であって、予算獲得の口実に使われているのだろうということです。
 今朝の新聞で民主党の岡田副総理は消費税率は将来10%超にしなければ立ちゆかなくなるという発言をしていましたが、その前にこういう無意味な仕事をしている組織をなんとかしてもらいたいと思います。
 自殺者対策が不要であるとはいいませんが、予算を使う以上効果のある仕事をしたらどうかと思うのは当然でしょう。にもかかわらず、自分たちがやっている仕事の成果の検証もしないまま惰性のように予算を使い続けるという習性が官僚にはあります。(実をいうと、これは官僚に限ったことではないのですが……)

 今回は、自殺対策推進室を批判していますが、よく考えてみると私たちが政府のやっていることに対してあまり関心を持ってこなかったからこそ、こういうことがまかり通っているのだろうとも思います。会計検査院は何を見ているのだと責めることもできますが、それでは何も変わりません。この国を、この社会を住みよいものに変えていこうと思うのであれば、誰かがやってくれるだろうと思うのではなく、まず自分が変わることが必要ではないかと思うのです。
by t_am | 2012-01-25 00:18 | その他
 定期点検等で停止した原発の再稼働を認めるかどうかで、政府や電力会社は早く再稼働させたいと考えていますし、マスメディアはこれに否定的な立場での報道を繰り返しています。メディアが否定的な立場で報道するのには理由があって、政府や電力会社に比べ弱者である庶民の側に立っているということと、その方が「売れる」と計算しているからです。メディアのこのような立場については、もともとマスメディアというのはそういうものなのだと思ってニュースを見るしかありません。
 それはそれでしかたないのですが、気になることがあるので、今回はそのことについて申し上げることにします。

 私が気にしているのは、「原子炉内に核燃料がある限りそれが圧力容器の中にあろうと燃料プールの中にあろうと冷やし続けなければならない」という単純な事実です。それができなくなれば福島第一原発のような事故が起こります。つまり、原子炉を停止しているといっても、点検のため燃料プールに移された核燃料は、何があろうと冷やし続けなければならないということです。
 福島第一原発の事故を教訓にするのならば、いかなる事態が起ころうとも原子炉の冷却機能が失われないようになっているか、そのことをまずチェックしなければならないはずです。津波が来たときの防潮堤を建設するとか、非常用電源車を何台配備したとかいうのはそういうチェックの結果に基づいて起案されるべき対策にすぎません。福島第一原発では津波に襲われすべての電源が失われるという事態が起こりました(さらには配管の損傷も起きているはずですが、実際にどの程度の損傷が発生したのか明らかにされてはいません。配管は建物の中にあるのですから、これらが津波によって損傷したというのは考えにくいといえます。すなわり、地震のゆれによって損傷したと考えるべきでしょう)。
 津波が原因による事故なのだから他の原発でも津波に襲われないようにすればよいとか、非常用の電源を確保すればよいという発想では将来起こりうる「想定外の事故」を防止することはできません。
 2011年3月11日にあのような大地震と大津波が襲うとは誰も想定していませんでした。政府も東電も事故の原因を想定外の天災に襲われたためと発表していますが、それは嘘だと感じている人も多いはずです。今回と同程度の津波が過去に発生しているという指摘が実際にあったわけですが、その対策に要する費用が莫大であるために、自分の在任中はそんな災害が起こらないだろうとタカをくくって、実施を先送りしていたというだけのことです。

 原子炉の冷却機能というのは、単純化すれば、冷却水とこれを循環させるための配管および放熱のためのラジエーター、さらには冷却水を送り出すポンプとこれを動かすモーターによってできあがっています。実際はものすごく巨大な装置になっているわけですが、これらのシステムのどこかに損傷が発生すると結果として冷却装置は止まることになります。
 繰り返して申し上げますが、たとえ運転を停止中の原子炉であっても、天災等により冷却システムの損傷が発生すれば最悪の場合、福島第一原発の4号機のように過酷事故につながるということを私たちは学習しました。ゆえに原子炉を停止しているから安心していられるというものではないのです。

 一番いいのは原発をただちに廃止することですが、それは物理的時間的に不可能です。

 したがって、何があろうと冷却システムが動き続けるということが担保されるようにすることが緊急に実施しなければならないことであるといえます。ストレステストは、原発がどこまで耐えられるかを数値的にシミュレートするものに過ぎません。大飯原発3号機のストレステストの結果が公表されていますが、1260ガルのゆれ(想定は700ガル)まで耐えられるという結果は甚だ心許ないと思います。(2004年に起きた中越地震では震源地に近い小千谷では1500ガル、十日町では1750ガルを記録しています。また東日本大震災では宮城県栗駒市で2933ガルが記録されています。)
 この結果は、原発の至近距離で直下型の地震が発生した場合、原発が持たないかもしれないという疑いを持つのが妥当であると思います。ゆえに、まともな判断力の持ち主であれば、限界値以上のゆれが来た場合でも冷却システムが動き続けるようにするにはどうしたらいいかを考え、どうしても不可能であるというのであればその原子炉からはただちに燃料を撤去する以外にないと考えるはずです。原発の再稼働はそれらの問題点がクリアされて初めて可能となるものです。

 本来そのような手順ですすめればよいのですが、電力会社も政府も金勘定(経済に悪影響を及ぼしては困るという考え)に走っているせいか、いきなり原発の再稼働を持ち出すものですから、再稼働ありきのシナリオを描いているといわれてますます信用されなくなっているわけです。残念なことに、政府や電力会社に対する不信感が蔓延している以上、原発が立地する自治体のトップが世論を押し切って再稼働を認めるというのはあり得ないことです。というのも、誰も自分が再稼働を認めた首長第一号になりたがらないからです(これはセイヤさんの指摘。あいかわらず鋭いですね)。
 その点で自治体のトップとはいっても保身を優先させるのだなといささか情けなく思います。原発が立地する地域では電力会社が落とす金によって経済が回っているところもあるわけですから、このままいつまでも原発が動かなくなれば困るという事情も抱えているはずです。また、電力会社による電気料金の大幅値上げの動きも伝えられており、原発を再稼働させるかどうかは、原発のない地域に住む人々にとっても他人事ではなくなってきています。
 自治体のトップは、そういう事情と原発の安全性を天秤にかけて判断しなければなりません。そこで、原発がいかなる災害に襲われようとも冷却システムが機能し続けるという「保証」(安全だと政府に判定してもらうことではありません。どうせあてにならないのですから。保証というのは冷却システムが動かなくなった場合、最後まで責任をとるという意味です。政治家や役人、大会社のビジネスマンは責任をとると断言するのをすごく嫌がるものです。)を政府と電力会社に要求することが第一。それができなけばシステムに欠陥があるということになるので、ただちに対策の実行を要求するというのが第二。第三に、事故が起こった場合の住民の避難経路・避難方法・避難先の確保についての立案を指示しておくこと。いかなる災害が起ころうとも冷却システムの稼働について政府と電力会社が保証するとなった時点で再稼働に賛成するが、それまでは絶対に認めない。どうしても対策がとれないというのであれば原発の撤去を要求するという考えを表明するのが理性的かつ合理的な行動であると思います。首長のそのような判断に対し、何が何でも原発は廃止すべきだと反対する住民もいるでしょうが、その場合情理を尽くして説明をするということが自治体の首長には避けられません。

 再稼働をめぐる一連の報道には、どうも原発は停止していれば安全だという誤った認識があるように思えてなりません(政府の造語である「冷温停止状態」というのも、この勘違いにつけこんだものであるといえます)。大事故になればなるほど情報が錯綜するのでこのような事実誤認はやむを得ないと思いますが、今回は事実誤認を誰も訂正しようとしていません。その結果、社会が一種の思考停止状態になり、みんなが不幸になっていくということになりかねないと思うのです。

付記
 再稼働を認めなければ安心していられるという心理は、一昨年に起こった新型インフルエンザの騒動を思い出します。あのときは日本中の大型施設や事務所の入り口に消毒用アルコールのスプレーが置かれ、マスクをしたまま外出する人の姿を多く見かけました。SARSのように伝染力が極めて高いウィルスならばこのような対策も必要でしょうが、そうではないのですから明らかに過剰反応だったと思います。
 原発の再稼働が危険なのではありません。停止していても危険であることに変わりはないのです。ゆえに,
このまま放置しておけば危険極まりない原発を危険でないようにするにはどうしたらいいかが大事であって、再稼働を認めるなという圧力は、新型インフルエンザ騒動のときと全く同じように、無意味なことのように私には思われます。
by t_am | 2012-01-23 22:31
 東大が秋入学を実施(大学院では秋入学が実施されているが春入学との複線化が行われている)するため、旧帝大+五校と協議会を設置することおよび経済界とも協議会を設置することを発表しました。
 人間がやることには、それがなんであれ、長所があれば短所もあります。春入学と秋入学を比較したときにどちらがすぐれているということではなく、国際的にみたときに秋入学を実施している大学の方がはるかに多いというだけのことです。
 したがって、秋入学への移行は海外からの留学生を獲得しやすくすることが目的であり、そうすることによって大学の国際的な水準を高めなければならないという焦燥感が背景にあるようです。要は、秋入学が大学のデファクトスタンダードになっている(世界の7割の大学が秋入学)ので、そちらに乗り換えようということなのだと理解して差し支えないと思います。大勢に付く(勝ち馬にのるともいいます)というのは損をしないための鉄則であり、我を張って少数派に与しているとよけいな手間暇コストを背負い込むことになりかねません。さらには、最悪の場合少数陣営が消滅してしまうこともあります(ビデオにおけるベータマックス方式を思い出してください)から、5年後を目処に秋入学に向けた準備を進めるという東大の決定は理解できます。

 そうはいっても、秋入学に移行したところで、その大学に海外からの留学生を引きつけるだけの魅力がなければ、誰も来ないということにもなりかねません。したがって、秋入学に移行するということは、従来に比べてハンディキャップがひとつ減ったくらいに考えなければなりません。海外の教育水準の高い大学との間での学生の奪い合いは変わらないのですから、優秀な学生を惹き付けるための施設や設備、研究費の充実も避けては通れない課題です。そのためには政府との折衝という高いハードルをクリアしなければなりません。おそらく東大はそこまで読んでいるのでしょう。単純に時期をずらせばよいという問題ではないのですから。

 これに対し、経済化の反応はどうかというと、東大の動きを概ね好意的にみているように思います。というのは、海外から優秀な人材が集まってきて日本の大学の水準が高まれば、企業も優秀な人材を採用することできるようになるという期待があるからでしょう。経済界からの圧力が高まれば政府(文科省)も動かされますから、秋入学が成功するかどうかのポイントは経済界の賛同が得られるかにかかっているといえるでしょう。

 ただし、海外からの留学生が来やすくなるということは、日本の学生も海外へ行きやすくなるということでもあります。そしてそのまま戻ってこなくなるという可能性も否定できません。研究者が戻ってこないというのは日本の大学に魅力がないからであって、その辺の整備をきちんとやれない大学は国の学問の水準の向上に寄与できなくなるわけですから、企業向けの人材供給センターとしての性格がより鮮明になっていくように思われます。
 もっとも、地方の大学でも企業と提携して研究を行っているところもありますから、そういう動きがある間は、大学がサラリーマン養成所に成り果ててしまうわけでもありません。地方に大学が存在する意義は中央の大学とは異なりますから、地方自治体はこれを活用していく方策を考えた方がよいといえます。
 秋入学の実施は大学を市場競争に晒すことにもつながります。少子化局面にある現在、この傾向は既に発生していることです。これに対する各大学の対応は事実上の全入制度を設けることで学生を確保するという戦術をとっています。
 今後、東大を頂点とする一部の大学のグループが秋入学に移行したときに、これらの大学と比較してあらゆる点で劣っている地方の大学は、学生の確保がより一層困難になるものと予想されます。企業向けのサラリーマン養成所(あるいは官庁向けの公務員養成所)と割り切ることができればともかく、そうでない大学は苦労することになります。そうなってしまう前に、世間に対し広くアピールできるだけの独自性や唯一性を確立しておく必要に迫られると思います。
 サラリーマン養成所でもなく独自性を打ち出すことができない大学は、今後の少子化の中で淘汰されていくのではないか? そんなことを考えさせられたニュースでした。
by t_am | 2012-01-21 16:58 | その他
 野田政権では、消費税の増税を認めてもらうためには政治家と官僚が身を切らなければ受け入れてもらえないということで議員定数の削減と公務員給与の削減を進めようとしています。増税を嫌がる庶民感情をなだめるために自ら「身を切る覚悟を示す」ということらしいのですが、野田総理がここまで知性の欠落した(もっとはっきりいうとバカな)人だったとは思いませんでした。
 自らの政策の正当性を説くために情理を尽くすというのはわかります。しかし、今回は理がないまま情に訴えようとしているのであり、しかもそれがおかしなことであるという指摘が野党からもマスコミからも、そして識者といわれる人たちからもないのは不思議に思います。このような、感情に訴えるということがまかり通るのであれば日本の未来は絶望的であると申し上げざるを得ません。
 
 私は国会議員の定数削減に反対するものではありません。人数は山ほどいますが、ろくに仕事もしていない議員が多すぎると思っています。それならば議員定数を現在の3分の1から4分の1程度に減らし、その代わり国会議員に支給されている歳費の総額はそのままにしておくべきだと考えています。そうすると1人の国会議員が受け取る歳費は今の3倍から4倍になるわけです。その分スタッフを充実させ議員立法という本来の職務を全うできるようしてもらうというのが議員定数を削減する目的です。
 ⒈年生議員の目標は2年生議員になること。2年生議員の目標は3年生議員になること。ということが国会議員の間ではいわれているそうですが、こういうことが平然とまかり通るほど国会議員は仕事をしていないということでしょう(一部の人を除けば)。
 議員としての仕事をしてもらうために必要な費用を出すけれども、その代わりきちんと仕事をしてもらう。そうでない議員は次の選挙で退場してもらう。また、選挙に金をかけなくても済むようにネットの活用を解禁する。政治改革はこれを避けては通れないと思いますが、そういう考え方をする政治家は皆無であるといってよいでしょう。
 同様に公務員の給与の削減についても、単なるスケープゴートにされていると思います。もっといえば、公務員の給与の決定には何の基準も根拠もないということが暴露されているということです。
 民間企業の経営者であれば、人件費予算を決めるときには労働分配率がどれくらいになるのかを外して考えるわけにいきません。どのような組織であろうとも、人件費として支出できる総額には自ずと限界があるのです。業績がよければ人件費の支出額も増やすことができますが、逆に会社の業績が悪化すれば、経営者は従業員の賞与をカットするなどして人件費の総額を抑えようとします。(それがいいことだと申し上げているのではなく、そういうものなのだということを申し上げているのです。)
 同様に、公務員の給与をどうするかという問題については、財政の状況と相談して決めるというのが当然であり、それ以外の判断材料はないと思うのですが、不思議なことに政治家もマスコミも、官僚自身もそうは考えていないようです。けれども、これがどんなに奇妙なことであるかは、たとえば、どこかの企業の社長が「自社製品の価格を引き上げたいので身を切るために従業員の給料をカットします」と発表すれば物笑いのタネにされるのがオチであることからもわかると思います。なぜなら、消費者にとって製品の価格が妥当かどうか(=その製品を買うかどうか)はその会社の従業員の給与水準とは何の関係もないからです。
 そういえば人事院勧告というのも、民間の給与水準と比較して高いか低いかということが判断の基準になっています。一見説得力のあるような決め方に見えますが、よく考えると根拠になっていないということがわかります。自社の業績を無視して、他社と比較して自分の会社の給料が高いか安いかということで人件費を決めている経営者がいるとすれば、その会社はいずれ倒産してしまうことになります。

 「議員定数を削減します。公務員の給料をカットします。」こういえば、現状に不満を持っている人たちの溜飲はいくらかでも下がるかもしれません。それは人気とりにはなっても問題の解決には結びつきません。我々も身を切る思いをしているのだから消費税を増税させてくださいというのは筋違いです。財政再建策を実施するときの結果(たとえば支出を10%削減するために公務員の給与も10%削減しなければならない)に過ぎないのであり、増税とのバーターの材料にするというのは邪道でしょう。
 政治は論理に基づいて行われるべきであり、感情に訴える政治というのはいい加減やめにしてほしいものです。

 このような行き当たりばったりのことを続けている限り、どれだけ増税しても財政再建などできるはずはありません。総理や財務大臣がこういうことを口にして(それを制止しようとしない財務官僚も)よく恥ずかしくないものだと不思議でなりません。

付記
 去年までは社会保障と税の一体改革のために消費税を増税するのだといっていたと記憶していますが、最近は財政再建のために消費税の増税が待ったなしだなどといわれるようになりました。いったいどっちが本当なのでしょうか?
by t_am | 2012-01-19 22:38 | その他
 橋本市長の連続ツイートを読んでいると、教育委員会が機能していないというところなど肯定できるところもありますが、違和感を感じるところもあります。そこで、仮に自分が教育基本条例が成立した大阪市の小学校の校長だったらどうするかということを考えてみました。

 橋本市長の考えは保護者が学校を選択できるようにしたいということです。学校にも競争原理を導入して、保護者から選んでもらえる学校にしなさいということでしょう。逆に保護者にそっぽを向かれて、入学定員割れを起こした学校の校長は、どこに問題があるのか、それをどう改善するのかをまとめて実行する義務を負うことになるということです。
 そういうことを踏まえて、私が大阪市の小学校(別に中が稿でも同じですが)の校長だったならば、成績別クラス編成を実施することになるでしょう。これに対し、「差別だ」とか「こどもが可哀相だ」という反対の声も当然あがるものと想像されますが、差別ではなく単なる教育の「効率の問題」であることを部下である教師たちや保護者に説明しますが、なかなかわかってもらえないかもしれません。
 そもそも理解力の異なるこどもたちに対し同じことを同時に教え、同じスケジュールでカリキュラムを消化していくというやり方に無理があるのですから、これを改めてこどもの理解の状況に応じた教え方をする方が理にかなっているはずです。そのためにはこどもの学力を測定するテストを実施し、その結果に応じたクラス編成を行わなければなりません。そしてクラスによって教える内容が変わっていくということにするわけです。
 そのことを突き詰めてゆくと次のようになります。

1)科目によってクラス編成が変わるということもあり得る。
 国語は得意だけれども算数は苦手だというこどもも当然いるはずでしょうから。得意なこどもだけを集めたクラス、苦手なこどもだけを集めたクラス、平均的な理解力のこどもを集めたクラスというように、少なくとも3種類のクラス編成が行われなければなりません。当然クラスによって人数も変わってきます。体育も例外ではありません。

2)学年は同じでも教える内容はクラスによって異なる。
 学力というのは積み重ねですから、ひとつひとつの過程をおろそかにするわけにはいきません。漢字が読めない書けないこどもには読み書きができるようになるまで教師がつきあう必要があります。同様に、高学年であっても九九ができないこどもには、カリキュラムを遡ってでも教えていかなければなりません。そうなると学年の壁を越えたクラス編成も実施する必要があるかもしれません。

 これらの方策は単に教育の効率を高めるというだけのことであって、差別でもなんでもありません。クラスの生徒の学力が同じであれば教える効率は飛躍的に高まります。現状はそうではなく、できる子もできない子もまとめて同じクラスに入れるわけですから、教師はどのレベルを対象に教えればいいのかという解決不能の問題に悩むことになります。ところが、同じレベルの子を集めてクラス編成をすればこの問題は解消されるのですから、授業がわからなくて退屈する子もいなくなれば、わかっていて退屈だという子どももいなくなることになるはずです。


 そういう教え方をするとどうなるかというと、全体がレベルアップしていくことになると予想されます。ただし、それはこんなイメージになるはずです。


 これは、横軸に成績、縦軸に人数をとりグラフ化したものですが、全体がレベルアップするということはグラフの形はそのままで右にスライドするということに他なりません。すなわち、そのこどもの学校の中での相対的な位置は変わらないけれども、成績別クラス編成を実施していない他校も含めると全体の中での成績という絶対値は、どのこどもも向上することになるわけです。

 こうしてみると成績別クラス編成というのは非常に効果の高い教育方法であると思うのですが、これを実施している学校というのはほとんどないといってよいと思います。その理由は、文部科学省がそもそもそういう教え方を認めていないからですし、保護者の反発も大きいと想像されます。自分のこどもが2つも3つも年下のこどもと同じクラスになるというのは受け入れがたいことだと思うからです。(他にも反対する理由はいくらでも見つけることができます。)

 しかし、私が大阪市の小学校の校長であったとしたならば、橋本市長の教育改革の下では断固として成績別クラス編成を実行するでしょう。その結果、数年を待たずして私はクビになるはずです。なぜかというと、そのようなやり方は「保護者が望まない」からであり、橋本市長の目指す教育改革は「保護者が望むことの実現」にあるからです。
 そういうことを考えると、(私は教育者ではありませんが)大阪市に住んでいなくてよかったとつくづく思うのであります。

付記
 1月16日のニュースで、「日本のリーダーにふさわしい政治家は誰だと思うか」という調査が行われ、橋本市長がダントツの1位になったと報道されていました。市長の歯に衣着せぬ発言が高い評価を得たのでしょう。まさに順風満帆といえます。しかしながら、橋本市長の支持者の多くは、市長が問題があるので改革すべしと主張する教育を受けて育ってきた人たちであることを思うと、今回の調査結果はブラックユーモアであるといってもよいと思います。
 問題のある教育を受けて育ってきた人たちであれば、その判断力をどこまで信頼していいのか疑問が残るのであり、そのような人たちから支持されている橋本市長という政治家をどのように理解すべきなのか迷ってしまいます。もしくは、橋本市長を支持する人たちの判断力には疑いを挟む余地がないというのであれば、問題のある教育を受けて育ったとしても結果として何の問題もなかったということになるのですから、改革する必要性が本当にあるのかということにもなりかねないと思います。
 
 いったいどっちなのでしょうね?

 この疑問は次のように理解すべきだと考えています。
 橋本市長が高い支持率を得ている理由は、現在何かしらの不満を抱えている人たちに対し、既得権という特権の持ち主を明示し、それらの人々を攻撃することで彼らの溜飲が下がるということを積極的に行っているからです。
 要するに、敵をつくりあげて、あなたたちの敵は自分にとっても敵であるという状況をつくることが非常にうまいのです。その敵というのは権威を持っている者である方が効果的です。だから大学教授や大新聞、誰もが知っている週刊誌を敵とみなすのであり、あとはその敵を激しく攻撃すればするほど喝采を浴びることになるというわけです。

 橋本市長のこれらの反対勢力に対する罵詈讒謗を見聞きしていると、その文脈は「お前には発言する資格はない」と断定し、相手の発言を封じるものであることに気づきます。法廷闘争における裁判官のように、判定を下す第三者に対する心証形成という点では有効な手段であると思いますが、民主主義の手続きとしてはあまりも暴力的であると思います。
by t_am | 2012-01-18 19:56 | その他
 毎年この時期になると行われるセンター試験。翌日の新聞には問題とその解答が掲載されます(あまり見てる人はいないと思いますが)。そして、今年はこういうトラブルがあったということが必ず報道されます。今年もありました。

 面倒くさいので今年起こったトラブルについて書くのはやめておきます。それでも毎年同じような報道が繰り返されるのですから、少しは学習したらどうかとの思いを今回は書くことにします。

(交通機関の遅れについて)
 雪が降って交通機関が遅れたというのがセンター入試にはつきものです。これを防ぐには試験の時期を変えるか、あるいは試験日程を3日間に延ばして毎日の開始時刻を送らせるかしなければなりません。もう何年も同じことをやっているのですからいい加減わかりそうなものですが、いっこうに変わらないところをみると受験生のことを考えるよりも自分たちの都合でやっているということがわかるような気がします。

(機械の不具合について)
 今年もICプレイヤーの不具合があったことが報道されていました。今年のセンター試験を何人が受験したのか正確なところは知りませんが、おそらく百万人を超える受験生があったものと思われます。百万台を超える機械を納品して不良品の発生率がゼロに抑えるというのはそれはほとんど無理な話ですよ。読売新聞によれば機械の不具合を訴えたひとは138人いたそうです。百万人のうちの138人とすると、0.0138%となりますこれは抜き取り検査では発見できないレベルではないかと思います。ですから、これを防ぐには1台ずつ動作チェックをしなければならず、それに合格したものだけを試験に用いるということをしなければなりません。

(運営のトラブルについて)
 百万人を超える受験生に対し、全国一斉に同じ内容の試験を行うわけですから、確率的にいって何も問題が起こらない方が不思議であるといえます。
 それでもトラブルをゼロにしようと思うのであれば、事前の手間を惜しんではいけません。何度もリハーサルを繰り返しては問題点を発見し、これを潰していくという作業が不可欠となります。
 想定外の事態が起こりましたという言い訳は、事前のチェックをしていませんでしたという告白にほかなりません。そのことは、「私には責任感もなければ使命感もない人間であり、本来このようなポストにいてはいけない人間でございます」ということを天下に向かって公言するようなものですから、恥を知る人間であればとうてい口にできることではありません。
 当事者の責任感と使命感のみがそのシステムに対する信頼感を醸し出す源泉となるわけですから、そのための手間隙費用を惜しんではならないわけです。

 トラブルが起こったときに、あってはならないことが起こったと指摘するのは正論であり、誰も反論できないわけですが、センター試験のような大規模なイベントでトラブルをゼロにするためには関係者一同による事前の膨大な手間隙コストかけなければならないということにも目を向けたらどうかと思います。

 このような全国一斉のイベントを大過なく行った事例として、1925年(大正14年)7月17日に国鉄が車両の連結器を全国一斉に交換した(ただし九州は7月20日に実施した)という事実があります。(この部分は「鉄道の科学」丸山弘志著 講談社ブルーバックスの受け売りです。)国力が増加することで鉄道の輸送力の増強が求められるようになり、そのために強力な機関車が導入されるようになったのですが、従来使われていたねじ式連結器では強度不足が懸念され、さらには取り扱いが危険であり事故も多かったことから自動式連結器に交換することが不可欠であるということになったのです。
 列車というのは各車両がどの車両とも連結できなければ使い物になりませんから、その時期に旧来のねじ式連結器が使われている車両と新型の自動連結器が使われている車両とを混在させるわけにはいきません。ゆえに同じ日に全国一斉に交換する必要があったのです。そのために交換当日の(全国どこにいても交換ができるように)六年も前から自動連結器をぶら下げた車両が走り始めたということですし、すべての車両に自動連結器がぶらさがっていることをチェックし、さらには交換作業のための講習会が全国ここかしこで実施されたうえで、交換当日は普段連結器にふれたことのないペンキ工まで懸命に汗を流して取り替え作業に従事したということです。このときに取り替えの対象となった車両数は機関車・客車・貨車あわせて63,301両とのことですから、まさに国鉄による偉業といってもよいと思います。

 何がいいたいかというと、全国一斉規模のイベントを成功させようとするならば、事前に充分な準備期間をとって入念な計画と事前の講習等を通じて関係者の士気と技能を高めるということが欠かせないということです。しつこいようですが、それらを行うには膨大な手間と時間と費用が欠かせません。つまり、それだけのリソースをつぎ込んでもセンター試験をやらなければならないのか、それがクリアにならない限りセンター試験におけるトラブルは解消されないということです。
 そうなると、取り上げるべきは「トラブルが発生するのはけしからん」というのではなくて、「トラブルを回避するには膨大な労力と時間と費用が必要になるが、それでもセンター試験を実施することが妥当なのか?」ということと「毎年トラブルが発生しているにもかかわらずセンター試験というシステムを継続することが妥当なのか?」という2点に絞られると思います。
 センター試験はいわば公営の全国一斉実力テストですから、大学側にとっては志願者の足斬りとして使う(そうでない大学もたくさんあります)くらいの利用価値しかありませんし、受験生にとっては志望校の最終決定の判断材料とされているようです。それらはセンター試験が必要不可欠であると証明するだけの根拠としては乏しいように思うのですが、どう思いますか?
by t_am | 2012-01-16 21:55 | その他
 大阪市の橋本市長のツイートを読んでいると、民主主義は権力に対する制限を志向する制度であるということを今更のように考えてしまいます。
 民主主義の根幹は国民主権にありますが、直接民主制を行うには国のサイズが大きすぎます。そこで、国民の中から代表を選び政治を任せることになるわけですが、その際に特定の個人に権力が集中しないようこれを分散させるということが行われています。たとえば、三権分立は権力を司法・行政・立法の3つに分割し、相互にチェックし牽制し合うことを目的としています。さらには表現の自由を保障することでこれらの権力に対し外部からチェックをかけられるようにするということも行われています。
 権力を制限するために制度化されているものは他にもあって、三権分立の具体例になりますが、総理大臣には衆議院の解散権が与えられていますし、逆に国会には内閣不信任決議や閣僚に対する問責決議という制度があります。
 これらは特定の個人や組織が無制限の権力を握ったときの弊害があまりにも大きいという経験知の産物であるといえます。
 ところが、権力が分散し、制限されることによって政治の効率が悪くなるということが避けられなくなります。日本の最高権力者である総理大臣には政策の決定権はありますが、それを立法化するためには国会の同意が得られなければなりません。法治国家であるということは、ものごとを行うにあたってはその根拠となる法律がなければなりません。ゆえに大事なことがなかなか決まらない、いっこうに進まないということが随所で起こるようになるのです。(政治が国民の要望するものを実現してくれない-たとえば薬害訴訟で国が非を認めようとしないなど-は政治家や官僚の意識の問題であって、本稿で申し上げている政治の効率という問題とは異なります。)
 いっこうに進まないという具体的な例を申し上げると、震災からの復興、原発事故によって拡散した放射性物質への対応などがあげられると思います。
 こういうことが積み重なると国民を苛立たせることになり、政治改革の必要性が指摘されるようになります。このように考えると、政治改革とは政治における効率化を目指すものであり、そのためには権力の集中を促さなければならないということがわかります。小さな仕事であれば小さな権力でできますが、大きな仕事を成し遂げるにはそれだけ強大な権力が必要となります。帝政に移行する前の共和制ローマでは独裁官という制度が設けられていました。(今からおよそ2500年ほど前のことです。)これは国家の非常時において任命されるポストで、独裁官には非常に強力な権力が与えられ、即断即決を可能にすることで非常事態に対し次から次へと手を打つことができるようにするというものでした。独裁官には強大な権力が与えられるのですが、その暴走を防ぐために独裁官には任期(6ヶ月)が定められていました。
 仮にこのような制度が現代にあったとすれば、たとえば、震災からの復興という目的に限ってあらゆる省庁を指揮下に置き、立法と司法が全面的に協力するというリーダーを任命するようなものだとイメージしてよいでしょう。そして、1年とか2年とかの限られた期間の中である程度の目的が達成されたところで辞めることになるわけです。

 共和制ローマで独裁官という制度が設けられたのは、国家の非常事態には通常のシステムでは対応が後手に回ってしまいかねないために、あらかじめ非常時用のシステムを用意しておき、いざというときにはそれに切り替えるという知恵によるものだと考えられます。こういうことが2500年前に行われていたわけですから感嘆を禁じ得ません。
 民主主義という制度が権力の集中を抑制する以上、どうしても政治は非効率的になってしまいます。それでも専制君主制を選ぶよりははるかにましだと思いますし、そのように考える人が主流を占める間は権力の集中を許容するということはないでしょうが、今回の震災や原発事故のような非常事態に対応するためのシステムはあらかじめ用意しておいた方がよいように思います。

 話を橋本市長に戻します。橋本市長が掲げる大阪都構想を私なりに解釈すれば、権力(というよりは権限)を整理し、都でやるべきものは都に権限を集約し、区で取り組むべきものは区に集約するということのように思われます。橋本市長が賢いと思うのは区長を公募制(選挙制ではない)にして、民間からでも誰でも能力のある人を登用するとアピールしたことです。将来的には公選制に持ってゆくようですが、現時点では根拠となる法体系の整備がなされていないので公募制にする以外にないように思われます。公募制と公選制の違いは、区長を誰が選ぶのかというところにあります。公選制であれば有権者が選ぶわけですが、公募制では選考委員会が決めることになります。選考委員の任命は市長が行うわけですから、市長の意向に沿った考え方の持ち主が区長に任命される可能性が極めて高いといえます。もっとも、このことは今までもそうだったわけですから、とりたてて避難すべきことではないと思います。将来は公選制に移行するという前提で考えれば、誰でも応募ができるようになったことは大きな進歩ですし、選考過程がオープンにされることが望ましいのはいうまでもありません。

 大阪都構想を実現するには相当高いハードルをクリアしなければならないと予想されるので、これまでに述べたように、推進者である橋本市長や大阪維新の会に権力が集中する体制に持っていこうとするものと思われます。橋本市長のツイートを読んでいると、この人が自分の敵と判断した人物に対しては容赦ない攻撃をしています。そのことは市長を支持する人たちにとって痛快であると思われているような気がします。つまり、まず最初に敵を設定し、それを徹底的に叩くことで支持者の共感を呼ぶという手法です。教育基本条例と職員基本条例はそのための手段として使われるのでしょう。別な見方をすれば、今後大阪市の職員組合および教職員組合との間で権力闘争が繰り広げられることになるのだろうと思われるのです。

 権力闘争が悪だというわけではありません。ただし、自分のやりたいことがあって権力はそのための道具であるという割り切れている人であればよいのですが、政治家の中には権力を手中にすることが目的となっている人の方がはるかに多いのが実情でしょう。そういう人が権力を握るとロクなことがないというのは人類の経験知として知られていることです。ゆえに特定の個人や組織に権力が集中することのないよう、民主主義国家においては制度設計がなされているわけです。橋本市長がどちらのタイプなのかはわかりませんが、相当の遣り手であることは誰もが認めるところでしょう。それだけ高い能力を持った政治家が経済成長や効率化を推進しようというところに危惧するわけです。
 21世紀以降、各国では多国籍企業に配慮した政策が執られるようになりました。その結果、国民の間で格差が固定化しつつあります。それらが成長戦略という言葉で括られて実施されてきたことを思うと、まだ同じことを繰り返そうとするのかという思いがしてなりません。

付記
 特定の個人に権力が集中した状況は、即断即決即実行を可能にするようであり、案外悪いものではない部分もあるのですが、それが長期化すると次第に弊害の方が大きくなっていきます。そのような組織では幹部クラスがトップの方を向いて仕事をするようになり、その結果、トップに気に入られるにはどうしたらいいかという判断基準の持ち主が優遇されるようになっていきます。そういう茶坊主みたいな人間の忠誠心や使命感がどの程度のものであるかについては大いに疑問がつきまといます。
by t_am | 2012-01-13 11:54 | その他
 1月9日は成人の日。今朝の朝日新聞の社説「成人の日に―尾崎豊を知っているか」がツイッターで色々と取り上げられていました。

(朝日新聞社説「成人の日に―尾崎豊を知っているか」)
http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html#Edit2

 この社説について言いたいことはいくつかありますが、その前に成人式というものについて考えて見ることにします。
 自分の成人式の日に何をしていたかというと、スキーに行っていました。というのは、成人式に出席することに特別な意味を見いだせなかったからです。成人になるというのはそれほど特別なことなのだろうかと考えると、私には答えを見いだすことができなかったのです。
 成人式が通過儀礼であるとするならば、その前と後とでは何かが変わらなければなりません。それまで許されなかったことが許されるようになる。それが通過儀礼の持つ意味でしょう。
 入学式や卒業式も広い意味での通過儀礼であるといえます。というのも、その儀式を経ることによって、その学校の学生であるかどうかが違ってくるのですから。また、結婚式も重要な通過儀礼であるといえます。最近はあまり意識されてはいないようですが、結婚することによって大きく変わるものがあるのです。嫁や入り婿の場合は、自分が属する家が変わるということになりますし、嫁取り婿取りであればそれによって家の中での立場が変わるという意味もあります。それと、、下品ないい方になりますが、特定の女性であれば妊娠させても構わない、あるいは特定の男性のこどもであれば妊娠しても後ろ指を指されないようになる、というところも否定できない変化であるといえます。

 そういう観点から眺めてみると、成人式の前後で何が変わるのかというと何もないと言わざるを得ません。酒や煙草をおおっぴらにやることができるといわれても、十代の頃からたしなんでいる人はいくらでもいます。
 また、選挙に行くことができる、法律行為が可能になる(具体的にはローンを組むことができる)というのも、二十歳になったその日から可能なのであって、成人式を済ませなければならないというものではありません。
 したがって成人式が通過儀礼であるというのであれば、それはあくまでも個人ごとに二十歳になったときに行うのが筋であるということになります。しかしながら、実際にはその年度に二十歳になるすべての人を一堂に集めて成人式を執り行うというのですから、通過儀礼にはならないのです。
 新成人を祝うというのは大いに結構なことであると私も思います。しかし、その祝い方に問題があるわけで、何も一年に一度みんなまとめてやる必要がどこにあるのか、私にはよくわかりません。
 これが江戸時代や戦国時代であれば、成人となった者を殿様に拝謁させるための儀式として一年に一度行うというのも理解できます。そういえば、成人式には必ず自治体の首長が祝辞を述べるのですから、もしかすると市長や町長や村長が現代の殿様であるということになるのかもしれません。(昔は拝謁した者に対して殿様が声をかけるということが行われていました。)
 封建時代であれば殿様にお目見えすることは忠誠心を涵養するための儀式でした。現代で、成人式に嬉々として出席することは、さしずめお上のすることに疑いを抱かない(自分で物事を考えようとしない)人を量産することにつながっているのかもしれません。
 そんなことを考えると、成人の日を肯定しながら尾崎豊を持ち出してきた朝日新聞の社説は笑止千万であると申せましょう。
by t_am | 2012-01-09 21:56 | その他