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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 今回も大阪のダブル選挙で思ったことの続きです。
 「勝てば官軍」という言葉がありますが、これを最大限に利用しているのが政治家ではないでしょうか。たとえば、野田総理。この人は身内である民主党の衆参議員の投票によって党代表に選ばれ、そのまま日本国の総理大臣になりました。自らをどじょうに例えてしおらしい素振りを見せていますが、なかなかエネルギッシュに行動しています。その野田総理によって任命された閣僚も国際会議に出かけて行っては独断で約束をしてきています。
 でも、よく考えてみれば民主党が衆議院議員選挙で勝ったのは2009年のことであり、2010年の参議院議員選挙では惨敗しているわけです。地方選挙でも民主党が負け続けているのですから、ここまで傍若無人に振る舞う根拠は一体どこにあるのか、普通に考えれば不思議でなりません。
 政治家にすれば、自分が当選したのは「民意」によって選ばれたからであるということなのでしょうが、世論調査が気紛れであるように、民意も移ろいやすいものであるといってよいと思います。けれども、政治家はそれを認めようとしません、自分の任期中は気ままに振る舞い、選挙になると平身低頭するということを繰り返しています。

 どうやら政治家にとって選挙とは白紙委任状を集めるための儀式であるということになっているようです。したがって、いったん当選すれば何をやってもそれは民意に沿うものだという理屈を振りかざすことができるわけです。

 平川克美さんがツイッターで興味深い発言をしておられました。以下、引用することにします。

 橋下さんがやらなくてはならないことは、自分に投票しなかった四割の大阪市民や、市役所職員に自分に従わなければ退場せよということではなく、条理を尽くして自説を説明すること。自分に同意しないものたちと、共存していく工夫をすること。(2011/11/28 22:59)

 橋下さんは、十分説明しているというご意見がありました。説明とは、反対派の同意を取り付ける努力のことです。かれは反対派を含めて代表者になったわけです。合意形成プロセスを端折れば、選挙とは白紙委任の選択となり、民主主義の否定です。反対派を切り捨てるという選択はありえません。(2011/11/29 15:41)



 ここで、平川さんが指摘されているのは、選挙とは白紙委任の選択ではないということです。けれども現実はそうでない局面があります。先に述べた総理大臣や閣僚の「国際公約」の連発や与党による強行採決などがそれにあたります。

 それではなぜ政治家は白紙委任状を取り付けているかのように振る舞うのでしょうか?

 まず考えられるのは、自分は公僕であるという自覚の欠如でしょう。自分は選挙で選ばれた特別な人間なのだというプライドが芽生えるようです。だから議員に対する敬称として「先生」という言葉が用いられるのでしょうね。
 次に考えられるのは、有権者の「面倒なことには関わりたくない。誰か他の人がやってくれればいい。」という意識であろうと思います。
 ここで、敢えて申し上げるのですが、議員に対し「選ばれた責任」を要求するのであれば、「選んだ責任」はどうなるのか? 選んだ私たちが自分の責任を放棄し、後は誰かがやってくれればいいと思っているからこそ、選ばれた方も責任を放棄して気ままに振る舞うのではないかというふうに思うのです。
 それでは「選んだ責任」とは何を指すのかというと、自分が投票した政治家がどのような行動をしているのか絶えず注意しておく、ということから始まるのだと思います。そのうえで、その政治家が立派な行動をすれば激励のメッセージを送ればいいのですし、逆に、おかしい行動をしていると思えばたしなめるメッセージを送るというのも必要だと思います。
 実際に、自分の選挙区の有権者からそういう手紙やメールがしょっちゅう届くようになると、政治家もそれらの意見を無視できないようになるはずです。なぜなら次の選挙のことを考えるからです。
 このように、重要なのは自分は絶えず見られているというという自覚を政治家に持ってもらうことだと思います。誰でも最初は初心者から始まるわけですから、その中で後世に残るような立派な政治家が育つとすれば、それは有権者が育てるのだと思います。自分は何もしないで強いリーダーを待ち望むのは、救世主の降臨を願う奴隷のようなものです。自分が何もせずに、誰かが変えてくれることによって到来する社会が自分にとって望ましいものであるという根拠が一体どこにあるのか、一度考えてみたらよいと思います。

 もっとも、そこまで大げさに考える必要はないかもしれませんが、自分が投票した政治家が当選したのであれば、「選んだ責任」が自分にはあるということを拒否するわけにはいきません。それが許されている人を「奴隷」と呼びます。有権者が「選んだ責任」を放棄しているにもかかわらず、自分が選んだ政治家に対し「選ばれた責任」を要求するというのは虫がよすぎます。誰が好きこのんで奴隷に責任を負うというのでしょうか。

 このように考えてくると、投票を白紙委任票にするかどうかは、有権者にかかっているといえます。他人を変えることは極めて困難ですが、自分を変えるのはまだ可能性があります。他人を変えたいと思ったらまず自分が変わることから始めなければならないのでしょうね。
by T_am | 2011-11-29 22:24 | その他
 27日に行われた大阪のダブル選挙(知事選と大阪市長選)は大阪維新の会の圧勝に終わりました。冷めたいい方をすれば橋下徹候補の人気が2つの選挙を制したということになると思います。選挙の大勢が判明した昨日の夜から様々な人が意見を表明しています。後世のためにも、今回の選挙に関する分析はきちんとしておいた方がいいと思います。それだけに、私などが出る幕はないのですが、自分の中で気持ちの整理をするために、思ったことを書いてみたいと思います。

1)イメージの勝利
 橋下候補は知事時代から歯に衣着せぬ発言を繰り返してきました。凡人であれば、「まあまあ」とかいってなだめながら何とか妥協点を探るような局面でも、自分の意思を通そうとする姿勢を貫いてきました。それらの行動は橋下候補に対するプラスのイメージをつくってきたといえます。
 有権者が閉塞感を感じているときには、このように歯に衣着せぬ発言をするリーダーというのは、行動力を連想させるだけに、有権者の受けがいいといえます。小泉純一郎、石原慎太郎という事例をあげれば、このことはおわかりいただけると思います。

2)「改革=善」という幻想
 閉塞感を感じする社会では「改革=善」であると誰もが思い込みます。このことは小泉純一郎のときにもあったことですし、自民党から民主党に政権交代が行われたときにも同じ期待がありました。
 それらの期待が悉く裏切られたにもかかわらず、私たちは相変わらず「改革=善」という期待感にしがみついているように思います。冷静に考えれば、どのような改革であろうと一部の人々にとってプラスとなりますが、それによってマイナスの影響を受ける人たちもいるはずです。したがって、改革が自分にとってよいことであると思うのは早計なのですが、ほとんどの場合そこまで考えずに改革に飛びつく傾向があると思います。

3)「敵」の明示化
 閉塞感をもたらしている根本原因が既得権にしがみつく一部の勢力にある、という指摘は非常にわかりやすいといえます。その例としてあげられるのは、官僚であり、あるいは財界であったり、時には労組であったりするわけですが、今回橋下候補があげたのは公務員と教師・教育委員会でした。マスコミもそれにとびついて、橋下市長を断固拒否する大阪市幹部たちという図式で報道を繰り返しました。それらは、閉塞感を感じている有権者の破壊衝動を刺激するという効果があったと思います。
 ところが、このような選挙戦術は、(ヒトラーをみればわかるように)独裁者が自己を正当化するための常套手段ですから、本来「してはいけないこと」のはずです。なぜならば、政治とはすべての国民を念頭において行われるものであって、一部の国民にレッテルを貼り付けて迫害することではないからです。
 けれども、そのような選挙戦術を駆使して当選した政治家は、民意を口実にします。すなわち、自分は民意によって選ばれたのだから、自分に反対する者は民意に背く者であるという論理を展開するのです。橋下候補は選挙前からそのようなことを発言していました。
 
 ここで、大阪市長選の投票結果をみてみましょう。大阪市の有権者総数は2,090,370人です。これに対し橋下候補の得票数は750,813票ですから、有権者対比で35.92%となります。すなわち、全有権者のうち35,917%の人が橋下候補に投票したということを意味しています。このことは、逆に言えば、全有権者のうち約64.083%の人が橋下候補に投票しなかったということでもあります。
 全有権者の約36%の支持しか得られていない市長がはたして「民意によって選ばれた」といってよいのか私にはわかりません。それでは50%以上ならよいのかといわれると、そういうものでもないだろうと思うのですが、すくなくとも橋下候補が民意によって選ばれたと断言できる数字ではないように思います。(ちなみに平松候補に投票した人は全有権者のうち約25%となります。)
 このような結果になる理由は、首長選挙とは全候補者の中で一番票を集めた人が当選するという仕組みの上に実施されるからです。すなわち「相対的に一番支持率の高い人が当選する」というのが首長選挙なのです。したがって、首長選挙の当選者は「民意によって選ばれた」というよりも「選挙制度によって選ばれた」と自覚する方が正しいのではないかという気がしてなりません。

4)「強いリーダー」の渇望
 平松候補が敗れ、橋下候補が当選したというのは、大阪市の有権者の中で「強いリーダー」を望む人が多かったからだと考えることもできると思います。それでも全体の36%程度なのですが、このような傾向は他の都道府県・市町村でも似たり寄ったりではないかと思います。ただし、阿久根市の前市長のようにあまりアクの強い人物は却って嫌われるという面もありますから、人民の気持ちというのは移ろいやすいものだといえます。
 ここで、意地の悪い見方を披露すると、「強いリーダ-」を渇望する気持ちというのは、「誰か他の人がやってくれるだろう」という他人任せの思いの裏返しであろうとも思えるのです。改革を訴える候補者の思いは「現状を変えたい」というものですが、彼に投票する有権者の思いは「現状を変えてもらいたい」というものであって、そこには天と地ほども隔たりがあるのです。
 社会に閉塞感を感じるのであれば、そのような社会になってしまった責任の一端は「他人任せ」にしてきた私たちの側にもあるといえます。自分では面倒なことはやりたくないので他人に任せておきたい、と私たちが思っている限りは誰がリーダーになっても大差ない結果に終わると思います。
 だからといって、みんなが政治家を目指すべきだと申し上げているのではありませんし、特別なことをすべきだというつもりもありません。
 「世界平和のために何をしたらいいでしょう?」という問いに対して、マザー・テレサの答えは「家に帰って家族を愛してあげてください」というものでした。この答えが示唆するのは、特別なことをするのではなく、こうしてもらったら自分は嬉しい(気持ちがいい)ということを誰もがするようになればいいということだと思います。

 自分は何もしないで誰かの働きに期待するという思いを持ち続ける限り、そこにつけこもうとする輩は後を絶たないだろうし、その結果としてこの社会を覆っている閉塞感はいつまでも解消されないのではないか、そんなことを考えさせられた選挙結果でした。
by T_am | 2011-11-28 22:38 | その他
 11月25日、高浜原発2号機が定期検査のため運転を停止することになりました。続報がない限り、予定通り停止するはずです。
 福島第一原発の事故以来脱原発の声が大きくなったのを背景に、定期検査のため停止した原発の再稼働はハードルが高くなっています。脱原発を主張する人の中には、このまま再稼働を認めずにすべての原発を廃炉にすべきだと主張する人もいるようです。

 原子炉の運転を停止したからといって、原発事故のリスクが解消されるわけではありません。福島第一原発の4号機は定期検査のため運転を停止していましたが、水素爆発により原子炉建屋が爆発してしまいました。
 また、原発関連のニュースの中でよく耳にする「冷温停止」という言葉がありますが、「冷温停止」状態になればひとまず危険は去ったという解釈、あるいは稼働中の原子炉を停止させればそれだけ安全になったという理解が広まっているようです。そこで、今回は「冷温停止」という言葉について整理してみたいと思います。

 まず「停止」という意味ですが、これは臨界(連鎖的核分裂)状態から脱したということを意味します。核燃料として使われているウラン235は半減期が7億380万年と非常にゆっくりと崩壊していきます。ウラン235の原子核が崩壊する際に放出される2~3個の中性子は、近くにウラン235があれば、その原子核を崩壊させます。そこでも中性が放出されるので、崩壊するウラン235の数は指数関数的に増えていくことになります。これを臨界と呼ぶわけです。
 核分裂の際に原子核は極僅かですが質量を失い、失われた質量は熱エネルギーに変換されます。したがって、核分裂を一気に起こせば、極めて大量の熱エネルギーが発生することになり、これを実現させたのが原爆です。
 原子炉では、核燃料となるウラン235の濃度が低く抑えられており、さらに中性子を吸収する性質を持った制御棒と減速材となる水を組み合わせて、核分裂のスピードを低く抑えるように設計されているので、原子炉が原爆になることはありません。その代わり、大量の熱が発生することになるので、水を冷却剤として用い、そこで発生した水蒸気でタービンを回して発電するというのが原発の仕組みです。(その後水蒸気は2次冷却水によって冷やされて元の水に戻ります。)

 原子炉の運転を停止するというのは、臨界状態から脱するということを意味しますが、それまでの間に行われた核分裂によって燃料棒の中には新たな放射性物質が生まれています。これらの物質も原子核が崩壊する際に熱を放出しています(これを崩壊熱といいます)。 臨界の場合、核分裂が継続して起きているわけですから、熱を発する元が次々とつくられていることになります。一方、臨界を脱すると新たな放射性物質が生成されることはありません。
 それでも、崩壊熱が発生することに変わりはないので、燃料棒を絶えず冷却してやらないと、高温となった燃料棒は容れ物である被覆菅を溶かし、いわゆるメルトダウンという状態に陥ります。
 既に述べたように、核燃料の冷却には水が使われているので、核燃料全体が水で覆われている状態が維持されていればメルトダウンはまず起こりません。その目安として、水が沸騰しない温度である95℃以下にまで温度を下げることが求められており、これを「冷温」状態と呼んでいます。というのは、冷却水が沸騰してしまえば、発生する水蒸気によって水位が押し下げられ、燃料棒が露出してしまう危険性があるからです。

 したがって、稼働中の原子炉を止めるには、まず「冷温停止」状態にすることが必要です。その状態が維持されるうちに冷却水の温度はさらに下がっていくので、充分温度が下がったところで、燃料棒を原子炉から取りだして燃料貯蔵ブールに移し替えるわけです。
 この燃料貯蔵プールに入れられた燃料棒は引き続き冷却してやらなければなりません。そうでないと、燃料棒内部の温度が再び上昇し、最悪の場合は被覆菅を溶かしてしまうからです。福島第一原発の事故の際に、自衛隊や消防が決死の作業で放水したのは燃料棒の温度を上げないようにするためであり、その目的は燃料棒の損傷を防ぐことでした。

 このように、「冷温停止」が意味を持つのは燃料棒を損傷させないというためです。さらにいえば、燃料棒を損傷させてはならないのはなぜかというと、放射性物質を原子炉の外部に拡散させたないためなのです。
 ところが福島第一原発の場合、メルトスルー(高温となった核燃料が原子炉圧力容器を溶かして格納容器の下部にこぼれ落ちている状態)を起こしており、大量の放射性物質をまき散らしてしまっている(しかも現在もそれが続いている)のですから、「冷温停止」だからといって安心してよいわけではありません。もっとも、それまではいつ何時破滅的状況に陥るか知れたものではなかったのですが、「冷温停止」によって油断しなければ破滅的状況に陥ることはなくなったということはできると思います。
 福島第一原発の次の課題は、放射性物質の外部への放出を止めることです。事故直後に比べれば放射性物質の放出はかなり減ったとはいえ、ゼロになったわけではありません。外部への放出を止めない限り事故による被害が収束することはないのです。
 ここまでの工程は、いってみれば応急処置のようなものです。根本的な事故処理策としては溶けてしまったものも含めて核燃料を回収し、完璧に管理できるところに移すことです。(廃炉はその後の作業になります。)
 しかしながら、燃料の回収には十年以上かかると見られているわけですから、それまでの間ずっと「冷温停止」状態を維持させなければならないのです。

 自動車のエンジンであれば、スイッチを切ればエンジンを止めることができ、後は何もしなくてもよいのですが、原子炉は違います。運転を停止したと思って、そのまま何もしないでおくとエンジンが焼き切れてしまい、環境を汚染することになります。したがって、絶えず人が監視し、冷却システムを動かし続けなければならないという厄介さがつきまとうのです。

 運転を停止している原子炉の再稼働に向けてどのように考えたらよいかということについて大前研一さんが興味深い意見を述べています。

(福島原発事故に何を学び、何を生かすべきか)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20111115/290563/?ST=rebuild

 それを要約すると、原発がいかなる災害に見舞われようとも電源がすべて喪失するという事態を避けるための設計・設備が必要であるというものです。防潮堤を建設する計画もありますが、いかなる災害が起ころうとも冷却システムが何らかの形で動き続けるようにする方が優先度は高いといえます。
 ただし、冷却水を循環させるポンプの電源が確保されても、冷却水の配管が破断したのでは意味がありませんから、その対策も同時に進めるべきだと思います。福島第一原発の事故は全電源喪失という事態により原子炉の冷却システムが止まったことによると思われていますが、地震による配管の破断もあったのではないかという疑いも晴れていません。したがって、電源の確保にだけ目を向けるのは危険だと思うからです。
 そこで、現在停止中の原子炉の再稼働を認める条件として、いかなる災害に襲われようとも電源が喪失しないこと、および配管が破断しないよう対策を義務づけるのが合理的であるといえます。(はっきりいって、既に行われている非常用電源の手配だけでは不十分です。)

 政府も東電も、福島第一原発の事故は津波という天災によるものだということにしたいのでしょう。というのも、人災ということになれば責任を追及されるからです。そのため、冷静に考えれば優先度は低いとしか思われない防潮堤の建設などという対策を打ち出しているわけです。大津波に耐える防潮堤を建設するとしても、それが完成するまでにはまだ何年もかかります。その間、今回と同じような大津波が襲ってきたら、同じことが繰り返されてしまいます。それよりも、今回と同じような大津波が襲ってきても大丈夫なようにすることの方が先だと思いませんか?

 実をいうと、金に糸目をつけなければ、放射性物質の外部への放出という事故を起こさない原発の実現は可能だろうと思っています。機械を動かすわけですから、原発の内部での事故をゼロにするのは事実上不可能だろうと思います。それでも、放射性物質を外部に出さないようにすることは可能だと思っています。それがちゃんとできていると検証された原子炉から再稼働を認めるというのがもっとも現実に即した考え方であろうと思うのです。

 だからといって原発をこのまま続けていいいかというとそうは思いません。なぜなら、核廃棄物の中でもっともやっかいなプルトニウムが無害化されるまで二十数万年という歳月が必要であり、その間人類が核廃物を管理し続けることができるとは思えないからです。(低レベル核廃棄物でも三百年間の保管が必要です。)
 したがって、これ以上核廃棄物を増やす行為はやめるべきだと思いますが、すべての原発をただちに廃炉にすることは大変な混乱を招き、大きな負担(電気代が数倍に跳ね上がる)を国民に強いることは容易に想像できます。そこで、原発に替わる発電方式が軌道に乗るまでの間、既存の原発を稼働させる方が現実的だと思うのです。

 原発の事故で本当に怖いのは、外部に放射性物質が漏れることです。原発の内部で何が起ころうともそれだけは絶対に避けなければなりません。福島第一原発のような事故がもう一度起これば日本は潰れてしまうという懸念はどなたも持っているはずです。

 政府が、今回の事故は人災ではなく天災だということにしたいために、対策の優先順位を組み替えているのであれば、この大事故から何も学び取らなかったということなります。
もしもそうだとすれば無責任ということになりますし、そうでないとすれば無能であるということになります。私たちは辞めさせる相手を間違ったのかもしれません。
by T_am | 2011-11-27 01:26 | 心の働き
 地球上の自然現象が数個の要因(太陽の熱、地球と月の重力、地球の自転、地球内部の放射性物質の崩壊熱)と単純な物理の法則(万有引力の法則とエネルギーは高いところから低いところへ移動するという法則)によって起きているように、経済も単純な要因と原理によって動いているのではないかという気がしてなりません。

 経済を動かす要因とは人間の欲望と感情に他なりません。そこではどんな原理が働くかというと集中の原理です。
 経済活動とは、売り物になる商品やサービス・情報を継続して供給し続けることによって利益を得ていくというものです。その利益の一部は次の「生産」のための原資や投資に使われます。そうすることで、次回の「生産量」は少し増えますから、それが売れたときの収入もそれだけ増えることになり、利益も少し増えることになります。そうやって増えた利益の一部を次の「生産」のための原資や投資に充てることで、さらに「生産量」は増えることになります。
 実際には、設立された会社のすべてが軌道に乗って成長を続けるわけでははありません。なぜなら、私たちの社会は限られた人口・限られた市場しか持たないので、すべての会社は自分の取り分を確保するために競争を強いられるからです。そうやって淘汰が行われる過程で何が起こるかというと、競争に勝ち残った企業に資金が集中していくことになります。

 経営資源であるヒト・モノ・カネのうち、ヒトとモノは実体をもつ存在ですから、その移動は時間的物理的な制約を受けることになります。ところがカネというのは、人間がつくった概念を記号化したものにすぎませんから、その移動に際しては基本的に時間的物理的な制約を受けることがありません(これは情報も同じです)。事実、カネの流れの前に国境は無意味であり、多国籍企業の登場と成長はそのことを端的に現しているといえます。。
 そうなると何が起こるかというと、社会や政治体制の枠組みを超えて経済が動くことになり、ひいては既存の体制を脅かすようになるといってよいと思います。体制の改革というのは、常にそのときの状態に基づいて制度設計がなされるわけです。ところが、経済だけはその体制の枠組みをいとも易々と超えてしまいます。これに対し、政治は、既存の体制の一部に修正を加えることで対処しようとしますが、根本的な解決策とはなりません。というのは、既存の体制がもはや時代遅れになっているのですから、根本的な解決策というのは制度そのものをつくりかえる以外にないからです。

 過度の集中が現実のものとなった経済は社会に害をなすようになります。それに対する政治の役割は、過度の集中を抑制するか(独占禁止法はそのために設けられています)、税金によって集中した富を吸い上げて再分配するというものです。ところが、政治家の中には経済の集中原理に荷担する政策をとる者もいて、その場合、現在のアメリカのように、国民は塗炭の苦しみを舐めることになります。
 それでは日本はどうかというと、同じような考え方が主流を占めているように思います。そのロジックは、規制を撤廃し自由な経済活動を可能にすることで経済成長を促せば、その分け前は国民のすべてに行き渡るというものです。実際、高度成長時代とバブルの頃の日本がそうでしたから、経済成長(この場合はGDPの拡大)が行われれば、財政問題も年金問題も医療費の問題も一気に解決すると信じられているのです。

 このような「信仰」は二十年前までの状況に基づいており、その後経済そのものが変わってしまったということを計算に入れていないという致命的な欠点があります。おそらく一部の経営者たちはそのことにとっくに気づいているはずですが、大部分の国民はそうではありません。
 2002年からリーマンショックが起こる2007年までは、経済成長がずっと続いておりイザナギ景気を超えたといわれていましたが、生活実感とはかけ離れていました。そのことを考えれば、経済成長がすべてを癒してくれるというのは幻想に過ぎないことがわかりそうなものですが、幻想を信じていたいのかもしれません。

 経済が富の集中と偏在をもたらすというのは避けられないことであり、それを否定しようとすることはかつての社会主義経済や江戸時代における倹約令のように無残な失敗に終わるのは目に見えています。それよりも、経済とうまく折り合いをつけることができる政治体制をつくりあげた方がいいに決まっているのであって、先進各国が抱える問題は経済が既存の政治体制の手に負えないものになってしまったことによると思います。
 そういう意味ではTPPへの参加というのは多国籍企業が儲かる仕組みをつくろうとするものです。関税が撤廃され、投資の制約を受けなくなれば、製造業にとっては人件費の安い国に生産拠点を移す動きが加速することは明白です。隣の県に引っ越すような感覚で日本から海外にどんどん人が出かけていくようになればTPPのメリットも大きくなるのでしょうが、そうなるまでには時間もかかるでしょうし、そういうことはしたくないという人も大勢いるはずです。そうなるとTPPに参加するメリットよりもデメリットの方が大きくなりますから、日本にとっては傷口を広げることになりかねないと思います。


 
by T_am | 2011-11-24 23:37 | その他
 最近は大阪に行ってないので、今度のダブル選挙がどうなっているのかわかりません。政策の解りやすさでいえば橋下候補の方が圧倒的に優勢でしょう。それでも橋下候補の論理には素直に賛同できないところがあって、一体なぜなんだろうと考えていました。
 ようやくわかったのをまとめると次の通りとなります。
1.全体のうちの一部分を取り出して、それが問題であることを指摘する。
2.相手がそれに同意したところで、だから全体を変革する必要があると力説する。
3.変革によってこういうメリットがあると列挙する。

 聞き手としては最初のステップで同意しているので、何か変だと思っても言葉にすることができないもどかしさを抱くことになるようです。

 この論理の展開には、1と2のところに乖離があるという特徴があります。すなわち、部分的な問題を全体の問題に(悪くいえば)すり替えているのです。喩えていえば、この家は雨漏りをしているから、根本的な解決をするために家を建て直しましょうといっているようなものです。
 雨漏りくらいで家を建て直す人はあまりいないはずですが、政治や教育・社会制度といったことになるとなぜか「抜本的な改革」の必要性が主張され、多くの賛同を得ることになっています。
 その理由は2つあって、しょっちゅう問題があると聞かされているので、このままではいけないのではないかという意識が芽生えていることが第一の理由でしょう。
 2番目の理由は、その変革にはどのような副作用を伴うのか誰にもわからないからです。家を建て直すということであれば、大金が必要であることは誰にでもわかります。そのことと雨漏りを我慢する不快さを比較した結果、建て直しという選択はあり得ないという結論を、私たちはほとんど無意識のうちに得ています。
 けれども変革に伴う副作用がわからないと、問題をそのままにしておくべきではないという気持ちの方が優勢になるので、私たちは変革や改革に飛びついてしまうのです。
 それでは変革を主張する人はどうかというと、やはり副作用に対する検証が十分でないという場合が多いように思います。というのは、その人の中で変革や改革を行う自体ことが目的になってしまっているからです。変革や改革は目的を実現させるための方法に過ぎないのですが、いつの間にか本来の目的が忘れ去られてしまっているわけです。だから、人民のための革命軍が治安維持のためと称して、人民に銃を向けたり拘束するということも起こるのです。

 副作用についての議論はきちんとやるべきです。その手続きを省略して中傷合戦に陥ると、どちらが勝っても不幸になる人が増えるような気がします。そういうことを考えると、選挙期間はあまりにも短すぎるといえるでしょう。橋下候補は事前の周知に努めたといえるかもしれませんが、肝心の議論が行われなかったのですからどうにもなりません。その責任は平松市長にもありますが、冒頭に述べたような論理を駆使する橋下候補も責任を免れるものではありません。
by T_am | 2011-11-19 15:54 | あいまいな国のあいまいな人々
 「スティーブ・ジョブズ」の電子書籍版が早々と発売されました。上下巻で各1900円というのは本の定価は1995円とほとんど変わりありません。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(ダイヤモンド社)の単行本は1680円ですが、iPhone版の電子書籍は800円で販売されていますからべらぼうに高い金額であるといってよいでしょう。)

 ユーザーとして意見を述べさせていただけば、電子書籍は流通コストもかからなければ返本のリスクも考えなくて済むのですから、本と大差ない価格設定はおかしいと思います。さらに、電子書籍はブックオフなどのリサイクル店に持ち込むこともできません。したがって、電子書籍というのは、出版社や著者にとっては決して不利な供給ルートではないはずです。

 Amazonではベストセラーでも10ドル(感覚的に1ドル=100円といってよいと思います)以下で電子書籍を購入することができます。別にAmazonがよくて、日本の出版社が駄目だというつもりはありません。せっかくAmazonという電子書籍の成功モデルがあるのに日本の出版社は何をもたもたしているのだろうか、ぐずぐずしてるとAmazonが日本に進出してくるぞ、と思っているのです。(これも見方によっては、日本の出版社が駄目だと言っているに等しいですね。)
 Amazonのパワーがどれほど強力かというと、「スティーブ・ジョブズ」の電子書籍版の価格が11ドル99セント(日本の約4分の1)であることからもおわかりいただけると思います。(ちなみに上下巻で打っているのは日本だけだそうです。)これでは電子書籍を購入した方がずっと得だということになります。

 本も音楽も、その本質は情報です。CDや本はその器に過ぎません。情報である限り、デジタル化は可能ですからインターネットを活用して流通させた方がコストを抑えることができますし、何よりも在庫という厄介な問題を抱えることもありません。したがって、情報を販売する産業は、その流通ルートがインターネットに移行していくというのが時代の流れであり(ただし、CDや本が消えてなくなるとは思いません)、既存の流通経路にしがみついている企業はいずれ衰退していく運命にあるのだろうと思います。それよりは、新しい流通経路を開拓した方がいいのではないかと思うのですが、なぜか大同団結できないのが日本の企業なのですね。

付記
 電子書籍の拡大は書店経営を圧迫するという指摘は正しいと思います。日本から書店がなくなってもいいのかといわれると返す言葉もないのですが、時代の変化の中で消えていきつつある業態はいくらでもあります。(酒屋、金物屋、八百屋、肉屋、魚屋、豆腐屋等々。)けれどもこれらの業態が消えてなくなったわけではありません。数は減っても元気で商売を続けている店はあるのです。大事なのは業界が存続することではなく、個々の商店が存続することです。電子書籍が伸びても、紙の本に対する需要がなくなるわけではありません。その需要を上手に拾い集める賢い商店は、時代が変わっても残るといってもよいと思うのです。
by T_am | 2011-11-16 21:40 | その他
 今日の衆議院予算委員において、自民党の山元一太議員の「関係国との協議の結果によっては、交渉に参加しないという結論もありうるのか」という質問に対し、野田総理はTPP交渉参加に向けた協議に入る際の方針として「協議に入る以上あくまでも国益を最大限実現するという視点で協議に入る。何が何でも、国益を損ねてまで交渉に参加するということはない。」と答弁しました。
 野田総理は、11月11日の総理官邸での記者会見の場で、「世界に誇る日本の医療制度、日本の伝統文化、美しい農村、そうしたものは断固として守り抜き、分厚い中間層によって支えられる、安定した社会の再構築を実現をする決意であります。」と述べており、今日の予算委員会の中でも「日本の誇るべき医療制度であるとか、あるいは、美しい農村は守り抜くんだと私は申し上げました。そこでぜひくみ取っていただきたいと思います」と答弁しています。

 こうしてみてみると、野田総理の発言は至極まともなことを言っているようにも思われますが、はたして鵜呑みにしてよいものか、疑念を払拭することができないでいます。その理由は、「世界に誇る日本の医療制度」とか「美しい農村」という観念的な表現をこの人がしているからです。自己負担3割で医者に診てもらうことができる制度というのは、アメリカなどに比べればはるかにマシな制度であることに疑いはありません。その一方で医療費が年々高額なものになっているという現実がありながら、オリンパスのように財テクの損失穴埋めをべらぼうに高い医療機器の販売によって補填している企業もあるわけです。政府は、社会福祉の費用が増大しているので消費税率を上げる必要があるという説明をしてきましたが、その前にやることがあるんじゃないかといいたくなります。
 新型インフルエンザ騒動のときもそうでしたが、「世界に誇る日本の医療制度」を守っているのは現場で働いている医療従事者たちの努力にほかなりません。TPPへの参加に向けた協議における外国の要求から守るという外交交渉の前にすることがあるだろうと思うのです。
 また、野田総理が言う「美しい農村を守り抜く」という発言を聞くと、誰がそれをやっているのか、この人は考えたことがあるのかと思ってしまいます。「美しい農村」の典型的な姿であった福島県の飯舘村は原発事故によって計画的避難区域に指定されたために現在無住の地になっています。それでも、他の市町村に避難した住民たちが、自分たちの村を守ろうと3交代で飯舘村に通ってパトロールを続けているという現実があります。人によっては避難先から車で1時間以上かけて飯舘村に通っているのですが、それらは自費で行われています。
 飯舘村の事例は極端かもしれませんが、日本の「美しい農村」を守っているのは農家の爺ちゃんや婆ちゃんであり、仕事が休みの日に手伝う倅や嫁たちです。にもかかわらず、農水省は国際競争力をつけるために農家の大規模化が必要などと現実を無視した政策をとり続けています。。
 そのような現実があるにもかかわらず、「世界に誇る日本の医療制度、日本の伝統文化、美しい農村、そうしたものは断固として守り抜き」などという聞こえのいい言葉を臆面もなく口にできる神経が私には不思議でなりません。
 これは野田総理だけでなく私にもいえることですが、人間は自分が理解している範囲内でしか物事を考えることができません。自分が知らないことについては、他人の言葉、他人の考えを借りてくる以外にないのであって、一国の総理大臣といえどもその例外ではありません。

 国益というのは外交上の用語ですから、交渉のテーブルに載せられるあらゆるテーマについて国益が問われることになります。工業製品の輸出入における日本の国益、規制緩和における日本の国益、農産物畜産物の輸出入における日本の国益というふうに、二国間あるいは多国間において何が自分の国にとって有利なことなのかの追求という問題に集約されます。
 その際に、自分の国の医療制度や農業について観念的情緒的な表現しかできない指導者がどれだけの指導力を発揮できるのか疑問に思うのです。今後予想されるシナリオとして、工業製品の関税問題を優先する代わりに規制緩和や農業問題について譲歩し、国内の不満をなだめるために、農家に対する所得補償のような制度が新たに導入される、ということも予想されます。それも国益を最大限実現し、同時に日本の農家を守るという総理の発言に叶うものであることには違いはないのですから。
 
 日本の繁栄を維持する道は、輸出による外貨の獲得以外になく、それにはアメリカを中心とする自由貿易体制を堅持することである。このように考えると、アメリカに追随するのはやむを得ないことであるという結論に到達するのは自然のことといえます。小泉内閣の時代に日本がイラク戦争に協力することをきめたときに、異を唱えた日本人がほとんどいなかったのはこのような考え方が支配的だったことに由来します。(実をいうと、私もそのように考えていました。)
 この考え方というのは今日でも根強く残っており、野田総理にもそれが垣間見られるように思います。(だからTPPに反対する人が多いのだといえます。)

 アメリカによる規制緩和の要求は年次改革要望書という形で、これまでも行われてきました。(最新のものはアメリカ大使館のサイトで確認することができます。)

(日米経済調和対話)
http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-20110304-70.html

(これまでの年次改革要望書の概要) 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E6%AC%A1%E6%94%B9%E9%9D%A9%E8%A6%81%E6%9C%9B%E6%9B%B8#.E5.A0.B1.E9.81.93.E3.81.A7.E5.B9.B4.E6.AC.A1.E6.94.B9.E9.9D.A9.E8.A6.81.E6.9C.9B.E6.9B.B8.E3.81.8C.E3.81.BB.E3.81.A8.E3.82.93.E3.81.A9.E6.89.B1.E3.82.8F.E3.82.8C.E3.81.A6.E3.81.84.E3.81.AA.E3.81.84.E3.81.93.E3.81.A8.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6


 なお、大前研一さんは、「しかし過去30年間、米国はこの手の貿易交渉の結果、貿易を拡大させたことがあったろうか? 雇用を増大させたことがあっただろうか? 私の記憶では一度もない。」と述べています。(「大前研一の『産業突然死』時代の人生論」nikkei BP net のうち、「TPPは『国論を二分する』ほどの問題ではない」から引用。詳細は下記のサイトをご覧ください。)
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20111107/289750/?ST=mobile&rt=nocnt

 なるほどたしかに貿易面に限ってみればその通りだと思います。けれどもアメリカが日本に要求してきたことは貿易交渉だけではありません。数々の規制緩和がそうであり、中には労働者派遣法改正のように日本の雇用形態を大きく変えることになったものもあります。
 TPPで協議されるのは、経済のブロック化、すなわちブロック内の経済を自由化するというのが目的ですから、関税だけを対象とするのではありません。各国に固有の規制もその対象となります。その結果何が生じるかというと、ブロック内の金の流れが自由化されるということになると、私は思っています。
 交渉の際には、影響力の小さな問題は軽視され、大きな問題に集中的に取り組むというのがビジネスの鉄則ですから、大きな市場を抱える日本の様々な規制が交渉の対象となるであろうことは容易に予測されることです。
 TPPの参加国に対し、日本人は単なる輸出先くらいにしか考えていませんが、先方が日本に期待するのはそれだけはないはずです。これらの国の投資家や労働者にとって日本がどのように見えているのかを考えておかないと、TPPに参加したことによって、日本から金がどんどん流出していくという事態を招くことになると心配されるのです。
 貿易収支や金融収支が黒字であるうちは、それらの資金的赤字を補うことができます。ところが、日本の企業が海外に生産をシフトしつつある現在(タイの洪水でこれだけ多くの日本企業が進出しているということをはじめて知りました)、輸出によって獲得した外貨を国内で流通させて経済を成長させるというスパイラルが崩壊しつつあります。そうなると金の収支バランスが崩れ、外貨がどんどん減っていくということにもなりかねないと思います。
 TPP(ブロック経済)に参加するということは、強力な外貨獲得の手段を持つ国にとっては有利であり、そうでない国にとっては貧困化の一途をたどる道となります。したがって、TPPに参加すべきだと考えるのであれば、工業製品の輸出のほかに外国から金を持ってくる手段を確立させるということも考えなければいけないと思うのです。
 
 国益を重視するというのはまっとうな考え方ではありますが、その対象は既に存在するもの限られます。そのことに気づかずに、既存の産業の利益のみにとらわれ、新しい産業を育てていくということを忘れていると悲惨な羽目に陥るのではないか、そんな心配が尽きません。
by T_am | 2011-11-16 00:34 | その他
 この秋注目を集めているのは大阪のダブル選挙のゆくえでしょう。注目される理由は良くも悪くも大阪維新の会の橋下徹代表のキャラクターにあります。
 私は投票権がないので気楽な立場で眺めているわけですが、守旧派と改革派の対決という構図に持ち込むことができれば大阪維新の会が勝つだろうと思います。そのことは橋下代表もよくわかっていて、ことあるごとに平松市長は大阪市役所の現体制を守ろうとしているに過ぎない(=何のビジョンも持たない)という指摘を行っています。

 人間は誰でも何かしら不満を持っているために、改革=善で、現状維持=悪というイメージを抱きがちです。実際には改革が改悪となってしまうこともある(本当に改革=善であるならば、この世はとっくにパラダイスになっていなければならない)わけですから、改革=善という根拠はどこにもありません。にもかかわらず、改革=善であり、その対立項としての現状維持は悪であるというイメージを捨て去るのはなかなかできるものではありません。
 その証拠に、国会中継をみると、政府も野党も改革が必要だということをいっています。ただし、お前のいう改革は駄目で自分の改革の方がいいのだ、という水掛け論ですが。これは今に始まったことではありません。「君たちは昔から改革を主張して、過去に何度も改革を行ってきたけれども、世の中がいっこうに良くならないのはいったいどういうことなのかね?」と国会議員諸氏に聞いてみたい気もするのですが、まあ聞くだけムダでしょうね。

 (橋下代表がそうであるように)改革を訴える人は心の底からそれが正しいと思っています。「人を騙すにはまず自分から」という諺があるかどうかは知りませんが、自分が正しいと思っている人の言葉は、内容が空虚であったとしても、やはり説得力があるのです。(こう書いたからといって、橋下代表が嘘つきだといっているわけではありませんし、その主張が空虚だといっているわけでもありませんので、誤解しないでください。)

 議論するというのは、相手を論破することだと思っている人がいて、ディベートという言葉はその意味で用いられることが多いようです。もっとも政治家によるディベートは常に観衆を意識して行われるので、議論の決着がつかなくとも、観衆が自分のいっている方が正しいと思ってくれれば目的は達成されたことになります。
 その点天才的だったのは小泉純一郎です。自らを改革の旗手として位置づけ、改革に反対する政治家たちを抵抗勢力というネガティブな名称でひとくくりにしてしまいました。これで小泉純一郎に反対する政治家=悪者という構図ができあがったのです。

 このように、単純明快な対立構造が示されると人の興味をひくのはわかるのですが、興味深いのは、その改革が実施されたときにもっとも被害を受けた人たちも熱烈に小泉純一郎を支持をしていたということです。(このような現象は今度の大阪の選挙でも再現されるのではないかと思っています。)
 船が大きくなればなるほど急に曲がることはできなくなります。社会もまったく同じであり、一度に色々な改革を行おうとするとその反動は極めて大きなものとなります。もっとも過激で規模の大きな改革といえば革命がそれにあたります。リビアの例をみてもわかるように、革命によって大勢の人が命を落としたり怪我をしています。そうかといって、革命が成功した後はただちに社会情勢・政治情勢が安定するかというとそんなことはありません。社会不安が解消されないまま革命政権内で主導権争いが行われ、たいていの場合血みどろの争いとなります。
 日本で革命を起こそうと真剣に考えている政治家はいませんが、それに近いことを実行しようとしている政治家はいます。橋下代表もそのひとりだと考えてよいのですが、大阪維新の会が掲げている政策は、広範囲に渡って過激で重大な改革の実施に取り組むとしてます。そのため、改革が実施されるとその被害を受ける人も相当数発生することが予想されるのです。

 大阪維新の会にすれば、今度の選挙で勝たなければ何もできないのですから、選挙戦術として、改革派 VS.守旧派という対立の構図を打ち立てようとしているように思われます。大阪の有権者がそれにとびつけば橋下代表率いる大阪維新の会が勝利することになるでしょう。

 対立という単純な構図で政策を評価することの危険性についてもう少し整理してみます。
 
 大阪維新の会が掲げている政策は端的にいってしまえば、「都市の論理」「自由競争主義の論理」です(これらの用語は便宜上私がつけたものです。大阪維新の会が用いている用語ではありません。)。「都市の論理」というのは、住民や企業は経済成長の一端を担う存在であるからその能力が充分に発揮されるように環境・教育などの諸制度を整えるというものです。目指すは世界都市であり、都市に農地がないように、マニフェストには農業のことは書かれていません。
 「自由競争主義の論理」とは、海外からも人や企業がやってきやすい環境を整え、活発な経済活動を行えるようにするというものです。そのためには現在ある規制は邪魔になるので大幅な規制緩和を行うとマニフェストには明記されています。その根底にあるのは、市場の選別に委ねた結果本当に優れた企業と人材が残るという論理です。(学校にも自由競争の原理を導入しようとしているように見受けられます。)
 大阪維新の会のメンバーにとって規制は、邪魔自由競争を阻害するだけの存在です。そこには「規制することによって守らなければならないものがこの社会にはある」という視点が欠落しています。また、それらの規制によって守られている立場の人たちほど大きな不満を抱えていますから、維新の会による改革を積極的に支持するだろうと予想されます。維新の会の支持者に共通する心理は、おそらく「改革が実施されたときには、自分ならばうまく立ち回れるという自信がある」というものでしょう。その根拠が何に由来するのかわかりませんが。

 環境と機会が整えられれば、人間はいくらでも利己的に振る舞うことができるものです。共同体の利益よりも自社の利益、自社の利益よりも自分の利益を優先させるという人間はどこにでもいます。福島第一原発の事故はその見本市を見せられているかのようでした。そういう人間が登場すると、その一方で消耗品のように利用されて使い捨てにされる人間(しかもそちらの方がはるかに多い)も生まれてきます。
 維新の会が掲げる世界都市というのはグローバル化を念頭に置いたものと思われます。端的に言ってグローバル化とは多国籍企業が儲かるしくみです。一応、どの企業にも多国籍企業に脱皮するチャンスは均等に与えられていますから、ご自分の会社が多国籍企業となってなおかつご自分がそこで必要な人材であると認められている場合はハッピーでいられますが、そうでない場合は金銭的に恵まれるということはないように思われます。

 私たちの社会で取り入れられ、現在も残っている制度や決まりには何かしら意味(存在理由)があります。中には賞味期限が切れかかっているものもありますし、住民のためになっていない規制もあると思います。だからといって、それらをひとまとめにして改革の対象としてしまのは大きなリスクを伴います。
 現状に対する不満があるのでどんな改革でも構わない、という人はいないはずです。本来ならば現状に不満があるから改革が必要だ。ではどんな改革をしたらいいのかという議論を経た上で、その改革を実施するかどうかを決めるというプロセスを踏むのが普通でしょう。
 先の衆議院議員選挙で、私たちはその手順を経ないで民主党に投票しました。もっとも、あのときの選択肢は、「このまま自民党に任せるのか、そうでないのか」というものでした。有権者にしてみれば、民主党のマニフェストを熟読して民主党に任せようと決めたから投票したわけではないのです。
 しかしながら、現行の選挙制度では選挙で勝つということは、その候補者・政党が掲げる政策が支持されたとみなされてしまいます。そのあたりをよく考えて投票しないと、後になってこんなはずじゃなかったと臍をかむ羽目に陥らないとも限らないのです。
by T_am | 2011-11-09 01:49 | その他
 最近あまり耳にしなくなりましたが、「起爆剤」という言葉がかつては多用されました。


「起爆剤」
 他人をそそのかすときに使われる言葉。自分が提案するイベントや新たに建築される施設の正当性を強調するために用いられる。起爆剤があっても爆薬がなければ空振りに終わるという単純な事実が忘れられている場合が多い。したがって、起爆剤という言葉に飛びつくのは、そうなってほしいという人々の願望がそうさせるのである。人間は、自分が見たいと思うものを見て、自分が聞きたいと思うものに耳を傾ける。そういうときに「起爆剤」という言葉は殺し文句となる。


 起爆剤のなれの果てがどういうものかは、日本の各地に残っているテーマパークの残骸を見ればわかります。もともと爆薬のないところに起爆剤を持ってきても、空振りに終わるのは火を見るよりも明らかです。したがって、もしもあなたが起爆剤という言葉を聞かされる立場になった場合、点火されるはずの爆薬がどこにあって、それはどのようなものなのかを相手がきちんと説明をしているかを見極めた方がよいと思います。それらをきちんと示しており、さらにあなたが納得できる内容であれば、相手を信用してもよいと思いますが、そこまで親切に説明してくれる人はほとんどいないはずです。なぜなら、彼らの目的はあなたに自分の提案を受け入れさせることであって、自分の提案があなたに恩恵をもたらすとは信じていないからです。

 詐欺師がつけこむのはあなたの中にある願望です。詐欺師はあなたの願望を敏感につかみとって、それが実現したときの甘美な幻想を見せてくれます。その心地よさゆえに人は自ら進んで騙されるのです。現実はもっとシビアでハードでリスクに満ちています。ところが、現実から目を背けたいという気持ちは誰もが持っているものですから、詐欺師はそこにつけこみます。けれども彼らが責任をとることはありません。いつの間にか彼らは姿を消してしまい、あとには負債を抱えて呆然としたあなただけが残されているというわけです。
by T_am | 2011-11-08 00:32 | その他
 橋下前知事(というよりは、今では大阪維新の会の橋下代表というべきでしょうね)のツイッターを読んでいると、マネジメントの手法を導入することで行政による住民サービスの最適化が可能になるという考えが根底にあるのかな、と思います。マネジメントを徹底させるためには組織がシンプルかつフラットである方がいいので、行政の組織制度を改革して、広域行政は大阪都が担当するけれども地域行政は区が行うように分ける、というのはマネジメントをやりやすくするためであると理解できます。ただし、人間が行うことに完全無欠ということはないので、地域行政の責任者となる区長も選挙によって選ばれるようにして、住民の意思が反映されるようなしくみにするということになっています。これは学校運営に対しても同様であり、保護者の意見が学校運営に反映されるようにするということを教育基本条例案ではうたっています。
 要約すると、行政組織のトップ(知事や区長、校長など)はそれぞれマネジメントを行うけれども、その成果に対しては住民が評価できるようにするというしくみをつくるということになると思います。

 マネジメントというと管理とか経営と訳されていますが、もう少し正確にいうと、ビジネス用語のマネジメントというのは、所与の経営資源を活用して得られる利潤を極大化することを指します。したがって百万円の利益をあげられる経営者よりも一千万円の利益をあげられる経営者の方がマネジメント能力が長けていると判断されます。マネジメント能力の優れた人(企業により多くの利益をもたらした人)は高く評価され、報酬も大きなものとなります。(そのことのもたらす問題点については後述します。)

 それでは行政組織におけるマネジメントとはどんな尺度で評価されるべきなのでしょうか? 行政組織ですから利潤を上げることを目的としているわけではありません。したがって別の評価尺度を設けなければ、どういう人がマネジメント能力に長けている人なのか判断することができません。
 実をいうと、どういう尺度がいいのかについて私にはよくわかりません。公平に評価するのであれば、その尺度は数値化可能でなければなりません(そうでないと、その人に対する好き嫌いで決まってしまう)。利益がだめとなるとあとは経費を削るということになります。その結果、赤字を出さないようになったというのは評価されるべきなのかもしれませんが、行政サービスをそのような短期の尺度で評価してよいのかという疑問が残ります。
 企業が年度ごとあるいは四半期毎に決算を行い、利益を確定させるというのは、企業が利益を追求する組織だからです。しかし、行政による事業というのはそうではありません。たとえば、教育の成果が現れるのはその人が大人になってからであり、しかも人によって成果は異なります。さらに、社会が教育による恩恵を受けるのはそういう大人が増えてからということになります。しかし、管理者である校長の評価をそこまで待つという悠長なことはできません。では、どうするんだろうという疑問が残ります。
 あるいは、学力テストの結果によって評価すればいいという考えもあるかもしれません。すなわち、大阪全体でみたときに、学力テストの結果がよかった学校の校長はいい評価を受け、悪かった学校の校長の評価は低くなるというものです。評価対象が学力だけに偏るという批判もあると思うので、クラブ活動で優秀な成績を修めたらそれも評価するという考え方も可能でしょう。
 こうしてみると、ものすごくいいことのようにみえますが、実際にそういう評価方法が導入されるとどうなるかと考えてみると、テスト対策のための授業が行われるようになるでしょうし、そのうえで授業でもクラブ活動でも「できる子」はともかく「できない子」は切り捨てられるようになると思われます。校長や教師にすれば自分の評価に結びつくのですから、勉強のできないこどもの学力を伸ばすよりもテストを受けさせないという安易な方法に飛びつく可能性は高いといえます。そんなひどいことをするのかと思われるかもしれませんが、共同体の利益(公の利益といってもよい)よりも自分の利益の方を優先させる人というのはいつでもどこにでもいるものです。

 公共的な施設とはいえ赤字を出さないというのも必要なことですが、そのためにサービス水準が低下しては本末転倒となります。たとえば、黒字になったけれども入院患者の死亡率も高くなったというのでは困ります。
 経費を削る際に凡庸な管理者が行いがちなのは、一律に○○%カットするというやり方と、収益に結びつかない経費を優先的にカットするということです。そうなると、修繕費や清掃費は真っ先に削られる経費項目なので、施設の維持管理がおろそかになってしまいます。そのしわ寄せは職員に向かいますが、職員が対応しきれないものはほったらかしになってしまいます。しょっちゅう詰まるトイレ、いくら言っても直してもらえないエアコン、いつも溢れたままのゴミ箱。こういう状態になったら要注意です。

 評価尺度を利益や黒字化に置くことの弊害は、既に述べたように、共同体の利益(公の利益)よりも自分の利益を優先させるようになってしまうことにあります。そうなると、顧客(利用者)の利便性よりも経費(人件費)の削減という考え方が支配的になります。現に大企業では、そうすることが総需要を抑制する(景気が悪化したまま)となるとわかっていながら、正規雇用を減らすということが相変わらず行われています。それというのも今期の利益をいかに確保するかが至上命題になっているからです。(誤解を招かぬよう申し上げておきますが、私はマネジメントが悪いといっているのではありません。マネジメントはツールに過ぎないので、問題はそれを駆使する人間の方にあります。)

 行政の事業にはムダが多いといわれています。それらのムダは、「やっても効果のないことに税金が費やされている」、「他と比較して高い費用を支払っている」ということに収斂されるようです。たしかに、マネジメントを導入することでそのうちのいくらかは解消されるだろうと私も思います。けれども、だからマネジメントの手法を導入すべきだ、と結論づけるのは短絡的すぎると思います。なぜなら、そうすることによって損なわれてしまうものがあるからです。
 
 橋下代表のツイッターを読んでいると、論理の内容が強引だなあと思うことがたびたびあります。140字という字数制限があるせいもあるのかもしれませんが、言葉のイメージに頼ってそれ以上深く掘り下げようとしないと感じることがあるのです。
 橋下代表は、関空と伊丹のように、大阪府立大学と私立大学、府立病院と市立病院も一体運用することを主張しています。その理由として、狭い府域の中で大阪府と大阪市がそれぞれ独自に計画を立てる必要はないということをあげています。一見なるほどと思うのですが、それならば国立大阪大学や、公立よりもはるかに多い私立大学も一体運用した方がいいのではないかと思いますが、橋下代表はそのことに触れていません。病院についても同じです。「大阪府全体で病院の適正配置、病院間の役割分担を考えなければならない」(11/06付ツイッターから)と述べていますが、それならば民間の病院も視野に入れるべきでしょう。しかし、民間の病院までも一体運用するとは述べていません。そんなことをいえば、猛反発を喰らうことは火を見るよりも明らかだからです。したがって、大阪全体といっていながら、実は大阪全体の病院のうちの「府立」と「私立」というごく一部しか取り上げていないということがわかります。

 マネジメントという用語も含めて、ビジネスマインドというのは、目の前にある課題に対する最適解が必ず存在するという考え方をします。実際には対策案としての候補はいくつかあげられるのですが、それらのメリット・デメリットを比較すると最適解はひとつに絞られると考えるのです。
 橋下代表も同じような考え方をしているように思われます。最適解をひとつに絞るうえでマネジメントという手法が有効だと考える気持ちは理解できますが、マネジメントは管理手法に過ぎませんし、そもそもそんなにいいものだろうかという疑問が私にはあります。
むしろ、日本企業が自社の利益を最大化するという行動を追求していった結果が今の日本の姿なのではないかと思っているので、大阪が同じことをしてどうするんだろうという心配すら覚えるのです。
by T_am | 2011-11-06 15:59 | その他