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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 今朝の橋下知事のツイートはこんな出だしで始まっています。


 問い合わせが多いので一連の週刊誌報道についてコメントします。(以下省略)


 今週発売の週刊誌で橋下知事の実父と叔父・従兄弟についての記事が掲載されたのが発端です。相当反響が大きかったと思われます。
 私自身は週刊誌の記事を読んでいませんし、また読みたいとも思いません。それよりも、橋下知事のような公人の場合その評価は、その人がやったこととやらなかったことでのみ決まるのが当たり前だと思うのですが、世間はそうではないようです。個人が如何ともしがたいことを持ち出してその人を誹謗するというのはフェアではありません。したがってこういう中傷は無視するに限ると思っています。

 橋下知事の政策には疑問がありますが、民意を問おうとするその手法には賛成です。どこかの政党の首脳部にも見倣ってほしいと思うのですが、考えて見たらこういう政治家は今まで見たことがないということに気づきました。それだけに、こういうつまらないことで人を潰そうとするのは卑劣であろうと思います。文句があるなら意見を戦わせればいいのです。

 公人に対する評価は、その人がやったこと、やらなかったことで決まる。その評価は自分で判断すべきであり、他人の意見を鵜呑みにするのは誤りである。
by T_am | 2011-10-29 22:05 | その他
民主党の仙石政調会長代行が、TPPに反対するJAに対し「農業外で収益をあげている団体が農業を守ろうとTPPに反対するのは筋違いだ」と批判しました。

http://mainichi.jp/select/today/news/20111028k0000m010091000c.html?inb=tw

 私にいわせれば、JAが守ろうとしているのは顧客である農家です。利益団体が顧客を守ろうとするのは筋違いではありません。顧客のダメージ=自分のダメージなのですから。
 農業を守るということは実は農家を守ということなのだと、そろそろ気づくべきだと思います。農家がいるから農業が行われるのです。ところが農業を守るといってしまうと、それは産業としての農業ということになりがちであり、農業の担い手である農家がないがしろにされることになります。
 農家の大規模化や国際競争力のある農業を目指すというのも理解できますが、農家とはこうであるべきだという論理には賛成しかねます。なぜなら農業にはその地域の風土にあった作物を作らなければならないという制約があるからです。
 大規模農家が成立するのは平地であって山間部ではまず無理です。千枚田に大型機械は入りません。
 農業は食糧を供給してくれるだけでなく、国土の保全という役割も担っています。タイの大洪水の理由のひとつに、農地を無計画に潰して工業団地を造成したということがあります。洪水を地球温暖化と結びつけて考える人もいるようですが、以前から洪水は起こっているのです。したがって洪水対策は治水によって行うのが当たり前であり、CO2を減らしても洪水はなくなりません。ただし、温暖化による雨量の増加は疑いのない事実なので、これまで以上に厳しい基準(30年に1度の大雨に耐えるから50年、100年に1度の大雨に耐えるというように)で対策を考える必要に迫られているといえます。
 日本の国土の大半が山間部であることを考えると、これらの地域で農業に従事している規模の小さな農家をどうやって守るかということも必要です。すなわち、農家とは大規模農家も農業法人も
零細農家もすべて含むと考えるとべきだということになります。

 グローバル化とは、世界共通の尺度である金によってすべてのものの価値判断をするという仕組みづくりです。TPPもその例外ではありません。都市に住む人はそれで構わないでしょう。都市も世界共通ですから。しかし、田舎は国によって全部異なります。そういう違いを無視してすべて金勘定に価値基準を委ねるというのがいいことなのか疑問に思います。
 日本の自然の美しさというのは日本人が二千年かけてつくりあげてきたものです。開墾と灌漑によって農地を広げて来た結果が今の日本の姿です。それを無視して都市の都合だけで決めてしまうと、いつか莫大なツケを払う羽目になる、そんな気がしてなりません。
by T_am | 2011-10-28 09:09 | その他
 原子力安全委員会の事務局が10月20日、原発事故の際の住民非難を想定する範囲を現行の8~10km圏内から30km圏内に拡大することを発表しました。同時に原発からの距離に応じて3段階の防災対策の重点区域を新たに設ける案を作業部会に提示しました。3段階の防災区域とは次の通りです。

1.原発の半径5km圏内(予防防災措置区域、PAZ)
 特定の事故発生でただちに避難する地域

2.原発の半径30km圏内(緊急防護措置区域、UPZ)
 原発から放出された放射性物質などを基準に避難や屋内退避をする区域

3.原発の半径50km圏内(被爆対策を準備する区域、PPZ)
 屋内退避やヨウ素剤服用についての計画を策定しておく区域

「原子力発電所に係る防災対策を重点的に充実すべき地域に関する考え方(案)」
http://www.nsc.go.jp/senmon/shidai/bousin/bousin2011_06/siryo3.pdf

 これまで、原発は安全であり事故が起こることなどありえないということから、防災対策がおろそかにされてきました。その結果実際に事故が起きたときに右往左往することになったわけです。現在停止中の原発を再稼働させるためには、このような区域をあらかじめ設定しておき、それぞれ強弱をつけた防災対策計画をつくっておくというのは避けられないと思います。
 最初、新聞でこの案をみたときに、放射性廃棄物の拡散は風向きや地形の影響を受けるのだから、このような同心円状の設定は無意味ではないかと思いました。そうしたら、「原子力発電所事故による周辺環境への影響の大きさ、影響を与えるまでの時間は、異常事態の態様、施設の特性、気象条件、周辺の地形、住民の居住状況等により異なることから、将来的には、原子力発電所毎に、詳細に検討していくことが望ましい」と前掲の資料に書かれていました。
 それならばはっきりと「原子力発電所ごとに詳細に検討していくべきである」と書けばいいのに、と思います。何を遠慮してるのかと思うのですが、今指定されている福島第一原発の警戒区域が30km圏内(後で飯舘村が計画的避難区域に加わった。飯舘村では住民が避難しているけれども車両が通過することは可能です。)と円状に設定されていることに配慮したのかもしれません。書き方を間違えると、今回の事故で政府が行ってきたことは誤りであったということにもなりかねないからです。
 防災対策区域の設定にあたって地形や風向きなども考慮することは、より現実に即した計画ができあがるものと期待できます。その代わり、自分が住んでいる地域が原発からの風の通り道にあたっていることをはじめて知ったという人も出てくるでしょうから、それらの人々に対する説明も必要になってきます。そういう手間も考えたのかもしれませんね。面倒なことにはできるだけ関わりたくないと思っているのかもしれません。

 実をいうと、今ある原発をすべて廃炉にしてしまえば、このような取り組みも不要となります。それも選択肢のひとつであることに違いはありませんが、現時点ですべての原発を廃炉にするというのは、日本という巨大な船が急激に舵を切るようなものです。動いている船に慣性があるように、社会にも慣性が働いています。にもかかわらず、いきなり方向を転換させようとすると、大きな混乱と軋轢が生じます。日本の景気が絶好調で国民にも活気が溢れているというのであれば、それによってもたらされる諸問題も比較的容易にクリアできるかもしれませんが、今はそうではないことは皆様よくご存知のはずです。
 私自身の考えは、とりあえず何が起こっても重大事故にまで発展しないような対策を施した上で停止中の原発を順次再稼働させ、個々の原子炉の寿命がきたら順番に廃炉にしていくというものです。
 事故が起こらなければ、原発を続けても構わないのではないかと思われるかもしれませんが、原発は放射性廃棄物を出し続けます。これらの最終処分場は未だに決まっていませんし、低レベル放射性廃棄物でも数百年、高レベル放射性廃棄物の場合二十数万年もの間管理しなければなりません。それは親がこしらえた莫大な借金の返済を子々孫々に至るまで押しつけるようなものです。(高レベル放射性廃棄物が無害化されるまで二十数万年かかりますが、人類の歴史は数千年しか経っていません。)
 人としてそのようなことをしていいのか、私には疑問です。ゆえに、原発はやめる方向に持っていくというのが私の結論です。人類の文明ですら数千年の歴史しかないのに、それをはるかに超える期間に対し、誰が責任をとれるというのでしょうか。誰も責任をとれないのであれば、速やかにやめるというのがまともな考え方だと思います。ただし、止めるにあたっては無理のないやめ方をしましょうというものです。完全にやめるまでの間、時間的なゆとりが生じますから、その間に代替えエネルギーの問題の解決に心血を注ぐべきだと思います。
 
 以上のことから、停止中の原発の再稼働には条件付きで賛成するというのが私の立場です。その条件とは、都合の悪いものは隠すのではなく、情報をきちんと開示し、透明性を維持するということです。情報が開示されれば、誰でも判断ができるようになります。大事なことは他人任せにするのではなく、自分で判断するということが民主主義では一番大切なことだと思います。
 また、そうやって情報が開示されれば、これからやろうとしていることに対して、さまざまな角度から意見が述べられるようになりますから、その長所短所、問題点や課題も浮かび上がってきます。そのうえで修正すべき所は修正して、これならばしょうがないか、というものにしてから実施するというのが、正攻法の手続きです。

 今回の事務局の発表を受けて早速マスコミからは、原発の立地によっては避難対象となる住民数が百万人に迫る地域もあることがマスコミによって指摘されています。
 数十万人にも及ぶ大勢の人を短時間のうちに整然と避難させるための手法はまだ、確立されていません。現在でも連休ともなれば高速道路は大渋滞しますし、新幹線などの長距離列車も混雑を呈します。事故が起きたときにどこへどうやって避難するのか? これは市町村のレベルを超える難題です。最終的には、日本中のすべての都道府県で避難者を受け入れなければこれだけの人数をさばききれないと思いますが、そのひとつ手前の段階として、東北なら東北、関東なら関東というふうに、5~10県単位であらかじめ広域防災連合体制をつくっておくというのも一案でしょう。自治体と企業による1対1の災害支援協定はすでに多数結ばれていますが、複数の都道府県が互いに助け合う体制をつくっておくというものです。避難者の受け入れ、被災地への医療や物資の供給、生活再建の支援ということを考えれば、これは、原発事故だけでなく被害が広範囲に及ぶ自然災害に対しても有効であることがわかります。原子力安全委員会の今回の方針転換がそういう議論の契機になればいいのですが……

 これは取り越し苦労かもしれませんが、「これだけ大勢の人を避難させることは所詮不可能なのだから、それよりも原発が二度と事故を起こさないよう、そちらに集中すべきではないか」という声が起こった場合、世論がそれに流されるのではないかと心配です。
 非常に説得力のあるかのように見えるこの考え方については、「俺は事故を起こさない」といって自動車の任意保険に加入しようとしない、そんな人を連想してしまいます。自分一人で責任をとれるのであればそれでも構わないでしょうが、原発事故の問題はそういう次元のものではありません。
 高度成長以降、私たちは効率化と称して社会的な安全装置をないがしろにしてきました。核家族化を推進させることで家族のつながりを希薄なものにし、地域のつながりを顧みない人も増えています。ところが、この震災を契機に、家族や地域のつながりの大切さも見直されてきているようです。このような社会的な安全装置を用意し整えておくというのは、私たちから孫子の代への贈り物になるのだということを最近考えるようになりました。私もそういうことを考える年齢になったということなのかもしれません。
by T_am | 2011-10-23 17:44 | その他
 10月18日の平野復興対策担当大臣の発言がマスコミに取り上げられました。といっても鉢呂全景財産大臣のときほど執拗ではありませんが。前回の鉢呂前大臣の発言が捏造されたものであり、マスコミにより意図的に報道されたと思われているからでしょう。それでも、過去に舌禍事件により何人もの閣僚を辞任に追い込んできた味は忘れられないのか、今回の報道はさりげないものになっていて、これは騒動が大きくなれば姿勢も変わる(大きくならなければそのまま)という日和見主義的な思惑が透けてみるようです。

 このような「舌禍」事件に共通のパターンがあるようです。

1.発言者の真意よりもそれによって傷ついた人がいるということの強調。
2.その場合、傷ついた人というのは社会的な弱者であること。
3.発言者の謝罪とつるし上げ

 1.に関して、MSN産経ニュースではこの発言があった当日の夜に怒りの被災者たちの声をアップしていました。その熱意と行動力は見上げたものだと思います。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111018/dst11101820510011-n1.htm

 思うにこれは、記者が被災者に対して「平野復興対策担当大臣が今日こんな発言をしていましたが、どう思いますか?」という質問を投げかけ、それに対する反応を取捨選択して掲載したものでしょう。つまり、どのような質問をするか、それに対する回答のうちどれを誌面に掲載するかというのは完全にマスコミの裁量に属するわけです。

 誰であろうと、自分の発言の真意が伝わらず誤解を受けた経験があると思います。そのことで相手の怒りを買えば、その場で謝罪訂正し、自分の思いを改めて伝えようとする努力を怠らないというのが普通のあり方だと思います。このときに、相手が誤解しているとわかったから謝罪し訂正するのか、それとも相手が怒っているから謝罪するのかとでは天と地ほども差があります。平野大臣はその日の夜のうちに謝罪の会見を開いていますが、大臣の気持ちがどちらに傾いていたかについては、各人が感じたまま判断する以外にありません。ついでに申し上げておくと、相手の顔を見ながら話しを聞くときの人間の直感力というのは侮れないものがあると私は思っています。もちろん、まるっきりの勘違いということもあるのですが……

 これまで新聞・テレビ・出版社はこのようなクレームの申し立てを数限りなく経験してきたはずです。かつてクレームの矢面に立たされてきたのが、攻守を変えて、今では閣僚を追い落とす側に与する立場になっているのは興味深いところです。
 数限りないクレーム処理の結果、マスコミは、自主規制と称する放送禁止用語や紙面への掲載を忌避する用語のリストを拡張され続けてきました。それがマスコミや出版業界の誠意によるものなのか、それとも面倒なことは避けたいという事なかれ主義によるものなのか、これまで仄聞するところによればどうも両方が複雑に入り交じっているようです。 亡くなった横山やすしが筆禍事件(このときは差別問題)に巻き込まれたときに、横山やすしは、クレームを申し立てて来た団体の代表者との面会を重ね、自分の気持ちを伝えるとともに先方の主張にも耳を傾け、最終的に自分の非を認めて謝罪を表明しました。(このあたりの経緯については「まいど!横山です」という本に載っています。この本にはときどき変な言い回しもあって、この人が自分で書いたことがわかります。まず希少本といってよいでしょう。)生前何かと問題を起こした人でしたが、自分の言動に責任をとろうとする姿勢を曲げたことはなく、その点立派だったと思います。
 そういう気概がマスコミにもあればいいのでしょうが、組織人というのは、自分の非を認めることは更迭や左遷につながるので、期待するほうが無理かもしれませんね。


 今回もそうですが、平野大臣の発言に対する怒りの声と紹介されているのは例外なく震災の被害者たちです。すべての被災者が平野大臣の発言に怒りを感じているかというと、中には無関心という人もいるでしょうし、そこまで目くじらを立てなくてもいいのではないかと感じている人もいることでしょう。そういう声が拾われることはなく、平野大臣の発言に対する被災者の怒りの声だけが報道されるというのも、もはや定型化しているといえます。こうすることで、弱者に対する配慮を欠いた軽率な政治家という図式が完成するわけです。
 もっとも、マスコミや対立政党の政治家がこのような発言を奇貨としていることは多くの国民が知っています。本来政治家に求められるのは社会的弱者の生活の不安を取り除く政策の実施ではないでしょうか。弱者を傷つけたと非難するのは結構ですが、それよりも社会的弱者の生活不安をそのままにしている政府・政治家にこそ非難の矛先を向けるべきでしょう。
 そういうことを考えると、今回の平野発言をめぐる報道にはマスコミと政治家の品性の卑しさが透けて見えるようで、いい加減うんざりしています。この後国会でも平野大臣に対するつるし上げと野田総理の任命責任の追及が行われるのは明白です。むしろ、そんなことに国会審議の時間を費やすほうが、実は被災者のことを何とも思っていないことを雄弁に物語っていると私は思います。も
 新聞テレビがこぞってイエロー/ジャーナリズムに成り下がり、政治家でも三流以下の人物が政党の要職についているということが改めて確認された。今回の平野大臣の発言を巡る一連の騒動にはそれだけの意味しかないといってよいと思います。
by T_am | 2011-10-22 08:40 | その他
 今日の朝刊の⒈面に、東電は、福島第一原発において、原発の一般的な寿命と考えられる50年間に、被害を防げる想定の最大5.7mを上回る津波が来る確立を最大約10%、炉心溶融を引き起こす10m超の津波の確立も約1%と見積もり、2006年のフロリダの国際会議で発表した、という記事が載っていました。
 記事の文脈は、このような評価結果が2006年に出されていながら東電がそれを生かしていなかったというものになっています。
 それから5年しか経っていないにもかかわらず、メルトダウンが起こるような津波が発生したわけですから、東電の不作為が責められるのは致し方ないと思います。

 そこで今回は災害発生確率をどう理解したらいいかについて考えて見たいと思います。

 まず確認しておきたいのは、確率というのは本来無時間モデルであるということです。さいころを1個振って1の目が出る確率は6分の1ですが、その場合時間という要素は考慮されていません。無時間モデルとはそういう意味です。
 06年の評価の算出方法は、原発の一般的な寿命である50年間で想定外の津波が発生する確率を求めているわけですから、これも無時間モデルであるといえます。というのは、原発の耐用年数の間に1回でも想定外の津波が発生する確率を計算しているのですから。

 そうなると、10%という確率が高いか低いかという判断になるわけですが、文化系の経営者にとっては100%に対する10%という考え方をしがちです。すなわち、発生しない確率は90%もあるのだから、まずそんなことは起こらないだろうと考えてしまうということです。ところが、技術者にとって10%という数値は看過できる値ではありません。技術者にとってはシステムが正常に稼働するのが当たり前です。したがって、事故や故障によってシステムがダメージを受ける可能性がわずかでもあった場合、なんとかしてそれを排除しようという発想をするのが普通であり、良心的な技術者であるといえます。
 さらにいえば、50年間というのは人間にとってはかなり長い年月であるともいえます。東電に限らず、大きな組織の管理者というのは自分の在職中は問題が起らなければそれでいい、という考え方をするものです。というのは、将来問題が発生するかもしれない要因があることを発見しても、それを解決するためには多くの手間とコストがかかることが明らかな場合、その問題に取り組んでも褒められることはないとわかっているからです。
 大きな組織で働く人間の考え方は、何も問題が起こらないのがベストであり、何か問題が起こった場合、自分には責任がないことを証明することを優先して考えるものです。問題を解決したとしても、関心は、責任の所在はどこにあるかというところにあり、解決したことに対する評価は意外と低いものです。まして、将来起こるかもしれない事故に対して、予防的に取り組んでも誰も評価してくれません。評価の対象はどれだけ収益をあげたかというものですから、進んで貧乏くじを引こうとする人間はよほどのお人好し(というか、はっきりいって「バカ」)であるというふうに思われているのです。
 当時の東電の社内でも同じような風潮があったのだと思います。だから、こういう評価報告が上げられても組織として対応することがなかったのでしょう。どうやら、企業経営もいつの間にか無時間モデル(あるいは近視眼的)になってしまっているようです。大切なのは1年もしくは四半期という単位の中でどれだけ収益を上げたかであって、津波対策のような収益に結びつかない投資は誰もやりたがらないのです。

 既に述べたように、確率は本来無時間モデルの事象を扱うものですが、災害発生確率の場合、地震発生確率でおなじみのように数十年単位での確率として発表されます。実をいうと、一般市民にとってこのような確率には意味がないと私は考えています。
 災害発生確率ではありませんが、降水確率を例に考えて見ましょう。昔の天気予報は晴れか雨か曇りかというシンプルな物でした。それだけに当たらないことがけっこうあったのですが、降水確率という発表のしかたに改めたことによって、天気予報が外れるということは基本的にはなくなってしまいました。というのは、降水確率10%という発表があった場合、雨が降れば10%の範囲にあったということになりますし、雨が降らなければ90%の範囲内ということになるので、降っても降らなくても外れたことにはならないのです。

 これは降水確率が60%であっても同じことです。

 したがって、降水確率とは、雨が降るか降らないかではなく、雨が降りやすいか降りにくいかを判断する目安にすぎないというふうに理解した方がよいと思います。そのうえで、傘を用意して出かけるかどうかは自分で判断しなければなりません。

 それでよいのだと私は思います。

 今日は、はたして雨が降るのかについて、ある程度の材料が提供されていれば自分で判断することができます。他人に判断してもらって、外れたらその人を責めるというのは大人のすることではありません。にもかかわらず、他人の判断を無条件で受け入れるというのは、詐欺に引っかかりやすいタイプの人であるといってよいでしょう。

 冒頭に述べたように、災害発生確率が0%でない場合、技術者にとってそれは見逃すことのできない数値となります。しかし、技術者でもない一般の人にとってはどうしたらよいかわからないという類のものでしかありません。
 地震発生確率(今後30年間で地震が発生する確率)は、日本中のどこにいてもだいたい数パーセントという数値となっています。地震が怖いのは震度6を超えた場合であり、それ以下であれば(普通の家屋の中にいる限りは)たいした被害はおこりません。高層ビルの場合は、長周期振動によりビルが共振することがあるので、危険な場合があります。したがって高層マンションに住んでいる人でもなければ、大事なのは、自分が住んでいる地域で震度6以上の地震が起こるかどうかということなのですが、地震発生確率はその疑問に答えてはくれません。
 一般の人にとって意味がないという理由のもうひとつは、30年や50年というスパンは長すぎるということです。仮に、海沿いに住んでいる人の地域で、今後30年以内に津波が発生する確率が10%以上あるという発表があったとして、高台に引っ越すという人がどれだけいるでしょうか? それよりは、「この地域は過去に千年周期で10メートルを超える津波が発生しており、前回津波が記録されたのは800年前である。ゆえに津波に対する備えをしておくことが望ましい、」といわれた方がより真剣に耳を傾けるのではないでしょうか。

 東日本大震災の後で、家具の転倒防止装置などの地震対策グッズが売れていると聞きます。自分が住んでいる地域の避難先がどこになるのか確認された方もいらっしゃると思います。このような行動は間違っているとは思いません。日本は地震国である以上、どこかで震度6を超える巨大地震が発生する可能性は誰にも否定できません。もしかしたら自分の住んでいる地域では震度4か5くらいで収まるかもしれませんし、そうでないかもしれません。それならば、地震に対する備えは怠らないようにしようと考える方が賢明だと思います。
 今後もなにかの拍子で災害発生確率が発表されることがあると思います。それは、日本のいつかどこかで大きな災害が起こるということであってそれ以上のことはわからないのですから、慌てる必要はないと思います。個人においては、災害時の備えをしておくこと、行政や研究所においては災害発生確率の算出にリソースを費やすよりも、過去に起こった災害で、どこでどれくらいの被害が起きたのかを調査することに費やした方がはるかに有用であると思います。

 災害発生確率を取り上げる際に、浜岡原発に対する菅前総理の停止要請を避けて通ることはできません。その根拠として、今後30年間でマグニチュード8.0の地震が発生する確率が87%である、ということがいわれました。このときは、87%という高い確率の根拠について検証されることはありませんでした。
 東海地震が起こるということはだいぶ前からいわれていました。浜岡原発はその真上にあるわけですから、実際に巨大地震が起こったときに浜岡原発が受ける被害は深刻なものになる恐れがあります。たとえ津波が襲ってこなくても、震度6を超える揺れに襲われると原子炉内部の配管が損傷するということは今回の福島第一原発の事故で明らかになったと思います。したがって浜岡原発が日本で最も危険な原発であるという指摘は間違いではないといえます。
 菅前総理の停止要請は、その懸念を突いたものでした。それゆえに、87%という根拠不明な確率について十分吟味されることもなく、原発の停止が行われたのです。確率が87%でなく、8.7%であったとしても、巨大地震が起きたときに浜岡原発が被害を受けることに変わりはありません。問題点は巨大地震が起こるか起こらないかではなく、日本の原発は巨大地震が起きたときに間違いなく被害を受けるような設計しかされていないというところにあります。そのような説明をせずに、唐突に浜岡原発だけを止めようとしたのが菅前総理でした。さらに悪いのは、中部電力による防潮堤建設を承認したことです。それによって、福島第一原発事故原因は津波によつ全電源喪失であると決めつけることになってしまいました。
 はっきり申し上げますが、このような確率の用い方は邪道であり、人の不安に付け込む霊感商法の教祖と何ら変わりはありません。(原発の危険性を指摘するのであれば、日本中の原発を止めさせるべきでした。)一国の総理大臣という要職にある人間がそれを行ったのですから、管直人という人は戦後最低の総理であったと申し上げなければなりません。

付記
 菅前総理がSPを連れてお遍路に出かけたことに対する非難がありました。いくら戦後最低の総理だったとはいえ、そのような非難は的外れであると思います。法律の規定こそありませんが、総理経験者にはSPがつくことになっています(その代わり家族にまではつかない)。心の傷(総理大臣というのはそれだけ割の合わない仕事です)を癒すためにお遍路に出かける権利まで奪う権利は誰にもありません。
by T_am | 2011-10-19 23:32 | 科学もどき
 皆さんはご自分がどれだけ税金を払っているかご存知ですか? 
 意地の悪い質問をして申し訳ありません。ご存じないという方に改めてお訊きします。

 ご自分がどんな税金を払っているかご存知ですか?

 実をいうと、私自身いくら税金を払っているか知りません。給料明細を見れば所得税と住民税はわかりますが、自分が払っている税金はそれだけではありません。間接税も多いので、いちいち計算している人はまずいないだろうと思います。今回は、自分が支払っている税金を知らないというのはやはりまずいのではないか? という話しです。

 世の中にどんな税金があるのか、それをすべて知っている人というのはそうはいないと思います。そこで思いつくままに挙げてみました。

1.消費税
 どなたにも馴染みの深い税金です。買い物をすればレシートにちゃんと書いてありますが、いちいち気にしている人は少ないことと思います。

2.所得税・住民税
 サラリーマンの場合源泉徴収されることが多い税金ですから、これもあまり気にする人はいないと思います。恒久減税が廃止されてから年末調整で返ってくる所得税がガクッと減ってしまいました。

3.石油税
 灯油には石油税が課税されています。内税となっているので知っている人はほとんどいません。そのうえで5%の消費税がかかっているわけですから税金の二重取りだと思うのですが、いっこうに改まる気配はありません。

4.ガソリン税・自動車税
 田舎に住んでいると車がないと生きていけません。自動車には毎年自動車税が課税されるのはご存知でしょう。(納付通知書が来るからね。)さらに車検のときには重量税がかかります。またガソリン代にはガソリン税が含まれていますが、そこにも消費税が課税されています。(そういえば、ガソリンスタンドのレシートにはガソリン税の表示があったはずなのに、いつの間にか表示されなくなってしまいました。これは政府による陰謀かもしれません。)

5.固定資産税・都市計画税
 家や土地を持っている人が毎年払う税金です。市街化区域内にある土地や家に対してはさらに都市計画税がかかっています。

6.電源開発促進税
 電気料金に上乗せされて私たちが支払っている税金です。現在の税額は1kW/hあたり37.5銭ですから、たいしたことはないと思うかもしれませんが、塵も積もれば山となるで日本全体では1年間に三千億円以上の税収となっており、これらは特別会計に組み入れられて原発や火力発電所の立地対策に使われています。。

7.たばこ税・酒税
 JTによれば1箱410円のたばこには合計で264円40銭の税金(うち消費税19円52銭)がかかっているそうです。喫煙者は「おれは高額納税者だぞ」ともっと威張ってもいいのではないかと思いますが、どなたも肩身の狭い思いをされているようです。
 酒税もたばこ税に次いで税率の高い税金です。

8.入湯税
 温泉に入るときにかかる税金です。(1人1日150円)

9.ゴルフ場利用税
 ゴルフ場の利用料金の中には1日800円の税金が含まれています。


 これらの税金の中で直接税は2と4だけで、あとはすべて間接税です。間接税は価格の中に含まれているので、税額表示がない限り自分がいくら税金を支払っているかわかりません。したがって、誰もがしだいに気にしなくなります。
 また、直接税である所得税と住民税についても源泉徴収される人が多いので、自分が収めている税額に無関心という人も多いはずです。
 自営業者でもない限り、自分でわざわざ納めに行かなければならない税金は自動車税と固定資産税(都市計画税)くらいですから、日本の徴税システムというのは完璧に近いと思わないわけにはいきません。これは税金の徴収コストを引き下げ、さらに税金に無関心な国民を増やすことに寄与していると思います。

 人間には面倒なことはやりたくない、誰か他の人にやってもらいたいという気持ちがあります。また、自分がやらなくて済むようになると、その問題に対しては関心がなくなるというのも人間の心理です。
 本来ならば、自分が納めるべき税金の額は自分でも確認してから納めに行くというのがあるべき姿なのでしょう。しかしながら現実は源泉徴収制度によって、自分がいくら税金を納めるべきなのか知らないまま給料やボーナスから天引きされているというのが実態です。その結果、政府による税金の使い途に対して無関心な人ばかりとなりました。
 この社会を維持するために必要な仕事というのは確かにあるのですが、自分が生活していくために仕事をするのが精一杯という人ばかりですから、自分たちができないことをやってもらうために政府をつくり、公務員を雇っているわけです。そのための費用として税金を出し合っているというのが、近代国家成立の前提にある考え方です。
 したがって、自分が納めている税金がどのような使われ方をしているのかというところにもっと関心を持つべきだろうと思います。安住財務省がG20で財政再建のために来年度には消費税率を10%とする法案を国会に提出すると発言したとのことです。野田内閣になってから、こういう発言が繰り返し行われ、いつの間にか既定路線になっているという例が目立ちます。震災からの復興費に充てるという名目で増税しようとしている最中に消費税までも上げようというのですから、いい根性をしていると思います。
 もっとも、政治家がこういう発言をするというのも、見方を変えれば私たちがだらしないからだと考えることもできます。私たちが政治や税金の使われ方に無関心であるからこそ、政治家や官僚が好き勝手をするようになるのだと考えることもできます。それを止めさせようと思うのであれば、まず私たちが変わらなければ何も変わらないのだということに気づく必要があると思うのです。
by T_am | 2011-10-17 23:09 | あいまいな国のあいまいな人々
 経済には投資、生産、流通、消費などの諸活動が含まれますが、基本にあるのは売り手と買い手の間の取引です。売り手と買い手とが対等であれば何の問題もありません。しかし、人間の社会が発達し経済活動が複雑になっていくと、売り手と買い手のバランスが崩れていきます。経済というのは本来弱肉強食の世界ですから、放っておけば社会は荒廃してしまいます。そのため、人間はさまざまな法律を制定して両者の関係が対等になるよう努めてきました。民法や商法といった基本的な法律をはじめ、独占禁止法や消費者保護法、家庭用品品質表示法などがそうであり、どちらかといえば売り手に対する制限が目立ちます。
 代表的な買い手は消費者です。消費者は売り手(生産者や流通業者)に比べて知識も乏しく情報も充分ではありませんから、消費者を保護するための法律が整えられるというのも当然のことといえるでしょう。

 その国の経済力を示す指標としてGDP(国内総生産)がよく用いられています。昨年は中国が日本を抜いて世界第二位の経済大国となったと報じられていましたが、その際に用いられた数値がGDPです。
 ところで、GDPが高くなるというのはどういうことでしょうか?
 その回答のひとつとして、あらゆるコストが高くなる、ということをあげてもよいのではないかと私は思っています。コストのひとつのくくりである生活費をとれば、このことは経験的にご納得いただけるはずです。生活費の中には住居費、食費、水道光熱費、被服費、娯楽費、医療費、教育費などが含まれます。さらに社会的コストとして負担しなければならない税金や社会保険料なども含めると、日本という豊かな国に暮らす私たちが負担しなければならないコストはかなり高いということがおわかりいただけると思います。このように国が豊かになるということは、それに比例して国民の生活費もかかるようになるということを意味しています。
 このことは企業にとっても同じであり、販管費の主なものを占める設備費と人件費を押し上げる要因となっています。
 
 それでもコストを吸収できるだけの収入があれば誰も文句はいいません。つまりどれだけ支出しても手元に金が残るようであれば何の問題もないのです。ところが、ここ十年ほど日本も含めて先進国といわれている国々では、グローバリズムという名目で投機家が国際間で活動できるようにする制度を整えながら、金の集中を促進する政策をとり続けてきました。その際のバロメーターはどれだけ利益をあげたかであり、そのために効率が追求されてきました。企業は利益をあげることで新たな投資が可能になるのであり、新たな投資は新たな生産と雇傭を生み出し、経済の成長に寄与するという論理です。また、外国人投資家が参入しやすい環境を整えるのは資金導入を促すためというのが理由です。
 日本における派遣業法の改正や企業減税(個人増税とセット)の実施もその一環として行われてきたと理解してよいでしょう。しかし、その結果、金を持っている企業や個人はますます金を増やし、もともとあまり持たない個人や中小企業はさらに貧乏になっていくということになってしまいました。
 豊かな国で、生活に必要なコストを負担できないとどうなるかといえば、まず電気ガス水道が止められ、いずれ住むところも失うということになります。生活保護という救済策もありますが、受給者の増大は財政を圧迫していますから、今後支給額が減額されたりあるいは支給基準が厳格化される可能性も否定できません。生活保護を受けられない人は、最悪の場合餓死することもあるでしょう。
 ロンドンの暴動とニューヨークにおけるデモはこのような政策に対する抗議であると理解してよいと思います。すなわち、その国で暮らしていくためのコストを負担しきれない人がそれだけ増えたということです。

 この時期にTPPに参加するかどうかが取りざたされるのは皮肉なことだと思います。日本に対しTPPへの参加を突きつけているのはアメリカであり、日本は事実上アメリカの属国なのですから拒否できるはずがありません。(このことは、アメリカの属国でなくなればよいのだという単純な論理を導くのですが、本稿ではそこまでは扱いません。)
 TPPとは参加国の間で人と物と金の流れに対する規制を撤廃していくというものですから、産業界は歓迎(関税が撤廃されれば輸出にとってプラスになるから)していますが、外国産農産物との競争が予測される国内農業にとっては大きな影響が避けられないと思います。
 農業=国土ですから、農業に与える影響は軽んじていいものではありません。そのことは大勢の方が指摘されているので、ここでは違った視点からTPPについて考えて見たいと思います。
 参加国の間で人と物と金の流れに対する規制を撤廃していくとどうなるかというと、これまで以上に富の格差が拡大していくという結果を招くものと予想されます。
 正社員を減らして派遣を増やす事で人件費を減らせばそれだけ利益は増えます。しかし、その利益を国内で投資して工場を新たにつくっても固定資産税その他のコストがかかります。それならば海外に投資した方がはるかに安いコストで同じだけの成果をあげることが期待できるわけです。政府が個人増税企業減税によって企業の利益を確保してやっても、それらが海外に流出していき国内に還元されることがなければ、なんのために我慢したのかということになります。かつて小泉純一郎は「痛みを伴う構造改革」という名言によって喝采を浴びました。しかし、それは嘘であり、「痛みを強いる構造改悪」が行われたわけです。
 TPPへの参加は資金の海外流出を招きます。関税が撤廃されて輸入品の値段が安くなっても、消費者がそれを買うだけの金を稼げなければ意味がないと思いませんか?
 ウォール街を占拠した「99%の叛乱」は、富の不均衡という格差の拡大に人々が耐えきれなくなったという現れです。アメリカで起こった社会現象は遠からず日本でも起こるのですから、このままでは日本もそうなってしまうものと懸念されます。


 アメリカの農産物がなぜ安いかといえば、政府が莫大な補助金を出しているからです。その金の出所はどこかというと、いくらドルという基軸通貨を持っているとはいえ無制限にドルを印刷できるはずはないので、結局国債という裏付けの範囲でしか金は出てこないのです。それではアメリカ国債を誰が買っているかというと日本であり、機関投資家であるわけです。日本が出した金がアメリカの農産物に対する補助金となり、(TPPへの参加が実現すれば)日本の農業を圧迫することになるのですから、いったいこの国の政府は誰のために存在するのか疑問を感じてしまいます。
 同じことはグローバリズムについてもいえるのであって、日本が買った国債を原資としてアメリカ政府は国内の投資家が活動しやすいように他国の政府に対して圧力をかけるわけです。その結果、日本でも利益の確保と効率の追求ということが国是のようになり、結果として格差の拡大を招いているといえます。(さらにいえば、イラクに対する戦費も国債によって調達されているわけですから、日本は間接的にアメリカによる戦争に参加しているともいえるのです。)
 こうしてみると、日本がアメリカ国債を買うというのはアメリカに対する貢ぎ物ではないのかと私には思えるのですが、当事者にしてみればニコニコ貯金(定期預金という言葉が定着する前はこう呼んでいたのです)のつもりなのかもしれません。元も子もなくさなければいいのですが。

 冒頭に申し上げた、売り手と買い手とを対等なものにするための諸法律というのはすべて国内法です。外国でつくられたものに対しては、日本の国内に入るまでは適用されません。国内に入った時点でこれらの法律が適用されるのですが、抜け道があることも指摘されています。(たとえば、国内で最終加工されればそれは国産ということになります。)また、独占禁止法も国内法にすぎません。国際間をまたいで経済を規制する法律というのはまだないのです。
 法律は人間がつくるものですから、社会現象や市場が先行し、それらの矛盾が許容できないレベルに達した時に法律が制定されるということになります。国境を越えた物や金融の流れがこれだけ盛んに行われているわけですから、そろそろ国際的な経済活動を規制する法律を考えていく時期にさしかかっているように思います。TPPを推進する立場の人たちは猛反対することでしょうが、私にはそれは単なる強欲によるものとしか思えません。

付記
 ギリシャの経済危機は、経済統合が先行し政治統合が追随しているEUだからこそ起こったことであると思っています。国内のおける富の再分配は政治の役割(イギリスやアメリカではそれが行われていないことが暴動やデモの原因。その意味では日本も政治が機能しているとは言い難い状況に陥っています。)ですが、政治が影響を及ぼすのは国内だけです。国内にしか権力を行使し得ない政治と国際間にまたがる経済とのアンバランスによって、ギリシャでは資金が国外に流出しそれを糊塗するために無理な財政出動を重ねたことが原因だと思うのです。TPP参加国が増えれば同じことが参加国の間で起こるだろうと思います。
by T_am | 2011-10-16 21:04 | その他
 iPhoneのOSをi0S5 にアップデートしました。インストールの途中ちょっと戸惑うところもありましたが、特にエラーもなく無事終了することができました。
 OSに付属するアプリも改良が行われていて、特に便利だと感じたのが、スリープモードから復帰するときのロック画面から直接カメラアプリを起動できるようになったことです。従来は、電源スイッチを押すかホームボタンを押すとロック画面が表示され、パスコードを入力しないと解除されず、そのうえでカメラアプリを起動させるしかありませんでした。写真を撮りたいと思ってもすぐに撮ることができない点で、ケータイよりは一歩劣っていたのですが、今回のアップデートによって、ロック画面にカメラアプリを起動するボタンが配置されました。ただし、そのためにはホームボタンを2度押ししなければなりません。といってもたいした手間ではないので、覚えておいて損はないと思います。
 また、写真アプリに回転、自動補正、赤目除去、トリミングという基本的な編集機能が加わりました。今までは写真編集アプリを使うか、PCに写真を取り込んで(これが家考面倒くさい)から編集する以外にありませんでした。今回のアップデートで、より便利になったといえます。

付記
 iPhone4Sではカメラの画素数も向上したそうですから、よりきれいな写真が撮れるようになったものと思われます。ただし、単にきれいなだけでなく、凝った写真を撮りたいと考えている人は、やはりきちんとしたカメラを使った方がよいと思います。


 iOS5 の一番のポイントはiCloud です。これは自分が持っているコンテンツをiPhoneやiPad、PCなどのすべての機器で共有できるようにするというものです。各社が提供しているストレージサービスを使えば同じことはできるのですが、手間がかかることは避けられませんでした。つまり、自分が持っているコンテンツをいったんWeb上にアップロードして、次にそれを別な機器からダウンロードするという作業を自分でしなければならなかったのです。

付記
 PCからiPhoneへコンテンツを送るのはケーブルを接続すれば可能でした。しかし、その逆のことをしようとすると、DropBoxなどのストレージサービスを利用する以外に方法はありませんでした。(例外的に一部のアプリではPCとの間でデータをやりとりする機能がありました。)

 iCloudのすごいのは、そういう手間のかかる作業を自動的に処理してくれるというところです。ストレージサービスを介して手動でデータをやりとりするというのは、パワーユーザーでない限りかなり敷居の高い作業だったのですが、iCloudはその垣根を取り払ってしまうことでしょう。
 どうして今まで誰も実現させなかったのだろうとも思ったのですが、ハードウェアとOSとアプリケーションを自社でつくっているApple社であるからこそできたのでしょうね。もっとも、今後他社も追随してくるのは間違いないと思われます。

 はかりしれない可能性を秘めたiCloudですが、扱えるコンテンツというのは現時点ではかなり限定的です。

・カレンダー、メール、連絡先
 これらはOutlook2007以降と共有可能です。

・ブックマーク
 インターネット・エクスプローラで登録していた「お気に入り」がiPhoneやiPadにも共有されるようになります。

・写真
 iOS5導入後新たに撮影した写真のみ。ただし、PCの側からは、iCloudコントローパネルをインストールすると自動的に作成されるuploadsフォルダの中に写真を入れると自動的にiPhoneやiPadに送ってくれます。なお、PCではiPhoneから送られた写真はMy Photo Stream というフォルダに保管されます。

・アプリ
 iTunes ストアで購入したアプリはiPhoneでもiPadでもインストールされます。

・本
 iBookstoreで購入したもの。

・データ
 iCloud対応アプリで作成したデータのみ。現時点ではApple製アプリであるPages(ワープロ)、Keynote(プレゼンテーション)、Numbers(表計算)くらい。もっとも、AppleではiCloud対応アプリを増やそうとしているようですから、しだいに使い勝手はよくなっていくものと思われます。


(iCloudの容量)
 iCloudを使うことにすると、だれでも5GBの容量を無料で使用できるようになります。このときにiCloudにバックアップを作成するようにすると、5GBの容量はあっという間に使い果たされてしまうことになります(アプリをほとんど入れていないという人は別ですが)。その場合、容量を追加購入しなければなりません。10GBを追加する場合の年間使用料は1700円(5GB+10GBで合計15GBが使用可能になります)、20GBならば3400円/年間、50GBだと8500円/年間なので、大容量の契約をすれば割引があるかというとそうではありません。
 いっそのことiCloudでのバックアップを諦めれば(この場合、iPhoneやiPadを接続したPCにバックアップが作成されます)、無料の5GBがまるまる使えることになります。まずは5GBからはじめて、足りなくなってきたら容量を追加購入するというのが賢いかもしれません。

 iCloudというのは大きな可能性を秘めていると思います。それが成功するかどうかは今後iCloudに対応したアプリがどれだけ増えていくかにかかっています。いずれは他社も追随してくることでしょうが、それまでの時間を有効に使って自社の基盤を固めてしまうことは不可能ではないでしょう。そうなるとiCloudに対応しないアプリは利用者が伸びないので、結果的に駆逐されていくことになるような気がします。

 Appleの戦略は、ITのことは何も知らない人でも快適に使いこなせるようにする、という点に絞られているように思います。
 時速300kmで車を走らせようと思えば、ドライバーも車の構造や特性について無知ではいられません。しかし、実際にはそんなF1ドライバーみたいな人が世間にごろごろしているわけではありません。むしろ一般ドライバーが要求するのは時速300kmで走ることではなく、せいぜい高速道路を100km超で走ることで充分なのです。その場合車の構造まで知る必要はありません。そこそこの性能を提供する代わりに素人でも扱えるものを提供し、さらに快適性や操作性では常に時代の最先端をキープすることで人々を惹き付ける。Appleの戦略はまさにそれです。
 そのことに気づいたスティーブ・ジョブズという人の慧眼とそれを実現させた実行力は刮目に値すると思います。iCloudはスティーブ・ジョブズの遺作といってもよいのかもしれません。
by T_am | 2011-10-16 14:37 | その他
 ビジネスにおいて効率を追求するというのは不可欠であり、そのための手法も数多く開発されています。最近はあまり聞かなくなりましたが、かつて一世を風靡したTQCというのもそのひとつです。
 日本人の性質なのか、今自分が取り組んでいるものについてもっといいものにしようという気持ちが自然と湧いてくるように思います。これはビジネスの世界だけではなく、たとえば工芸品の分野であれば工法の改善改良となって、その結果は作品の質に反映されるようになります。
 このことは生産の現場でも同じであり、「日本の技術」を支えてきたものは、ひとえに今取り組んでいるものをもっとよいものにしようという熱意と努力なのだと思います。

 そのような思いの現れ方のひとつに効率を追求するという考え方があります。

 効率追求とは言い換えれば、変化させるということに尽きます。何を変化させるのかというと、「今までとはやり方を変える」、「人・物・金といった資源の投入先を集中させる」、あるいは「効果の見込めないところからは撤収する」などがあげられます。
 このように列挙して改めて気づくのは、効率追求という考え方が対象とするのは既に目の前に存在するものに限られるということです。まだこの世に存在しないものや目の前にないもの、あるいは目の前にあるけれども気づいていないものについては対象になりえません。ゆえに効率を追求するという考え方からは創造は生まれてこないのです。これが効率主義の限界の第一。

 限界の二番目は、効率追求の手法の中で必ず数字が用いられますが、数値化できない属性はすべて切り捨てられるというところにあります。
 たとえばこどもの学力は偏差値によって数値化できると思われていますが(実際には、その集団の中でどの位置にいるかがわかるだけ)、その子が持っている協調性や共感性あるいはやさしさといったものは数値化することができません。したがって、教育に効率追求という考え方を持ち込むと、学力や運動能力という数値化・比較化できる属性だけを対象とするようになってしまいます。
 それのどこが悪いのだと考えるのか、それはちょっと違うのではないかと考えるのかは、その人が持っている価値観によって異なるのであって、どちらが正しいということはいえません。

 効率を追求するという考え方は確かに有効です。ただし、変化させる対象が「やり方」くらいであれば効率主義の限界が害をなすことはあまりありませんが、制度までを変化させようとすると不測の弊害が起こる可能性が高くなります。だからといって、制度を変えるなと申し上げているのではありません。制度を変えるときは、効率追求とは別な視点でアプローチした方がよいと申し上げているのです。
 一般に、制度を変える必要があるのは、その制度がもたらす効果と弊害を考慮して弊害が無視できないものになった場合であると考えられます。ところが、効率追求という考え方を持ち込むと、非効率的だからという理由だけで制度の変更が提案され実施されてしまうようになってしまいます。ところが、既に申し上げたように、効率追求という考え方が対象とするのは今目の前に見えているものだけであって、そこにあっても見えていないものについては対象とはなりません。制度を改革することによって、それらの見えていないものまでもがばっさりと切り捨てられてしまうと、今までそれがもたらしていた利益を私たちは失うことになります。
 効率主義による制度変更にはそういうリスクが伴うことを理解しておいた方がよいと思うのです。
by T_am | 2011-10-12 11:54 | その他
 iPhone4Sの発表があった翌日スティーブ・ジョブズが亡くなったと報道されました。以来、多くの人が哀悼の意を表しており、ひとりの人間の死がこれだけ大勢の人の心を動かしたのは、もしかしたら昭和天皇が亡くなったとき以来のことではないかという気がしています。

 iPhoneを使っていながらこのようなことを申し上げるのはどうかと思うのですが、私自身はアップルという会社はあまり好きではありません。どんなに性能がよくて、どんなに乗り心地のよい車であってもボンネットを開けられない車には興味がないからです。
 こういう天の邪鬼ではありますが、スティーブ・ジョブズが世界の何かを変えたことは否定しません。
 茂木健一郎さんがツイートで、昔つくられたアップルのコマーシャルを紹介しておられました。改めてこれを観ると、あたかもスティーブ・ジョブズの追悼フィルであるかのように思えます。


(Think Different)
http://www.youtube.com/watch?v=Nbsi2I0GXPk


 ご冥福をお祈りします。
by T_am | 2011-10-11 21:24 | その他