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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 本日の民主党両院議員総会で、野田佳彦氏が代表に選出されました。任期途中で辞任した管直人代表の後任ということになるので、その任期は来年9月までとなります。
 せっかく新しい総理が誕生するのですから、今度こそ実績をあげてほしいと思うのですが、あまり期待できそうもないというのが正直なところです。というのも、今度の総理も政治力学によって誕生した総理なので、どうしても政治力学に足を引っ張られることになるからです。
 「ノーサイドにしましょう。もう・・・」と、民主党の議員たちに呼びかけた野田代表ですが、そうはいかないようです。輿石参院会長が「役員人事を見れば挙党体制かどうかわかる。」と発言しましたし、小沢グループは「今後の閣僚人事をみて協力するかどうか決める」といってるようですから、野田総理も前途多難だといえます。(決選投票になった場合は支持してもらうという約束を前原グループとの間で取り付けた。)
 
 この国で、政策論争によって首相が誕生しないのは議院内閣制がその理由です。衆議院の首相指名投票で最大得票数を得た候補者が総理大臣になるわけですから、総理を目指す人は、政策よりも、いかに自分を支持してくれる人を増やすかということの方に関心が向かいます。当然協力する側も、支持する見返りを求めるということになり、政策がおろそかにされることになります。

 この国では、政治力学によって総理が決まるということをずっと繰り返してきました。したがって政策よりも政局が優先するという状態が当たり前のようになり、有権者がそのことに嫌気がさした結果、自民党が政権を失うことになったのです。政権交代後の選挙で民主党が惨敗を繰り返しているのは、マニフェストが絵に描いた餅であったこともさることながら、政治力学によってすべてが決まるという実態は自民党と何ら変わりはないことが暴露されたからです。民主党の実力者たちはそのことに気づいていないので、党の凋落はこれからも続くはずです。
 若手の議員のなかには、政策の方が大事ではないかと考える人もいるようですが、残念ながら現在の制度が続く限りは何も変わらないといえます。


 大阪市立大学の増田聡准教授(音楽学・メディア論)のツイッター(8月27日付)
 オレあと25年くらいは大学教員やるつもりだけど、四半世紀スパンの長期的な視野で「こんな大学になった方がいいよな。なので今はこうしたら」と言っても誰も聞いてくれない。他方であと5年くらいで今の立場から退くような偉い人たちは、2年後に目に見える成果が出るような「改革」にとても熱心だ

 非常にスルドイ指摘ですよね。「大学」を「政党」と置き換えてもそのまま通用すると思います。
 今回の民主党代表選の5人の候補者たちもビジョンを示すことはありませんでした。ビジョンというのは、増田准教授がいうように「こんな国になったらいいよね」というものです。ところが候補者たちが掲げたのは経済成長であり、それはすなわち「今の日本のままでよい」ということになります。
 児童虐待やセクハラ、パワハラといった弱い者いじめが横行し、新卒の就職率低下に歯止めがかかりません。また生活保護の受給者も増える一方でありながら、お盆休みを海外で過ごす人により成田空港の利用者が過去最高になったといういびつな状況にこの国は面しています。そしてこれは他の先進国でも似たような状況であり、日本が特別というわけではないのです。(したがって、前原候補が落選したのは本当によかったと思います。)

 日本が今まで目指してきたことは間違っていないという認識でいる限り、現行の制度を変えようという発想は生まれません。
 そこで、疑問に思っていることを2つ申し上げることにします。

1)地方議会も含めて、なぜ国会は平日の昼間に審議を行うのか?
 テレビやラジオで国会中継があるとはいえ、これでは勤め人が国会での議論の様子を見ることはできません。7月27日の衆議院厚生労働委員会での児玉教授による意見陳述にしても、YouTubeにその動画がアップされていたから皆の知るところとなったわけです。(国会審議のテレビ中継の動画は衆議院TVのビデオライブラリでも見ることができます。)
 政治への無関心を嘆くのであれば、市民が傍聴できる時間帯に審議を行うべきではないのかと思いますが、どう思いますか?

2)自民党はもとより民主党も国民から見放されつつあるなかで、相変わらず政党交付金制度が維持されているのはなぜなのか?
 政策は議員の使命感によって生まれるのですから、議員は本来独立不羈でなければなりません。そのためには、議員としての活動を保証するために議員歳費(政務調査費など)を充分に支払う必要があります。政党交付金を支払うのであれば、その分を議員個人に支払った方が、親分子分の関係もなくなるので政治力学も作用しづらくなります。実際に、議員有志による勉強会が活発に行われているのですから、政党が政策立案という面で機能しているとは思えません。どうしても政党を維持したければ自費でやれと申し上げたい。また、政党交付金を億単位でもらうだけもらっておいて、政党を解散させても返さなくてもいいというのもおかしいと思います。

 今度総理になる予定の野田代表も、今まで日本が取り組んで来たことに疑いを持たない人のようです。だから、私がここにあげたことについて関心を持つことなどないでしょう。それは構わないのですが、正直申し上げると、そういう人が一生懸命頑張れば頑張るほど、この国はいっそういびつなものになっていくと思っています。だから、野田総理にはあんまり頑張らないでいただきたい。
 もしも、任期途中で辛くなったらいつでも辞めてもらっていいのですよ。むしろその方がよほどお国のためになると思っています。
by T_am | 2011-08-29 23:17 | その他
 菅総理が退陣表明をし、民主党の次期代表者選びがスタートしました。菅代表の任期途中での交代なので、国会議員による両院議員総会で選ぶことができるのだそうです。金曜日に告示(立候補者届け出)が行われて月曜日に投票というのは、いくらなんでも早過ぎはしないかと思うのですが、候補者の顔ぶれを見ると、時間をかけたからといってどうにもなるものではないといえます。
 それにしても、安倍元総理以来短命内閣が続いていて、今度もそうなるのではないかという懸念を拭うことができないところが情けないと思います。

 こうも短命内閣が続くのは議院内閣制が制度疲労を起こしているのではないかと思っていたのですが、よく考えるとそうではないと思うようになりました。

 議院内閣制の根幹は、国会が首相を選ぶところにあります。いい方を変えると、議会の信任によって内閣が存在するという制度です。(だから、内閣不信任決議という制度もあるわけです。)
 国会(衆議院)が首相を選ぶというのは、原則として、最大勢力を持つ政党のトップが首相になるということです。直近の選挙によって民意を得た政党が最大勢力を獲得するわけですから、理論的には、日本の首相選びというのは民意が反映されているということになります。
 それでは、安倍晋三元総理以来、短命内閣が続いているのはどういうことかというと、せっかく政権を発足させたにもかかわらず民意に見放されてしまったからだと説明できるのです。
 なんでも総理大臣のせいにして、総理のクビをすげ替えればそれで万事よくなると考えることが、はたしてよいことなのかどうかは別にして、議院内閣制は国民が気に入らないと考える総理を比較的簡単に交代させることができる制度であるといえます。
 これがアメリカの大統領であればそういうわけにはいきません。一度選んだ以上は、何があろうと(暗殺でもされない限りは)任期である4年間は我慢しなければなりません。
 どちらの制度が優れているのかは一概にはいえないと思いますが、日本がデフレから脱却できないのも、また財政赤字がいっこうに解消しないのも短命内閣が続いているために、政策の効果が現れる前に内閣が替わり政策が変わってしまうからだと考えることができます。
 そうしてみると、長期安定政権の登場が望ましいのですが、どうも無理ではないかと思われます。というのは、議院内閣制のもとで長期安定政権が登場するには、かつての自民党のように一党だけが抜きんでている状態が必要だからです。このような状況下では、第二党の役割は与党に対するアンチテーゼであればよく、与党がやりすぎたと国民が判断すれば与党の勢力が衰え、第二党の勢力がその分伸びる(その代わり、与野党が逆転することは決してない)という調節機能が働きます。
 しかし、時代は変わり、現在は2大政党時代ですから内閣の基盤はそれだけ脆弱になっています。すなわち、単独で政権を運営できる政党がない状態では議院内閣制は短命内閣を次々と作り出すことになるのです。

 これがまずいというのであれば、議院内閣制をやめて首相の公選制を導入する以外にありません。
 ここで興味深いのは、都道府県知事や市町村長の選出は直接選挙によって行われているということです。なぜ総理大臣だけが議会によって選ばれるのでしょうか?
 この疑問に対する解答として考えられるのは、知事や市町村長というのはもともとたいした権限が与えられていないからだというものです。直接選挙で選ばれるからには、リコールという制度があるにせよ、簡単にやめさせることができません。自分たちが選んだ主張がハズレであったとしても4年間の任期中は我慢をしなければならないのです。運良く、人格が高潔で能力も高い首長を選ぶことができれば、その自治体の住民はハッピーになれるのでしょうが、そうはならない可能性の方が高いように思われます。したがって、直接選挙によって首長を選ぶことのメリットとリスクを考えたときに、リスクの方を重視した結果、地方自治体の首長にはあまり権限を与えないということにしたのではないかと思います。(自治体の首長の権限が低いので、それを監視する役割を与えられている議会の存在感も薄くなります。ゆえに、地方議会に関心を持つ有権者が少なくなるわけです。)
 しかし、総理大臣ともなれば、その権力は他のどの政治家よりも強くなるのですから、総理大臣が暴走し始めたと国民が判断したときは、交代させられるようにしておくというのが議院内閣制の要点ではないかと思うのです。

 現在のように、うまくいかないときは総理大臣ひとりのせいにして、総理さえ替わればすべて丸く収まると考える風潮に、議院内閣制というのはぴったりの制度であるといえます。
 その反面、小泉元総理のように異常なくらい高い支持率を持つ総理が誕生したときに、歯止めが利かなくなるという側面も持ち合わせています。仮に、小泉純一郎がもっと権力に執着するタイプであったなら、参議院選挙を乗り切って憲法改正に着手できたのではないかと思います。この人が郵政民営化以外にあまり関心を持たない人であったのは日本にとって幸いであったと思います。

 現在の日本では、政治に不満を持つ人は多いといえますが、その温度はそれほど高くないといえます。そのため、既存の制度を吹き飛ばすだけの圧力の高まりを持ち得ないのですが、将来さらに不満が高まったときはこの限りではありません。もっとも、それがいつのことになるのか見当もつかないというのが正直なところであり、それまではこの状態が続くことだけは明らかです。
by T_am | 2011-08-27 23:43 | その他
 島田紳助が突然の引退を発表しました。暴力団関係者との交際の責任をとって自ら引退を選んだという内容でした。一罰百戒的側面の強いこの処分は、仮に、三流芸能事務所の三流タレントであれば、もっと違った処分の内容になっていたと思われます。すなわち、島田紳助という超売れっ子タレントであったがゆえに、曖昧な処分では済まされなかったのであり、同時に、島田紳助であったからこそ「引退」という個人の名誉を守るかのような処分となったのだと思います。したがって、本人にしてみれはほかに選択肢はなかったといえるでしょう(推測ですが)。

 いわゆる暴対法の強化と平行して、政府では平成18年12月14日に「公共事業からの暴力団排除の取組みについて」を発表し、平成19年6月19日には「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」を発表しました。また経団連でも会員企業の企業行動憲章の中で「反社会的勢力とは断固として対決する」ということが明記されています。
 このような動きを受けて、大企業や一流企業といわれるところでは独自の企業行動指針を設けて、その中で「反社会的勢力とは関わりを持たない」ということを規定するようになりました。
 その後、この動きは企業の取引先に対しても同じことを要求するようになり、取引開始にあたって、「暴力団等の反社会的勢力とは関わりがない」という誓約書の提出を求めたり、契約書の中にも記載されるようになっていきました。

 吉本興業も芸能プロダクションとしては超大手になりますから、この趨勢を無視するわけにはいきません。所属する芸人たちに対し、年一回コンプライアンスの講習会を開いていたというのは、その取組みの一環であるといえます。
 企業としてそのような取組みを続けてきたにもかかわらず、所属するタレントで暴力団と交際している事実が発覚したわけですから、断固として厳しい処分を下さなければならない立場になってしまいました。処分を曖昧なものにしてしまえば、世間の糾弾を受けることになりますし、最悪の場合取引先から切られてしまうことも考えられます。したがって島田紳助に対し、このまま芸能活動を続けさせるわけにはいかないという結論になったものと思われますが、島田紳助が長年の功労者でもあることも考慮して、自ら引退を決めたという形にしたものと推測されるのです。
 これが、吉本興業の若手芸人であったならば容赦なく解雇という処分が下されていたはずです。しかし、島田紳助であったがゆえに、引退という形にしたという温情ある処分が下されたのだと思うのです。

 また、島田紳助に稼がせてもらってきたテレビ局は、島田紳助に恩義を感じている(と思われる)芸能人たちのコメントを電波に載せました。それらのコメントは、あたかも島田紳助という超売れっ子タレントに対する弔辞のようであり、結果として彼を葬り去るための儀式となったと思います。
 
 今回の引退劇は、吉本興業という一企業の内部処分に過ぎません。法律が介入する余地はないのであって、企業の内部で通用する論理によって処分が決まりました。そのことに対し、第三者である私たちが、処分が厳しすぎるのではないかとか、もっとほかにもあるのではないか、といっても仕方のないことであると思います。
 ただひとついえることは、この国で有名人になるということは聖人君子であるかのような生活を送らなければならないということであり、脇が甘いといつ何時非難を受けるかわからないということでもあります。
by T_am | 2011-08-26 00:37 | その他
 今、公務以外の分野でもっとも精力的に活動している知事といえば、大阪府の橋下知事であると思います。知事としての仕事のほかに「大阪維新の会」という地域政党を興したうえで、「職員基本条例案」と「教育基本条例案」を発表しました。

 橋下知事のツイート(リツイートしてくれる人がいるのです)を読むと、なるほどごもっともと思う論理も多いのですが、素直に賛成といえないわだかまりが自分の中にあります。それはどういうことかというと、この人のいうとおりにしていると社会全体が全員参加のマラソン大会になってしまうように思えるのです。なかには、自分はゆっくり歩いて行きたいとか、走りたくないと思う人もいるでしょうが、そういう「異端児」の存在は認めてもらえないだろうなと思ってしまいます。

 橋下知事(メンドクサイので、以下単に「知事」と書きます)の掲げるのは「大阪の経済成長」というシンプルでわかりやすいものです。そのために、行政組織の効率化を徹底し、また、教育にも政治が介入することによって質の高い人材を供給するシステムを作り上げようというものです。教育に対する政治の介入というと、それだけで拒否反応を示す人もいると思いますが、知事の論理は、生徒(わが子)の学力を向上させたいというのは民意であり、政治家はそれを実現するために存在するというものです。そこには、政治の不介入というスローガンの上にあぐらをかいて教育を荒廃させてきた一部の教育者たちに対する批判が込められているようです。

 ここで、「教育を荒廃させてきた一部の教育者」という書き方をしました。実際日教組に対する批判も多く、それはまるっきり的外れではないと思うのですが、かといって日本の学生の学力を低下させてきたのは学校教育に携わる教職員だけが責任を負わなければならないかというとそうではないと思います。
 むしろ、わが子に高等教育を受けさせたいという「民意」が大部分を占めるようになったからだというのが私の考えです。一生懸命勉強をして、いい大学を出ていい会社に就職すれば、レベルの高い配偶者を得ることができて、お金に不自由しない生活をおくることができるという素朴な信仰を私たちは持っています。
 たしかにバブルの頃まではそれは真実でした。しかし、バブル崩壊後の不景気によるリストラによって大量の失業者が生まれたことで、「いい大学=お金に不自由しない人生」という図式は崩壊したと私は思うのですが、そうは考えない人の方が多いようです。
 その人たちにとっては、「能力の高い人=お金に不自由しない人生」であり、逆に、「能力の低い人=不幸な人生」であるということになります。それでは、「能力が高い」とはどういうことなのかというと、たとえばTOEICで何点以上とかいう尺度が用いられています。東大に入るのは無理だとわかりきっているのですが、TOEICであれば一生懸命勉強すれば何とかなるのではないという心理をあらわしているようで、面白いですね。ちなみに、TOEICの点数と交渉力・企画力・調整能力などとは無関係であることはいうまでもありません。
 なぜ、学生の学力が低下し続けているのかというと、わが子に高等教育を受けさせたいという親の願望が社会の主流になったために、高校や大学に入学する生徒が増えた結果、それらの学校では難しいことを教えられなくなってしまったからです。本来であれば、学校で教える水準についてこれない生徒を容赦なく落とすために入試という制度があったわけですが、高等教育を受けるのが当然という風潮によって入試のレベルが少しずつ落ちてきています。(今まで通り厳しくすると、入学者数が減ってしまうから。)
 こういうスパイラルがあるために学力が低下してきていると、私は思っています。

 かつて、学問が金になった時代がありました。しかし、それは学問を修めた人に希少価値があったからです。現代のように、事実上の大学全入時代では大卒の希少価値などありません。橋下知事のように司法試験に合格して弁護士資格でもとれば別ですが、単に大学を出たというのでは、自動車運転免許証のように当たり前のものに過ぎず、他人に対するアドバンテージにはならないのです。そのような状況のなかで、誰もが大学を目指すというのは、使い捨ての人材を量産するようなものだといえます。誰もが同じことをやっている社会では、他人と同じ分け前しかもらえないのは当たり前です。

 橋下知事が掲げる政策というのは、このようなトレンドを政治によって一層加速させようというものです。そのスローガンは、おおっぴらにはされていませんが、「効率化」であり「自由競争」であり、さらに「市場原理」であるといっても間違いではないと思います。それらはビジネスの世界では有効ですが、世の中のすべてに適用できるかというとそうではありません。

 「職員基本条例案」でも「教育基本条例案」に関する報道のなかで、人事評価が2年連続で最下位となった職員らを分限免職できる規定が盛り込まれているという記事を読みました。(申し訳ないのですが、条例案そのものはまだ読んでいません。)いくらなんでも、2年続けて人事評価が最下位になった職員(教員も含む)をただちに分限免職(民間企業でいうところの解雇)するというものではなく、所定の手続きを踏んだうえでこのような処遇をとることができるようにする、というものでしょう。
 これを聞いて、日頃公務員や教員に対し、いいイメージを抱いていない人などは拍手を送りたくなったかもしれません。それだけ世間受けする提案だということです。
 しかし、私が不勉強なせいか知りませんが、完全な人事評価制度を運用している企業・組織というのは聞いたことがありません。仮に、そういうものがあったとしたら、コンサルタントや経営マスコミが放っておくはずがありません。必ず取り上げられるはずです。
 ここでいう「完全な人事評価」とはどういうものかというと、「どこからも文句のでない評価」という実に単純なものです。ところが、この単純なことが意外と難しいのであって、ご自分の評価に不満を感じている方は多いはずです。
 ですから、ほぼ完全な人事評価を実施している管理者は極めて稀ですが、この世に存在しないわけではありません。しかし、それを制度化することができるかというとそれは無理な相談です。人事評価にはどうしても管理者個人の感情が入り込んでしまうからです。それを極力排除しようとして、実績を数値化して評価表を書かせたり、自己評価と上司の評価をカウンセリングによってつきあわせるということを行っている企業もあります。しかし、それらがうまく機能しているとはいえません。というのは、たとえば経理部や総務部のように実績を数値化できない部署もあります。また設定されている数値目標が妥当かどうかという検証はまずされていない(実際はトップダウンで決まっている)というのが実情です。さらに、自己評価はどうしても甘くなりがちなのに対し、他人から見たときのギャップをきちんと指摘できるだけの力量を持った管理職はほとんどいませんし、そもそもそういう管理職の養成すらしていないというのが実情だからです。(どこの企業でも人事担当者はこのことを認めようとはしません。認めれば、なぜそのままにしておくのだ、と叱責されるからです。)
 これは、この2つの条例案が提出される大阪府・大阪市・堺市でも同様だと思います。人事評価が2年連続最下位の人間というのは組織にとって無益であるから分限免職(解雇)しても構わないのだという発想は、理屈の上では成立しますが、人事評価制度が職員(従業員)から信頼されていないところでそれを実行に移すとなると、かえって問題を招くことになると思います。(それよりも、2年連続最下位となる職員はいなくなるのではないかという気がしています。つまり現場の管理職が意図的にそういう評価をするのではないかということです。自分の評価によっては、もしかするとこの人間が解雇されることになるかもしれないと思うと、誰しもためらうものだからです。ですから、実際に、2年連続で最下位の評価となった職員がいたとすれば、その人はよほど上司に嫌われているのではないかと疑ってかかった方がよいと思います。

 橋下知事の主張を聞いていると、部分的にはなるほどと思うところが多いのですが、今回書いてきたように、よく考えるとおかしいと思うところがあります。ただし、知事の手法までも否定するわけではありません。むしろ、大阪府の財政健全化に向けた取り組みは評価してよいと思っています。問題は、そのような手法・発想法を市場原理に馴染まない分野にまで持ち込もうとするところにあります。それを思うと、この人は社会をミスリードする指導者であると申し上げざるを得ないのです。
by T_am | 2011-08-23 00:56 | その他
 仕事でExcelを使っても家庭で使うことはあまりありません。せいぜいクラス会の名簿づくりくらいでしょうか。あと、こどもの部活の名簿づくりというのもあるかもしれません。もっとも、最近は個人情報ということで自宅住所や電話番号を教えたがらない親も増えているようですが・・・

 さて、Excelというアプリケーションを使いこなす人ほど、あるジレンマに襲われるものです。それは何かというと、Excelの上級者ほど複雑な表をつくることになり、そうなると後日メンテナンスに苦労するというものです。
 人間がつくるものですから、最初から完璧ということはありません。後になって、これを追加したいということも往々にしてあるものです。表が複雑であればあるほど、その修正に手間取ることは同意していただけるのではないでしょうか。

 そういうときのために、あらかじめメンテナンスしやすいように表をつくっておくということも大事になります。
 では、メンテナンスしやすい表とはどういうものなのかが今回のテーマとなります。

 表を直すときに手間取るのは、次の2つが双璧といってよいと思います。

1)計算式の修正
2)書式の修正

 計算式の修正というのは、主に引数の修正のことを指します。特に文字列や数値を引数にしている場合、これをひとつひとつ修正するのは手間がかかります。
 そこで、発想を変えてみましょうというのが今回の内容となります。

(VLOOKUP関数)
 IF関数と同じくらい覚えておくと便利なのがVLOOKUP関数です。使いこなしている方も大勢いらっしゃることと思います。ところで、Excelのヘルプではこの関数の引数は次のように説明されています。

 VLOOKUP(検索値, 範囲, 列番号, [検索の型])

 ここで問題となるのが「列番号」です。Excelのヘルプではこのように解説されています。


  目的のデータが入力されている列を、範囲内の左端から数えた列数で指定します。

 つまり、2 とか 3 という数値(範囲の左端から数えて何列目という数値)を正直に入力している方が多いことと思います(真面目な人ほどこの傾向が強い)。ところが、この列番号という引数は、必ずしも数値を直に入力する必要はありません。どこか別のセルの参照式でも構いませんし、他の関数を組み合わせても構いません。要は、列番号となる数値が返ってくれば何でもいいのです。

(例)
=VLOOKUP(検索値,範囲,2)
=VLOOKUP(検索値,範囲,D1)

 セルD1 に2という数値が入力されていれば、この2つの数式は同じ結果となります。仮に、2という数値を3に修正したい場合、数式の中の2を3に直すよりも、セルD1をクリックして3に直す方がはるかに簡単です。
 さらに、セルD1=2、E1=3、F1=4、G1=5、…… というふうに数値を入力しておくと、最初のVLOOKUP関数を =VLOOKUP(検索値,範囲,D$1)と入力すれば、あとはこれを右方向にコピーすることで、=VLOOKUP(検索値,範囲,E$1)、=VLOOKUP(検索値,範囲,F$1)というふうに貼り付けられます。こうすれば列番号をいちいち直す必要がないことがおわかりいただけることと思います。(この数式を縦方向にコピーすることも可能です。)

(応用)
 列番号には必ずしも数値を入力する必要はなく、他のセルの参照式を入れても構わないのですから、次のようにIF関数を使って条件に応じて列番号を変化させるようにすることも可能です。

=VLOOKUP(検索値,範囲,IF(条件,D1,E1))

さらに、VLOOKUP関数で検索する範囲に名前を定義しておくと、次のようにIF関数を使い条件によって検索範囲を変化させるようにすることも可能になります。

=VLOOKUP(検索値,IF(条件,名前1,名前2),D1)
 

 今回ご紹介した内容は、検索範囲であるデータベースのレイアウトを変更した場合に重宝します。
何度も申し上げるように、Excelには唯一の正解というのはありません。正しい計算結果が導かれるのであれば、どのような方法を用いても構わないと思います。その際に、ただ1通りの方法しか知らない人と、何通りものやり方を理解している人とでは応用力がまるで違ってくることになります。すべてを覚えることは不可能ですし、その必要もありませんが、Excelを使いこなしたいと思うのであれば1つの正解に満足しない方がよいと思います。
by T_am | 2011-08-21 23:27 | Excel のあの手この手
 セイヤ様 毎日暑いですね。でも、お元気でお過ごしのことと思います。
 この間のニュースで、民主党の次期代表選に出馬予定の野田佳彦財務大臣が、平成17年10月17日に小泉総理大臣(当時)に出した「『戦犯』に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書」における見解について報じられていました。
 簡単に抜粋すると、野田氏の見解というのは、「極東国際軍事裁判に言及したサンフランシスコ講和条約第十一条ならびにそれに基づいて行われた衆参合わせ四回に及ぶ国会決議と関係諸国の対応によって、A級・B級・C級すべての『戦犯』の名誉は法的に回復されている。すなわち、『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる。」というものです。この考えは今も変わっていないということが報道されたわけです。すなわち、A級戦犯が合祀されているという理由で、総理大臣による靖国神社参拝を否定する意見には根拠がないということを指摘しているものだといえます。


(野田氏の質問主意書)
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a163021.htm


(上記質問に対する小泉総理の回答書)
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b163021.htm


 あれから6年経った今日、この問題をもう一度考えてみると、「A級戦犯」という言葉を使うのはもうやめたらどうかと思うのです。
 セイヤさんの方が詳しいと思いますが、戦争犯罪人の定義は「極東国際軍事裁判所条例」第5条第2項に記載されています。ちょっと長くなりますが、その日本語訳を引用してみます。

第五条 人並ニ犯罪ニ関スル管轄
本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。
左ニ掲グル一又ハ数個ノ行為ハ個人責任アルモノトシ本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪トス。
(イ)平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
(ロ)通例ノ戦争犯罪 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
(ハ)人道ニ対スル罪 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。

 ここに記載されているうちの(イ)平和に対する罪に問われたのが、いわゆるA級戦犯です。以下、(ロ)通例の戦争犯罪 に該当するのがB級戦犯であり、(ハ)人道に対する罪 に該当するのがC級戦犯です。こうしてみると、これらは戦争犯罪の分類に過ぎないのですから、それにA級B級C級というあたかも格付けを連想させる訳を充てたのは間違いであると思います。仮に、バカ正直に(イ)号戦争犯罪人、(ロ)号戦争犯罪人、(ハ)号戦争犯罪人という呼称を与えていたら、今日のような混乱は起こらなかったのではないかとさえ思います。

 スポーツ新聞などで、「この大事な一戦であるにもかかわらず○○が負けた。フォアボールを連発した某投手がA級戦犯である。」という書き方をするときがあります。この用例からもわかるように、A級戦犯という言葉には「悪いことをしでかした張本人」というイメージがあるように思います。したがってB級戦犯、C級戦犯というのは、それよりも罪が軽い人々というふうに思われがちです。(僕自身、昔はそのように思い込んでいました。)実際にはA級戦犯で死刑判決を受けたのは7人ですが、BC級戦犯で死刑判決を受けたのは(後に減刑された人を含めて)約千人にものぼるといわれています。

 そういうことを考えると、A級戦犯については日本人全体が思い込みの上に思考を展開しているのではないかと思います。

 でも、こう書くと、A級戦犯の定義である「平和に対する罪」すなわち戦争の計画、準備、開始に関わったのだから戦争の張本人であることは間違いないという反論がかえって来そうです。
 たしかにその通りなのですが、でも、よく考えてみると「戦争の計画、準備、開始」というのは戦争の当事者であれば戦勝国であっても敗戦国であっても同じように行われていたはずであることに気づきます。国際関係が、今にも戦争が起こりそうなほど緊張しているのであれば、どの国であろうとも仮想敵国を想定し、実際に戦争になった場合どのように戦闘をすすめるのがいいかくらいの研究はしているのが当たり前です。
 けれども戦争に勝った側は免責され、負けた側だけが訴追されたというのが極東裁判の実態です。このことは(ハ)人道に対する罪を考えればより明らかになります。
 アメリカでは戦時中国内にいた日系人を強制収容所に入れました。これだって「人道に対する罪」でしょう。さらに、昭和20年3月10日(東京大空襲)、6月23日(沖縄戦の終結日)、8月6日(広島への原爆投下)、8月9日(長崎への原爆投下)という一連の非戦闘員(一般市民)に対する大量虐殺も「人道に対する罪」以外の何者でもありません。

 でも、アメリカ軍が訴追されることはありませんでした。

 戦争の当事者であるうちの一方だけが罪に問われる。その違いは何によるのかというと、結局のところ戦争に勝ったか負けたかの違いによるものだということになります。すなわち極東国際軍事裁判というのは戦勝国による戦後処理の一部であると理解するのが妥当だと思うのです。(裁判が行われた当時ですら、「平和に対する罪」というのは事後法であるからこれを遡って適用させるのは法の不遡及原則に反するという意見がありました。) 戦勝国による敗戦国に対する戦後処理(戦争犯罪人の処罰、領土の割譲、多額の賠償金の賦課など)の是非についてはとやかく言っても始まりません。戦争に負けるというのはそういうことなのだ、ということを理解していればそれでよいと思います。
 しかし、戦後処理にも潮時というものがあります。それがあるからこそ、後になって戦争犯罪人として刑が確定した人たちに対し赦免という措置(野田氏がいう名誉回復)がとられたわけです。
 このことからわかるのは、戦勝国にとって、日本における戦後処理というのはとっくに終わっているということです。

 けれども、当の日本人がA級戦犯(=日本を戦争に引きずり込んだ張本人であり極悪人)という特定のイメージに染まった言葉をいつまでも使うことによって、未だに戦後処理を終わらせようとはしていないのが実情です。したがって、野田佳彦氏が閣僚の靖国神社参拝を正当化するために「A級戦犯の名誉は回復されている」という論理を展開しても、A級戦犯という言葉を使った時点で論理は破綻しているのです。
 韓国や中国が閣僚の靖国神社参拝を批判するのは、日本人がこのようにいつまでも戦争を引きずっていることに気づいているからです。

 A級戦犯という用語を発明した人が誰か僕は知りませんが、よほど狡知に長けた人ではなかったかと思います。A級戦犯というレッテルを貼ることによって、戦争責任を一手に押しつけることに成功したわけですから。
 それも戦争という巨大な出来事に対する清算の一手法であったのかもしれません。誰かに責任を負わせないと次に進めないという悪癖を僕たちは有しています。そうやって誰かを悪者にして、自分たちは無関係であるというふうにしないと精神の平安が保てないからです。
 でも、それは戦争について清算したことにはなりません。単に目を背けているだけに過ぎないからです。
 といっても、あの時代に人々に対し、戦争に突入した責任の一端は日本国民のひとりであるあなたたちにもあるのだといってもしかたないと思います。(現代の高みから過去を批判するのは無意味です。)その代わり、日本人はA級戦犯という言葉がいつまでも横行するように、あの戦争をうやむやにしてしまい、そのためにいつまでも清算することができないようになってしまいました。

 戦争が終わって、戦勝国によって当時の軍人・政治家・実業家たちが戦争犯罪人として裁かれました。ただし、その裁きは戦勝国による一方的な押しつけであるという側面を忘れることはできません。事実、戦犯として刑が確定した人の中には、後日赦免された人たちもいます。それは、戦勝国の関心が報復から日本を復興させることから得られる利益の方にシフトしたと考えられます。敗戦国である日本がこれらの戦後処理に異議を唱えるとはできない相談でした。ただひとついえるのは、戦争犯罪人たちが赦免された時点で戦勝国による戦後処理は完了したということになるのですから、日本がいつまでも戦争責任は誰にあるのかということを引きずる必要はないのです。
 もっとも、現代的な解釈をすれば、大小の程度の差はありますが戦争責任というのはその時代の国民のすべてが負うものであるといえます。このことは911からイラク戦争に突入していったアメリカの姿を見ていれば頷けると思います。当時のアメリカ世論は戦争支持が圧倒的多数を占めていました。
 だからといって、あの時代の日本人を非難してもしかたないと思います。というのは現代の高みから過去を批判するのは無意味ですし、卑怯でもあるからです。
 それよりも、これからどうするかを考えた方がよほど建設的だと思いませんか? 未来を見つめるためには、A級戦犯という人を惑わす言葉を使わないこと、そこから始まるのではないかと思うのです。
by t_am | 2011-08-18 23:28 | セイヤさんへの手紙
 前回、政府が定めた暫定基準値について整理しましたが、ひとつ書き忘れていたことがあるので、補足しておきます。
 それは、飲料水の規制値はよほど厳しくしないと放射能に汚染された食品が拡大するということです。
 たとえば、水道水が放射能に汚染されているとします。その水を使ってご飯を炊けば、水の中にあった放射性物質はご飯に移ることになります。これは、そうめんをゆでたり、インスタントラーメンをつくるときも同じです。
 さらにこの水が食品加工工場で使用されたらどうなるでしょうか? その工場で生産される加工食品はすべて放射性物質で汚染されてしまうことになります。この場合、汚染された加工食品は流通経路に載って、それこそ全国に運ばれることになるわけです。

 したがって、水が放射能に汚染された場合の問題は厄介なものとなります。

1)水自身の汚染
2)食品を調理するときに使う水によって食材が汚染されてしまう危険性。すなわち、汚染経路が複数発生することになり、一層複雑になってしまうこと。


 放射能による汚染経路が複雑になっても、野菜や米などの農産物は収穫後に、牛は出荷時点で検査することで、理屈の上では汚染されたものが市場に出回るのをくい止めることができることになります。ただし、加工食品や調味料(味噌・醤油など)についてまで検査体制がでているわけではありません。ということは、放射線は検出されたけれども暫定規制値以下だったので使用可能となった水道水や井戸水を使って調理した食品は当然放射能に汚染されることになるわけですが、もしかすると調理方法によっては放射能が濃縮されるかもしれないにもかかわらず、まったくのノー検査で市場に出回る可能性があるということになります。

 飲料水の規制値を厳しくしないと、このように、放射能に汚染されるはずがない食材までも汚染されることになりかねません。
 そのように考えてくると、飲料水の暫定規制値が牛乳や乳製品と同じ200ベクレル/kgであるというのはおかしいということになります。(牛乳でご飯を炊きますか? 牛乳でインスタントラーメンをつくりますか? つくりませんよね。)
 さらに、家庭では洗濯やお風呂に入るのにも水が使われています。その水が放射能に汚染されているとわかったら、あなただったらどう思いますか?

 飲料水の用途は、他の食品とはちがって極めて広い使われ方をしているのですから、もっと厳しい基準を適用しなければなりません。
by T_am | 2011-08-14 11:28 | その他
 この「放射線に関するおさらい」というシリーズは、様々に出回っている情報をいちいち鵜呑みにしていると右往左往しかねないので、自分なりにいったん整理しようという目的でまとめているものです。
 今回は、食品はもとより稻わらや腐葉土、薪などから放射性物質が検出されたというニュースが続いていることから、政府が定めた暫定基準値について整理してみることにします。
 そもそも暫定基準値(政府は「暫定規制値」と呼んでいます)とは何かというと、厚生労働省医薬食品局食品安全部長による平成23年3月17日付通達において、次のように記されています。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001558e.html

 飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止し、もって国民の健康の保護を図ることを目的とする食品衛生法の観点から、当分の間、別添の原子力安全委員会により示された指標値(「飲食物摂取制限に関する指標」のこと。筆者)を暫定規制値とし、これを上回る食品については、食品衛生法第6条第2号に当たるものとして食用に供されることがないよう販売その他について十分処置されたい。

 このことから、少なくとも次の3つのことがわかります。

1)これまで日本には食品に放射性物質が含まれる場合の安全基準がなかった。
2)そこで、原子力安全委員会が示した「指標値」を、
3)当分の間、暫定規制値として使用する。

 要するに、厚生労働省が定めたわけではない数値を当分の間使うことにしたので、「暫定」規制値と呼んでいるわけです。したがって、将来この「暫定規制値」が変更される可能性は極めて高いといえます。より厳しくなるのか、それともより緩やかなものになるのか興味が尽きないところです。

 ところで原子力安全委員会が示した指標値がどのような考え方に基づくものかは、「原子力施設等の防災対策について」という報告書(昭和55年6月。以後都度改訂されており、直近の改訂時期は平成22年8月となっています)に書いてあります。(5-3防護対策のための指標、および付属資料14「飲食物摂取制限に関する指標について」)
 これを読むと、放射性セシウムに関しては、以下のとおりの考え方に基づいていることがかかれています。

1)放射性セシウムと放射性ストロンチウムの割合
 放射性セシウムの環境への放出については放射性ストロンチウムを伴うので、その割合をストロンチウムは1割と仮定して、合計放射能値を計算する。
2)基準となる実効線量
 実効線量5ミリシーベルト/年を基準として、5つの食品カテゴリーごとに均等に5分の1ずつ割り当てる。5つの食品カテゴリーとは、(1)飲料水 (2)牛乳・乳製品 (3)野菜類 (4)穀類 (5)肉・卵・魚・その他 であり、それぞれ年間の実効線量を1ミリシーベルトとして計算するというものです。

 その結果、飲料水と牛乳・乳製品については、200ベクレル/kg(あるいはリットル)という値が示され、野菜類、穀類、肉・卵・魚・その他については、500ベクレル/kgという値が示されています。

 原子力安全委員会による指標値設定の目的は、放射性物質による被曝を提言するという観点から、放射線濃度を実測した結果これ以上の濃度の放射性物質が検出された場合摂取制限を実施するめやすとして提案されたものであるという断り書きがついています。
 この指標値は単なる提案に過ぎませんから、これを受けて、その数値が妥当であるかどうかと言う検証とそのうえで承認するという手続きが行われるのが普通です。妥当性の検証くらいはやっているはずですが、承認して正式の規制値にするという手続きは行われていませんでした。だから「暫定」規制値なのです。

 この暫定規制値に対しては、外国の基準値に比べると緩いのではないかと大勢の人が指摘しています。私も同感ですが、ここではちょっと切り口を変えて考えてみましょう。
 これらの5つの食品カテゴリーの食品が放射性セシウムによって汚染されていた場合、この指標を守ってこれ以上の濃度の食品の流通をストップさせれば、それぞれのカテゴリーで年間1ミリシーベルトを超えることはないというのが、原子力安全委員会の考え方です。
 そうすると5つの食品カテゴリーを合計すると年間で5ミリシーベルト未満となります。でも2年間では10ミリシーベルト未満となります。この状態が今後10年間続くとした場合、その累積値は年間50ミリシーベルト未満となってしまいます。放射性セシウムの半減期は約30年ですから、30年間続くとその累積値は150ミリシーベルト未満となってしまいます。
 現在50歳代以上の人が今後30年間放射性セシウムに被曝し続けるという可能性は低いかもしれません。そこで10年間で50ミリシーベルト未満という被爆地の意味を考えてみると、現在10歳未満のこどもと大人とが同じ線量の被曝をした場合、こどもの方が放射線に対する感受性がはるかに高いことを考えると、本当にこの基準でいいのだろうかと疑問に思います。
 もうひとつ申し上げておくと、前回書いたように、放射性物質はその核種によって体内で蓄積される臓器が異なるのであり、全身に万遍なく放射性物質が行き渡るわけではありません。ところが、実効線量というのは放射線を全身で被曝するという考え方に基づいて計算された値です。内部被曝した場合、実際には特定の臓器のうち特定の箇所が放射線に晒され続けると考えなければなりません。このことは、被曝による遺伝子の損傷が細胞のガン化に発展していくリスクがそれだけ高いということを意味します。

東海村の臨界事故のときのように、高いレベルの放射線を一度に浴びてしまうと急性放射線障害を起こします。しかし、今回の福島第一原発の事故のように、低いレベルの放射性物質が極めて大量に放出され、非常に広範囲を汚染した場合は、数年経過後のガン発生確率が高くなります。すなわち、放射線によるガンの発生は確率的なものであり、被曝する線量が高くなれば当然発生確率(人口10万人あたり何人のガン患者が発生するか)も高くなります。
 実をいうと、自然界にはもともとごく微量の放射性物質が存在している(ただし、放射性セシウムというのは核分裂による生成物ですから、本来自然界には存在しないものです)ために、ガンの発生確率はゼロというわけではありません。ではなぜそれが問題にならないのかというと、確立が低いために気にする人がいないだけのことです。
 このように、放射線による被害というのは、これ以下ならば安全であるという線引きをすることができません。したがって食品に摂取制限の基準値を設けるということは、これ以下であれば気にする必要はないというのが正確なところであり、けっして安全であると保証してくれているわけではないのです。

付記
 自然界に存在する放射性物質で代表的なのは炭素14 ですが、これはベータ線を出す核種なので通常の測定器では検出することができません。炭素14は、大気中で宇宙線によって発生した中性子を窒素原子が吸収することで生成される放射性物質ですから、地球上の至る処でごく微量の割合(炭素全体に対しおよそ百億分の1.2の割合)で存在するために、どの炭素化合物にも含まれています。当然、私たちが口にする食品の中にも、測定されていないだけで、ごくごく微量の炭素14が含まれていると考えるべきです。だからといって、炭素14を含む食品を食べないというのは不可能ですし、気にしても気にしなくても発ガン率は今更変わりません。

 したがって、制限値を設ける際に、それが厳しければ厳しいほどガンの発生確率は低くなっていきます。そういう目でみると、原子力安全委員会が提案した指標値というのは、国民の健康以外に、「他の分野にも配慮した」結果の数値であろうと思います。ゆえに、制限規制値を超えていないからという理由で流通を許可した食品が安全であるとは誰にも断言できませんし、放射性セシウムの汚染濃度によっては発ガンリスクが低いといえない場合もあるといえます。

 これは推測ですが、原子力安全委員会がこの指標を決めた時点では、これほど大規模な事故によって広範囲が汚染された場合を想定してはいなかったのではないかと思います。報告書のタイトルが「原子力施設などの防災対策について」となっているように、せいぜい、小規模な事故によって原子力発電所の周辺だけが汚染された場合しか想定していないでこの指標を決めたのではないかと思うのです。

 このように考えてくると、政府が定めた「暫定規制値」というのはあまり信用ができません。本来であれば、検査結果(どれだけの放射線が測定されたのか)を表示すべきですすが、その手続きの煩わしさ、その反響の大きさを考えるととても取り組む気にはなれないのだろうと思います。それならば、少なくとも「検査をパスしたから安全です」といういい方はやめていただきたい。
 さらに、年間5ミリシーベルトの内部被曝というのは過去に例のない事態ですから、その結果数年後にはガン患者の発生率が高くなることが予想されます。そのときに備えて、どのような医療体制と患者を抱えた家族に対する支援体制を整えておくということも必要です。
 厚生労働省という官庁は、過去の薬害事件では不作為を繰り返してきました。本来やっていれば被害はもっと軽くて済んだのに、対策をとっていないばかりに被害を拡大させたという責任があるのですが、厚生労働省では頑として認めようとしませんでした。今回の原発事故でも同じようなこと(対策を怠ったことによる被害の拡大)が起こるのではないかと懸念されてなりません。
 計測された放射線量をきちんと公表し、食品に表示するというように、正確な情報を公表するという姿勢を政府が示していれば国民も政府に不信感を抱くことはなかったと思います。この問題は菅総理が辞めれば解決するのかというとそうではありません。新しい総理大臣が情報の開示を推し進めれば別ですが、候補者の顔ぶれを見ているとあまり期待できそうにないのが情けないところです。

付記
 現在のところ、暫定規制値の運用は、その値を超えた食品を出荷させないという手続きを発動させるために用いられているのが現状です。しかし、それだけでは対策として不十分であり、たとえば、規制値を超えた米が栽培されていた農地は無条件で除染の対象とする(イタイイタイ病のカドミウム汚染田を除染したように、その費用は国費で賄うべきです)というような対策と連動するようにしておかないと、いつまで経っても汚染された食品がなくなりはしません。


(まとめ)
1.暫定規制値を現在のままで運用を続けるのであれば、将来のガン患者の大量発生に備えた準備を今から進めておくべきです。
2.個人にできる自衛策としては、その食品が放射性物質に汚染されていないと確信できるものだけを購入した方がよいと思います。特に、小さなお子さんをお持ちのお母さんはそうすべきです。
3.放射線検査は放射能に汚染された土地の確定にも応用し、ただちに除染に取りかかるという体制づくりをすべきです。
by T_am | 2011-08-13 18:21 | その他
 今回は、以前ご紹介した、東大先端科学技術研究センター教授でアイソトープ総合センター長である児玉龍彦教授が参考人として衆議院厚生労働委員会に招致された際の意見陳述からの受売りに基づいています。


(YouTube版)
http://www.youtube.com/watch?v=O9sTLQSZfwo


(テキスト版:「THE JOURNAL」児玉龍彦東大教授の国会陳述の衝撃 ── 広島原爆の29.6個分の放射線総量が漏出している!より)
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2011/08/_296.html


1.2種類の被曝
 放射線による被曝が実際どのように起こるかという観点から被曝には2種類あると考えることができます。

1)瞬間的に大量の放射線を浴びてしまう場合
2)低い線量の放射線を長期間にわたって浴び続ける場合

 1)の事例としては1999年に東海村で起こった臨界事故が典型的です。この事故では2人の方が亡くなりました。うち一人は推定16~20シーベルト以上の中性子線を浴び、もう一人は推定6~10シーベルト以上の中性子線を浴びたと考えられています。これだけ大量の放射線を浴びてしまうと細胞の中にある遺伝子は完全に破壊されてしまいますから、細胞の機能がすべて失われてしまいます。細胞の機能が失われるということは生命を維持する機能が失われるということなので、治療する術もないまま、その死はゆっくりと訪れます。実際にこの事故の犠牲者が亡くなったのはそれぞれ事故発生の83日後、211日後でした。

 放射線が人体に及ぼす害というのは、遺伝子(DNA)を傷つけることです。放射線というのは高いエネルギーを持った粒子ですから、DNAの鎖に損傷を与えます。被曝する線量が高ければ同時にたくさんの細胞の遺伝子が致命的な損傷を受けることになります。逆に、線量が低ければ影響を受ける遺伝子の数とダメージはそれだけ小さなものになります。

 DNAというのは通常二重螺旋構造をしていますから、片方の鎖が損傷してももう一方の鎖を型とすることによって修復されるようになっています。放射線の線量が低ければ遺伝子に与えるダメージも低くなるので、遺伝子の自己修復機能によって回復する可能性は高くなります。私たちは普段でも年間1ミリシーベルトという自然放射線を浴びていますが、必ずしもガンや白血病にならないのは、この自己修復機能が働くからです。
 ところが、この自己修復機能が働かないときがあって、それはどういうときかというと、主に次の2つの場合が考えられます。

1)許容限度を超えるような量の放射線を浴び続けた場合
2)細胞が分裂しているときに放射線を浴びた場合
 
 1)の許容限度というのは人によって千差万別であり、年齢・体格・体力などによって異なりますから、一概にここまでは大丈夫という数値を示すことは誰にもできません。政府が食品についての暫定基準を設けていますが、これも実験によって確認されたものではなく、これくらいなら大丈夫だろうという推定によって導かれた数値に過ぎません。当然そこには政治的な思惑もあるはず(あまり厳しくすれば、引っかかる食品が膨大なものになりますし、かといって基準を甘くすれば、後で健康被害が発生したときの責任を追及されることになるという心配もあるでしょう)ですから、その食品の放射能が暫定基準値以下だから大丈夫と信頼することは、私ならばしません。
 唯一いえるのは、放射性物質をなるべく体内に取り込まないようにすること、そのためには放射能に汚染された食品をできるだけ遠ざけることだといえます。(暫定基準については書き出すと長くなるので、改めて書くことにします。)

 2)の細胞が分裂しているときというのは、DNAの二重螺旋構造がほどけて1本の鎖になっているときをいいます。そうやって、それぞれ対になる鎖を作成して二重螺旋構造の鎖を2本つくって細胞分裂を行うわけです。
 ところが、細胞分裂の途中では、二重螺旋がほどけて1本の鎖になったままですから、このときに放射線による損傷を受けてしまうと、対になる型がないために自己修復機能が働かず、損傷箇所を直すことができないままとなってしまいます。
 体内で細胞分裂が活発に行われているのは腸管上皮細胞と骨髄の中の造血幹細胞です。ほかにガン細胞も細胞分裂が活発に行われていて、ガン患者に対する放射線治療というのは、放射線と局地的集中的に照射することでガン細胞の遺伝子を傷つけることを目的としています。ただし、この治療法は大きな副作用を伴います。ガン細胞もダメージを負いますが、正常な細胞も無事では済まないというところがありますから、放射線治療にはリスクも伴います。
 放射線を浴びたことで、ガンや白血病を発症する可能性は高くなるわけですが、線量が低ければ、実際に発病するまでにはかなりの時間がかかります。「ただちに健康に影響を及ぼすわけではない」ために、「もうしばらく様子を見ましょう」といわれるのがオチです。したがって放射能汚染に対する防御・対策は後手に回りがちになり、実際に政府の対応はその通りとなっています。
 今回のような、致死量に達していないがゆえに比較的低レベルとされる放射能に広い地域が汚染された場合の危険性というのは、対策が後回しにされてしまうことなのです。

 個人の自由意思で、汚染された食品を食べ、汚染された地域に住むというのであれば、誰にもそれを止めることはできません。しかし、ほとんどの人はそうではありません。自分が住んでいる町の汚染が気になるけれども、仕事の都合でほかに移るわけにはいかない、ほかに行くところがないという人が大部分を占めるのです。

 親がそうであれば、こどももそれに従わないわけにはいきません。

 こどもや胎児は全身で細胞分裂が活発に行われているために、放射線に対する感受性は成人の比ではありません。ゆえに、放射線から身を守るための基準値はこどもや胎児を想定して設けられるべきなのですが、実際には成人を対象にした暫定基準値が幅を利かせているようです。

 もしかして、このまま何もしなければ十年後二十年後にガン患者や白血病患者が大量に発生することになるかもしれません。でもそれは本人が自ら選んだ結果ではないことに注意すべきです。

 児玉教授は、放射性物質に汚染されているところの除染を行う体制をただちに構築すべきだと指摘されました。それはイタイイタイ病のカドミウムに汚染された農地の除染とは比べものにならない規模と費用が必要となります。このままでは、行われるべき除染作業という公共事業が巨大な利権の巣窟になりかねないという危惧も児玉教授は表明されています。(十兆円以上ともいわれる賠償金額の中には汚染された土壌・建物の除染費用は一切含まれていません。東電に対する支援法案が可決されたように、いずれ、除染のための新しい集金・配分システムがつくられるのではないかと思われます。)

(まとめ)
1)低線量の被曝はただちに放射線障害が現れるわけではなく、ガンや白血病の発病までに時間がかかる。汚染された地域に住む全員が発病するわけではないが、発症率は他の地域に比べると高くなる。
2)放射性物質に汚染された地域(避難指示が出ていない地域)に住む人たちの中には、本当は避難したいと思っていてもいろいろな事情がそれを許さないという人が多い。残りの人たちは、危険性について鈍感になってしまっている。
3)この人たちを将来の発症から救うには、地域ぐるみで除染に取り組む以外に方法はない。しかし、住民にはそのためのノウハウもなければ道具もないし資金もない。自治体はそこまで手が回らない。唯一それが可能な政府と国会議員にはやる気がない。

 これは何度でも申し上げることですが、私たちは、自分たちの生命・健康・安全・財産・自由を守るために国をつくり、そのための代理人として官僚を政府に送り込み、同時にその動きを監視させるために国会議員を選出し、それらの費用の一切を捻出するために税金を納めているのです。政府や国会議員がその責任を果たさないのであれば辞めてもらう以外にありません。
 だから、今回の原発事故によって被害を被った人たちはもっと怒っていいと思います。「いい加減にしやがれ! 人を何だと思ってるんだ!」と。
by T_am | 2011-08-08 22:11 | その他
 普段テレビはあまり見ないので、こういうことを書く資格はないことは承知の上で書くのですが、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」というドラマはけっこう面白いと思います。
 このドラマは、たぶん歴史好きの人にすれば、許せないと思われているのではないかという気がします。毎回見てるわけではないのですが、それでも私が見ても「いくらなんでもこれはないよなー」と思う描き方がしてあるのですから。
 でも、冷静に考えてみると、大河ドラマというのは格調の高い歴史ドラマであるという先入観を持っているのではないかとも思います。
 大河ドラマの原作者といえば、以前は司馬遼太郎であり山本周五郎であり海音寺潮五郎
でした。そういう大家の書いた小説に比べるといかにも今の大河ドラマは軽いというのも事実です。
 しかしながら、柴田錬三郎や山田風太郎の書いた小説に対し、「こんなの嘘っぱちだ」という読者がいたとすれば、それは的外れな指摘であるということも動かせない真実です。
 思うに、「新撰組!」以降の大河ドラマというのは、歴史の衣装をまとった人間ドラマ(それも現代人の目から見た)であるといえます。そういうふうに割り切れば、別にケチをつけるようなものではないと思います。
 
 歴史上の人物の発言や行動が逐一記録されているわけではありませんから、小説家やドラマの脚本家は、残されている記録をつなぎ合わせて「残されていない空白」を想像力によって埋めることをしなければなりません。
 小説家や脚本家というのは、「見てきたかのような嘘」をいかにもそれが真実であるかのように書くという力量を要求される職業です。すなわち、「こんなのは嘘っぱちである」と読者が判断した時点で作者の負けであり、逆に読者が、それは嘘であるということに最後まで気にならなければ作者の勝ちであるといってよいと思います。

 その点、大河ドラマの脚本家たちは不利であるといえます。

 というのも、従来の視点で書く限り、司馬遼太郎や山本周五郎、海音寺潮五郎という大家の書いたものの二番煎じになってしまうのは明白ですから、何か新しい視点で書き起こさなければなりません。そこで用いられるのが「現代人の考え方」を歴史上の人物に適用させるという手法です。
 上野樹里演じる江という主人公は、現代の女性であればこのように考え、行動するであろうという一つの理想型が描かれています。すなわち、自分の気持ちに一途なあまり自己主張はきちんとするけれども周囲の人の気持ちも酌み取ることもできるし、しかも聡明であるという女性の理想像の一類型であるといえます。(こういう人は滅多にいませんが・・・)
 これに対し、江の三番目の夫である徳川秀忠という人物は、真面目だけれども融通が利かない人物としてのイメージが後世に定着しています。この人は、関ヶ原の戦いに向かうに当たって家康と別ルートである中山道を通って行ったのですが、途中真田城(真田雅之と真田幸村が守っていました)を落とすことにこだわって、結局関ヶ原に間に合わなかったという大失態を犯しています。それでも、徳川幕府二代目将軍となっているのですが、生涯ただ一度浮気をして、保科正之というこどもを設けました。保科正之という人は後の会津藩主であり、兄である徳川家光を助け、徳川幕府の体制を固めることに誠心誠意尽くした人物でもあります。ちなみに保科正之を藩主とする会津藩は徹頭徹尾徳川家に対する忠誠心を全うした藩であり、そのため戊辰戦争において白虎隊の悲劇を生むことになりました。(この件は司馬遼太郎さんの指摘によるものです。)
 大河ドラマの中で、向井理演じる徳川秀忠という人物は、飄々としてとらえどころのない人物として演じられていながら、父親である家康に対する屈折した思いを抱いている様が描かれています。それだけに、江という嫁を家康から授かったことに対して、また、江が自らの意思で自分の嫁になったわけではない(前夫への思い、豊臣家に残してきた自分の娘に対する思いを断ち切れていない)という現実を秀忠が知っているがゆえに素直に江に接することができないもどかしさが描かれていました。ところが、居宅の火事の際に、秀忠が江に対しやさしさ(というよりは、あるがままの江を受け入れるという姿勢)をみせることによって、江も秀忠を愛するようになるというところで今日(8月7日)の放送が終わったわけです。
 それはそれでドラマとして十分面白いのですが、本当は江を好いていながら、それを素直に表現しようとしない、ある意味でシャイな性格の秀忠が、将来なぜ生涯でただ一度の浮気をするようになるのか、しかもそのこどもである保科正之が徳川家に対する忠誠心の塊となるのはなぜなのか、そのあたりが今後どのように描かれるのかが楽しみといえば、楽しみになります。

 歴史上の人物が、現代人のようなものの感じ方・考え方をするはずがありません。その時代を背景として倫理観・価値観に縛られていたわけですから、そこに現代人と同じ行動をとらせるのは無理があります。そのことがわかっている人ほど、大河ドラマに批判をするということなのでしょう。その気持ちは充分理解できます。
 しかし、みかたを変えて、これは単なる物語だと思えば、それなりに面白くみることができます。眠狂四郎シリーズや風太郎忍法帖シリーズも単なる物語に過ぎませんでした。だからといって、これらの物語を軽んじているわけではないのであって、「眠狂四郎無頼控え」や「忍びの卍」、「風来忍法帖」などは後世に残る傑作であると思っています。「江~姫たちの戦国~」がこれらの傑作の仲間入りをするかどうかは最後まで見てみないとわかりません。ということは、最後までみてから判断しましょうということでもあります。

 ちなみに、傑作かどうかの基準は単純です。つまり、後になってもう一度読みたい(見たい)を思うかどうか、それだけにかかっているのです。


付記
 江が生んだ二人の息子、家光と忠長をめぐって、後日どちらが徳川家の後継者として相応しいかという争いが起こることになります。秀忠と江は、才気煥発な忠長を愛したようですが、家光の乳母である春日局が家康に直訴することによって家光の長子相続が確定したと広く知られています。しかし、実際のところは、戦国の動乱期であれば家を守るためにもっとも実力のあるこどもに家督相続させるという考え方は常識でしたが、もはや戦国時代は終わり、時代は安定期に入ろうとしていました。そのような時代では、家臣さえしっかりしていれば誰が相続してもいいのであり、そうなると余計な意見が入り込む余地のない長子相続という制度を確立させた方がいいという判断があったものと思われます。相続争いというのは鎌倉時代以降頻発して発生していた事件であり、それまでの幕府の重大な職務として家督争いの裁定というのがあったくらいです。家康による長子相続という決定はその後長く受け継がれ、戦前の日本でも長子相続が行われていました。
 このような「歴史的英知」に対して江と秀忠が何を思い、どのように行動したのかが描かれるのであれば、このドラマの終盤の見所となるといえるでしょう。
by T_am | 2011-08-07 22:55 | その他