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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 少し前のニュースになりますが、政府は7月29日B型肝炎の患者を救済するための財源として臨時増税で7000億円を賄うことなどを定めた「全体解決の枠組みに関する基本方針」を閣議決定しました。

(毎日新聞のニュースサイトより)
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110729k0000e010038000c.html


 7月5日の閣議後の記者会見で、細川律夫厚生労働相は「B型肝炎の問題は予防接種で起きた。予防接種は国民全体の利益にもなっている。不幸にも感染した方を国民全体で支え合うことが必要」と述べました。

(朝日新聞のニュースサイトより)
http://www.asahi.com/politics/update/0705/TKY201107050190.html?ref=reca

 これを受けた形で、7月26日には関係閣僚会合の協議により、来年度から5年間で約7千億円の臨時増税を実施する方針を固めたという報道がなされました。

(朝日新聞のニュースサイトより)
http://www.asahi.com/health/news/TKY201107260889.html


 もっとも、その翌日の7月26日には枝野官房長官が記者会見で「報道は承知しているが、決定しているわけではない」と述べていますが、29日の閣議で予定通りの決定がなされたわけです。あいかわらず、その場しのぎの発言をする官房長官だといえます。

(朝日新聞のニュースサイトより)
http://www.asahi.com/business/news/reuters/RTR201107270045.html


 それにしてもひどい話しだと思います。B型肝炎の患者を救済する必要はないと申し上げているのではなく、救済方法があまりにもひどいと申し上げているのです。
 そもそもB型肝炎ウィルスは血液を介して感染しますが、集団予防接種の際の注射器の使い回しによっても感染します。集団予防接種時の注射器の使い回しは戦後から昭和63年頃まで行われており、前に並んでいるこどもに使った注射器をそのまま使われたというのは私も覚えています。(現在は注射器の使い回しは行われておらず、病院内の針刺し事故の方が問題視されているようです。)
 注射器の使い回しが危険であるという認識は国際的に戦前から知られており、国も昭和23年頃には認識していたようですが、集団予防接種のコストを惜しむあまり、対応を怠ってきたことが感染者の拡大を招いたものです。
 このため、各地でB型肝炎訴訟が行われましたが、集団予防接種との因果関係を認めない判決も下された中で、北海道のB型肝炎患者5名が起こした訴訟に対し、平成18年6月16日付で最高裁判所が国の責任を認め、賠償を命じました。
 ところが、国はその後も他の患者に対して救済措置を講じようとはしなかったのです。というのは、民法には損害賠償請求ができる期間(除斥期間)を20年と定めている規定があり、これを用いて救済対象を絞り込もうとしていたからです。しかし、昨年から今年にかけてこの問題が再びマスメディアにも取り上げられたことを覚えておいでの方もいらっしゃると思います。国の思いはできるだけ救済対象を絞り込み、かつ補償金の支払額を低く抑えたいということであり、この点で原告団とまっこうから対立していたのですが、東日本大震災の発生により、このまま時間が経過することで補償の財源が失われる恐れもあり、原告団も和解案を受け入れることにしたという経緯があります。

 B型肝炎患者のうち集団予防接種を原因とするもの(母子感染でもなければ性行為によるものでもない、さらには針刺し事故とも無縁であるという人たち)は100%国の責任です。仮に、国がもっと早い段階で集団予防接種の注射器の使い回しをやめるよう指示をしていれば、この人たちはB型肝炎に感染することはなかったのです。

 したがって、この人たちを国が救済するのは当然であるといえます。

 私が問題にしているのは、厚生労働省が何ら責任をとろうともしないまま、救済のための財源確保として臨時増税を打ち出していることです。これは、B型肝炎の患者を救済するために国民に負担を求めるということです。財源確保という現実問題として、そういう選択はあるかもしれません。しかし、手続きとして、それを国民に求める前に、厚生労働省がどのような責任のとりかたをしたのかが不明瞭であると申し上げているのです。
 7000億円という大金を国民に増税という形で負担してもらうというのであれば、厚生労働省の幹部は私財を提供するくらいのことをしてからにしてもらいたいと思います。既に退職している幹部には退職金を返還させるとか、叙勲を取り消すとか責任の取らせ方はいくらでもあるはずです。そういうところにまったく触れないで安易に増税を決定する内閣も内閣だと思いますが、厚生労働書という役所は無責任にも程があります。あえて申し上げますが、心底腐っているのが厚生労働省という役所です。

 何度も申し上げますが、私たち国民は、自分たちの生命と健康を護ってもらうために国をつくり、政府には許認可権限を、政治家には権力を権限を委譲しているのです。これらの権限や権力を持つ代わりに国民に対して責任も負うというのが民主主義の根幹であり、政府や政治家が責任を負わないというのであれば自分が持っている権限や権力を返上させるというのが筋でしょう。私たちにはそれを要求する権利があります。
 北朝鮮や中国のような独裁国家であれば、官僚は国家元首に対して責任を負えばよいということになります。今回の閣議決定でなされたように、政治家も官僚も誰にも責任を負わないという政治体制はいったい何なのか、少なくとも民主主義ではないことは明白です。
 日本という国は表向きは民主主義国家ということになっていますが、実態は違います。残念ながら、官僚と政治家の私利私欲のために日本という国があるのだといわざるを得ないようです。


付記(1)
 中国の高速鉄道の事故処理に対して中国国民が怒りのメッセージを主にネットを通じて表明しています。あの国は、これまで情報統制を徹底して行ってきた国ですが、ネットの普及は当局のコントロールを超えてしまったようです。そのことが、少なくとも現時点では、政府を動かす圧力となっていることは間違いありません。

 国をよくしようと思うのならば、正しい情報が伝えられること、それに対して国民が自由に自分の意見を表明できること、この二つが担保されたうえで、国民の声が大きなうねりとなって政府に対する圧力となることが必要です。
 国民は、官僚を辞めさせることはできませんが、政治家を辞めさせることはできます。あるいは、B型肝炎訴訟のように、誰が見てもおかしいと思うことであれば政府を動かすことができるといってよいと思います。
 ここで肝心なのは、誰が見てもおかしいと思うことをその都度指摘し、問題提起することです。
 政府を監視するのは、これまでであればマスコミの役割であるといわれてきました。sかし、マスコミは情報を掘り起こし、私たちに提供する機能しか持ち合わせていません。情報を判断するのはあくまでも国民であるべきです。
 誰が見てもおかしいということを取り上げ、私たちがそれぞれ意見を表明すれば、マスコミもそのような情報を積極的に提供するようになるはずです。


付記(2)
 繰り返しますが、私たちには官僚を辞めさせることはできませんが、政治家を辞めさせる(あるいは当選させない)ことは可能です。
 菅総理を辞めさせたがっている人は多いようですが、菅総理が辞めてもたいして変わらないと私には思われます。それならばいっそのこと、民主党から政権を取り上げる方がよほどいいのではないかと考えます。その受け皿が自民党になっても構いません。その間に、民主党の皆様には、なぜ自分たちは国民から見放されてなのだろうかということを考えてもらえばいいのですし、自民党も、好き勝手なことをしているといずれ国民から見放されるということを自覚してもらう機会になると思うからです。
 そういうことを考えると、「国政選挙請求権」という制度があった方がいいように思います。地方自治体の住民投票というのは、特定の問題(市町村合併の是非や原発の受け入れの可否など)に対して住民投票によって結論を出すというものが多いのですが、中には恒常的に住民投票を行えるよう条例を制定する自治体も現れているとのことです。
 どうせなら国政レベルでもそういう制度があった方が、今よりもましな国になるような気がします。具体的に申しますと、直近の国政選挙の有効投票数以上の署名が集まったときに、国政選挙請求が通るというようにしておいた方がいいように思います。現行制度では投票率がどれだけ低くても当選してしまえば関係ありません。「私は国民の皆様から選ばれました」とふんぞり返ることができるのです。ところが、投票率が低ければ、それだけ自分の地位も不安定なものになるという仕組みにしておけば、政治家も自分の地位を安定化させるために、国政選挙請求が行われないような政策やひいては選挙での投票率が高くなるような政策を心がけるようになると期待されます。
 もっとも、かつて小泉純一郎がやったように劇場型政治が再び行われるリスクも否定できないのですが、それは授業料として甘受しなければならないと思います。国民もいつまでもバカではないはずですから。
by T_am | 2011-07-31 21:39 | その他
 九州電力の「やらせ」事件は、他の電力会社でも過去に同様のことが行われていたことを明らかにしました。ところが、それだけでは収まらずに、今度は原子力安全・保安院(名前が長ったらしいので以下単純に「保安院」と書きます)が中部電力に対し、プルサーマル計画を巡る2007年に行われた政府主催のシンポジウムに社員を動員するよう指示をしていたという事実が暴露されました。この事実を公表したのは中部電力なのですが、あえて監督官庁の暗部を暴露したのには何かしら理由があるのではないかと思います。そういうことをすれば、後で意趣返しをされるのはわかりきっていますから、普通であればそういうことは黙っているはずです。にもかかわらず、こういう「告発」を行ったというのは、浜岡原発の「停止要請」を行った政府に対する牽制という意味があるのかもしれない、そんなことを思っています。

 原子力というのは危険な技術ですから、それが安全に運用されるよう監視する組織として原子力安全委員会がありました。ところが、2001年3月に経済産業省の下部組織として保安院が新設され、電力会社に対する許認可権限を持つことになったのです。
 既に多くの方が指摘されているように、経済産業省というのは原発を推進する立場の役所です。その下部に電力会社を監視する組織を設けた理由としては、経産省の電力会社に対する発言力を強化する狙いがあったものと推察されます。
 ところが、保安院の職務は本来原発の運用にブレーキをかけるというものですから、これは上部組織である経産省の姿勢と矛盾します。ゆえに、保安院で自分の職務に忠実であろうとする職員がいたら、その人はどういう目に遭うか容易に想像することができます。
 結果として、保安院という組織は経産省の意向に沿うように電力会社に圧力をかける装置に成り果ててしまっています。その一端が中部電力に対する社員の動員指示という出来事に現れていると思います。

 保安院が設けられたことによって、原子力安全委員会は仕事が横取りされたような状態になり、精彩を欠くようになってしまいました。文科省がこどもの被曝量の上限として年間20ミリシーベルトという基準を打ち出したときに、原子力安全委員会が隠れ蓑のように使われましたから、政府・官僚が責任を押しつけるための存在に成り果てているようにもみえます。

 保安院といい、原子力安全委員会といい、そんなところで仕事をしていても面白くないことでしょうね。真面目で誠実な職員の方には本当にお気の毒だと思います。もっとも、自分の出世のための1ステップと割り切っていれば別ですが・・・
 ただし、そういう人は非常時には役に立たないのですから、それではそもそもそんな組織を存続させておく意味があるのかということになります。

 保安院による「やらせ」が過去にあったということで、保安院を解体せよという圧力はさらに高まるものと思いますし、福島原発の事故収束に一定の区切りがついた時点で、この組織にメスを入れることになるものと思われます。それが菅内閣の仕事になるのかその次の内閣の仕事になるのかはわかりません。けれども、その際に、保安院を解体する理由として、「やらせ」とうやってはいけないことをしたから解体するのか、それとも原子力の安全性を担保するためにやらなければいけないことをやっていなかったから解体するのか、その認識によっては、次にできあがる組織がまるで違ったものになるように懸念されるのです。
by T_am | 2011-07-30 09:40 | その他
 放射性物質に汚染された稻ワラの問題で、政府は福島県に続き宮城県に対しても牛の出荷を停止するよう指示をする方針を固めたと7/28のニュースで報道されていました。その理由は、宮城県内の複数の地域から出荷された牛から放射性セシウムが検出されたことにより(放射能汚染が)地域的な広がりを見せているからだということのようです。
 政府のこのような動きに対し、新潟県や岩手県などでは県内で出荷される牛に対して、いわゆる「全頭検査」を行う方針を打ち出しており、他の県にも同じ動きが広がる様子を呈しています。

 さて、消費者の視点で見たときに、県の対応と政府の対応どちらに信頼がおけるでしょうか?

 この問題で今一番困っているのは福島県と宮城県の酪農家でしょう。今まで肥育してきた牛の出荷ができないのですから。自分が飼っている牛が汚染されているかもしれないし、あるいは汚染されていないかもしれないという中途半端な状態で、出荷することだけができないという焦燥感を感じていることと思います。
 牛には出荷のタイミングがあって、それを過ぎると価格が下がってしまうそうです。それでも飼料を食べさせなければなりませんから経費はかかります。そのうえ値段が下がるのでは何をやっているのかわかりません。いっそのこと汚染が確認されれば、その牛はもう出荷できないことが明らかになるのですから処分することもできるのでしょうが、それも検査をしなければわからないのです。
 それならば、酪農家からいったん牛を出荷してもら、全頭検査をすることで汚染されている牛をはじき(当然補償の対象となります)、安全が確認された牛に対しては自治体が保証して流通させる方がはるかに理にかなっています。

 この春にも、福島県産の野菜に対して政府は同じように出荷停止を指示しています。その結果何が起こったかというと、市場に流通している野菜に対する信頼性が損なわれ風評被害が発生し、日本の食材は放射能に汚染されているかもしれないということで、この動きは海外にも広がりました。政府は同じことを繰り返そうとしているのです。

 以前も申し上げたように、食品の安全性に対する信頼を損なわないようにするには全数検査をして安全なものだけを市場に流通させる(安全でないものについては補償が必要となります)ということを断固として実行する必要があります。しかし、政府のやり方はクロかどうかはっきりさせないまま、とりあえず出荷停止にするというものでしたから、これでは消費者が不安に思うのも無理はありません。その結果が野菜に対する風評被害の発生であり、その反動として、福島県産の野菜を積極的に食べようという「善意の」運動が起こりました。こういう善意は尊いと思いますが、その善意を無にしないためにも市場に流通しているのは安全が確認されたものだけであるという体制が確立される必要があります。せっかくの善意も、実は汚染された食品を食べることを促していたというのでは何にもならないからです。

 どうやら政府・農水省というのは学習能力がない人たちが偉いポストに就いているものと思われます。もちろん、官僚の中にも誠実で仕事熱心な人はいるはずです(どんな組織にもこういう人はいるというのは経験的に明らかですから)が、残念ながら、そういう人はあまり出世しないということになっているようです。逆に、自分の仕事に対する使命感や責任感が希薄であっても、自分をアピールする能力に長けていたり、ときには他人の手柄を横取りするような人が組織の中では順調に出世していくように思います。つまり、不作為と無責任と嘘に長けた人ほど重要なポストを占めるようになるということです。
 何事もなければ、そういう人たちが偉いポストに就いていてもさほど問題は生じないのですが、今回のような国家レベルでの災害においては有害無益であるといえます。
 冷静に考えれえば、食品の安全性を担保するには、全数検査をして安全と確認できたものだけを市場に流通させるという方法以外にないことがわかるはずです。しかしながら、「そうしたいのはやまやまであるが、それだけの人員も機器も予算もない」という理由でいつまでも手をつけようとしないのがこの人たちに共通する行動パターンです。面倒なことはしたくないのですね。そのくせ責任を追及されるのが嫌なものですから、すぐできて効果のない対策(通達を現場にファックスしたなど)だけは打っておくということをします。自分たちの不作為と無責任が社会に対しはるかに大きな被害を与えているということがわからないのは、自分の利益と安泰を優先して考えているからです。

 民主党が掲げた「政治主導」というのは、こういう局面で発揮されるべきだったと思います。彼らの勘違いは、何をやり何をやめるかを決めるのは自分たちであり、その意思決定のプロセスから官僚を排除するというところに絞ったところにあると思います。自民党時代は、官僚たちに提案させ、政治家はそれを採用するかどうかを決定するという手法がとられていました。どちらの手法が優れているかといえば、自民党の手法の方が日本という風土には合っているのではないかと思います。その自民党時代においても、官僚にやるべきことをやらせるという「政治主導」が発揮されたことはあまりないように思われます。もっと発揮されていれば、もう少しマシな社会になっていたように思うからです。
 鳴り物入りで登場した民主党政権ですが、閣僚の発言をみていると政治主導どころか官僚のスポークスマンみたいになっている大臣もいます。
 菅総理一人を辞めさせれば、こういう問題が一気に解消されるかというとそんなはずはありません。少なくとも各省庁に強力なリーダーシップを発揮できる人をトップとして据えないと何も変わりません。総理一人で全省庁の監督ができるわけではないのですから、総理を替えたらすべてよくなるというのは幻想にすぎないのです。(といっても、別に菅総理を擁護しているわけではありませんので、誤解しないでください。)

 前回も申し上げたように、政治家には権力があり、官僚には許認可権限が与えられています。それというのも、人間の生命・健康・財産・自由などを守るために国という組織をつくり、権力と権限を与えてそれらの目的を実現させる体制にしているからです。
 政治家や官僚がそれを忘れて他のことにうつつを抜かしているのであれば、すみやかにご退場願うよう意見を述べるというのが市民としての義務であると考えるのです。


付記
 東大アイソトープ総合センター長の児玉教授が7月27日の衆議院厚生労働委員会で意見を述べたときの様子が YouTube にアップされています。正直言ってこのビデオを観て感動しました。

http://www.youtube.com/watch?v=O9sTLQSZfwo

 興味のある方はご覧になってください。これまでまったく伝えられてこなかった現実がここにあります。
by T_am | 2011-07-30 07:31 | その他
 韓国に大雨をもたらした雨雲は北陸・北関東・東北にも延びてきて梅雨時の前線の様子を呈しています。そのため、7月28日は関越自動車道が通行止めとなりました。最初は六日町IC-小出IC間の通行止めだったのですが、次に湯沢IC-小出IC間が通行止めとなり、最終的には湯沢IC-小千谷IC間が通行止めとなりました。

 なぜこんなことを知っているかというと、同時刻に関越自動車道を新潟に向かって走っていたからです。

 私が湯沢ICで降りて国道17号線を六日町に向かって走っていると、「国道17号線六日町で冠水のため通行止め」という表示がありました。どこで通行止めなのかわからなかったので、そのまま走っていると塩沢を過ぎて六日町に入るころに渋滞が始まりました。

 土地勘のない方のために説明しておくと、南から順番に新潟に向かって、湯沢-石打-塩沢-六日町-浦佐-小出-堀之内-川口-小千谷という位置関係になります。(暇何人は地図を眺めてください。けっこうな距離があることがわかりますから。)

 結局、六日町の市街地で道路が冠水したために交通渋滞が起こったらしいのですが、ノロノロとしか車が進まないのでカーナビの地図を拡大して迂回路を捜し、六日町市街地を避けて帰って来たので詳しいことはわかりません。それでも途中道路が冠水しているところがあったので、かなり広範囲で道路が冠水したのだろうと推測されます。
 本当をいうと魚野川(この下流で信濃川と合流する)の東側の県道131号線を北上するつもりでいたのですが、途中「行き止まり」の標識が出ていてために、やむを得ず魚野川を西に渡り、六日町市街に戻って国道17号線に戻ることになりました。渋滞原因となっている箇所は過ぎているのでスムーズに走ることができたのですが、気の毒だったのは反対車線を湯沢方面に向かう人たちです。渋滞の列が浦佐を過ぎるところまで延々と続いていました。
 途中、国道17号線との交差点を脇道からを六日町・湯沢方面に向かって右折で入って来ようとする車が列をなしているのを見かけました。しかし、17号線がほとんど動かない状態ですから、これらの車も動くことはできません。おそらく帰宅途中の車で、この渋滞に巻き込まれた人も多いと思います。

 この時間帯、ラジオ・テレビ(ワンセグ)では関越自動車道が通行止めになっていることは報道されていましたが、国道17号線が六日町で通行止めになっており、大渋滞が発生していることまでは報道されていませんでした。

 どうしてこういう大事な情報が伝わらないのでしょうか?

 思うに、国道を管理する立場の人たちがその必要性を微塵も感じていないからだということなのでしょうね。つまり、国道を管理する人たちの職務というのは、国道の通行に支障が生じた場合それを速やかに除去するということだけ考えていればいいのであって、その道路を通る人のことなど念頭にないということなのだと思うのです。

 そもそも道路とは何のためにあるのでしょうか?

 答えは単純です。「自動車による移動をスムーズに行うため」というのはその解答です。だから、穴が開いたりラインが消えたりすれば修繕を行うわけです。ところが、いつの間にか道路管理業務に従事する人たちの意識の中には、道路の修繕(維持管理)が自分たちの仕事であるという錯覚が生じています。それ以外のことはしなくてもいいと、この人たちは思っているわけです。

 道路の存在意義が「自動車による移動をスムーズに行うため」ということをきちんと理解していれば、関越自動車道が通行止めとなっている情報と一緒に国道17号線が六日町地内で冠水のために通行止めになっているという情報も流すことによって、これほどの渋滞は発生しなかったはずです。関越自動車道の場合、大幅に遠回りとなりますが、北陸自動車道から長野自動車道を迂回して藤岡JCTで関越自動車に戻るというルートもあるからです。走行距離は大幅に伸びますが、それでも渋滞を抜けるために要する時間と被るストレスを考えれば迂回した方がいいと思います。(私の場合も、藤岡JCTの手前で長野経由で帰った方がいいのではないかと一瞬迷いました。今から思えば、長野経由にしておけば1時間以上早く帰ることができたと後悔しています。なお、高速料金は変わらないはずです。なぜなら途中検札するところがないからです。)

 今度からは、大雨や大雪などの気象災害によって高速道路が通行止めになった場合、平行して走る国道にも何らかの支障が生じていると考えることにします。(これは昨年末の大雪によって高速道路と並行して走る国道の両方が通行止めになった事例にも由来します。)したがって、そういう場合は速やかに自動車での移動を中止して戻ることにします。
 なぜなら、高速道路の管理者も国道の管理者も自分が管理している道路のことしか関心がないからであり、その地域の交通を任されているという自覚がまるでないからです。そうだとすれば、自分の身は自分で守る以外にないという結論になるのもやむを得ないと思いませんか?

 行政府と国民の関係について申し上げると、国民の生命・安全・財産などの権利を守るために行政府という組織があると私は考えています。それを可能にするために、行政府には許認可権限が国民から与えられているわけです。許認可権限というのは、国民の権利を無制限に認めるのではなく、社会全体の利益(一般的には「公共の福祉」と呼んでいます)と勘案してときには制限することもあるというものです。(その権限には道路を通行止めにする権限も含まれます。)
 しかし、行政府という管理者が自分に付与されている権限は何のためなのかを忘れて、自己の保身や利益のためにその権限を行使するというであれば、そんな役所や役人は有害無益であって、むしろない方がましだと思います。

 中国の高速鉄道の自己を巡る報道が連日行われています。この報道の奥底にあるのは中国という国の組織としての未熟さ・モラルの低さ・いかがわしさをあげつらうという意図が見え隠れしているので、あまり愉快なものではありませんが、これと同じようなことがわが国でも公然と行われているということに、私たちは目を向けるべきでしょう。
 道路の同じ箇所で事故が何度も起これば、構造的に問題があるのではないかとして道路管理者の責任が問われますが、管理者の無為無策によって大渋滞が発生しても管理者は免責され、渋滞に巻き込まれた人以外はそういうことがあったことすら知らないというのがこの国の実情です。
 
 私たちは税金を納めています。同時に、自分のこどもや孫にこの国を引き渡していくという責任が私たちにはあります。だとすれば、中国で起きていることを他人事のように嗤うことはできないと思うのです。(この稿続く)
by T_am | 2011-07-29 01:13 | その他
 7月23日に中国の高速鉄道で起きた追突事故は、24日午前、追突し高架橋から落下した先頭車両が重機で粉々にされたうえで、近くの畑に掘った穴に埋められたというニュースがありました。同日夜には、この先頭車両の運行記録装置(ブラックボックス)を回収したという発表があったそうですが、事故の検証がどこまでなされたのかは疑問です。 25日の午前中には事故が起きた区間での運転が再開されたそうですから、当局が事故原因の究明よりも運行再開を優先したことは明らかです。また、中国共産党中央宣伝部は国内メディアに対し、事故の独自報道を控えるように通知したとのことです。

 こういう話しを聞くと、中国という国の体制は、皇帝こそいないものの専制君主国家そのものであると思ってしまいます。

 でも、こういう組織は別に珍しいものではありません。日本にもいくらでも存在しているのですから。

 その組織がどういう体質であるかは、その構成員が誰に対して責任を負っているのかを観察することでわかります。

 今回の中国のように、批判には一切耳を貸さず、事故の検証(=原因究明)をろくすっぽうしないまま運転再開に全力を尽くしたというのは、この国の当事者たちの中には、自分が責任を負うのは上司(トップ)に対してであるという意識があるからです。すなわち、この人たちの判断基準は「上司(トップ)に怒られないようにするにはどうしたらいいか」に限られているということです。
 そういう人間はウチの会社にもいるぞ、と思われる方もいらっしゃることと思います。幹部にそういう社員が多い会社というのは得てしてトップがワンマンであるものです。そして、トップが横暴であればあるほどそのような幹部が増えていく傾向にあるように思えます。

 翻ってわが日本政府と国会はどうかというと、福島原発の事故対応を見る限りでは中国政府とあまり差はないように思えます。爆発事故を受けた避難指示も科学的合理性を欠いていましたし、放射線の影響についても過小評価した見解を繰り返し表明していました。今回の牛肉騒動でも、放射線の全数検査をするわけでもなく福島県産のすべて牛肉の出荷停止という措置をとっています。かつて野菜で同じことをして風評被害を招いたことをもう忘れているかのようです。これというのも、政府官僚・政治家たちの忠誠心は国民や農家に向けられていないということの現れであると考えてよいでしょう。彼らの主は別にいるのです。
 といっても日本の場合、別に「影の総理」なる人物がいるわけでもないので、専制君主国家というよりは、むしろ封建諸侯による封建国家といった方がよいかもしれません。
 今回の事故で明らかになったのは、そのような封建諸侯の一員として東京電力という企業が存在しているということです。これだけの事故を起こしておきながら、東京電力を存続させるために「原子力損害賠償支援機構」というのを設立し、国から交付された資金を東京電力に供給するという法案を提出しようとしています。資金の返済は東京電力はもとより原発を持つ他の電力会社から負担金を徴収してこれに充てるというものです。その原資はどこから出るかというと、結局私たちが支払う電気料から出るわけであり、その分電気料金が値上げされることになるはずです。
 電気料金には、いわゆる電源三法による交付金を捻出するための原資が既に上積みされています。こういう既存の資金調達ルートには一切手をつけず、新たに電気料金に上乗せすることによって、原発事故の賠償金を捻出しようというのがこの法案の趣旨です。

 似たような動きは他にもあります。

 東日本大震災の復興資金をひねり出すために、5年間にわたって10兆円規模の臨時増税を行うというのがそうです。また以前からいわれているように消費税の税率を段階的にアップさせようというというのも同様です。この消費税増税の理由として、以前は国が抱える借金が増え続けていて、このままではどうにもならなくなるということがいわれていましたが、最近は、増え続ける社会保障費を捻出するためというふうに理由づけが変わってきています。
 まともな経済感覚の持ち主であれば、収入の範囲内で支出を抑えるという行動をする(そうでなければやがて多重債務を抱えることになります)と思うのですが、国家財政というのはそうではないようです。支出を抑えるということよりも増税によって収入を確保することの方に熱心であり、マスコミもそれに協力的です。
 江戸時代中期以降、三百諸藩は例外なく財政難に陥りました(参勤交代や幕府が命じる公共工事の負担によって収入以上の支出を強いられたため)が、そこから脱却できた藩に共通するのは殖産興業であって増税ではありませんでした。
 このことは中学校程度の歴史の教科書に書いてあるのですが、わが国の官僚や政治家たちは歴史を無視する行為に手をつけようとしています。彼らがいったい大学で何を勉強してきたのか不思議でなりませんし、その程度の判断力すら持たない人間でも国家の要職につくことができるという人事システムが存続しているというのも不思議でなりません。

 「己の主に怒られないようにするにはどうしたらいいか」という判断基準だけに基づいて行動する人間は、その人が属す組織の利益を最大化することよりも自分の利益の最大化のほうに関心があるものです。

 このような生き物を私たちは「寄生虫」と呼んでいます。寄生虫が増えすぎると宿主の健康を害することになるのはいうまでもありません。
 それはともかくとして、この国には民主主義がないのだと気づかされるのは情けない思いがしてなりません。
by T_am | 2011-07-25 23:58 | その他
 ツイッターを初めて数ヶ月。まだまだ初心者の域を脱しないのですが、それでも少しずつわかってきたことがあります。
 ツイッターのタイムライン(TL)というのは、Webブラウザのお気に入り(ブックマーク)と一緒で、その人の脳の縮図であるということです。

 私たちの脳をイメージすると、暗い小部屋の中に住んでいる人、というのがぴったりくすのではないかと思います。その小部屋にはいくつか窓があって、それぞれ「家族」「学校」「親戚」「職場」「ご近所」「趣味」などの名前がつけられています。
 本やテレビ、新聞、ラジオはどうかというと、この小部屋の壁に開いたピンホールのようなものだと理解する方がいいように思います。Webブラウザのお気に入りやツイッターのタイムラインも同様です。ただし、ピンホールの開き方にはクセがあって、どちらかというと一方の壁に偏った開き方をするようです。
 これらのピンホールは外部の世界がどうなっているかを教えてくれるのですが、人間には「自分が聞きたいものを聞こうとし、聞きたくないものには耳を貸さない」という習性があることを忘れない方がいいように思います。

 たとえば、今朝(2011年7月18日)の私のツイッターのタイムラインは、小田島 隆さん、茂木健一郎さん、江川紹子さんの3人によって独占されました。3人ともなでしこジャパンの決勝戦を観戦していて、随時ツイートを送信していたからです。ちなみに、決勝戦の最後には1秒あたりのツイート数が7,196件となり過去最高を記録したそうです。

 同じ方向から差し込む光は常に同じところに影をつくります。

 それがダメだと申し上げているのではなく、そういうものだということを知っておいた方がよいと申し上げているのです。

 同じ方向から差し込む光は常に同じところに影をつくります。
 けれども、別な方角から差し込む光があれば、その影を消してしまうことがあるかもしれません。

 なぜこんなことを申し上げるかというと、自分の力で考え、自分の言葉で語る。そういう人が今の時代求められていると思うからです。

 
by T_am | 2011-07-18 23:28 | その他
 女の人はゴキブリが嫌いです。
 少なくとも私は、今までに「ワタシ、ゴキブリが好きなの。」と告白してくれた女の人に会ったことはないので、女の人はおしなべてゴキブリが嫌いだと断定してもよいのではないかと思っています。

 それにしても、ゴキブリを見つけた女の人というのはどうしてあんな大声をあげるのでしょうね。ご近所の迷惑ではないかと思うのですが、そんなことは構ってられないといわんばかりに大きな声をあげてくれます。

 私にとってこのことは長い間、謎でした。ゴキブリヲ見ツケタ女ノ人ハ、ドウシテアンナニ大キナ声ヲ張リ上ゲルノダロウ?

 いかがですか? 答えがわかりますか?

 私がようやく思い当たった解答は、大声で叫ぶというのは助けを求めているというものです。つまり、「誰かー! 誰か助けてー!」といっているのだということです。

 年配の読者の方は、アメリカ製アニメの「ポパイ」を思い出してください。この偉大なるワンパターン・アニメのプロットは、ポパイの恋人であるオリーブが敵役のブルートにさらわれるところからクライマックスとなります。体格はブルートの方がポパイよりも圧倒的にすぐれているのですが、ポパイが缶詰に入ったホウレン草を食べることで超人的なパワーを手にしてブルートをやっつけて無事オリーブを救い出すというパターンは毎回同じです。そして、オリーブがブルートにさらわれるときに「助けてー! ポパイ!助けてー!」と叫ぶのも同じです。

 実は、敵にさらわれた絶世の美女を救いに行くという物語はポパイだけではありません。E・R・バロウズが書いたSF「火星シリーズ」や「金星シリーズ」でも同様のプロットが盛り込まれています。
 それらに共通するのは、どのヒロインも美人である以外に取り柄がないということです。しかも、オリーブに至っては、「いつまで経っても学習しない女だなあ。」と観客が思うような描き方(美人だけれども、ばかで足手まとい)がされています。日本ではこういうプロットの物語を見かけることはあまりありませんが、アメリカ人というのは主人公がヒロインを救いに行くという物語が大好きなのですね。
 もっとも、時代が変わったせいか、最近の映画のヒロインというのは美人で気が強くて腕っ節も強いというキャラクターになっています(怪傑ゾロやパイレーツ・オブ・カリビアンをみればわかります)。このことは実社会でもそういう女の人が増えてきているということを反映しているのかもしれません。
 彼女たちが自宅の台所でゴキブリを見つけたときに、はたしてどのような反応をするのか興味がつきないところです。

 私などは、ゴキブリを見つけて叫ぶくらいなら、もっと台所をきれいにすればいいのに、といつも思ってしまいます。
 ゴキブリが人目につくようになるのは、そこで繁殖しているからであり、繁殖するには餌が必要となります。たとえば、流し台のスミにある水切りかごの中に残飯が放り込まれている状態というのは、ゴキブリを飼育しているようなものです。したがって、ゴキブリに餌を与えないように常に台所をピカピカにしておけばいいのですが、そういう発想はないのですね。ゆえに、見つけ次第、殺しても殺してもゴキブリを撲滅することはいつまで経ってもできないのです。

 あなたの奥さんや恋人がゴキブリを見つけて大声をあげているのを聞いたとき、「やれやれ」と思ったことはありませんか? 大げさにいえば、これも男尊女卑の一種であるといえるかもしれません。それは、男が女の人に対して昔から抱いていた感情の一端なのではないか、という気がします。
 
by T_am | 2011-07-18 00:01 | その他
 7月13日、菅総理が記者会見を開き、いわゆる「脱原発依存」を発表しました。そのポイントは次の通りです。

1)当面の電力不足は家庭や企業の節電により対応できる
2)原発はこれまでの安全確保の考え方ではもはや律することのできない技術である
3)原発に依存しない社会を実現すべきだ

 この発言を歓迎する人たちもいれば、猛反発している人たちもいます。反対する立場の人たちの巧妙なところは、菅総理の発言が具体的な内容を伴っていないなど公平を装っていることです。

 「脱原発依存」を実現するためには、次の2つの課題をクリアしなければなりません。

1)原発に替わる発電施設の整備と拡大
2)原発にからむ巨大な利権の解体

 1)については、天然ガスなどの化石燃料を用いた発電施設であれば十分実現可能です。しかし、太陽光や風力などの自然エネルギーを用いた発電施設となると発電効率と採算性の面での問題解決避けて通れません。(施設を設置する際に補助金をもらわなければ採算が見込めない技術というのは、技術として確立しているとはいません。)したがって、「脱原発依存」をただちに自然エネルギーによる発電に結びつけるのは早計であると思います。
 それよりも、2)の原発にからむ利権の解体の方が重要です。具体的には発電所所在地とその隣接市町村に対し支払われる交付金のこと(発電所のある自治体の公共施設がやたらと充実しているのはこの制度があるから)であり、その原資は私たちが支払っている電気料金から出ています。
 さらに電力会社は政治家に対する献金を行っているだけなく、マスメディアに対し巨額な広告費を支払いながら、主立ったジャーナリストに対しても謝礼として金銭を支払っています。そして発電所の運営のために大勢の人間を雇傭し、同時に自治体に対しても巨額の税金を納めるようにすることで、地域経済が原発に依存する体質をつくりあげきました。

 繰り返して申し上げますが、それらの原資は私たちが支払っている電気料金の中から捻出されています。そうやってつくりあげてきた原発という施設が、地震と津波によって損壊したうえで広範囲にわたって放射性物質をまき散らすものであったというのは皮肉です。しかも原発から毎年発生する放射性廃棄物の処分方法は未だに確立していないのです。

 このような利権構造が、電力供給を確保するための発電所の建設を促進するという側面があったことは否定できません。そのおかげで、日本は世界にも稀な豊かな国になったという事実は認めなければなりません。しかし、そのようにしてつくってきた原発が社会にもたらす恩恵と害毒とを天秤にかけて検証する時期にきているのではないかと思うのです。

 利権の恩恵にあずかっている人たちは、原発が必要悪であると主張しています。さらに最近は次のような指摘もされています。

A)原発を廃止し、その分を太陽光などの自然エネルギーで賄った場合、電気料金は20年代半ばには0.6円/Kwh増加する-家庭では最大2千円程度の増額となる。(ただし、大量生産が実現する30年には元に戻る見込み)
B)原発を全部停止し、火力発電で代替えした場合、CO2の排出量は年間1.8億トン~2.1億トン増加する。これは1990年対比で16%の増加を意味し、日本の義務であるマイナス6%とかけ離れた結果になる。その場合、日本は巨額のCO2排出枠を購入しなければならない。

 せっかくですから、これらの指摘に対して反論しておきます。
 まず、A)についてですが、現状でも天然ガスを使った民間発電業者の電気料金は電力会社の電気料金よりも安くなっています。それでなくとも自然エネルギーによる発電は、発電効率の低さと品質(電圧)の不安定さがあるのですから、これらの問題が解決されない限り発電方式の主力にはなりません。現実的な方策としては、原発の廃止分は当面天然ガスなどの火力発電に置き換え、その間に自然エネルギーによる発電方式の問題点を解決することに力を注ぐというものでしょう。この指摘は、電力会社の地域独占体制を前提としており、民間発電業者のシェアが今後どう変わっていくのかが考慮されていません。ゆえに、「極端な場合こうなる」くらいに受け止めて差し支えないと思います。
 次にB)ですが、これは問題のすり替えという典型的な手法です。ビジネスマンであればどなたも経験がおありでしょうが、何か新しいことを提案するときには、競合するプランとの間でそれぞれのメリット・デメリットを明記し、総合的に判断するとこのプランがもっともメリットが大きいという論理の展開をするのが普通です。ところが、この主張は原発を火力に置き換えた場合のデメリットだけを強調しており、このまま原発を続けていった場合のデメリットとの比較がされていません。
 それでも経済界に対しては、このような論理は十分説得力を持つといえます。というのは、経済の論理とは単年度で利益を最大化することが目的であり、今後数百年間続く低レベル放射性廃棄物の保管コストや数万年の間保管し続けなければならない高レベル放射性廃棄物にかかるコストなどは問題にされないからです。

 私たちは、福島第一原発の事故という経験をしているのですから、原発が社会にもたらす恩恵と危険を冷静に比較する作業が必要だと思います。そのうえで、このまま原発を推進していくのか、それとも脱原発に舵を切るのかについて、一人一人が自分の考えを持つことが大切です。

 問題は、そのための判断材料となる情報がきちんと提供されていないことです。

 私は、管直人という政治家をあまり信用してはいません。というのは、トップとしてブレーンや官僚の進言を鵜呑みにする傾向があるように思われるからです。
 ブレーンの使い方というのは、トップが持っている自分のビジョンを実現するための手法を提案してくれる人材をブレーンに据えるというのは本来のあり方です。しかし、トップにビジョンがなければ、菅総理におけるTPPへの参加や消費税増税などのように、ブレーンの意見がその時点でのベストアンサーであるということになりかねませんし、実際にそうなっていると思われます。だから、菅総理の発表はいつも唐突だと受け止められるのです。
 たとえば、浜岡原発の停止要請にしても、今後三十年間で巨大地震が発生する確率が87%もあるので、より安全を確保するためにそれまでの間原子炉の停止を要請するというものでした。一見もっとものように聞こえますが、この確率計算(三十年間で87%)が正しいのであれば、1年間の発生確率は2.9%(87%÷30年)となり、3年間では8.7%となります。それならば、ただちに浜岡原発を止める必要はないのであって、稼働させながら安全性強化の対策を実施していっても問題はないと思われます。もっとも中部電力では浜岡の安全性について反論すればよいものを、そうはしなかったのですから、もしかすると思い当たる節が中部電力にもあったのかもしれません。

 
 原発を巡る利権の構造というのは巨大かつ広範囲に及んでおり、「脱原発」を唱えた人間に対し、よってたかって潰そうという姿勢が伺えます。
 それらの勢力に対抗し、自分のビジョンを実現していこうとするならば、常に正しい情報が国民に提供される、あるいは自ら提供するということがもっとも有効な手段です。要するに、大衆を味方につけることであり、そのための武器としてタイムリーかつ正確な情報を提供するということです。
 その合間に自分の考えを発表していき、それによって世論の動向がどう変わったかを理解しておく必要があります。そうやって、世論が自分に批判的であると感じたのであれば、部分的な修正案を提示する必要があるでしょう。社会の合意形成というのはこのようなプロセスを経てなされていくのが基本ではないかと思うのですが、実際には、マスコミが繰り返し報道することによって国民に「刷り込み」を行うという情報操作がしょっちゅう行われています。
 
 この国で政権を維持していくには、世論の支持が不可欠となります。逆に言えば、世論さえ支持してくれていれば、官僚や他の政治家が敵に回ったとしても政権を維持していくのは可能だということです。

 菅総理が本心から脱原発依存を実現させたいと考えているのならば、今後情報をどう扱うかが焦点となると思います。
 
by T_am | 2011-07-17 00:51 | その他
 経団連の米倉弘昌会長が11日の会見で原発のストレステストに関する政府の統一見解に対し、机を叩いて激怒したと報じられていました。

(MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110711/biz11071118040016-n1.htm

 このまま定期点検を終えた原発の再稼働が認められなければ産業界が困るということなのですが、非常にわかりやすい人ですね。要するに、早く原発の再稼働を認めて電気の安定供給を実現させろ、といっているわけです。

 経団連という団体が、過去において、産業の空洞化について有効な対策を講じたという話しを私は利いたことがありません。同様に、非正規雇用労働者の増加に対して有効な手立てを講じたという話しも聞いたことがありません。国内の購買力が衰退すれば、それは産業界にとってダメージとなってはね返って来るであろうことは私にもわかるのですが、それをくい止めようという組織的な動きを経団連がとったという話しも聞いたことがありません。

 所詮、自分の会社が儲かれば後はどうでもいいと考えている人たちの親玉だということなのでしょう。だから、この人の発言に対して共感を覚えないのです。

 原発の再稼働が困難であり、このままでは電力不足が避けられないということがわかっているのであれば、「電力会社に頼らない電気の供給路を確保しなければならない。そのために経団連として何ができるか?」 私がこの人の立場にあるならば、そういう発想をしますが、残念ながらこの方はそういうふうには考えないようです。

 悪いのは自分ではない。すべて他人が悪いのだ。

 こういう発想をする人はどこにでもいくらでもいます。そういう発想法で問題が解決するのであれば、日本経済はとっくに景気回復しているはずですが、実際はそうではありません。経済界の不幸は、こういう人たちに大きな権限を与えているという人を見る目のなさが蔓延しているところにあるのかもしれません。不況はまだ当分の間続くように思います。
by T_am | 2011-07-11 22:18 | その他
 東京電力管内と東北電力管内で節電の協力要請が電力会社からあり、政府からは電力資料制限令が発令されています。その理由として、電力の供給量に不安があるので電力使用を15%削減してほしいというものです。(関西電力も同じことを要請しています。)

 そこで質問です。

 あなたが15%の節電に協力しなかったらどうなるのか? その場合の責任は誰が負うべきなのか?

 3.11の震災のときに、首都圏では電車が停まり大勢の帰宅難民が発生しました。そのことで鉄道各社が通勤定期の料金の一部を払い戻ししたという話しは聞いたことがありません。また、鉄道の利用者から払い戻し請求が行われたという話しも聞いたことがありません。誰もが「しかたない」と諦めているというのが現実ではないかと思います。

 JRの場合特急電車が2時間以上遅延した場合特急料金を払い戻すという取り決めがありました(今はどうか知りませんが)。これは、利用者に対して定時運行を約束するので、その対価として特急料金を徴収するという契約があるにもかかわらず、それが履行できない場合は特急料金を返還するというものであり、その基準として2時間以上遅延した場合というルールが決められているわけです。
 この場合でも、目的地まで送り届けるという「契約」は履行されているので運賃の払い戻しが発生することはありません。

 3.11の震災当日の場合、鉄道各社は線路の点検を行って列車を走らせても構わないかどうかの確認をするまで運転を見合わせるという判断は妥当であったと思います。その代わり、利用者を目的地まで送り届ける(その対価として定期券の代金を支払っている)という「契約」は履行できないわけですから、法理的にはその分の料金を返還するのが当然ということになります。
 ただし、定期券購入の際に、このような場合には鉄道会社は免責されるという条項が明示されていれば別ですが・・・・・・

 長々と書いてきましたが、同じことは電気料金にもいえるのではないかと思います。私たちが支払っている電気料金(基本料金と使用料)は、いついかなる時でも私たちが必要とするときに電気が供給されるということの対価として支払っているというふうに私は理解していました。
 ところが、震災により原発が停止しているので電力の供給量が減ってしまうので、電気の使用量を15%削減してほしいと電力会社は要請しているわけです。
 利用者かからすれば、それならば基本料金をまず15%割引するのが筋だろうと思うのですが、あなたどう思いますか?

 「電気の供給量がが不足した場合大規模停電が発生します。そうなると皆さん困るでしょう。だから節電に協力してください。」という論理なのですが、なんでそのツケを利用者が払わなければならないのだと思いませんか? 燃料代金がどれだけ高かろうが、あるいは電力会社以外の発電事業者からの電気をかき集めようが、電力の安定供給は電力会社の責任で行うべきであり、そのために私たちは基本料金を支払っているはずだと、私は思うのですが、いかがでしょうか?

 私には、やるべきことの順番が違っていると思えてなりません。つまり、電力会社は契約している家庭や企業に対して電気を供給するという責任を負っているのですから、その責任が果たせない恐れがあるときは、まずできるだけ電気をかき集めて、それでも足りない場合は基本料金の一部をユーザーに返還して節電の協力を求めるというのが筋でしょう。
 ところが、電力が不足するのはお前らが際限なく電気を使うからだといわんばかりの節電要請が行われており、はっきりいってそれは間違っていると思います。そもそも、原発の再稼働ができない状況をもたらしたの責任は誰にあるのか、それをはっきりさせるべきでしょう。
 
 そういう責任の所在を曖昧にしておきながら、家庭と産業界に対して節電要請をするというのはおかしいと思います。
 したがって、ユーザーが電力会社の節電要請などに協力する必要はないのであり、それによって大規模停電が発生した場合、家庭も企業も電力会社に対して損害賠償請求を起こしても構わないとさえ思います。仮に電力会社との契約が、このような場合には免責されるという特約があったとしても、一般ユーザーには他の電力供給事業者を選択する余地はないのですから、優越的地位の濫用であるという解釈が成立する余地は十分あると思います。
 それよりも、電力会社の責任を曖昧にしたまま節電に協力するというのは何のプラスにもならないと思います。ユーザーに対して節電への協力を呼びかけるならば電力会社の経営陣と政府高官は責任をとれと要求しても構わないとさえ思うのです。
 そういう曖昧な部分をそのままにしておくからこそ、原発事故を巡る政府の対応が迷走することになるのだと思います。

(結論)
 電力会社が基本料金の割引をしない以上、ユーザーが節電に協力する必要はない。仮に、大規模停電が発生した場合でも、その責任は電力会社が負うべきである。原発の再稼働ができないのは天災地変・戦争などの不可抗力によるものではないのだから、政府が電力使用制限令を発令しているのは違法である。法がそれを認めているというのでれば、それは悪法である。
 節電要請を社会が受け入れるというのは、電力の供給に対する責任の所在を曖昧なままにしておくことにつながるであって、これでは脱原発も進まない。


付記
 やるべきことをやらなかった。そのことで問題が発生した場合、企業の従業員出れば懲戒処分にかけれられるのが普通です。最悪の場合、その従業員は解雇され退職金ももらえないということになりかねませんが、電力会社の場合はそうではありません。私たちは世界一高い電気料を払っているのですから、もっと文句をいってもいいと思います。(文句をいわれなければ改めようとしないのがこの人たちに共通するものだから。)
by T_am | 2011-07-10 21:08 | あいまいな国のあいまいな人々