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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 ちょっと前になりますが、大阪府で君が代斉唱時の教職員の起立を義務づける条例が議会に提出されました。これについては朝日新聞の記事(2011年5月28日付 大阪版)を無断で引用させていただきます。



 橋下知事が率いる大阪維新の会の府議団が27日、君が代斉唱時の教職員の起立と、府施設への日の丸の常時掲揚を義務づける条例案を府議会本会議に議員提案した。一方、自民府議団は府施設への日の丸掲揚のみを義務づける条例案を議員提案。論戦が始まった。

 維新の大橋一功議員は「ルールに故意に従わない教師が子どもたちの模範になるとは思えない。職務を履行させるために条例化が必要だ」と提案理由を説明した。

 中西正人教育長は自民議員の代表質問に「教育委員会としては、校長と力を合わせて対応するので条例による義務づけは必要ないと考えている」と答弁。これに対し、橋下知事は本会議後、「起立して歌いなさいというのは教育委員会が2002年に決めたこと。9年たっても実行できないからしょうがない」と不満を述べた。




 自分の卒業式のときはどうだったろうかと一生懸命思い出してみようとしましたが、四十数年前に行われた私の卒業式で君が代斉唱が行われたかどうかは思い出せませんでした。これは中学校、高校でも同じです。その代わり、小学校では嫌というほど卒業式の練習をさせられました。卒業証書の受け取り方、行進のしかた、等々。
 そういう少年時代を歩んできた私が現在はどうなっているかというと、政府に対しては批判的ですが、スポーツの国際試合で行われる君が代斉唱には特に違和感を抱くということはありません。テレビのこちら側にいるのですから、起立していっしょに君が代を歌うということはしませんが、もしも自分がその会場に居合わせたなら起立していっしょに歌うことに何の疑問も抱かないだろうと思います。

 昨日は、校長の教職員に対する起立斉唱命令は合憲であるという最高裁判決が下されました。ひらたくいえば、「起立斉唱というのは単なる儀式であって個人の思想信条や世界観までも否定するものとはいえないが、日常業務の範疇ではないためにストレスを感じることもあるだろうということは理解できる。さりとて、起立斉唱命令に必要性と合理性があれば別に憲法違反というほどのものではない」というものです。

 実をいうと、そんなことはどうでもいいのであって、問題はむしろ、なぜ政治家の皆様とその意を受けた学校における管理職である校長先生が君が代の起立斉唱を職務命令とするのかということになると思います。
 この答えは明白です。なぜかというと「言うことを聞かないから」です。だから職務命令という形にして違反者には処罰をするぞと脅かしているわけです。

 言うことをきかない者にはペナルティを与えて従わせるという発想は古典的ですが、かえって面従腹背の徒を量産するだけはないかという気がしてなりません。

 政治家の皆様が、君が代に対して起立斉唱をしてくれる国民を育てたいのであれば、この国に生まれてよかった、と思われるような国づくり・まちづくりをすることがもっとも確実な方法です。この国(そして自分が住んでいるまち)に対する不平不満がなければ、儀式において君が代や日の丸に敬意を払うというのは自然に行われるものだからです。
 したがって政治家の皆様が、国記や国家に対する敬意を職務命令という形で強制するのは本末転倒であるといえます。また、それが憲法違反かどうかを問うというのもナンセンスだと思います。何の不満もなければ、日の丸や君が代に対して儀式のときに敬意を払うというのは神社で二礼二拍手一礼するのと同じくらい自然に行われるものだからです。

 それでも政治家の皆様が起立斉唱を強制したくなるのは、世の中には日の丸に正対する人と君が代を背に立つ人との二種類の人間がいるということがわかっているからなのかもしれません。

 これに対しては、小野不由美さんがその著作「風の万里 黎明の空(下) 十二国記」(講談社文庫)の中で主人公である王に次のように語らせています。ちょっと長くなりますが引用することにします。




 そして、と玉座(ぎょくざ)の王は言う。
「みんな、立ちなさい。」
 ざわ、と諸官は困惑して顔を見合わせる。おそるおそるというように、立ち上がり、身の置き場に困ったように、周囲を見渡した。
 獄座の王はそれを見渡してうなずく。側に控えた宰輔(さいほ)を振り返った。
「これは慶麒にも聞いてもらう。-わたしは人に礼拝されることが好きではない」
「-主上……!」
 宰輔の咎(とが)める声に、王はわずかに苦笑する。
「例といえば聞こえは良いが、人の間に序列あることが好きではない。人に対峙(たいじ)したとき、相手の顔が見えないことが嫌(いや)だ。国の礼節、見た目は分かるが、人から叩頭(こうとう)されることも叩頭する人を見るのも不愉快だ」
「主上、お待ちください」
 とどめた宰輔を無視して、王は諸官に下す。
「これ以後、礼典、祭典、および諸々の定めある儀式、他国からの賓客(ひんきゃく)に対する場合を除き、伏礼を廃し、跪礼(きれい)、立礼のみとする」
「主上-!」
 宰輔の制止に、王の返答はそっけない。
「もう決めた」
「侮(あなど)られた、怒る者がおりましょう」
「それがどうした」
「-主上!」
「他者に頭を下げさせて、それで己(おのれ)の地位を確認しなければ安心できない者のことなど、わたしは知らない」
 宰輔は絶句したし、諸官も呆(あき)れて口を開けた。
「そんな者の矜持(きょうじ)など知ったことではない。-それよりも、人に頭を下げるたび、壊れていくものの方が問題だと、わたしは思う」
「ですが」
「人はね、景麒」
 王は宰輔に言う。
「真実、相手に感謝し、心から尊敬の念を感じたときには、自然に頭が下がるものだ。礼とは心の中を表すためのもので、形によって心を量るものではないだろう。礼の名のもとに他者に礼拝を押しつけることは、他者の頭の上に足をのせて、地になすりつける行為のように感じる」
「しかし、それでは示しが」
「無礼を奨励(しょうれい)しようというわけではない。他者に対しては礼をもって接する。そんなものは当たり前のことだし、するもしないも本人の品性の問題で、それ以上のことではないだろうと言っているんだ」
(中略)
「地位でもって礼を強要し、他者を踏みにじることに慣れた者の末路は昇絋の例を見るまでもなく明かだろう。そしてまた、踏みにじられることを受け入れた人々はたどる道も明かなように思われる。人は誰の奴隷(どれい)でもない。そんなことのために生まれるのじゃない。他者に虐げられても屈することない心、災厄(さいやく)に襲われても挫(くじ)けることのない心、不正があれば正すことを恐れず、豺虎(けだもの)に媚(こ)びず。-わたしは慶の民にそんな不羈(ふき)の民になってほしい。己(おのれ)という領土を収める唯一無二の君主に。そのためにまず他者の前で毅然(きぜん)と首(こうべ)を上げることから始めてほしい」




 いかがでしょう。いい文章ですね。初めてこれを読んだときは感動しました。(少し補足すると、「慶」というのはこの王が治める国の名前で、「昇絋」というのは悪事を働いて滅亡した役人の名前です。)
 礼と人との関わりを鮮やかに説いた文章は初めて見ました。(物語としても面白いので、興味のある方はぜひお読みください。)

 このことを踏まえて、次回は教師の皆様に申し上げたいことを書くことにします。
by T_am | 2011-05-31 22:00 | その他
 菅内閣に対する不信任決議案がはたして提出されるのかどうかということがマスコミで取り上げられています。火のないところに煙は立たないといいますから、そういう動きがあるのでしょう。しかし、今そんなことをやってるときなのかね? と思ってしまいます。
 震災からの復興をどうするのか? また、福島第一原発の事故をどうやって収束させるのか? 課題が山積みとなっているこの時期に内閣不信任決議案を提出するということは政治的空白をつくるということに他なりません。本来ならば、この時期復興に向けたプランとそれを実現するための法案を作成して国会を通すことを最優先の課題としなければならないと思うのですが、国会議員諸氏の考えはそうではないようです。

 私自身菅内閣を評価しているわけではありません。むしろ史上最低に輪をかけた内閣だと思っているのですが、それでも政治的空白をつくることは被災地の人たちのためにならないということくらいわかります。
 菅内閣を倒したいと思っているのならば、それに代わる政策を打ち立ててから内閣不信任案を提出すべきでしょう。菅内閣の政策と自分たちの政策とどちらがすぐれているか国民の審判を仰ぐ、というのであればまだ救われるのですが、そういう動きは皆無です。
 いったい誰のための不信任案なのかと勘ぐってしまいたくなります。それを止める力がないのが口惜しいのですが、せめて、誰が不信任案を提出したのか、また誰がそれに賛成したのかを記憶にとどめておきたいと思います。こんな政治家は有害無益なのですから。
by T_am | 2011-05-30 21:52 | その他
 Excelで表をつくっていると、「#DIV/0!」などのエラー値が表示されて煩わしいときがあります。今回はエラー値を表示させない方法についてご紹介します。関数を用いる方法と前回ご紹介した条件付き数式を用いる方法とがあります。いずれも、Excelを使いこなす際の鉄則である「細かい単位に分けて考える」の応用です。

 下の図で、2つの表は同じ計算(A÷B)をさせていますが、エラー処理のやり方は異なります。上の表は条件付き書式を用いていますが、下の表はISERROR関数を使って処理をしています。


c0136904_23336100.jpg



1.ISERROR関数を用いた方法
 ISERROR関数は数式がエラーである場合「TRUE」を返す関数です。これとIF関数を組み合わせるとエラー値を表示させないようにすることができます。

(使い方)セルC11には次の数式が入力されています。
=if(iserror(C9/C10)=true,"",C9/C10)

 この式は、「C9/C10」がエラーであれば、セルには空白を表示させ、そうでなければ「C9/C10」の結果をそのまま表示させるというものです。覚えておくと便利なのですが、「C9/C10」という数式を2カ所に入力する必要があり、数式が長くなると面倒になります。


2.条件付き書式を使う方法
 セルC4に対し、次の条件付き書式を設定しています。

条件式  =ISSERROR(C4)=TRUE
書式   文字色を白くする

c0136904_2342359.jpg



 この方法は文字色を白くしているだけですから、本当はエラー値が表示されているのですが単に見えないだけです。「まあ、見えないし印刷もされないんだからおなじことでしょ。」と割り切っています。(セルC4を含む範囲をドラッグするとエラー値が見えるようになります。)

 どちらでも好きな方を使えばいいのですが、使いやすさを考えると条件付き書式を使った方が楽だと思います。というのは、このやり方だと計算式の修正が気楽にできるからです。ISERROR関数を使うやり方だと、計算式を2カ所とも修正しなければなりません。

 このように、細かい単位に分けて処理をさせて、それをうまく組み合わせるという発想をしていくと、Excelを使っていろいろなことができるようになっていきます。頭の体操みたいなところもありますが、柔軟に考えることが大切です。
by T_am | 2011-05-29 23:06 | Excel のあの手この手
 私には師匠がいて、その師匠が勧めてくれた映画「ブラックスワン」を観てきました。シネコンはゆったりと映画を観ることができますが、特に、ユナイテッドシネマはシートがいいですね。ソロシートでふんぞり返って観ることができました。

 映画を見終わって考えたのは、この映画が成立する(別のいい方をすれば「嘘っぽくない」)背景には、いくら才能があっても成功するにはそれだけは足りないという常識がアメリカ人の間にはあるのだろうということでした。

 師匠によれば「白鳥の湖」という作品は、「バレエ関係者にとっては、やはり、最終的な目標となる偉大な作品」であり、「特に、プリンシパル(主となるダンサー)にとっては、バレエのあらゆるテクニックを使いこなし、白鳥、黒鳥という全く反対のキャラクター二役を演じるという難題を試される」のだそうです。したがって、「一人のプリンシパルが、これをどう踊りきるか」が最大の見所であるだけに、逆に演じる者にとっては大きなプレッシャーになります。「ブラックスワン」ではさらに、ナタリー・ポートマン演じる主人公を自傷行為という疾患の持ち主として設定しています。つまり、それだけ難しい役柄であるということになりますから、ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞を受賞したのも頷けます。
 
 この映画には主人公を巡る重要なキャラクターとして4人の人物が造形されています。

 一人目は、かつてのプリマであり、肉体の衰えによって後進にその座を奪われることになったベス。
 二人目は、主人公のライバルで野心的なリリー。
 三人目は、かつて群舞のダンサーのまま主人公を妊娠したことによって、バレエを諦めてしまった母親。
 四人目は、バレリーナを道具としてしか見ていない監督のトマス・ルロワ

 映画では、この4人の人物との接点を通じて主人公の複雑な性格がしだいに明らかになっていくのですが、この種の映画の常として主人公の内面の変化が主題であることはいうまでもありません。そのため、この映画では様々な伏線が張られています。それらを注意深く見ていくのも楽しみ方の一つとしてあってもいいのではないかと思います。

 実をいうと、日本にもブラックスワンを扱った作品があります。山岸涼子さんの「黒鳥 ブラックスワン」という短編の少女マンガで、こちらの方は主人公の嫉妬が中心に描かれていますが、基本的な設定は映画「ブラックスワン」とよく似ています。ベスや主人公の母親を登場させ、さらに主人公を自傷行為という疾患の持ち主とした分だけ映画の方が複雑になっています。それらは作品の長さの違いですから、どちらがすぐれているということはできません。強いていえば、「黒鳥 ブラックスワン」は短編ですから。あれもこれもと詰め込むわけにはいかないのにくらべ、映画の方は108分という長時間の作品ですからそれだけいろいろな要素を盛り込むことができたということでしょう。それにしてもつくられた国も違えば時期も異なる作品でありながら、主人公がブラックスワンを完璧に演じることができるようになるには同じような「きっかけ」を必要としたという展開が描かれているのは興味深いことです。

 映画「ブラックスワン」では、成功者から敗残者かという2種類の価値基準でしか人間を見ることができないアメリカ社会の不健全さと孤独が根底にあります。これを否定することはアメリカという国の存在理由を否定することになるので、その犠牲となる個人が後を絶たないことになります。ナタリー・ポートマンはそれを見事に演じきったということでオスカーを手にしたのだと思います。

 こういうサイコ・ホラー的な映画は生理的に好かないのですが、黒鳥のグランフェッテ(片方の足で32回転する-これは師匠に教えてもらいました)は、私のような素人がみてもすごいと思いました。また、最後のシーンはいろいろと考えさせてくれるので観ておいて損はないと思います
by T_am | 2011-05-29 19:38 | その他
 東日本大震災の翌日3月12日、福島第一原発1号機でいったん原子炉に海水を注入しながら官邸が「中断せよ」と指示を下したということに関して、第一原発吉田所長の判断で実は海水注入を継続して行っていたということが判明しました。
 これについて、「現場の独断」として、吉田所長を処分すべきだという意見もありますが、とんでもないことです。
 海水注入を継続させた吉田所長の判断は「技術的には妥当」という評価が行われている一方で、「ただ、今回の対応からは、事態悪化防止を買うまで貫くという強い自負と同時に、正しいとおもうことなら合意や説明は省いても構わないとのおごりも透ける」という批判もあります。つまり、原則論で批判しているわけです。
 平時であればこういう批判も妥当でしょう。吉田所長もサラリーマンなのですから、現場が上の指示に従わなければ組織が崩壊してしまうということくらい百も承知しているはずです。
 しかし、対応如何によっては大災害を引き起こすかもしれないという緊急の局面で、いちいち上に対して合意を得たり説明をしていられるか、ということを考えなければなりません。(それでも状況の報告というのはその都度必要です。)
 それはおかしい(あくまでも現場は本部の指示を仰いで行動すべきだ)というのであれば、決定できる人間が本部から現地へ行って張り付くという体制をとらなければいけません。
 こういう状況は戦闘と同じですから、刻々と変化する局面に応じてどういう行動をするかは現場の指揮官が判断していかなければなりません。にもかかわらず、司令部に対して「敵が攻めてきました。応戦してもよろしいでしょうか?」とか「敵がわが軍の右翼に展開してきました。対抗上右翼の守りを厚くしようと思いますがいかがでしょうか?」などとお伺いをたてていたら、部隊は全滅してしまいます。
 今回の事故対応については、戦闘時の現地指揮官と後方の総司令部の役割分担のあり方が参考になると思います。すなわち、実際の作業(応急処置も含む)は現場の所長に指揮をさせ、総合対策本部の役割は、事故をどのように収束していくかという方針を立てた上で、必要な資材と人員をタイミングよく投入していくというものです。
 そういう目で見ていくと、今回設けられた総合対策本部という組織に対して官邸がしょっちゅう介入している様子が目につきます。これでは指揮系統が混乱するのも当然であり、その象徴的な出来事が、官邸による「海水注入を中断せよ」という指示です。海水の注入中不測の事態が起こって現場判断によって中断したというのならわかりますが、こういう判断は現場の指揮官に任せておくべきことであって、官邸が口出しをするレベルの事案ではありません。
 
 今回、吉田所長が行ったのは命令違反です。にもかかわらず東電社内でも吉田所長を擁護する声が高まっているというのは、非はどちらにあるかがわかっているからです。すなわち、東電本店が官邸の圧力に屈して本来行ってはいけない命令を出してしまったということです。おそらく「総理が『中断しろ』というんだからしかたないじゃないか」という心理が働いたのだと思いますが、これは東電本店の責任放棄にほかなりません。責任を放棄した者が何のお咎めも受けずに、自分の責任を果たそうとした者だけが処分されるというのはおかしなことではありませんか。
 東電自身もあれは理不尽な指示だったとわかっていますし、誰よりも菅総理自身がそのことに気づいているようですから、吉田所長に対する処分としては形式的なものになるだろうと思われます。
by T_am | 2011-05-29 07:29 | その他
 ExcelのIF関数はとても便利な関数ですが、セルの値を変更することはできても書式を変更することはできません。セルの書式を変更したければ、条件付書式という機能があるので、今回はその使い方と設定した条件付書式のコピーについてご紹介します。
 条件付書式の使い方は2通りあって、当該セルの値に応じて書式を変化させる方法と、数式の結果に応じてを変化させる方法とがあります。条件を数式で設定すると、他のセルの値に応じて書式を変化させることもできるようになります。

(基本的な使い方)セルの値に応じて当該セルの書式を変化させる
【例題1】テストの点数が40点未満のときに点数を赤く表示させる

 下の図で点数が40点未満は菅曲人クンだけですから、彼の点数だけを自動的に赤く表示させるというものです。
 

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まず、このように条件付書式を設定したい範囲をドラッグします。

 次にExcel2007、2010ではホームタブにある条件付書式をクリックして、下図のように選択します。(Excel2003より前のバージョンでは、「書式」メニューの「条件付書式」を選択します。)


c0136904_21481594.jpg



 40点未満の点数が対象ですから、下図のように「<40」と入力して、「ユーザー設定の書式」を選択します。(Excel2003より前のバージョンでは、「セルの値が」「40」と入力、「未満」を選択します。、


c0136904_21542279.jpg



 セルの書式設定で、文字の色を赤く選択すると次のようになります。ちなみに、点数を40点未満(赤点)に変えるとそれに応じて文字色も自動的に赤くなります。


c0136904_21493428.jpg




(応用編 式を使った条件設定)

【例題2】平均値以下の点数を赤く表示させる
 前の例題は、条件に固定値を設定する場合のやり方です。実際には、条件の設定は同じでもその都度数値が異なるという場合もあるので、その場合は条件を式で設定します。

 下図のように、
①条件付書式を設定する最初のセルを選択して、「条件付書式」を選択し、
②「その他のルール」を選択します。(Excel2003までは、「セルの値が」のかわりに「数式が」を選択します。)


c0136904_21495983.jpg



③下図のように、「数式を使用して、書式設定するセルを決定」をクリックします。
④次に、「次の数式を満たす場合に値を書式設定」とある下の枠内をクリックします。
⑤そして数式を適用するセルとしてD3をクリックします。
⑤すると枠内に「=$D$3」と入力されるので、「=$D3」と修正します。


c0136904_21505559.jpg



⑥続けて、「=$D3<average($D3:$D8)」と入力します。 
 この数式の意味は、「セルD3の値が、セルD3からD8の平均値よりも小さければ」という条件であることを示しています。

⑦「数式」ボタンをクリックして文字色を赤くします。
⑧「OK」をクリックすると、数式を使った条件付書式の設定が完了します。
⑨最後に、セルD3の書式を、セルD4からD8に「形式を選択して貼付」によって、書式だけをコピー・貼付けします。(書式のコピーをするために⑤の操作が重要なポイントとなります)



【例題3】平均以下の点数をとった生徒の氏名欄を赤く表示させる
 前回までの例題では、点数のセルの値に応じてそのセルの書式を変化させるというものでしたが、Excelでは、他のセルの値を参照して選択中のセルの書式を変化させるということもできます。

①氏名の最初のセルを選択して「条件付書式」のルール設定を開きます。
②「次の数式を満たす場合に値を書式設定」の枠内に次の数式を入力します。

  =$D3<average($D3:$D8)


c0136904_21513564.jpg




③「書式」ボタンをクリックして、書式の設定を行います。

④設定した条件付書式を、「形式を選択して貼付」によって他のセルにコピーします。
 すると下図のように、平均点以下の点数をとった鳩海クンと菅クンの二人が自動的に強調表示されます。


c0136904_2152516.jpg



 なお、条件付書式は1つのセルに複数の設定ができます。この例でいえば、平均点以下の生徒の名前を赤く表示させる一方で、90点以上の優秀な生徒については別な色で強調表示させることも可能です。


(まとめ)
 IF関数は条件に応じてセルの値を変化させる関数ですが、条件付書式は条件に応じてセルの書式を変化させるための機能です。これをマスターすると、データの入力に応じて自動的にセルの書式をすることができるので、わかりやすい表をつくる際には便利な機能であるといえます。(条件付書式を知らない人にとっては魔法のように見えるはずです。)
 その機能を使いこなすには、条件を数式で設定できるようになることが必要であり、それができるようになると鬼に金棒といってよいでしょう。
 そのために覚えておきたいのは、次の2つです。

①数式の中では関数を使用することができる。
②条件付書式をコピーするには、行番号(もしくは列名)の前についている「$」を外してから、「形式を選択して貼付」によって書式のコピーをすればよい。

 なお、数式の途中で文字列を扱いたいときは、文字列を ” ”で囲ってください。
by T_am | 2011-05-27 22:03 | Excel のあの手この手
 福島第一原発の事故がもたらした影響の大きさから、原発を忌避する動きが広まっています。新潟でも柏崎原発で定期点検中の原子炉の再稼働には知事が慎重な姿勢を示しており、他の地域の原発でも同様の動きがあるようです。
 原子炉は13ヶ月経つと、停止させて定期点検しなければならないそうですから、定期点検中の原子炉が再稼働されないままだと、来年中にはすべての原子炉が停止するという事態に陥るとのことです。そうなれば今年以上の節電に取り組まなければならなくなりますから、今から覚悟しておく(企業によっては対策を講じておく)ことが必要でしょう。

 政府と東電は、福島第一原発の事故は想定を超える津波に襲われて非常用発電機やバテリーが停止したことが原因だと発表しています。言い換えれば、大きな地震に襲われても津波さえ来なければ原発は安全であるということになりますから、そういわざるを得ない立場なのだということがわかります。事故がなぜ起こったのかは、今後調査委員会が解明することであり、事故の当事者である東電の発表を鵜呑みにするわけにはいきません。

 原発の危険性について、私は次のように考えています。

(1)原子炉の弱点
 普段でも放射能漏れという事故が散発的に起きており、原子炉のシステムの弱点は原子炉本体よりもむしろ複雑で繊細な配管の方にある。

(2)設備の耐震補強
 安全対策は、原子炉圧力容器と格納容器といった原子炉本体に目が向けられているが、周辺設備の耐震性がどこまで強化されているのかはわからない。建物や格納容器などの「器」には耐震基準が設けられているけれども、内部の配管や電気系統といった「設備」とその設置工事にはそもそも耐震基準など存在していないのではないか?

(3)原子炉の事故
 原子炉本体が無事でも、周辺の設備が損傷すれば原発の事故は免れない。なぜなら原子炉というのは冷却装置まで含めた巨大な装置なのだから。

(4)原子炉本体だけを守るのは本末転倒
 現在の安全設計の考え方は原子炉本体である圧力容器と格納容器を損傷させないというものである。これらを守るために、他の設備が犠牲になってもやむを得ないという「割り切り」が行われている。その結果、放射性物質を外部に放出することになる。(格納容器の圧力を低下させるために行われる「ベント」の実施は、原子炉本体を守るためには、放射性物質に汚染された水蒸気を格納容器のそとに放出することも厭わないというものです。また、水素爆発によって原子炉建屋の屋根が吹き飛んだのは、爆発の衝撃波を上部に逃がすような設計になっていたからです。そうでなければ格納容器が損傷してしまうと考えたのでしょう。原子炉本体を守るという考え方に基づけばこの設計は正しいということになります。その代わり、大量の放射性物質を原発の敷地外にもまき散らすという事態を招いてしまいました。)

(5)冷却は止められない
 原子炉は運転を停止していても、内部に核燃料がある限り常に冷却装置を動かしていなければならない。冷却装置が止まれば事故は起こる。

(6)定期点検の意味
 運転して13ヶ月経った原子炉に定期点検が義務づけられているというのは、それだけ内部の設備の消耗が激しいことを意味している。点検によって、消耗して脆くなっている配管などの部品を交換することを目的としている。原子炉の運転中に巨大地震が発生すれば、これらの脆くなっているところにダメージが集中する可能性は否定できない。そうなれば、福島第一原発のような事故が再び起こることになる。

 
 福島第一原発の事故がこれほどまでに大きなものになった理由は、地震によって配管(おそらく格納容器や圧力容器も)に損傷が発生し、そこから冷却水が漏れることで圧力容器内の水位が下がり、燃料棒が露出してしまったことによると考えられます。制御棒の挿入によって核分裂は停止したものの、露出した燃料棒は自らの崩壊熱によって高温となりました。その結果、燃料を覆っているジルコニウム合金と水蒸気が化学反応を起こし、大量の水素が発生しました。それが原子炉建屋内に漏れたところで水素爆発を起こし、原子炉建屋を破壊し、大量の放射性物質が空気中に放出されることになったのでしょう。さらに燃料被覆菅の損傷は内部の燃料が圧力容器の中に流れ出すメルトダウンを引き起こしてしまいました。一方、原子炉を冷却するために放水作業が続けられてきましたが、それらは核燃料の中に含まれる放射性物質に汚染された後、配管や格納容器などの損傷部から次々と漏れ出すことになりました。

 このように考えてくると、原子炉でもっとも脆弱な部分は配管部であることがわかります。これが損傷すれば燃料棒の冷却機能が失われてしまいます。ゆえに、原子炉の事故対策というのは、巨大地震が来ても配管や圧力容器などの「冷却水を覆っている設備が損傷しない」ように改善することが必要であるといえます。
 ところが、原子炉の運転中にこれらの作業を行うわけにはいきません。一旦停止させなければできないのです。
 そうかといって、ただちに全部の原子炉を止めるというのは早計です。原発が一斉に停止すれば経済や社会に与える影響がそれだけ大きくなるのですから、むしろ計画的に取り組んでいくべきでしょう。これまで発表された事故対策は、非常用電源の確保や津波に備えた防潮堤の建設が中心であり、そういう取り組みが無駄であるとは思いませんが、肝心な部分がなおざりになっているように思えてなりません。

 原発には構造上の弱点があって、それが軽視されている限り、同じような事故が起こる可能性は否定できないと思います。これが原発の推進に反対する理由の一つです。


 2番目の理由は、原発から発生する核廃棄物の問題です。放射性廃棄物には低レベル放射性廃棄物と高レベル放射性廃棄物の2種類があります。どちらも生物にとって危険な量の放射線を出しているにもかかわらず、ゴミのように燃やしてしまえばそれで終わりというわけではありません。
 低レベル放射性廃棄物の場合およそ300年、高レベル放射性廃棄物にいたってはおよそ2万年もの間厳重に保管されなければならないのです。(ただし、保管場所は未だに決まっていません。)
 それだけの長い期間、放射性廃棄物を保管するコストは膨大なものとなります。今はともかく、将来そのコスト負担するのは、私たちではなく私たちの子孫に他なりません。けれども、現代人の多くはそのことを知りません。今の生活水準と啓司成長を維持していくためには原発が必要なのだといわれれば、なんとなくそんなものかと思ってしまいますが、その代償としてコストを子孫に負担させることになるのです。
 さらにいえば、300年間の厳重保管というのはひょっとすると可能かもしれませんが、2万年ともなると、これまでの人類の歴史よりも長いのですから、その間に何が起こるかわからないと考えるべきでしょう。高レベル放射性廃棄物は地層処分といって、地下に大規模な保管所を設けて貯蔵する計画を進めようとしています(まだ実現はしていません)。いくら地中が安定しているといっても、地震国日本のことですから、2万年もの間地震の影響を受けないと断言できるのでしょうか。万一高レベル放射性廃棄物が漏れ出すという事故が起これば、その後始末をするのは私たちの子孫なのです。

 これらの放射性廃棄物は原発が稼働を続ける限り増え続けていきます。2万年もの間、きちんと保管できるかどうかわからないのに、高レベル放射性廃棄物を毎年出し続けているというのが原子力発電です。これはどう考えても、まともな人間のやることではありません。これが原発推進に反対する2番目の理由です。

 以上のことから、今後新しい原発をつくるのはやめて、現在稼働中の原発も耐用年数が過ぎたものから順番に廃炉にしていく(その間大きな事故が起こらないように、定期点検中に耐震補強を続けていく)という考え方がもっとも現実的であると考えます。原発は危険だからただちにすべて廃止せよという考えがあることも理解できますが、ただちにすべて廃止といっても廃炉まで10年単位の年月が必要です。その間事故が起こる危険性は残る(原子炉を停止したからといってそれで安全になるわけではない)のであり、リスク管理も含めたコストを捻出しなければなりません。しかも原発に代わる発電設備を確保しなければ社会や産業に与える影響は大きなものになります。それならば、時間をかけて少しずつ縮小していくというのがもっとも摩擦の少ないやりかたでしょう。小さな船が方向転換するのは簡単にできますが、大きな船を方向転換させるのは大変な苦労を伴うのです。

 原子力行政の問題点は、都合の悪い事実はさりげなく発表し、都合のいい事実を宣伝に使うというところにあります。その結果、本来いわなければならないことが何も伝えられていなかったという実態が今回の事故で次々と明らかになりました。
 最近になってようやく東電はメルトダウンや地震によって配管や格納容器が損傷していたことを認めました。しかし、そんなことは3.11の後で何が起きてきたかを見ていればもっと早い段階でわかっていたはずです。東電がそのことに気づいていないはずはないので、発表してもそれほど騒ぎが大きくならないタイミングを見計らっていたのだろうと思います。これに関しては政府も関与しているものと思われます。
 今回政府と東電が行っていることをまとめると次の通りです。

・国民の安全や生活よりも事故の収束を優先している。
・起こったことを淡々と発表し、それが何を意味するかについては過小評価する。
・環境に対する影響について調査しなければならないのに、数値が小さくなるような調査手法を繰り返している。または調査そのものをしようとしない。
・その結果、とらなければならない対策が不十分なものになったり、あるいは何も行われていないという事態を招いている。

 こうしてみると、政府には「(国民に)知らせなければ騒がれない」という金科玉条でもあるのではないかと思われます。(ただし、知らせなければ騒がれないという考え方は民間にも広く蔓延しているといえます。)政府を監視する役目を負ったマスコミがその点機能していないので、「大本営発表」などと週刊誌から揶揄されるわけです。
 幸いなことに、日本にも志を持ったジャーナリストたちがいて、彼らが伝えてくれる情報によって、政府や東電の発表はおかしいのではないかということに気づかされます。(これらのジャーナリストに対し、デマを流し不安を煽っているという誹謗があることも事実です。)
 これらのジャーナリストたちが伝えてくれることを受け入れるかどうかは自分で判断しなければなりません。単に鵜呑みにするだけでは今までと同じであり、鵜呑みにする対象が政府からフリー・ジャーナリストに代わっただけのことに過ぎません。

 大事なのは、自分で考えること。そうやって、自分で考えたことであれば、いろいろな考えが出てくるのは当然のことです。多様な意見がオープンになっていけば、やがてその中で必ず方向性が定まってくるようになります。時間と手間のかかる手続きですが、他人任せにするよりはよほどマシであると思います。
 私たちの気持ちの中には、政府に任せていればそれほどひどいことにはならないだろうという思いがありますが、いざというときに政府はほとんど何もしてくれないということが今回の件でよくわかりました。そこで政府を責めても日本がよくなるわけではありません。それよりも自分が変わる方が先だと思うのです。
by T_am | 2011-05-27 05:55 | その他
 昨夜のNHKニュースで、南相馬市の避難者を対象にした「一時立入り」が始まったと伝えられていました。集合場所の体育館で防護服を着込む様子が映されていて、アナウンサーが「放射線から身を守る防護服を着て・・・」と喋ったのには驚きました。
 
 テレビで何度も映されている白い防護服には放射線を遮断する機能はありません。これは、放射線管理区域内で放射性物質が人体に直接付着するのを防ぐためのものです。用が済んで放射線管理区域から出てきたときに、防護服を着ていると放射性物質の除染が容易にできるというものです。
 大胆にいってしまうと、外部被曝は避けられないけれども、体内に放射性物質が入り込むことだけは阻止しようというのが、あの白い防護服です。

 NHKのアナウンサーが間違ったことを伝えたのは、単なる無知と思い込みによるものでしょうが、マスコミが正しいことを伝えるわけではないという事例の一つです。こういうことは案外多いので、マスコミ報道を鵜呑みにしない方がよいと思います。
 
by T_am | 2011-05-26 06:43 | その他
 前回、電気自動車の盲点について書き込みをしたところ、私の友人たちが次のような指摘をしてくれました。

 電気自動車は、交換バッテリータイプにして、バッテリーの共有化、コンビニ充電したバッテリーと交換できるようなシステムの構築をすれば、安心なのです が・・・
 ガソリンを買うように。
 電気自動車購入者は、予備バッテリーを強制的に購入してもらい、システムの中に預けておく等も必要かな。
 ニワトリが先か、タマゴが先か?
(以上、アラカワさんの指摘)

まったくそのとおりです。
イスラエルで実証実験がスタートしました。
そのシステムはそのとおりのかたちです。
①バッテリーを交換する。
②急速充電する
③観測充電する
の三択から電気供給スタンドで選びます。
スイスとドイツでも始まりました。
日本でもスタートしないかなあ。
(以上、セイヤさんの指摘)
 


 発想の転換ですね。感服しました。
 電気自動車といっても実は電池で動くのであり、電池がなくなれば動かなくなります。だったら電池がなくなる前に「電池ごと交換すればいい」という発想は素晴らしいと思います。
 私のような凡人は、充電しなければ電池は使えないと考えてしまいます。でもスタンドに寄って、あたかもガソリンを給油する感覚で充電済みの電池と交換すれば、そのまま走り続けることができるわけです。すなわち、どれだけ電気を使おうとも気にする必要はないということですから、実現すれば電気自動車の普及に大きく寄与することになると思います。
 その代わり、現在設置が進められている無料の充電スタンドは意味を為さなくなるように思います。というのは、電気自動車の普及率が高まれば高まるほど、無料の充電スタンドは、1時間待ち・2時間待ちといったように不便になるからです。しかも、よく考えてみると、充電スタンドの場合、自分の順番が来るまでの時間待たなければいけませんし、ようやく順番が回ってきたとしても、充電完了までの時間待たなければなりません。
 このような施設は電気自動車のユーザーにとっては不便極まりないといえます。また、充電スタンドが1日に供給できる電気自動車の台数は限られます。ゆえに、ビジネスとしてみたときに、無料の充電スタンドいうのは設備投資とコストの回収が見込めない状況に陥る可能性が高いといえます。
 あとは1回のバッテリーの交換費用と走行距離、すなわち燃費がユーザーにとってメリットがあるかどうか、ということに尽きると思います。
 現在、行政が設置を進めている無料の充電スタンドというのは、いってみれば慈善事業のようなものですから、設置者に無理を強いるようなものです。このようなモデルがいつまでも続くとは思えません。ゆえに、このようなモデルを追求する限り、日本の電気自動車の普及は早晩行き詰まると思われます。
 そういうことを気づかせてくれる、目からウロコのような指摘でした。やはり、持つべき者は友だちであると思いました。
by T_am | 2011-05-24 22:33 | 科学もどき
 自動車はガソリンか軽油で動きます。これに対して電気自動車は電池に蓄えられた電気がエネルギー源となっています。現在のところ、この違いはとても大きなものがあります。

 自動車はガソリンや軽油を爆発的に燃焼させてエンジンを回すことで動きます。エンジンの回転は、車輪だけでなく発電機とコンプレッサーも回します。発電機はバッテリー(始動時のセルモーターを回す電源)を充電するだけでなく、ライトやウィンカー、オーディオといった電装品を動かす電気を供給します。また、コンプレッサーが回ることでエアコンをつけることができますから、夏の暑い日でも快適に走ることができます。さらに、自動車のヒーターはエンジンの排熱を熱源としています。化石燃料というのは、それだけパワーを持ったエネルギー源なのです。

 これに対して電気自動車のエネルギー源は電池に蓄えられた電気だけです。その電気が全部モーターを回すことに使われるのであれば、1回の充電で走ることのできる距離は長くなります。ところが、この電気がライトやヒーター、エアコンなどを動かすエネルギー源として使われることになると、走行距離はその分だけ短くなります。特に冬場のヒーターとなると、電気ストーブ(家庭で使うと電気代が高くなる)で熱した空気を扇風機で車内に送り出すようなものですから、かなり電気を喰うであろうことは容易に想像できます。

 その分だけ走行距離は短くなるのですから、ユーザーはまめに充電しなければならないということになります。

 省エネのためと称して電気自動車を購入した地方自治体がありますが、もしかしたら今頃臍をかむ思いをしているかもしれません。ガソリン車やディーゼル車の感覚で、エアコンやヒーター、オーディオをガンガンかけて走っていると、バッテリーの残量がみるみるうちに減っていくのですから。
 充電スタンドはまだ珍しい方ですから、不幸にしてバッテリー切れで立ち往生するとレッカー車に来て貰わなければなりません。すぐ近くまで行くというのであればともかく、ちょっと遠出をするときは、いつ止まるかわからないという恐怖と背中合わせで運転しなければならないのです。
 かくして、電気自動車に乗るには次の心得が要求されるようになるかもしれません。

・ヒーターはつけない(我慢する)
・エアコンはつけない(我慢する)
・カーステレオやラジオもつけない(我慢する)
・夜間のライト。これは点けないわけにはいきません。その代わり、電気自動車の夜間使用禁止とするところも出てくるかもしれません。
・シガーライター(使用禁止。どうせソケットのみでライターはオプションでしょうから。)
・カーナビ(そもそも装備されているのでしょうか?)

 ここに書いたことは、バッテリーの容量が劇的に改善されれば解決します。技術の進歩というのは侮れないものがありますから、今は世の中に存在していなくても10年単位で見たときに、いつの間にか登場しているということが起こりうるのです。
 そうはいっても、いくらエコだからといって、今すぐ電気自動車に飛びつくのは大変な苦行を強いられるという覚悟が必要であると申せましょう。
 そういうものだと知っていて購入するのと、知らないで買うのとでは天と地ほども違います。
 新製品というのは、出始めの頃は価格も高く性能も劣ります。庶民が手を出すのは、広く普及してからで十分だと思うのですが、いかがでしょうか?
by T_am | 2011-05-23 22:32 | 科学もどき