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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 先日、セイヤさんからメールに添付されて送られて来たExcel のファイルが開けないということが起こりました。添付ファイルを開こうとすると「ファイルが破損しているため開くことができません。」というメッセージが表示されて、開くことができないのです。 セイヤさんに何度も送り直してもらいましたが結局ダメでした。
 そこで、この問題の解決方法をネットで調べたところ、下記のサイトが見つかりました。


http://bbs.kakaku.com/bbs/K0000107181/SortID=11574610/


 ここに書き込みをされていらっしゃる方たちのおかげで、対処方法がわかりました。お礼を申し上げます。
 その対処方法というのはExcel2010 の設定を変更するというものであり、念のため以下に記しておきますが、他に方法はないものかと思って試行錯誤を重ねたところ解決方法が見つかったので一番最後に書いておきます。

(Excel2010の設定の変更方法)
1.Excel2010を立ち上げる。
2.「ファイル」タブをクリックして「オプション」をクリック。
3.「セキュリティセンター」をクリックして、右側に表示される「セキュリティセンターの設定」ボタンをクリック。
4.「保護されたビュー」をクリックして、右側にある「保護されたビュー」のチェックをすべてはずして「OK」ボタンをクリックする。
5.「アドイン」(セキュリティセンターのすぐ上にあります)をクリックして、「ソルバー」や「分析ツール」が有効になっていることが確認できた場合、下にある「設定」ボタンをクリックして、「ソルバー」と「分析ツール」を無効にする。
6.Excelをいったん閉じて、送られて来たファイルをダブルクリックすると開くことができます。

 なお、「ソルバー」や「分析ツール」を有効にしていなければ、5.の手順は不要です。
 それでも、セキュリティに変更を加えるのはちょっと不安が伴いますし、便利な「ソルバー」や「分析ツール」を無効にするというのも惜しい気もします。後で再度有効にすればいいのかもしれませんが、手間がかかります。
 そこで、このサイトに記載されていた別な方法もご紹介しておきます。

(ファイルの作成者を変更する方法)
1.送られて来たファイルを圧縮する。
2.それを解凍してダブルクリックすると、ファイルの作成者が自分に変わっているので問題なく開くことができます。

 以上の方法が載っていました。どのやり方でも送られて来たファイルを開くことができます。この方法を発見された方に感謝申し上げます。

 以下にご紹介するのは、別な方法です。(ちなみにOSはWindows VISTA です。)

(送られて来たファイルのプロパティを変更する方法)
1.送られて来たファイルをいったん保存します。
2.保存したファイルを右クリックして、「プロパティ」を選択します。
3,下図の画面になるので、「セキュリティ」のところに、「このファイルは他のコンピュータから取得したものです。・・・・・・」というメッセージが表示されていることを確認したら「ブロックの解除」ボタンをクリックします。


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4.次に「適用」ボタンが有効になるので、これをクリックすると、メッセージが消去されるので、「OK」ボタンをクリックします。


c0136904_1553259.jpg




c0136904_157222.jpg




5.ファイルをダブルクリックすると、問題なく開くことができるようになります。

 この方法だと、Excelの設定を変更する必要がありません。その代わり、ファイルをダブルクリックする前に、ワンクッション作業が入ることになります。
 
 いつも申し上げるように、Excelには、これが唯一の正解という方法はありません。どれを選んでもいいのです。
 ネットからダウンロードしたファイルや送られて来た添付ファイルが開けないという方は一度試してみてください。


(補足)
 Excel2010では、自分以外の人が作成したファイル(メールに添付されたファイルやWebサイトからダウンロードしたファイルなど)を開くときは、セキュリティセンターによってチェックされ「保護されたビュー」で開かれます。このとき、上部にメッセージバーが表示され、銭湯に黄色い盾が表示されている場合は「編集」をクリックすることで編集可能となります。(赤い盾が表示されている場合は危険なファイルとみなされているため編集できません。)
 それだけセキュリティが厳重になったということなのですが、ソルバーや分析ツールといったアドインをオンにしていると、この種のファイルを開こうとしたときに、「ファイルが破損しているため開くことができません」というメッセージボックスが表示され、「保護されたビュー」が起動しないまま、ファイルを開くことができなくなるという問題が発生します。
 これはExcel2010のバグだとみなしてよいと思いますが、今のところマイクロソフトからはこの問題を修正するアップデートは公開されていません。そのため、この問題が発生しているユーザーは、(私が知る限り)ここに記載したいずれかの方法をとらなければ問題を解決することができません。
 もっとも、この問題が発生しているユーザーは、アドインをオンにするなどExcelをかなり使いこなしているユーザーがほとんどだと思われるので、ネットで調べるなどして自分で問題を解決できるだけの能力を持っている人だと考えてよいと思います。
 とはいうものの、Excelのこのバグは二重のバグであると思われます。
 二重のバグという理由は、第一に、「保護されたビュー」が起動しないこと。第二に、「ファイルが破損しているため開くことができません」という誤ったメッセージが表示されること。この2つの問題が同時発生しているからです。特に2番目の、事実と異なるメッセージを表示してしまう問題はユーザーを混乱させるだけでなく、ファイルの作成者にも迷惑をかけることになりかねないだけに深刻です(私の場合、セイヤさんに再送信してもらうなど余計な手間をかけさせることになりました)。

付記
 その後Microsoft社からも、この問題の解決方法がアップされるようになりました。

http://support.microsoft.com/kb/2387587/ja
by T_am | 2011-02-28 01:58 | Excel のあの手この手
 ExcelはたぶんWindowsパソコンでもっとも多用されているソフトだろうと思います。パソコン雑誌には必ずExcelの活用のしかた(テクニック)に関する記事が掲載されているので、その人気の高さがわかります。
 人気の理由は自習が容易であること。そして、新しいことを覚えるとExcelでできることが広がっていくことが体感できるところにあるのだろうと思っています。

 この記事をお読みのあなたもExcelの面白さに取り憑かれた一人であろうと思います。おそらく職場では、Excelを使った表作成を頼まれる立場にあるのではないでしょうか?

 ここで、ちょっと考えていただきたいのは、あなたがどんなに超絶技巧的なテクニックを駆使して表を作成しても、印刷してしまえばそれがわからなくなるということです。この事実をどのように受け止めるかによって、あなたとExcel(ひいてはパソコン)との関わり方が決まってくるといってもよいと思います。
 「自分がどんなに苦労してこの表を作成したのかが誰にもわかってもらえない。空しい。」と思うと、あなたの意欲はそこで失われてしまいます。
 一方、こういうふうに考えることもできるのです。

 印刷してしまえば、どのようにしてその結果が導き出されたのかわからなくなるのだから、どのようなやり方をしても(結果が正しければ)構わないのだ。

 こういうふうに考えると、Excelを使って表やグラフを作成するときには唯一の正解というものは存在しないということがわかります。正解に至るルートは複数あるのであり、重要なのは、そのときそのときでどのようなやり方があるのかがわかるようになることです。したがって、テクニックの手順を覚えるよりも、その考え方を理解した方が応用範囲は飛躍的に広がっていきます。それによって、あなたがExcelをつかいこなして実現できることも広がっていくことになります。

 一例をあげましょう。
 Excelでは文字色を好きな色に指定することができます。通常は黒ですが、強調したいときは青や赤を指定するという使い方をしている人は多いのではないでしょうか。そこで、文字色を白に指定したらどうなると思いますか? そう、その部分は画面にも表示されませんし、印刷してもわからないままとなります。
 このことを覚えておくと、表作成のために絶対に欠かすことはできないけれども、他の人には見せる必要がない計算式や表を隠すことができるようになります。このような場合、通常であれば列や行を非表示にするのですが、表のレイアウト上それができないときがあります。そのようなときにこれが効果を発揮することになります。

 白い文字は、白い紙や白い画面ではわからない。同様に、黄色い文字は黄色い画面や黄色い紙ではわからない。

 今後、不定期になりますが、Excelにおけるこのような違ったやり方について、思いつくままにご紹介していこうと思います。それが参考になれば幸いです。
by T_am | 2011-02-25 07:40 | Excel のあの手この手
 チュニジアのジャスミン革命を発端にした反政府デモはエジプト、イエメン、イラン、リビア、バーレーンにも飛び火しました。共通するのは、貧窮に苦しむ民衆と権力者の腐敗です。この2つは革命の土壌になりますが、それだけでは革命は起こりません。

 腐敗した権力と抑圧された民衆の怒りという対立構造はマスコミが好んで取り上げていりところです。それは的を射ているといえますが、革命というのはそれほど単純なものではありません。革命に参加する人は誰でもその人なりの思惑を持っているのですから、政権打倒という共通の目的の下に一時的に結集することはできても、それが実現したときには主導権争いが起こるのが常です。フランス革命、ロシア革命、中共革命、どれをとっても革命後の主導権争いは血なまぐさいものがありました。そういえば、日本でも明治維新後に佐賀の乱、萩の乱、神風連の乱が起こり、最後に西南戦争が起こりました。革命というのは巨大なエネルギーを伴うだけに、そのエネルギーを鎮めるには政権を打倒するだけでは足りないのかもしれません。

 群集心理を操作するコツは、フラストレーションが溜まる状態にしておき、タイミングを見計らって「これだ!」というものを示してやることです。つまり、エネルギーが充分溜まった状態を見計らって、そのエネルギーに指向性を与えてやることだといえます。それは必ずしも真実でなくてもいいのであって、人々が信じ込むだけのリアリティーがあればいいのです。
 ベルリンの壁崩壊のきっかけは、東ドイツ政府のスポークスマンによる「東ドイツ国民はベルリンの壁を含むすべての国境通過点から出国を認められることになった」という軽率な発表でした。また、昭和金融恐慌も「東京渡辺銀行がとうとう破綻いたしました」という大蔵大臣の誤発表(実際には、東京渡辺銀行の役員が「何らかの救済策を講じてもらわないと今日にでも休業に至りかねない」と大蔵省に陳情に来ただけ。それが大臣に誤って報告された)によるものでした。
 これらは意図して行ったものではありませんが、火薬庫に火のついたマッチを放り込むような結果をもたらしました。
 なんでこんなことを書いているのかというと、いずれ人々を煽動しようとする者が現れれるだろうと思うからです。冷静に見ていれば、そのやり口は共通していることがわかるということを申し上げているのです。

 タイやモルドバでは以前から反政府運動が行われています。今回チュニジアとエジプトでは大統領を追い出すことに成功しました。それは両国の国民にとって慶賀すべきことなのだろうと思います。しかし、自分たちで政権を倒した以上、その責任は自分たちが負わなければなりません。その意味で革命というのは新たな困難の始まりであるといってよいと思います。

 チュニジアに始まった反政府運動は中東のほぼ全域に拡大しています。いずれもフェイスブックやツイッターといったソーシャルメディアの果たしている役割が大きいと伝えられています。ソーシャルメディアは従来は想像もできなかったほど速やかに情報を伝えるツールとして、その機能を遺憾なく発揮しています。そのため政府はネット情報の遮断を試みるのですが、かえってそれが民衆の反撥を招くという結果に終わっています。
 したがって、チュニジアやエジプトの成功事例をもって、これはソーシャルメディアやインターネットによる革命であると評価する人もいます。けれどもインターネットやソーシャルメディアというのはツールに過ぎません。壁新聞やビラ、新聞などよりも情報の伝達力ははるかに強いのは事実ですが、大事なのはそこにどのような情報を流すかということです。
 当分の間、反政府運動は世界の各地で起こり続けるものと思います。チュニジアやエジプトのように成功するところもあれば失敗に終わるところもあるでしょう。見方を変えれば、人類は今決して小さくはない代償を払って貴重な実験を行っていると理解することもできます。
 興味深いのは中国と北朝鮮の動向です。どちらも強力な情報統制を行っており、しかも国民に向かって発砲することを何とも思わない軍隊を抱えています。特に中国の場合、そう簡単に反政府運動が成功するとは思えないのです。
 超大国というのは例外なく他民族国家ですから、(ソ連が崩壊したように)分裂のリスクを絶えず抱えています。それを抑えつけるのは強力な軍隊の存在です。軍隊というのは金と食糧を浪費する組織であり、政治が軍をコントロールするには、充分な金と食糧を提供してやらなければなりません。それが途絶えるとコントロール不能となり、超大国は分裂状態に陥ります。
 したがって、中国では経済成長を維持し続けることが国を維持する絶対条件であることがわかります。ただし、経済成長というのは歪みを国の至る処にもたらすものです。日本の場合、公害問題、核家族化の進行によるセーフティ・ネットの崩壊、高齢化による医療費と年金の増大と財源の圧迫、教育の混乱、格差の固定化などの問題が顕在化しています。
 誰もが去年よりも豊かになっていると実感できる間は、その歪みが問題となることはありません。しかし、経済成長が止まったときにそれまで溜まり溜まった歪みが一気に露呈することになります。
 中国もいずれそういう局面を迎えるはずであり、そうなったときにあれだけの超大国が分裂することは火を見るよりも明らかであるといえます。
 もちろん中国の指導者たちが腕をこまねいているはずがありません。国民に向かって発砲することも厭わないのですから、利害が対立すれば隣国に遠慮することはないと考えるべきでしょう。
 小国は比較的わずかなエネルギーで瓦解しますが、超大国が崩壊するにはそれだけ大きなエネルギーが必要となります。それが溜まるまで時間を要しますが、エネルギーが大きいだけに国が崩壊した後の混乱期も長引くことになります。

 中国でも反政府デモを呼びかける動きがあり、政府は厳戒態勢を敷いているとのことです。それを見る限り中国で反政府デモが拡大する可能性は低いように思われます。

 ところで、日本に反政府デモが飛び火する心配はないのでしょうか? 幸か不幸か、日本では総理大臣の在任期間が1年持たないのが当たり前となっていますから、特にデモを起こさなくても政府の方で勝手に倒れてくれるようになっています。国民にとって、不満が解消することはない代わりに、拳を振り上げる相手がいつの間にかいなくなっているというのが今の日本の状態です。
 見方によっては、これはものすごく不幸な状態であるといえるかもしれません。
by T_am | 2011-02-21 23:52 | その他
 大相撲の八百長に関する報道が続いています。今朝の新聞には、世論調査によれば「以前から八百長があると思っていた」と回答した人が76.1%になったとのことです。(聞き取り数1,445人、うち回答数1,013人。)また、今回は興味深い調査も行われており、それは「大相撲はスポーツ競技だと思うか、それとも伝統文化だと思うか。」という質問です。
 その回答状況は次の通りです。

・スポーツ競技だと思う   15.9%
・伝統文化だと思う     57.2%
・どちらともいえない    25.3%
・わからない(無回答)    1.6%

 もう三十年以上も前になるでしょうか、「大相撲はスポーツではなく芸能である」という意見が文藝春秋誌に掲載されたことがありました。意見を述べたのがどなただったかは忘れてしまいましたが、当時も大相撲の八百長疑惑があり、それに対する意見として述べられたものだったと記憶しています。その要旨は、「大相撲はスポーツ競技ではなく芸能であり、八百長があったかどうかという詮索をしても意味がない」というものでした。(違ってたらごめんなさい。)
 こういう気分は今もあって、今回の世論調査の中でも、

・八百長は絶対にいけない  58.7%
・性格上やむを得ない    27.8%

 このように、八百長をいけないことだと考える人の割合は減ってしまいます。残りの人たちは、八百長を肯定しないまでもある程度はやむを得ないと考えているように思われます。その一方で、日本相撲協会に対し「公益法人として存続しなくてもよい」と回答した人が62.3%(公益法人として存続した方がよいと回答した人は28.1%)いましたから、日本相撲協会のあり方に疑問を持つ人が多いことがわかります。
 見逃してはならないのは、大相撲をもともと見ていないと回答した人が40.5%おり、その人たちが相撲協会が公益法人であることに否定的であるのは理解できます。ところが大相撲が再開されたら見たいと回答した人は42.5%いましたが、日本相撲協会が公益法人として存続することに賛成であると回答した人は28.1%しかいません。このことは大相撲のファンでありながら、日本相撲協会のあり方に対して批判的である人もいるということを示しています。

 私自身の意見としては、大相撲が芸能であることは理解できるものの、現在の15回戦って最も勝ち星が多い力士を優勝とするという制度とは両立しないというものです。芸能ということであれば、これはショーなのですから、プロレスのようにその日の勝ち負けに一喜一憂していればいいことになります。
 しかし、15日間の勝ち星によって優勝者を決めるというのはスポーツ競技の発想であり、それが成立するには、出場者の実力が拮抗しており、全員真剣勝負をしているということが前提となります。 大相撲の場合、優勝争いに絡む力士はごく一部であり、大多数の力士はそうではない(それほど力の差がある)というのが現実です。どうせ優勝争いに絡むのは一部の力士だけなのだから、それ以外の力士は幕下(十両に比べると待遇が全然違う)に陥落しないようにした方がいいという意識が力士たちの中に生まれるのだろうと思います。
 このように考えてくると、十両以上の力士の人数が多すぎること、しかも実力に差がありすぎる力士を対戦させているということに問題の根源があることがわかります。
 プロ野球はセ・パ両リーグとも6チームしかありません。また、JリーグではJ1に18クラブが所属していますが、下位2チームはJ2と入れ替えになるという仕組みを取り入れています。
 参加するチームの実力を拮抗させるための手段としてこれらの仕組みが設けられているのであり、その理由は、そうでなければ試合が面白くならない、ということに尽きます。

 かつてプロ野球で八百長が問題視され、関係者が厳しく処分されたのは野球賭博が絡んでいたからです。プロ野球の八百長は一部の選手の関与ということで決着しましたが、大相撲の八百長は制度に根ざすものだけに、プロ野球とは比べものにならないくらい広い裾野を持っているように思われます。それだけに、大相撲の八百長が万一賭博との関わりがあるようであれば、日本相撲協会の存続問題に発展することになるといえます。
 幸いなことに、今のところ賭博との関わりはないようであり、その限りでは八百長は内部の問題ということになります。
 大相撲が芸能でありながら、スポーツ競技の面白さも取り入れるのであれば、現在の仕組みを大幅に改める必要があります。問題は、相撲協会の指導者たちにそのような改革の必要性を感じている人が見当たらないことです。そのためにも、この八百長問題を究明し、今までの膿を全部出すということをした方がいいと思います。その過程で過去に八百長に関与した親方・協会幹部がいることも発覚するものと思いますが、それもやむを得ません。
野球賭博に関与した力士と親方に対しては解雇という厳しい処分を科したのですから、今回だけ甘い処分をするというのでは誰も納得しないでしょう。
 八百長問題の調査というのは、自分自身を告発することにつながりかねないだけに、協会幹部のどこまで踏み込んで調査するのかという意志の強さが試されていると思います。適当なところでお茶を濁すような形で幕引きをはかるようであれば、大相撲の持つ曖昧さと面白みのなさは依然として残ることになります。したがって、大相撲はこのまま衰退していくか、それとも改革に取り組むことによって再度隆盛を目指すのかの二者択一を迫られているように思われます。
 相撲を相撲道と呼ぶ考え方があり、その象徴として横綱がいます。その地位に相応しい品格と力量を備えていることが求められているというのが、相撲協会の説明です。横綱審議会という機関を設け、外部から委員を招致しているのは、大相撲の頂点に立つ横綱の人選が正当かつ公正であることを強調するためです。朝青龍が事実上追放されたのは、彼の言動が横綱の権威を傷つけるものだったからです。
 八百長に関与する力士がはるかに多く、現在の協会幹部の中にもかつて八百長に関与した者がいる(多くの日本人はそのような疑いを抱いています)とするならば、今まで相撲道と呼んできたものはウソで塗り固められた虚構であることが露呈してしまいます。
 それならそれで構わないので、大切なことは真実を包み隠さず申し述べることであるといえます(とても勇気の要ることですが)。その上で謝るところは謝って、再出発したいという強い決意を述べるのであれば、国民というのは案外素直に受け入れるのではないかと思います。(もちろん責任をとって何人か辞任する人たちは必要でしょうが。)
 そういうけじめをつけずに、いつまでも地位にしがみつくことをしていると、民主党政権のように世間から愛想を尽かされることになるわけです。
 「人の振り見て我が振り直せ」という諺があります。菅総理が毎日あれだけ攻撃されているのですから、その理由を分析して、「自分はそういう羽目に陥らないようにしよう」と考えてもよさそうなものですが、富と権力を握ってしまうとそういう想像力が枯渇するのが人間の性なのかもしれません。(あるいは、そういう想像力がないからこそ富と権力を手にすることができるのだ。田中芳樹さんだったらそれくらいいいそうですね。)
by T_am | 2011-02-13 11:37 | その他
 就職活動という普通名詞が「就活」という固有名詞になって何年か経ちます(ATOKの漢字辞書にも登録されているくらいです)。つまり、それだけ就職難が続いているということになります。
 就活というと主に学生の就職活動を指すことが多いので、本稿もその意味でこの言葉を用いることにします。

 三十年前は会社訪問の解禁日が10月1日であり、そこから就職活動がスタートしていました。その後、就職活動のピークが夏休みに移り、10月1日は内定者の囲い込みが行われる日となりましたが、現在は大学3年生の後半から就活が始まっているのだそうです。 学生が内定をもらうまでには何段階かの面接と筆記試験をこなさなければなりません。現在は売り手市場ですから、その日時は企業が一方的に指定します。当日都合が悪いといえば、「あ、そう。じゃ来なくていいよ。」で終わってしまうのですから、学生にすればそれこそ「万障繰り合わせて出席する」ことになります。こういうことが何回も続くのですから大変です。特に地方に住む学生の場合、大都市の企業に呼び出された場合の交通費の負担も大きくなります。買い手市場だった頃は企業が交通費を負担していましたが、現在はどうなのでしょうか? たぶん自己負担なのでしょう。

 こういう風潮に対し、大学側からは就活の時期をもう少し繰り下げてもらわないと学業に専念できないという苦情が申し立てられていると聞きます。まことにごもっともであり、「即戦力となる学生を養成せよ」という要求を企業と文科省から突きつけられながら、企業によって学生の時間を奪われるのですから、踏んだり蹴ったりというところでしょう。さらに、大学の事情として、学力の低下によりそのままでは大学の授業についてこれないので、新入生に対して高校の授業内容の補講をするところもあるということですから、恨み言の一つや二ついいたくなる気持ちは充分に理解できます。

 昨年の iPad 登場の衝撃を受けて、教科書をデジタル化しようという動きが勢いづいています。将来の国際的な競争社会に勝ち残ることのできる人材を育成するために授業を効率よくできるようにしようというのが主な趣旨のようです。
 企業が学校に要求するのは「優秀な人材を供給せよ」というものであることはいつの時代も同じです。企業が本当にそう考えているのであれば、数社で資金を出し合ってそのための学校を設立した方がよほど「効率」がよさそうなものだと思いますがいかがでしょうか? そこでは企業が求める知識やスキルを教え、卒業後は出資した企業に就職することができる、ということであれば入学志望者は後を絶たないはずです。親は喜んで授業料を負担するでしょうから、学校経営も充分に採算が合うはずなのですが、残念ながらそういう取り組みはまだないようです。
 なぜそういう学校が登場しないのかというと、「優秀な人材」をどのように定義したらいいのか企業の人事担当者にもわからないからではないかと思います。大学の偏差値や学生の成績を重視するのはそのためであり、結局は人事評価の仕組みが企業内にも存在していないからではないでしょうか。
 長くてもせいぜい三十分という面接の間に、この学生が将来わが社にどのような利益をもたらすのか、ということがわかるはずがありません。もしかしたら会社の金を持ち逃げするかもしれませんし、女子社員と駆け落ちする羽目に陥るかもしれません。実際に、そのような不祥事は絶えずどこかの企業で起こっていますが、不祥事を起こした人間を採用した人事担当者が責任をとらされたという話しは聞きません。つまり、人事部というのは主に採用人数に対して責任を負っているのであり、採用した人間が入社後何をするかについては責任を負わないのです。(不祥事が起これば直属の上司が責任を問われることになります。)
 「優秀な人材」というと、目から鼻に抜けるような利口な人間というイメージがあります。それは間違いではないのですが、そういう人間ばかり集めると会社は息苦しくなってしまうことも事実です。
 何百人採用しようと、役員のポストは限られており、社長の椅子は一つしかありません。全員が経営陣に加わることなどできないのですから、「優秀な人材」や「明日の日本を背負う人材」などということにこだわらず、いろいろな人間を採用した方がよほど活気が出ると思うのです。そうやって学校に対するプレッシャーを軽減した方がよほど社会が受ける恩恵は大きくなるからです。

 昔から「読み書きソロバン」といわれるように、就職する際に身につけておかなければならないことは実はそう多くありません。漢字が普通に読めること。自分の考えを文章にすることができること。計算ができること。わからないことがあれば、本を読むか人に訊くかして調べようという行動を起こせる(わからないままにしておかない)こと。基本的なリテラシーはこれで充分です。
 就職ということを前提にすれば、学校は生徒にこれらの能力を身につけさせるために存在すると考えてよいと思います。つまり、それ以外のことは二義的な位置づけに過ぎないのであって必須であると考えなくてもよい、ということです。
 といっても、歴史や音楽・美術・家庭科・体育などの教科が不要だと申し上げているのではありません。日本人が全員がサラリーマンになるわけにはいかないのであって、職人となる人、農業に従事する人、学者になる人、芸術家になる人、スポーツ選手になる人、家庭に入って家族を支える人というのもこの社会には必要です。したがって、それらの人々には勤め人になるための教育以外のコースが用意されることになるのであり、これらの教科は自分がそういう分野に適しているのではないかと気づかせてくれるきっかけを与えてくれます。

 このように考えてくると、学校の役割というのは、基本的なリテラシーを生徒に身につけさせると同時に、保護者が決して与えることのできない「機会」をこどもたちに提供する場であるという2つに尽きるのではないかと思います。
 ここでいう「機会」にはさまざまな意味が含まれます。友人をつくること、人を好きになること、学問やスポーツあるいは音楽や美術でもいいのですが何か熱中できるものを見つけること、等々・・・。学校は生徒に対してその機会を提供することはできますが、それを活かすかどうかは生徒自身の運と行動にかかっています。したがって、百人の生徒がいれば、彼らが学校から得るものはそれぞれ異なるということになります。このことはご自分の経験を振り返ってみれば読者にも同意していただけるのではないでしょうか。
 人間は工業製品ではないので、学校教育によって生徒を均一化することはできません。しかし、企業も文科省も、そして保護者でさえもそこのところを誤解しており、「教育の成果はかくあるべきである」という考えにとらわれすぎています。(保護者の場合、こどもを塾に通わせるのは、あるべき姿を追求しようという気持ちが強く働いているからです。)
 みんなが同じ水準以上の能力を身につけなければならないというのは幻想にすぎません。本来実現するはずがないことを学校に要求し、それができていないという理由でさらに締め付けが厳しくなっていくという悪循環に陥っているように思われます。
 小学校のカリキュラムに英語を導入しようというのはその典型的な例です。わが子に英語ができるようになってほしければ、親がこどもに英語で話しかけた方が学校や塾に期待するよりもよほど効果があります。人間の潜在能力というのはたいしたもので、それが絶対に不可欠だということになると嫌でも身についていくものです。すでに一部の企業では社内の公用語を英語に定めているところがあり、同じ考え方に基づくものであるといえます。

 どうも私たちは学校に対して過大な要求、それも自分にはできない要求を突きつけているように思います。企業が新入社員に対して即戦力となることを期待する気持ちもわからないではありませんが、それを学校教育に期待するのは無理というものです。即戦力とか優秀な人材と言葉でいうのは簡単ですが、では具体的にどういう知識とスキルを身につけていれば即戦力になるのか、また優秀な人材といえるのか、明確に応えられる人事部長は日本全体でも数えるほどしかいないのではないかと思います。
 自分でもよくわからない、他人にきちんと説明できないことを学校に対してやらせようというのは虫がよすぎるというものです。
 同じことは文科省の官僚にもいえます。さらに悪いことに、理屈を言えば現場の教師が働きやすいように環境や制度を整えてやるのが文科省の仕事だと思うのですが、実際には足を引っ張るようなことばかりしているように見えます。自分の仕事ぶりをアピールするために、やたらと現場に対する統制を厳しくしたがるアホな管理職がどこの会社にもいるものですが、同じことが国のレベルでも行われています。そうやって現場の足を引っ張ることでかえって生産性を悪化させているということに気づかないからアホだと申し上げているのです。そういうバカの下で働かなければならない人は可哀相だと思います。

 学校がもうすこしのびのびとできるようにしてあげた方が、結果として私たちが受ける恩恵は大きくなるはずです。
by T_am | 2011-02-06 22:59 | その他
 今、日本で総理大臣に次いで関心を持たれている政治家といえば小沢一郎であるということになります。ひょっとすると、菅総理に対する関心を上回るかもしれません。それだけこの人の公の場での発言が報道される機会が多いということです。
 外国の場合は知りませんが、日本のマスコミが数多く取り上げる人というのは、日本ハムファイタースの斉藤投手のような極めて少数の例外を除けば、たいていの場合悪役として描かれることになっています。まして政治家であればまず間違いなく批判やからかいの対象として取り上げられています。
 小沢一郎の場合も同様で。この人を悪役として扱った方が視聴者や読者の受けがいいということをマスコミは知っているので、どうしてもそのような扱いを受けることになり、まことにお気の毒であると申し上げるほかありません。
 もっとも、一部には小沢一郎のやったことを法に照らすかぎり違法性はどこにも見当たらないという冷静なコメントをの述べる人もいるのですが、マスコミの前には多勢に無勢といったところでしょうか、世論への影響力は少ないようです。

 小沢一郎自身も同じように考えているようです。この人の発言を聞いていると、要するに「自分は法に触れるようなことはしていない。その証拠に検察は自分を起訴できなかったではないか。このうえ何か文句あるのか。」という論理を展開しているといえます。
 これに対して小沢一郎に批判的な人たちは、「彼は説明責任を果たしていない」とか「政治資金で不動産を購入する必要がどこにあるのか」とか「自由党を解散したときに政党助成金を返還せずに自らの政治資金管理団体に寄附するということをしたではないか」ということがひっかかっているようです。
 しかしながらこれらの疑念に対しては、既に指摘している人がいるように、違法な行為ではないと申し上げざるを得ません。小沢一郎と彼を擁護する議員たちは、それを根拠にして法に触れるようなことをしていないのにこれ以上何を騒ぐのか、という持論を展開しています。
 結局のところ、小沢一郎をめぐる意見の対立というのは論理と小沢一郎が嫌いだという感情の対立であるといってよいと思います。したがって、どれだけ議論を重ねても問題が解決することはありません。強制起訴されてもたぶん無罪判決が出るものと思われます。それまでの間に、彼を離党に追い込むか除名することができれば菅総理一派の勝ちですし、衆議院を解散に追い込むことができれば野党の勝ちとなります。逆に、小沢一郎が堪え忍ぶことができれば彼の勝ちとなります。誰が勝っても日本にとってあまりいいことはないだろうというふうに思います。

 小沢一郎は法に触れるようなことをしていないと申し上げました。これには「現行法に照らす限り」という条件がついています。でも、そのことを指摘する人はいないのですね。だから議論が進まないのだといえます。
 いつの時代でも法体系と制度が完璧であった例はありません。一時期うまくいっているということはあっても、時代は絶えず変わっていくのですから、いずれ行き詰まることになります。
 したがって、小沢一郎をめぐる問題というのは現行法の限界という理解をした方がいいように思います。すなわち、制度と法の改正が必要だという考え方が必要だということです。

 現在の政界というのは、政治資金の収集力と権力とが正比例する世界となっています。これは、金を集めて他人の面倒を見ることができる政治家が派閥のボスになっていくということを意味しています。したがって、鳩山由起夫氏のよう問題処理能力の欠落した夢想家であっても政界ではきわだった発言力を有するという奇妙な現象が生まれることになります。
 小沢一郎の権力の源泉は、金とそれを配分する権限を独占しているというところにあります。この点で極めて自民党的な体質を持った政治家であり、それがこの人の人気のなさに結びついているような気がします。
 「一人では政治はできない」というのは小沢一郎の最近の言葉ですが、これほと今の政治を言い表している言葉もないと思います。(同じことを三十年ほど前に今東光さんもおっしゃっていました。)国会というのは多数決で決まる場ですので、どんなに正論を述べようとも多数決で負ければ何にもなりません。数の論理ですべてが決定する場となっているのが今の国会です。
 数の論理といっても、単純に多数決によって決着するための手段であるうちはまだいいのでしょうが、現実に政治の世界では数を獲得することが目的となってしまっているところにすべての問題が根ざしているように思います。一流の政治家にとって権力は自分の思いを実現するための道具にすぎませんが、二流以下の政治家にとっては権力を得ることが目的なのです。
 かつて私は、自民党というのは政権党であることを唯一の共通目的とした政治家の集団であると申し上げましたが、これは民主党にもいえるようです。小沢一郎をめぐる党内の対立があるにもかかわらず、党を割るわけでもなく互いに非難しあうということをくりかえしています。
 本来であれば、菅総理は検察審査会の結論が出たときに小沢一郎に対し国会での説明を要求し、それに従わないという理由で同氏を除名したうえで衆議院を解散すればよかったのです。そうすれば、選挙の争点は政治とカネということに絞られることになり、小沢一郎と彼に追随する議員、すなわち菅総理にとっての政敵を一掃することができたはずです。それをしなかったというのは目先の議員数に執着したのかもしれませんが、千載一遇の機会を逃したといえます。

 数の論理によって行動する政治家が後を絶たない以上、政治資金を集める能力に長けた人間が権力を握るのは必然であるといえます。それが人格識見ともにすぐれた人物であれば国民はハッピーでいられるのでしょうが、慈悲深く清廉潔白な独裁者がいないように、期待するだけ無駄というものです。
 民主党は企業献金を禁止するという案を発表したことがありますが、個人を経由するという抜け道が残されています。それならばいっそのこと政治献金にも課税する(控除を認めない)ようにし、政治家が金を集めるルートを断ち斬るということをしないと小沢一郎のような政治家が今後も登場することになります。

 政治家の世襲が増えてきている現在、後援会や政治資金団体が政治家の相続税逃れなどの脱税に使われる可能性が増しているといえます。小沢一郎は、陸山会で不動産を購入できない(法人格を認められていない)ので個人である小澤一郎名義で購入したが、個人の財産にしないという確認書を個人である小澤一郎と陸山会代表である小沢一郎の間で交わしていると公表しています。しかし、陸山会の実験は小沢一郎が握っており、当然その後継者は小沢一郎が指名するわけですから、陸山会の財産も彼が指名した後継者が受け継ぐことになります。現在は、法的に不動産の所有者は小沢一郎個人ですから、固定資産税は個人が支払うことになりますし、彼が死んでしまえば相続税の対象となります。ところが政治団体に法人格が与えられることになれば(小沢一郎は法人格を与えるべきだと主張している)、事実上の所有者は実権を握っている政治家本人であるにもかかわらず、固定資産税は政治団体が負担し、相続税はかからないということになります。ひどい話しだと思いませんか? でも法に触れるわけではないので非難されるいわれはないという論理を展開することができるのです。

 正直言って、私自身は小沢一郎という政治家が好きではありませんが、個人を攻撃しても何も変わらないと思っています。それよりも彼のような政治家が権力をふるうことができる現行制度と法体系にこそ問題があると考えています。そのことを指摘して改めていかないと何も変わらないということになります。
by T_am | 2011-02-01 23:55 | その他