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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 仕事にパソコンは切っても切り離せない時代となりました。もはや、ワード、エクセルは自動車運転免許なみの必須技能であるといってよいと思います。

 ところが、その割にパソコンについてきちんとした教育を受けている人が少ないように思います。企業にすれば、そんなゆとりはないということなのでしょうが、きちんと教育すればもう少し生産性が上がるのではないかと思う場面が多々あります。

 こんな場面を見たことはありませんか?

1)パソコンの場面を見ながら電卓を叩いている
2)印刷された資料を見ながら、それをパソコンで入力している

 笑い話のようですが、日本中の職場でこのような風景を見ることができるはずです。もっとも1)のケースは、ボタン一つで電卓を呼び出して、計算した結果をカーソルのある位置に表示させる機能を追加すれば済むだけのことなのに、ワープロ・ソフトになぜそういう機能がないのか不思議でなりません。(エクセルの場合は計算式を入力して、Enterキーの代わりにF9キーを押せば計算の結果だけが入力されます。)
 2)のケースは私も経験したことがあります。住所録をつくるために、以前パーソナル・ノーツというソフトを使っていたのですが、FAX送付状をワードでつくるときに(パーソナル・ノーツにはそういう機能はありませんでした)、ワードでつくった文書にパーソナル・ノーツに入力されているデータ(会社名・部署名・役職名・氏名・電話番号・FAX番号)をいちいちコピーするということをしていました。そのうちに、同じパソコンに入っているデータなのになんでこんなことをしなければならないのだろう? と疑問に思うようになり、MS-Accessを使って住所録をつくるようになりました。おかげでワードの差し込み印刷機能を使って、Accessからダイレクトにデータを読み込みできるようになり、結構重宝しています(宛名入りのメールもAccessからダイレクトに作成できるようになりました)。

 それはそうと、パソコンを使いこなすために理解しておいた方がいいと思うことを今回はご紹介しようと思います。全部で3つあります。これを身につければ、あなたもパソコンをばりばり使いこなすことができるようになるかもしれません。

1.パソコンは指示されたことしかできない
 一見当たり前のようなことですが、つい人間と同じ感覚で接してしまう人が多いようです。具体的に申し上げると、人間の場合と違ってパソコンは臨機応変とか融通を利かせるということができないのです。

「タバコを買ってきてくれないか。」
「いつものマイルドセブンでいいですか?」

 人間であれば、こういう頼み方をすればそれで充分ですが、パソコンが相手だとそうはいきません。

「東京都渋谷区神南1丁目1番地1にある○○タバコ店に行ってマイルドセブンの10mg、それもソフトケースの方を1個買ってきて欲しい。」

 こういう指示のしかたをしないとパソコンは動きません。面倒くさいですよね。その代わり、きちんと指示をすれば、人間と違って、文句一つ言わずに思い通りに動いてくれる美点もパソコンにはあります。
 そもそも人間には、人や物を思い通りにしたいという欲求があります。その点パソコンは忠実な下僕となってくれます。パソコンオタクと呼ばれる人の気持ちが何となく分かるような気がしますし、エクセルで複雑な表をつくるのが苦でないという人が多いのはこの辺の欲求を満たしてくれるからだと思います。

 一例を挙げると、作成した資料を保存するときに「名前をつけて保存」というダイヤログボックスを表示させて保存することになっています。実をいうと、これは作成したファイルを、「どの場所に」「何という名前で」「どういうソフトで扱うデータなのか」を指定して保存するための機能です。あまり意識することがないまま保存していると思いますが、こうすることで、自分が作成したデータを他と区別することができるようになり、そうなって初めてパソコンで扱えるようになるのです。

 以上のことをまとめると、パソコンでは操作の対象を他と区別して特定することが必要であるということになります。
 これに関連することですが、ファイルを保存するフォルダの名称として自分の名前を使っているケースをよく見かけます。たぶん世界中で見られる現象だと思いますが、これは事務作業の生産性を低下させる元凶となります。絶対にしてはいけません。というのは、その人が異動してしまったら、その中にどんなファイルが入っているのか他人には分からなくなるからです。(企業のIT管理部門はこういうことを社員に対し教えるべきだと思います。)


2.細かいパーツに分けて考える
 コンピュータというのは、しょせんは0と1を扱う機械です。すなわち、単純に二者択一するしかできないといってもよいのです。
 そこで、人間もパソコンに合わせて、複雑なデータを扱うときには、いくつかのパーツに分解して操作した方が作業効率は格段によくなります。
 いくつか例をあげましょう。

 画像編集ソフトやCADではレイヤーと呼ばれる透明シートを何枚も重ね合わせる機能を備えています。全体をいくつかのパーツに分けて、それらをレイヤーの上に分けて配置し編集しています。全体を見るときはそれらを重ね合わせた状態で見ることになり、レイヤーそのものは意識されません。

 ワープロソフトでは、段落と呼ばれる区切りを組み合わせて文書を作成しています。字下げなどの見せ方の編集はこの段落単位で行うことになります。

 また、ワードなどのワープロでは、テキストボックスと図を任意の位置に配置するとカタログのように変則的でインパクトに富んだレウアウトの書類を作成することができます。(テキストボックスを右クリックしてリンクさせると、2つ以上のテキストボックスに連続して文章を入力することができるようになります。)

 エクセルでは一つのブックの中に複数のワークシートを設けることができます。しかも、同一のブックであればワークシートをまたいで串刺し計算することができるようになっています。
 このことを利用して、複雑な表を作成するときは、入力するシートと集計・計算するシートを分けると作業効率がよくなります。慣れないうちは、入力する部分と計算・印刷する部分を同じシートにまとめてしまいがちですが、それをしてしまうと、入力するセルの位置が飛び飛びになってしまうので作業効率は悪くなります。さらに、入力漏れも発生する危険性も高くなります。入力漏れを防ぎ、作業効率を高めるためにも入力するセルは連続していた方がいいのです。

 細かく分解してパーツを組み合わせるという考え方をマスターすると、パソコンに三者択一や四者択一という作業をさせることができるようになります。
 エクセルのIF関数(条件Aが成立するときはこうする、成立しないときはこうする、という指示方法)を例に挙げると、次のような応用が利きます。

 条件Aが成立するときはこうする、成立しないときで条件Bが成立するときはこうする、成立しないときはこうする

 このやり方だと三者択一ができるようになります。さらに組み合わせを増やすと四者択一、五者択一ができるようになります。

 また、計算式が長くなると中身が複雑になりますから、その場合は計算式を途中で打ち切り、作業用セルにそれを入れておくという方法もあります。計算式の後半部分は別のセルに入れておけば式の設定ミスも防ぎやすくなりますし、計算式の一部を修正したいというときも簡単にできるようになります。

 このように、全体を分解して細かいパーツに分けた上で、それらを組み合わせるという発想法は非常に有効です。


3.時間とお金をかけること
 スポーツでも習い事でも、上達しようと思ったらある程度時間とお金をかけなければなりません。パソコンの場合、時間とお金を費やすことによって、知識と事例を身につけることができるようになります。
 お金をかけるのが惜しいという方はネット上のサイトを活用するという方法もあります。世の中には親切な人が多いので、ソフトのヘルプに書かれているよりももっと懇切丁寧に解説されているサイトがいくらでもあります。それらを活用すればお金を節約することができるのですが、時間だけはどうにもなりません。
 もっとも大半の人は、パソコンにお金や時間をかけるという発想を持ち合わせていませんから、早い者勝ちであると考えてよいでしょう。
 パソコンの使い方をみていると、電卓機能を備えた清書マシンとしての使い方しかしていない人が大半を占めます。それではあまりにももったいないと思うのは、もう少しパソコンの使い方に慣れれば、従来よりもはるかに短時間で作業が終了するようになり、その空いた時間を使って今までできなかったことができるようになるからです。
 さらに、そのようにして自在にパソコンを操ることができるようになると、パソコンはあなたにとって考えるツールになっていきます。そこまで行くとパソコンに費やしたお金も無駄にはならないと思いますが、いかがでしょうか?


付記
 部署内の生産性向上は本来ならば上司の役割なのですが、パソコンを使った作業に関してはどこもほったらかしで手をつけられていないというのが実情のようです。
by T_am | 2011-01-23 00:44 | その他
 昨日からのニュースで、埼玉県の私立小学校に勤務する女性教諭が、保護者からの再三のクレームを受けて不眠症に陥ったので慰謝料として500万円を支払え、という訴訟をこの両親に対して起こしていたということが伝えられています。
 文科省への問い合わせに対し「保護者が学校を訴える例はあるが、逆のケースは聞いたことがない」という回答があったそうです。教師が保護者を訴えるというのは初めてのケースですから思わず記事を読み漁ってしまいました。


(産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110118/stm11011812280051-n1.htm

(YOMIURI ONLINRE)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20110118-OYT8T00632.htm

(asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0117/TKY201101170419.html

(毎日JP)
http://mainichi.jp/select/jiken/archive/news/2011/01/18/20110118dde041040038000c.html

(Sponichi Annex)
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/01/19/kiji/K20110119000078120.html


 新聞社によって報道されている事実が微妙に異なっており、いつもの「編集」が行われたことが想像されるのですが、中にはあからさまに「モンスターペアレンツVS. 教師」という構図で記事を書いているところもあります。
 そこまで露骨な書き方をしていなくても、どの新聞社の記事を読んでも、訴えられた両親がモンスターペアレントであると想像してしまう書き方がされています。全国の教職員の中には「よくぞやってくれた!」と快哉を叫んでいる人もいるのではないかと思います。

 トラブルが起こってそれが民事訴訟に発展するのは、もはや当事者間に信頼関係が存在していないということを意味します。たとえわずかでも相手の言い分に耳を傾けようという気持ちが双方にあれば訴訟沙汰になることはありません。もちろん協議によって問題を解決しようという思いが片方だけにあった場合でも訴訟になることがあります。その場合、訴えるのは相手の言い分に対し聴く耳を持たないという側に限られます。少しでも話し合いをしようという気持ちがある間は訴訟に持ち込むという考えは起こらないものです。
 この事件の場合、保護者の方には話し合いによって問題を解決しようという気持ちは最初からなかったように見受けられます。本当にそうだったとすれば、この保護者がモンスターペアレンツであるといわれてもしかたないと思います。(実際はどうだったのかよくわかりませんが。)

 今回の事件を「モンスターペアレンツVS. 教師」という構図で面白おかしく扱うのはどんなものかと思います。訴訟の当事者は、原告である教師と被告となった保護者にすぎないのですが、現実に女児はまだその小学校に通っているのであり、訴えた教師はまだその担任を務めているのだそうですから、周囲が騒ぎ立てれば本来無関係であるはずの児童たちを巻き込んでしまうことになります。
 今回の訴訟をきっかけに、おそらく同様の訴訟が今後全国で起こされるのだろうと想像されます。訴訟を起こすのが悪いというのではありませんが、どのような判決が下ろうと訴訟というのは問題に終止符を打つだけであって、破壊された信頼関係が回復することはありませんから問題を解決することにはならないのです。(ただし双方が和解に応じた場合はこの限りではありません。)

 以前、教師の役割は2種類あって、ひとつは生徒に対して未知の世界への扉を開いてやること、もうひとつは生徒の居場所を確保し、最後の味方になってやることであるということを申し上げました。教師がこの役割を全うするためには、教師自身の自覚と資質が不可欠であることはもちろんですが、保護者が教師に対して白紙委任状を与えるということも欠かせません。
 このことは教育の場に利害という尺度を持ち込んではならないということを意味します。利害という言葉がわかりにくければ、自分が支払っている授業料に見合うサービスを受ける当然の権利が自分とそのこどもにはあるという意識といいかえることもできます。そこにあるのは信頼ではなくて、教師に対する監視の目です。そのような状況で教師がその役割を全うできるはずがありません。
 興味深いことに、モンスターペアレンツと呼ばれる親たちは、自分とわが子の権利が侵害されていると本気で思っているところがあり、他人にも同じように権利が認められているのだということに気づいていない節が見受けられます。
 これは今回の事件とは切り離して一般論として申し上げるのですが、教師も人間ですから自分を守ることは認められています。(保身という意味ではありませんから、念のため。)その手段として裁判に訴えるということもあり得るとは思いますが、それはあくまでも当事者間の問題です。周囲が興味本位で騒ぎ立てることは学校に利害の対立という概念を持ち込むことになりますから、かえって教育の場を損ねることにつながると思います。
 ゆえに、今回の訴訟において最善の決着は、双方が和解に応じることであるといえます。
by T_am | 2011-01-19 23:55 | その他
 消費税の増税に向けた世論づくりが着々と進められています。この間発表された「消費税の増税についてどう思うか」という世論調査の結果もその一環です。増税論者である与謝野氏の入閣にあわせてこのような調査結果が報道されるというのは、政府もマスコミもグルになっているのではないかと勘ぐってしまいます。消費税の増税には根強い反対があるものですから、こうしてタイミングを見ては小出しにして、消費税増税やむなしという雰囲気づくりが慎重かつ執念深く行われていると思った方がよいでしょう。

 増税が必要な理由はいろいろと挙げられています。財源が不足しているとか、国民一人あたりの借金が700万円を超えているとか、今後も増大する社会保障費を捻出しなければならないとかいうのがその主な理由です。

 では、なぜ財源が不足し、国民一人あたりの借金が増え続けているのかというと、それは効果のないところに税金を投入しているからです。
 「補助金」とか「支援金」と呼ばれる支出がその典型です。かつて地域振興券という名称で2億円規模の補助金が支給されたことがありましたが、まるで効果がありませんでした。その後も手を変え品を変えてさまざまな補助金と支援金を支給する制度が設けられましたが景気はいっこうによくなっていません。
 これだけお金を注ぎ込んでも、まったく効果が上がっていないのですから、いい加減やめたらどうかと思うのですが、政治家や官僚にはそういう気持ちはないようです。

 失敗は誰にでもありますが、懲りずに失敗を繰り返す人をバカといいます。
 これではまずいということがわかっていながら、直そうとしない人のことを無能あるいは怠け者と呼びます。(民間企業であれば、上司から罵詈讒謗を浴びせられることになります。)

 ちっとも効果のあがらないことにいつまでもしがみつき、あまつさえもっと財源を寄越せというのですから、もはやつける薬はないといってよいでしょう。
 歴史の本を見れば、戦前の軍部の無能無策と暴走があったという指摘とともに、マスコミもそれに荷担していたことが書かれています。後世の日本人からみれば、現代の政治家・官僚・マスコミが同じことをしていると映るのではないでしょうか。私たちには戦前の日本人を批判する資格はありません。



 増税が必要な理由の2番目は、今の日本社会は、経済が永続的に成長拡大していくという前提で、あらゆる制度が設計されていることです。
 そのもっともわかりやすい例が年金制度です。年金制度の問題点を語る際に必ずいわれることは、自分がこれまで払ってきた保険料と実際に受け取ることができる年金額の比較です。その根底にあるのは、自分が支払った保険料以上の年金を受け取るのがあたりまえだという意識です。
 金を払えばリスクなしに必ずそれ以上の見返りがあるという制度を私たちは「ネズミ講」と呼んでいます。民間人が行えばネズミ講になりますが、同じことを国が行えば年金制度と呼ばれるのですから、世の中というのは不思議なものです。
 ネズミ講が破綻しないための唯一の条件は、会員数が無限に増え続けることです。そんなことはあり得ないとすぐに気づくのですが、年金の場合はそうではありません。年金制度が破綻しないための条件は、経済成長という名のインフレがいつまでも続くことです。しかし、歴史上経済成長がいつまでも続いたという国はありません。まして日本の場合は人口の減少局面に入っており、生産活動に寄与しない高齢者が増え続けるということがわかっています。したがって、経済成長の持続を前提とした今の諸制度の見直しがただちに行われなければ破綻することは目に見えています。
 時流がそのような方向に向かっているのですから、これに抗っても無駄であるといってよいでしょう。政府とマスコミが一生懸命になって雰囲気づくりを行っている消費税の増税は、肝硬変の患者に酒を飲ませて麻痺させるようなものであり、病の進行をわからなくするだけですから、近い将来さらなる増税が必要になることは間違いありません。
by T_am | 2011-01-18 22:56 | その他
 アメリカのアリゾナ州で起こった銃乱射事件に関連して、マスコミはアメリカ国内での銃規制に向けた議論が活発化していないということを伝えています。たしかに銃の規制をすればこのような「乱射事件」は起こりにくくなるでしょう。そのかわり別の無差別殺傷事件が起こるであろうと思います。

 銃の規制が厳しい日本ではこのような乱射事件は起きていません。ただし、乱射事件はないものの、無差別殺傷事件が起こっています。

99年 池袋通り魔殺人事件(2人死亡、6人重軽傷)
   下関駅無差別殺傷事件(5人死亡、10人重軽傷)
01年 附属池田小学校事件(児童8名死亡、児童13名負傷、教員2名負傷)
03年 渋谷連続通り魔事件(5人負傷)
08年 秋葉原無差別殺傷事件(7人死亡、10人負傷)
   土浦連続殺傷事件(2人死亡、6人負傷)
10年 取手通り魔事件(14人負傷)

 ざっとあげただけでもこれだけ起こっています。銃の規制がなくてもこのような凶悪事件は発生していると考えるべきなのか、それとも銃の規制があるからこの程度の被害で済んでいると考えるべきなのか議論は分かれると思います。それでも銃が凶悪犯罪の原因でないことは明らかです。

 銃の所持が厳しく規制されている国では銃による殺人事件の件数が少ないということは動かせない事実です。したがって銃を規制することに異を挟むものではありませんが、アリゾナ州で起きた乱射事件に対するアメリカ社会の対応を観察するときに、日本のマスコミがやっているように「銃規制に対する動き」という視点を持ち込むのは余計なことであり、かえってアメリカで今何が起きているかをわかりにくくしているように思います。
 12日にアリゾナ州立大学で行われた追悼式にはオバマ大統領も出席し、「今回の事件を対立の火種にしてはならない」という演説を行い、多くの人々に感銘を与えました。「対立」とはなにかというと、人種問題、宗教の対立、イデオロギーの対立という問題がアメリカにあるのです。
 アメリカ国民の様子をみると、今は銃規制について論じているよりももっと重要なことがあるという意識が共通しているかのようにみえます。これは考えすぎかもしれませんが、もともと多くの民族が集まってできているアメリカには多様な宗教・文化・生活習慣があり、そこに対立を持ち込むことによって秩序を脅かすのはこれ以上我慢できない、という意志がアメリカ国民の間に生まれてきているかのように、私には思えるのです。
 その一例がサラ・ペイリンに対する批判でしょう。「ティーパーティ」の活動を通じてペイリンがアンチ・オバマの象徴であるかのように思われていることはご存知の通りです。そのティーパーティの一派から、今回撃たれたギフォーズ議員は重点落選ターゲットとされており、彼らのサイトにはギフォーズ議員が所属するアリゾナ州に対し、銃の狙撃マークが表示されていました。
 事件後このことが取りざたされたのですが、誰もがサラ・ペイリンを意識していたことは事実です。ほとんどいいがかりといっていいこの批判に対し、サラ・ペイリンは追悼式の直前にビデオ・メッセージを発表し、反論を行いましたが、逆に「ペイリンには追悼の気持ちがない」とか「利己的である」という批判を浴びているようです。
 今日になって、共和党のマケイン議員が追悼式でのオバマ大統領の演説を賞賛する論文をワシントン・ポストに寄稿したというニュースが流れました。
 オバマ大統領とマケイン議員との間には政策をめぐって相容れない意見の対立があることは本人も認めていることですが、それでも「対立によって相手をねじ伏せようとするのはやめよう」というオバマ大統領のメッセージにいち早く応えた格好になったわけです。
 私には、このような風潮が今後アメリカでは主流になっていくように思えます。今回の事件は、アメリカが今後どの方向に向かおうとしているのかを窺い知る格好の事例となっているようです。そういう視点で、この事件に関する一連の報道を受け止めたらいいのではないでしょうか?
by T_am | 2011-01-16 21:22 | その他
 今日は新潟のワイナリー、フェルミエ(fermier)でロゼを買ってきました。新潟市にはもはや老舗といってよいカーブドッチワイナリーがありますが、フェルミエはその敷地の一角にあります。
 
フェルミエのホームページ
http://fermier.jp/

 ここのロゼは本当においしいので、お世話になった人に送るついでに自分用にも1本買ってきました。
 帰り道の途中で、そういえばワインはパンとの相性がいいことを思いだしました。せっかくおいしいワインを買ったのだからパンも買って、お昼ご飯はパンとワインということにしました。これぞ休日の醍醐味です。

 そうなると、何か酒のつまみがあった方がいいと思い、簡単にできるものということで、大根と人参をスティックにして、味噌とマヨネーズを和えたものをつけて食べることにしました。
 味噌とマヨネーズを和えるというと意外に思われるかもしれませんが、こうすることで味噌のしょっぱさが消えて旨みだけが残り、マヨネーズの風味とともになんともいえない味を醸し出します。

 大根と人参のスティックはあっさりしていてカロリーも低く健康的な食べ物ですが、味噌のマヨネーズ和えをつけると、これがまた酒のつまみにちょうどいいのです。

 味噌とマヨネーズを和えるだけですから、組み合わせる味噌とマヨネーズの種類を変えれば味わいは無限に広がっていきます。自宅にある味噌とマヨネーズを使っても充分おいしいのですが、マヨネーズはあっさりした味の方が味噌の旨みをひきたてるかもしれません。

 昼間から飲むフェルミエのロゼは格別であり、1杯飲んだだけで気持ちよく午睡することができました。地吹雪の中わざわざ買いに行ってきただけのことはありました。さあ、これから飲み直しです。
by T_am | 2011-01-16 18:08 | 失敗から学ぶ男の料理
 1月10日の朝日新聞のニュースサイトに、「先生休むと代わりがいない 不足、昨年度は800件以上」という記事が掲載されました。これは、教師が産休や育休あるいは病気や介護休暇に入っても代わりの教師の手配が間に合わないというケースが実際にどれだけあったかを調査した結果について書かれたものです。
 産休や育休の場合は事前にわかっているので、その当日に代わりの教員が着任できなかった事例の件数。また、病気や介護休暇の場合は突発的なものですから、代わりの教員が1ヶ月以上来なかったケースがどれだけあったかを調査したとのことです。
 こういう調査は過去に例がなく文科省も実態を把握していないということですから、意義のある調査であることに異論はないのですが、このような調査は単発で行うのではなく、継続して長期に渡って行うことが望ましいといえます。

 見出しにあるように、欠員が発生した件数は、産休や育休の場合で304件、病気や介護休暇の場合で486件(いずれも大阪府除く)とのことで、800件以上というのはこのことを指しているようです。大阪府を除いているのは、大阪府の回答が毎月1日現在の件数を回答してきたために、たとえば欠員が2ヶ月以上続けばその件数が重複してしまうためでしょう。
 「全国で800件以上」とあるように、記事の論調はこれが看過しうる問題ではないという立場で書かれています。事実、同じ日に掲載された記事「先生不在で自習 時間割り組み直し…混乱する教育現場 」では、各地の事例を紹介し、いずれも授業が充分にできなくなったということが書かれています。
 たしかに先生が欠員となり授業が行えないという状況が異常であるという指摘に対し異論の挟みようもありません。
 わが身を振り返ってみれば、小学校から大学を卒業するまでそもそも先生が病気や産休などでいなくなるということがなかったのであり、欠員によって授業が行われなくなったという経験は皆無でした。たぶん、大部分の人が同じような経験をしているのではないかと思います。(産休の場合は学期や年度の変わり目で代理教師が着任していたように記憶しています。)

 この調査を行い記事を書いた朝日新聞の記者たちも、おそらく同じような経験の持ち主であると想像することができます。そのような経験を持ち合わせている者からすれば、現在の教育現場の実情は「異常極まりない」というものであり、その思いがこのような調査を行わせたのだろうと思うのです。
 実は、教師がいかにストレスの溜まる職業であるかという指摘はかなり以前から行われているのであって、そこには括弧書きの(昔と比べて)というフレーズがあることを忘れてはなりません。
 校長や教師の自殺。鬱病となって休職したり退職する教師・・・。不幸にしてこのような状況に追い込まれた教師はいくらでもいるというのは現代ではもはや常識であるといってよいでしょう。そのような時代の生徒たちにとって、教師の欠員が生じるというのはもしかすると「わりと普通にあるできごと」なのかもしれないのです。
 そのように考えると、全国で800人以上という数字の意味が変わってきます。自分が子どもの頃の記憶と照らし合わせて、このようなことがあってはならないという先入主を持って眺めれば800人以上という数字は由々しきものとなります。一方「わりと普通にあるできごと」であると思っている人にすれば、「へえ、けっこういるもんだね。」くらいの感想に終わるでしょう。

 このような調査を行いその結果を分析するのであれば、少なくとも次の数字は抑えておくべきです。

1.教員の総数
2.産休や育休を取得した教員の数と全体に対する割合
3.病気休職や介護休暇を取得した教員の数と全体に対する割合
4.定年退職者数とそれ以外の退職者数(事情別年齢別)と全体に対する割合

 数字というのは、それ単独では評価することができません。たとえば、テストの結果が100点だったとします。これは満足できる成績でしょうか? 100点満点のテストであれば申し分のない成績であるといえますが、TOEICのように990点満点のテストで100点であれば話しはまるで違ってきます。このように、数字は必ず何かと比較しないことにはその意味を理解することが人間にはできないのです。

 そのうえで、欠員が生じた件数について、その元となっている休暇求職者数に対する割合も検討すべきでしょう。さらにいえば、このような調査は単発で終わらせるのではなく、何年にもわたって継続して行い、年ごとにどのように推移しているのかも探る必要があります。
 そこまでやったうえで、どのように解釈するのが実態に沿っているのか、それによって仮説が導かれるというのが科学的姿勢というものです。その点、今回の朝日新聞の調査は結論ありきで取り組んだのではないかと疑いたくなるくらい、調査項目が不十分であるといえます。

 統計というのは、とり方によってどのような結論でも導くことができます。その気になれば、「日教組幹部における鬱病経験者の割合は一般教員のそれよりもはるかに低い」だとか「親が教師であるという教員の方がそうでない教員よりも鬱病に罹った人が多い」という結論でさえも容易に導くことができるのです。
 統計というのはそれくらい恣意的な道具として用いられる可能性が高い、ということは知っておいて損はないと思います。特に加工前のデータを公開していない統計は要注意です。マスコミが報道する統計調査の結果はほとんどが加工前のデータを公開していません。ということは第三者がその内容を検証することができないということを意味します。
 この点は政府広報も同様です。
 大学生がそのような第三者が検証することのできない統計に基づいてレポートや論文を書いても点数をもらうことはできません。そのことはよくわかっているはずなのに、平気でそれを行う。それがマスコミであり、官僚たちなのです。


付記
 教員の欠員があってはならないことであると断罪するのは簡単ですが、現実を見つめたうえでどうすべきなのかを考えるべきであるということで本稿を書きました。ここでいう現実とは、今の学校は教師にとって働きにくい環境となっているのではないかというものです。そのことを統計調査によって証明できると思うのですが、そのようなアプローチを経なければ、いくら代用教員を採用しても定着しないのではないかとも思います。
いったい、真面目に勤務している者が鬱病や胃潰瘍に罹ったりする職場は正常であるといえるのでしょうか。
 解決すべき問題点はどこにあるのか、そのような発想をしない限り教育の現場はかえって振り回されることになるのだろうと思わないではいられません。
by T_am | 2011-01-12 00:03
 コミュニケーションの日本語訳は「意思疎通」ということになるのでしょうか? もっとも辞書をみると、意志のほかに感情や思考を伝達しあうことということも書かれていますから、厳密にいえば違うのかもしれません。
 最近感じるのは、コミュニケーションという言葉に「情報交換」というニュアンスが加わっているということです。
 「コミュニケが悪い」といういい方をすることがあります。これは、お互いの気持ちがばらばらである、という場合にも用いますが、本来知っていて当たり前のことを知らない、という場合にも用いられているように感じます。
 言葉というのは時間の経過とともに変化していくものですから、これに個人が異を唱えてもどうにもなるものではありません。ここで申し上げたいのは、コミュニケーションという用語の意味ではなく、現在用いられている用法が人に与えている影響の方です。(今回はビジネスに限って話しをすることにします。)

 まず結論から申し上げましょう。それは、相手の心中を忖度することのできない人が増えているということです。
 ビジネスの目的とは、結局相手との間で契約を成立させることにあります。契約という言葉に馴染めなければ、「合意」と言い換えることもできます。契約(合意)は、「○○をしてほしい」とか「○○をしたい」という申し入れに対して、それを承諾することによって成立します。(これを諾成契約といいます。これに対し要物契約というのがあって、当事者間の合意のほかに物品の供与をもって契約が成立するというものです。以上余談。)
 実際のところは、先方の「○○をしてほしい」とか「○○をしたい」という申し入れをそのまま呑むということもあるでしょうが、そのままではこちらが困る(不利益を被る)という局面も少なくありません。
 その場合、相手と交渉することによって、これならば受け入れてもよいという妥協点を探るということがごく当たり前のように行われています。買い物に行って「値切る」というのがその典型的な例でしょう。商品についている値段(定価)で買うというのであれば交渉は不要です。相手の「この値段で売りたい」という申し入れに対し、「その値段では買いたくない。しかしその商品は欲しい。」という気持ちがあるからこそ、値切るという交渉を行うわけです。
 この場合双方にある思いは、「この商品を売りたい」「この商品が欲しい」というものです。そして、交渉というのは、双方が妥協できる点まで歩み寄るということでもあります。(ただし、「相手の弱みにつけ込む」とか「足下を見る」という例外もあります。)
 その際に、相手の気持ちを理解し、本音がどこにあるのかを探りながら話しをするということによって妥協点が見つかるわけです。

 ところが、コミュニケーションとは情報交換であると思っている人には、先方の気持ちを理解するという発想がありません。相手の話す言葉を額面通り受け取るか、あるいは交渉とは相手を論破し自分に従わせることだと思っているかのどちらかであるようです。
 仕事柄いろいろな人に会いますが、自分が買う立場になったときに、とたんに強気になる人が多いように思います。
 「お客様は神さまです」という言葉があるように、世の中お金を払う立場の方が強いということになっています。例外は昔の国鉄と病院、それに先生がそうでした。時代が変わってしまい、すっかり凋落してしまいましたが、今も昔も威張っているのは税務署と政治家、それにマスコミくらいのものでしょう。
 モンスター・ペアレントといわれる人たちの心の奥には、「自分は授業料を払っているのだから、学校や教師にはその対価として自分を満足させる義務がある」という気持ちがあると思います。比較的裕福な家庭の親ほど教師や学校に対し理不尽な要求を突きつけるというのは、「買い手」である自分に対して「売り手」がちやほやしてくれることに慣れているというのがあるのではないでしょうか。
 
 1995年頃からでしょうか、普通の社会人が企業相手にまるで「ヤーさん」みたいな要求を突きつけていると感じるようになりました。企業に対して苦情を述べることによって「いい思い」をした人がまわりに吹聴し、それならば自分も「いい思い」をしなければ損だとばかり虎視眈々と機会を狙っている。そのような風潮が広まってきたように感じます。
 言い換えれば、価値観の中に「損か得か」という基準の占めるウェイトが大きくなってきたということになります。

 そのような風潮が蔓延してくると、ビジネスはゼロサム・ゲームとなってしまいます。その一端が非正規雇用労働者の増加であり、従業員に対する利益の還元よりも内部留保を優先するという企業の姿勢に現れているように思われます。

 そのことを非難してもどうせ聞いてはもらえないのですが、私がどうにもわからないことがひとつあります。それは、「この人たちは、未来の自分が敗者になっているかもしれないということを想像することができないのだろうか?」ということです。
 死ぬまで勝者であり続けるという幸運な人は極めて稀な存在であるといってよいでしょう。仮に、その人が死ぬまで勝者であり続けたとしても、その人の家族が同様に勝者であり続けるという保証はどこにもないのです。
 世界史をみても、有史以来高貴な身分でありつけた家系というのは日本の天皇家の他には例がないのではないでしょうか。その天皇家でさえも、鎌倉時代以降明治になるまで長い不遇な時代を過ごしたわけですから、未来永劫勝者であり続けるというのは不可能であると断言してもよいと思います。

 その人の中で、損か得かという価値観が大きなウェイトを占めるようになると、誰もが「その人が支払った物品の価値以上の対価を受け取ることができる者が賢いのだ」と思うようになります。そうすると、必然的にその矛先は自分よりも立場の弱い人に向けられることになります。
 こうなるとビジネスは勝ち負けとなってしまいます。この人たちの頭の中にあるのは、「利益の総和は常に一定であり、相手の取り分を減らせばその分自分の取り分が増える」という単純な計算です。経営者(あるいは上司)と呼ばれる人の中にもこういう発想しかできない人が意外と多いことは、身の回りを見渡せばご納得いただけるものと思います。
 
 この人たちに共通しているのは想像力の欠如ということであり、その中には、未来の自分について勝者であると根拠なしに思い込んでいるということと、他人の気持ちを推し量ることができないというものも含まれます。

 この傾向は年齢や年代には関係がないようです。

 人が言葉の意味を変えていくということがあれば、言葉が人に影響を与えるということもあります。
 将来において、コミュニケーションという言葉が単に情報交換を意味するようになるようなことがあれば、そのときは人間関係が定量的な価値基準によって左右される世の中になっているのかもしれません。
 なにしろ、「自分よりもレベルが下の人とつきあってもしょうがない。」そういうことが真面目にいわれる時代なのですから。


追記
 仮に、あなたが現在勝ち組であるとして、これからもご自分が勝ち組であり続けると思っているのであれば、それは次のうちどれかです。

1.卓越した能力と強運の持ち主である。
2.たいしたことがなくてもさも重要であるかのようにアピールできるプレゼン能力の持ち主。(そのうちボロが出ます。)
3.他人を蹴落とすことに長けた腹黒さの持ち主。(他人は皆善人であると思うのは誤りです。あなたよりももっと腹黒い人はいるのであり、そこに気づかないと転落が待ち構えています。)
4.今までの努力が運もあって報われた。(いつのまにか時代は変わるということに気づかないとダメですよ。)
by T_am | 2011-01-10 22:33 | その他
 文庫本や新書を何冊か電子化してみて、一連の作業のコツがわかってきたので、今回はそれをご紹介します。電子化に興味のない人にはまったく関係のない話です。すいません。

【電子化の手順】
1.電子化したい本をカッターで分冊する
2.それぞれ背表紙を裁断する
3.ドキュメントスキャナーで読取りPDF化する
4.作成されたPDFファイルに編集ソフトで「しおり」をつける
5.iPhoneなどの携帯デバイスにデータを送る

 手順としては以上となります。雑誌でも紹介されているのでご存知の方も多いでしょうが、4の手順に記してある「しおり」をつけることについて触れていない記事ばかり目にします。現状ではiPhoneのアプリには、縦書きされたPDFを検索できるものがないのでせめて目次に載っている内容を「しおり」にしてをつけておかないと、読むときに困るのです。
 「しおり」の作成は手作業となるので、手間がかかりますが、省いてしまうと後で自分が困ることになります。ただし、「俺はそんなのいらねえや」という方は、4の手順は不用となりますので、一連の作業は大幅に短縮されることになります。

【電子化のために必要な道具】
1.カッター
 本を分冊するために必要。分冊というのは、のり付けされている背表紙の部分をカットしなければならず、そのための裁断機かけるには本を薄くする必要があるのです。つまり、1冊の本をいくつかに分けて、それぞれ順番に裁断するわけです。
 文庫本や新書本は分冊しやすいのですが、けっこう力がいる作業です。そのため、100円ショップで売っているようなカッターだと手が痛くなる(ということはそのうち嫌になって長続きしない)ので、大きめのカッター(ホームセンターで500円くらいで売ってます)を用意したほうがいいと思います。

2.裁断機
 分冊した本の背表紙を裁断するために必要です。本は、背表紙のところでのり付けされているので、これをカットすることで1枚ずつばらばらになり、スキャナーに通すことができるようになります。
 裁断機には家庭用から業務用までさまざまな種類があり、値段が高いほど一度に裁断できるページ数が増えることになります。私の場合、とにかく安くあげるということから、ナカバヤシの「ロータリーカッターA4」という機種(ホームセンターで1980円)を購入しました。文庫本くらいの紙の厚さなら、一度に50ページくらいは裁断することができ、充分満足しています。

3.ドキュメントスキャナー
 私の場合、キャノンのDR-150という製品を使っています。2万円台の後半で購入しました。上位機種に比べると読み取り速度は若干遅いのですが、かえってこれくらいのスピードのほうが、後で述べる原稿送りミスを監視するにはちょうどいいようです。
 DR-150のすぐれた点は、読み取った文書をPDF化する際に文字情報を付加するOCR機能が圧倒的に早いというところです。読み取りの終了とほとんど同時にOCR情報の付加も終わってしまうので待ち時間がありません。ちなみに、付加されたOCR情報の精度を確認するため、パソコンでPDF化された文書を開き検索をかけてみました。(「脳はなにかと言い訳する」池谷裕二 新潮文庫。興味のある人はお近くの書店でお買い求めください。)


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「増殖能力」という単語で検索をかけてみると・・・


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 瞬時にヒットしました。OCR機能の精度が高いことがわかります。
 ちなみに、パソコンでPDF文書を読むぶんには、このように縦書き文書の文字列検索も可能なのですが、iPhone用のPDF文書閲覧アプリで縦書き検索のできるものは、残念ながら今のところないようです。

4.PDF編集ソフト
 PDF文書に「しおり」を作成するために必要です。ソフトによってはアウトラインと呼ぶものもあるようです。しおりを設定すると、しおりの一覧からそのページにジャンプすることができます。Webブラウザの「お気に入り」のような機能だと思っていただければよいでしょう。
 下の写真は、GoodReader というiPhoneのアプリで「しおり」を活用しているところです。(「街場の現代思想」内田樹 文書文庫より。なお、著作権の関係で本文はぼかしをかけています。内容を知りたいという方は、お近くの書店でお買い求めください。)一覧から行きたいところをタップする(この場合は「文化資本の逆説」)と右の写真の画面に切り替わります。


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 PDF編集ソフトとして、私の場合はPDFの本家であるAdobe Acrobat を使っていますが、もっと廉価なソフトもあります。ジャストシステムの「PDF 高度編集」などは安いうえにアクロバットとほぼ同程度の機能があるのでお買い得といえるでしょう。
 ただし、「しおりなんかいらないよ」という人もいると思います(マンガをPDF化するときにはたしかに不用でしょうね)。そういう方にはPDF編集ソフトは必要ありません。

【作業のポイント】
1.背表紙の裁断幅は大胆に
 本は背表紙のところでのり付けされているので、この部分をカットすると1枚ずつばらばらにすることができます。そうやってドキュメントスキャナーで読み込むわけですが、背表紙の裁断幅が狭いとのりづけされた部分が残ってしまうことがあります。スキャナーで読み込む際に紙詰まりやページ飛びなどの原因となるので、裁断幅は大胆にとります。 ただし、スキャナーで読取る祭には、余白(ページ端から内側に向かって数ミリ幅の領域。この部分は読込みされません。)が設けられます。裁断幅が広すぎると、この余白部分に文字が近づくことになり、できあがったものを画面表示させると、文字領域がページ端すれすれになってしまいます。
 文庫本を裁断するときは、はがきの幅よりも心持ち広めのところでガイドレールを設定するとよいようです。なお、裁断機にはガイドレールは必ずついていますし、用紙の大きさを示すマーカーも設けられているので、困ることはありません。

2.スキャナーに通すのは中表紙から
 本のページは、中表紙を1ページとして順に割り振りされています。読込み作業中、それまで読込んだページ数がパソコンの画面に表示されます。それと印字されているページ数とを比較すれば、ページ飛びがないことを確認することができます。それまでに読込んだ紙のページ数が204で、画面のページ数が202となっていれば、どこかで2枚いっぺんに読み込んでしまい、そのためにページ飛びが発生したことがわかります。これに気づかないで作業を終えてしまうと、せっかく電子化した書籍に落丁が生じてしまいます。

3.スキャナーの解像度設定は300dpi は必要です
 初期設定は200dpiとなっているようですが、これだとできあがりがなんとなくぼやけた感じになってしまいます。iPhoneなどの高精細化された液晶画面も、これでは宝の持ち腐れになります。
 また、OCR情報を付加する場合も、解像度200dpiでは誤認識する怖れもあるので、300dpiに設定しておきましょう。それ以上の解像度にしても、読取り速度が遅くなりPDF化されたときのファイルサイズが大きくなるだけです。300dpiであれば、人間の目には充分美しく見えます。
 先ほどのiPhoneの画面写真は300dpiで作成したPDFファイルを表示させたものです。著作権に配慮して、本文はぼかしていますが見出しの部分をご覧いただければ、充分実用に耐える品質であることがおわかりいただけると思います。

4.スキャナーのカラーモードは白黒モードで
 写真やイラストなどがない本文であれば、スキャナーで読込むのは白黒モードで充分です。カラーモードにすると読込み時間が遅くなるだけでなく、ファイルサイズも大きくなります。
 なお、ドキュメントスキャナーにセットできる原稿の枚数は文庫本の場合50ページくらいです。原稿がなくなれば新たにセットして引き続き読込みを行うことが可能です。

5.白黒モードとカラーモードを混在させるには
 写真やイラストが印刷されているページを白黒モードで読込むと、黒く潰れてしまい見るに堪えなくなってしまいます。このため、写真やイラストのページだけは、本文とは別個に、カラーモード(白黒写真の場合はグレーモード)で読込む必要があります。この場合、1ページ1ファイル(両面読取りの場合は1枚1ファイル)にしておきます。
 高級機には原稿カラー自動判別機能がついているものもあるようですが、私が使っているDR-150はそうではないので、カラー原稿と白黒原稿を分けてスキャンしなければなりません。

1)あらかじめ写真やイラストが印刷されているページを抜き取っておき、白黒モードで読取ります。
2)写真やイラストを1ページずつ(両面読み取りの場合は1枚ずつ)スキャンし、1つの独立したPDFファイルとして保存します。
3)PDF編集ソフトで白黒文書ファイルを開き、カラーページのPDFファイルをひとつずつ途中に挿入していきます。
4)すべてのカラーページの挿入が終わったら、改めてファイルを保存します。

6.読込みミスの対策
 紙がくっついていたり、のり付け部分のカットがきちんとされていなかったりすると、スキャナーで読み込む際にミスが発生します。
 この場合、最初からやり直しというのも大変です。
 DR-150にはあらかじめ設定したページ数ごとにPDFファイルを作成していくという機能があるので、これを使えば途中で読み込みミスが発生した場合でも被害を最小限に抑えることができるようになります。
 その代わり、1冊の本に対し複数のPDFファイルを分割して作成することになりますが、PDF編集ソフトを使えば複数のファイルをひとつにまとめることが可能です。

7.電子書籍を携帯デバイスに送る
 電子書籍はファイルサイズが大きいのでメールに添付して携帯デバイスに送ることができません。USBケーブルで直接取り込むかネット経由で取り込むかのどちらかとなります。

1)USBケーブルでパソコンから直接取り込む
 iPhoneの場合、GoodReader for iPhone というアプリを入れていれば、iTuneseを使ってパソコンからUSBケーブルでデータを取り込むことができます。
 下の写真はその画面です。iTunese の中央上の方にある「App」をクリックしてから、画面を下の方にスクロールするとこの画面となります。ここでGoodReader for iPhonを選択してから、「追加」ボタンをクリックするとエクスプローラが開くので、iPhoneに取り込みたいPDFファイルを選択します。
 この方法だと取り込み速度が非常に速いのが特徴です。


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2)ネット経由でパソコンから取り込む
 Evernote や DropBox のようなサービスを使えば、ネット経由でパソコンから電子書籍を取り込むことができます。
 DropBoxは無料で2GBまでの容量が使えるのでとても便利です。使い方は、まずパソコンとiPhoneの両方にDropBoxをインストールします。
 次に、パソコンの中にMy DropBox というフォルダができるので、iPhoneに送りたいファイルをその中に入れるだけです。なお、My DropBoxフォルダの中には自分でフォルダを作成することができ、その変更は自動的にiPhoneの側にも反映されます。つまり、パソコン側で行ったファイル管理がそのままiPhoneにも適用されるのです。逆にiPhoneのDropBoxでファイルを削除すると、パソコン側でもファイルが削除されます。

8.携帯デバイスで電子書籍を閲覧するアプリには気を遣いましょう
 私の場合、iPhoneで広く使われているGoodReader for iPhoneというアプリを使っています。有料(350円)ですが、PDF編集ソフトで作成した「しおり」をつかってジャンプすることができる(さきほどのiPhoneの画面はGoodReaderのものです)うえに、縦書きPDF文書を横書き表示に変更させることができ、さらに自動スクロールもできるという非常にすぐれたアプリです。
 iPhoneでは縦書き1ページが1画面に表示されるので、正直いって私のような年寄りには見づらいときがあります。ところが、横書き表示機能を用いると、文章のレイアウトは崩れてしまいますが、文字が大きくなって読みやすくなるのです。しかも自動スクロール機能を使えば、ゆっくり下にスクロールしてくれる(映画やドラマのエンド・クレジットのイメージ)ので落ち着いて読むことができます。(ただしページの切り替えは手動です。)
 もちろんPDF以外のファイルを表示させることもできます。難点をあげれば、縦書き文書の文字列検索ができないことくらいでしょうか。



 長々と書いてきましたが、これから書籍の電子化に取り組んでみようかというかたの、多少でも参考になれば幸いです。
by T_am | 2011-01-09 11:53 | iPhoneを使いこなすために
 バラエティ番組は他愛のないものが多いのですが、そこで使われているテレビ用語には、ときどき、おや? と思うものがあります。今回は2つばかり例をあげてみましょう。

1.われわれは○○を直撃した
 人に会って重要なことを聞き出すというシチュエーションで使われているようです。直撃という言葉は、爆弾や砲弾が命中すること、転じて「台風が本土を直撃した」といういい方が生まれました。
 これらの用法に共通するのは、それによって多大な損害(ダメージ)を与えたという意味です。この語感は今でも多くの日本人に共通するものであり、その仰々しさゆえにマスコミが好んで使うわけです。
 いっぽう、芸能レポーターが使う「直撃インタビュー」という言葉は、なかなか会ってもらえない相手に直接ぶつかるというイメージが元になっているように思います。もっとも、インタビューというのは直接会って聞き取りを行うという意味ですから、重箱を重ねるような用法であるといえるのですが、「直撃」という言葉のもつ仰々しさが視聴者の興味をひくということを計算しているのでしょう。
 先日、テレビを観ていたら、「われわれは○○を直撃した」とナレーターが述べた直後に、相手に電話をかけて聞き取りをしているシーンが放映されたのには笑ってしまいました。電話をかけて聞くことまで直撃というのかね。もっと難易度の高いインタビューならともかく、こんなことにまで直撃という言葉を使うようじゃ、そのうち「我々は下校途中の小学生を直撃した」などと大まじめでいうようになるのではないか? と思ったのです。
 こういういい方がテレビで横行するようでは、人にものを尋ねることを「直撃する」と勘違いするおっちょこちょいも登場するかもしれません。
 そういう使い方をする人が増えていけば、たとえ今は間違った用法であったとしても、将来は正しい使い方ということになり、国語辞典にも掲載されるようになります。それが悪いというわけではありません。言葉の意味はこういうふうにして変わっていくのですから。

2.われわれは○○に潜入した(あるいは「侵入した」)
 一般には公開されていない施設にテレビカメラが入る場合にこういういい方をしているようです。
 ただし、「潜入」とは黙って入り込むこと。また、「侵入」とは問答無用で入り込むことをいいます。ちゃんと取材許可をとって撮影しているはずですから、「潜入」とか「侵入」という言葉を用いるのはおかしいのですが、なぜか台本制作者はこういう言い回しが好きなようです。
 以前、「われわれは○○に侵入することに成功した」といいながら、向こうの職員が施設内を案内し、いろいろと説明していたのを見たときは爆笑しました。
 中学生にこういう番組のVTRを見せて、日本語としておかしいところはどこか? という教材にすると国語嫌いの生徒が減るかもしれません。
by T_am | 2011-01-03 23:05 | 言葉
 年末の新聞に、「環境破壊の損害 530兆円」という見出しの記事が載っていました。なんでも、国連環境計画(UNEP)という機関があって、「地球温暖化や大気汚染など、人間活動が原因の環境破壊による損害額は約6兆6千億ドル(約530兆円)に上り、世界の国内総生産(GDP)総計の11%にもなるとの調査結果をまとめた」のだそうです。
 530兆円といわれても、金額が大きすぎて私にはピンと来ませんが、いつものように大騒ぎして人の不安を煽ることが狙いなのだろうということは察しがつきます。この記事によれば、UNEPの主張は概ね次のとおりです。

・現在の傾向が続けば2050年には損害額が現在の4倍に達する。
・損害の約3分の1は世界のトップ3千社の大企業に責任がある。
・損害の大きさを考えれば環境対策への投資は意義がある。
・これまできちんと評価されてこなかった損害額をきちんと評価し、責任企業に負担させる制度づくりが重要である。

 論理としては正しいと思いますが、論理の根拠が曖昧なだけに結論を鵜呑みにするわけにはいきません。UNEPの主張の根拠のうち何が曖昧かというと、1.地球温暖化の原因が温室効果ガスにあるとみなしていること。2.毎年発生する自然災害は温暖化が進行していなければ発生していなかったとみなしていること。3.災害による損害額は推計値であり、計算方法によって結果は異なる(健康被害の場合、必要となった治療費を損害とみるのか、休業により失った所得を損害とみるのか、それともその両方をみるのかによって計算結果は異なります。どのような方法をとるにせよ、その計算は煩雑なものになりますから、世界規模でこのような集計が正確に行われるとはとても思えません。)にもかかわらず、単純合計しているらしいこと。などがあげられます。
 こういう数字というのは、初詣の参拝客数といっしょで、大きければ大きいほどインパクトも大きなものになるので、過大な数字が公表される傾向があると思います。どうせ誰にも検証することができないのですから、何をいっても間違いにはならないのです。

 検証不能の仮説は科学の対象ではないということになっています。すなわち、地球温暖化に対する温室効果ガスの影響を研究するのは科学ですが、この二つをいきなり結びつけて、温暖化対策が必要だと論理を展開するのは科学ではないということです。
 環境省を始めとする温暖化対策論者の主張をみていると、温暖化によってこのような被害が起こっていると指摘していながら現状を容認しているというところが見受けられます。彼らが主張しているのは、温室効果ガスの排出量を減らそうというものであり、地球全体の温室効果ガス濃度を減らそうというのではありません。つまり、地球全体でCO2を新たに排出する量と吸収する量のバランスが崩れている結果、CO2濃度が上昇しているわけですが、これを逆転させない限りCO2濃度が減少することはありません。ところが、そうなれば現代の石油に依存した文明社会と経済成長は維持していけないということに彼らも気づいているのです。
 2008年に行われた洞爺湖サミットでは2050年までに世界全体でCO2排出量を50%削減していくという「提言」が行われました。しかし、それが実現可能であるとは誰も信じてはいません。
 本来ならばCO2の排出量の目標を前年対比マイナス1.5パーセントと一律に決めたほうがわかりやすく、しかも合理的かつ公平であるといえます。毎年1.5%のマイナスを繰り返していくと、40年後の2050年にはマイナス50%という目標が達成されることになります。
 そのためには従来存在しなかった画期的な技術が登場しなければ、この目標を達成することはできません。しかし、各国ともそのような技術開発に予算を配分しようという動きはなく、むしろ省エネや排出権取引、ひいては環境税の制定など効果が疑問視されるようなことばかり目が向けられています。そもそも40年後の長期目標があげられているだけで、それに向けた具体的なアクションプランすら示されていないではありませんか。
 この事実をもってしても、政府には本気で取り組もうという意志はなく、予算獲得のための口実がほしいのだということがわかります。この国では、そういうことを繰り替えして来た結果、国民一人当たりの借金が700万円を超えたといっているわけです。意味のない、効果のないことに予算を注ぎ込むことはもうやめにしないと、この借金はいつまでも膨れあがることになります。
 
 世の中が変わっていくというのは、国民の大多数が、なんとなくそうなのかと思い目立った反対をしないときに、なし崩し的に変わっていくのだと思います。私たちはこれからも同じことを繰り返すのでしょうか。
 幸いなことに、現代にはネットという誰でも自分の意見を表明できる場があります。そういう場を活用して、いうべきことはいわせてもらうということが大人の責任を果たすことになるのだと思っています。
by T_am | 2011-01-03 10:35 | その他