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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 この前オーストラリア在住の知人(この人はとてもしっかりした考え方をする人で、このブログに時々登場するセイヤさん同様、この人の話を聞いていて目からウロコが落ちるという経験を何度もしています)から21日行われた選挙について教えてもらいました。労働党政権の失政が相次ぎ支持率が急降下したために、このままでは11月の選挙に勝てないとラッド首相が辞任させられ、副首相だったギラードが首相になったところで前倒しで選挙が行われたのだそうです。選挙に勝てそうかそうでないかで担ぐ御輿を変えるというえげつなさはどこも同じようです。
その選挙の結果ですが、過半数ととるために76議席必要なところ労働党72議席、保守連合73議席 、緑の党1議席、無所属4議席(合計150議席)となったそうです。
今回は、そのことについて、最近の日本の情勢も踏まえて感想を述べてみたいと思います。

太平洋の向こう側にあるオーストラリアでも過半数をとった政党がいなかったというのは、とても興味深い出来事です。
日本の場合は衆議院では民主党が単独過半数を獲得しています(その代わり、参議院で否決された法案を衆議院で再可決するのに必要な3分の2以上の議席までは確保していません)が、参議院では単独過半数ではなかったために、国民新党と社民党と連立していました。
ところがこの前の参議院選挙でで民主党が負けてしまったために、民主党と国民新党だけ(社民党は連立を離脱したので)では過半数を制することができない状態となっています。

私は、これも「民意」のあらわれではないかと考えています。

これは最近考えていることなのですが、個人の意思や行動はまちまちでも全体になると一定の方向性のようなものがあらわれることがあるように思います。選挙の場合は特にそれがあらわれやすいと思うのです。

このことについて、個人を水の分子に例えて考えてみましょう。水の分子はそれぞれ固有の運動をしており少しもじっとしていないことが知られています。水の分子が大勢集まって流れ出すくらいの量になると、それはしだいに低いところに流れていっていずれ川に合流します。川というのは、上流から下流に流れていますが、場所によっては流れが澱んでいたり、あるいは渦を巻いていたりしますし、急な流れのところもあればゆっくり流れているところもあります。それでも川は下流に向かって流れていきます。それでも分子レベルで捉えると、ここの分子は不規則な動きを繰り返しているのです。
このような現象が起こるにはいくつかの条件があると思いますが、今のところこうでないかというのは次の2つです。

1.個体が集まって一定の規模以上になること。この規模が大きければ大きいほど方向性は鮮明になっていきます。
2.個体も全体も何らかの法則の影響を受けていること(水や川の場合は重力の影響を受けています)。


 このように考えると、選挙というのはまさに個人の意思を集合させるためのメカニズムであるといえます。したがって、投票に参加する人が多ければそれだけ「全体としての方向性」ははっきりしていきます。日本におけるこの前の参議院選挙の投票率は決して低いものではありませんでした。

 そして、このようにしてあらわれた「全体としての方向性」のことを「民意」と呼んでも差し支えないのではないかと思うのです。念のため世論調査との違いを申し上げておくと、世論調査は民意の一部に過ぎないということです。

 そうすると、この「民意」をどのように理解するか、ということが次の課題となっていきます。民意に沿った政治行動を続けていれば、その政党は勢力を伸ばすことができるはずですし、逆に民意を理解せず乖離した行動をとる政党は勢力を失っていくことは容易に想像がつくことです。

 それでは、この選挙で明らかになった「民意」とは何かというと、(たぶんオーストラリアでも)「安易に政策を決定させはしない」ということに尽きるのではないかと思っています。
 日本の場合、小泉内閣時代の郵政解散選挙で圧倒的多数を獲得した自民党は、次の安倍内閣のときにエネルギッシュに様々な改革に取組み、いくつかの法案を成立させました。そのことに不安を覚えた国民は前々回の参議院選挙で自民党の勢力を削ぎ、参議院では過半数に達しないという状況をつくりだしました。この現象は「ねじれ国会」と呼ばれており、民主党に政権が交代した後の最初の選挙である参議院選挙においても同様のことが起こり、衆議院と参議院で勢力が逆転する状態が起きたことは既にご存知の通りです。
 思うに、これまでの国会運営というのは、そうたいした議論も行われずに強行採決によって法案が成立するということが続いてきました。政府与党はとにかく法案を成立させようとしていましたし、野党はとにかく反対という立場を崩していませんでした。そこには議論によって合意(手垢のついた言葉でいうと「妥協案」)を形成しようという動きはありませんでした。おかしなことに、与野党の対立がそれだけ激しいものであるにもかかわらず、国民はその法案がどんなものであるかよく知らないというのが通常でした。それだけ重要な法案であるにもかかわらず、政府もマスコミも国民に周知させようという努力を怠ってきましたし、また国民も知ろうとはしなかったのです。
 そのような状態が続くなかで重要な法案が次々と成立し、それによって国民の生活も大きく変わってきました。税や社会保険料の負担は増える一方でありながら景気はいっこうに回復しない(実は、リーマン・ショックまではゆるやかな経済成長が続いていたのですが、生活実感としては景気が悪いと感じられていました)。このまま任せていたのでは何をされるかわかったものじゃないという意識が芽生えてきたように思います。
 自民党が支持を失ったのはこのためであると考えることができますし、政権交代後の民主党が支持率を低下させたのは、普天間基地の移設と「政治とカネの問題」もありますが、やってることは自民党時代と大差ないということに気づいたからだと思います。

 そのために「民意」が選んだのは「特定の政党に対し決定力を与えない。すなわち過半数を超える議席を与えない。」というものでした。民主党を増長させないようにし、かといって自民党に力を与えるわけにはいかないということで棚からぼた餅式に議席を獲得したのがみんなの党だったと考えるとわかりやすいのです。
 そう考えると日本でもオーストラリアでも「絶妙な」議席配分になったといえると思いますが、いかがですか?

 「民意」に沿った政治というのは、重要な法案についてはあらかじめ国民に周知したうえで国会にかけることが重要になってくると思います。そんなことはとっくにやってるよ、と官僚や政治家のみなさんはおっしゃるでしょうが、それは大きな誤りです。今までは、最初から結論ありきでプロパガンダが行われてきました。「このままでは年金が破綻してしまいますよ。だから保険料を上げないといけないんですよ。」とか「国の借金が900兆円を超えてしまい、このままでは財政が破綻しギリシャみたいになりかねません。だから消費税を上げる必要がありますし、景気を刺激するためには法人税を下げる必要があるのです。」ということが繰り返し報道されてきました。ひどいものになると、結論の正当性を強調するために都合の悪い事実を隠すということも行われてきました。
マスコミがそれを報道するのは当然ですが、その際に、政府の発表は解決策のひとつの案でありそれ以外にもこのような選択肢があるのではないか、という姿勢がまるっきり欠落しています。政府の提灯持ちのような報道(最近では増税問題がそうです)が行われるか、あるいは政府案を全否定するような報道(普天間飛行場の移設をめぐる報道がそうでした)が繰り返されています。そこにあるのは政府案に対する賛成か反対かという結論であって、議論が起こりようがないのです。

この前の選挙で明らかになった「民意」はこのような政治手法に対する拒絶であると考えたらどうでしょうか。
9月には民主党の代表選挙が行われます。民主党といっても決して一枚岩ではありません。むしろ政治理念が微妙に異なるいくつかのグループ(自民党に対しては派閥というのに、民主党に対してはなぜかグループと呼んでいます。)の集合体が民主党ですから、政権獲得後始めて行われる今回の代表選挙では主導権争いが熾烈になってきています。菅総理の立候補は当然として、小沢一郎の出馬声明は党内の主導権争いが深刻なものであることを示しています。折しも国会が閉会中ですので、もはや恥も外聞もかなぐり捨てて票固めに精を出しているという感があります。
それにしても、小沢一郎が連合に支持を求めたり旧社会党系の議員に支持を呼びかけているというのも違和感がぬぐえません。政治力学からいえば不思議はないのでしょうが、政治理念はどうなのだという疑問は残ります。小沢一郎は民団に対しても外国人参政権を実現させると発言しています。小沢一郎の政治姿勢というのは、常に権力を手繰り寄せておくことを志向し、その権力を用いて自分の反対勢力に圧力をかける(自分に従わない議員には政党助成金を配分しないなど)ことによって権力を維持するというものです。まさに自民党の派閥のボスと同じやり方をしているわけです。
一方、総理を辞任するときに「次の選挙には出ない。(政界を)引退する。」と述べた鳩山前総理がしきりに動き回っているのも目につきます。いったんは菅総理を支持したかと思えば、小沢一郎を支持すると明言したのには驚きました。しかもその理由として「私は小沢氏に総理にまで導いていただいた。ご恩返しをすべきだ」と述べたのには正直いって呆れてしまいました。マンガや映画の登場人物がこういう台詞を喋れば喝采を浴びるのでしょうが、現実の政治家がこういう浪花節を口にするとは思いませんでした。もちろん修辞法としてこういう言い方をする場合はあるのですが、鳩山前総理の場合本心からいっている節があり、結局この人は理想という感情に基づいて行動する人なのだということがわかります。(人間としてそれが悪いといっているのではありません。むしろ、波長さえ合えばいい友達になれるタイプの人だと思います。ただし、そのことと政治家の適性というのは別な問題です。)
この民主党代表選をめぐる一連の動きが国民からはどのように見えているかというと、自民党の派閥争いと同じだと映っています。民主党の次期代表=日本の総理大臣ですから、当然マスコミもこのことを大きく報道するわけですが、それに反比例して国民はしらけていっているように感じます。
民主党のセンセイ方はそのことに気づいていないのか、それともそれどころではないのかはわかりませんが、どちらが新しい代表になっても民主党を見る目はさらに厳しいものになりそうです。誰かがいっていましたが、代表の任期が2年しかないというのは短すぎます。これでは総理がころころと替わることになりかねず長期的な展望に立った政策が実行できないことになるので、政権をとる前に代表の任期を伸ばしておくべきだったと意見があり、全面的に賛成です。

長くなりましたが、まとめると、今の政治手法を続ける限り内閣と与党の支持率の低下は止まらないということです。それを防ぐには、重要法案に関しては国民を巻き込んだ議論を行い、そのうえで国会で決着をつけるという手法を新たに開発する以外にないと思います。マスコミがこれだけ世論調査に熱心なのですから、重要法案に対して国民がどのように思っているかというのはただで調査してくれるわけです。その結果をふまえて修正すべきところは修正して法案を可決するというプロセスを踏むことが「民意」に沿うということになるでしょう。

与党が議会で過半数を確保していないというのは政権の基盤を弱くします。そのために連立するのですが、どうしても政策につぎはぎが発生してしまいますから、長期的には国民の不信を招くことになります。本来与党が弱いというのは、元首の指導力低下を招くので国にとっていいことではないのですが、かつての「高度成長・所得倍増」といった単純で強烈な訴求力を持った政治理念が登場しない限り、この傾向はどの民主主義国家についてもいえることではないかと思います。
国にとって最もよい結果をもたらす政策の決定には丁寧な手続きと時間がかかるのは避けられないことなので、そうなっても支障ないようにしておくために、国の安全保障について整理しておくというのも必要でしょう。
by T_am | 2010-08-29 13:00 | その他
 猛烈な残暑が続いています。これを地球温暖化の影響であると考える人もいるようですので、今回は今年の猛暑の原因について申し上げたいと思います。

 結論をいってしまうと、猛暑の原因は日本近海の海面水温が平年よりも高くなっていることだといえます。その証拠をお目にかけましょう。この図は気象庁が公表している今年7月の日本近海と北西太平洋の海面水温が平年値とどれだけ乖離しているかを表示したものです。


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 ご覧のように九州南部では平年よりもやや低いものの、それ以外の日本近海では軒並み平年以上の海面水温を記録しています。(グレーは陸地。白は平年+1度未満を表しています。)
 その実際の温度はどうだったかを示したものが次の図です。


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 日本の南側海上は軒並み真っ赤であることがわかります。これだけ真っ赤なわけですから、暑い夏になるのも当然であると感覚的に理解していただけるのではないかと思います。


 では、なぜ海面水温が高いと気温が上昇するのかといえば、真冬の風呂場が決して寒くないのと同じ理由によるものです。すなわち、浴槽のお湯が風呂場の空気を暖めているので寒さを感じないのです。
 ちなみに、今年五月の海面水温はどうだったかを示したものが次の図です。


c0136904_2123471.jpg



 7月のデータとは一転して、日本近海は軒並み平年以下であったことがわかります。実際のところ今年の5月は寒い日が続き、作物の生育が心配されるほどでした。
 このように海面水温が日本の気温に大きな影響を与えることがお分かりいただけると思います。
 
 なぜ海面水温が平年よりも上昇しているかというと、CO2による温室効果が原因ではないことは明らかです。温室効果が原因であるならば5月の日本近海の海面水温が平年以下となるはずがありません。むしろ平年以上にならなければならないのです。
 お風呂を沸かすのに、風呂場にストーブを持ち込んで一生懸命空気を暖めるということは普通しません。風呂釜に火をつけて直接水を暖めたほうが早いからです。
 それでは海面水温を上昇させる最大の要因は何かというと、それは太陽の輻射熱です。何らかの事情で晴天の日が続けば、それだけ海面は暖められるので、水温は上昇します。その結果日本では暑い夏となるのです。

 ちなみに海面水温が高くなれば、それだけ蒸発する水分が増えることになりますから、暖かく湿った空気が日本に流れ込むことになり、各地でゲリラ豪雨を引き起こしていると考えられます。

 今年の猛暑発生の原因は今申し上げた通りですから、地球温暖化とは関係ありません。したがって、CO2の削減に努力しても未来における猛暑の発生を食い止めることはできません。
 同じエネルギー(お金と労力)を費やすのであれば、CO2の削減に努力するよりは災害予防に力を入れた方がよほど社会のためになるというのはそのためです。


追記
 今年の猛暑が平均気温を押し上げることになるのは間違いありません。それを「地球温暖化」と呼んでいるのであり、その原因は何もCO2などによる温室効果だけではないことがお分かりいただけると思います。むしろ海面水温の変動の方が気温に与える影響は大きいのです。
 ついでに申し上げておくと、台風というのは北西太平洋に貯まった熱エネルギーによって発生します。台風もエネルギーの塊(ただし熱エネルギーが風のエネルギーに変換されています)ですから、それが日本を通り過ぎて行くことにより、エネルギーを途中で放出しているといえます。このように地球規模では、偏ったエネルギーの分布を拡散させて均一化させようとするメカニズムが台風であると考えることができます。
 また、台風による風は波を起こします。それによって海面が撹拌され、下のほうにある冷たい海水とかきまぜることになりますから、海面水温はそれだけ下がることになります。
 そうなると気温も少し下がることになり、日本列島はこうして秋を迎えていくことになります。しかし、今年の場合、台風に発生件数が例年に比べて少ないので、この猛暑はまだ当分続くと覚悟した方がよさそうです。



今回引用した図は気象庁のサイトから借用しました。興味のある方はアクセスしてみてください。

http://www.data.kishou.go.jp/db/kaikyo/dbindex.html
by T_am | 2010-08-27 21:25 | 科学もどき
 プライベートでスマートフォン(iPhone)を使うようになって1週間が経ちました。会社で貸与されている携帯電話があるのですが、プライベートで電話をかけたりすることもあって、公私の区別をするためにもう1台携帯電話があった方がいいということになりました。せっかくだからスマートフォンにしようということになり、いろいろと比較してみたところ、料金がもっとも安いiPhoneになったという次第です。
 iPhoneに関してはまだまだ初心者なのですが、感じたことがいくつかあるので今回はそのことを述べてみたいと思います。(こういうのを「向こう見ず」というのでしょうね。)

 iPhoneを使ってみて感じたことは、appleというのは実に傲慢な会社であるということです。傲慢というのは、「ルールはわしらが決めるけんね。あんたらはそのルールに沿って適当にやってりゃええんよ。」という姿勢が目につくということです。
 たとえば、iPhone4本体は現在のところ黒しか販売されていません。いずれ白いiPhoneも発売されるようですが時期は未定です。ところが、付属品であるACアダプター・USBケーブル・イヤホンは白で統一されています。本体が黒なんだから付属品も黒にすればいいのにと思うのですが、そうではありません。どうしても黒が欲しい人はサードパーティが発売しているアクセサリーを買うことになります。
 また、iphoneには携帯電話のようにストラップをつけるという発想がありません。洗練されたデザインなのでストラップなどという無粋なものはつけなくてもよろしい、ということなのでしょうか。そうなると、男の場合、どうしても取り出しやすい胸ポケットに入れるということになるので、うかつに前屈みになると落としてしまうという心配がつきまといます(この前早速落としてしまいました)。落とすことで傷でもつけたら大変です(月賦が終わってない)から、カバーや液晶保護フィルムをつけなければなりません。
 極めつけは電池交換費用がバカみたいに高いということです。1年間の保証期間内は受付不可となっているので、電池交換をする場合は2年目以降に9800円を支払わなければなりません。そこで、Apple care Protection Palanというのに会費7800円を支払ってかかります。2年目からの1年間は無料で電池交換してもらえることにしました。このプランには購入日から2年間は電話サポートが何件でも無償という特典(通常は購入日から90日以内)がついていますから、ちょっとお得かなとも思うのですが、たぶん電話サポートは利用しないと思います。
 例えていうならば、連れて歩くと自慢できる美人のカノジョみたいなもので、その反面、やたら金がかかるという欠点があります。

 実際に使ってみた感想としては、あらかじめ決められて道を高速走行する快適さという感じが否めません。ユーザーの好みでコースを外れることは基本的にできないということなので、私のように根性の曲がった人間はなんとなく面白くないのです。

 それでも、30人程度いる営業マンの全員にiPhoneを持たせている会社があります。そこの社長さんに聞いた話では、スケジュールを共有できることが重宝しているとのことでした。ちなみにこの会社では営業マンにiPadを持たせることも検討しているそうです。
もっとも、地方におけるiPhoneの弱点は通話が途中で切れるということであり、そのため顧客との通話用にドコモの携帯電話を持たせているという笑えない話も聞かされました。
 ソフトバンクの携帯電話で発生しているトラブルは次の2点に集約されるようです。

1.会話の途中で突然相手の声が聞こえなくなる。最悪の場合、そのまま切れる。(腹立たしいことに最悪の場合が発生するケースの方が多い。)
2.通話中、ラジオのチューニングダイヤルを回したような金属音のノイズしか聞こえなくなる。(デジタル信号を音声信号に変換することに失敗したものと思われる。ただし、この現象はドコモの携帯でもごく稀に発生していた。)

 このように、通話していてストレスが溜まることから、社員に貸与する携帯電話をソフトバンクからドコモに切り替えたという会社もあるので、ソフトバンクもうかうかしてはいられないと思います。(教科書のデジタル化などということに口を挟む暇があるくらいなら、自分の会社の電話の不便さを何とかしてもらいたいものです。)


 ここまでさんざんiPhoneの悪口を書いてきたので、今度はいいところについて書いてみます。
 これはiPhoneに限ったことではないのですが、スマートフォンの最大のメリットはパソコンとデータ(情報)を共有できることです。
 携帯電話でも、メールを使えばパソコン宛に写真や文章を送ることはできますが、それ以上のことはできません。(それにカメラの画素数がどれだけ増えようとも、ケータイで撮った写真はどれも面白みに欠けるのです。そのせいか、ケータイ専門のプロカメラマンというのを私は寡聞にして知りません。)
 だからといってスマートフォンを使ってパソコンと同じことをしたいと考えるのは無茶というものです。そもそもパソコンとは画面の大きさが違いますし、操作性も段違いに劣るのですから。
 そうなるとスマートフォンでできることというのは割り切って考える必要があるということになり、とりあえず次の2つが思い浮かびます。

1.パソコンに入っている情報を外に持ち出すことができる。
2.外出先で収集した情報をパソコンに送ることができる。

 情報を持ち歩く道具として古くから使われてきたものに手帳があります。それを電子化してパソコンと情報を同期(一方の端末で入力・編集した情報の内容ががもう一方の端末にも反映されること)させることが可能になった(携帯電話には無理な相談です)ので、強力なシステム手帳として使うことができるようになったと考えられます。このような機能を備えたスマートフォンはジネスだけではなく人間の活動の全般に渡って活用することが可能です。その本質は「記録する」ということにありますから、趣味や旅行に利用することも可能です。たとえば、旅先で食べた料理や印象に残った風景の写真を撮って、感想をメモに残しておくという使い方はスマートフォンの最も得意とするところです。

 スマートフォントとは何かといえば、多彩な通信機能を持った記録装置であると理解した方がいいように思います。現に、iPhoneユーザーの中には外出時にはパソコンを持ち歩かなくなったという人もいます。さらには、もはやパソコンは不要であると豪語する人もいます。
 ただし、外出先でも高度で複雑な情報の入力・編集をしなければならない人は相変わらずパソコンを持ち歩かなければならないことはいうまでもありません。

 ここで、情報を「記録する」のはなぜなのかというとことについて考えてみると、「そのことについて後でじっくり考えたり、作業するため」であるといえます。人間にとって考えるというのは頭の中だけで完結させることもできますが、自分のアイディアや思いつきをいったん紙やディスプレイに「出力」して、それを見ながらさらに推敲を加えるというやり方をとった方が、はるかに成果が上がるのです。そのために、外出先であっても思いついたことや印象に残ったものを簡単に「記録」できるというのは重要です。
 パソコンがこれだけ普及した理由は、思いつきやアイディアを目に見える形にする機能が優れていること、および出力した情報の編集が容易であることがあげられます。(表計算ソフトの登場は、それまで電卓を使って計算していた頃は丸一日かかっていた作業が数分で終わるようになりました。)知的生産活動のためのツールとしてのパソコンの地位は今後も揺るぎないと思いますが、スマートフォンはパソコンの弱点(起動が遅い。携帯性に劣る。など)を補完するツールとして、携帯電話では満足できないユーザーを拾い集めながら、今後も普及していくものと思われます。もっとも、ビジネス一辺倒ではユーザーの気を引くことができないので、スマートフォンでは娯楽機能もかなり充実させています。それでも日本の場合は世界に冠たるケータイサイトがあるので(これをガラパゴス化という人もいるようですが)、興味本位や娯楽目的で選ぶならば携帯電話を使った方がいいと思います。ワンセグで高校野球やゲゲゲの女房を観たくても、今のところスマートフォンは対応していないのですから。
by T_am | 2010-08-25 22:17 | その他
 以前この欄で、デジタル教科書教材協議会による教科書をデジタル化しようという提案について批判的な意見を申し上げました。その理由は、協議会設立のレセプションで孫正義社長が行ったスピーチを聞いて、教育改革の目的として将来の有能なビジネスマンを育てなければならないというところに主眼があるように思えたからです。日本中のこどもに有能なビジネスマンを育てるための教育を施してどうなるのだと思うのですが、このような要望は経済界には根強いようです。
 そこで今回は経済界の皆様にご満足いただけるように教育の一部を改革することをご提案したいと思います。

 改革といっても単純なものであり、それは、中学校卒業生を対象にした7年間のビジネススクールを開設するというものです。ただし、このビジネススクールには日本のエクセレント・カンパニー100社が協賛しており、卒業生にはこれらの企業に就職できるという特典が与えられます。
 卒業生を無条件で採用するわけですから、ビジネススクールは生徒に対しどこの企業でも通用する知識とスキルを身につけさせなければなりません。そのためには、必要な単位を取得できない生徒は落第=退学という仕組みにする必要があるでしょう(たとえばビジネスマンが大好きなTOEICで800点以上をとらないと卒業させない、とか)。こうして毎年何割かの生徒が脱落していくことになるので、高校や大学からの編入試験を年度末に行なうようにして欠員を補充する仕組みも必要です。
 こうすることで、このビジネススクールの卒業生であれば誰でも一定の水準以上の知識とスキルを身につけていることが保証されるようになるので、企業は誰を選んでもよいということになります。その人の性格については、入学試験や編入試験の際に企業の人事担当者が面接してそれで合格したものだけを入学させるようにすればいいのです。具体的には筆記試験の合格者に対し面接を行い、それで合格した者を入学させるということになります。つまり、企業が行う採用試験を中学校卒業時に実施してしまうと考えた方がわかりやすいかもしれません。
 企業はその代償として、自社の採用枠×百万円を毎年このビジネススクールに寄附しなければなりません。10人採用するのであれば1,000万円を寄附するわけです。それでも企業が毎年新卒を採用する経費に比べればずいぶんと割安になっているはずです。
 また生徒に対しては、卒業後の就職が約束されているのですから、このビジネススクールに入学したいという学生は後を絶たないものと予想されます。したがって授業料も公立高校よりも多少割高に設定しても文句は出ないはずです。そして3年経った段階で、国立大学並の授業料をとるようにすることも可能です。家が裕福でなくても才能の豊かな生徒はいるはずですから、彼らのために奨学金制度も整備する必要があるでしょう。

 将来国際社会に出ても十分通用する有能なビジネスマンを育てたいというのであれば、教科書をデジタル化するよりも、このようなビジネススクールを開設する方がよほど確実です。
 このようなスクールというのは、何もビジネスマンを養成するものばかりでなくてもよいのです。医者になりたいこども、弁護士になりたいこども、官僚になりたいこども等々。こういう子供たちを集めて専門の知識とスキルを教え込むスクールを開設すれば、入学希望者はいくらでもいると思います。(その際の要点は、卒業することは難しいけれども卒業すればその業界に確実に就職することができるという仕組みにすることです。)
 また、将来何になりたいかよくわからないというこどももいることでしょうから、そういうこどもは普通に高校に進学することになります。その代わり、高校在学中(あるいは高校卒業時)に将来なりたいものが決まったならば、そのスクールの編入試験を受ければよいのです。
 そのように考えると、私の提案は、こどもに対して選択の幅を広げていると考えることができます。現在は、中学を卒業するこどもは高校へ行くという選択しかありません。そうなると、こどもの適性や本人の希望を無視したカリキュラムであっても、生徒にはそれを拒否することはできないのですから、苦しい思いをするために高校に進むという結果になっていると思います。
 我慢して高校を卒業した場合はまだましであって、大学へ行くか専門学校へ行くという選択肢があります。しかし、将来自分が何になりたいかよくわからない生徒が、とりあえず大学へ行っておくかという動機で大学へ行く場合もあります。また、専門学校を卒業したからといって、希望する業界に就職できるという保証はどこにもありません。
 それよりも自分の進路をきちんと決めたこどもに対し、その希望をかなえる仕組みが教育制度の中にあってもいいのではないかというのが、今回の提案の根本にあるのです。


(追記)
 教科書をデジタル化することで、そのハードウェアやソフトウェア、あるいはコンテンツを供給する企業は莫大な利益をあげることができるかもしれませんが、そういう楽な商売にあぐらをかいている企業というのはいずれ衰退するというのは歴史が証明しています。国際的に通用する有能で競争力を持った人材を育てるべきだといいながら、彼らの受け皿となることが期待される情報通信企業が競争のない商売を目指すことになるのですから皮肉なものです。
by T_am | 2010-08-16 23:20 | その他
 平成22年8月10日管直人総理大臣が談話を発表しました。この談話を読んで思ったことをいくつか書いてみることにします。
 まず、日韓関係というのは既に「和解の段階」に入っているということです。ある事件に対して加害者の側から「謝罪」が表明され、そのことによって「和解」の段階に進みます。現在の日韓関係は政治的にも経済的にも緊密な関係になっているので、二国間の関係は「和解の段階」とあると考えるのが妥当でしょう。
 
 そのことを日本人も韓国人も認識すべきです。

 したがって菅総理が談話の中で「痛切な反省と心からのお詫び」を表明する必然性は(論理的には)ないと考えることができます。韓国が日本に対して「謝罪要求」という外交カードをちらつかせることは日本人の神経を逆なでするだけですから得策ではありません。(これは中国についても同じことがいえます。)
 現に今回の菅総理の談話について、いったい何回謝罪するのだという批判の声がマスコミや与野党からも上がっています。この問題を外交カードにされてはかなわないという重いがあるのでしょうが、こういう声が日本国内にあることが韓国で報道されると、今度は韓国の国民の間で日本に対する反発が起こることは目に見えています。

 ではどうすればいいか?

 韓国で行われている慰霊祭に日本政府の代表が出席して追悼の意を表すること。その代わり、広島・長崎で原爆記念日に行われる慰霊祭にも韓国政府の代表に出席を求めることでしょう。終戦記念日に靖国神社には行くけれども、他国で行われる慰霊祭は無視するというのは外交の対等性・相互性に反するように思います。

 菅総理が談話の中で、「痛切な反省と心からのお詫び」を表明したというのは心情的にはわからないでもありません。というのは、和解は謝罪を契機として始まるからです。管直人総理は年齢的には先の戦争に関与している世代ではありません。したがってあの戦争について責任を感じるいわれはないのですが、韓国と正面から向き合う立場に立ったときに、和解というプロセスに入るためにはどうしても謝罪というステップを避けて通ることはできないというのは、個人の意識の中ではあり得ることだと思います。
 韓国人や中国人の知り合いがいて、その人があの戦争についてわだかまりを持っているとわかったときに、その人と信頼関係を築いていこうとするならば、心理的には謝罪というステップを避けて通ることができないのはおわかりいただけると思います。
 そういう意味では今回の談話は、管直人(およびその側近)の個人としての意識が強く現れたものであると考えることができます。このような意識は歴代の総理にも働いたようであり、櫻井よしこさんによれば、日本政府が歴史に対して謝罪したのは田中角栄の日中国交正常化以来36回にも及ぶのだそうです。(【櫻井よしこ 菅首相に申す】より)
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100811/plc1008112356015-n1.htm
 
 歴代総理の中には、とにかく謝罪して頭を低くしていればいずれ風向きも変わるから、と思っていた人もいるかもしれませんし、あるいは単純にお人好しであったという場合もあるかもしれません。いずれにせと、「そんなことは自分の知ったことではない」という面の皮の厚い総理大臣を持たなかったことは両国にとって幸いであったと思います。

 地理的にみて、日本と韓国は緊密な友好関係を築いていく以外にありません。そのために何をすべきかと考えるのが両国にとって必要なことでなのですから、メディアや政治家はそのことをもっと国民に対して訴えていくべきでしょう。

追記
 日韓併合というのは日本による朝鮮半島への「干渉」(これは朝鮮民族にとっては「侵略」となります)の結果であると私は思います。幕末の日本人は、清という大国が欧米列強に浸食されるのをみて、このままでは日本も同じことになるという恐怖を覚えて明治維新を行いました。その後、明治政府は李氏朝鮮政府に対して、帰国も維新をされよという助言を行いましたが、野蛮人の国が何をいうかと拒絶されてしまいました。李氏朝鮮という国は清の属国でありながら、清の高等な文化に最も近い国は自分たちであるという強烈な自負を持っていました。日本というのは朝鮮にとっては単なる野蛮人の国に過ぎなかったのです。それがいつの間にか異人の習俗に染まり、生意気にも、自分たち(日本)と同じようなことをせよといってきたわけです。朝鮮政府がこれを拒絶するのは当然だといえます(江戸幕府もそうでした)。当時の明治政府の中に、朝鮮に維新を行わせることで欧米列強による日本侵略の防波堤にしようという思惑があったかどうかはわかりません。しかし、日露戦争が起こった理由のひとつに、大陸を南下してきているロシアがいずれ朝鮮半島に達し、その後は日本に押し寄せて来るであろうという恐怖があったことは事実です。
 したがって日露戦争というのは、自分が侵略されないようにするために他国の領土内で戦争をしたということができるので、清と朝鮮の人々にとってはいい迷惑であったと思います。
 歴史に、if という仮定を持ち込むのは無意味ですが、日本が朝鮮半島に対する「干渉」(見方を変えれば「侵略」)を行わなければどうなっていたかを考えてみると、おそらく朝鮮半島はロシアに併合されていたはずですから、現在の朝鮮半島は(分断されずに)ロシアの一部になっていたものと思われます。もしかすると北方領土が奪われたように、九州もソ連によって奪われていたかもしれません。
 だからといって日本の「干渉」が正当なものであった、ということには結びつかないのですが、あの時代、国内の統治能力を持たない国はどこかの国の植民地になっていたということを理解する助けにはなると思います。
 日本は朝鮮半島を併合しましたが、南北の分断には荷担していません。朝鮮を分断国家にしたのは誰なのか、そのことに対して朝鮮民族が謝罪を要求しているのかという議論はほとんどないようにみえます。また、今更そういう議論をしても意味がないことはどなたもおわかりいただけると思います。
 それよりも、これからどうするか。それを考える方が賢いと思いませんか?
by T_am | 2010-08-12 23:10 | その他
 暑い日が続いています。それだけ汗をかくので、ハンカチやタオルで汗を拭くとすぐぐっしょり濡れてしまうという方もいらっしゃるのではありませんか?
 私も汗かきな方なので、この時期は本当に大変です。そこで、今回は汗を拭くときのハンカチやタオルの涼しい使い方をご紹介します。
 
 「使い方」といっても別に大層なものではありません。ポンポンポンポンとリズミカルに汗を(軽く)叩くというだけのことです。
 ハンカチやタオルといえば汗を拭いたり身体を拭くものというイメージがあり、それは別に間違いではないのですが、ひどく汗をかいたときや風呂上がりのときに「身体を拭く」とすぐにぐっしょりと濡れてしまいます。そうなるともうそれ以上水分を吸収してはくれませんから、拭き残しができて不快の思いをすることになります。
 しかし、ポンポンポンポンと濡れたところを軽く叩くようにすると、それだけ早く身体を乾かすことができるようになります。その理由は、軽く叩くことによって空気が動き、風にふかれるのと同じ効果が生じるからです。
 風に吹かれると身体の表面にある水分の一部が蒸発し、そのとき身体の表面から熱を奪っていきます。その分涼しいと感じるうえに、布地が吸収する水分もそれだけ少なくなります。こうしてハンカチやタオルの濡れ方が少なくなると、その分乾きやすくなるという効果も生まれます。

 汗をかいて、団扇や扇子であおいでいる人をみかけますが、あおぐことで身体の表面の汗を全部蒸発させるのは容易なことではありません。また、汗にはわずかながらも老廃物が含まれているので、やはりハンカチやタオルに吸収させた方がいいように思います。

 ついでながら申し上げると、身体に風を当てて冷やそうとするときに、どこに風を当てるのがいいかといえば、内股、脇の下、首から胸元にかけての3カ所が効果的です。特に効果があるのが首から胸元にかけての範囲です。ここを冷やしてやると、熱を奪われた血液が頭に行くことになるので汗が引きやすくなります。(顔に風を当てるのは汗が乾く反面胴体から熱のこもった血液が頭に送られることに変わりはないので、汗がなかなかひかないということになります。)
 夏になると女の人の着るブラウスやTシャツの襟くりが大きく開いているのは、胸元を解放することで頭に送られる血液の温度を下げる効果があるからです。それに、ちょっと色っぽくなるということもあるようです。

追記
 企業によっては、女子の制服として首にスカーフを巻かせているところがあります。あれは見た目はよいものの、この時期はさぞ暑いだろうなと思ってしまいます(聞いたことはないけど)。せっかくクールビズで男はノーネクタイにしてるのだから、女の人のことも考えてやればいいのに・・・
by T_am | 2010-08-11 23:44 | 科学もどき
 前回前々回とデジタル教科書について述べてきましたが、それ以外のデジタル機器が学校でどのように使われているのかも考える必要があります。ちょうどいいタイミングで、日経パソコン誌がそれを紹介していましたので、今回はその内容を中心にご紹介することにします。

 昨年、経済対策の一環として国が「スクール・ニューディール」構想を発表し、補正予算に2千億円以上の予算が盛り込まれました。その内容は、既存のアナログテレビを地上デジタルテレビに整備する。電子黒板を小中学校に1台ずつ整備する。教育用・校務用パソコンを整備する、というものです。その結果、教員の校務用パソコンの台数は1人に1台となり、電子黒板の設置数もそれまでの2万台弱から6万台弱にまで伸びました。
 それまでハードウェアやネットワークといったインフラ整備のための予算は組まれていたのですが、地方交付税交付金として措置されていたために、財政難を理由に他の事業に回す自治体もありました。したがって自治体によって整備状況に差が生じていたのですが、「スクール・ニューディール」では別枠で予算を確保したことにより、整備が格段に進んだのだそうです。末期の麻生政権の評判は芳しいものではありませんでしたが、なかなかいいことをしてくれたと思います。

 電子黒板の利点は、「デジタル教材などをそのまま投影できるため、板書の手間を削減できる 」(日経パソコン 2010年8月9日号。以下同じ)ことにあります。さらに「重要な箇所を拡大する、電子ペンで書き込むといったことも可能」ですから、生徒の理解を助ける効果が高いのです。
 電子黒板は1校に1台の割合ですが、もっと「手軽な機器として実物投影機(書画カメラ)の導入も進んでいる」とのことです。これはカメラの下に置かれたものをスクリーンに投影する機械で、操作が簡単なことから誰でも使えるという利点があります。実物を拡大して投影するので、生徒にわかりやすく説明することができるうえに、授業に飽きないように注意を引くことができるという効果もあるようです。
 同紙によれば、このようなITC(情報通信技術)機器を「活用した授業と活用しない授業を実施し、その後の学力テストの結果を比較」したところ、ITCを活用した方がテストの結果がよかったということであり、教員もその効果を実感しているとのことです。
 従来の教科書と板書だけという授業よりも、電子黒板や実物投影機を用いた方が生徒の関心をひきつける効果は高くなるというのは理解できることです。学校におけるITC機器の活用のポイントは教師の説明を助けるというところにあるようです。
 
 また、校務用パソコンの普及が進んだことによって、使い方によっては教師の作業が効率化されるというメリットも無視できないと思います。そのためには教師のスキルアップを促すということも必要であることはいうまでもありません。
 
 こうしてみるとITC機器というのは、教育のためのツールのひとつであると理解した方がよいと思います。大切なのは、これらの機器を使って何をするかであり、これらの機器が使えるようになることではありません。この点、企業の中のパソコンの使われ方とまったく同じであるといえます。
 学校におけるITC機器の用途のひとつ目は、副教材として教師の説明を助けるというもの。ふたつ目は教師の作業を効率化するということです。事務作業はパソコンを使えば手作業で進めるよりも圧倒的に早く処理することができます。
 3番目の用途としてはソフトウェアを活用することで、生徒の学習を助けるというものです。その事例として関西大学初等部の事例が載っているので簡単にご紹介しましょう。
 紙とパソコンを使いながら作文をまとめるという授業では、生徒はまずメモ用紙程度の紙を何枚を使って作文の構成をまとめます。1枚のメモ用紙が1段落ということで、それらをどのように組み合わせるか、また、何が不足していて何が不要であるかをこれによってまとめます。次にパソコンを使って作文を執筆し推敲していくのですが、二人一組になって作文を書く生徒とそれを横で読む生徒というふうに役割を決めます。こうすると、自分が書いている作文に対し、こうしたらいいのではないかという指摘がでてくるので、その場で推敲するという課程を通じて考える力が身につくのだそうです。また編集の履歴を残しておくことでどのように推敲したかという課程を負うこともできます。
 できあがった作文はプリンターで印刷するので見栄えもよくなります。また、字の上手下手も関係なくなるので、教師は作文の内容で評価することが可能になります。

 ITC機器を授業に用いて効果があがるというのは、生徒が授業に集中するようになるというところがポイントであるように思います。そうでなければせっかくITC機器を導入したとしても無駄になるでしょうが、熱心な教師はどこにでもいるものです。これら有志の教師の地道な試行錯誤というのはとても大切なことではないかと思います。
 どうやら現場の教師や生徒たちが気持ちよく授業に臨むことができる環境を整えてやることが教育改革の要点であるようです。外部からあれをやれ、これをやれと口を挟むの百害あって一利なしといえそうです。
 日経パソコン誌では公立学校情報化ランキングというものをまとめています。評価ポイントは「インフラ整備」(パソコンやネットワークなどの環境整備の進展度合い)と「教員指導力」(ICTを授業に活用したり情報モラル教育をするという能力を教師がどれだけ身につけているか)の2項目であり、データとして文部科学省が実施している「学校における教育の情報化の実態等に関する調査」を用いています。

http://pc.nikkeibp.co.jp/article/knowhow/20100729/1026596/

 それによると大阪府では小学校中学校ともビリから2番目の結果となっています。学力テストの結果とこのランキングとの間に因果関係があるかどうかは不明ですが、相関関係があることは間違いないようです。橋下知事は、学力テストの結果が低いと怒るだけではなく、学校の環境整備を進めた方がよいといえるでしょう。
by T_am | 2010-08-11 20:23 | その他
 今回はデジタル教科書について考えてみます。先に結論をいってしまうと、教科書というのは教育の道具ですから、こうでなければならないというものではありません。適不適はあるでしょう。また、どのような道具でも長所もあれば短所もあるのことを忘れてはなりません。

 前回取り上げたデジタル教科書教材協議会の設立シンポジウムでの孫正義社長のスピーチの前半は教育改革の必要性を説いたものでした。そして後半ではその手段として教科書のデジタル化を説いています。実をいうと、教育改革がなぜ教科書のデジタル化に結びつくのか私には理解できないのですが、とりあえず孫社長の主張を検討してみることにします。

 孫社長によれば、小学校⒈年生から中学校3年生までの間に使う紙の教科書の重さの合計は22kgになるそうです。これに対してデジタル教科書の重さは0.7kgですから、ずっと軽いということになります。
 また、紙の教科書はエコに反するとも指摘しています。原料としてそれだけ多くの木材を必要とするわけですから、そのために森林を伐採しなければならない。このことはエコという流れに逆行しているというのです。
 30年後の企業人に求められるものの中に「プレゼン能力」があると孫社長は指摘しています。紙の教科書とデジタル教科書とをこのように比較することも「プレゼン能力」の実例なのでしょう。それにしては、ずいぶんと底の浅い比較をすることが「プレゼン能力」なのだなと申し上げないわけにはいきません。
 小学校⒈年生から中学3年生までの9年間に使う教科書の重さは合計で22kgだそうです。これを単純に9で割れば1年間に使う教科書の重さが出てきます。22kg÷9年=2.4kgつまり1年間に使う教科書の重さは2.4kgとなるわけです。結構重いですね。でも、全部の教科書を毎日学校に持っていくわけではありません。その日の授業に使う教科書だけを持っていけばいいのですから、せいぜい半分というところでしょうか。そうすると2.4kg÷2=1.2kgとなります。それでもデジタル教科書の0.7kgよりは重いことがわかります。しかし小学生と中学生とでは教科書の厚さが違いますから、このような平均値で比較するのはあまり意味がありません。紙の教科書を持ち運ぶとなると、おそらく中学生ではデジタル教科書よりはずっと重くなり、小学生ではそれほど差がないということになるのではないかと思います。
 孫社長は触れていませんが、iPadのバッテリーの時速時間はおよそ10時間といわれています。これは前の晩にきちんと充電した場合の数値です。生徒の中には充電するのを忘れるこどももいるでしょうから、教室には電源が用意されていなければなりません。(バッテリーが切れればデジタル教科書はただのゴミになってしまいます。)そこで、生徒は万一のために専用のACアダプターを毎日持ち歩くことになります。当然その分重くなるわけですから、0.7kgという数値は過小評価したものではないかという疑いが生まれます。

 次に紙の教科書はエコではないという指摘ですが、それをいうならiPadをつくるのに工場でどれだけのCO2を排出するのかを示して比較しなければフェアではありません。iPadには多くの部品が使われており、それらは金属・ガラス・半導体・高分子化合物などを組み合わせてつくられています。それらの工程のすべてでCO2が排出されているのであって、紙の教科書だけがCO2排出をしているわけではないのです。さらに、デジタル教科書を使うには電気が必要ですが、そのための電気を発電するのもCO2の排出を伴います。でも孫社長はそのことには触れていません。
 このように、「プレゼン能力」というのは、自分に都合の悪いことは触れないで、都合のいいことを過大に表現する能力のことであると、孫社長自ら示してくれているのですから、貴重な事例であるといえるでしょう。もっとも、単なる無知でいっている場合もありますから、一概に決めつけることもできないのですが、いずれにせよ孫社長にとってはあまり名誉なことではないように思います。
 
 デジタル教科書の利点の例として,紙の教科書では英語の発音記号が書かれてあってもどう発音したらいいかわからない、という指摘もされていました。デジタル教科書であれば音声データを埋め込むことができるので発音がばっちりわかるというのです。これはまさにご指摘の通りであると思います。たしかにそういう点ではデジタル教科書というのは便利です。
 でも申し訳ないのですが、それがどうかしましたか? とも思ってしまうのです。教科書に書かれてある英文をネイティブが読み上げるというのは、カセットテープを副教材に使うことで昔の授業でも行われていました。それで日本の学生のヒアリング能力が向上したという報告はされていませんし、発音がよくなったという報告もありません。だから、デジタル教科書の中にネイティブによる読み上げデータを埋め込んでもあまり効果があるとは思えないのです。それよりも、教室で生徒がてんでばらばらに音声データを再生したら、やかましくてかなわないということになりはしないでしょうか? ヘッドセットをつければいいのかもしれませんが、それでは先生の話をきちんと聞くことががおろそかになってしまいます。

 スピーチの中で、孫社長はデジタル教科書のデモをみせてくれていました。デジタル化された模擬教科書としてこういうものが考えられるという実演です。その中に「先生に送信」というボタンがありました。それをタッチすると先生に質問をしたり課題の提出ができるというもののようです。双方向のコミュニケーションを実現するということを考えておられるようですが、そもそも一対多の双方向的なコミュニケーションが成立するというのは幻想にすぎません。
 実際にこのようなシステムが導入されると先生は寝る暇もなくなってしまいます。学校にいる間はやるべき仕事が決まっており、生徒から送られてくる質問やレポートを読んだりする時間はありません。そうすると残業してこれらを片付けるか、自宅に持ち帰って処理する以外にないことになります。
 仮に、一人の先生が30人の生徒を受け持っているとして、30人の生徒が送ってくる質問やレポートに目を通して適切な回答やコメントをつけて送り返すのにどれくらい時間がかかると思いますか? 1人5分かかるとしても30人で150分。つまり2時間半かかることになります。1人10分かかるのでれあば300分。5時間かかることになります。これを毎日繰り返すのであれば先生はデジタル教科書の奴隷になってしまいます。
 そうなるのを回避する方法はただひとつ。「手を抜くこと」です。その代わり、生徒は教師を一切信用しないようになるでしょう。あの先生は自分が送った質問を無視した。レポートを出しても何の音沙汰もない。そんな状況が続けば生徒は先生に対する信頼を失ってしまうのです。
 教育改革の切り札としてデジタル教科書を導入しようと訴えておられるわけですが、そのことがかえって「手を抜く」教師を量産するかもしれず、生徒との間の信頼関係を蝕むかもしれないというのは皮肉なことです。
 賢い先生であれば、生徒に対してあらかじめ質問があれば授業中に行うようにと宣言することでしょう。こうしてデジタル教科書の利点であるはずの双方向的な一対多のコミュニケーションというのは封じられることになります。

 この問題について、もう少し考えてみましょう。孫社長のスピーチの中で現場の教師の声が紹介されていました。それによると教育リソースのムダはテストの「丸つけ」なのだそうです。つまり、単なるマルバツをつけるという作業に時間をとられているということで、そういう単純作業は機械に任せて、先生は生徒を励ますとかヒントを与えるとか人間にしかできないことをやるべきだという意見です。
 生徒の答案に対しマルかバツかという判断は、マークシートのように三択問題にするか、枠の中に回答を入力するという問題の出し方をすればコンピュータでも充分可能になります。そうやって先生の作業に要する時間を減らしてあげるのはとてもよいことのように思えます。
 でも、テストがそういう問題ばかりになると、先生は正解か正解でないかということしかみないようになるのではないか? という心配も生まれるのです。
 テストの問題の出し方は既に上げたように「埋めさせる」「選ばせる」ということのほかに、「自分の考えを書かせる」というものがあります。数学のテストが代表的だと思いますが、このような問題の出し方は、採点に手間がかかるけれども生徒がどのように考えているか(あるいは生徒がどこで間違ったか)がよくわかるという利点があります。そのうえで正解を出した生徒はほめてあげればいいのですし、間違えた生徒にはそれを指摘してやることができるようになります。
 ところが、このような問題を採点することは機械には(たぶん)できません。人間が手作業でやる以外にないのです。
 教師が、これは自分の仕事であると自覚してくれるのであればいいのですが、採点は機械に任せればいいのだと考えて、テストの問題を択一式か穴埋め式の問題ばかりにしてしまうと、生徒がどのように考えたかということは見えなくなってしまい、正解か正解でないかというところに関心の対象が移ってしまいます。私が生徒であれば、正解か正解でないかにしか関心のない教師に励まされても嬉しいとは思わないことは確かです。
 先生と生徒がその気になれば、両者の間でコミュニケーションが成立するのは可能です。ただし、教師はそのためにある程度まとまった時間を割かなければいけませんし、観察力を磨く努力を怠ることもできません。それらについてはIT機器が支援してくれるわけではないのです。 

 孫社長はとにかく実験をスタートされることだと力説しています、これについては私もその通りであると思います。デジタル教科書は使い方を誤れば、私が個々で申し上げたような陥穽に陥るということも考えられます。それらの懸念を実験によってつぶすということは無駄ではないと考えられるからです。
 ただし、教科書をデジタル化すべきだという主張に同意するものではありません。教育の道具として用いることは可能でしょうが、何を盛り込んだらいいのかわからないことがあまりにも多すぎるからです。
 また、デジタル教科書という1個のハードウェアが小学校から中学校までの9年間の使用に耐えるとはとても思えません。生徒の多くはその途中で壊してしまうかなくしてしまうはずです。これが教科書であれば、たとえ破れても読めなくなるのはそのページだけであり、まったく使い物にならなくなるというわけではありません。ところがデジタル教科書の場合、壊れてしまえばその瞬間にIT機器はゴミになってしまいます。その場合買い替えるのは親の責任になるのでしょうから、結構な負担になると思います。

 また孫社長は、全国の先生がつくった教材がクラウド化され、自由に利用できる状況をつくりあげれば、その利用状況をランキングとして公表することによってすぐれた教材だけが残っていくということを指摘していました。これは教科書というよりは副教材を念頭に置いたものと考えることができます(教科書を丸々一冊アプリケーションにするだけの余裕と技術を持った先生がいるとは思えません)が、たしかにごく限られた範囲の教材ということであれば、そういうことは充分にありうることだと思います。そういう有志の先生がつくった教材に自由にアクセスできる環境というのは魅力的です。でもデジタル教科書でなくてもそれは可能です。インターネットと紙があれば、現在のリソースでも充分実現可能であってデジタル教科書でなければできないというのには無理があると思います。

 
 前回と今回と、デジタル教科書の導入について孫社長のスピーチを題材にして考えてきたわけですが、改めたわかったことは財界が教育に口出しをするとロクなことにならないということです。
 明治以降日本が欧米列強の仲間入りを果たすことができたのは教育に力を入れたおかげであるのは間違いありませんが、当時と今とでは教育に対する考え方が異なっているのではないかと思います。
 当時の教育とは、まずリテラシー(読み書き計算)を身につけさせることという江戸時代からの伝統(寺子屋教育)をいったん否定した上で、読み書き計算能力のほかに基本的な知識を身につけさせるということが行われました。それ以上研究を続けたければあとは自分で努力しなさい。その代わり国家もそれを応援しますよ。という風潮がつくりあげられたように思います。
 では現代はどうかというと、読み書き計算に加えた基本的な知識を学ばせるというのは変わっていません(ここまではほぼ小学校で教わる内容になります。もっともここに英語教育が入ってきたのはどうかと思います)が、その上に構築されるはずの専門的な知識・考え方までもすべての生徒に身につけさせるべきであるという考え方があり、この部分が異なると思うのです。中学校が義務教育になったのはそのため(さらに児童を労働から解放するという目的もあります)ですが、現実には高校も事実上義務教育になっているわけですから、このことはさらに加速しているといえるでしょう。
 すなわち、明治時代とは比べものにならないような「高い目標」が生徒に対して示され、みんながそれに到達しなければならない。それが教育であるといっているのです。先生はそのために存在するのであり、また、そのことが効率よく達成できない学校は市場原理によって淘汰されるべきであるというのが現在の風潮です。
 戦後しばらくの間は、大学進学率がそれほど高くなかったということもあって、その高い目標に向かって競争するのだという風潮がありました。その後しだいに大学進学率が高くなってくると、子供たちを競争に巻き込むのはかわいそうだという声が大きくなり、その結果「ゆとり教育」が行われ、時期を同じくするようにして大学の全入時代が実現したのです。
 その後大学生の学力が低下してきているという報告があり、これではいかんとなっているのが現在の姿です。財界人や政治家、官僚たちが教育改革が必要だと主張するのは、基本的には大勢の学生を「高い目標」に到達させなければならないという立場に立っているからです。財界の場合、ここに入社後即戦力として働ける人材を供給せよという圧力(孫社長が求める知的レベルの高い学生=有能なビジネスマンというのも大差ありません)も加わっています。
 その際に、学生を「高い目標」に到達させることができる学校はいいが、そうでない学校は市場により淘汰されるようにしようという意思が働きました。これによって、優秀なものだけが残り、そうでないものは市場によって淘汰されるという考え方は、学校だけでなく、個人についても適用されるのだという風潮が生まれました。

 教育は国民に「読み書き計算」というリテラシーと基本的な知識を与え、それ以上のことを知りたいと思う学生に対しては改めて門戸を開く、という二重構造が日本の教育の特徴なのですが、これらの人々はそれではダメだとおっしゃるのです。それは、すべての学生は100mを13秒以内で走れるようになりなさいといっているようなものです。それができないのは教師が悪い、カリキュラムが悪いというふうに責任が追及されるのが今の世の中であり、それができないこどもは何の価値もないという世の中になりつつあります。 身体的な能力の追求ということであれば、それは無理だと誰もがすぐわかることでも、知的レベルの問題となるととたんにそうは思わなくなるのは不思議なことです。
 それどころか、「大学を出ていないと給料のいい仕事に就けない」とか「英語ができないといい会社に入れない」という脅迫観念が学生たちに絶えず植え付けられています。このような「価値観の押しつけ」がもたらす最大の問題は、なかなか内定をもらえない自分には何の価値もないのではないかと、学生たちが思い込んでしまうことにあります。
 だから、教育改革を行う必要があるというのであれば、「他人と同じ価値観に縛られることはないんだよ。君を必要としてくれる人はきっとどこかにいるのだから、その人に巡り会う日のために自分を磨く努力を怠らないようにしないとね。」というメッセージを学生たちに贈ることを考えるべきではないかと思います。
 しかし、これらの人たちが期待する教育改革というのは、すべての学生に同じことを期待するというものであり、その査定の結果上から順番に採用していくという身勝手さが根底にあるように思います。そういう風潮が広がれば広がるほど不幸な学生が増えるということを自覚してはいかがなものかと思います。教育について口を出すのはいい加減やめるべきでしょう。
by T_am | 2010-08-08 21:08 | その他
 デジタル教科書教材協議会というものが発足し、7月27日に設立シンポジウムが開かれたというニュースを聞きました。シンポジウムの冒頭、ソフトバンクの孫正義社長が講演をされています。その模様がビデオ配信されています。

http://www.ustream.tv/recorded/8551014?lang=ja_JP

 そんなのめんどくさくて見てらんねーや、という方のために孫社長のスピーチの内容を要約すると、次のようになります。


 日本の競争力は著しく低下してきており、このままでは30年後には取り返しのつかないような状況に陥る。
 日本のGDPはこの20年間成長していない。それは「ゆとり教育」やこどもの競争心を失わせる教育を行って来たことに由来する。
 そこで競争力を取り戻して成長を達成するようにしなければならない。その際に現在伸びているIT産業を伸ばすべきである。
 日本の出生率は低下し続けているのだから、知的レベルを伸ばすことを考えた方がいい。今の日本の姿は外国から知的レベルで負けている。それには国家戦略として教育の改革を考えるべきである。そうしなければ国家の成長はない。
 働き盛りは40歳前後なのだから、30年後の40歳、すなわち今の小学校4年生に対して30年後役に立つことを教えなければならない。30年後の教え子から先生から教わったことは何の役にも立っていないといわれたら悔しいではないか。

30年後の企業人が求めるられるもの
1)交渉力
2)競争意欲
3)知的能力
4)リーダーシップ
5)プレゼン能力
6)思考力
7)検索能力(暗記しなくても良い)
8)分析力(なぜそうなるのかの方がはるかに大事)

 丸暗記するよりも、そのとき必要な知識を検索できる能力があればそれで充分であるし、それよりもなぜそうなったのかを分析する能力の方がはるかに大事である。
 丸暗記しなければならない教育はもうやめた方がいい。30年後役に立たないことがあまりにも多く教え込まれている。



 ここまでが前半です。この後は日本中の学生と教師全員に無料で電子教科書を配るという主張になっていくので、そのことと分けて考えることにします。
 まず指摘しなければならないのは、孫社長は実業家であるということです。だからでしょうか、孫社長の主張は有能なビジネスマンを育てる教育を行うべきだといっているように私には聞こえます。言い方を変えれば、現在の教育は有能なビジネスマンを育てることに寄与していないと考えているのです。
 教育は有能なビジネスマンを育てることのためのみにあるのかという疑問はさておき、日本の教育が有能なビジネスマンを量産することに寄与していないのはおそらく事実であると思います。だから、経済界は大学に対し、もっと即戦力になる人材を供給するように、という要求を行っているわけです。
 日本で有能なビジネスマンを育てる体制が整っていないのは、教育に問題があるというよりも、画一的な人材を求めてしまう財界の圧力こそが原因であると考えられるからです。
 このことについては、内田樹先生が昨日(8月6日付)のブログの中で、茂木先生のツイートを引用して紹介しておられます。以下引用させていただきます。


 そもそも、新卒一括採用という慣習は、経営的に合理性を欠く愚行だとしか言いようがない。組織を強くしようと思ったら、多様な人材をそろえるのが合理的である。なぜ、一斉に田植えでもするように、同じ行動をとるのか?


 ここでは就活に対する疑問を述べておられるのですが、大学3年生になったら就活をすることに何の疑問も抱かない従順な学生ばかり採用してどうするんだという指摘です。社会全体が学生に対して今就活をしておかないと就職できないぞという圧力をかけて、学生を一律の物差しで査定しようとしている状況を批判しておられます。
 孫社長が主張していることも同類です。有能なビジネスマンを育てる教育というのは、学生を画一化して一律の物差しで査定しようということと何ら変わりません。そのように学生を画一的に扱おうとする圧力(孫社長にいわせれば、運動会でみんなで手をつないでかけっこするようなもの)が学生の学力低下を招いてきたことは、おそらく孫社長も感覚的に理解しているはずです。そこで学力(知的レベル)を向上させるために、別な画一的な基準(有能なビジネスマンになることが人生の幸せである)を教育に持ち込もうとしているわけですが、このような圧力が学生の知的レベルを損なってきたことにいい加減気づくべきです。
 30年後に役に立つことを教えようという孫社長の主張は説得力があるようですが、でもよく考えてみましょう。それでは小学4年生に教えて30年後に役に立つことっていったい何ですか? 
 おそらく「英語」という答えが真っ先に返ってくることが予想されます。そこで、それでは英語さえ喋ることができればそれでいいのですか? と問いかけるとそれだけではないということになるはずです。そこでこう質問してみましょう。「それはいったい何ですか?」
 この質問に答えられる人はたぶん誰もいないであろうと思います。
 
 財界人も政治家も、そして官僚ももっと効率のよい教育を行うべきだと考えているように思います。その背景には、今の教育はムダなことを教えている部分が多いので、それを省いて本当に必要なことだけを教えるようにすれば効率がよくなるのだから、学力は絶対向上するはずだという確信があるのでしょう。
 しかし、それは幻想にすぎません。それが本当に可能だと考えているのであれば、自分のこどもに対し、必要だと考えるカリキュラムだけを教え、あとはまったく教えないという実験を個人的に行ってみればよいのです。

 でも、そんな勇気はないでしょ? そんなことをすればこどもがかわいそうだと思うのではありませんか?

 自分のこどもにはやらせたくないことを他人のこどもにやらせることは厭わない。教育に効率を要求する人たちにはこういう身勝手なところがあります。そういう人たちが教育に口出しするとロクなことにならない、私にはそのように思えてなりません。

 孫社長がいうように、日本の企業が外国の企業に比べて競争力が衰えているというのは教育に原因があるのではなく、単に次の2つの条件を満たしていないからに過ぎません。

1)他社の追随を許さない技術力を持っている。
2)技術力が同等であれば外国の企業よりも安くつくって売ることができる。

 国内でそういう製品をつくることができないからこそ、外国から輸入してくるのではありませんか。できない理由を教育のせいにするのはフェアではありません。むしろ責任転嫁というべきでしょう。ゆえに財界人には教育に口出しする資格はないといえるのです。

 このように考えると、孫社長の主張は一見もっともなことをいっているようですが、よく考えると決してそうではないことがわかります。ご自分の思い込みで教育を語っており、それに引きずり回される弊害は大きなものがあると思います。そこで、次回は講演の後半のテーマであるデジタル教科書を導入すべきだという主張について取り上げてみます。
by T_am | 2010-08-08 00:27 | その他
 立法府の選挙の動向によって内閣が影響を受ける議院内閣制には長所と短所があります。
 最大の長所は、内閣の暴走に対し世論のチェックがかかるということでしょう。最近では圧倒的な人気により颯爽と登場した安倍内閣が、憲法改正のための国民投票法を成立させ、また愛国心を盛り込んだ教育基本法の改正を行うなど、精力的にに「改革」に向けて取り組んだところ、国民が安倍内閣の急激な改革に危惧たことにより参議院選挙で大敗するという出来事が起こりました。参議院での与野党逆転(「ねじれ」)は国会運営を困難にし、安倍総理は病気辞任。次の福田総理は任期途中で嫌気がさして辞任してしまいました。その後を引き継いだ麻生総理は衆議院を解散するかと思いきや、新規満了まで引きずった挙げ句総選挙では大敗するという事態を招きました。
 ただし、小泉内閣のときの郵政選挙では自民党が大勝したのですから大衆というのはあてにならないものであることを忘れてはなりません。
 次に、議院内閣制の短所としては、政権が国民の人気取り的な政策に走りやすいということが上げられます。鳩山内閣が自滅するきっかけとなった普天間基地の移設問題はその典型的な事例です。
 人気取りの政策というのは、当然近視眼的なものであり、後先のことを考えずに実行されるという側面があります。国の借金が800兆円もあるので財政再建について一歩も引くつもりはないと菅総理は断言していますが、元はといえば、後先のことを考えずに特例国債(赤字国債)を発行し続けてきたツケを払わなければならなくなったということになります。
 総じて議院内閣制には、国民によるチェックが働きやすい反面、近視眼的な政策がとられやすいという短所もあります。また、世論というのは誘導することができるので、国民によるチェック機能というのも金科玉条のように考えるのもどうかと思います。
 何度も述べるように、消費税増税は嫌だけれども財政再建のためにはやむを得ないと考える人が増えているのも、官庁とマスコミによる世論誘導の成果であるといえます。一般会計予算(およそ80兆円)の10倍の国債残高があるのですから、これらを解消して国債発行に頼らないようにするには10年以上の歳月が必要となります。けれども財務省も政治家も(もちろん菅総理も)財政再建のための工程表を作成し、国民に説明したことはありません。民間企業であれば経営再建のために当然行われるべきプロセスが国家財政となるとまるっきり無視されてしまうにもかかわらず、誰もそれを不思議に思わないというのがわが国の現状です。
 なぜそんなことがまかり通るのかというと、日本では10年も続く長期政権などあり得ないからです。極端な場合選挙のたびに首相が替わるのですから、そのような長期的な戦略を描いても実行できるはずがありません。

 ここに議院内閣制の致命的な欠陥があるといえます。

 そこで首相を公選制にして、3年ないし4年の任期を全うできるように制度を改めるべきであるというのが私の提案です。それだけの時間があれば、じっくり腰を据えて改革に取り組むことができるようになるはずです。したがって、首相公選制の下では、候補者が掲げるマニフェストは、「何をやるか」だけではなく、「何をどのような手順でやるか」というものに変わっていかなければなりません。また、その内容は様々な批判に耐えられるだけの水準を備えておかなければならないので、作成するだけでも結構な手間と時間がかかることになります。
 国民によるチェック機能については、定期的に行われる衆議院選挙と参議院選挙に反映されることになります。首相の政策に不満を感じる人が多ければ、与党は勢力を失うことになるからです。
 そうなると内閣の提案がことごとく国会で否決されるのではないかという心配をする方も多いかもしれません。
 現在の衆議院と参議院の勢力逆転現象を「ねじれ国会」と命名していますが、「数の力で国会を押し切る」という考え方に立つとこのような発想となります。しかし、見方を変えれば、衆議院と参議院の勢力の逆転現象は、力尽くで行う国会運営に国民が辟易しているからだと考えることもできるのです。与党による強行採決が行われてきた結果が今日の体たらくではないか、もっときちんと国会で議論を重ねるべきである。国民はそう望んでいると考えることもできます。
 つまり、国会で丁寧に説明をし世論を味方につけたほうに軍配が上がる、現在の局面はそのようになっており、これは衆議院が解散されるまで続くということなのです。そういう意味では、少数政党であっても説得力のある提案を行って世論を味方につけることができれば、その政策は国会を通すことができるということでもあります。ありがたいことに、マスコミはしょっちゅう世論調査を行って、新聞やテレビで公表してくれています。それを利用しない手はありません。

 首相公選制が行われるようになると、内閣不信任決議という手続きができなくなります。なぜなら任期中はその人に首相職を任せるというのは公選制の目的だからです。そのことに不安を覚える必要はありません。衆議院選挙は4年に1度、参議院選挙は3年に1度実施されるのですから、首相の政策に不満がある人は野党に投票すればいいのですし、世論が反対する政策が国会で可決される可能性は低くなります。
 このことは、衆議院議員も解散に怯えることなく任期を全うできるということになり、それだけ選挙費用の負担が軽くなるという効果をもたらします。衆議院議員にとっては願ってもないことではないでしょうか。
 その代わり、首相の権力がそれだけ衰える(日本の場合首相の権力の源泉は衆議院の解散権にあるといってもよい)ということになるので、アメリカ大統領のように拒否権を持たせるのもよいかもしれません。

 日本の現状は、首相の指導力の不足を指摘する人は多いけれども、なぜそんなことになっているのかについてまで言及する人は少ないといえます。短期間のうちに、これだけ首相がころころ変わるのですから指導力が発揮されるはずがないというのはおわかりいただけると思います。
 重要な政治課題には首相の指導力が必要となります。現在の制度はそれを奪う方向に作用しているのですから、菅総理や自民党が消費税増税により財政再建に取り組むといっても、結局は増税だけ行われて赤字国債に依存しなければやっていけない体質が変わるとはとても思えないのです。
 皆さん、そうは思いませんか?
by T_am | 2010-08-04 20:19 | その他