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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 このところ長妻厚生労働大臣の管理手法をめぐる報道が続いています。ご覧になった方も多いことでしょうが、批判的な報道もあれば肯定的な報道もあり、マスコミの姿を如実に現していると思いますので、以下思ったことを述べます。
 その前に記事を見比べてみましょう。著作権の問題もあって引用は憚られますので、出典を掲げておきます。

(長妻大臣に批判的な記事)
2010年7月28日付 asahi.com
厚労省局長、独法研究職に 長妻大臣「降格ではない」
http://www.asahi.com/politics/update/0723/TKY201007230667.html

2010年7月28日付 共同通信
長妻流厚労省人事に疑問の声 子ども手当の局長ら更迭
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2010072601000526.html?ref=rank

2010年7月29日付 J-castニュース
「一番上司にしてはいけないタイプ」 長妻厚労相「役人いじめ」の中身
http://www.j-cast.com/2010/07/29072262.html
http://www.j-cast.com/2010/07/29072262.html?p=2  (2回に分けて掲載)


(長妻大臣に肯定的な記事)
2010年7月27日 日刊ゲンダイ
やるじゃないか長妻大臣 
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-000120436/1.htm


 このように、私がみただけでも、長妻大臣に批判的な記事が3本(後になるほど舌鋒が鋭くなる)、肯定的な記事が1本ありました。

 批判的な記事に強調しているのは、長妻大臣の管理手法に問題があるというものであり、パワハラまがいの行為を繰り返す独裁者というイメージで記事がつくられています。「ミスター年金」と呼ばれ、鳴り物入りで厚生労働大臣に就任した割には、今まで目立った成果があがっていないこともあるのでしょう。長妻大臣を叩いてもどこからも文句は来ないと読んだのか、こども手当の担当局長が更迭された出来事と省内のアンケートの結果が三役に厳しい内容だったことから、一気に批判が噴出したように思えます。
 これらの記事の巧妙なところは、書いてあることは事実でありながら、意図的に触れられていないところがあるという点です。つまり、事実のうち、自分が主張したいことに沿った事実だけを取り上げ、そうでないものは無視するという手法がここでもとられているのです。
 そのことは、長妻大臣に好意的な日刊現代の記事を読めばわかります。

 こういう情報は内部からのリークによって始めてわかる種類のものです。長妻大臣が煙たくて仕方ない厚生労働省の官僚が懇意にしている記者にリークし、マスコミがそれに飛びついたと考えるのが妥当でしょう。ただし、厚生労働省の内部も一枚岩ではないために、いろんなグループがあるのでしょう。大臣に批判的なグループもあれば、そのグループに反発している別なグループもあり、それが日刊ゲンダイの記者に違った情報をリークしたと考えるのが、もっとも自然であるように思えます。

 それにしても、朝日・共同・J-CASTニュースの記者たちの単純さは、これが本当にジャーナリストなのだろうかと疑ってしまいます。というのは、これらの記事に書かれている上司のワガママ(パワハラといっても間違いではありませんが)は、日本中至る所で行われていることです。そこに勤務する部下たちにとっては重大な出来事でしょうが、マスコミに告げ口しようという根性が卑しいと私は思います。そういう人間でも管理職が勤まるというのは、その組織の問題にすぎません。そういう管理職はいずれ馬脚を現すか罰が当たることになっていますから、不幸にもそういう人の部下になっても、いずれいなくなってしまうのですから、それまで我慢するか、あるいは辞職覚悟で戦うかのどちらかしかありません(第三の手段として、そういう管理職の幇間になる方法もあります)。だから、第三者にとってはどうでもいいことなのです。

1.すぐれた人格を持った有能な指導者
2.すぐれた人格を持った無能な指導者
3.有能であるけれども人間性に問題のある指導者
4.人間性に問題があってしかも無能な指導者

 組織のトップとしてどのタイプが望ましいかといえば、もちろん1に決まっています。しかし、このタイプは滅多にいるものではありませんから、やむをえず3のタイプが望ましいといえます。2は頼りになりませんし、4は最悪です。
 軍隊や行政のようにトップの決断が大勢の人に影響を与える(軍隊の場合は兵士の生死を左右する)のですから、人間性はともかく、まず有能であることが求められなければなりません。
 長妻大臣がどのタイプであるかは知るよしもありませんが、その人間性における欠点をあげつらって大臣として失格であるかのように報道するのは、その記事を書いた人間が小中学生レベルの知性しか持ち合わせていないということを自らカミングアウトしているようなものです。
 そういう人間に記事を書かせて紙面に掲載する新聞のことをイエローペーパーと呼び、社会的にはあまり高い評価を受けない(その代わり新聞が売れるのは間違いありません)ということになっています。
 朝日新聞は過去に何度も捏造記事を掲載したことがあるので今更驚きませんが、通信社がこういう記事を配信するようでは、これから先この通信社の配信記事を読むときは注意した方がいいように思います。

追記
 パワハラ社長がいる民間企業では、社員は社長が交代するまで我慢するしかないのですが、省庁の場合、選挙によって大臣は替わるのですから、民間よりもはるかに恵まれていると思います。それでも、こういう陰謀が企てられるのですからよほど暇な職場なのかもしれません。そういえば、厚生労働省というところは薬害訴訟をおこされても自ら非を認めるということのない組織です。それどころか、敗訴しても控訴することで問題の解決を意図的に遅らせて被害者を苦しめてきた官庁なのですから、厚労省の官僚が大臣によるパワハラに遭っていると聞いてもあまり同情する気にはなれません。
by T_am | 2010-07-30 00:36 | その他
 この前「財政改革のための私案(2)」で、公務員の行動を監視し、官僚が権限を濫用することに歯止めをかける方法として、国民投票によって官僚のトップを罷免できる制度が必要であるということを申し上げました。
 このことは財政改革だけでなく、あらゆる行政改革にも通じると思います。現状は、刑法に触れない限り何をやっても公務員の身分は保障されているのですから、国民がどれだけ騒いでもごまめが歯ぎしりするようなものであり、官僚にとっては痛くもかゆくもないというのが実情です。
 このことは、たとえば「行政改革・アクションRPG」のようなゲームに置き換えて考えるとよくわかります。
 主人公は行政改革を行って国民を救うという使命を帯びて、悪の巣窟である「政府」に乗り込みます。そこにはラスボス・中ボス・小ボスといった官僚たちがいて主人公の行く手を阻みます。ボスの必殺技は「許認可権限」で、主人公を即死させるほどのダメージを与えます。その一方で主人公の攻撃はなかなかあたりません。起死回生の大技である「裁判」によって一気に形勢逆転を狙いますが、敵は「控訴」という返し技を使ってきます。このまま長引けば不利になるので「和解」というコマンドを使うのですが、成功率のパラメータが低いので、通用しないことが多々あります。「最高裁」という最終兵器を持ち出して「判決確定」を勝ち取っても、敵は無視して従わないケースもあり、いったい今までの苦労はなんだったんだ、と思いたくなることもしばしば起こります。
 「政治家」という裏技(このコマンドは「市会議員」「県会議員」「国会議員」と3種類あり、それぞれのランクに応じて莫大な「政治献金」が必要)を使うのもいいのですが、ボスに取り込まれてしまい、かえって敵を強大にしてしまうというリスクもつきまといます。
 このように主人公の攻撃は敵に対してまったくダメージを与えることができません。かくして勇者は斃され、残された「国民」は永久に苦しみ続けるというのが、このゲームのエンディングです。どうです? 全然面白くないゲームでしょ。

 面白くない最大の原因は、ラスボス・中ボス・小ボスとも一切の攻撃を受け付けないという設定がされているところにあります。
 
 絶対倒すことのできない無敵のキャラ。

 それではゲームにならないので、あとはゲームの設定を変えるしかありません。つまり、無敵ではないように設定をかえればいいのです。

 現実の世界では公務員は身分保障されていますから、事実上無敵であるといえます。同じように強力な権力を持つ政治家には、選挙という試練が定期的に訪れるので権力の濫用を防ぐ効果をあげています。
 それと同じことを官僚の上層部に対して制度化してはどうかというのが、国民投票によって官僚のトップクラスを罷免できるというものです。無敵のキャラをつくらないように制度を設計するということが肝要なのです。

 社会主義体制の国家で官僚や共産党幹部が貴族化していくのはなぜかというと、彼らの弱点は自分の上司だけであるということになっているからです。上司はそのまた上の上司に頭が上がらない、そういう幾段階もの階層の頂点に国家主席が存在しています。中国で官僚による横領が後を絶たないのも、北朝鮮で国民の飢餓状態が解消されないのも、自分の上司が咎めないところでは利己的に振る舞っても構わないとされているからです。
 誤解しないでいただきたいのですが、これは民族の資質というものではなく、むしろ人間とはもともとそういうものだと理解すべきです。たとえば、サラリーマンが出張に行って安宿に泊まりながら出張規程にある宿泊料金を請求して差額を浮かす、というのも同類なのです。
 日本の場合、自分の権力をより拡大し強固なものにするために予算を獲得し、制度を設け、予算の受け皿として社団法人(これが天下り先になります)を設立せるということが行われています。その制度がどのような効果を上げているかということに関心が払われることはありません。
 この欄で何度も取り上げている地球温暖化対策もそうです。アメリカや中国が本腰を入れてCO2の排出削減に取り組まなければ、いくら日本が真剣に取り組んだところで、地球全体のCO2排出削減に寄与するところはありません。にもかかわらずCO2排出削減のために様々な取組み(排出権取引など)が行われようとしているのは、それが利権につながるからです。そういう一部の者への利益誘導のために温暖化対策税を設けようという動きもあるのですから、政府がいう財政再建など信用できるものかと思います。本気で財政再建をやりたいのであれば、利権の温床となっている制度をすべて廃止してから口にするのが筋でしょう。
 それらから目を背けさせるために公共事業だけを悪者にして予算を削減してみせました。バブル崩壊後の労働人口(このなかには失業者も含まれます)を百万人単位で吸収したのは建設業界です。採算を度外視した箱物を各地につくったのは行政府の役人たちです。彼らが責任を追及されることはないにもかかわらず、公共事業を減らせばそれで問題は解決するとばかりに公共事業を削ってきたわけです。建設業界はスケープゴートにされたといってよいでしょう。それでも肝心なところにはまったく手をつけられていないというのが今の日本の姿です。

 新しい制度によって設立される社団法人は営利を目的とすわけではありませんから、民間企業のようにお金の使い方がシビアではありません。だから、理事長を2年務めて退職金が2千万円支給されるということも行われます。現役の官僚にとっては権力を強固にするため、天下りした官僚OBにとっては公金を合法的に懐に入れる仕組みをつくっているわけです。

 日本の官僚は、中国や北朝鮮の官僚と比較されるとプライドは傷つくと思いますが、国民に対し無敵かつ無責任であるのは同じであり、手の込んだやり方をみればはるかに悪質であるといえます。また、国民は愚かだからいちいち説明しても理解なんかできるはずがないと考えている節も見受けられ、一種の「選民思想」が自分たちの行為を正当化するのに用いられているようにも思えます。
 そういう風潮を変えるには、官僚は国民によって罷免されることがある、ということを制度の中に盛り込まなければなりません。あらゆる行政改革はここからスタートするべきであり、ここに手をつけない限りどれだけ改革を行っても、何の成果もあがらないということになるのです。

 今回は、前回の補足のようになってしまいました。反省して、次回は首相公選制について考えてみたいと思います。
by T_am | 2010-07-25 11:26 | その他
 連日猛暑日(最高気温が35度を超えた日)が続いています。そのことで熱中症や水の事故による死亡者も発生しており注意が必要です。猛暑に関する報道が続くと、地球温暖化防止に全力を挙げて取り組まなければならないという声が出てくるのではないかと心配しています。

 地球温暖化と猛暑の間には特に関係はありません。地球温暖化というのは地球レベルで長期的に進行する現象ですが、猛暑というのは優勢な高気圧によって局地的かつ一時的に発生する現象だからです。
 その証拠に毎年猛暑が発生しているかというとそうではなく、中には冷夏となる年もあります。また今年のように大雪を伴う冬もあれば暖冬の年もあります。温暖化による影響というのは、たとえば日本亜熱帯になってしまうということを指します。

 そうすると差し迫った課題としては、地球温暖化の進行を食い止める方策よりも猛暑や大雨による被害をできるだけ防ぐにはどうたらいいか、ということになるはずです。
 日本中の都市がコンクリートとアスファルトで固められているうえに、ビルや自動車のエアコンの排熱も加わってヒートアイランド現象が進行しています。そのため、観測される気温よりも人間が感じる体感温度の方が高いというのは皆様お心当たりがあることでしょう。
 人間が感じる暑さには気温だけでなく湿度や風も影響します。湿度が低く乾燥していれば、気温が多少高くてもそれほど不快に感じることはありません。ところが湿度が高く風が吹かないと、汗をかいても蒸発しにくくなるので蒸し暑いと感じることになります。

 人間がその気になればヒートアイランド現象による蒸し暑さを緩和することは可能です。具体的には、都市の中の風の通り道となるようなところに樹木を植える。道路は浸透性の舗装に変える。駐車場はアスファルト舗装するのではなく芝生を植えてそこに車を駐めるようにする。ビルの窓の外には簾をつるすことができるようにする(部屋の中に直射日光が指さないので室温が高くならない)。素人でも簾の取り外しができるようにするために窓のそとにベランダを設けるというのが効果的でしょう。(それにこうすると、万一窓ガラスが割れるような地震が起きても、割れたガラスの破片が落下して歩行者に怪我をさせるということも防ぐことができるようになります。)そのほか、最近注目されているビルの屋上を緑化するというのも効果があるように思えます。また、商店街でも行うところがでてきましたが、打ち水を一斉に行うというのも効果的です。
 最近の新築住宅は家のまわりをコンクリートで固めてしまうのが増えています。雑草が生えてきても草取りをしなければならないという感覚が薄れてきたのでしょう。そうでもしないと家のまわりは雑草だらけということになりかねないのは理解できるのですが、雨が降れば地面に染みこむわけでないので、そのまま流れていってしまいます。そういう家が増えれば大雨の祭に河川に流れ込む雨の量が増えることになり、洪水の危険性が増していきます。それに、夏場の暑さはかなりのものになりますから、エアコンをフル稼働するようになり、排熱によるヒートアイランド現象は進行しますし、なによりもCO2の排出を促進することになるはずです。
 地球温暖化防止という考え方に私は否定的ですが、政府やマスコミは、温暖化防止を情緒的に呼びかけてみたり、エコポイント制の実施や電気自動車の普及促進など効果が疑わしいことばかりやっているように思えます。いくら節電を呼びかけても、蒸し暑いと感じればエアコンをフル稼働させてしまうのが人間の性なのですから、蒸し暑さをあまり感じないまちづくりを進めた方が効果面でも政府による支出の無駄を省くという点でも有意義であるといえます。

 樹木を植えるなどして、都市の中で気温の違う場所をつくってやると、気温の低いところから高いところに向かってそよ風が起こります。温度差のある風が吹いてくるのですから、人間はそれを心地よいと感じるのです。

 もうひとつ、気になっていることを申し上げると、それは山の手入れをする人が少なくなっているということです。日本の国土(この場合は人が住んでいるところという意味です)は、弥生時代以来人が自然に手を加えてつくりあげ、維持してきたものです。どんなに山奥の田舎であってもこのことは変わりません。都会の人は、田舎には自然が残っていると思い込んでいるかもしれませんが、それらは人が生きていけるように改造され、維持されてきた自然の姿なのです。
 日本人はその中で暮らしています。ところが、森林を維持することが行われなくなると、森林は保水力を失ってしまいます。雨が降ればそのまま河川に流れ込んでしまいますから、土砂崩れや洪水を引き起こす要因となります。上流にある森林が荒れると、そのツケは下流に及ぶのです。
 森林が荒れるようになったのは、林業に従事する人が減っているからです。その原因は、安価な外国産木材の輸入にあります。それにより、日本の林業は大きなダメージを受けています。経済成長も結構ですが、金感情ばかりしていると大事なものを失うことになるという典型的な例であるといえるでしょう。

 以上述べたことは、口で言うのは簡単ですが、実は継続するためにけっこう労力を使わなければなりません。何年かすれば浸透性舗装も埃や泥によって目詰まりがしてきますし、都会の中の樹木は落ち葉の後始末もしなければなりません。手間とコストがかかるのですが、地方自治体の取組と、住民がここは自分たちの街なのだから自分たちの手で守るという意識をもつことで何とか維持ができるのではないかと思います。そのような意識が生まれてくれば、同じような意識を持つ隣の町の存在にも気づくことになります。そうなれば、自分さえよければ他人はどうなっても構わないという考え方はこの国には馴染まないということが理解できるはずであり、そのような意識の芽生えと発達が日本をよい方向に導いていくことになると思います。
 無関心と自分で考えようとしないというのが、国の進路を誤らせる最大の要因であろうと思うのです。

 追記。
 梅雨が明けて毎日晴れの日が続いているためでしょう。日傘をさして歩く女の人を多く見かけるようになりました。日焼けはしたくない(シミやソバカスができるからね)という気持ちの現れなのですが、朝夕の通勤時間帯の人混みの中で日傘をさして歩くというのは、はっきりいってはた迷惑な行為です。雨の日のようにみんなが傘を差して歩くのであれば、お互いにぶつからないよう距離を保ちながら気をつけて歩くのですが、晴れた日にはそこまで気をつけないので、比較的密集して歩くことになります。そんな中で自分の肩幅よりも広い日傘をさして歩くとどういうことになるかというろ、すれ違う人の顔に日傘の骨の先端がぶつかりそうになってしまうのです。日傘をさす人がそのことを自覚して歩いていればいいのですが、なかには日傘が自分の肩幅よりも広いということにまったく気づかないまま、人混みの中をずんずん歩いて行く女性もいます。そうするとすれ違う人は日傘にぶつからないよう慌てて避けなければなりません、運が悪ければ顔にぶつかることにもなります。しかし、当人がそのことに気づいていなければ、わざわざぶつかりに行くかのような歩き方がやむことはありません。
 もともと日傘というのは、優雅にゆっくり歩くのが似合うのですが、現代のキャリアウーマンたちの一部は日傘を凶器にしてしまいました。
 こういう女を嫁にしてしまうと災難だよな、ついそんなことも考えてしまいます。
by T_am | 2010-07-23 23:19 | その他
 財政再建という問題を考えていくと、マスコミが伝える情報はだいぶ不備があることに気づきます。たとえば、今年度の予算案は95兆円にもなり、そのうちの国債発行額は44兆円となっている、という指摘がそうです。これは事実であり、いささかも間違いはないのですが、情報の開示が中途半端であるといえます。
 新規国債発行額である44兆円の内訳は赤字国債が29兆円、建設国債が14兆9千億円となっています。さらに予算案の中で国債費がおよそ21兆円あり、その内訳は債務償還費(借金の返済に相当する)がおよそ10兆円、利息の支払いが11兆円あります。
 赤字国債というのは民間企業でいえば、運転資金を確保するために起こす借入金のことですから、決して健全であるとはいえません。借金の返済のために新たな借金をするという状況に陥っているのは確かですが、いわゆる「多重債務状態」(個人が借金を返済するために新たな借金をしなければならないにもかかわらず、それまで取引のあったサラ金が貸してくれないので、別なサラ金から借りること)とは異なります。金融機関は国債を買い続けているからです。
 ついでに建設国債について申し上げておくと、これは民間企業でいうところの設備投資にあたるものですから、財政法では国会の議決を得れば発行できることになっています(赤字国債は発行禁止。禁止されているはずの赤字国債がなぜ発行できるのかについては後で述べます)。
 にもかかわらず、赤字国債と建設国債を一緒にして国債発行額は44兆円というのは事実を正確に伝える報道ではありません。国債の中には建設国債のように前向きの資金調達という側面もあるにもかかわらず、それを無視してすべてが赤字国債であるかのような報道がされているのです。

 そこでクイズをひとつ。戦後もっとも新規国債の発行額の多いのは次のどれでしょう?

 1.2008年度
 2.2009年度
 3.2010年度

 2010年度であるというのは誤りで、実は2009年度というのが正解です。今年度の政府予算案が発表されたときに新規国債の発行額が戦後最大と報道されたのですが、事実は異なります。2010年度の新規国債の発行額は44兆円ですが、2009年度のそれは53兆円となっています。麻生政権の末期に、高速道路料金の上限制、エコポイント制度、エコカー買い替えの補助金支給など補正予算を組んで大盤振る舞いをしたのでこういう結果になりました。けれども、なぜかマスコミの報道は2010年度の発行額が戦後最大であると伝え、政府もそれを訂正しようとはしません。

 マスコミというのはセンセーショナルな報道を行う傾向があり、これは今に始まったことではありません。それよりも、こういう事実を正確に伝えていない報道がなされているにもかかわらず、政治家や官僚がそれを糺そうとしないことの方が問題は大きいといえます。

 ここで、次の表をご覧ください。これは財務省が公表している「戦後の国際管理政策の推移」http://www.mof.go.jp/jouhou/kokusai/siryou/hakkou01.pdf から引用したものです。


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 2008年までは実績値であり、2009年の数値は2次補正の見込額、また2010年は当初見込額となっていますが、この表を見る限り赤字国債の発行額は2010年よりも2009年の方が大きいことがわかります。また赤字国債の発行額でも2010年の方が2009年よりもわずかに減っています。
 にもかかわらず、昨年よりも今年の方が国債発行額が減っているという報道がまったくなされないのは、民主党のばらまき政策のおかげで財政危機に陥りかねないと誰もが思っており、財政再建(=増税)の必要性を国民に認識してもらうためには絶好のチャンスだからでしょう。民主党のばらまき政策は事実であり、財政赤字が拡大しつつあることは嘘ではありません。政府発表資料を読みもしないで2010年度の新規国債発行額が戦後最大であると伝えるマスコミもマスコミですが、それをみて黙っている政府も罪が大きいといえます。

 この国では肝心な情報がいっこうに伝わって来ないというのはどういうことなのでしょうか。このたびの財政再建論議もそうですが、いったい「財政再建」とはどのようなことをいうのか誰も説明していません。財政再建という言葉を使っている菅総理でさえ、これが何を意味するのか説明したことは一度もないのです。
 普通に考えれば、財政再建とは赤字国債に依存しない体質に持っていくことを指すのだろうと思います。先ほどの表でも1990年から93年までは赤字国債に依存しなくてもいいようになっていたことがわかります。その後バブルの崩壊と阪神大震災によって1994年には赤字国債の発行が復活し、今日まで赤字国債に依存するという体質から抜け出ることはできていません。というよりも、年々深みにはまっていっているといえるのです。
 1997年橋本内閣は、財政再建という名目で消費税率を5%に引き上げました。その年の特例国債(赤字国債)の発行額は確かに減っていますが、翌年の98年には赤字国債の発行額は倍近い水準にまで引き上げられています。このことはせっかく増税しても歳出が増えれば財政再建には結びつかないということを意味しています。

 これについては、経済が失速したので赤字覚悟で財政出動に踏み切らなければならなかったのだという反論があるかもしれません。しかし、98年99年と2年連続で赤字国債の発行額を増やしてもなかなか景気は回復しませんでした(その心労のためか当時の小渕総理は2000年に急逝してしまいました)。その後、2003年(小泉内閣)をピークに赤字国債の発行額は減少傾向に転じたのですが、2008年のリーマン・ショックもあって赤字国債の発行額は再び増加に転じました。

 このことから、経済危機が起これば財政出動が不可避であり、それが財政を悪化させることがわかります。将来も経済危機は起こるでしょう。それによって財政が悪化するというのも避けられないことであると覚悟しなければならないというのもわかります。しかし、悪化した財政を立て直す手段が増税であるというならば、将来にわたって国民の税負担は増す一方であるということになります。

 自民党は消費税率を10%に引き上げることを主張しています。菅総理もそれをベースに積極的に議論しようと呼びかけました。消費税率を1%上げるとおよそ2兆円の税収が増えるとされていますから、税率を5%から10%にするとおよそ10兆円の税収増となります。ところがそれではおよそ30兆円ある赤字国債の毎年の発行額には及びません。そのことについての説明もありませんし、不足分をどうするのかという説明もありません。また、財務省が増税によってどのように財政再建を実現していくのかというプランを公表したという話も聞きません。
 聞こえてくるのは、次のようなロジックばかりです。

・増税をしなければどうにもならないところにまで来ています。
・同時に歳出のムダをなくします。
・福祉の水準は今以上に高め、安心して暮らせる社会の実現を目指します。
・法人税率を他の先進国並みに引き下げ、企業活動を活発にすることで景気回復をはかります。

 概ねこんなところですが、増税によって新たに確保された財源とムダを切り詰めることによって生まれた財源は別な歳出に割り当てられるわけですから、歳出がどれだけ減るのかは疑問です。

 いっそのこと、官僚のうちトップクラスについては、何年かに一度国民投票によって罷免することができるという制度を設けたらどうでしょうか。最高裁判所裁判官については国民審査が10年に1度、総選挙に合わせて行われるようになっていますが、それと同じことを官僚のトップクラスについては行うというものです。
 政治家の場合は選挙があるので、国民を無視した政策や行動には抑制がかかるようになっています。ところが、公務員の場合は責任が追及されることがない(早期退職制度はあっても救済策として天下り先が確保されるようになっている)ために、国民の方を向いた仕事をしていないというのがその理由です。

 大阪地裁で、国が定める水俣病の認定基準には医学的正当性がないという判決が出されました。これに対し、国と熊本県は大阪高裁に控訴するという発表が行われました。水俣病の被害者を救済する目的で制度が設けられても、認定基準が厳しいために、水俣病と認定されなかった人たちが不服として各地で訴訟を起こしています。せっかく救済制度があるにもかかわらず、現実の運用は被害者を救済するという目的に反しているのですから訴訟を起こされるのは当然であるといえます。にもかかわらず今回の控訴決定は官僚たちの単なるメンツのためであるように思えてなりません。

 公務員が国民の方を向いた仕事をしていないというのはこういうことです。官僚はさまざまな許認可権限を持っているにもかからず、国民の方を向いた仕事をしないのであれば、辞めていただくことができる制度が必要だと思うのです。
by T_am | 2010-07-23 01:26 | その他
 湊かなえさんの小説「告白」は2つの大きな「思い込み」が重要な要素となっています。
 ただし、まだお読みでない方は、本稿をご覧いただかない方がいいと思います。「告白」という小説に興味のない方には何のことかおわかりいただけないでしょうし、これから読もうかとお考えの方にとっては、先入主なしに読んだ方がずっと面白いからです。すぐれた小説であり、我を忘れて呼んでしまうほど面白い小説であることは間違いありません。
 なお、映画「告白」の方は、中島哲也監督の解釈により新たな描写を加えた別な作品ですから、本稿とはまるで関係ないことをお断りしておきます。

 以下は、読者が「告白」をお読みになっているという前提で書きます。本稿にはこの小説の読者を興ざめさせるようなことが書いてあるかもしれません。その場合、この小説に対する解釈のひとつとご寛恕いただければ幸いです。真実は作者の頭の中にしかないのであって、読者はそれを推測する以外にないのですから。

 大きな「思い込み」の一つ目は、森口先生が、牛乳パックにエイズ患者の血液を混ぜ、それを少年AとBに飲ませることに成功したというものです。森口先生は最初の「告白」でそのことをクラスの生徒たちに(そして読者にも)告げます。
 後に、これが思い込みであったということはこの小説の最後で森口先生自身が明らかにしていますが、森口先生の最初の「告白」の時点ではクラスの生徒たちはこれを鵜呑みにするのは当然であるといえます。以後、登場人物たちはこのことを「事実」として受け止めて、思い思いの行動をとることになります。もちろん読者もこの「事実」を信じ込んでいるわけですから、登場人物たちの行動の異常さがリアルに感じられるようになっており、この小説を盛り上げているといってよいと思います。(この間「思い込み」の張本人である森口先生が読者の前に出てくることはありません。物語のつくりかたとして秀逸ですね。)
 2つめの大きな「思い込み」は、この小説のラストにかかってくるものであり、森口先生の「嘘」を信じ込むことによってこの「思い込みが」成立します。ところが、小説の中にはそれが嘘であるとはどこにも記されていません。したがってこれは私のいいがかりだといわれてもしかたないのですが、いくつかのヒントはさりげなく記されています。


 八月三十一日、今日、学校に爆弾を仕掛けた。(p231)

 大学まで、在来線と新幹線と地下鉄を乗り継いで四時間。(p278)

 今朝方、私が解除させていただきました。(p287)

 あなたが会いたくてたまらなかった人物に、私はいとも簡単に会うことができました。私はまず、あなたのラブレターを見せました。それから、あなたが愛美にしたこと、そして下村くんの事件のことも話しました。(p299)



 ここで決定的に重要なヒントは「在来線と新幹線と地下鉄を乗り継いで四時間」という距離です。新幹線とわざわざ書いているくらいですから誤植ではありません。あとは少年Aがスイッチを押したのはどこなのか、その場所と時間を思い出していただければ森口先生の「嘘」がわかります。

 「告白」というのは真実を語るものだと私たちは思い込んでいますが、この小説は、必ずしもそうではないことを示しています。私たちは真実のつもりで「告白」している場合でも、単なる思い込みに基づいて話しているという場合もあります。また、意図的に嘘を交えて「告白」する場合もあります。そうなると何が真実なのか誰にも(たぶん当人にも)わからず、「真実は藪の中」ということになります。
 「告白」のように読者にとって余白(読者が考えさせられる余地)の多いは小説は、ミステリーを除けば、そう多くはありません。読み方によって様々に解釈することができ、中島哲也監督が映画で表現したような解釈も可能です。ただし、中島監督はそのために原作の一部を削り、新たな描写をいくつか盛り込んでいます。原作とは別な作品になっているというのはそういう意味です。

 本稿で私が申し上げたのは、この小説についてこういう解釈もできますよ、ということにすぎません。読者が百人いれば百通りの解釈があっても不思議ではないわけで、テストと違って唯一の正解であるという解釈は存在しません。作者が意図したものはあるかもしれませんが、それがなんであるか読者には推定することはできても確かめる術はありません。そういう不安定さがこの小説の真骨頂であると私には思えます。なぜかというと、私が今考えているのは、森口先生はなぜこんなことを「告白」してきたのだろう? ということだからです。

 湊かなえ恐るべし、と申し上げるべきでしょう。

  
by T_am | 2010-07-18 08:01 | その他
 菅総理が就任早々G8に出席して、各国とも財政再建が急務であるという合意が成立したことから、日本でも財政再建ということがクローズアップされるようになりました。それ以前から国債の残高が800兆円もあり、これを減らさなければいけないという声が合ったことは事実です。そういう状況に加えて、今年度は44兆円という国債(うち赤字国債は29兆円)を発行する予算となっていることも議論に拍車をかけているといえます。

 財政再建といわれれば異論のある人は誰もいないはずです。ただし、財政再建とは何を意味するのかということが明確になっていないところに問題があります。かつての小泉内閣時代の「構造改革」について多くの人が賛成しましたが、その中身について誰も知りませんでした。それぞれ、構造改革とはこういうことだろうと勝手に思い込んで賛成していたのです。

 同じ轍を踏むのは賢明ではありません。

 政治家は「強い財政」とか「健全な財政」という聞こえのいい言葉を使いますが、実態は何かということについて丁寧に説明するわけではありません。そのような曖昧な言葉を使って、とりあえず世論の賛成という白紙委任状を取り付けておいてから、じっくり中身を組み立てるということが今まで行われてきたのです。

 財政再建といっしょに、消費税率のアップということがいわれています。自民党は10%といい、菅総理もそれをベースに議論しましょうと呼びかけています。マスコミによるアンケート調査では半数以上の人が消費税の増税もやむを得ないと考えていることが明らかになっています。
 
 そこでお尋ねしますが、消費税率を上げると財政がどのように再建されるのかご存知ですか?

 増税論者の中には消費税の増税分は社会福祉に充てるべきだという人もいます。また、菅総理は所得に応じて還付することも考えられると発言してきました。こういう状況で、消費税率を上げることがどれほどの効果をもたらすのか誰もわからないというのが本当のところではないでしょうか。
 そういう状況であるにもかかわらず、消費税の増税もやむを得ないと判断するのは危険だと思いませんか? 心配されるのは、税率が10%になっても何年か後でさらに税率を上げなければならないといわれることです。そのときも読者はやむを得ないと判断するのでしょうか? それではなんのためにあのとき税率を上げたのか? そう考えるのが普通ではないでしょうか。

 こんなことを申し上げるのも、消費税の増税を行っても結局その分は使われてしまい、財源不足は解消されないと考えるからです。恒久減税といわれていた所得税減税が廃止されて3年経ちます。減税廃止によって財源が増えたはずですが、財政赤字はいっこうに減っていません。そういう前例がある以上、安易に増税に賛成するわけにはいかないのです。

 政府の予算の決め方というのは、各省庁が「こういうこと(事業)をやるのでこれだけ予算が必要である」という計画の積み重ねを財務省との間で折衝して決めるというものです。本質的には高校の生徒会予算の決め方と変わりはありません。このように書くと官僚の皆様は不愉快に感じるかもしれませんが、高校の生徒会が国の真似をしているのだと考えて我慢してください。
 ところで、高校の生徒会では支出が収入を超える予算を組むかというとそんなことはありません。支出が収入を上回るので、生徒会長がサラ金へ行って生徒会名義でお金を借りてくるかというと、それはまずあり得ないということにご同意いただけると思います。
 しかし、国の場合は違います。支出が収入を上回るので国債を発行して資金を調達するということが毎年行われているのです。高校生徒会と国と比較するのは気が引けるのですが、どちらが健全であるかはいうまでもありません。

 財政法第4条には国会の議決を経た上で建設国債の発行ができるという規定がありますが、赤字国債の発行は認められていません。戦後赤字国債が始めて発行されたのは、1965年の補正予算を組むためであり、このとき1年限りの公債特例法が制定されました。その後1974年まで赤字国債が発行されることはありませんでしたが、75年に公債特例法が制定されてからは毎年「1年限りの公債特例法」が制定されてきました。

 赤字国債の発行は財政法で禁止されている。そこで1年限りという公債特例法を制定して赤字国債を発行する。しかし、毎年公債特例法を制定して赤字国債を発行しているので、赤字国債発行の禁止規定は事実上死文化してしまったといえます。

 なぜこのようなことになるのかというと政府の予算編成はまず事業ありき、だからです。つまり、こういう事業を行うのでこれだけの予算が必要であるという発想法が染みついてしまっており、それ以外の考え方ができなくなっているからなのです。
 個々の事業計画を策定するときに必要な資金を計算するというのは当然ですが、それを予算化する際には全体の中でのバランスをみながら、その事業計画を採用するかどうかという判断がなされるのが普通です。そうやって予算の総枠をはみ出さないようにするわけです。財務省もそういう努力をしているはずですが、担当者レベルで排除しても大臣折衝があり、最後には総理の決断というのもあって、総枠を守るというのは無視されてしまいがちになります。
 あれも必要だ、これも必要だということで予算が肥大化し続けた結果、国の借金が800兆円という水準になった(この中には建設国債も含まれているので鵜呑みにするわけにはいきませんが・・・)わけです。

 財政を健全化しよう(=赤字国債の発行をゼロにする)と本気で考えるのであれば、各省庁に対して機械的に前年比95%(別に90%でも構いません)という形で予算枠を与え、その中で計画を組めというところまでもっていかなければなりません。大臣折衝は廃止、総理の決断も廃止する。どうしてもやりたい事業があるのであれば、それは別個に国会で審議してもらいそのための赤字国債の発行を認めてもらうというふうにしなければ、いつまで経っても財政の健全化というのはできるものではありません。
 前年比95%という予算を10年間繰り返せば、予算総額は最初の年のおよそ6割の水準になり、そうすれば、赤字国債の発行額はほぼゼロに抑えることができるようになります。
 こういうことを申し上げると、それでは経済成長がおぼつかなくなるという反論を頂戴するかもしれません。しかし、次の表をご覧いただくとおわかりいただけるように、一般会計の歳出額(支出済みのもの。予算ではありません。)と名目GDPの前年比を比較してみると、両者の間には因果関係もなければ相関関係すらないことがわかります。


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 それでも経済成長を財政規模にも反映させるべきだというならば、経済成長率を1%と仮定して、予算を前年比95%×1.01というふうにすることも考えられます。予算そのものは減らすけれども、経済成長による増加も認めるというわけです。ですから、経済成長率が5%見込めるというのであれば、95%×1.05としてもいいのです。その代わり経済成長率が5%に達しなかった場合、関係者は全員責任をとって辞職してもらわなければなりません。現行の制度では、大臣が辞職しても国会議員の身分まで失うわけではありません。責任をとって辞職するといっても痛くもかゆくもないわけです。まして官僚にはお咎めがないわけですから、事実上誰も責任をとらないようになっているといっても過言ではありません。
 政治家であれば政界を引退する、官僚であれば公務員の身分を失う。国民に増税を課すのですから、それくらいの覚悟を持ってやってもらわないと納得できないと思いませんか?
 そういうふうに持っていかないと、政治家と官僚の無責任体質は改まらないのです。


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 この表は、支出済みの歳出に占める国債の発行割合を示したものです。恒久減税が廃止されたのは2007年からであり、その年の赤字国債の発行割合は前年に比べると1.6ポイント下がりました。ところが翌年赤字国債の発行割合はどーんと7.3ポイント増加しており、このことから財源が確保されても歳出が増えれば、赤字国債に依存しなければならないという体質は変わらないことわかるのです。

 政治家や官僚が財政再建の必要性を訴えるのであれば、歳出総額を絶対に増やさないという覚悟がなければ、財源増やしても財政再建にはつながりません。
 健全財政とは赤字国債に依存しないことをいい、財政再建というのは財政を健全化する一連の手続きを指す言葉であると私は理解しています。
 2008年の段階で歳出の3割を占める赤字国債の発行額をゼロにするためには、その分の支出を減らすか、あるいはその分を増税によって賄う以外に方法はありません。増税によって賄うのであれば、単純に考えて国民の税負担は今の1.5倍になることがわかります。今、ご自分が払っている税金と社会保険料が全部1.5倍になると思ってもらえば、それがどれくらいの負担増になるかおわかりいただけるでしょう。
 これは消費税の税率を10%に増やしたくらいではとうてい捻出できる規模ではありません。

 そういうことをきちんと説明せずに、財政再建が必要であると主張するのは国民に対してフェアではありません。そういうところが無責任だと申し上げているのです。
by T_am | 2010-07-17 07:01 | その他
 今朝の新聞に、今回の選挙でいちやく注目を浴びたみんなの党の渡辺善美代表(いわゆる二世議員で、父親は総理になれなかった渡辺美智雄です。1995年死去。)のインタビューが載っていました。その一部をご紹介しましょう。


-ねじれ国会にどう対応するのか。
「ねじれ自体が悪いのではない。ねじれを利用し、アジェンダ(政策課題)を法案や政策提言の形にして国会だけでなくメディアを通じて国民に直接訴える。与党にも野党にも動きが出る。これが戦略だ。」


 たしかに、この方法であれば少数政党でも存在感を充分アピールすることができます。賢い人だと思います。
 今回の選挙の結果を理解するためには、“民意”が次のように働いたと考えた方がいいようです。

1)どの政党にも主導権を握らせたくない。
2)存在感のない政党は無用の長物である。

 このように考えると、自民党とみんなの党以外は軒並み議席数を減らしたという現象が理解できるのです。

 しかし、国会議員の中には相変わらず、選挙で勝つということは国民の白紙委任状をもらったのに等しいと考える時代錯誤の政治家もいます。そのように勘違いをして好き勝手をしてきた挙げ句国民の政治不信を招いたということにまるで気づいていません。はっきり言ってバカ以外の何者でもないのですが、そういう人に限って政党の要職に就いているのですから、政界というのは不思議な世界ですね。

 国会を党利党略や駆け引きのばであると考えれば、衆議院と参議院の「ねじれ」は鬱陶しいということになり、多くの議員とマスコミはそのように考えています。しかし、与党が数の力を頼みにして、なんでもかんでも法案を強行採決するということに民意がNoを突きつけたと考えれば、この状況は少数政党と志を持った政治家にとっては千載一遇のチャンスであるということになります。なんといっても、自己の存在感を強烈にアピールすることができるわけですから。
その代わり、陣笠議員にとっては辛い日々の始まりとなります。この人たちにできることといえば国会で野次を飛ばすこと、および政府提案に反対することくらいしかありません。従来の、選挙で勝った以上なにをしても許されると思っている人が、自分の考え方を変えるのは容易なことではありません。そういう発想しかできない人は、政治家の中にもいますし、マスコミもそういう目線で報道を繰り返しています。

重要な政策は世論が決定する。

それこそが、ねじれ国会をもたらした“民意”の望んでいるところでしょう。ただし、衆愚政治に陥ってしまう恐れもあるので注意が必要です。
by T_am | 2010-07-15 23:16 | その他
 12日に行われた参議院議員選挙の結果、民主党は改選議席の54に対し、10議席減の44議席を獲得したにとどまりました。一方自民党は改選議席38に対し、51議席の獲得。いささか乱暴かもしれませんが、新党改革、立ち上がれ日本、みんなの党といった反民主で非自民という政党の合計は改選6に対し、当選12議席となっています。もっともこの結果には、改選0で獲得議席10というみんなの党の存在感が光っています。(新党改革については論評に値しないので触れません。)
 この結果をもって、民主党の惨敗と評価する向きもあります。結果はたしかにその通りなのですが、私は民主党の作戦ミスによる自滅であると思っています。その根拠を申し上げます。

 比例区の得票数(政党名と個人名合計)
 民主党  1,845万票  当選   16議席
 自民党  1,407万票  当選 12議席

 選挙区の候補者合計得票数
 民主党  2,275万票 当選   28議席  
自民党  1,949万票  当選者 39議席

 比例区、選挙区ともに民主党の得票数は自民党を上回っているにもかかわらず、当選に結びつけることができなかったというのは戦術のミスによるものです。端的にいってしまえば、候補者を立てすぎた結果、票が分散してしまったということです。結果論になりますが、鳩山前総理と小沢前幹事長が辞任した時点で候補者の立て方を再考していればよかったのだということになります。この候補者の立て方は強者の戦略であり、鳩山内閣の支持率が急落する前であれば充分有効であったと思います。
 菅総理に代わって、いったん支持率が回復したので、このままで大丈夫と思ったのでしょう。それが、得票率ではNo.1でありながら獲得議席数では二番手に甘んじることになった原因であると思います。

 今回の民主党の敗北の原因は、菅総理が消費税増税を打ち出したこととは関係ないと思っています。有権者が消費税増税を嫌ったのであれば、民主党の得票数はもっと減っていたでしょうし、自民党も消費税増税に触れていたのですから、自民党に票が流れるはずがないのです。(実際に、世論調査の結果でも消費税の増税もやむを得ないと思っている人は増えています。)

 したがって、民主党が前回の衆議院選挙のときほどの勢いを失った原因は他に求めなければなりません。

 それは何かというと、このまま民主党に任せることに不安を感じた有権者の票が自民党とみんなの党に流れたということです。1人区ではその票を加えた自民党候補者の得票数がわずかに民主党候補者を上回ったということでしょうし、2人区では自民党と民主党が議席を分け合うという結果になったのだと思います。

 ですから、民主党執行部が今回の選挙の敗因を見誤ると、そのツケはいつまでも祟ることになります。これは自民党も同じであり、自民党の復調傾向がはっきりしたなどと浮かれていると次の選挙で痛い目をみることになるでしょう。有権者の中には、反民主で非自民という(民主党には任せられないけれども自民党に投票するのも嫌だと考える)人たちが少なからずおり、その人たちはみんなの党に投票しています。これがどれくらいあるかというと比例区で13.6%になります。民主党が31.6%、自民党が24.1%ですから、決して侮れない勢力であることがわかります。
 選挙に勝つということを考えれば、民主党も自民党も今回みんなの党に投票した人をどうやって取り込むかということを考えて今後は政策提言をしていかなければなりません。
逆にみんなの党の渡辺代表は支持者を逃がさないようにするために、民主党でもなければ自民党でもないというカラーを今後も打ち出していく必要があると思います。

 衆議院と参議院の「ねじれ現象」は、数の力を頼んだ強行突破がやりづらくなるという局面をもたらしました。法の上では衆議院の決定が優先するのですから、参議院で否決されても衆議院で再可決すればそれで通ります。ただし、あまり強行採決を繰り返すと、その次の選挙で有権者から警戒されてしまうことになります。
 この国の国会では、時間をかけて丁寧に議論することで世論を味方につけるということを怠ってきました。その点では自民党も民主党も双生児のようなものだといえます。そもそも国会対策委員会という密室協議の申し子のような組織に国会の運営を任せているというのがおかしいのです。これも国会議員の特権意識の現れなのかもしれませんが、有権者の見えないところでものごとを決めるという風潮を改めることが先決でしょう。
 政治不信というと、すぐ「政治とカネ」というふうに結びつけたがりますが、それだけが原因ではありません。なんだかよくわからないうちに重要なことが決まっていくと有権者が感じていることも大きいのです。

 そのことに気づく可能性が高いのは、今回負けた民主党の方でしょう。(築かないものかも知れませんが・・・)
by T_am | 2010-07-12 23:57 | その他
 参議院議員選挙の投票日が迫ってきました。前回の衆議院選挙ほどには盛り上がらず、投票先を決めかねているという人も多いのではないかと思います。
 有権者の多くは変革を求めており、そのことは政治家と官僚にも伝わっていると思います。あれほど騒いだ普天間基地の移設問題をみれば、そのことはわかります。しかし、(普天間がそうであったように)彼らが提出してくるプランは常に現状の枠内での変革ですから、国民にすれば不十分であると感じてしまうのです。
 それでは国民がどこまで現状の枠の変更を望んでいるかというと、そこまで意識が及んでいないように思われます。日本が経済成長を続けることは現在の豊かさを維持しながら、不景気を脱出する処方箋であると誰もが感じています。そのためには、安全保障をアメリカに依存して、軍事費の負担を押しつけることが不可避であるということも国民の暗黙知となっています。
 また、財政難をなんとかしなければこのまま赤字国債が増える一方であるということもよくわかっており、そのためには消費税を上げることもやむを得ないと思っている人も多いのですが、ではそれで本当によくなるのかというと、そうも思えないというのが本当のところでしょう。

 どんな制度も時間が経つうちに制度疲労を起こしてきます。自民党による指導体制は戦後の復興から高度成長、バブルの崩壊までは順調にいっていたのですが、時代の潮目が変わったことで、そのマイナス面が目立つようになりました。民主党になればそれが解決するかと期待したものの、民主党のやり方は自民党のやり方と大差ない(それもはるかに下手くそです)ということがわかりました。二大政党以外の政党はどうかというと、どれも似たり寄ったりですし、社民党や共産党に任せるのは不安だと感じている。そういう気持ちが、今回の選挙が盛り上がらない原因になっているのだと思います。

 こういうときこそ、「これだ!」というものを示せばみんながそれに飛びつくのですが、なかなかその「これだ!」というものが出てきません。選挙の候補者や政党が掲げているのは、どれも現状の枠内でのことばかりです。別ないい方をすれば、「これからの日本をどうするのかというビジョン」ということになりますが、誰もが現状の延長で物事を考えているように思います。

 少子化という流れは変えようもありませんから、国内の消費はその分だけ減少していきます。ということは、経済の規模(GDP-国内総生産-ではないことに注意してください)はその分縮小していくことになります。たとえていえば、国民の数だけ胃袋があるわけですが、総人口が減れば胃袋も減るので、食糧の消費が減ることになるわけです。
 そうなると税収も減ることになります。製造業が頑張って輸出を増やしてくれれば、税収面での帳尻は合うかもしれませんが、どうなるかはわかりません。というのは、国内で生産する場合はコスト高となり、国際的価格競争力が弱くなるために、海外に生産拠点を移すことを検討する企業があるからです。
 そういう状況の中で、皆様が心配されている地球温暖化が進行していくわけです。温暖化を防止しようと、省エネを義務づけたうえに排出権取引を制度化し、さらには温暖化対策税も設けようとしています。そうやって国を挙げてCO2の排出量を削減しようとしているわけです。

 でも、ちょっと冷静に考えてみましょう。

 地球温暖化によって干ばつ・台風・豪雨などによる自然災害が増えるといわれていますが、これらの災害は毎年のように発生しています。そうすると、これらの気象によって引き起こされる被害を少なくすることができれば何も問題はないということになります。
 大雨がふれば決壊するかもしれない河川があったとします。堤防を築いたり、河川を真すぐにするという河川改修をして洪水の危険性を減らそうという考え方と、大雨が降るのはCO2濃度の増加が原因なのだからCO2の排出削減に努力しようという考え方と、どちらの方が即効性があると思いますか?
 そもそも人類の歴史の中で、人間が意図的に気象を変化させたという事例はありません。これだけ科学が発達した現代においても、気象をコントロールすることは人間にはできないのです。
 CO2濃度が今よりもずっと少なかった江戸時代でも、地震や火山の噴火、干ばつ、洪水という自然災害は発生していました。それらの被害は今よりもはるかに大きかったのです。それはなぜかというと、現代に比べると治水や建築の技術が未熟だったからです。このことは、江戸時代であれば自然災害の原因となった大雨でも、現代ではどうってことないということを現しています。
 私には、CO2削減という努力は(根拠にとぼしいという点で)中世の雨乞いや疫病退散の加持祈祷と大差ないとしか思えません。
 
 自民党も菅総理も財政再建のためには消費税率の引き上げが必要だと主張しています。私が不思議でならないのは、それほどまでに財政が逼迫しているのであれば、なぜ支出や特別会計の見直しをしないのか? ということです。また、日本国内で生産するとコスト高によって国際的に太刀打ちできないという状況が指摘されているにもかかわらず、なぜこれ以上コスト高を進めるような政策を掲げるのか? ということです。もう一つ申し上げますが、人口は減ればそれだけ税収が減るにもかかわらず、なぜ現状の体制を維持しようとするのか? 私には理解できません。

 官僚とは予算を獲得することを第一に考える(それができれば後はどうなろうと構わないと思っているということでもあります)人たちですから、この人たちがいう財政再建とは要するに税収入の拡大であって、収入と支出の均衡のことではありません。最初に支出があって、それに合わせて収入を考えるのですから、その手法は赤字国債の増発か増税のどちらかしかありません。仮に景気がよくなって税収が自然増になったとしても、それだけ予算(=支出)を増やすだけのことですから、財政難に陥る危険性は常に存在することになります。
 何度も申し上げてきているように、そのような官僚の暴走を監視し、制約を加えることが議員に求められている責務でありながら、二大政党が官僚の利益を代弁して増税の必要性を訴えているわけですから、政治家は官僚の走狗に成り果てているといえるでしょう。

 そんなことを考えていると、明日の参議院議員選挙は投票する人も政党もないということになるので悩んでおり、いっそ白紙で投票しようかとも思うのです。
by T_am | 2010-07-10 21:37 | その他
 前回は、公務員は法を執行する立場でありながら、法律の立案まで行っているということを申し上げました。そのうえに許認可権まで握っているのですから、これはもう最強といってよいでしょう。その代わり、弊害も大きくなります。今回は、その弊害を最小化するためにはどうしたらいいかということを考えてみます。

 すぐ思いつくのは、行政の権限を制限すること、および外部の機関によって行政を監視するという仕組みです。

 官僚や大臣には法案や予算案を提案する権限はありますが、決定権は議会にあります。これは政府の権限に制約をかけようという目的で設けられた制度です。ところが、議会は細かいところまで立ち入ってチェックしきれていないという現実があります。たとえば、前回ご紹介した法律の中に政令や省令で定めるという記述を盛り込むやり方は、法律さえ通ってしまえばその後は官僚の自由な裁量に任されるということですから、行政の権限の制約にはなっていません。
 このことは予算についてもいえます。注目を浴びている事業仕分けは、予算の付いている事業がはたしてそれに見合うだけの価値があるかどうかをチェックするためのものです。つまり、予算がついて、実際にお金を使ってみるまでその適不適が議会にはわからないということでもあります。これでは、国会で行っている予算審議とは何なのか? ということになります。

 こうしてみると、どうやら国会は行政の権限に制約を加えるという機能を果たしていないのではないか、ということになります。今、国会と書きましたが、事情は地方議会でも変わらないようです。名古屋市長や阿久根市長が議会改革を行おうとしている理由は、議員がその報酬に見合う働きをしていないというところにあると思われます。さらには、本来公務員を監視しなければならない立場にありながら、議員が悪い意味で職業化するうちに官僚と癒着してしまうということもあるようです。これは官僚との癒着ではありませんが、福岡県で県会議員が調査費を使って政治家のパーティ券や官能小説を購入していたという報道がありました。議員であることに狎れてしまったしまったのでしょう。べつに福岡に限ったことではないでしょうが、公私混同をする議員が多すぎるといえます。

 このようなことから、議員は住民によるボランティアでもできるのではないか、という考えが生まれているように思います。これは、欧米の地方自治体には住民がボランティアで議員になっている事例があると紹介されているのも大きいと思います。
 
 結論からいうと、住民がボランティアで議員を務めるというのに私は反対です。その理由は、欧米と違って日本人の中には市民として意識が成熟していないからです。
 祖父母の世代には、「お上のなさることに間違いはございますまい」という意識が明白に残っていました。これは言い方を変えれば、「偉い人の言うことに従っていれば大過なく生きていくことができる」というものであり、父母の世代になると、「面倒なことは誰か他の人にやってもらい、自分はかかわりたくない」というふうに意識が変化しました。その思いは私たちの中にもあります。
 裁判員制度に反対する声の中に、「他人を裁くことが私たちにできるのか」というものがあります。それだけの見識を私たちは備えているのか、と問われればなるほど説得力のある意見だと思います。しかし、私たちの社会を維持していくためには、罪を犯した人を嫌でも裁かなければならないときがあり、それを委任している専門家(裁判官)の判断に疑問があるならば、自分たちでやるしかないじゃないか、そう思います。それには、自分が下した判断には自分が責任を負うという自覚が必要です。責任は負いたくないというのであれば、他人に任せる以外にありません。その代わり、他人に任せた結果どうなったかについては、唯々諾々として受け入れる以外にありません。仮に、その結果を受け入れるのが嫌だというのであれば、それは他人に任せたことが間違いの始まりだったということになるのです。
 要はそのように考えることができるかどうかということです。「政治が悪い、国会議員が悪い」といいながら「自分は何もしたくない。誰か他の人がやるだろう。」というところに市民意識は育ちません。けれども、そのような考え方をする人が多いのです。
 それでも最近は、「このままではいけない。自分にできることは何かないだろうか。」と考える人が増えてきていることも事実です。それを思うとまんざら捨てたものではないと思います。ただし、この人たちに欠けているものがあるとすれば、それは自分で判断するという習慣です。「何かしたい。何をしたらいいか教えてほしい。」という意識を持っていると、「これだ!」と示されたものに対して飛びついてしまうことになり、せっかくの善意が利用されてしまい、何の益もないことに労力を注ぎ込んでしまうこともあるのです。
 それを回避するためには、ボランティアの対象を、「自分の行為によって喜ぶ人の顔を直に見ることができる」ものに絞り込むのが確実です。地震や水害の復旧作業のボランティアは自分の行為をありがたいと思ってくれる人の顔を直に目にすることができます。ところが、そうではないもの、たとえば「捕鯨反対」や「イルカ猟反対」という活動は、自分の行動をありがたいと思ってくれる人の顔を見ることができません。そのような活動は、見方を変えればまったく意味がない(日本人の多くは捕鯨禁止やイルカ猟禁止には否定的な考えを持っています)ということになるのです。したがって、そういう類の活動にはちょっと距離を置いた方がよいと思います。

 話が逸れてしまいました。すいません。

 日本では地方議会の議員活動をボランティアに求めることは困難であるという話でした。このことに対する興味深い取り組みを河村市長の発案により、名古屋市が行っています。
 「地域委員会制度」と呼ばれるこの仕組みは、「だれか」ではなく、「みんな」で地域のことを考える、というキャッチフレーズに基づいて、住民投票により選ばれた委員(無報酬)を中心に地域の問題を話し合い、予算案を市に対して提案することができるというものです。議会での承認が必要ですが、地域から出てきたものを議会が否決するというのはちょっと難しい(反対した議員は次の選挙の心配をしなければならない)と思いますから、これは事実上市と議会の権限(提案権と決定権)の一部を奪い取る仕組みであるといえます。
 こういう構想が登場するくらいですから、地方議会の議員と公務員はいったいどちらを向いて仕事をしているのか、ということがいえます。
たとえば、ご自分がお住まいの地域の議員の顔と名前をご存知ですか? ほとんどの人は知らないはずです。なぜなら誰もが自分には関係ないと思っているからです。そのことは住民自身の問題でもありますが、同時に議員の問題でもあります。住民に感心を持ってもらえないような仕事しかしていないということになるからです。
 名古屋市の地域委員会制度は市政の全般について議論するというわけではなく、あくまでも地域の問題を話し合う場ですから、その効果が及ぶ範囲は限られているといえます。しかし、委員経験者の中から市会議員になる人が現れれば、議員の考え方も少しずつ変わっていくのかもしれません。

 住民のボランティアによる議員活動が可能になるためには、自治体の規模が小さいことが不可欠です。人口数百人からせいぜい数千人というところまでが限界ではないかと思います。というのは、規模の小さな村や町であれば、主だった人の顔を名前はだいたい知っているということになり、情報の共有がやりやすくなるからです。
 また、議員活動に不可欠な調査という作業についても、自治体の規模が小さければ、それほど手間がかかりません。逆に、大きな自治体になると面積も広くなるので移動距離も大きくなります。調査にかかる時間と手間暇、コストが段違いに増えてしまうので、ボランティア議員には荷が重くなるはずです。

 また、改革を行うときに、自治体のサイズが小さい方がものごとを進めやすいといえます。福島県の矢祭町(人口およそ6,300人)は平成の大合併に逆らって合併しない宣言を行ったことで注目されました。その後、役場・議会・住民が一体となって改革を進めてきました。
 矢祭町議会の決意宣言「町民とともに立たん」には、議員報酬を日当制という実費支給にすることによって、「これから議員になろうとする人も、欲の塊のような金の亡者は消え、真摯に町を思う若い人や女性も進出しやすくなるなど、有権者の選択肢が拡大するに違いない。『選挙には金がかかる』との風説があるが、この日当制の導入によって、『金のかからない選挙』が実現できるだろう。」と書かれています。


 改革を進めるには、議員になっても金儲けができないようにするのが最も効果が高いというわけです。同じことは県議会や国会にもいえることですし、議員を公務員という言葉に置き換えれば、行政改革の出発点になります。

 名古屋市で河村市長が議員報酬を半減させる条例案を提出したときに、市会議員の反論は「それでは議員のなり手がいなくなる」というものでした。報酬が半減されるといっても、それでも年収800万円なのですから結構な金額ではないかと思うのですが、名古屋市の市会議員の感覚は異なるようです。おそらく心の中では「一生懸命議員としての仕事をして正当な報酬をもらうことのどこが悪いのだ」と思っているのでしょう。
 私にいわせれば、そう思うこと自体が既に実業家の発想だということになります。実業家は自分がかけたお金(投資)に見合ったリターンを期待します。しかし、仕事の成果と報酬とを比べてみれば、かならず成果>報酬となることがわかります。成果<報酬となることはあり得ないことは容易におわかりいただけることと思います。同様に、仕事の成果=報酬ということもありえません。その人に仕事をしてもらって100の成果があがったとします。その成果のすべてを報酬として支払わなければならないのであれば、次からは誰もその人に仕事の依頼をしなくなるからです。
 つまり、その人の仕事の成果に対して報酬は常に過少となるのです。これは経営者であっても同じことで、会社の純利益に相当する金額を役員報酬で配ってしまえば、その会社の成長はなくなってしまいます。(もっともアメリカではそれに近いことを平気で行う経営者が増えており、日本でもそれをまねる企業も出てきているようですが。)

 正当な報酬がほしいと思う人は投資家になるしかありません。ところが、議員になれば金儲けができると思うから競争率が高くなるわけです。その結果として「選挙に金がかかる」ようになるのは当たり前であり、そうやって当選すれば、使った金を回収することを考えるというのも至極当然のことです。
 そうなれば、議員報酬を引き上げようということになりますから、議員になりたがる人はさらに増えることになります。従来行われてきた対策は議員定数を増やすことでしたが、議員数と議会の能力が正比例しないことは既に実証されています。したがって議員定数を増やすことは穀潰しをさらに増やすこだけであり、何のメリットもありません。
 また、小選挙区制を導入すれば、選挙にかかる費用も抑えることができるといわれていましたが、死に票が増えてしまうという欠点も明らかになっています。
 それならば、金儲けをしたい人にとって、議員になっても割が合わない、むしろ経営者になった方がはるかにましだと思うように持っていくのが順当でしょう。そうなれば、議員になりたいと思うのは、自分が住む町のことを真剣に考えている人、もしくは志を持った人に限られてきますから、ものごとは今よりはよい方向に向くようになります。
 その代わり、規模の大きな自治体の議員になると死ぬほど忙しい思いをするはずです。オーバーワークは本人にとっても有害ですし、議員に期待される職責を果たしてもらえないことのデメリットも大きくなります。
 そうなると、時代に逆行するようですが、自治体を分割してコンパクトなものにしていく方が住民にもたらすメリットは大きいといえます。
by T_am | 2010-07-09 22:29 | その他