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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 今夜のNHKニュースで、支持率の低下に加え社民党が連立を離脱したことを受けて、民主党役員会が開かれ今後の対応を小沢幹事長に一任したということが報道されていました。
 このままでは参議院選挙を戦えないので、鳩山総理に責任を押しつけて退陣してもらおうという意図が明かです。一般の組織ではトカゲのしっぽ切りということが行われますが、自民党政権時代から、政界では頭をすげ替えるということが常識となっているようです。

 民主党国会議員の皆様は新聞をきちんと読む習慣がないようですが、低下しているのは内閣支持率だけではありません。民主党の支持率も下がっているのです。ついこの間行われた共同通信社の世論調査では、民主党支持率はついに自民党支持率と逆転してしまいました。

(共同通信社の世論調査)
鳩山内閣の支持率  19.1%
民主党支持率    20.5%(前回-3.6%)
自民党支持率    21.9%(前回+3.2%)
普通に行われています。

http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010053001000328.html


 世論調査というのは芸能人の人気投票のようなものですから、上がったり下がったりするのが当たり前なのですが、すぐ後に選挙が控えているとなると無視するわけにはいかないようです。
 たしかに、内閣発足後8ヶ月あまりでここまで支持率が低下したというのは鳩山総理自身の発言のぶれと、それを逐一もらさず報道してきたマスコミがもたらしたものであるといってよいでしょう。
 しかしながら、民主党支持率の低下となると話は別であり、それまで鳩山総理のせいにするのは適切ではありません。実際のところ、前回の衆議院選挙で民主党が大勝したのは、自民党とは違う政治をしてくれるだろうと有権者が期待したからにほかなりません。ところが与党となって8ヶ月経ちますが、どうもやっていることは自民党時代と大差ないのではないかということに有権者が気づき始めたのが今回の民主党支持率低下の原因であるといってよいと思います。

小沢幹事長自身のカネにまつわる疑惑
輿石参院会長の自宅の土地の農地法違反
国会での強行採決

 そういえば輿石参院会長は支持母体である山梨県教職員組合が2004年の参議院議員選挙の際に山梨県の小中学校の教員から組織的に選挙資金を集めていたことが明らかになり、幹部ら2人が政治資金規正法違反で罰金30万円の略式命令を受けました。そして、山梨県教育委員会は教員24人に対し停職などの懲戒処分をしたのですが、輿石氏自身は関与を否定しています。
 また、郵政改革法案については5月28日、委員会での実質審議がわずか1日であるにもかかわらず衆議院総務委員会で可決されました。この日は普天間問題を大々的にマスコミが取り上げた日ですから、その間隙を縫って可決したといわれても仕方ないといえます。このあたり、自民党が行ってきた国会対策とそっくりであり、政権が替わっても何も変わっていないといえます。

 おそらく数日中に小沢幹事長は、鳩山総理に対して辞職を促すものと思われますが、それで問題が解決され参院選を何とか戦えると考えているのであれば、その頭の悪さは救いがたいといえます。
 有権者が見放しているのは、民主党が自民党と同じようなことしかやっていないからです。いい加減、そのことに気づいてもよさそうなものですが、首相にすべての責任を押しつけて退陣させることで与党であり続けようとする姿勢は自民党のそれと何ら変わりません。こういうことを続けている限り、民主党の支持率が上昇することはありません。

 ところが選挙とは不思議なものであり、有効得票の中でもっとも得票の多い候補者が当選するということになっています。たぶん今度の参議院議員選挙の投票率はかつてないほど低いものになると思われます。前回の衆議院選挙では支持政党を持たない人でも民主党に投票しましたが、今回は投票したい政党がないというのが無党派層の本音であると思われます。
 そうなると組織票を握っている候補者ほど有利になりますから、民主党候補者たちがそこそこ善戦するのではないかとも思われるのです。
 たとえドングリの背比べであっても、もっとも得票数の多い候補者が当選することになっている以上、当選してしまえば「国民の信任を受けた」と言い張ることも可能になります。まして参議院の場合解散がないのですから、6年間は議員の座に居座ることができるのです。
 政権党に対しこのような比喩を用いるのは気が引けるのですが、民主党という政党は双頭の蛇のようなものであり、一方の頭だけをすげ替えてももう一方の頭が残っている限り、いつまで経っても双頭の蛇であることに代わりはありません。
 この夏の参院選挙で無党派層が棄権することは、組織票を握っている政党にとっては願ってもない事態であるといえます。大げさにいえば、日本の民主主義は大きな危機を迎えているといえるのですが、そうかといって、今更自民党に投票する気にもなれないという有権者が多いのも事実でしょう。
 
 私自身は投票所に足を運ぶつもりですが、たぶん誰の名前も書かないでそのまま投票箱に入れることになると思います。いわゆる無効票となるわけですが、当選者よりも誰の名前も書かれていない白票の方が多い。そういう異常事態が起こった方がかえっていいように思うのです。
 たとえ当選したとしても、得票数よりも不信任の白票の方が多かったという事実は消えません。

「私に投票してくださった有権者のためにも一生懸命頑張ります。」

 すくなくともこういう図々しいことはいえなくなります。なぜなら不信任の白票の方が多いのですから。
 もっとも、さらに厚かましい人であればこのように言うかもしれません。

「次回の選挙までに、私に投票してくださらなかった有権者にも支持していただけるよう精一杯頑張りますので、どうか応援してください。」

 うーん。そろそろ選挙制度の見直しを考えた方がいい時期に来ているようですね。そう思いませんか?
by T_am | 2010-05-31 23:14 | その他
 遅ればせながら、湊かなえさんの「告白」(双葉文庫)を読みました。第6回本屋大賞を受賞したベストセラーであり、来月公開される松たか子主演の映画(中島哲也監督)の原作ですから、ご存知の方も多いことと思います。
 
 「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです。」という惹句に興味を引かれて読み始めたのですが、この全編モノローグで構成されたこの小説を読んで芥川龍之介の「藪の中」を思い出しました。
 全部で六章あって、五人の人物のモノローグ(ひとりだけ二回登場する人がいる)を読んでいくうちにで事件の全貌が浮かび上がり、さらに意外な展開をみせていくというしかけになっていて、よく計算されていると思います。
 これは中島監督が巻末のインタビューの中で述べていることですが、この小説の登場人物はわざと嘘を言ったり、あるいは自分でも気づいていない嘘を話しています。注意して読んでいると、あれ、なんか変だな? と思わせる箇所があることに気づくのです。
 どの部分が嘘なのか、高校の国語の授業で取り上げて生徒に議論させるといいかもしれません。正解などないのでしょうが、自分の感じたことを友達と話し合うというのも面白いと思います。(「藪の中」も登場人物のモノローグの中に嘘がまじっています。もっとも読者にはどれが嘘なのかわからないのですが・・・)

 この小説を映画にするということは、登場人物がついている嘘を映像化するということでもあります。凡庸な映画監督と役者であれば、台詞を額面通り受け取るのでしょうが、それではこの物語の「深み」を表現することができません。役者の力量が試されるといってよいでしょう。

 「小説とは、花も実もある絵空事」

 こう喝破したのは誰か忘れてしまいましたが、面白い小説には、それがつくりごとであることを最後まで読者に意識させないという共通項があります。
 そういうことを考えると、この小説にはひとつ気になるところがあって、それは登場人物による「嘘」なのか(そうだとするとこの小説の凄みが失われてしまいます。それほど重大なことなのです)、あるいは作者の不注意なのか、私にはよくわかりません。けれども喉に引っかかった小骨のように気になって仕方ないのです。

 まだ読んでいない人もいると思いますので、それが何なのかは触れないで起きますが、気にならないという人も多いようです。映画ではどのように解釈しているのか、興味深いところですので、公開されたら観に行こうと思っています。
by T_am | 2010-05-28 23:10 | その他
 インフルエンザなどウィルス性の伝染病の発症状況をグラフ化すると面白いことがわかります。横軸に時間、縦軸にはその週に新たに発生した患者数をプロットしていくと、グラフの線は正規分布(いわゆる釣り鐘型)の形を示します。
 このことは、新型インフルエンザであっても、すべての日本人が感染するわけではないということ、そしてどんなに流行してもいずれ下り坂を迎えるということをあらわしています。
 でも不思議だと思いませんか? ウィルスは次々と感染していくのですから、理屈ではすべての日本人が感染するまで流行が続くはずだということになります。特に新型インフルエンザの場合は夏の間でも流行したわけです。冬になればインフルエンザの流行期を迎えるのですから、患者数がもっと増えてもよかったはずですが、実際には季節性インフルエンザとそう大差ない患者数にとどまりました。

 それはなぜなのか?

 これについて仮説を述べてみたいと思います。
 結論から申し上げると、ウィルスの複製ミスがその原因である、というものです。以下、そのことを順にご説明いたします。
 インフルエンザの場合、人間に感染するにはおよそ数万粒のウィルスが侵入して来なければなりません。それは二百三高地に群がる旧帝国陸軍兵士のように数で勝負というものです。数百数千という程度では感染することができないのですから、口蹄疫ウィルス(およそ十粒程度のウィルスで感染する)に比べると、その感染力は極めて弱いといえます。
 ウィルスというのは自己複製機能を持たないので、生物の細胞を使って自分の複製をつくらなければなりません。そのためには、

1)細胞内に侵入すること
2)自分の身体を分解して遺伝子である核を細胞内に放出すること
3)核を使って自分の身体のパーツを複製すること
4)複製されたパーツを組み立ててウィルスの身体をつくること
5)細胞の外へ脱出すること

 これらの過程が順番に行われなければなりませんが、3と4の工程は細胞任せとなります。
 ところで生物の教科書にあるように、DNAが二重らせんとなっているのは何かの拍子でその一部が損傷した(このような事故は頻繁に発生しています)としても、対になるDNAによって自動的に修復するようになっているためです。しかし、ウィルスの核というのは二重らせんではないので、その一部が損傷してしまうとそれを修復する術はありません。あるいは、他の異なるウィルスと遺伝情報の一部を交換するという場合もあります。いわゆる突然変異という現象ですが、その多くはウィルスとして不完全なものとなってしまい、そのようなウィルスは複製機能を失ってしまうことが知られています。このように、ウィルスが増殖する過程では絶えず複製ミスが発生するようになっているのです。
 細胞はウィルスに比べるとはるかに巨大な存在ですから、一つの細胞に同時に複数のウィルスが侵入することが多々あります。複製機能を失った不完全なウィルスと完全なウィルスが同時に侵入したときには、完全なウィルスのおかげで不完全なウィルスの複製もつくられます。本来複製がつくられことのない不完全なウィルスでも、完全なウィルスのおかげで増殖することができるのです。もっとも、不完全なウィルスばかりが侵入した場合、ウィルスは増殖することはできません。
 このようなことが繰り返して行われるうちに、次第に不完全なウィルスが増えていきます。そして、不完全なウィルスの割合がある閾値を超えたときに、ウィルスの感染力は急速に低下していきます。
 インフルエンザウィルスは、もともと数万粒が同時に侵入しないと感染することができないわけですから、そのうちの何割かが不完全なウィルスであれば、そのウィルスの集団は免疫機能によってあえなく撃退されてしまうのです。

 これが、インフルエンザの流行が終焉を迎える理由です。

 仮に、ウィルスの複製機能が完璧であるとすると、どういうことになるでしょうか? その場合、ウィルスは次々と感染していって、最後の一人が感染するまでそれは止まらないことになります。一方一度感染した人は、身体の中に免疫ができあがるので、二度と感染することはありません。つまり、最後の一人がインフルエンザに感染した時点で、そのウィルスは絶滅することになるのです。
 逆に、感染できる宿主がまだまだ大勢残っている状態で、活動をいったん休止状態にして次のチャンスを伺う方が、ウィルスが生き延びる上では賢明であるといえます。
 もっとも、ウィルスにそのような計算能力があるわけではありません。おそらく太古の昔には複製ミスの起こらない完璧なウィルスがいたとも考えられますが、そのようなウィルスは宿主の最後の1匹に感染した後で絶滅してしまったのでしょう。その結果、今日まで生き残っているウィルスは複製ミスが起こりうる種類のものばかりになったと思われます。
 複製ミスの中には、極めて稀ですが、新たな能力を得るという場合があります。そのようなウィルスが在来種よりも有利であれば一大勢力を築くことができますが、これまで述べてきたように、栄枯盛衰はウィルスの世界にもあるのですから、流行のピークを過ぎれば後は細々と次のチャンスを伺うということにならざるを得ないのです。

 以上がウィルスの流行がいずれは下火を迎える理由です。
 流行の状況が正規分布の形を描くのは、そこに特別な要因が存在しないということの証拠でもあります。正規分布というのは、極端な出来事は極めて稀な確率でしか発生しないかわりに、平凡な出来事は高い確率で発生するということを現しています。ですから、自然界の出来事は、人間が何も手を加えず成り行きに任せていると、正規分布の形をとるのです。


追記
 細胞内で行われていることは、それぞれスイッチが入ることでカスケードのように次から次へ自動的に反応が起こっていくというものです(イメージとして、教育テレビの「ピタゴラスイッチ」に登場するカラクリ仕掛けを思い浮かべていただいてもよいと思います)。
 そのスイッチというのは、タンパク質の形のことであり、これを鍵とすれば、それにぴったり合う鍵穴が細胞には何種類もあるというものです。ウィルスもこのような鍵を持っており、それによって細胞を騙しているといえます。
 いったん鍵が鍵穴に適合すると、それに見合った反応が自動的に行われ、ウィルスはそれにただ乗りしているといえます。その代わりその反応をウィルスがコントロールすることはできない(走り出したら止まらない)ので、複製ミスが起こってもどうにもならないといえます。

 幸いなことに、ヒト・インフルエンザウィルスの場合、ウィルスが持っている鍵に対応する鍵穴は気道(のど)細胞などにしか存在しません。これが弱毒性の由来なのですが、将来突然変異により、ウィルスの鍵の形が変わってどこにでもある細胞の鍵穴に適合するようになることも考えられます。SARS がそうであり、また、トリ・インフルエンザウィルスがこれにあたります。
by T_am | 2010-05-25 22:43 | 科学もどき
 東国原知事が、恋うて家菌感染した疑いがある種牛49頭について、直ちに殺すのではなく遺伝子検査をするので経過観察を認めてほしい、と述べています。
 合理的な判断だと私は思います。

 口蹄疫という伝染病がなぜ恐れられているかというと、発症した牛では肉質や採乳量が落ちることになり売り物にならなくなること、および伝染力が非常に強いという2つの理由によります。
 すなわち、ある飼育場で口蹄疫が発生するとそこにいる他の家畜もいずれ感染するものと思われるので、実際の感染の有無はともかくとして、その飼育場のすべての家畜に買い手がつかなくなってしまうことになります。これでは牛や豚を飼育する意味がありません。
 仮に治療を行うとしても、その間に口蹄疫が他の家畜や飼育場にまで広がっていく危険性があるので、現実的な対応策ではありません。そのような理由によって飼育場単位ですべて殺処分することが決められているのであって、これ以外に打つ手はないと考えられます。
 このように、口蹄疫にかかった疑いのある家畜はすべて殺処分にするというのは、家畜を飼育する目的が食肉用や採乳用であって、口蹄疫の発生はその目的の障碍となるからです。

 しかし、種牛というのは精液を採取することが目的の牛なのですから、たとえ口蹄疫に感染したとしても、きちんと治療して病気が治れば、精液にウィルスが混入しない限り実害はありません。したがって対処法を誤らず、厳重に管理すれば、種牛に限っては口蹄疫に感染したからといって何も殺す必要はないということになります。

 考えられる対処法というのは次の通りです。

1)口蹄疫の治療を行う。
2)今後、他の牛にウィルスが感染しないよう「完全に」隔離する。
3)精液を検査してウィルスがいないことを確認する。


 このような災害が発生したときに、当事者が硬直した考え方で対処しようとすると、効果的な対策を講じることが遅れ、結果として2次被害を拡大することにつながります。
 今回の東国原知事の要望は理にかなったものなのですから、国(というよりも農水相の官僚と政治家たち)が適切に判断し対処することが望まれます。
by T_am | 2010-05-23 11:30 | 科学もどき
 口蹄疫の感染拡大が止まりません。関係者の焦燥とご苦労はいかばかりでしょうか。
 感染の拡大をくいとめるためにワクチンの接種を検討しているというニュースもありました。しかし、それがどれだけ効果があるのかは疑問です。

 ウィルス対策の基本は隔離です。通常は感染した人や家畜を隔離します。そうすることでウィルスが外に伝播するのを防ごうというのが目的です。今回のように口蹄疫の発生が確認されている農場から半径10キロの範囲内で移動制限をかけ、出入りする人や車両の消毒を徹底して行うというのは、この隔離という考え方に基づくものです。
 しかし、それでも感染の拡大が止まらないというのは、別なルートでの感染が起きていると考えるべきでしょう。口蹄疫は、報道されているように、ひずめのある動物がかかる病気であり、それ以外の動物では発症することはほとんどありません。
 その代わりウィルスを運搬することがあり、発症しないだけにやっかいであるといえます。今回、口蹄疫が発生している地域というのは背後に大規模な山林を控えているところですから、そこに棲む野生動物の間にも感染が広がっている可能性があります。つまり、野生の鹿や猪にも感染が広がっていれば、それらの屍肉を食べた小動物(ネズミやイタチ、野生の犬や猫など)あるいはカラスなどの鳥、もしくはハエなどの昆虫が多の地域に移動することで、ウィルスを運んでいるという可能性も否定できないと思います。そのほかにウイルスが混じった塵が空中に飛散し、遠くまで運ばれるということもあります。
 そのように考えると、家畜の殺処分や人や車の消毒だけでは対策としては不十分ということになりますが、野生動物の移動を阻止するというのは事実上不可能ですし、空中を漂う塵を集めるというのもできるものではありません。せいぜいできるのは、口蹄疫によって死んだ動物の死骸を埋めることくらいでしょう。

 今回、宮崎県で被害が拡大しているのは、家畜の飼育場が比較的集まっているということ、それらの施設が外部に対して割とオープンな環境にあるということが、理由として考えられます。
 赤松農水相が肝心なときに外遊していて日本にいなかったと責める声がありますが、仮に、あの人が日本にいたとしても今日の状況に大差はなかったと思われます。
 これだけ大きな被害をもたらしているのですから、誰かのせいにしたいという気持ちが働くのも無理はありませんが、そういう犯人捜しをしても伝染病の流行が収まるわけではありません。むしろ、火事場で消防士たちに対して、火事が広がったのはお前たちのせいだと責めるようなものですから、そんなことをして現場の足をひっぱっていれば、火事が余計に広がってしまいす。
 したがって、そんな議論をしている暇があれば、どうしたらいいのかを考えた方がはるかに建設的であるといえるでしょうし、逆に、責任を問うという風潮が高まれば責任逃れのためにあの手この手を弄するというのが人間の性ですから、かえって結果を悪くすることになるといえます。

 今回の出来事でわかったことは、今後、口蹄疫の大流行は家畜の産地と呼ばれているところであればどこでも起こりうると考えた方がいいということです。
 それを未然に防ぐには、家畜の飼育場を工場のように(極端に言えばクリーンルームのように)、外部から遮断してしまうということが必要になるのかもしれません。飼育場を完全に密閉してしまい、外部から小動物や塵が侵入しないような構造にした上で、人間が出入りするときも入口で消毒してから内部に入るというくらい厳重なセキュリティを実施しなければ、感染のリスクをゼロにすることはできないのではないかと思います。

 このことは口で言うのは簡単ですが、農家にとって多額の投資が必要となり、実施には困難が伴います。その代わり、いつまでも放っておくと、今後類似の被害が発生する可能性が排除されないままになると考えた方がいいでしょう。
 今回の口蹄疫の流行により、農家の蒙った損害もあれば、その対策・補償のために国や県、さらには地域社会が負担しなければならないコストとデメリットが大きなものであることがわかりました。現地では外出が自粛されているそうですから、消費活動も制限を受けているはずであり、地元の商店に与える影響も大きいはずですし、地域社会に与える影響も大きなものがあるはずです。
 そういうことも考えていくと、今後は家畜でも工場のような施設で飼育するように投資するというのは、一農家の問題ではなく、地域社会や県、国のレベルの課題とならざるをえないと思うのです。

 農水省では口蹄疫の発生している農場から半径10キロの範囲内でワクチンの接種を行うことを決めたそうです。その理由として、ワクチンを接種しても感染を防ぐことはできないが、感染を抑制する効果があるのだそうです。
 そうだとしても、感染ルートを遮断にほころびがあるのであれば、相変わらず感染拡大は続いていくはずです。

 今更いうまでもないことかもしれませんが、人間と家畜とではウィルス対策の出発点が異なっています。人間の場合は生命を守ることを第一に考えますが、家畜の場合は商品価値を担保することを第一に考えます。
 口蹄疫にかかった牛や豚は肉質が落ち、採乳量も減ってしまうために、商品価値は下がってしまうことになります。それを防ぎ、家畜の商品価値を維持するには、口蹄疫にかかっていないということが完璧に証明されなければなりません。そのために、疑わしきはすべて殺処分にして埋却するということが定められているわけです。

 それが悪いといっているわけではありません。殺される牛や豚がかわいそうだというのであれば、消費者は自らの意識を変える必要があります。すなわち、安くてよいものを欲しがるのではなく、安いものはそれなりの価値しかないのだと割り切るべきでしょう。また食品の品質や安全性に対し過剰なまでの水準を要求するという意識も捨て去る必要があります。

 しかし、そんなことをいっても消費者の意識が変わるはずはないのですから、市場の厳しさを前提にして、誰もが事業に取り組まなければなりません。

 ワクチンを用いるというのは、家畜の商品価値を否定するということにつながります。ワクチンを接種した牛や豚では口蹄疫の発症を抑えることができるかもしれませんが、ウィルスを持っていないということにならないので、いずれは殺処分しなければなりません。それまでの期間が長引けばそれだけウィルスが伝播する可能性も高くなるわけなので、今行っている対策の手を緩めるということはできなくなります。
 ウィルスには潜伏期間があるので、その間プラスアルファの期間、感染した家畜の隔離を完璧に行えば、ウィルスによる感染拡大は食い止めることができることになるはずです。このことは、完全に隔離ができるという条件付きで、短期決戦が可能だと考えることもできるのです。
 しかしながら、現実には隔離が完全にできているわけではないという疑いがもたれるのですから、そのような状況下でワクチンを使用することは、かえって事態を長期化させ混乱させることにつながりはしないかという疑問が生じます。
 さらに疑問を感じるのは、農水相では現在およそ70万回分のワクチンの備蓄があるということですが、法では屠殺処分することが決まっているのによくそれだけのワクチンの蓄えがあるものだということがひとつ。二番目の疑問は、ワクチンは特定のウィルスの型にしか対応しないにもかからず、今回流行しているウィルスの型に対応するワクチンが70万回分あるというのなら、他の口蹄疫ウィルスの型を考えるといったい日本にはどれだけワクチンが備蓄されているというのでしょうか? 法に定められているわけでもないワクチンがそれだけ大量に備蓄されているというのはちょっと考えにくいので、おそらく緊急輸入するのだろうと推測されます。

 農水省では法に反することを敢えてやろうというのですから、是非とも成果があがることを期待したいところです。こういう仮定は不謹慎であるかもしれませんが、もしも効果がなかったとしたら、単なる言い訳のための方策に過ぎなかったとみなされても仕方ないと思います。

 ウィルス対策の基本は完全隔離と短期決戦です。ご自分が飼育している家畜が口蹄疫に感染するのではないかと心配するのであれば、畜舎の外部から小動物や塵が侵入しないように応急処置をする方が効果があると思います。国や県はそのようなことを支援するということに目を向けてもいいのではないかと思うのですがいかがでしょうか?

追記。
「口蹄疫の真っ最中のこの出張にどういう意味があるのか。大臣の責任を追及する」。自民党の小野寺五典・外交部会長は19日の衆院外務委員会で宣言した。(朝日新聞のWebサイトから)
 日本にいても有効な対策を打ち出すことができなかったのですから、実はいてもいなくてもどうでもいいような人であったといえると思うのですが、そういうどうでもいい人が日本にいなかったということを責めて貴重な時間を浪費するくらいならば、東国原知事をを筆頭に宮崎県の関係者や現地に動員されている自衛隊員は疲労困憊、憔悴しきっているのですから、そういう真面目に取り組んでいる人たちの足を引っ張るような真似は慎むべきであろうと思います。どうせ政争の道具にしようという浅ましい根性なのでしょうが、自分が勝ち取った賞金を全額寄付すると申し出た横峯さくらさんの方が人間としてはるかに立派であるといえます。
 昔の人であれば、こういう場合こういうのでしょうね。「恥を知れ!」と。
by T_am | 2010-05-19 21:53 | 科学もどき
 普天間基地の問題と宮崎の口蹄疫のニュースが連日マスコミで取り上げられています。その一方で、国家公務員法改正案(衆議院本会議、5月13日)や地球温暖化対策基本法案(衆議院環境委員会、5月14日採決)などが強行採決されており、普天間基地をめぐる動きや口蹄疫の報道に比べると、実にひっそりと報道されています。
 とりわけ13日に行われた国家公務員法改正案の採決では、三宅雪子議員が転倒したことの方が大きく取り上げられ、そんな法案が通ったことも知らない人が多いのではないでしょうか。

 国会の会期(6月16日まで)が残り1ヶ月を切ったということもあるのかもしれませんが、世間の注目が他のことに向いている間に重要法案を通してしまうというのはちょっと乱暴なやり方であり、野党時代の民主党が反発していた手法ではなかったのか? という気がしてなりません。

 それはともかくとして、自分の選挙区の国会議員が何をしているのか知らない人が多いというのは否定できない事実であるといえます。もちろん有権者の関心が低いというのも理由の一つとして揚げられるでしょうが、肝心の議員の側も積極的に知らせていこうという意識が低いといえます。

 国会議員の仕事とは、法案を提出すること、法案を成立させること(もしくは廃案にすること)、法律を改正すること(もしくは廃止すること)に大別されると思います。
 特に重要なのは法案を提出することですが、政府提案に比べると議員立法は極端に少ないというのが現実です。その理由は国会議員が抱えるスタッフの陣容が貧弱であること、そして国会議員が陣笠議員に成り下がっていることが考えられます。
 事業仕分けで独立行政法人にメスを入れるということが行われ、近々第2弾があるそうですが、まず議員定数にメスを入れるのが先決でしょう。議員定数を今の2割程度に減らし、その代わり一人の議員に支給する調査費などを5倍に増額した方が、議員の質は今よりもはるかに向上するはずです。(議員定数が減っているので総額は今と変わりません)
 転んで怪我をして、車いすで登院したことで名前を覚えてもらったというのは、国会議員としては(本来ならば)屈辱的な出来事であるはずです。
 失礼ですが、今回の店頭事件があるまで三宅議員のことはまったく知りませんでした。
 それは、知ろうとしない国民と、知らしめようとしない議員本人と、伝えようとしないマスコミの連帯責任です。でも、なぜそんなことになるのかというと、採決のときに議員が持っている票こそが重要だからです。意地悪な言い方をすれば、与党・政府が提出する法案に賛成票を投じるのであれば、議員が誰であっても構わないというのが実態です。
 その実例が、タレントやスポーツ選手などの知名人を候補者に仕立て上げるという動きであって、個人の適性や能力などというのはどうでもいいと思われている証拠に、タレント出身議員の議員生命は短いのです。
 こういうのを使い捨て議員と呼ぶべきではないかと思いますが、議員として大した仕事をしなくてもいいようになっているというのが、使い捨て議員が一向に減らない理由です。

 そこで提案ですが、国会(委員会と本会議)の採決では、誰が賛成し、誰が反対したか、また誰が棄権し、誰が欠席したかというのをきちんと公開するべきです。議員立法の場合は提案者が誰か公開されていますが、それだけでは不十分です。法案の提出に取り組むわけでもなく、党の指示に従って賛成票や反対票を投じるだけの議員ははっきりいって無用の長物です。そんな人に歳費を支給するくらいなら、きちんと働いてくれる議員に余分に支払った方がはるかに国益に叶うはずです。
 要は、きちんと働いてくれる議員は誰なのか、いてもいなくても体制に影響のない議員は誰なのか、そして、いない方がいい議員は誰なのかが国民に明らかになるような仕組みがあることが大事なのです。

 民主党は期待はずれ。かといって今更自民党に投票する気にもなれない。その他の政党に投票するのもどうかと思う。そんな人が増えていると思います。このままだと、投票に値する政党がないという理由で夏の参議院議員選挙では投票率が下がることが心配されます。
 その場合、投票所には行くけれども白紙で投票するということをすればいいのですが、大半の人は面倒くさがって棄権するのでしょう。
 それというのも、一部の候補者を除き、わが国では個人よりも政党に投票するという傾向が強いからです。
 
 考えてみれば、投票というのは一種の白紙委任状ですから、それを政党に託すというのも無謀な行為であるといえます。なぜかというと、個人の場合であれば責任をとって議員辞職するということも起こりえますが、政党の場合、失政の責任をとって政党を解散するということはあり得ないからです。つまり、個人は責任をとることがあるけれども政党が責任をとることはないのです。
 責任を負わないものに白紙委任状を託すというのは、よく考えればおかしな話ですが、私たちは長年そのことを疑問に思いませんでした。今もそうです。

 もしも読者が日本の政治はおかしいと感じているのであれば、政党という無責任体質の組織に投票するのではなく、政治家個人に投票する(適当な人がいなければ白紙で投票する)というふうに考え方を切り替えた方がいいと思います。そのために、国会議員が何をして何をしなかったかということが有権者に公開される仕組みづくりを要求すべきでしょう。
 仮に、投票率60%、無効票(白紙)の割合60%となったとすると、有効な投票というのは全体の24%(=100%-40%-60%×60%)にすぎません。それを複数の候補者で分け合うのですから、当選者の得票割合というのは有権者全体の十数パーセントということになります。有権者の十数パーセントしか得票できない人が国民の代表ですということが本当にいいのかどうか、そういうことを考える時期に来ていると思いますが、いかがでしょうか?
by T_am | 2010-05-17 23:05 | その他
 先月の終わりに共同通信が世論調査をしたと思ったら、この前はNHK、すぐ後に朝日新聞が世論調査を行っていました。

(共同通信社の世論調査)
http://www.47news.jp/CN/201004/CN2010042901000454.html

(NHKの世論調査)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100510/t10014346771000.html

(朝日新聞の世論調査)
http://www.asahi.com/politics/update/0513/SEB201005130037.html

 
 なんだか一年中世論調査をやってるような感じです。たしかこの前までは各社同時期に行っていたはずですが、ばらばらにやることにしたのでしょうか。各社の調査結果には数パーセントの誤差はあるものの、ほぼ大差ない結果が出ているので、経費をかけてやるのもどうかという声が社内で出てきたのかもしれません。
 そうかといって、世論調査をやめてしまうわけでもないようです。もしかすると、世論調査をすると部数が伸びるのかもしれませんね。

 マスコミが世論調査を行う目的は、「民意はこうなっているが現実はそうではない。政治家や政府は民意に背いている」ということを暗に主張したいからなのでしょう。
 実際のところ、政府や政治家というのは非常にしばしば民意を無視することがあります。政府や政治家が民意に忠実であれば、B型肝炎訴訟など起こらなかったでしょうし、米軍基地問題もとっくに解決していたはずです。
 政治家の最大の弱点は選挙に勝たなければならないことですから、自分が所属する政党の人気がどうかということに無関心ではいられない、というのは当然のことと理解できます。ですから、人気が下がる一方であれば、いっそのこと離党して所属政党を鞍替えするという議員が出てくるのも自然の成り行きであるといえます。もっともそういう議員に限って知名度が低い(議員としての実績は何かを国民が知らない)という傾向があるようです。
 「たちあがれ日本」(何度聞いても変な名前だなと思ってしまいます)に所属する議員で与謝野さん以外知っていますか? 「新党改革」で桝添さん以外の議員の名前を言えますか?

 それでは民意に忠実な政治を行えばよさそうなものですが、それだと今度は行き当たりばったりの政治になってしまいます。民主党政権が陥っているジレンマがそれです。
 「高速道路を無料化します」「こども手当を支給します」「高校の授業料を実質無償化します」「農業者所得補償制度を設けます」などと景気のいいマニフェストを連発してはみたものの、それをぜんぶやろうとするととても財源が足りないということになって苦労しているわけです。
 もともと「民意」などというものは気まぐれなものであり、特に世論調査の場合は質問のしかたによって結果はどうにでも変わります。もはや世論調査の定番となった支持政党についての質問はともかくとして、それ以外に臨時で行われる質問の中には、世論を誘導する意図があるのではないかと思われるようなものも含まれています。

 B型肝炎訴訟の和解に関するニュースが報道されていますが、こういう問題を世論調査の対象にすれば政府も重い腰を上げ(担当大臣が慌てて対応することになるから)、被害者の救済に寄与することになると思うのですが、マスコミはそういうことには関心がないようです。
 
 誰もが世論調査の結果を利用することを考えていますが、国民的合意の形成に向けて努力しようという政治家は残念ながら見当たりません。
 たとえば新党改革では結党早々に日米同盟を堅持するという政策を掲げていたのですから、普天間基地の問題の解決に向けて一肌脱ごうという動きがあってもよさそう(この問題が早期に決着する方が日米双方の国益に叶い、日米同盟をいっそう堅固なものにするという論理です)なものですが、そのような動きはみられません。
 同じことは自民党にいえることです。もともと自分たちが決めた合意を民主党がひっくり返そうとしたために現在の混乱が起こっているのですから、政府に対し、当初の合意通りさっさとすすめたらどうだと催促するかと思えば、その点については口をつぐんでいます。また、沖縄へ出かけて行って、日米同盟について県民と意見交換してくるという国会議員もいません。

 「民意」というのは部分的な知識や偏った知識の上にできあがった感情のことをいいます。それゆえに煽動されやすいと思わなければなりません。したがって、「民意」がものごとの本質を突いていることもありますが、むしろそうでない方が多いといえます。
 マスコミはそこのところを隠して、あたかも「民意」が錦の御旗であるかのように扱います。
 それが政府の暴走を阻止することもありますが、逆に国の進む道を迷走させることもあります。(何のことか知りたい方は「日比谷公園焼き討ち事件」という言葉でネット検索してみてください)

 「民意」という感情が日本の行方に大きな影響を与えたことは過去に何度もあり、どちらかというと不幸な結果に結びついたことの方が多いのですから、この辺で「民意」を特別扱いするのはやめたらどうかと思います。

 普天間基地の問題に関して、政府や総理に対する批判はありますが、ではどうしたらいいのかという議論がまるでありません。というのは、この問題は米軍基地をどこに持っていくかという次元では解答を見つけることができないからです。
 日米同盟を口実にして、日本の防衛をアメリカに依存する限り、米軍基地の問題はなくなりません。では、なぜ日米同盟が必要なのかといえば、日本が負担すべき軍事費をアメリカに肩代わりしてもらうことで日本は経済成長に専念できるから、というのがこれまでの解答でした。その代償が米軍基地問題であるといえます。
 したがって米軍基地問題を解決するためには、日本の防衛を今後どうするのか、という議論を経ない限り解答が出ないのです。

 日本の選択肢は大雑把に分けると次の4つになります。
1)これまで通り米軍に依存する。
2)米軍とは縁を切り、中国や北朝鮮を含む東アジアの国々と仲良くする。
3)米軍とは縁を切り、自分たちで日本の防衛を行う。
4)米軍とは縁を切り、国連をアテにする。

 それぞれの選択肢に応じて近未来がどうなるのかというシミュレーションは割と容易にできると思います。それがもたらす果実とリスクについて吟味するという過程を経ないと結論が出せません。普天間基地をどうするのかというのは、そのような論理の帰結としてとらえるべきですが、今行われているのは、論理がないまま結論を出そうとしていることにほかなりません。だから、誰も納得しない解答にならざるを得ないのです。

 この問題についての、私の提案は次の通りです。

1)日本の防衛は自分たちで行う。
2)そのためには軍事費が今よりも増えることになり、増税が必要となるかもしれないが、自分たちが納得して決めたことであれば甘んじて受け入れる。
3)そのうえで、アメリカに対して次のように持ちかけて、米軍にはお引取り願う。
「君のところも財政赤字を抱えて大変だろうから、日本の領土の防衛は今後日本が自分で行っていくことにするよ。その代わり、何か問題が行ったときには、直ちに米軍が出動するぞ、というポーズだけは整えておくことにしたいのだが、どうだろうか。日本が他の国から侵略されないということは、君の国にとってもメリットが大きいはずだし、何よりもそのために君たちが今負担している経費がいらなくなるわけだ。君がそのように決断すれば、君の国の納税者は大喜びするのではないかね。」

 普天間基地ひとつを消去しても、在日米軍基地が抱える問題が解決するわけではありません。
by T_am | 2010-05-14 22:15 | その他
 5月7日、6月から実施される高速道路無料化の社会実験によりCO2の排出量がどうなるかという試算の結果を国交省と環境省が発表しました。正反対の結果になったために、大きくニュースで取り上げられたのでご覧になった方も多いことと思います。

(平成22 年度高速道路無料化社会実験によるCO2 排出量の検討について)

 これに対するマスコミの論調は、CO2が増えるのか減るのかいったいどっちなんだというものです。
 正解は常に一つしかないという考え方をする限り、そのように思うのも無理はありません。学生時代のテストには、常に正解があったのですから、成績のよかった人ほど正解は常に一つだと思い込みやすいということになるのでしょう
 
 私の場合は成績がよかったわけではなく、性格も悪いのでそのようには考えません。むしろ、CO2の排出量がどのように変化するかという試算をしても正解など存在するはずがないと思っています。
 今年の6月から無料化実験がスタートするわけですが、それによってCO2の排出量がどのように変化したかというのをどうやって測定するというのでしょうか?
 日本の国全体であれば年間のCO2の排出量は、ガソリンと軽油と燃料用重油の消費量から計算によって推定することは可能ですが、それでも測定することはできません。また、自家用車であれば1ヶ月にどれくらいガソリンを給油したかによってCO2の排出量を推定することは可能ですが、実際にどれだけ排出されたかを測定することはできません。
 さらにいえば、どのように変化するかを調べるためには、現在の状態を把握しなければなりません。そのうえで、将来の結果と比較して初めてどれだけ変化したのかがわかるのです。
 けれども、その場合、結果に影響を与える要因が他に存在しないということが前提となります。これを対照実験といい、生物学の研究でよく使われる手法です。実験動物を2つのグループに分けて、第1のグループにはAという薬を与え、第2のグループにはそれを与えない。その他の条件はまったく一緒にしたときに、Aという薬がどのような影響を与えるのかがわかります。
 しかし、CO2の排出量に関して測定可能なのは大気中の濃度くらいのものでしょう。だからといって、今年のCO2の濃度と来年の濃度を比較して、その差は高速道路の無料化実験によるものであると断言することはできません。なぜなら、CO2濃度という結果を左右する要因は無数にあるからです。

 結局、環境省や国交省が行っているのは、仮定の数字に基づいて計算をしているということであり、あたかもそれが事実を正確に現しているかのように誰もが錯覚しているということなのです。
 
 正確な数字は誰にも確認できないというときに、人間は嘘をつくことがあります。どんかことをするかというと、自分の都合のいいように数字を操作したり、改ざんしたりするのです。
 過去に政府が行った未来予測が結構いい加減なものであったことは皆様覚えておいででしょう。予測通りであれば赤字の高速道路など日本には存在しないはずですし、年金も安心してもらうことができるはずです。でもそうではないのですから、政府というのはいつの時代においても都合のいいことしかいわないのだと思っておいた方が無難です。
 今回国交省と環境省がそれぞれ行った試算の結果が違ったというのは、どちらも自分の都合のいいように条件設定して計算したからです。なぜなら、道路の交通量や日本人の出生率は測定可能であり、嘘をついてもすぐばれますが、CO2排出量の変化は誰にも測定できないからです。「どーせわかりゃしないんだから、もっともらしい数字が出てればそれでいいんだよ。」と鉛筆を舐めている官僚の顔が目に浮かぶようです。、
 もっとも、今回の国交省と環境省の試算の結果が数パーセントも違っているというのであったならば、公表することはなかったはずです。うかつに公表してしまえば、国民に対し、計算方法に決定的な疑いを抱かせることになるからです。
 その点、+0.1% という数値と-0.1% という数値とではほとんど誤差の範囲内のようなものですから、公表した方がかえって省益にかなうと判断したのでしょう。
 何が省益かというと、計算方法において基本的には間違っていないということをアピールできることがひとつ。条件の設定方法が異なっていたために結果が異なってしまったいえば、そんなものかと思ってしまうレベルの違いですから、それについてはお互いに今後検証していくと言い逃れをすることができ、検証するための予算をおおっぴらに使うことができるようになったのが2番目のメリットです。

 「両省の事前検討では、今回の無料化社会実験は、自動車のCO2排出量全体に及ぼす変化は極僅かであり、ほぼ中立であるとの結果となった」と発表しているのですから、冷静に考えると、これ以上経費を使って調べる必要はないじゃないかと思います。
 正解は常にひとつという考え方をすれば、このようなくいちがいは看過できないことになるでしょう。しかし、そもそも高速道路無料化によるCO2排出量の変化を測定する手法が確立しているわけでもないのに、いったい何を検証するというのでしょうか?

 このように考えると、国交省も環境省も仕事をしている振りをしているにすぎないという結論に到達します。
 アクアラインの交通量がどうなるかという予測すらできなかった国交省が、それよりもさらに複雑なCO2の排出量の検証などできるはずがありません。
 マスコミもそのことに気づいてもよさそうなものですが、そうではないのは、政府が発表することを鵜呑みにして、そのまま垂れ流すようにしてニュースにするということを繰り返してきたために、自分で裏をとるという意欲と能力を失っているからでしょう。

 今回、国交省と環境省が、あえて自分たちの恥を晒すかのような発表をしたというのは、両省間で異なる試算結果が導かれているのでそれを検証する必要がある、という口実にしたかったのだと思われます。こうして、おそらく数億円という予算が注ぎ込まれることになるわけです。それも「極僅か」でどうでもいいような変化を「検証する」ために。
 こんなことをしていれば、どれだけ増税してもすぐに財源不足に陥ることでしょうし、国の借金も減るはずがないということがわかります。

 デタラメをやるにも程がある。そう思いませんか?
by T_am | 2010-05-08 21:46 | その他
 草食系男子という言葉がメディアで取り上げられるようになって1年半が経つそうです。面白いネーミングだと思います。こういう造語は、一目見て意味がわかること、しかも時代をどれだけ切り取っているかで価値が決まるのですから、秀逸といってもよいでしょう。
 草食系男子という言葉の意味を理解するために、その反対語を考えるという手法があります。反対語として考えられるのは、

肉食系オヤジ
 これはどこにでもいそうです。猛然と餌に襲いかかるそのエネルギーは見上げた物だと思います。このタイプには、つまみぐい型(おいしいとこだけ食べて後は知らんぷり)、ハゲタカ型(食い散らかすので後始末が大変)、ハイエナ型(骨までしゃぶりつくす)などがあります。
 また、肉食型の亜種としては、コバンザメ系男子(虎の威を借る狐系男子)があります。自分の実力不足を他人の名声で補おうとするタイプであり、二言目には「それは社長の考えに反する」とか「先生はこういうふうに言っている」という言い方をして、議論に勝とうとするタイプです。

 このようなタイプは、経済の成長期であればまだ我慢できるのですが、マイナス成長の局面を迎えると鬱陶しい以外の何者でもありません。ですから、今の時代、これらの対極にある草食系男子というのが注目されるのも当然であると思います。
 草食系男子というのは、その名の通り草食動物のように振る舞う性行が強いというものです。性格は穏和であり、他者を押しのけてでも自分を主張するということがありません。恋愛やセックスに対してガツガツしているところがなく、どちらかといえば淡泊であるといえます。女の人にしてみれば、いっしょにいて疲れないというところがいいのでしょうね。けれども、しつこさもない替わりに、決断力に乏しいという傾向があり、デートのときなど「何食べる?」や「今日はどこへ行こうか?」という問いに即答できないという優柔不断さもあるようです。

 草食系男子が注目を浴びるのは、世相もあると思います。今の三十歳代半ば以下の人たちは、思春期を迎えた頃にはすでにバブルが崩壊していたわけですから、不況しか知らないといえます。そのような時代では一攫千金を夢見るという風潮がまず現れ、実際に一儲けする人も登場するのですが、出る杭は打たれるの諺通り、ホリエモンのように没落してしまうという人もいます。そういう事例を目にするうちに、堅実指向や安定志向というのがしだいに幅をきかせるようになり、今はまさにそういう風潮が広まっているといえます。 草食系男子は派手なこととは無縁ですが、大きなミスも犯さないという安心感があるのかもしれません。

 草食系男子の対極にあるのは肉食系女子ということになるのでしょうが、これはちょっと怖いので、近づきたいとは思いません。もっとも相手にされないでしょうが。

 こういうレッテルで人間を理解するという手法はわかりやすい反面、その人の大事なところを見落としかねないという欠点もあります。だから言葉の遊びくらいに思っているのがちょうどいいのでしょう。
 言葉の遊びついでに、思いついた亜種をいくつかご紹介しておきましょう。

偏食系男子
ロリコンやデブ専、老婆専門などの特殊な嗜好の持ち主。フェチも含む。

共食系男子
ゲイのこと。

拒食系男子
インポテンツ

美食系男子
面食い。きれいな顔をした女は性格もいいと思っている救いようのない男のこと。

画食系男子
アニメオタク。もしくは生身の女よりも二次元の世界の女の方がいいという男。

暴食系男子
高校生から二十代前半の男に多い。頭の中は女の子のことでいっぱい。カノジョができると暇さえあればセックスしたがるのがこれ。「あたしの身体が目当てだったのね?」と問い詰められると狼狽する

飽食系男子
浮気性の男。

過食症男子
どうしようもない女好き。ここまで来るとほとんどビョーキ。

初物食系男子
処女崇拝者。現代ではバカの同義語。

粗食系男子
ぜいたくは言いませんというタイプ。女に縁がないのがこれ。

雑食系男子
いわゆる普通の男。もっとも多い。
by T_am | 2010-05-04 22:51 | その他