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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 鳩山総理と小沢幹事長という民主党のNo.1とNo.2に対する「政治とカネ」の疑惑の一連の経緯をみていると、この政党には危機管理能力というものがないと判断せざるを得ません。
 鳩山総理は国会で弁明しましたが、大衆がそれで納得しているかというとそうではありません。また、小沢幹事長にいたってはそれすらしていません。検察が嫌疑不十分で不起訴としたときに、これで私の無実潔白が証明されたというコメントを出してそれで終わりでした。
 企業が不祥事を起こし、マスコミに追求されるという事件はたびたび起こっています。その対応がまずければ、消費者の反感を買って不買運動を起こされたり、取引停止とされたりして、最悪の場合倒産や廃業に追い込まれた企業もあります。
 こうしたことから、企業では危機管理ということに真剣に取り組むようになったところが増えています。
 危機管理の鉄則は、事実をありのままに公表すること。その際に第三者を交えた調査委員会を設置して、問題点と責任の所在を明確にしたうえで、処罰を含め、再発防止策を講じるということです。厳しいようですが、そこまでしないと世間は納得してくれませんし、世間を敵に回したのでは商売ができないのです。
 ところが、このたびの民主党の対応はこの原則から悉くはずれています。政治は商売とは違いますが、政治家は選挙民の信任を受けなければならないわけですから、世間を敵に回すということは政治生命が絶たれるということに等しいのです。
 その証拠に、民主党の支持率は世論調査の度に低下しています。民主党が抱える問題はそのような現実を突きつけられているにもかかわらず、何ら有効な対策を講じることができないところにあるといえます。

 過去に、不祥事を起こし、その対応がまずかったために倒産や廃業に追い込まれた企業には共通点があるように思います。それは、その会社が経営者の私物であったという点です会社が経営者の私物であれば、誰もその人に逆らえなくなります。もちろん意見をすることもできません。下手に逆らおうものならばたちまち馘になるからです。
 そのような組織では、法や常識よりも経営者の意思の方が優先されるのはおわかりでしょう。実際にそういう会社は意外と多いのです。
 危機管理とは、個人ではなく組織を守るという発想に基づく行動ですから、社長の私物となっている企業とは相性が悪いのです。

 ここ数ヶ月の民主党の動きを見ていると、小沢幹事長の顔色を伺いながら仕事をしているように見受けられます。時折、渡部恒三最高顧問が批判的な意見を述べることがあっても悉く無視されています。また、原理主義者と揶揄されることがある岡田外務大臣でさえも小沢幹事長に対する批判を口にすることはありませんし、ただ一人の上司であるはずの鳩山総理に至っては小沢幹事長に遠慮しているのか、まるで上司らしさがありません。そのため、政府のトップは鳩山総理、民主党のトップは小沢幹事長という二重構造に陥っています。
 だからといって民主党が小沢幹事長の私物に成り下がっているというのは適当ではありませんが、もはや党内で自由な議論ができない組織になっていることは明かです。これが民間の組織であればどうなろうと構わないのですが、曲がりなりにも政府与党なのですから、失政が社会に与える影響は大きなものがあります。
 さらに懸念されるのが、危機管理能力のない政党が政権を握っていて、いざというときに適切な対応がとれるのかということです。緊急事態といっても過去に事例があり、対策についてのマニュアルが定まっているものについては心配ありません。ラインに任せておけばいいのであって、トップがすべきことは報告を受けるくらいのものです。
 しかし未知の事態、どのように対応したらいいのかという正解がないときはトップの出番となります。
 もちろん現場ではリーダーの立場にある人たちがそれぞれ適切な判断を下さなければならないのですが、明確な方針がない中でそれぞれ勝手に動くことになります(かといって指示を待っていたのでは手遅れになりかねない場合もあります)。このように指揮系統が定まらないまま動くと、情報が錯綜し、適切な対応ができないようになるので、混乱に拍車をかけます。
 勘のいい読者は、それってまるで普天間基地の移設先をめぐる政府の迷走のことじゃないかと思われるでしょう。普天間基地をめぐる混乱は、鳩山総理が衆議院選挙の際に沖縄を遊説して、軽々しく県外移設を約束してしまったことが発端です。そういう意味では自業自得なのですが、民主党の議員諸氏が結束してこの問題に取り込もうという動きが起こらないのも情けないといえます。
 このあたり、普段真剣に考えることをしていないという証拠であるといってもいいでしょう。
 危機管理能力を高める訓練は、普段から突き詰めて考えるということに尽きます。何も考えていないから、いざというときに頭の中が真っ白になって、パニックに陥るわけです。もっとも普段からきちんと考えていたら、普天間基地を県外移設させますなどと安請負することもなかったでしょう。日本の防衛は自力で行うという覚悟もないくせに、軽々しく約束するから混乱と不信を招くのです。

 たぶん、普段あまりものごとを考えていないだろうな、と思われる議員は自民党、公明党、社民党にもいます。そういう意味ではどの政党も五十歩百歩であるといえるので、民主党だけを責めるのは酷かもしれません。
 こういう議員が多くなったというのは、私たちが議員の活動について関心を持とうとしないことも原因のひとつとして数えることができます。議員について知らないとどうしても政党で投票することになります。その上、小選挙区制と比例代表制があるわけですから、組織票を確保した政党が有利になります。だから自民党は公明党と連立を組み続けたわけですし、小沢幹事長は連合の支持を取り付けたわけです。
 しかし、選挙で組織票を動員してもらった見返りに支持団体に対して便宜を図るかのような政治が行われるのであり、それらの財源は支持団体と無縁の一般市民が負担する税金が充てられるのですからたまったものではありません。
 政党はいったい誰のためにあるのかといえば、現在の日本では、一つは議員になりたいという政治家のためであり、もう一つはそれを支持する団体のためにあると指摘せざるを得ません。
 そのような状況下では、当選させたもらった議員の多くは陣笠となり、一部の人間に権力が集中することになってしまいます。
 有権者が政党に投票するという行動を改めない限り、この状況は変わりません。
by T_am | 2010-04-30 21:49 | その他
先日大阪へ行ったときに、朝の9時過ぎに地下鉄御堂筋線を利用しました。6両目に設けられている女性専用車両はけばけばしい色に塗られているので目につきます。その隣の5両目に乗ったところ6両目とは混雑度合いが全然違うことに呆れたことがあります。
 そういえば3月に、これに反対する団体の人たちが女性専用車両に抗議乗車してトラブルになった事件があったなと思いだしました。すいている女性専用車両に比べ一般車両が混雑していることを見ると、怒りたくなる人の気持ちもわかるような気がしました。

 女性専用車両が設けられたのは、痴漢対策のため女性が安心して乗ることができる車両を設けようということだそうです。
 それでは、女性専用車両が設けられて痴漢行為が減ったのかというと、そうとはいいきれないようです。痴漢被害の件数に変化があったのかを公表していない鉄道会社も多く、公表されてる事例をみても、御堂筋線や埼京線では被害件数が減少したとされていますが、中央線快速や京王線のように被害件数が増加しているという路線もあるからです。
 考えてみれば、1両だけ女性専用列車を設けても一般車両に乗車する女の人がいる限り、女性客が痴漢の被害に遭う可能性をゼロにすることはできません。一般車両に乗る女性が悪いというのではなく、すべての女性客に対し1両しかない女性専用車両に乗れというのは無理な話です。
 ただし、「(女性客は)物を食べたり化粧したり、だらしないから乗らない」と女性専用車両を利用しないという女の人もいて(「毎日新聞 2010年4月20日 地方版」から

、女性専用車両がいいとは一概にはいえないようです。また、女性客の中には、乗り換えや駅の出入り口の位置を考えると、女性専用車両の配置が具合悪いという理由で、あえて一般車両に乗るという人もいるものと思われます。
 そうかといって、痴漢行為に迷惑し、怖い思いもしている女性もいるわけですし、示談金目当ての痴漢冤罪事件も起きているのですから、いっそのことすべての車両を女性専用・男性専用の2種類に分け、交互に配置すればいいと思うのですが、どうでしょうか?
 女性と男性を完全に分けてしまえば、電車の中での痴漢行為は完全になくなるはずです。また混雑具合も均等になるはずなので、男性に対する不当な差別であると主張する人たちも納得してくれるのではないでしょうか? 
 もうひとつ付け加えれば、男は痴漢冤罪の被害者になりやすからです。電車の中で隣に立った女性からいきなり腕をつかまれ、「この人痴漢です!」と叫ばれたら、身の潔白を証明することは極めて困難です。そこで自衛のために、女性が隣にいるときは空いた手でつり革につかまる、本を読む、それが無理ならば自分の服の襟をつかむなどのことをする男も多いと聞きました。自分が混雑した電車に乗るときも、たぶん同じことをすると思います。見境なく人を疑わなければならないというのは社会が病んでいるといわなければなりませんが、さりとて混雑時に電車に乗らなければならない以上、他に有効な方法もないというのが実情です。
 そういうことであれば、すべての車両を女性専用・男性専用の2種類に分けて交互に配置するというのが現実的な解決策であるといえます。もっとも朝のラッシュ時と異なり、夜の電車は時間帯によって男性と女性の乗車率が異なる可能性もあるので、単純に男性専用、女性専用の割合を1:1とするのは混雑の偏りを生む可能性もありそうです。夜も遅くなればなるほど女性客の割合が減るように思われるので、その場合、時間帯別に女性専用車両の数を調整し、なおかつ乗客にわかりやすいように告知することが必要でしょう。
 このような施策は鉄道会社にとっては面倒でコストがかかることですから、自主的に取り組もうという会社はたぶん出てこないでしょうね。
 また女性専用車両の導入を推進した公明党の議員のみなさんは、それが何の問題解決になっていないということに気づいていないのでしょうか。現在運用されている女性専用車両は、自分が利益を享受するためには他人が不利益を蒙っても構わないという人間を量産しているように、私には思えます。
 このテーマでWebを渉猟していたら昨年のニュースで、「小池百合子元防衛相ら自民、公明両党の女性議員有志が8日、勤務先付近の託児所、保育所などに子どもを預ける親のために、朝夕のラッシュ時間帯の電車に親子連れ専用の「キッズ車両」を導入するよう、金子一義国土交通相に要請した。要請書では「子どもと少しでも長く一緒にいたい」「病気の時などに駆け付けられる」などとして、職場近くの施設に子どもを預けるメリットを強調。しかし混雑した電車に子どもと乗ることは困難として、親が子どもを抱いたり、ベビーカーのまま乗ることができる専用車両が必要としている。これに対し金子氏は「(キッズ車両導入については)私もお手伝いする。社会全体で進めなければいけないことだ」などと応じた。」(共同通信2009年7月8日)という記事を見つけました。
 「子どもと少しでも長く一緒にいたい」という理由で、幼いわが子を自分の通勤につきあわせたいという母親が本当にいるとすれば、そのような母親に育てられたこどもはやはり自己中心的な大人になっていくだろうと思います。こうして、自分の快適さを追求するためにはわが子でさえも犠牲にしても構わないという人間が増えていくのでしょうね。こどもの虐待が減らないはずです。
 この要請をした女性議員の皆さんは、そのような風潮の最先端を走っている方々であると、失礼ながら申し上げざるを得ません。
 女性専用車両も同様です。女性議員の皆さんも過去にラッシュ時の通勤車両で不愉快の思いをされた経験があるのでしょう。それを解消するには女性専用車両を設ければよい、という発想をしがちですが、ここまで書いてきたようにあまりにも安易であるといえます。
 それによって何が起きているかに目を背けて、単純に、「私たちの努力によって女性専用車両の導入路線が増えました。これからも頑張りますから応援してください。」というのは、政治家として無責任きわまりないとといえます。



(わにぶち洋子参議院議員の公式ブログ)


(女性専用車両に反対する小坂英二荒川区会議員のサイト)
by T_am | 2010-04-28 22:25 | その他
 霊魂の存在について考えていくと、巷間伝えられている考え方には辻褄が合わないものがあるということを前回申し上げました。
 しかし、人間には他の動物と違って、霊を感じる能力が備わっているという事実は否定できないと思います。
 確かに霊魂というのは現代の機器では観測することができません。だからといって直ちに霊魂など存在しないのだと断定するのは科学的ではないといえます。観測する手法がない以上、否定も肯定もできないというのが正しいのです。
 私の霊に対する立場も、同様に、よくわからないというものです。といってもわからないなりに少し整理しておこうということで本稿を書いているわけです。

 よく、仏壇やお墓に手を合わせて(あるいは写真に向かって)死んだ親兄弟・こどもに語りかけるということを人間は自然に行います。それは、自分の中で思い浮かべたその人のイメージに向かって語りかけているわけですが、そのような芸当ができるのは人間だけです。その証拠に墓をつくるのは人間だけであり、チンパンジーが死んだ家族のために墓をつくったという話は聞いたことがありません。

 死者のイメージを自分の中につくることができる。似たようなことを私たちはしょっちゅうしています。
 私たちが手紙を書くとき、相手のことを思い浮かべながら手紙を書いていますよね。これはケイタイのメールでも同じだと思います。また、ブログで自分の日記を公開するというのも具体的ではないけれども誰か読んでくれる人のことを思う浮かべながら文章を書いているのです。
偉い人が亡くなると葬儀の際に弔辞を読み上げることがあります。これは弔問客が耳を傾けていることを承知の上で、死者に向かって語りかけるというものです。
 手紙であれば返事が返ってくることもあり(片思いのラブレターのように無視されることもありますが)、ブログであれば読者がコメントを書き込むこともあります。弔辞の場合は死者が答えるということはありませんから、その意味ではコミュニケーションとはいえませんが、ここにあげた例はどれも自分以外の誰かに向かって自分の気持ちを述べるということに目的があるといえます。
 その相手が死者である場合、私たちはそれを霊として意識しているのだとはいえないでしょうか? よくいわれるのは、亡くなったあの人は今も私の心の中で生きている、というものです。それはあなたの心の中にあるイメージにすぎないんですよ、といってしまえばそれまでですが、当人にすれば、それは単なるイメージなどではない、自分にとってもっと大切なものなのだという思いがあるのです。
 霊というのは生きている人の中にある、そのように考えることができると思います。私たちは自分の中にある霊に向かって語りかけることで、自分の気持ちを整理することができます。あるいは自分の決意を述べるということもあるでしょう。
 そういう意味で霊はあるといってもよいと思います。そのような形で存在する霊が私たちに対して悪意を持ち祟るということは考えられません。
 もっとも、自分が意識しないまま、その霊に縛られるということはありうると思います。その典型的な例が、生まれてこなかったわが子を供養したいという女性の思いでしょう。あるいは誤って事故などで人を死なせてしまったという人がかられる悔恨の思いもそれに該当するといえます。
 霊を感じる能力の乏しい人であれば、このような思いをいつまでも引きずるということもなくすぐに忘れてしまうでしょうが、そうでない人も世の中にはいます。宗教はそういう人を救うためにあるのだと思います。ただ、宗教の場合どうしても教義に縛られるのであらゆる迷いあらゆる人を救済するということはできません。そのような隙間を埋めるために霊能者(俗に言う「拝み屋」)が活躍するというのはありだと思います。ただし、霊能者も万能ではありませんから、なんでも頼ってしまうというのは身を誤る元となります。また、そこにつけ込もうとする悪い人間も世の中には多いことも事実です。

 自分の中にある霊。友達にするならば、そのような霊的感性を持った人の方がいいと思いますが、そのような感性を持っているが故に苦しむということもあります。それは最終的には自分で解決するしかないのですが、宗教や霊能者はそれを助けてくれることがあり、そのためにあると理解してもよいと思います。
 繰り返すようですが、どのような宗教であろうとあらゆる迷いや苦しみを救済することはできません。だからこそいろいろな宗教が存在するわけですし、霊能者(拝み屋)といわれる人たちもいるのです。
 私たちは、一度信じてしまうとあたかもそれがすべてであるかのように思い込む癖があります。いわゆる「かぶれる」という状態です。そうなっていいことはひとつもありませんから、心の状態は常にニュートラルでいたいものです。
 
by T_am | 2010-04-25 18:30 | その他
 昨夜のNHKニュースによれば、「国立感染症研究所が新型インフルエンザによる国内の死者の数を推計したところ、およそ200人となり、多い年には1万人以上が死亡する季節性インフルエンザの数十分の1以下だった」とのことです。あれだけ大騒ぎしたのですから、まずはよかったと申し上げるべきでしょう。
 以下にニュースの続きを引用します。


 インフルエンザの流行では、患者が検査を受けないまま死亡したり、感染と死亡との因果関係が明らかでなかったりして、正確に死者の数を把握することが難しいため、国立感染症研究所が毎年、人口動態統計を基に死者の数を推計しています。この方法で推計すると、季節性インフルエンザの死者の数は、多い年には1万人を超えますが、ことし2月までの新型インフルエンザでは、死者はおよそ200人となり、季節性インフルエンザの数十分の1以下だったことが初めてわかりました。専門家は、医療機関でタミフルなどの治療が迅速に行われたことや学級閉鎖などで重症化のリスクの高い中高年に感染が広がるのを防いだことが、死者の数を減らすことにつながったとみています。国立感染症研究所の安井良則主任研究官は「日本の死者数は欧米に比べ非常に少ない。医療機関で対策を取り、迅速な治療をできたことが死亡者を少なくできた大きな要因だろう。患者の多くが、重症化のリスクの高い高齢者でなく比較的体力のある若い世代だったことも影響していると考えられる」と話しています。


 今朝のNHKニュースでは、さらに人口10万人あたりの死亡者数を国別に紹介しており、最悪だったのはアメリカの3.3人、フランスが0.5人、日本は0.1人ともっとも少なかったことを伝えています(アメリカの数字は記憶違いがあるかもしれません。)
 アメリカの死亡率が高いのは医療費が高いために貧困層が医者にかかれないという実態を反映しているように思えます(推測ですが)。日本の死亡率が低いのは、あれだけ大騒ぎしたので、インフルエンザに罹ったかもしれないと思った人が速やかに医療機関へ行って、きちんと治療をしてもらったことが大きいと思います。その点日本の医療というのは信頼がおけますし、健康保険制度によって誰でも気軽に診察を受けることができるというのも大切なポイントであるといえます。

 2008年までは季節性インフルエンザによる死亡者数は推計値しかないことがNHKのニュースでも伝えられています。昨年の場合はきちんと検査して新型インフルエンザに感染している人の動向が把握できていたわけですから、死亡者数把握の精度は高いといえます。推計値(2008年まで)と実数値(2009年の新型インフルエンザ)を単純に比較することにどれだけ意義があるのか疑問ですが、少なくとも新型インフルエンザは発症してもきちんと対応すればそれほど怖い病気ではないということは印象づけられると思います。
 今後も同様の手法を季節性インフルエンザにも適用すれば、季節性と新型の毒性の比較が可能になるはずです。そのうえで、インフルエンザにどのように対処したらいいのかが定まっていくことになるでしょう。実をいうと、例年のインフルエンザによる死者が1万人以上いるということが、本当にそうなのか疑わしいと思っています。ニュースにもあったように、そもそもインフルエンザの場合感染と死亡との間に因果関係が明らかでないわけです。そのあたりの定義を整理してきちんと統計をとらないと、今後同じようなことがあったときに、また混乱することになるといえます。

 昨年から今年にかけてのインフルエンザ騒動でわかったことがいくつかあります。

1.インフルエンザではその年に流行する型は1種類である。
 インフルエンザには今回流行したもののほかにAソ連型、A香港型、B型などがありますが、同時に2種類のインフルエンザに感染することはほとんどないようです。毎年どれか一つの型が優勢になると他の型のウィルスは勢力を広げることはなぜかできないようです。
2.インフルエンザに罹った人が二千万人程度になると流行は衰える。
 これも不思議なことですが、毎年インフルエンザが流行していますが、日本人のすべてがかかるということはありません。発症して苦しんでいる人がいる一方で、発症しない人もおり、むしろそちらの方が多いといえます。これは他の感染症でもいえることですが、病原体が際限なく感染を広げていくということはないようです。
3.インフルエンザは夏でも発生している。
 昨年の騒動により、医療機関では疑わしい患者に対してインフルエンザの簡易検査を行うようになりました。その結果、夏でもB型インフルエンザに罹っている人が見つかったりしたそうです。従来であれば夏風邪で片付けられていたのでしょうが、実際には夏でもインフルエンザの患者は発生していることがわかりました。ただしその数は冬に比べるとやはり少ないようです。
 新型インフルエンザが夏でも流行したのは、ウィルスの型が新しかったことが原因です。ただ、新しいといっても従来のウィルス(H1N1型)の亜種でしたので、H1N1の免疫を持っている大人はかかりにくかったようです。こどもや乳幼児の間で流行したのは、彼らが免疫を持たなかったからです。
 このように、条件さえ整えばインフルエンザは夏でも猛威をふるうと考えた方がよいので、今後再び新型インフルエンザ・ウイルスが登場したときは注意が必要でしょう。流行の最初の頃は、夏になれば流行は下火になると考えられていたのであり、その常識が通用しなかったわけですから。

 諸外国に比べ日本での死亡率が低かったのは、日本の医療制度と体制が優れていたと誇ってもよいと思います。また、例年発生している季節性インフルエンザに比べ、死亡者数が少なかったというのは、比較する数字が違う(推定値と報告に基づく実数値)ために本当にそうなのか疑問が残ります。昨年秋以降にワクチンの投与が開始されましたが、その効果がどうだったのかという検証も必要でしょう。
 さらに、マスコミが大騒ぎしたことで、インフルエンザに罹ったのではないかという心配から医療機関で診てもらう人が大幅に増えたことは事実です。内科医と小児科医の待合室が大勢の患者であふれかえっていました。結果的にそのことがよい方向に作用したといえるかもしれませんが、サーズのときにあったようにマスクがたちまち売り切れるとか消毒用アルコールが建物の入り口に設置されるという異様な光景が出現したのも事実です。
 このたびの新型インフルエンザ騒動は、わが国の医療制度と体制が優れていること、その割に行政とマスコミの対応に問題が多いこと、またそれによって右往左往する国民性が明らかになりました。これらは、科学を軽視するというわが国の教育のあり方に原因があるように思います。
by T_am | 2010-04-25 16:29 | 科学もどき
 隣が墓地という家に住んでいると、どうしても霊的なことに関心を持ってしまいます。現に、子供部屋のドアはきちんと閉めないでいると、しょっちゅうギーと音を立てています。別に風もないのに不思議なこともあるものだと思いますが、何度もそういう音を聞いていると、またかと思うようになりました。

 私自身はUFOを見たこともなければ幽霊を見たこともありません。けれども身近な人で幽霊を見たことがあるという人は何人かいます。その人たちも常に見えるというわけではないようですが、それでもわざわざ嘘をつくような人たちではないのでたぶん本当なのだろうと思うことにしています。

 霊魂というものが本当にあるとすると、霊魂が主人であって肉体その器に過ぎないという考え方が生まれるのは自然のことであるといえます。幽体離脱とか臨死体験という現象も、このように考えるとうまく説明することができますし、憑依という現象も説明できるようになります。
 平井和正さんの小説の中で、肉体は自動車のようなもので魂が運転手として肉体を操縦していると考えることができるというようなことが書いてありました。自動車が故障することがあるように、肉体も調子がおかしくなることがあります。ですから、身体の障碍というのは自動車が故障したようなものであって魂に障碍があるわけではないので、身体障害者を白い目で見るというのはいわれのない差別であるというものでした。それを読んで、なるほどと関心した記憶があります。ずいぶん昔の話ですが。

 このように、魂が肉体の主人であるという考え方に立つと、今まで気づかなかったことも理解できるようになるという利点があります。そういう点で、霊という存在を考えるのは有意義なことであると思いますが、盲目的に信じ込んでしまうのもどうかと思います。というのは、魂と肉体によって人間は成り立っているという考えには、いくつか疑問もあるからです。

 器である肉体はいずれ死を迎えますが、魂の方はどうなのでしょうか? 幽体離脱や臨死体験という報告があるくらいですから、肉体が滅んだ後も魂は残ると考えてよいでしょう。
 人間が生まれてくるというのは、受精卵が成長して胎児になり、やがて出産によって産声をあげるという過程を経るのですが、どの段階で魂が肉体に宿るのかという疑問が一つ。やはり受胎の瞬間なのでしょうか?
 次に、肉体に宿る魂はどこから来るのでしょうか? 新しくつくられるのか、そうでなければすでにある魂が身体に宿るということになります。
 輪廻というのは、生前の行いによって魂が転生するという思想です。これを因果応報といい、人はその行為によって天道・人道・畜生道・餓鬼道・地獄道・阿修羅道という六道を転生するのだというものです。
 ところが輪廻によって魂が新しい肉体に宿るとするならば、世界の人口が増えてきたという事実はどのように考えたらいいのでしょうか? 日本だけでみても、江戸時代末期の人口はおよそ三千万人でしたが、明治時代には五千万人になり、現代では一億二千万人の人が日本にいるわけです。人口の増加は食料の生産力の上昇によってもたらされます。
 地球上の生命体の数が常に一定であるとすれば、つまり人類が増えた分他の生物が減っているならば、輪廻に沿っていると考えることができますが、実際はどうなのでしょう? 数億年単位で時間軸を設定すると、地球上の生物の総和は確実に増えていると思われます。地球上に生命が誕生したときから輪廻は始まったのでしょうか? だとすると、それ以前には魂はどこにもなかったということになります。

 霊に関する発言や事例を見聞きしていると、輪廻にあてはまらないものが圧倒的に多いことに気づきます。たとえば、幽霊というのは現世に未練を残しているために成仏できないものをいいます。これなどは成仏できれば輪廻に組み込まれていくのでしょうが、近年では守護霊、背後霊、動物霊などという考え方も登場しています。この考え方では、(よくは知りませんが)人間と動物では魂そのものが違うとみなしており、動物の種類だけ魂があると考えてもよいように思われます。人間の魂、犬や猫の魂、狐の魂、蛙の魂、ゴキブリの魂・・・。
 したがって、人間の魂は転生して新しい人間に生まれ変わると考えているようです。そうだとすると、人口の増加を説明するためには、今までなかった魂が新たにできていると考えなければなりません。魂はどのようにしてできるのでしょうか?
 もう一つ疑問に思うことがあります。この宇宙には地球以外にも生命が存在する惑星がある可能性が高いと考えられています。そのような惑星の中には、地球に似た環境の惑星もあるでしょうから、様々な動物や人間のような知的生物も存在すると考える方が自然であると思います。
 そうなると、それらの惑星に生息する生物にも魂があることになります。前世について述べる人はたくさんいますが、前世が宇宙人だったというのはまだ聞いたことがありません。それとも魂が移動するには宇宙空間は広すぎるのでしょうか? (でもUFOは地球に来てるんでしょ?)

 ここまで書いてきたのは、霊を否定するためではありません。霊に対して巷間述べられている見解には、じっと聞いていると矛盾があるのではないか、ということを申し上げたかったにすぎません。
by T_am | 2010-04-25 06:16 | その他
 以前「男はトイレを汚す生き物です」ということを書いたことがあります。今回は、そのおさらいと続きです。

 主婦の皆さん、あるいは同棲中の女性の皆さんは、男はどうしてトイレを汚すのだろうと、さぞかしストレスが溜まっていることと思います。それは「何で私が掃除しなければいけないの!」と叫びたくなるほど、理不尽な仕打ちであるということも理解できます。
 そもそも、男がトイレを汚すというのは、立ったままオシッコをするという生態を維持する限り、不可避の出来事なのです。(だから諦めてくださいというのではありません。)

 男がトイレを汚すのは、主に「しずく」と「飛沫」、そして「制御ミス」の3種類によるものです。
 「しずく」というのは、排尿器官の構造上いつでも起こりうることです。女の人の場合、「しずく」によってトイレを汚すことがないのは便器の上に覆い被さるようにして座って排尿するという生態に由来しています。でも男はそうではありません。たいていの男は、便器の手前から便器に向かって排尿するので、どうしても「しずく」がこぼれることになります。だから公衆トイレの標語には「一歩前へ」というものがあるのです。
 次に「飛沫」というのは、オシッコが便器に衝突した際に飛び散る無数の小さなしぶきのことをいいます。オシッコは腹圧によって体外に放出されます。このとき、排尿器官と便器の間があいていればいるほど飛び散る「飛沫」は多くなります。この点でも女の人は有利であり、男は不利であるといえます。
 そのことを考えると、和式便器というのは洋式便器に比べると浅い構造なので、どうしても「飛沫」が外に飛び散りやすい構造になっているといえます。しかも男性排尿器官と便器との位置の落差は大きなものがありますので、その分盛大に飛び散ることことになります。
 また小便器で用を足す場合でもオシッコの「飛沫」は飛び散っています。排尿器官と便器との距離が短く、また高低差が少ないほど、飛沫が飛び散る量は少なくなります。さらに小便器に対して浅い角度でオシッコが衝突すれば、その跳ね返りも浅い角度(つまり下向きということ)になりますが、小便器に対して90度に近い角度でオシッコをすれば、その跳ね返りである飛沫は自分の方向に返ってくることになります。その際、腹圧の強さ(オシッコの勢い)によっても飛沫が飛び散る量と距離が左右されます。勢いよくオシッコが出れば跳ね返る飛沫を浴びる可能性もそれだけ増えるわけです。
 実際には、飛沫は目に見えないくらい小さなしぶきなので、そのことを意識している男はまずいません。けれども男のズボンの裾は毎日オシッコの「飛沫」を浴びているといってもよいのであり、本当はかなりばっちいといえます。
 それを完璧に解消する小便器をつくろうと思えば、尿瓶のように、男性排尿器官を挿入して、その中でオシッコをするという構造にする以外にないのではないかと思いますが、たぶん誰も買わないでしょう。
 よく小便器に標的マークをつけたものがあります。それは、そこを狙ってオシッコをしてください、という男の本能(ほとんどの男は、自分がゴルゴ13のような名スナイパーであり、「愛銃」は高性能ライフルだと思いこんでいます)に訴える妙案なのですが、次に述べる「制御ミス」を予防するためのものであって、オシッコの「飛沫」を防止する効果はあまりないと思われます。

 最後の「制御ミス」ですが、男性排尿器官というのは、高性能ライフルどころか精度の悪い火縄銃のようなものであって、時々あらぬ方向に誤射してしまうということがあります。これは持ち主の意図とは無縁のところで発生する事故なのですが、その場合「しずく」や「飛沫」とは比べものにならないほど大量のオシッコを便器の外にぶちまけることになります。男として流石にこれは恥ずかしいことなので、自宅のトイレであれば拭き掃除をするかもしれませんが、公衆トイレではそういうことをする男はいません。

 以上のことを総合すると、男がトレイを汚すのを防止するには次の2つの方法しか私には思い浮かびません。

1.尿瓶を使うこと。
2.女の人のように座ったり、しゃがんだりしてオシッコをすること。

 尿瓶というのは、冬の寒い朝、オシッコをしたいけれども布団から出るのがおっくうだというときにあれば便利だとは思いますが、それ以外の場合には使いたいと思いません。 そうなると2.の方法しかないことになりますが、奥様の方が発言力が強いご家庭ではご主人がトイレで座ったり、しゃがんだりしてオシッコをするようきつく言われているということも聞きます。まことにお気の毒であるといわざるを得ません。
 しかしながら、トイレを汚さないように、その防止策に力を注ぐよりも、仮に汚してしまったときにはトイレットペーパーで周辺を拭くという方が、対処法としては容易でありしかも優れていると思います。

「トイレを汚したら、その後にトイレを使う人のためにも、ちゃんと拭いてきれいにするのですよ。」

 わが子にこのように教えれば済むことであり、そのように教えられて育ったこどもとそうでないこどもとでは、大人になったときにどちらが隣人として好ましい人物になるかはいうまでもないと思います。

 
 このように書くと、男というのは本当にどうしようもない生き物だなと思いますし、女の人に文句をいわれれば返す言葉もないのですが、では、女の人にはトイレに関して非の打ち所がないのかというと、そうでもないと思います。というのは、標題にもあるように、女の人は男よりもトイレを詰まらせることが多いからなのです。

 実をいうと、女の人は1回のトイレに使うトイレットペーパーを男とは比較にはならないくらい(きちんと測ったわけではありませんが)大量に使うからです。
 女の人がオシッコをしたあとは、トイレットペーパーをカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ! と勢いよく引き出す音がトイレの外にまで聞こえてくることがあります。実際のところを見たことはありませが、たぶん両手を使って親の敵でも捕まえるかのようにして、これでもかこれでもかとトイレットペーパーをたぐり出さないとこれくらい派手な音をたてることはないはずです。

 実は、この大量に手繰り寄せられた紙がトイレを詰まらせる原因となるのです。トイレットペーパーがいくら薄くてかさばらないといっても、2m~3mもの長さの紙をいっぺんに折りたたんで使えばかなりの厚さとなってしまいます。
 水洗トイレのレバーのところにある「大」と「小」とでは流れる水量が違うのですから、少ない水量でかさばっているトイレットペーパーの塊を流そうとしても無理があります。何かの拍子で排水管の途中でひっかかったトイレットペーパーは、運が悪ければ次に流れてくるトイレットペーパーをさらに引っかけることなり、それが重なるとトイレが詰まってしまうことになります。
 排水管の水勾配がゆるいトイレでない限り、何か異物を流したのでもなければ家庭用のトイレが詰まるというのはちょっと考えられません。にもかかわらず、トイレが詰まったというのは、女の人が使うトイレットペーパーに原因があると考えてよいと思います。

 ご家庭のトイレが詰まった経験のある方は胸に手を当てて考えていただきたいのですが、オシッコをしたときのトイレットペーパーをカラカラカラカラカラカラカラカラカラカラ! と盛大に使ってはいませんか? あるいは奥様やお嬢様がそうではありませんか?

 何もあんなに大量の紙を使わなくたって別に用は足せるだろうに、と思うのですがご婦人方はそうは思わないようです(女の人にはきれい好きが多いからね)。
 それならば「大」の方で水を流すということをしないと、いつかトイレが詰まることになる可能性が極めて高くなります。

「どーすんだよ! トイレを詰まらせて! 小便もできねーじゃねーか!」
「何よ! いっつもトイレを汚してるくせに。いったい誰が掃除してると思ってるのよ! 文句をいう暇があったらさっさと直しなさいよ! それとも何? 男のくせにトイレも直せないの?」
「なんだと、この野郎!」

 こういう喧嘩は、不毛であるだけに、避けたいものですね。
by T_am | 2010-04-20 22:08 | 科学もどき
 日曜の夜に、朝日放送制作ので「大改造!!劇的ビフォーアフター」という住宅のリフォームを扱った番組があります。レギュラー放送が一時中断していたのですが、昨年4月から再度レギュラー放送が始まったところをみると、リフォームに対する関心がそれだけ高いということなのでしょう。
 リフォームといっても、テレビ番組ですから、どうしても演出という要素が入り込むことは否定できません。
 冒頭でリフォーム前の家が紹介され、いかに不便かということが解説されるのですが、そこには家具や食器、本やタオルなどの生活感漂うモノが寒々しい蛍光灯に照らされて映し出されています。これらの什器・備品はリフォーム後のシーンにはほとんど登場することはありません。家具は一切ありませんし、替わりにセンスのよい作り付けの什器が備えられ、柔らかい昼光色に照らされた室内が紹介されることになっています。そういえば、窓を大きくとって採光に留意している点も共通しています。

 これを観るといつも思うのは、ホテルの部屋みたいだなということです。

 現代人の住居が抱える問題は収納ということであり、主婦に訊くと収納スペースの多い家がいいという答えが返ってきます。
 住人が暮らす空間は、外壁と屋根で仕切られたスペースですから、収納の機能性を追求していくと、要はいかにデッドスペースをなくすかということに尽きるように思います。 屋根裏部屋や地下式の収納庫、階段下の空間などはデッドスペースの典型でしょう。番組では、さらに椅子の下や壁の内側、什器の内側のスペースなども活用して収納スペースを創り出していて、いつも感心させられるのですが、その反面、この家に住む住人はこういうふうに使いなさいということを強いられるのだろうなということも思うのです。
 というのは、年月が経つうちに家の中には本やCD、洋服、電気製品などのモノが増えていくからです。人によっては軽家具を置きたいと思う人もいるでしょう。
 このことはご自分の部屋を見回していただくとよくわかると思うのですが、どこの家にも「収納しきれないモノ」があって、人が暮らす以上必ずそれが出てくるのです。どこの家でもテーブルの上、テレビの上、箪笥の上にはそういうモノが並べられているのが普通です。
 建築士が知恵を絞って収納スペースを創り出すというのは、住人にとってありがたいことなのですが、用途を絞られるのはいずれ不便を感じるようになると思います。「このスペースにはこれを入れてください。それはこのスペースに入れてください。」作り付けの収納スペースはたいていこのようにつくられていて、融通が利かないということもいえるのです。

 ホテルの部屋というのは、とりあえずは快適に過ごすことができるのですが、自分なりに部屋の中をカスタマイズするという余地がないようになっています。この番組で紹介されているリフォームも同じようなものではないか、と思います。

 収納という観点から、暮らしやすい家というのは、そのためのスペースがたくさん用意されていてその使い方は住人に任せる、というものではないかと思います。逆に、使いにくい家とは、そういうスペースに対する配慮が足りない家であるといえます。そういう間取りはアパートなどに多くみられます。限られた空間の中にできるだけ多くの部屋を詰め込もうとすれば(そうすれば家賃収入がふえるから)、そういう間取りになるのでしょう。

 こうしてみると、暮らしやすい家というのは住人の自由度が高い家であり、言い換えると、何々するにはこうしなければならない(たとえば、風呂に入るときは足を曲げて入らなければならない、中に入っているモノを取り出すにはこの箱を引っ張り出して蓋を開けなければならない、など)という制約の少ない家であるといってよいと思います。

追記。
 人間とは面白いもので、家の中で自分が座る場所、横に寝転がる場所というのはだいたい決まっているものです。新しい家に移り住んでも、何日か経つうちに、自分が座る場所、寝転がる場所というのは決まっていきます。そのときリラックスできるようであれば、人間はそれ以外のことは何とか我慢ができるのではないかとも思います。つまり、宮殿のような家に住もうが、あるいは六畳一間の部屋に住もうが、人は健康的に生きていくことができるということです。
 そのためにはモノに執着せずに、できるだけモノを持たない方がいいということになると思います。
by T_am | 2010-04-19 00:58 | その他
セイヤさんへの手紙    経済成長は本当によいことなのだろうか?

 セイヤさん こんにちは。

 時々新聞やテレビでGDPの伸び率について報道されることがあります。GDPの伸び率=経済成長率であり、過去の推移をみると、西暦2000年から2007年まではGDPは少しずつですが伸びて来ていました。その割に景気がよかったという印象がないのは不思議です。
 単純かつ素朴に考えれば、経済が成長すればそれだけ国内で回るお金が増えるわけですから、それまで貧しかった人もその恩恵の一部を蒙ることができるはずです。かつての高度成長時代がそうでした。
 GDPというのは、一言でいえば、消費と企業による投資と政府による支出の総和です。したがって、消費が前年よりも下回っても、投資や政府による支出の伸びがそれを上回れば、総和であるGDPは伸びることになります。
 緩やかではあるが景気は回復しているといわれても実感がともなわなかったのは、ここに由来します。そういう意味で、経済成長と景気とは必ずしも一致しなくなったといえるでしょう。
 その理由の最大のものは、グローバリズムというアメリカ式会計基準の導入でしょう。企業が財務体質を強化するために内部留保の拡大に励んだ結果、利益を計上していながら給料が上がらないという状態が何年も続きました。消費者にすれば、支出にまわすことのできるお金が増えない(ということは、企業にとっては売上げが上がらないということになります)ので、景気がよくならないという思いがつきまとうことになるわけです。

 それでは、給料を増やしてやれば支出が増えるのだから、景気は自然と回復するのではないか、という考えが出てくるのは当然です。
 しかし、日本の社会においては、企業は人件費を増やさないという選択肢をとらざるをえないようになっています。というのは、これからまだ何年もの間、社会保険料が段階的に上がっていくことが決まっているからです。
 ご存知のように、社会保険料は本人が負担するほか企業も負担することになっています。このため、今後数年間企業の人件費はイヤでも増大することが決まっているのです。そこで、企業は正社員の人数を減らし、その分を非正規雇用の労働者を増やすことで人件費の軽減を図っています。非正規雇用の労働者は正社員に比べれば給料も安く抑えられていますから、非正規雇用が増えれば、日本全体では消費支出に回せるお金が減ることになります。まして、一昨年の金融危機のように、業績が悪化すれば非正規雇用の労働者は簡単に解雇することができるわけで、それが如実に表れたのが一昨年末の「年越し派遣村」という現象でした。

 先に、GDP=消費支出+企業による投資+政府による支出 であると申しました。見方を変えれば、企業が投資するお金はエンドユーザーに対する売上げがその原資であることがわかります。また、政府による支出は税金が原資ですから、これも一般の市民が負担していることになります。法人税や事業所税は違うとおっしゃるかもしれませんが、それらの企業が支払う税金も、元を辿れば、エンドユーザーに対する売上げなのです。
 ところが雇傭が先細りになって、所得が増えない、あるいは所得が減るというのが今の時代であり、ここに少子化という現象(昨年1年間で日本の人口はおよそ18万人減ったというニュースがありました)が加わるのですから、国民の購買力は衰える一方です。
 そこで、経済成長はよいことだと考える人たちは、なんとかして消費支出を増やそうということを考えるわけです。
 その結果打ち出されたのが、エコカー減税やマイカー買い換えの補助金支給策であり、エコポイント制度です。高速道路が土日千円で乗り放題というのもこの方針に沿ったものであると考えられます。太陽光発電装置に対して自治体や国が補助金を出すのもそうです。今年から始まるこども手当や高校の授業料無償化もそうです。
 けれども、ちょっと考えてみると、それらの原資はすべて税金(もしくは赤字国債)であって、結局、補助金や手当とは関係のない人たちが広く薄く負担するということになるのです。
 エコポイント制度によって昨年家電業界の売上げは伸びたようですが、財政赤字の立て直しのために、消費税率を上げるべきだという声も次第に大きくなってきています。消費を刺激するために財政赤字が拡大するというのは、極めて危険なことではないのでしょうか。
 たとえていえば、こどもの生活を応援するために親が借金を繰り返すようなものです。その借金は親が返しきれなければ結局こどもが返していかなければなりません。となれば、こどもに金を与え続けるよりも、自立できるように支援する方がよほど健全といえるのではないでしょうか?

 消費支出を増やすといっても、生活者の実感は、こどもの養育費や教育費、ガソリン代などどうしても必要な支出がどんどん高くなっていっているというものであり、それらを払いきれないのではないかという不安がつきまとっています(現実に払いきれないという人たちも大勢出ています)。
 それは収入が増えていないということに由来しています。
 収入が増えないので結婚できないという人たちもいる一方で、すでに結婚していても、二人目三人目のこどもをつくりたいと思っても現実がそれを許さないという夫婦もいます。このような状況下では少子化とそれに伴う需要の減少が進むのも当然といえます。
 
 こうしてみると、日本の社会は悪い方へと転がっていくようなしくみになってしまったというふうに思えてなりません。
 それを解決するためには経済成長率が大事なのだと政治家や経済の専門家はいうのですが、GDPが伸びてもそれは企業の内部留保と国の借金が増えるだけであり、いったい何のための経済成長なのかと疑問に思ってしまいます。

 経済成長は本当によいことなのでしょうか?
by T_am | 2010-04-17 08:06 | セイヤさんへの手紙
 民主党のマニフェストにあった「高速道路無料化」の修正版が公表されました。すでに、地方路線の一部(交通量の少ない路線)は無料化することが決定していますが、それ以外の路線については、原則として、現在行われている各種割引制度を廃止するが、料金の上限を軽自動車は1,000円、普通自動車は2,000円、大型車は5,000円にするというものです。
 そのことで割引のために確保していた財源が浮くので、それを高速道路の整備(4車線化する路線と関越自動車道-東名高速道路の接続のための外環道建設)に充てるとのことです。

 とはいうものの、高速道路の建設をしたいという小沢幹事長の意向を受けて、このような制度になったというのが実情でしょう。今回導入される高速道路料金の上限制は、普通車であれば70km以内の区間については割引が一切なくなるわけですから、実際には値上げとなります。
 周囲の人に聴いてみると、非常に評判が悪く、中には参議院選挙では民主党に投票するのをやめたという人もいます。おそらく次回の世論調査では、民主党の支持率はさらに下がることと思います。

 今回の制度における最大の失敗は、実質的に値上げとなる部分をつくったことに尽きると思います。「たられば」の話で恐縮ですが、高速道路料金を終日半額にして、さらに上限を(普通車で)2,000円にするというのであれば、ここまで反発は起こらなかったものと思います。
 もともと、現行の割引制度にしても、ETC利用者だけが恩恵を蒙ることができるわけで、いくらETCの利用率を拡大したいという思惑があったにせよ、実に不公平な制度であるといえます。
 あたらしい制度では、ETC搭載の有無にかかわらず、すべての車両が対象となるわけですから、その点でははるかに公平になっているといえます。にもかかわらず、実質的に値上げとなる部分が盛り込まれたことで、せっかくの公平性が吹き飛んでしまったようにも思われます。
 そのように考えると、今回の新制度は明らかに戦術ミスであるといえます。

 「最大多数の最大幸福」という言葉があります。数値化された個人の幸福の総量が社会の幸福であるという前提に立ったものであり、政治を現実的に見つめ、なおかつ為政者に対して「誠実さ」を求めるという点で、重要な考え方であると思います。このことを別ないいかたをすると、「全員がちょっとずつ不満を抱えている状態」ということになります。
 そもそも、どのような政策をとろうとも、社会の全員が満足するということはあり得ないのであって、一部の人を満足させれば、それ以外の人は必ず不満を覚えるというジレンマがつきまといます。政治家というのは、このプレッシャーと戦わなければつとまらない職業なのです(だから政治家は厚顔無恥であると思われやすい)。
 それならば発想を変えて、「どうせ全員を満足させることができないのであれば、個人が感じる不満を最小化するにはどのような方法があるか」というアプローチの仕方もあると思います。内田樹先生がよくおっしゃる「三方一両損」の世界ですね。
 そこでは、不満はあるけれども、全員がそれで納得しているという状況をつくりあげることに成功しています。
 決して満足しているわけではないが、まあそれでしかたないか。相手にそう思わせたら、交渉はそれで成功したといえます。交渉ごとというのはそういうものです(だから外交もそうです。たぶん。)し、政治もそうなのだと思います。

 ただし、今申し上げていることは手法のことにすぎません。肝心の考え方がふらついていたのでは何にもならないのです。

 その点、今回の民主党政権(こういう書き方をするということは、民主党による政権が一時的なものでそう長くは続かないだろうという意識が書き手である私の中にあるということです。そういえば、「自民党政権」という言い方がされるようになったのも末期になってからでした。)が打ち出した高速道路料金制度はどうなのかを考えてみましょう。

 もともとは高速道路を無料化するというのが民主党のマニフェストでした。しかし、民主党政権が実現し、高速道路無料化の財源を確保するのが容易ではないということが明らかになるにつれ、別に高速道路を無料化する必要はないんじゃないか、という声が起こってきました。それは高速道路を無料化して享受できる利益よりも、その財源を確保するために自分たちの税負担が増えることになりかねないということを嫌ったからです。
 そのことがきちんと理解できれば、税負担を増やさずに、現在の割引制度による利益をより公平な形で再配分するという仕組みをつくった方が、国民の支持を得られることになります。
 全員がちょっとずつ不満を抱えているけれども、まあしかたないか、と思ってもらうにはこの「公平さ」が必要不可欠なのです。
 自民党政権の頃はその「公平さ」がありませんでした。ほとんどの政策が財界や特定の利益団体、圧力団体を向いたものでしたから、そのことを常に叩かれてきたのです。
 そして、民主党であればそういうことはないだろうと国民の大多数が思い込んだ結果が前回の衆議院議員選挙でした。民主党が大勝した要因のひとつに労組(連合)の支持を得ることができた(それは小沢幹事長の功績です)ことがあるのは事実ですが、だからといって、労組よりの政策をとればそれは自民党がしてきたことと同じですから、たちまち世論の支持を失うことにつながります。

 以前、政治とは国民の恐怖を取り除いてやることであると申し上げました。現代の日本人が潜在的に抱えている恐怖とは、自分が失業者になること、あるいはワーキングプアになることでしょう。わが子にはそうなってほしくないと思うからこそ、こどもを塾に通わせるわけです。高学歴でなければいい仕事に就くことができないと考えているからです。
 政府が、国民の間に渦巻いているそのような不安や恐怖をひとつひとつ取り除いてやることができれば、日本はそれだけ安心して暮らせる国になっていきます。
 その際に、国民を満足させようと思っても、それは決して実現されないということに政治家(特に与党)のみなさんは気づくべきです。
 このことは経営者であればたいていの人はわかっています。従業員の給料を上げてやれば、俺よりもあいつの方が給料が高いのはけしからんといって、給料を上げてもらったことに感謝するどころか、逆に不満を持たれることだってあります。ボーナスも同様です。俺の評価は低いのは会社に見る目がないからだと、悪口を言われることもあるのです。

 それならば発想を変えて、みんなの不満を最小化することの方を考えた方が、不満の総量は確実に減っていきます。
 そういう社会の方が住みやすいと思うのですが、そうは思いませんか?


 閑話休題。今回のタイトルは「高速道路はなんのためにあるのか」というものでした。それを考えることで、あるべき料金体系について考えようというのは本稿の趣旨です。以下、そのことについて述べていきます。

 高速道路などの交通網を整備し発達させようというのは、経済成長を持続し、いっそう拡大させるという戦略に基づいています。そのことをはっきりと主張したのが田中角栄の日本列島改造論でした。現在の日本の姿は、ほぼその構想に沿っているといえます。
 交通網を全国的に整備することで、その建設工事を通じて内需を刺激し、同時に地価の上昇がもたらされるので、土地を担保に資金調達をして投資を行うことが可能にあるというものでした。
 誤算があったとすれば、地価の上昇はやがて暴騰という状況に陥り、バブル景気をもたらした挙げ句崩壊してしまったということ、また、公共事業を実施するにも地価の上昇によって必要とする財源が拡大する一方に陥ったということでしょう。
 今日の日本経済の低迷の原因は、成長戦略をもたらしてきた制度が金属疲労を起こしているというところにあると思います。
 長期的に見れば、すでに少子化という局面に突入しているのですから、今後経済は少しずつ縮小していくことになります。そのときに生じる混乱を最小限のものにするというのが政府に求められることですから、今は財政をゆるやかに縮小していくことを考えるときにあるといえます。
 そういう観点からは、新規の高速道路の建設は凍結して、現在ある道路網の維持管理のための財源を確保すべきでしょう。それを高速料金から100%捻出しようとすると、地方の不採算路線は破綻してしまいます。むしろ高速道路会社から切り離し、新直轄方式でつくる高速道路のように無料開放した方がいいと思います。その維持管理は高速道路会社に委託するということも考えられます。その財源を確保するためにもガソリン税の暫定税率の廃止はしてはいけないのです(ただし、率を柔軟に変更することは大いに行うべきです)。この点でも民主党のマニフェストは誤りを犯していると思います。

 次に、中期的短期的観点で考えてみます。
 実は、高速道路に対する期待が高まってきたのは、人件費の上昇により時間もコストとしてカウントされるようになったからです。出張や自動車の運転に対する見なし規定(移動中は労働しているものとみなすが残業時間にはカウントしない)があるからといって、移動にまる1日費やしたのでは、その日の生産性はゼロになってしまいます。移動そのもの生産性はゼロなのですから、極力移動にかかる時間を短縮したいという考え方がでてくるのも当然であるといえます。その一例が夜行列車の利用であり、勤務時間外に移動してしまえばよいというものでした。しかし、高速道路や新幹線、あるいは飛行機の発達により、日中に移動してもそれほど時間がかからないようになったために、夜行列車は利用者が減り、今では運行本数も減ってしまいました。
 時間もコストとしてカウントされるようになったことで成果を上げているのが高速道路の通勤時間帯割引(半額)です。これは、並行して走る一般道路の渋滞緩和のための社会実験という触れ込みで導入されたものですが、実態は高速道路の交通量が地方では低迷していたという事情があり、このままでは高速道路はこれ以上建設できないということになりかねなかったために、何とかして交通量を増やすために行われたのだと睨んでいます。一番最初はETCを搭載していない車でも割引してくれましたが、その後ETC搭載車のみの割引になったのは、ETCの普及率を高めたいという思惑が働いたものと思われます。

 このように、政治というのは誰かの思惑によって左右されるということがあるので、絶えず監視をしていないといけません。結局割を食うのは無関係な市民なのですから。

 交通体系というのは、本来は、時間というコストを社会的に下げるために設けられているものです。(道路をアスファルト舗装しているのはそのためです)。しかし、交通網が整備されてくると、なかには不採算路線というのも登場しますから、それを税金を使って運営していくというのは大きな負担となります。そこで民営化という手法が用いられます。国鉄がそうでしたし、道路公団もそうです。また、日本航空も最初(1951年)は半官半民でスタートしましたが、1987年に日本航空株式会社法は廃止されました。
 それはともかく、一般の道路は自動車以外の自転車や歩行者も利用するのに比べ、高速道路は自動車専用道路ですから、受益者負担の原則からいって、自動車を利用する人にその費用負担を求めるというのはやむを得ないことであると思います。ただし、高速道路を利用するかどうかは自動車の運転者が決めることですから、その料金が高いと思えば利用者は減ってしまうことになります。
 ところがそれでは高速道路を建設した目的に沿わないことになりますから、何とかしなければなりません。そのためには、高速道路の建設費を大幅に下げて料金を安く設定できるようにするのがまっとうな取り組み方ですが、どの程度実行されているのか、またどの程度成果が上がっているのかはわかりません。
 もっとも、すでにできあがっている高速道路はどうしようもありません。高い建設費をかけて高速道路をつくったツケが回って来ているというこなのですが、今更愚痴を言ってもしかたがありません。そこで次善の策として、補助金を出して料金の割引を実施するということが考えられます。
 現在実施されている(そして来年3月にはそのほとんどが廃止されることが予定されている)高速道路料金の各種割引制度です。これらは複雑すぎて全部いえる人はあまりいないのではないかと思いますが、そのおかげで高速道路の交通量は増えているといえます。
 それらの割引のための財源が自動車を運転する人が支払う税金から捻出されているのであれば、(不満を持つ人もいるでしょうが、)ある程度の公平性は保たれているといえます。

 今考えるべきことは、高速道路の交通量を増やすにはどうしたらいいかということであり、料金制度はその観点から見直しされなければ意味がないのです。
 民主党政権の政策をみていると、マニフェストに縛られているきらいがあります。もともと緻密な計算に基づいてつくられたマニフェストではないということが、すでに明らかになっているわけです。だから、それを修正あるいは破棄しても国民は文句をいわない(文句をいうとすれば野党くらい)はずですが、民主党のみなさんはどうもマニフェストにこだわっているようです。そのため、つじつま合わせのようなものになってみたり、あるいはこども手当や高校授業料無償化でみられたように、準備不足のまま法案を提出しているようにみえます。

 今回の高速料金の上限制という制度は何を目的としているのかがよくわかりません。この制度が対象としているのは、乗用車であれば、高速道路を70km以上走る人だけです。それ以下の距離を走る人が現在受けている恩恵を近い将来廃止しようというのですから、この人たちは政府の計算に入っていないということがわかります。極端なことをいえば、この人たちには高速道路を利用してもらわなくても構わないと考えている、と思われてもしかたないというになります。

 このような意思決定のあり方を政治主導というのであれば、それは思いつきによって政策が変わっていくというふうに理解した方がいいようです。
by T_am | 2010-04-12 00:32 | その他
 文藝春秋4月号に掲載された猪瀬直樹氏の論考「わが城を240万円でソーラー化したら」を、同氏のメールマガジンで読みました。その感想は、「この人はもはやジャーナリストではなく、すっかり政治家になってしまった」というものです。


(猪瀬直木氏のHP)メールマガジンのバックナンバーの閲覧ができます。
http://www.inose.gr.jp/mailmaga.html


 猪瀬氏の論考は、自分の事務所に太陽光発電装置を設置した経験に基づいて書かれています。経験者でないとわからないことも書かれているので、これから太陽光発電装置を設置しようかと考えている人には大いに参考になることは間違いありません。

 それは素直に認めるとして、この論考に掲載されている数字について、ジャーナリストであればもう少し踏み込んだ調査をしていたはずだと思うと残念でなりません。

 たとえば、氏と東京都の職員との会話が次のように書かれています。

「通常の電力料金は1キロワット時で24円、その2倍の48円で電力会社が買い取ります。経済産業省が試算した一般家庭のモデルですと、売電収入は10年間で100万円近い(*発電容量3.5kw、売電比率・平均6割)」
「そうか。港区ならば国と都と区で補助金は81万円。そこに10年で約100万円が加われば……」

 ちなみに、この職員が述べている経済産業省の試算とは、次のURLで参照することができます。(PDFファイルの14ページ目にモデルケースが掲載されています。)

(太陽光発電の新たな買取制度について)


c0136904_21452072.jpg




 このモデルケースは図表化されており、支出と新制度下(余剰電力を48円/kWhで買い取るというもの)におけるコスト回収とがわかりやすく記されています。それによると、

(支出計)
     太陽光発電システム(新築の場合)   185万円

(コスト回収)
     国の支援(補助金・減税)      約43万円
    +グリーン電力価値、自治体補助    約20万円
    +電気料金節約額(10年間の合計)   約35万円
    +余剰電力の売電収入(10年間)   約100万円
     合計                約198万円
  
 10年でちゃんと元が取れるようになっていることがわかります。念のため、補足しておくと、太陽光発電システムの185万円という金額は平成21年1月から3月に受理した補助金申請実績に基づいて試算したものであり、余剰電力の売電収入は、発電容量3.5kW、売電比率平均6割、発電効率約12%、売電単価48円/kWhと仮定して計算したものだそうです。

 ん? ちょっと待てよ。

 太陽発電システムの金額185万円という数値は発電容量3.5kWのものであるとは書いてありません。念のためWikipediaで調べてみると、発電システムの価格は1Wあたり700円ということですから、3.5kWの発電容量を持つシステムの価格は、700円×3500=245万円となります。モデルケースよりも60万円も高いではありませんか。

 もっとも自治体によって補助金の額は異なります。東京都の場合はもっと高額の補助金が支給されるそうですから、これくらいの誤差は気にならないのかも知れません。
 また、誤差があったとしても、回収機関が伸びるだけのことであり、いつかは回収できると考えて差し支えないのかも知れません。

 ところが、そう思っていたら、このPDFファイルの13ページ目には次のように書かれています。



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○現状の太陽光発電の発電コストを踏まえ、太陽光発電の設置者のコスト負担の水準や投資回収年数、国及び自治体における導入補助金などの財政支援の水準、一般家庭を含めた電力需要家の負担等に照らし、モデルケースによる試算を行い(次ページ参照)、これに基づけば、本買取制度の当初の買取価格として、48円/kWhを基本として考えることができる。
○ また、この結果として、モデルケースにおいて、10年~15年程度で投資回収が可能となると考えられる。    
○ なお、買取価格については、「とりまとめ」において、「設置する年度毎に低減されていくもの」とされており、今後、本小委員会において審議の上、大臣告示において定めていくこととする(5.参照)。


 つまり、最初は48円でスタートするけれども後になれば少しずつ安くしていきますよ、と明記してあるわけです。
 うーん、なんだか雲行きが怪しくなってきました。

 さらに、18ページ目には次のように書かれています。



c0136904_21463879.jpg





○ 本買取制度とともに、投資回収を円滑化するための支援措置(補助金)等を踏まえ、かつ、本買取制度による負担の総額、電力の需要家全ての負担を可能な限り抑制するとの観点に照らしてかんがみれば、買取期間については、過度に長くする必要はないのではないかと考えられる。
○ 「住宅用」のモデルケースにおいて、10年~15年程度で投資回収が可能となるという効果をもたらしていることも踏まえれば、買取期間は10年とすることが適切ではないかと考えられる。



 太陽光発電を設置した人は、ずっと余剰電力を買い取ってもらえるものと思っていますが、実際にはそうではないということです。猪瀬直木氏の「論考」を読むと、確かに、未来永劫買取制度が続くとは書いてありませんし、システムの設置費用を回収できるとも名言されているわけでもありません。そう思うのは読者の早とちりということなのでしょう。


 買取価格については、20ページ目に次のように書かれています。


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○今後3~5年以内にシステム価格を半額程度にすることを目指すという観点から、例えば、制度導入後2年目の買取価格について、今後必要に応じて本小委員会で再度検討を行うべきと考えられる。


 これは、太陽光発電装置の設置件数が増えれば、量産効果によってシステム価格が下がるはずなので、今後3~5年以内に半額にすることを目指す。だから、買取価格は現在の水準を維持する必要はない。と断言しているようなものです。現に、このページには「買取価格低減のイメージ」というグラフが掲載されており、それをみると5年後には買取価格が半分になっています。

 たしか14ページのモデルケースには、買取価格を48円/kWhとして仮定すると、10年間で約100万円の売電収入があると試算されていたはずです。けれども、5年後には買取価格を半分にすることも考えているというのですから、モデルケースの前提条件を否定しているわけです。

 それでは、これはいったい何が言いたくて試算したモデルケースなのか? 
これまで引用してきたことを、簡単にまとめると次のようになります。

 太陽光発電を設置すれば余剰電力を48円/kWhで買取りますよ。
 国からも自治体からも補助金がつくし、住宅減税もあります。
 ご自分の電気料金の節約努力も計算に入れると、概ね10年~15年で回収ができますよ。
 (でも修繕費や保守費用は計算には入ってませんからね。)
 それから、買取期間は10年くらいしかみてませんよ。(いつまでもあるとはいってませんよ。)
 買取価格だって5年くらいのうちに半分くらいまで下げていきますからね。


 よく読んでみれば、ずいぶんと人を馬鹿にした資料だと思います。モデルケースの試算では、支出と収入とでは、前提となる太陽光発電の規模が同じではありません。
 ニュースで伝えられているのは、最初の3つまでであり、後半の部分(修繕費や保守費用が計算には含まれてないこと、買取期間が10年程度になること、買取価格も年々下げていき5年後には半額程度まで下げるつもりであること)はまったく報道されていません。
 普通に読むと、急いで太陽光発電を設置すると馬鹿を見るということがわかる資料です。

 だって、僕らはきちんと書いたんだもーん。それをきちん報道しないのはマスコミが悪いのであって僕らのせいじゃないもんね。
 
 経済産業省という役所は、モデルケースを自ら否定するような論理を平然と展開できる厚かましさがないと出世できない組織なのでしょう。

 同様に、マスコミ人も、いわない方がいい情報はあえて伏せるということをしないと偉くなれないのかも知れませんね。そうですよね、猪瀬さん?
by T_am | 2010-04-10 22:06 | その他