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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 来年度から始まる予定の高校授業料無償化について、中井拉致問題担当大臣が川端文部科学大臣に対し「日本は北朝鮮に対し経済制裁しているのだから十分考えてほしい」と養成した件に関して、鳩山総理は「朝鮮学校がどういうことを教えているのか、必ずしも指導内容が見えない中で、中井氏の考え方はひとつある。」と述べ、朝鮮学校が授業料無償化の対象外にすることを容認する姿勢を示しています。
 対象から除外する理由として教育制度上の事情をあげ、さらには「常識的には日本人と(日本と)国交のある国の人が優先されることは、それほど無理のない話ではないか」ということも述べています。
 中井大臣や鳩山総理の発言に対し教育界から抗議する声は今のところ報道されていないようです。もっとも、福島瑞穂消費者・少子化担当相が、授業料の無償化は学ぶ権利を保障する制度なのだから、できる限り多くの子どもたちを応援する立場であるべきだ、という意見を表明しています。社民党は北朝鮮に対し親和的な立場をとってきた政党ですからこのような発言をしたものと思います。その証拠に、「できる限り」という表現を使っているわけで、経済制裁しているのだから無償化の対象から除外すべきだという主張を一部容認しているからこのような表現が出てくるのです。
 鳩山総理といい福島党首といい、政治家としての定見のなさを自ら露呈する発言であると思います。

 小学校や中学校の教育課程を、国が指針として定めるのはしかたないと思います。しかし、教育課程にプラス・アルファをどのように盛り込むかというのは教育機関の自主性に委ねるべきであると思いますし、そのプラス・アルファが気に入らないからといって国による補助の対象から外すということが行われたならば、それは権力の濫用です。
 何を教えるかは教育機関が決定権を持つというのを教育の自治といいます。教育の内容は事実であると確認されているもの、もしくは事実であると信じられているものに限られるべきであって、国や政府にとって都合がいいかどうかという判断基準が持ち込まれるべきではありません。その点では朝鮮学校の教育カリキュラムにも問題がないとはいえないようですが、間違ったことを教え込んでもいずれ本人が気づくものです。政治に求められるのは、それを裁くような真似をすることではなくて、間違ったことを教え込んでもいずれ自らそのことに気づくような透明な社会を維持することです。
 鳩山総理の考えは、国が気に入らないと判断した場合は補助金の対象から外しても構わないというものですし、福島氏の発言には、子どもたちがかわいそうだという気持ちがあります。どちらも情緒的な判断であることは否定できず、この二人には国を導くリーダーとしての自覚と責任感がないのではないかと疑ってしまいます。

 また、総理のこのような発言に対し、教育界から抗議の声が上がってくるものと思っていましたが、今のところそのような報道はありません。事業仕分けでスーパーコンピュータの開発予算が削られそうになったときはあれだけ熱心に反対意見を表明されたにもかかわらず、今回は見事なまでに沈黙が続いています。もしかすると、人ごとだと思っているからなのかもしれません。だとすると、何とも視野の狭いことであると思います。
by T_am | 2010-02-26 22:49 | その他
 これまでの日本の進路というのはひと言でいうと経済成長路線でした。といっても、その恩恵を蒙ったのは現在40代以上の人たちに過ぎません。それよりも年下の世代の人たちはバブル崩壊後に青春を迎えたわけですから、経済成長といってもぴんとこないと思います。

 その国の経済が急成長するにはいくつかの条件があります。

1)人口が増加していること。
2)人件費が安いこと。
3)石油を安く購入し、充分使い切ることができること。

 1)はその国の需要が増加するということであり、2)は国内で生産したものを海外に輸出するために必須の条件です。しかしながら、1)と2)に該当する国は世界中にいくらでもあります。そのすべてが順調に経済成長を遂げているかというとそうではありません。重要なのは3)の条件です。
 私たちは、石油というとすぐエネルギーを思い浮かべます。ガソリンや灯油がそうであり、生活に密接に結びついているのですから仕方ないのですが、実は石油は製品の原料でもあるのです。
 石油によってつくられる製品といえば、プラスチックや化学繊維、医薬品、化学肥料、農薬など様々なものがあります。石油は私たちの社会にエネルギーを供給するだけでなく、様々な製品をつくる際の原料も提供してくれています。アフリカや中南米の国々のように人口は増えており、しかも人件費も安いにもかかわらず経済成長を遂げることができないのは、資源を加工して製品にする産業が育っていないからなのです。そもそもそれをやるだけの資金が国内にはありません。海外から資金を導入し工場設備をつくり生産を開始するということは理屈の上では簡単ですが、実際には国民の教育レベルやモラルという問題もあって一筋縄ではいきません。さらに、日本の場合は海に囲まれているので、外国から資源を輸入することが容易であるということもあります。大陸の内陸部にある国では輸送コストがかかります(中国でも経済発展している地域が沿岸部であり、内陸部は比較的遅れているのはこのため)。

 商売の鉄則は、安くつくって(あるいは安く仕入れて)高く売る、ということです。それができる企業というのはそうざらにはありません。大半の企業は、安くつくって安く売るということしかできないのが普通です。そこから抜け出して、製品に付加価値をつけて高く売ることができるようになればいいのですが、並大抵の努力でできるものではありません。そこで、安く売っても利益が出るように、安くつくらなければならないのです。
 それを可能にするのが人件費の安さとエネルギーコストの安さ、そして原料費の安さです。かつての日本は人件費も安く、さらに1ドル360円という固定相場に支えられて大いに輸出を伸ばしました。その後日本の人件費もじりじりと上がっていく中で、ニクソンショックやオイルショックによるダメージを受けましたが、高付加価値型の産業を伸ばすことで経済成長を持続することができました。
 しかしながら、高付加価値型に転換できなかった繊維産業などは衰退の一途を辿ることになりました。それらの分野で台頭してきたのが、かつての韓国であり現在の中国です。韓国では人件費が高くなったために日本と同じように自動車や半導体という付加価値の高い産業にシフトすることに成功しました。中国でも同様の現象が進行しており、付加価値の高い産業にシフトしていくことが進められていますが、あれだけ大きな国ですから、その転換は容易なものではありません。

 それはともかくとして日本の現状はどうかというと、人口は増えない、人件費は高くなった、石油の価格は高くなりつつある、という状況にあります。付加価値の高い産業でも、競争相手である韓国や中国の方がまだ人件費は安いのですから、その点でも日本は不利な状況にあるといえます。

 こういう状況下で日本が経済成長を続けるためには、人件費を抑制しなければなりません。派遣社員が製造業でも認められるようになったというのは、このような「時代の要請」があったとみるべきでしょう。
 誤解しないでいただきたいのですが、日本の社会にとってそのような選択が正しかったと申し上げているのではありません。むしろ、時代の流れに逆行しようとすると思わぬしっぺ返しをくらうことがあるということを申し上げるのが本稿のテーマです。
 従来通り経済成長を続けるには人件費を抑制する必要があり、非正規雇用労働者が増えるというのはそれを実現するためにとられた方策のひとつです。非正規雇用労働者が増えることによって企業の人件費は抑制することができました、その代わり購買力も低下してしまいました。十分な賃金をもらえないために結婚もできないという人が増えており、それらの人が気前よく消費するということはあり得ません。人件費を抑制するという方策はある程度効果を上げたと思いますが、内需を減退させるという副作用ももたらしました。
 日本のGDP(国内総生産)の推移をみてみると、実施GDPでは1994年にいったんマイナス成長となり、その後増加に転じましたが、橋本内閣の失政により再びマイナス成長となりました。その後始末をした小渕元総理(故人)は損な役回りだったといえるでしょう。2000年に森内閣になって再び増加に転じ、以後2007年まで増加基調にありました。


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 GDPの推移と国債の新規発行額をいっしょにみると興味深いことに気づきます。
 92年に始まった地価の下落は景気の後退を予測させ、多くの企業でリストラが実施されました。これに呼応するように93年から建設国債の発行額が大幅に増えています。この政策により建設業界で100万人規模の雇傭が生まれ、リストラされた人々の受け皿となりました。
 バブル崩壊後のビッグプロジェクトを列挙すると、次の通りとなります。

・関西国際空港開業(1994年)
・アクアライン開通(1997年)
・長野新幹線の全面開業(1998年)
・長野オリンピックの開催(1998年)
・明石海峡大橋開通(1998年)
・しまなみ海道開通(1999年)


 これらがすべて建設国債で賄われたわけではないでしょうが、赤字運営している施設もあるために公共事業がやり玉に挙げられる一因となったことは否めません。理想をいえば、これらの巨大な公共施設(高速道路も同じ)を建設し供用開始することで生まれる経済効果が税収を増加させ、投下資本の回収(国債の償還)を可能にするということなのですが、建設国債の発行額に見合うだけのGDP増加額があるかというとそうではありません。大勢の人が利用すればそれだけ経済効果も大きくなるのですが、利用者が当初計画していたほどには伸びていないという実情も影響しているように思えます。
 ここからいえることは経済成長に大きな影響を与える公共事業というのはやり尽くした観があるということです。つまり、投下した資金に見合うだけの利益を社会にもたらすような公共事業はもはや存在しないということになります。
 同じことは高速道路網の建設についてもいえることであり、経済に大きな影響を与える縦貫道は既に建設が終わっています。現在残されているのは横断道であり、その恩恵を受けるのはせいぜい2つか3つの県に過ぎず、完成しても利用者がそれほど見込めないという路線ばかりです。
 そうなると今後の公共事業は既存の道路や橋、港湾といった施設の保守修繕に重点が移っていくということにならざるを得ないのです。(地方の高速道路を新直轄方式でつくり続けるということは、あいかわらず負担が減らないというになります。)
 次に新規国債発行額に目を向けると、小渕内閣以降ずっと30兆円台という発行額が続いてきました。わずかに安倍内閣と福田内閣のときに30兆円を切りましたが、麻生内閣のときに再び30兆円を突破し、鳩山内閣に代わってからは40兆円を突破するという事態になりました。
 その内訳をみると建設国債は減ってきており、代わりに特例国債(いわゆる赤字国債)が増えています。赤字国債というのは財源不足を補うために発行されるものですから、景気を浮揚させるために無理を重ねてきているということがわかります。新規国債発行額が実質GDPに占める割合をみると、バブル崩壊後急激に増えていることがわかります。このことから財政出動が景気浮揚に寄与する効果は小さくなってきているのではないかという疑問が生まれます。また、別な見方をすれば、この国の経済に占める政府支出(一般会計)の割合が高くなってきているということもできます。ひらたくいえば、この国では個人も企業も政府支出に頼る体質になりつつあるということです。
 22年度は子ども手当の支給が始まります。このように、民主党の政策は国民の政府頼みを加速させるものですが、だからといって国民の間に民主党に対するロイヤリティが高まっていくわけではありません。昨年、定額給付金を支給し、さらにエコカー購入減税と補助金の支給、エコポイントの導入まで行った麻生政権が衆議院選挙で惨敗しました。ばらまき政策を実施すれば景気がよくなると考える国民はいません。むしろ、アテにはするけれども感謝することはない、ということにいい加減気づくべきだといえます。

 従前の、財政出動によって景気を刺激するという伝統的な政策は効力を失いつつあります。そうするとどうなるかというと、より多くの財政出動が行われるということになります。薬に依存する体質に陥った人が次第に強い薬を求めるようになる、というのと同じ現象が国のレベルで起こっているようにみえます。
 その行き着くところは大増税時代の到来です。江戸時代、天領の税負担は四公六民に保たれていました。作物の実りのうち四割を年貢として納め、残りの六割を自分の分として残すというものです。しかし、諸般の税負担は、財政の疲弊により六公四民、甚だしい場合には八公二民というものもありました。サラリーマンの方はお手元の給料明細をご覧いただきたいと思います。所得税、住民税、厚生年金、健康保険、介護保険、雇用保険。これらの総和が総支給額の何割になっているでしょうか。
 大増税時代というのは、その税負担の割合がさらに増えるということを意味します。現代の税制は巧妙ですから、消費税やガソリン税、揮発油税のような間接税もあり、税金を払っているという意識が希薄になるような工夫がされています。けれども、実際に税金として負担しているわけですから、給与明細をよくご覧になっていただきたいと思います。ご自分の直接税(各種保険料を含む)負担に、さらに5%の負担(消費税その他の間接税)を加えたものがあなたの税負担率となります。
 けっこう高いことがおわかりいただけるはずです。


 努力すれば経済は永久かつ無限に成長していくと考えるのは幻想に過ぎません。なぜかというと、人類は地球という有限の世界に住んでいるからです。経済成長が無限続くものではないとすれば、成長による税収の増額によって財政赤字が解消するというのも幻想であるということになります。
 
 過去の歴史をみると、経済が順調に成長した後は必ず停滞期を迎えます。その際に、発明によって技術革新が行われると「時代」が一新し、新しく到来した「時代」の中で経済が成長していくことになります。
 人類の歴史というのは、このような技術革新の連続であったといえます。製鉄技術の発明、鉄砲の発明、蒸気機関の発明、石油の利用技術の発明。これらの重要な技術革新はその都度人類に新しい時代をもたらしました。
その点、現代社会は石油文明社会であるといえますが、時代的に金属疲労を起こしつつあるように思われます。そのようなときに、従前と同じように経済成長を維持しようとしても、労多くして実り少なしということになりかねません。同じ労力を使うのであれば、新しい時代を切り開く方面注ぎ込んだ方がいいと思うのですが、どう思いますか?
by T_am | 2010-02-25 20:44 | その他
 しばらくの間、この国の進路について考えてみたいと思います。もっとも無精な私のことですから、不定期の掲載ということになるのでしょうが、千里の道も一歩から、と申します。
 そのために、まず現在の日本の状況を整理してみます。

1)出生率が低下したことにより、人口構成グラフが逆ピラミッド型になっていること。
2)現代の日本社会が石油に依存していること。インドや中国における石油の消費量が増えているにもかかわらず、石油資源が既にピークアウトを迎えていると思われます。そのことから、今後石油の価格が下がる可能性は極めて低く、場合によってはさらに高騰するとみなければなりません。
3)ロシアが衰退したものの、日本の隣に中国という超大国が登場したこと。そして日本とは比較にならない外交能力を発揮していること。

 さらに、これは日本という国の宿命のようなものですが、日本には外国に輸出するような天然資源がないこと、したがって何をするにも外国から資源を輸入しなければならないという制約があることを考慮しなければなりません。

 自然科学の論理はかけ算のようなものですから、どれか一つでも事実と異なることがあった場合、その理論は瓦解してしまいます。ところが、社会科学の論理は足し算のようなものであり、どれか一つが間違っていたとしても、全体の論理が崩壊するわけではないという場合があります。そのために、論理的なこじつけが横行しやすい危うさがあるのですが、そういうことにならないようにせいぜい気をつけたいと思います。

 以上のことをみたときに、今の日本が置かれている状況が以下に不利なものであるかがおわかりいただけることと思います。国の舵取りを誤ると資源の供給がストップされることになりかねません。これには、資源を買いたくても売ってくれないという場合と、買いたくても金がないという場合があります。
 また、若年層の税負担も今後ますます増加していくことが避けられません。その一方でワーキングプアと呼ばれる人たちが増えており、今後格差が固定していく社会になっていくのではないか、という不安もよぎります。

 ただし、これらの不安は日本が今までの延長上に進路を求めた場合の話です。何かをしようとすれば、それに伴うリスクを覚悟しなければなりません。逆に何かを諦めれば、その分リスクから解放されることになるのです。

 実は、今の日本が抱える問題のほとんどが、過去から今日に至る日本の姿を維持しようということから発生しているといえます。それはひと言でいってしまうと、経済大国であり続けたいという願望であり、別な言い方をすれば、豊かな生活を送りたいという願望です。
 そのような願望の持ち主が現在の日本の姿をみたときに、これは由々しい事態だから何とかしなければならないと考えるのです。

 明治維新から日露戦争までの間の40年間は、日本も近代国家の仲間入りをしたいという「坂の上の雲」を目指して国中が苦労を重ねた時代でもあります。また、その次の40年間は、身の丈に合わない軍事力を身につけたばかりに帝国主義国家であり続けたいというだいそれた望みに縛られた時代です。その結果、多くの人命と財産が失われ、都市の多くが焼け野原となったあげくに原爆を落とされるという悲劇を迎えました。
 戦後は、復興のために食うや食わずで苦労した10年間が過ぎた後の40年間は世界でも奇跡的な経済成長を遂げることができました。それにはそれなりの理由があったのですが、バブルの崩壊という幕引きを迎えました。現在は新しい40年間に入り既に20年が経過しようとしています。もっとも現在は時代の過渡期であると考えることもできますから、新しい40年間はこれから始まるのかもしれません。

 次回は、今までと同じ進路をとろうとすることがなぜ駄目なのかについて考えてみることにします。
by T_am | 2010-02-23 00:07 | その他
 セイヤさんから指摘された憲法改正手続に関する法律(いわゆる国民投票法)が今年5月18日に施行されるということについては、実をいうとすっかり失念していました。もともとこの法律が通ったのは阿部内閣のとき(2007年5月)であり、この内閣があまりにエネルギッシュにいろんな法改正を行なったものですから、国民の間に警戒心が生まれて同年7月の参議院選挙で自民党が惨敗し、その挙げ句に安倍総理が辞任したという記憶の方が鮮明に残っています。
あらためて総務省のサイトで確認すると、この法律の施行日は公布日から3年を経過した日となっていました。


http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/kijitsu.html


 その趣旨は、国民に周知するための期間として3年を要するということのように思いますが、実際にはその間毎年のように総理が交代し、ついには民主党が政権党となるなどの出来事があったわけですから、国民投票制度について国民に周知をする余裕がなかったといえるでしょう。僕も忘れていたくらいですから。
 ところで、なぜ国民投票法という法律を設けたのかと考えると、憲法改正のための手続きをはっきりさせておきたかったのだろうと思っています。憲法を改正したい。けれどもどのように改正するかについては異論があってまだ合意が形成されていない。改正にはまだまだ時間がかかるけれども、せめて改正の手続きだけでもきちんとした制度をつくっておきたい。こういうことだったと理解しています。
 ですから、憲法改正のための手続きが制度化されても、どのように改正するのかという案がまとまるにはまだ時間がかかると思います。

 セイヤさんが指摘しているように、憲法を改正するということは国の進路に変更を加えるということであり、その結果国の未来は変わっていきます。だから、部分的なことだけを捉えて憲法改正を行ってはいけませんし、初めから改正ありきで取り組んでもいけないのです。

 憲法改正論者がよく口にするのは、「日本国憲法はアメリカによって押しつけられた憲法である」ということです。事実として間違いではありませんが、それをいうなら現在の民主主義の形だってアメリカに押しつけられたものではありませんか。どちらもアメリカによって押しつけられたものですが、憲法は駄目で民主主義は構わないという理屈は説得力を持ちません。
 類似した主張として「日本は独立した国家なのだから自前の憲法を持つべきだ」という声を聴くこともあります。それは実にごもっとも、と申し上げる以外にないのですが、「だから憲法を改正すべきだ」というには論理の飛躍があります。本来ならば、

 自前の憲法を持つべきだということに国民が納得する
     ↓
 今後日本はこのような国を目指していこうという合意が成立する
     ↓
 だから憲法のこの部分を改正しようという手続きに入る

 このような議論がなされるべきだと思いませんか? もっとも大事なのは、真ん中の「今後日本はこのような国を目指していこう」という部分なのですが、それがまるっきり抜けていて、いきなり改正の話をしているというのが3年前までの姿でした。今、憲法改正の議論をしても同じことになると思います。なぜかというと、現在の姿の問題点と対比させる形でしかこの国の進路を語ることしかできないからです。
 ちなみに、民主党の「憲法提言」にはこのように書いてあります。

 
(今求められていることは)現在の日本国憲法が掲げる基本理念を踏まえて、それらをいかに深化・発展させるかということであり、新たな時代にふさわしい「新しい国のかたち」を国民と共有することに他ならない。

 なんだか広告代理店のプレゼンみたいな文章だと思いませんか? 僕も文系ですが、文系の人が書く文章の限界を感じます。言葉の持つイメージを積み重ねて論理を展開していくという手法がここでもとられていますが、イメージに頼るだけで、それを突き詰めて考えることはしないという傾向があり、そのために中にはこじつけとなっている部分もあります。
 ひとつ例をあげましょう。


「人間の尊厳」を尊重するとは、自然を守り、命あるものを守り、他者の自由な主体性をも守ることである。


 どうして、「自然を守り、命あるものを守り」が「人間の尊厳」を尊重することになるのか僕には理解できません。きっとこう書いておいた方がなんだかカッコイイからなのでしょう。「命あるもの」とは人間以外の動物のことでしょうか? 植物も含むのでしょうか? あるいは微生物も含むのでしょうか? また、「命あるものを守る」とはどういうことをするのでしょうか? 他の生き物の命を奪ってはいけないのだということになると、生物が生きていくためには他の生物を食べなければならない、という現実と矛盾します。
 また、「他者の自由な主体性を守ることである」というのは、民主党新人議員に対する扱い方をみている限り、明らかにこれがないがしろにされていわなければなりません。この政党はカッコいいことをいうのが好きですが、あまり真面目に考えていないということがわかるのです。
 
 民主党の「憲法提言」というのは、イメージのよい言葉を深く考えもせずに並べ立ててつくりあげたものですから、このように揚げ足をとろうと思えばいくらでもできるのです。 この傾向は政府が作成する広報用のパンフレットにもみられることであり、なんだかカッコイイ言葉が並んでいる割には、いっこうに成果が上がっていないというのが実情です。
 民主党が政治主導という割には、発想が官僚と同じですから、どれだけのことができるのやら疑問が残ります。

 民主党だけでは公平性を欠くと思いますので、自民党の「新憲法草案」についてもみることにします。以下は、その前文です。



 日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。

 象徴天皇制は、これを維持する。また、国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則は、不変の価値として継承する。

 日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する。

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う。国際社会において、価値観の多様性を認めつつ、圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う。

 日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならずかけがえのない地球の環境を守るため、力を尽くす。



 日本国憲法の前文と比較すると、失礼ながらだいぶ見劣りするといわなければなりません。大部分が日本国憲法前文の書き直しです。
 日本国憲法の前文を理解するためには、それがつくられた時代背景を考慮するべきです。当時の日本は、自ら起こした戦争によって多くの人命と財産を失い、空襲により焼け野原となったうえに原爆まで落とされたところから再出発するしかありませんでした。そのような過去があったからこそ、日本国憲法の前文が生まれたのであって、そこには過去に対する悔いと新たな日本をつくりあげていこうという決意が伺えます。
 しかし自民党の草案からは、そのような決意のようなものは一切感じられません。「日本国民は」という主語を用いていますが、この草案を自民党の誰かが国民に向かって直接説明したということは、僕の知る限りでは一度もありません。そういう意味で、「上からの押しつけ」であるといえます。さらには、後になって都合のいい解釈ができるように文言が追加されているのが気になります。
 すなわち、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」とありますが、ここには、汚職を繰り返し特定の団体と結びついた政策をとり続けてきたことによって、自分が帰属する国や社会に愛情も責任感も気概も持てないようにしたのは一体誰だったのか? と思わず突っ込みたくなるようなことが書かれています。にもかかわらず、このような文章を入れたというのはやはり憲法第9条2項を改正した後のことを考えているからなのだと勘ぐってしまいます。その傍証として、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともにその実現のため、協力し合う」とあるのは、多国籍軍に参加する可能性も確保しておくためだと考えられます。

 自民党草案を見る限り、自民党の政治家たちは日本の進路を「現状の延長であるが部分的に修正したい」と考えているものと思われます。
 でも、それでいいのでしょうか? 
 日本の近代史をみると、およそ40年で時代の区切りがついているようにみえます。明治維新後近代国家に生まれ変わるべく努力を重ね、40年経ったときに日露戦争がありました。それからの日本は帝国主義国家を目指し、やはり40年後に原爆を投下され降伏するという事態に追い込まれました。戦後は驚異的な経済成長を遂げることができましたが、およそ45年後にバブル景気が崩壊してしまいました。
 現在はそれからおよそ20年が経とうとしています。この間に明らかになったことは、出生率が低下する一方で平均寿命が延びたことにより日本の人口構成グラフが逆ピラミッド型になってしまったこと、石油の埋蔵量に翳りが見え始めたにもかかわらず世界の石油の消費が伸び続けていること、ロシアが衰退した代わりに日本のすぐ隣に中国という超大国が出現しつつあること。この三つです。(地球温暖化問題はいずれエネルギー問題に置き換わってしまうと僕は思っています。なぜならCO2削減の取り組みは絶対に成果が上がらないからです。)
 今後の日本の進路を考えるときに、この三つの要因というのは無視することはできません。日本が経済大国となった40年間の夢を今後も見続けたいと思う気持ちは理解しますが、今までそういうことをやってきた結果、800兆円を超える国の借金ができてしまったわけです。今後も同じことを続けるのであれば、国と地方の借金はさらに拡大していくことになります。
 それというのも、時代の流れが明らかに変わってしまったからなのです。時代の流れを押し戻すことはできませんし、抗っても多大の手間とコストを無駄に費やすだけに終わります。そのことを意識せずに、夢よもう一度、とやってきたのが今日の姿であるといえます。

 5月18日に国民投票法が施行されるということは、日本という国の進路をもう一度考え直す機会としてとらえたいと思っています。そういう議論が国内で起こりやがて一つのかたちに収斂する、かどうかはわかりませんが、決して無駄なことではないと思います。その結果、憲法を改正した方がいいというのであれば素直にそれに従うつもりでいます。
 しかしながら、3年前までの情勢はそうではありませんでした。
 はっきりした時期は覚えていませんが、小泉内閣の頃です。このままでは日本に徴兵制度が復活するのではないかと心配したことがあります。それからしばらくして吉永小百合さんが反戦のメッセージを訴えるようになり、その動きにブレーキがかかったように記憶しています。
 誰かが明白なメッセージを訴えないと、この国はずるずると流されていってしまいます。
 憲法改正を既成の方針であるということにさせないためには、まずこの国の進路について議論を尽くすことが必要なのだろうと思います。
 そこで、これからしばらくの間、このことについて考えることにしたいと思っています。
by T_am | 2010-02-21 15:28 | セイヤさんへの手紙
 ピーター・ジャクソン監督の Lovely bone を観てきました。例によってレイトショーで観たのですが観客は自分一人。おかげでちょっと贅沢な気分で観ることができました。


(公式サイト)
http://www.lovelyb.jp/#home


 映画の内容を書くような真似はできないので感じたことだけを書きます。
 邪悪な存在による理不尽な暴力は私たちから多くのものを奪っていくことがありますが、私たちの中にはそれに負けない強さが秘められています。その強さが発現されるには時間が必要ですし、なによりも孤独でないことが肝心です。

 人は、大切なひとのために強くなることができる。

映画の最後で、「私は、私がいない世界を受け入れることができる。」というヒロインのモノローグが印象的でした。
 好きな人といっしょに観にいくことをお勧めしたい映画です。観終わったときに、「ああいう家庭をつくりたいね。」と話し合うのもよいでしょう。
 きっと心に残る。そんな映画です。
by T_am | 2010-02-18 00:43 | その他
 ダイヤモンドオンラインに、オバマ大統領がアメリカ政府の支出の内容をネット上で公開していると紹介する記事がありました。


つぶやくだけの鳩山首相とは大違い! オバマ政権の政府支出“まる裸”大作戦



Welcome to USAspending.gov のページ



 興味があったので閲覧してみたところ、2009年度の支出についてどの官庁がどこに対しどれだけ支払っているかが一目瞭然となっています。これをみて、オバマ大統領は自分の支持基盤を既存の組織や団体に求めるのではなく、普通の市民に置こうとしているということが改めて感じられました。
 詳細はダイヤモンド/オンラインの記事をご覧いただくとして、政治家が特定の団体や組織と結びついて利益を供与する代わりに票をもらうというギブ・アンド・テイクの関係を築いているのはアメリカでも同じです。その結果、自分の支持団体のための政策を立案し実行するということがまかり通ってきたわけですが、それではなんのための民主主義なのかという疑問がつきまといます。
 そういう状況にうんざりしている国民が増えていることはアメリカでも同じであり、オバマ大統領が誕生したのはそのような人々の支持をとりつけたからだとみることができます。
 そこで、オバマ大統領の指示で開設されたのが、Welcome to USAspending.gov というサイトです。これは政府の機関がどのような支出をしているかを国民に開示することで、それを監視できるようにするというものです。
 こういうことをすると、利益団体からの反発がものすごいと思うのですが、それを平然とやってしまうあたり、やはり並の政治家とは違うものを感じさせます。なるほど政治改革というのはこういうのをいうのか、と目から鱗が落ちた思いでこのサイトを眺めていました。

 翻って日本はどうか? という野暮なことはいわない方がいいでしょう。政治家はもちろん民間の人間にも(もちろん私にも)こういう発想がなかったわけですから、できていないことを責めても意味がありません。
 それよりも、アメリカで起こったことはやがて日本でも実現するという法則があるように、このオープン・ガバメントという流れが日本に上陸する日もそう遠くないことと思われます。というのも、政治における情報公開というものが形式的なものに過ぎないからです。
 その具体的な事例をあげましょう。以下にご紹介するサイトは内閣府政策会議のうち2月9日開催分を公開したものです。


内閣府政策会議2月9日分


 ここに公開されているものは議事次第と資料しかありません。議事録がないのです。それでは、他の日に開かれた会議はどうかというと、およそ1ヶ月ほど経つと議事の概要が公開されるようです。事務方が議事録をまとめるのに時間がかかるとはいえ、いくらなんでも遅すぎるのであって、おそらく発言者に回覧して確認してもらっているのではないかと思われます。しかも資料の説明に関する部分が省略されているのですから、これを閲覧してどのような議論が行われたのか、何が問題なのかを理解できる人はよほど専門的な知識を持った人に限られると思います。普通の人には、ここに何が書いてあるのか、政府が何をしようとしているのかさっぱりわからないというのが現状です。本来であれば議事録を公開すべきであって、わざわざ理解しにくい形にして情報を「公開」するのはフェアではありません。でも情報を公開したことにはなるのですから、かなり悪辣なやり方だといえます。(各省庁の事務方の皆さん、すいません。悪口言って。でも、あなたたちが一生懸命やっていることは国民の役に立っていないのですから、仕方ないと諦めてください。)

 このような政策会議が省庁の数だけ開かれているのですが、新聞やテレビがその内容を報道することはほとんどありません。このあたり、マスメディアの限界があるように思えます。いくら紙面や放送時間が限られているとはいえ、肝心なことは何一つ報道せずに、どうでもいいようなことばかり繰り返し報道するというのはいかがなものでしょうか。
 ここのところずっと小沢幹事長に関するニュースが続いていますが、この人に誠意がないことは既に明らかになっているので、これ以上同じことを聞かされたり読まされたりするのは時間の無駄であるとさえ思うようになりました。そういうどうでもいいニュースの陰に隠れて大事なことが報道されないでいるという現実があるのです。

 オープン・ガバメントというのは、実はマスメディアを否定する動きでもあります。政府が持っている膨大な情報を読み解いて、その中から問題点を見つけ出していくというのは普通の市民には不可能です。誰か専門的な知識とノウハウを持った人による解説や意見を読むしかありません。その際に、元となるデータにアクセスできるかどうかが重要となります。
 地球温暖化という現象が世界的な規模で問題視されているにもかかわらず、その元となるデータにアクセスした人がどれだけいるというのでしょうか? 元データにアクセスできなければ、対立する意見がいくつもある中でどれが正しいのか知りたくてもその方法がないというのが現実です。
 オープン・ガバメントはそれを可能にしますが、そこに公開されている情報を解説してくれる専門家が必要不可欠となります。政府に良心があればそこまでやってくれるのかもしれませんが、現状では望むべくもありませんし、「政府発表」を鵜呑みにするのも危険です。
 そうはいってもオープン・ガバメントという潮流が日本にも必要であることは間違いないと思います。それは政府や自治体の支出の公開だけにとどまるのではなく、法案や条例の立案・審議過程まで公開されるべきでしょう。平日の昼間開かれている議会も、一般市民の傍聴を促すためには、週末や夜間に議会を開催することがあってもいいはずです。そのような取り組みもオープン・ガバメントとなるのではないかと考えます。
 そのようにして市民が政治を監視することが当たり前のようになると、特定の団体と結託した政治家が排除され、現代における多数派である無党派層の意を汲んだ政治家が活躍する場が与えられることになります。
 民主主義の目標である「最大多数の最大幸福」を実現させるには、この方法が出発点になるようです。政治改革における喫緊の課題は、市民が政治を監視できる仕組みをつくること、そして大勢の市民が自分も監視に参加しようと思う仕掛けを用意することです。インターネットというメディアはそのような課題をクリアしてくれる可能性があるようにも思います。
by T_am | 2010-02-15 23:37 | その他
 この間セイヤさんからもらったメールの中にとても興味深い一節がありました。

 ストーリーで、判り易いことが歴史に残っている。どんなに理論的に正しいことでも、ストーリーがつまらないと消えていきます。三国志はストーリーであって、歴史書ではないが、呼んだことが無い人でも知っているし、全巻読んだことにある人には会ったことが無いです。解釈理解解説が不全であっても、ストーリー中の解り易い部分がストーリー全体のイメージを作るのでしょうね。


 この「ストーリー中の解り易い部分がストーリー全体のイメージをつくる」というのは僕にも身に覚えのあることで、それが問題の原因となっている場合もあると思います。

 小泉元首相が「痛みを伴う構造改革」とぶちあげたときに、大勢の人が「構造改革」という言葉を自分に都合のいいように解釈して、小泉元総理に大きな期待をかけました。ところが現在では「小泉改革」を完成させようという動きは主流から外れてしまっています。
 また、昨年の政権交代は「政治改革」を期待した有権者たちが民主党に投票することで実現したものですが、「政治改革」をどのように解釈するかという合意が国民の間に形成されたわけではありません。したがって、鳩山総理のやり方によっては、「自分たちが期待する政治改革が進んでいない」と失望して内閣支持率が下がる可能性がきわめて高いといえるのです。そういうことを考えると、政党政治家はマーケットリサーチということについて、もう少し関心を持ってもいいのではないかとも思います。
 勢力を持った特定の組織や団体に利益を与える代わりに選挙では投票してもらうという手法は自民党のお家芸でした。そのやり方にNo を突きつけたのが前回の総選挙だったわけですが、政権交代後も小沢幹事長の行動をみていると自民党政権の手法をそっくり踏襲するものであるといえます。むろん自民党時代とは組む相手が異なっているのですが、やっていることは同じです。(小沢幹事長の特徴は、自分と対立する人間を平気で貶めることができるというところにあります。来日した中国首脳を天皇に面会させたときも、「宮内庁の何とかいう役人が」という言い方をしていました。こういうものの言い方は石原都知事にも通じるものがあります。)

 民主党のミスは選挙にかけては小沢幹事長の右に出るものはいないと思いこんでおり、参議院選挙は小沢幹事長抜きでは勝てないと考えているところにあります。組織票が物を言うのは投票率が下がったときのことであって、先の総選挙のときは民主党が浮動層の票を取り込むことができたから勝てたのだということを忘れているように思われます。民主党が浮動層を取り込むことができたのはなぜなのか? このことを忘れると、この夏の参議院議員選挙では苦汁をなめることになりそうです。

 群盲象をなでる、という格言があります。目の見えない人たち象を触わり、象とはどのようなものかをそれぞれ述べたところ、触った場所によってまるで異なった感想を述べるというものです。脚を触った人は「象とは大木のように太くて丸いものだ」と延べ、鼻を触った人は「いや、象とは太い綱のようなものだ」と延べ、耳を触った人は「象とは団扇のように広く薄いものだ」と述べるわけですが、どれも象の一部分でしかありません。
 人間の認識や理解というのは、このように目の見えない人が象を触るようなものであり、全体を知らずに自分の考えを持ち、意見を述べていることが多いと思います。まるで自分のことをいわれているようで冷や汗ものなのですが、こういう自覚だけは持っていた方がいいように思うのです。
 最近そのことを強く感じたのは日中両国の有識者による歴史共同研究委員会による報告の概要が報道されたときでした。日中の研究者の見解が大きく異なるという内容の報告書が提出されたとのことで、さもありなんと思います。
 「歴史の中の事実」は研究や調査によって発見することができるかもしれませんが、「正しい歴史」というのはどこにもありません。あるのは歴史の中の事実をどのように解釈するかという視点です。
 司馬遼太郎さんの著作が人気を集め、国民作家といわれているのはいわゆる司馬史観に共鳴する人が多いからです。僕自身影響を受けているけれども司馬さんの作品で外国語に翻訳されたのは少ないのだそうです。このことからわかるのは、司馬史観といえども歴史に対する視点のひとつにすぎないということであり、海外で受け入れられるだけの普遍性を備えているわけではないということです。
 司馬さんの歴史観の根底にあるのはご自分の戦争体験ですから、その点で司馬史観というのは時代の産物であるといえます。
 歴史学者の視点というのも時代から離れることはできないのですから、自分の思想信条や体験が大きく左右することは否めません。マルクス主義が盛んな頃は、唯物史観に基づいて日本史を解釈するということが流行していましたが、現在では廃れてしまいました。
 このように考えると歴史の解釈とは、歴史の中の一部をピックアップして他の部分は切り捨てるという作業の上に成り立つものであることがわかります。したがって日中の研究者の見解が異なるというのは至極当然のことであり、その溝を埋めて歴史の統一見解を打ち立てようというのはどだい無理な注文なのです。

 社会科学の弱点は実験によって仮説を検証することができないというところにあります。そもそも仮説とは目の前にある事実をうまく説明するための論理のことをいうのですから、うまく説明できるのであればどのような理論を展開してもいいということになります。
 科学においては、たとえどのような仮説であろうとそれが間違っていると実証されない限りは仮説として一応尊重しておきましょう、という姿勢をとらなければなりません。ここで忘れられやすいのは、誰の理論であろうと、またどのような理論であろうとも、仮説として等しく扱われなければならないということです。ところが実際には検証不能であるにもかかわらず、自分の仮説を真実として扱おうとする(すなわち、対立する仮説を誤りだといって攻撃する)傾向が強いのも事実です。
 ところが、あらゆる事実をうまく説明できる歴史の解釈など所詮は存在し得ないのですから、どちらが正しくてどちらが間違っているという論争ほど不毛なものはありません。まして政府が歴史の解釈に介入するなど言語道断です。どうせ現政権に都合のいい解釈をするに決まっているのですから。
 もっとも、今回の報告の概要を見る限りでは、両国の研究者たちは冷静に対応しているようにもみえます。双方の研究成果がまったく異なるものでありながらそれを併記するというのがその証左です。議論がどうしてもかみ合わないときに、両論併記という手法は決裂から回避するための有効な手法なのですから。

 科学的な思考法を身につけるということをもう少し教育の中に取り入れるようにした方がいいように思います。科学的な思考法とは、目の前の事実(出来事)を観察し解釈する力であり、同時にそれが真実であると立証されるまでは仮説にすぎないと割り切ることができることでもあります。さらには、仮説が真実であるかどうかを検証する際には誠実さが求められるということも重要です。
 このような誠実さはなにも科学者だけに要求されるというものではありません。需要予測を過大なものに見積もってその事業が十分採算のとれるものであるとして実施された巨大プロジェクトはいくらでもあります。アクアラインや本四連絡架橋がそうですし、全国各地で廃墟となりつつあるテーマパークもそうです。また、無理につくった地方空港も日航が事業立て直しのために就航路線を減らせばそのあおりをまともにくらうことになるのですから、今後ますます経営が苦しくなるはずです。
 これらの事業の失敗は巨額のツケを後生に負担させるだけにその責任は重大ですが、事業計画書を作成した人たちが責任をとったという話は聞いたことがありません。これらの事業の実施を決定したときに重要視されたのは、科学的な思考法ではなく、その事業がバラ色のものであることを示すプレゼンテーションの能力だったといってよいでしょう。
 政府を始め日本中の自治体がプレゼンテーションという一種の詐術に乗っかって虎の子の金を注ぎ込んだものの事業が失敗して借金だけが残った、というのが現在の姿です。それを可能にしたのが、事業の決定に至る議論が公開されないという政治の閉鎖性です。議会は行政の決定を追認するだけの機関にすぎません。
 事業仕分けという手法が有効なのは議論が公開されているからです。大勢の目にさらされれば詐術も通用しなくなります。議論が公開されたときに説得力を持つのが科学的な思考法に基づく論理です。同時に公開された議論を監視する立場にある我々も科学的な施行法を身につけておく必要があります。
 数学や物理の問題の解き方をいくら覚えても科学的な思考法が身につくというものではありませんが、現実には問題の解き方をより多く覚えた学生が受験で有利になっているという現実は変わりません。

 縦割り行政という言葉があります。それぞれの分野で専門的な知識と能力が要求されるのですから官僚が縦割りになるのはやむを得ないといえます。そのかわり、官僚という群網がそれぞれの分野で象をなでて政策を立案するわけですから、国家全体ではちくはぐなことをやっているということになりかねないという危険性も否定できません。そのために政治家がいるのであり、より高い次元で全体を俯瞰したうえで政策を決定していくというのがあるべき姿でしょう。
 そう考えると能力のない政治家が多すぎると思います。特に民主党の新人議員は存在感がまるでありません。それは議員定数が多すぎるということが原因なのですから、いっそのこと百人くらいに絞り込んだ方がいいというのは僕の持論です。そして、議会も公開するのであれば一般人が傍聴しやすいように週末や夜間に開催するくらいのことをやってもいいと思います。
 目的は議論の内容を大勢の人の目にさらすことによって誤りを防ぐということにあります。毎日だらだらやれば労働強化になってしまい、事務方はたまったものではありませんが、短期間に集中してやればそれほど問題にはならないはずです。
 特に、財政再建団体に転落しそうな自治体では市民が議会を傍聴しやすいように運営に配慮すべきです。平日の昼間に議会が開かれていては、勤め人は聴きに行くことができないというのはこどもでもわかる理屈です。そういうこともせずに、閉鎖された場所ですべて行ってきたから現在の窮状に陥っているということにいい加減気づくべきでしょう。

 ひとりひとりが科学的な思考法を身につけること、そういう人たちが議論を監視できる場を設けること。そういう取り組みがこの国には必要なのだ思います。
by T_am | 2010-02-14 09:07 | セイヤさんへの手紙
 朝青龍が引退を表明し、民主党の石川議員が離党する意思を表明しました。端で見ている限り、どちらも詰め腹を切らされたという感じがします。
 朝青龍の場合は、当時の言動を見ると辞める意志は毛頭なかったと思われますし、石川議員の場合も後援会の支持を得て議員辞職をするつもりはないといっているわけですから、論理的には離党しなければならない理由はないことになります。
 でもこの二人は所属する組織を去るという決断をせざるを得ませんでした。それはなぜかということをずっと考えていたのですが、ようやく得た結論は「組織を守るために詰め腹を切らされた」というものです。

 朝青龍の場合は、引退に至った経緯が細かく報道されています。昨日報道された朝青龍に対する功労金が推定で1億2千万ということですから、「引退を選んで正解」だったことになります。状況を考えると朝青龍がこれ以上相撲界にとどまることはできないと誰もが判断していた中で、仮に相撲協会から解雇されていたら1円ももらうことができないわけですから、本人にとってもベストの選択であったといえます。
 それではなぜ、相撲協会が1億2千万という巨額の功労金を支払うことを決定したのかというとそれは第三者には知るよしもありません。ただいえることは、あれだけ素行不良を繰り返し、なおかつ一般人に暴行を加えるということをしでかしたにもかかわらず、これだけ巨額の「功労金」をしはらうというからには「何らかの理由」があるものと推察されます。
 石川議員の場合はさらに複雑です。いくら会計責任者だったとはいえ、トップである小沢一郎氏に無断で会計処理をしていたはずはないのですが、小沢氏の方は嫌疑不十分で不起訴が決定し、実行犯である石川議員や元秘書が起訴されるということになりました。民主党にすれば起訴された議員が党内にいるとなれば今後の国会運営に支障をきたすということで、なんとか縁を切りたいと考えるのは自然の流れであるといえます。そうはいっても石川議員に対し除名や離党勧告をすることをせずに、「自発的に離党する」というように仕向けたわけですから、そこには「何らかの理由」があったものと思われます。

 「自発的に引退」したり「自発的に離党」すれば、世論はそれ以上追求することをしないという読みが、相撲協会や民主党首脳部の中にあったものと思われます(推測ですが)。この場合、問題には二種類あって、罪を犯した個人の問題と、個人を監督する組織の問題というのがそれです。個人の問題は個人が償う以外にないのですが、組織の監督責任というのは、仮に問題を起こした個人を解雇(あるいは除名・離党勧告)したとすれば、かえって世論の追求を受けることになります。すなわち、やましいとこころがあったと認めたから解雇したり、除名(あるいは離党勧告)するのであって、個人を監督する立場にある組織の責任はどうなるのだ、という追求が行われるということです。
 ところが本人が自発的に引退を表明したり、あるいは離党を表明すれば、すべては個人に問題があったということになりますから、組織がそれ以上追求されることはなくなります。
 私たち日本人は、本人が潔く非を認めているのであればそれ以上責めるのは大人げないという考え方をします。こうして、本人が非を認めて引退や辞任・離党することによって、組織に対する責任追及がうやむやになるのです。相撲協会の首脳部も、民主党の首脳部もほっと胸をなで下ろしたことことと思われます(推測ですが)。

 そのかわり、時間が経てば同じような問題が再び起こるであろうということは容易に想像できます。なぜならどちらの組織にも自浄能力が欠落しているからです。あえて厳しい言い方をすれば、火中の栗を拾おうという人物がどちらの組織にもいないということでもあります。
 そういう組織が長続きした例がないというのは歴史を見れば明らかであるにもかかわらず、人間というのは同じことを繰り返すものだと思わないわけにはいきません。
by T_am | 2010-02-11 22:22 | その他
 先週末に行われた報道各社による世論調査の結果が発表されました。民主党支持率と畑山内閣の支持率が下落して、小沢幹事長の辞任を求める意見は7割前後、議員辞職を求める意見も5割近くに達しています。

 それにしても、いつも思うのは大多数が選ぶであろうという回答が用意された質問ばかりが行われるということです。今回の調査では「小沢幹事長は辞任すべきだと思いますか?」という質問と「議員辞職すべきだと思いますか?」と質問がそれにあたります。報道各社が同じような質問を設定するということは事前の申し合わせがあるということなのでしょう。こういうのを「談合」というのではなかったのでしょうか?

 冗談はともかくとして、2010年2月上旬の時点で「小沢幹事長は辞任すべきだと思いますか?」と人に訊かれれば「はい」と答える人の方が多いに決まっています。というのは、そこまで考えていなかった人でも「小沢幹事長は辞任すべきだと思いますか?」と訊かれたときに、「はい」、「いいえ」「どちらともいえない」などと用意された答えを見れば「はい」を選ぶのはやむを得ないからです。つまり、「はい」を選んだ人の何割かは、その前から「小沢幹事長は辞任すべし」と思っていたわけではないということです。

 ここに世論調査の危うさがあります。

 世論調査には質問の設定のしかたによって大衆の気持ちを誘導することができるだけの力があるといえます。たとえば、質問のしかたを次のように変えたらどうでしょう?

・鳩山代表は民主党の最高責任者として小沢幹事長を解任すべきだと思いますか?

 嫌疑不十分で不起訴になったわけだし、罪が確定したわけではないのだから、なにもそこまでしなくても・・・ こう思う人が多いのではないでしょうか? このような質問のしかたは小沢幹事長を免罪することにつながると同時に鳩山代表に対して「かくあるべし」と迫ることになります。そして、こういう質問は、その通りにならないことが多いのですから、大衆の気持ちの中にもやもやしたものがいつまでも残ることになります。
 それを一言でいってしまえば「政治不信」ということになります。今回の世論調査で「支持政党なし」が「民主党支持」よりも多いという結果になりました。そうなったのは世論調査だけが原因ではありませんが、毎回結果を公表していても事態はいっこうに改善されないのですから、政治に対して関心を失うのも当然といえます。
 このような気持ちには大きな陥穽があって、それは自分には関係ないと思っているということです。
 よく考えてみれば、そもそも企業が政治献金をするのはなぜかといえば、それに見合うだけの見返りがあると期待されるからではありませんか。自分の得になることはやるけれども得にならないことはやらないというのは、私たちにも共通した心理です。政治家を応援したことがないという人は、それに見合うだけの見返りを得るための受け皿を持ち合わせていないからです。自分にメリットがあるから政治家を応援するのであって、政治献金をするということはよりダイレクトに自分に見返りがあると期待できるからなのです。
 そのような心理は何も企業にのみ見られる特殊なものではありません。公務員や教員の採用試験で贈収賄が行われるというのは何も大分県に限ったことでなく、自分が得をするためには法やモラルに少々反したことをしても構わないと私たちが心の底で思っていることなのです。

 私たちは、自分自身の中にそのような気持ちがあることを知っていますが、「小沢幹事長は辞任すべきだと思いますか」という質問はそのことをうやむやにしてしまいます。悪いのは小沢一郎であって自分は違う。そう思ってしまうと、田名角栄もどきや金丸信もどき、小沢一郎もどきの政治家がこれからも登場することになります。影ができるのは光を遮るものがあるからであって、自分自身が光を遮っていることに気づかないでいるからです。

 ところで、世論調査は何のために行われるのでしょうね? そんなことをやっていると次の選挙に負けるぞ、と政治家に知らしめるためでしょうか? それを民意というのかもしれませんが、だとすると民意というのもあてにならないものだといえます。自公政権のように長期にわたって民意に支持された政府が日本をここまでひどい状態にしたわけですが、それも民意の反映によるものだと解釈することができるのです。

 民意も誤ることがある。

 そのように理解すると、今大切なことは、マスメディアのいうことを鵜呑みにせず、自分で知ろうとすること、そして自分で考えようとすることであるといえます。そのような個人の意識の積み重ねが世論となっていくわけです。
 あらかじめ与えられた回答枠の中で考えるのはいいかげんやめにしませんか?
by T_am | 2010-02-08 23:54 | その他
 セイヤさん こんにちは。
 先週の日曜日(H22.1.31)古町十字路にあった北光社が閉店しました。セイヤさんに会ったその日です。オリジナルのブックカバーをもらっておこうと、北光社で文庫本を1冊買ったのですが、最終日ということで店内は大勢のお客が押し寄せていました。その大半が中高年の人たちでしたから、古町通りというのは集客力を失っているのだと改めて感じた次第です。
 渋谷でも新宿でも活気のある商業地域には若い人たちが大勢押し寄せています。もちろん中高年の人たちもいるのですが、圧倒的に若い人たちが多いのです。かつての自分たちがそうであったように、この年代は何か面白そうなことがあるところに出かけていくという習性のようなものがあります。今の新潟市では万代のあたりがそうなるのでしょうか?
 そういえば6月には大和百貨店の閉店も決まっています。かつての中心商店街もそのシンボルを失うことで、衰退がますます進むだろうと誰もが感じていることだと思います。

 中心商店街が衰退する理由として、交通アクセスの不便さ、郊外大型店との競合をあげられますが、まさにその通りであって、一言で言ってしまえば「そこで買い物をしたいと思うような店」がないから人が行かなくなるのだということです。
 このことは逆の言い方をすれば、人は「買いたいと思えばどこへでも行く」ということでもあります。僕もこどもたちの学生服を買ったときは、わざわざ本町通(古町通商店街の近く)の専門店まで出かけたくらいです。

 中心商店街の店の多くがそのような魅力を失っているのは、大半が個人商店であり、集客力を維持し続けるだけの投資をするだけの体力がないことが原因であると思います。個々の店舗の敷地は思いの外狭いものですから建て替えてもたかがしれています。そうかといって何件もの店がいっしょになって再開発するというのも非常な困難が伴います。そうこうしているうちに時間だけは経っていきますから、客足は遠のいているけれども手の打ちようがない、という状況に陥っているといえます。

 いっそのこと考え方を変えてしまったらどうでしょう? すなわち「中心商店街」であろうとすることを諦めて、周辺に住む人たちの商店街であることを目指す、というものです。
 商業の立地というのは人が集まるところとイコールですから、その地域の交通体系に左右されます。すなわち、鉄道が主役のところでは駅前が商業立地になりますし、自家用車が主役のところでは校外の幹線道路と生活道路沿いが商業立地となります。新潟市の場合も他の地方都市と同様交通体系の主役は自家用車なのですから、校外に大型店が出店するのは避けられません。それは時代の流れともいうべきものですから、これを変えようというのはたとえば信濃川の流れを変えようとするようなものです。つまり、それだけ多くの資金と労力を必要とするということですが、新しく設けた河川が理にかなわないものであれば、水が溢れたりあるいは澱んだりしてせっかく投入した資金と労力が無駄になることだってあります。
 中心市街地を活性化させるというのは、地方都市にとっては共通の課題です。しかし、そのために郊外での大型店の出店を規制すれば、大型店は規制のない隣の市町村に出店することになりますから、今度は人が流出していくという状況を招きかねません。また、商店街を覆うアーケードやカラー歩道、地下駐車場の設置などが効果がないことも既に立証されています。
 既に述べたように、商店街の店舗の大半が個人商店であり新規投資するだけの体力がなく、仮にそれをクリアしたとしても共同開発という高いハードルに阻まれるという現実があります。
 これらの問題を解決しない限り中心商店街の活性化というのは絵に描いた餅に終わるのですから、それならばいっそのこと「中心商店街」であることを諦めた方がいいのではないかということです。

 中心市街地が抱える問題はもう一つあって、それは人口の減少(都市の中の過疎化)という問題です。それを顕著に示すのが小中学校の生徒数であり、学年ごとのクラス数で計ることができます。例をあげると寄居中学校のクラス数は全体で8クラス、舟栄中は9クラス、二葉中に至っては4クラスしかありません。


(新潟市の小中学校の学級数別一覧表)


 このような現象は全国的に見られることであり、かつての大勢の人口を抱えていた住宅地ではこどもが大きくなって親元を離れていったために、現在は年寄りが目立つ街になりつつあります。
 では、どういうところが人口が増えているのかをみると、マンションが建築されている地域です。先ほどの新潟市の小中学校の学級数別一覧表をみると上位2校(小針中と鳥屋野中)のある地域がそうですね。これらの地域では県外から転勤で来た家族が多く見られる地域でもあります。つまりそれだけ住居の受け皿が揃っていて、しかも買い物にもそこそこ便利である地域に現在は人口が集中しつつある、といってよいと思います。

 以上述べた来たことから、行政が中心市街地を活性化させたいのであれば、それは商業問題、交通問題というよりもむしろ住宅問題として理解した方がいいのではないかと思います。マンションが1棟できるとそれで小学校のクラスが増えるという現象が起こります。
 人が増えればそれだけ消費も増えるわけですから、商業もその恩恵を蒙ることになります。ということは、中心市街地ではどうやって定住人口を増やしていくかを考えた方が効果が高いということになります。
 そのためには土地や建物の売買を活性化する必要がありますから、不動産取得税や不動産の譲渡益課税の減免、これらの地域でマンションを購入した場合住宅減税を他の地域よりも優遇するなどの措置があってもよいと思います。さらに、乳幼児のための保育施設も必要となるでしょう。
 また中心市街地には金融機関の顧客も多いはずですからこれらの地域が賑わうことは金融機関にとってもメリットがあることになります。これらの地域でマンションを購入する場合は金利を優遇した商品を開発するなどのことも必要でしょう。

 商業とこどもは街に活気を与えてくれます。中心市街地のマンションを誘致して人口を集中させる。人が集まるところでは、商業も工夫して消費者に認められるような店づくりを行うものです。そういった状況を実現するためには新たな住民の受け入れ体勢を整えなければなりませんが、中心市街地を大型の商業施設で再開発するよりはよほど効果が大きいように思えます。
 市町村の都市計画マスタープランでは、エリアわけして「商業ゾーン」「住宅ゾーン」「工業ゾーン」のように分けるのが通例ですが、経済は人間がつくった机上のプランに従ってくれるわけではありません。というのは、都市計画マスタープランも縦割り行政によってまるで実効性のないものになっているからです。用途地域を指定して道路を整備しても他の公共サービスをどうやって提供するかを考慮していないのですからその通りに進まないのは当然といえるでしょう。

 自公政権下で中心市街地活性化のためにまちづくり三法が改正されたことに伴い、都市計画法と建築基準法も改正されて、特定大規模集客施設(床面積1万㎡超の建物)は事実上商業地域と近隣商業地域にしか建築できないことになりました(準工業地域でも条例を制定すれば特定大規模集客施設の建築を制限することが可能です)。
しかし、小売業がなぜ郊外で出店するのかといえば、都心部に出店するよりも設備投資を節約できるからであり、それに見合う効果が見込めるからです。都心部での出店は割に合わないと思っているわけですが、政治家というのはそういうことがわからないのですね。郊外での出店を規制すれば中心部に店をつくらざるを得ないだろうと考えたのか、それとも商店街に住む人たちの票目当てだったのかは知りませんが、とにかく郊外での大型店の出店が抑制されたことは事実です。それでも北光社は閉店しましたし、大和百貨店も新潟から撤退することになりました。
 このように効果がどれだけあるのか疑問符がつく法改正ですが、民主党政権でそれが見直しされるかというと、彼らも商店街の票を敵に回すことはしないはずですから、その可能性はきわめて低いと思います。
 日本の政治の特徴は、効果がないとわかっていてもいったん決まったことはなかなか軌道修正ができないというところにあります。その間どれだけの税金が注ぎ込まれるのか計算のしようもないのでわかりませんが、無視できない金額であることに間違いはないでしょう。
 行政が見当違いなことをやっているのであれば民間が知恵を出すしかない。そんなことをこの頃思うようになりました。
by T_am | 2010-02-07 10:23 | セイヤさんへの手紙