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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 日曜日に行われた名護市長選挙で、普天間飛行場の移転に反対する立場である前市教育長・稲嶺進氏が当選したことによって、この問題がますますこじれることになりました。
 民主党も稲嶺候補を推薦していたのですから自業自得といえるでしょう。

 それにしても鳩山総理は5月末までに結論を出すと明言していますが、これだけの短期間で誰もが納得できる案を提示することができるとは到底思えません。その後には参議院の改選が控えているのですから、現政権がどのような結論を出すかによって参議院選挙に大きな影響を与えることになると予想されます。
 しかも小沢幹事長の政治資金疑惑もあるので、場合によっては鳩山総理と小沢幹事長の辞任(ということは内閣の総辞職となります)による衆参同時選挙も考えられます。こういうのを身から出た錆というのであって、政権党であるための授業料と我慢するしかありません。
 それよりも最悪のケースとしては、小沢一郎氏の疑惑がグレーのまま民主党の幹事長に居座ること、そして鳩山総理が総理の座にしがみつくことです。民主党は、小沢幹事長の権力が強くなりすぎて、まるで独裁政党のようになってしまいました。先の総選挙で民主党が勝ったのは政治改革をしてもらいたいという有権者の思いが強かったからです。
 たしかに「制度改革」は実施されましたが、それは小沢幹事長の権力を強化するためのものでした。有権者が期待している「政治改革」は手つかずといってよいのであり、現在の体制ではそのような改革に取り組むとは思えません。

 ですから、参院選前に党代表と幹事長が辞任するのが、民主党と日本にとってはベストであるといえます。この国では最高権力者は何をしてもよいというものではないのだと、現職の民主党議員が思い知ることが必要だと思うのです。

 それはさておき、普天間飛行場の移設問題について気になっていることを今回は申し上げたいと思います。
 本来であれば軍事基地の設置(移設も含む)という問題は、国の安全保障をどうやって実現するかという観点で企画立案されるべきものです。近代以前の社会では、軍事が最優先で周辺の住民のことなど歯牙にもかけないというのが普通でしたが、現代社会ではそうもいきません。軍事上のメリット・デメリット、軍事基地が周辺に与える影響を考慮して決定しなければ、運用開始後に大きな問題を抱えることになり、結果として軍事目的の遂行の妨げになる恐れも出てきます。

 そのようにして一連の出来事を眺めると、日本の安全保障という観点から移設先をどこにしたらいいか、という視点が完全に欠落していることに気づきます。社民党はあいかわらず「県外、国外」という主張を続けていますが、これはこの政党が日本の安全保障という問題を真面目に考えたことがないという証拠でもあります。もっとも民主党も大同小異であって、だから総選挙のときに鳩山代表が沖縄にいってさんざんリップサービスしてきたのです。
 誤解しないでいただきたいのですが、私はアメリカの主張通りにせよと申し上げているのではありません。アメリカが普天間飛行場の移設先をキャンプシュワブに指定してきたというのはアメリカ軍の事情を最優先に考えた結果であると思います。それは日本の国益に寄与する部分もあるかもしれませんが、それよりもアメリカの国益に重点を置いた思考法から出てきたプランであると思っています。
 ですから、移設先が県外であってもいいのですし、あるいはグァム島のように国外であってもいいのです。その代わり、その場合は日本の安全保障は日本が自ら行うという気概と精密なプランが必要となります。
 そういうプランが5月末までにできあがるとは到底思えません。日米安全保障条約によって日本は自国の防衛ということを考えないでよいという体制がずっと続いてきました。このことは日本の経済成長に大きく寄与しましたが、その反面、自国の安全保障について誰も真面目に考えないようになったという弊害ももたらしました。
 平野官房長官は移設先について「辺野古を削除するという判断には立たずにゼロベースで最適地を探す」と明言していますが、政府内で、有事の場合米軍と連携してどのような作戦行動をとりうるのか、そのためには基地がどこにあるのがベストなのか? という議論があったとは思えません。おそらく既存の基地に吸収することしか考えていないものと思われます。

 米軍基地が抱える問題は大雑把に分けると次のようになると思われます。

1.米軍機の騒音問題(これは沖縄だけの問題ではありません。)
2.住宅地に近接しているので、事故が発生した場合に被害が大きい。
3.兵士による犯罪。

 これらの問題に対する迷惑料として、政府は基地のある自治体に税金を投入してきました。名護市の人口はおよそ6万人いますが、農業と漁業以外にこれといった産業のないところでこれだけの人が住んでいるというのは税金が投入されてきたおかげといえるでしょう。しかし、それは見方を変えれば、わざわざ税金を投入して迷惑を被る人を増やし続けてきたということができます。むしろ、同じお金を投じるのであればこれらの問題を軽減する分野に使うべきだったと考えるべきでしょう。
 たとえば、防音設備のついた集合住宅を建築して住民にはそこに住んでもらう。同時に軍用機の飛行ルート付近に住んでいる住民には立ち退いてもらい、防音設備の完備した集合住宅に移り住んでもらうこともできたと思います。
 また、米軍兵士の犯罪が問題視されるのは、日米地位協定によって罪を犯した兵士を日本の法律で裁くことが大幅に制限されていることが大きいのです。大きな集団ともなれば、必ず犯罪を犯す人間は一定の割合で発生します。これは米軍に限ったことではありません。自衛隊でも不祥事や犯罪は起きていますし、民間企業でも同様です。これらの犯人は警察によって逮捕され、法律によって裁かれます。しかし米軍兵士の場合は、地位協定によって日本の法律が及ばないことがあり、それが日本人の感情を刺激します。つまり、問題の所在は日米地位協定による不平等性にあるのですが、政府はこれを改定することに熱心ではありませんでした。

 こうしてみると、従来行われてきたのは「基地周辺に税金を投入して不満をそらす」というものであり、問題を解消するという発想はなかったことがわかります。問題解決のための最善の手法は基地がなくなることですが、安全保障上どこかに基地を設けなければいけないのですから、基地の設置によって生じる問題を軽減するために資金と人材を投入することも避けて通ることはできないのです。軍隊を持つということは、そのような問題から目を背けずにきちんと向き合わなければならないということでもあります。
 
 しかし、日本人は軍隊ということについてきちんと考えるということをしてきませんでした。それは今でも変わっていません。
 マスメディアや一部の政治家は名護市長選挙の結果から「民意に従うべきだ」という主張を繰り返しています。名護市の住民の中には「米軍には出て行ってほしい」と心底思っている人も大勢いることと思います。それは、今まで税金をばらまくだけで基地問題の解決にきちんと取り組んでこなかったことの結果であると考えるべきです。
 仮に、米軍基地がすべて国外に移転したとすると、日本の安全はどのようにして保証するのでしょうか? その場合、在日米軍に代わるだけの軍事力を自前で持たなければならなくなります。その結果、国内には依然として軍事基地が残ることになり、何の問題解決にならないことになります。
 いや、それよりも友愛外交によって東アジア共同体が実現すれば軍備は不要になるはずだと考える人もいるでしょう。理想はその通りですが、人類の歴史においてそのような理想が実現した例はありません。理想を語るのも結構ですが、力の裏付けのない理想論は無意味です。鳩山総理がオバマ大統領に友愛の船構想を話したときに、まるで相手にされなかったのはそういうことなのです。
 日本が軍についてまともに議論することもできないのは、私たちが誰かに守ってもらうことに慣れきっているからです。けれども誰かが日本を守っている(言い方を変えれば、日本に脅威を及ぼしそうな国に対して睨みをきかせている)ということさえ私たちは意識していません。
 よく言われるように、戦後日本の奇跡的な復興とその後の経済成長は、日本が自分の国の防衛についてきちんと取り組まなくてもよかったからだといえます。結果としてそれはベストの選択であったといえます。しかし、戦後65年も経つとさすがに制度疲労が起こり、矛盾が表面化してきます。そのひとつが普天間基地の移設問題という形で噴出してきているわけですから、従来と同じような思考法(問題から目を背ける)ではこれを解決することはできません。
 社民党はむろん、自民党の中にもこのたびの「民意」に便乗した発言をする国会議員がいます。「民意」におもねるような発言を繰り返してきたことで窮地に立たされているのが鳩山政権であるということが、この人たちには理解できないようです。それだけでも政治家としての資質に欠けるのではないかと思うのですが、どう思います?
by T_am | 2010-01-28 00:05 | あいまいな国のあいまいな人々
 前回のブログで、アメリカと中国のことについてちょっとだけ触れましたが、日本のことにはほとんど触れませんでした。そこで、今回はそのことについて考えてみることにします。
 アメリカ人には自分が正しいと信じるものを守るために戦うというメンタリティがあると申し上げました。では、日本人はどうかというと、日本人にとっては権利や自由は与えられるものであって、戦って勝ち取るという発想は皆無であるといえます。いったん与えられた権利や自由が侵害されることについては敏感に反応しますが、新たな自由や権利については著しく鈍感です。
 いわゆる「クレーマー」や「モンスターペアレント」が発生する土壌はここにあります。
この人たちは自分や家族の権利が侵害されることには敏感ですが、他人の権利には意識が及ばないという共通点があります。
 人間は社会の中で暮らす生き物ですから、自分が享受する利益は常に社会が享受する利益の一部分であるという事実に気づきそうなものですが、この人たちはそのことについての想像力がありません。関心があるのは常に自分の利益であって、そのためには社会や他人の利益はどうなっても構わないという発想をします。
 クレーマーやモンスターペアレントと呼ばれる人々のクレームがいかに理不尽なものかは、数々のサイトをご覧くださればおわかりいただけると思います。そこに共通するのは、常に自分の利益が侵害されたということであって、他人はどうでもいいという幼児的な思考法です。
 自分の信念が侵されたときに戦うことを躊躇しないという精神とこの人たちが異なるのは次の点です。

1.他人との関係を等価交換として理解していること。
2.自分が受け取ったサービスが、支払った対価に見合わないと感じること。
3.クレームをつける相手が自分に危害を加えることはないと予めわかっていること。

 クレーマーやモンスターペアレントが、ヤクザや「危ない人」にクレームをつけるということはありません。この人たちは他責的かつ他罰的な発想をしますが、相手が「危険な人」であると思うと口をつぐみ、そうでないとわかると居丈高になります。
 そうやって誰かが「おいしい思い」をしたと知ると、では自分もひとつやってみようかと思い、うまくいくとそれで味をしめるのです。いわゆる「ごね得」というやつであり、このような精神性はインフルエンザ・ウィルスのように感染していくようです。
 先日、空港の手荷物検査場で鞄に反応があった乗客が係員から「お鞄を開けてもよろしいでしょうか?」といわれたのに対し、「よくねーよ!」と怒鳴っているのを見ました。結局自分でペットボトルを取り出して検査してもらい、無事通過できたのですが、待合室の中でその男が連れに自慢げにそのことを話していました。
 これがアメリカの空港であればこの男もおとなしく従っていたことでしょう。自分よりも強い者には従順なくせに、自分よりも立場の弱い者に対しては強気になるという人間はどこにでもいるものであり、日本人だけの性質であるというものではありません。
 しかしながら、「客」に対して「お客様」として丁寧に接するのは日本の特徴であり、他の国々ではもっとフランクに接するのが普通です。日本では、スーパーで買い物をすれば、金額の多少に関わらずレジ係の女性が両手をそろえて「ありがとうございます」と頭を下げてくれます(機械的にやっている人もいますが)。このように客を大切に扱う姿勢は外国から来た人にも好評であり、決して悪いことではありませんが、私たちはそれに慣れすぎているように思います。
 自分は客であり、買うかどうかの決定権を握っているのだから、多少の無理難題をいっても構わないのだ。このように考えて、実際に行動に移す人が増えていることも事実です。
 それでは何を持って客というのかといえば、金を払うからだという定義が定着しつつあるようです。つまり、金を払う以上自分は客なのだから俺のいうことをきくのが当たり前だと考えるわけです。
 問題は、金を払う者=客という意識が商取引以外の分野にも広がりつつあることです。教育や医療は商取引ではありません。にもかかわらず、自分には権利がありお前には義務があるという理屈で行動するのです。
 義務教育とは、子供に教育を受けさせる義務を負っているのは親であり、子供は教育を受ける権利があるというものです。この場合の権利と義務は親子の間に存在するのであって教師や学校(あるいは自治体や国)が義務を負うのではありません。ここのところを誤解している、というよりは考えたことのない人が多いのです。
 教師や行政にあるのは学校を運営管理する責任です。責任を負う者にはそれを果たすために権限が与えられ、教師の場合は生徒に指示をして服従させることができるというのが権限となります。(ただし、「権限」という言葉通り、教師は何をしてもいいというわけではありません。権限には範囲が合って、それを逸脱して行使することは許されないのです。)
 そして、学校や教師が運営管理責任を果たすために親も協力するというのがあるべき姿となります。ですから学校や教師が責められるとすれば、それは運営管理において不作為(たとえば「いじめ」があると知りながら見て見ぬふりをしていた、など)や重大な過失があった場合と権限を逸脱した場合となります。
 ところがモンスターペアレントと呼ばれる人たちのクレームの内容は自己中心的なものです。その背景には保護者の「お客様意識」があるのは疑いないのですが、日本でこのような現象が起こるのは権利と義務、責任と権限ということについてきちんと教えられていないことも原因であると私は考えます。
 戦後GHQによって日本国憲法の草案がつくられました。そこで日本人はそれまで持っていなかった様々な自由と権利を手にすることができたのですが、それらを充分に咀嚼する余裕がなかったといえます。つまり、なんだかよくわからないままに様々な自由と権利を手にしたのです。
 日本中がそうでしたから、子供たちに対して教師もそれをきちんと教えることができませんでした。というよりも、どうやってカリキュラムに組み込んだらいいのかもわからなかったのだといえるでしょう。そういうことが曖昧なまま、そのときそのときの社会の雰囲気(これを世論といいます)で、何となく方向が決まってしまうという状態がずっと続いています。
 ろくに物事を考えず、何かわからないことが起こると他人の意見に頼ろうとし、その挙げ句その場の雰囲気に流されてしまうというのが私たちに固有の性質であるといえます。また、よく考えないのですから何事も自分に都合のいいように解釈してしまいがちです。 それらは性質なのですから直しようもないといえますが、それでもせめて国とは何か、自由とは何か、個人の権利と義務とはどういうものなのか、ということについての合意を形成しておかないとこの国はますますおかしな方向に行ってしまうと心配されます。
 民主党は永住外国人に対し地方参政権を与える法案を提出する考えでいるようです。一方これに対する反対意見は根強いものがあり、どうなるかはわかりません。反対論者の主張のひとつに「選挙権がほしければ日本に帰化し、日本人として生きていくという意思表示をするべきだ」というのがあります。これはこれで理屈が通っているのですが、現実には日本国民である父親または母親から生まれた子供は自動的に日本の国籍を持ち、その子が成長して大人になっても日本人として生きていくという自覚がないという人も大勢いるわけですから、素直に受け入れがたいところがあります。
 法の定めるところによれば、日本国籍を有することが日本国民であるとされています。日本国民である親から生まれた子供は自動的に日本国籍が与えられるのですから、これでは日本国民とは何なのかという質問に対する解答とはなりません。
 私たちは、自分が日本人であるということに何の疑いも持ちませんが、日本人であるとはどういうことなのかを考えたこともありません。これはこの法案に賛成している政治家においても似たり寄ったりであると思われます。
 このように、日本人であることについての私たち自身の意識が曖昧であるがゆえに永住外国人に対し地方参政権を与えるという発想が出てくるのだろうと思います。ここでも、あまり物事を深く考えずに決めてしまうという私たちの性癖が出ているように思います。
 そうなると、永住外国人に対して地方参政権を与える法案というのは、実は審議するだけの土壌が私たちの間に熟成されていないということに気づくのです。
 そういう状況にありながら、このような法案を提出しようとするのは実に危うい行為であると申し上げざるを得ません。
by T_am | 2010-01-24 01:35 | その他
 我が家には電話魔がいます。三十分くらいの長距離通話は日常茶飯事であり、ときには1時間を超えて話すこともあります。いっそのこと、タクシーのように通話料金がどんどん増えていくことがわかるメーターがついた電話機が発売されないものかと思うのですが、NTTが絶対に許さないだろうということも容易に想像できます。
 そこで、通話料金を安くするために、IP電話の申し込みをしました。
 我が家で使っているADSLモデムは初期の8Mタイプであり、IP電話機能はついていなかったので、NTTに連絡をして新しいモデム(IP電話対応機器)に取り替えてもらいました。ADSLモデム-NVⅢという型番の製品です。
 モデムが届いたので、プロバイダーのホームページからIP電話の申し込みをし、早速設定作業に入ったのですが、予想以上に難航しました。といってもNTTやプロバイダーが悪いというわけではありません。我が家の接続環境に原因があったと思います。
 将来、何かの拍子でIP電話の再設定をしなければならないかもしれないので、忘れないうちにどうやって設定できたのかを書いておくことにします。無線LANルーターをお使いの方で、これからIP電話の設定をしようという方はひょっとしたら参考になるかもしれません。

 そもそもIP電話とはインターネットを利用した通話技術のことです。一般固定電話がNTTや第二電電の電話回線網を使うのとはそこが違います。といってもインターネットへの接続が電話回線を通じて行われるように、IP電話も自宅からプロバイダーまでのアクセスポイントまでは電話回線を通ることになります。そうすると電話回線には、一般の電話のための信号、インターネットを使うときの信号、IP電話のための信号の3種類の信号が通ることになります。それらの信号をきちんとよりわけするのがモデムという機械の仕事になります。
 したがってIP電話を使うには、IP電話に対応したモデムを用意しなければなりませんし、その設定を自分でしなければなりません。これがややこしいのです。
 プロバイダーでは、この設定が自動的に行われるように工夫していますが、ユーザーのインターネットへの接続環境は千差万別なので、そのすべてを解説したマニュアルを用意することは不可能です。
 私がIP電話の設定に苦労したというのはモデムとパソコンの間に無線LANルーターをつないでいたからなのです。

 パソコンからインターネットの世界を見渡したときに、すべてのホームページや機器にはアドレスがつけられており、それを頼りに接続をしていくことになります。ADSLモデムにこのアドレス(IPアドレスといいます)が決められていますが、それが無線LANルーターと同じIPアドレスであることが躓きの始まりでした。
 IP電話の設定というのは、パソコンの画面からモデムに対して行わなければなりません。そのときにIPアドレスを頼りにモデムと信号のやりとりをするのですが、その間に同じIPアドレスを持った無線LANルーターが立ちはだかったらどうなるかというと、いつまで経ってもパソコンからモデムは「見えない」ことになってしまいます。

 エラー:このリンクは無効です。
 setup fletsphone voip

 こういう表示が出てどうにもならなかったのです。
 ここで、IP電話の設定について、簡単におさらいをしておくと、次のような手順で行うことになります。私の場合プロバイダーはぷららを使っているので、その方法を書いておきます。他社でもそう大きな違いはないはずです。

1.モデムの設定画面を開き、自分のパスワードを設定する。
2.自分が契約しているインターネットのプロバイダーの接続方法(IDとパスワード)をモデムに入力する。
3.メールソフトを立ち上げて、プロバイダーからメールで送られてきたリンクをクリックして、サイトを開く。
4.IP電話の番号とモデムの種類を選択して、設定の準備をする。
5.1で設定したパスワードを使ってモデムの設定画面を呼び出す。
6.プロバイダーが設けた設定が自動的にモデムに読み込まれる。
7.読み込みが終わるとモデムの再起動が行われ、完了すると、DATA以外の5つのランプが緑色に点灯する。

 手順としてはこれだけなのですが、無線LANルーターを使っていると1番最初の手順である1.の作業ができないことがあります。
 そこで、無線LANルーターのIPアドレスを一時的に変更してやる必要があるのです。

①Webブラウザを立ち上げて、アドレスバーに「192.168.1.1」と入力する。
②無線LANルーターのログイン画面が開くのでID(私が使っているコレガの無線LANルーターCG-WLR300GNHの場合「root」)を入力してログインし、左側のツリーにあるLAN設定の項目からIPアドレスを「192.168.2.1」に変更する。
③変更を保存したらパソコンを終了させ、無線LANルーターの電源も落とす。パソコンの無線をオフにして、LANケーブルでパソコンとモデムを直接つなぐ。
④モデムとパソコンの電源を入れる。
⑤Webブラウザを立ち上げて、アドレスバーに「http://ntt.setup/」と入力する。
⑥管理用のパスワードを設定したら、プロバイダーの接続画面に変わるので、「接続先1」にプロバイダーの接続(IDと接続用パスワード)を入力する。
 このときのIDが、「*****@*****.co.jp」のようなメールアドレス形式のときは@以降の文字列も入力しないと、後でモデムからプロバイダーに対するIP電話の接続ができなくなる(前面にあるPPPランプが点滅したまま点灯しない。これが点灯しないとVoipランプが点灯しないのでIP電話を使うことはできません。この場合、一般電話での通話になってしまいます。)ので気をつけましょう。このことはモデムのマニュアルの後ろの方に書いてあることに後になって気がつきました。それまでPPPランプが点滅したままだったので、どうしたものかと悩んでいたのです。「急いては事をし損じる」という例です。

 ここまで終わったら、上の3.の手順から設定作業を再開します。モデムの設定が完了し、全面のランプのうちDATA以外の5つのランプが緑色に点灯したら正常に設定が完了しています。

⑦パソコンからLANケーブルを抜き取り、無線LANルーターに接続します(モデムの電源は切る必要はありません。以後ずっと入れっぱなしにしておきます)。
⑧ 無線LANルーターの電源を入れ、パソコンの無線をオンにして、Webブラウザを立ち上げます。アドレスバーに「192.168.2.1」と入力して、無線LANルータの設定画面を呼び出して、上の②でやったのとは逆に、IPアドレスを「192.168.1.1」に戻します。私の場合、戻した後の画面がいつまでも変わらなかったので、いい加減待ちきれなくなって途中でブラウザのタブを閉じてしまいました(こーゆーことをするから、おかしな現象に巻き込まれるのです)が、特に障害は発生しませんでした。めでたしめでたし。しかし、これはとても危険なことですから真似をしない方がいいと思います。

 こうしてみると、非常に手間取りはしたものの、無事にIP電話の設定ができたというのは、はっきりいって「運がよかった」という以外にありません。
 しかし、自宅で無線LANを使っているユーザーは多いはずなので、そういうユーザーのための設定手順をきちんとマニュアルに書いておいてくれればいいのに、とぷららとNTTに対して愚痴をこぼしたくなったのも事実です。あー、疲れた。
by T_am | 2010-01-21 00:11 | その他
 1月12日グーグルは中国を発信源とする大規模なサイバー攻撃を受けていたことを公表しました。その標的は、グーグルが提供するGメールのうち中国の人権活動家が使用しているアカウントだったということです。
 もともと、グーグルは中国に進出するにあたり、当局の検閲(中国政府にとって好ましく内々情報がグーグルの検索サービスに載らないようにすること)を受け入れてきました。その理由はインターネットの情報量の増大は検閲を受け入れることによって生じるマイナスを補って余りあるという判断だったとのことです。
 グーグルにすれば、中国の巨大な市場は魅力だったのでしょう。いったんは検閲による自主規制を受け入れたわけです。しかし、今回の中国によるサイバー攻撃はフェアなものではありません。そこで、これ以上の検閲は容認しない、今後中国当局と協議をするつもりであり、場合によっては中国から撤退することもあり得ると表明しています。
 グーグルでは早速そのことを実行し、天安門事件で戦車の前に立ちはだかった男の写真やダライ・ラマ14世に関する情報が検索にヒットするようにしました。従来はこれらの情報は検索不可能だったわけですから、グーグルの決意の強さが伺えます。
 さらには、アメリカ政府も中国に対し正式に抗議することにしたという報道がありました。
 グーグルとアメリカ政府が守ろうとしているのは、表現の自由という人類普遍の権利なのか、それとも検索プロバイダーというビジネスモデルなのかははっきりしませんが、自分が正しいと信じているものが脅かされそうになったときに断固として戦うというメンタリティはたいしたものだと思います。 

 実をいうと、そのようなメンタリティは往々にして独善に陥る危険性も抱えています。古くは十字軍の遠征がそうでしたし、近年でもナチスドイツによるユダヤ人の迫害がありました。ブッシュ前大統領がイラク戦争の必要性を訴えたときに十字軍を引き合いに出したのは流石に世界中の失笑をかいましたが、本人は大真面目だったはずです。また。進行中の出来事として、シーシェパードによる捕鯨調査船に対する妨害というのもあります。
 ここで誤解のないように書いておきますが、メンタリティや思想信条に罪があるわけではありませんし、その持ち主だからといって犯罪者であると決めるつけることはできません。罪に問われるのは行為でなければなりません。どんなことを考えていても、行動に移さない限り罪に問われないというのが民主国家のあり方です。シーシェパードに対する批判は彼らの妨害行動のやり方に対するものであって、彼らの信念や存在そのものに対する批判ではありません。ここのところを間違えると現代でも魔女狩りが復活することになります。(もっとも君が代や日の丸に対する一部の教師たちの行動をみると、日本でも魔女狩りが復活しつつあると思わないわけにはいきません。)

 中国が検閲を行うのは、広大な国土と他民族を一つの政府が統治しようとしているからです。大国というのは強大な軍事力と統制力が必要であり、それらが弱体化するとソ連のように国が崩壊してしまうことになります。樽が大きくなれば、それを締め付けるたがも強力でなければならないのです。
 したがって中国という国を成り立たせているのは、共産党による独裁であるといえます。国が大きいだけに地方分権ということはあり得ません。そんなことをすれば、たちまち分裂してしまうことは中国の歴史上いくらでも事例があります。中央集権体制だけが中国という統一国家を維持する唯一の方策です。
 そのために検閲が行われるのは、中国政府にとっては当然のことですから、これをやめるということは。中央集権体制を弱体化させることにつながるので、そのような選択をするとは考えられません。
 しかし、検閲が民主的ではないというのも世界の常識ですから、中国政府としても対応に苦慮するものと想像されます。
 穿った見方をすれば、今回アメリカ政府が中国に対し正式に抗議することにしたというのは、検閲の廃止が中国の統制力の弱体化を意味し、その分だけアメリカが有利になるからだと考えることもできます。

 外交というのは、このように複雑なものであることを考えると、日本の外交政策がいささか心許ないものに思えてなりません。「友愛」という理想を掲げるのは結構ですが、その理想にこだわり、ものごとを深く考えないで外交と政治に取り組むのは国の最高責任者としていかがなものでしょうか。
 昨日、インド洋における海上自衛隊の補給活動が終了し、撤収命令が出されました。政権が替わって、もはやインド洋での補給活動の必要性を認めないと政府が判断したからです。
 また、外国人永住者に対し地方参政権を認めようという法案が政府から提出されようとしています。

 次回は、これらのことも考えてみたいと思います。
by T_am | 2010-01-17 21:00 | その他
 時節柄どこの家庭でも節約ということを心がけておられることと思います。最近はエコという流行もあって、節約に反対する人はあまりいないと思われます。そこで今回は節約について考えてみました。

 そもそも節約とは何なのでしょうか? 試みに辞書をひいてみると、一様に「無駄を省く」という説明が書いてあります。身近な例としては、上下の階への移動はエレベーターを使わない、電気はこまめに消す、水を流しっぱなしにしない、冷暖房の設定温度を決めておく、などがあげられます。皆さんの勤務先や学校でも同じようなことをしているかもしれません。
 これらの事例は、本来人間の生活に必要なものであるけれども、その消費量がある一定の値を超えるともはや意味がなくなるという場合にあてはまるようです。どういう場合かというと、食事は人間にとって必要不可欠ですが一回の食事満腹する量は人によって決まっています。それ以上食べてもおなかを壊すのが関の山ですから、それは「無駄な」食事となります。あるいは、自動車の運転で、急発進急加速をしない、エンジンブレーキを多用し急ブレーキを使わなくてもいいように心がけるというのもそうです。自動車を使う目的は自分もしくは荷物が目的地に到着することですからガソリンが不可欠です。しかし、目的地に到着できればいいのですから、なにも必要以上にガソリンを使わなくてもいいわけです。

 こうして考えると、節約というのはそれほど難易度の高い行為ではないということになります。要は、ここまでは必要だけれどもこれ以上は不要であるという見極めをすればいいだけのことです。したがって、そういう見極めがないまま、だらだらと使い続けるとそれは「浪費」であるということになります。
 このことから次のように理解することができます。

 節約=考えながら使うことで消費を抑制する行為
 浪費=考えないで使い続けること

 こういうふうに考えてくると節約とはとてもすばらしい行為のように思えてきます。その代わり落とし穴も待ち受けているようにも思えるので、以下そのことについて書いてみます。
 よく、主婦は1円でも安い買い物をするために一生懸命努力をしている、という言い方がなされます。スーパーやドラッグストア、ホームセンター、家電量販店のチラシを見比べて、どの店がどれだけ安いか、あるいは特売品は何かを見て買い物をしているという方が多いことと思います。そのことにケチをつけるつもりは毛頭ないのですが、物事を一面だけでとらえるのはどうかと思うのです。
 商品の値段が安いというのには、必ず理由があります。その理由に納得したうえで買い物をするのであれば問題はないのですが、多くの場合小売店はそこまで親切ではありません。つまり、なぜその商品が安いのか知らないまま買い物をする場合が圧倒的に多いのです。
 パッケージに入った商品の場合、値段が安い代わりに内容量が少ないというものがあります(箱入りのティッシュは昔は200組入っていましたが、最近は150組というものも多い)。また、肉や魚の場合特売に使われるのは冷凍品が多いようです。さらに、昨年騒がれたように偽装された食品というのもあり、甚だしい場合は毒入り餃子のようなものが出回る可能性も否定できません。
 メーカーや小売店が商品を安く提供するというのは、「何かを省いて」いるからできることです。良心的なメーカーであれば、トレードオフといって、今までの製品に備わっていた機能や品質のうち重要でないものを省くことで生産コストを下げるということを行う場合があります。あるいは工場の生産効率を高めて製品1個あたりのコストを引き下げるということも行われます。
 あまり良心的でないメーカーでは、本来やるべきことが省かれます。消費期限の書き換え、品質や生産地の偽装などはその悪質な例です。そのほかにも従業員のサービス残業、リストラ、下請けいじめなども含まれるといってもいいでしょう。
 そうかといって値段が高ければ品質がいいかというと、船場吉兆のような例もあるので一概にはいえません。薄利多売という言葉があるように、たくさん売れる物は少ない利幅でもなんとか儲かるものですが、購入頻度の低い商品というのは粗利益を高く設定しないと売り手が成り立ちません。したがってそのような商品(家具やスーツ、自動車、電化製品など)は高めの価格設定になります。紳士服の専門店で2着目千円という常識を疑うようなセールを打つ企業がありますが、それでむしろ業績を伸ばしているのですから何かカラクリがあると思って間違いありません。

 消費者が、食べ物は飢えが凌げればいい、着る物は寒さが凌げればいい、と割り切っているのであれば何をつかまされても問題は起こらないのですが、安くていい物がほしいと思っているとときには変な買い物をしてしまうことは避けられません。そのような失敗を通じて消費者は賢くなっていくのですが、安さを最優先にしていると目が曇ることになり、いつまでも似たような過ちを繰り返すことになります。

 ところで人はなぜ節約をするのでしょうか。実は動物には浪費というのはありません。シマウマのおなかのところがおいしいからと、一口かじっただけで次のシマウマを襲うライオンはいません。おなかがふくれればそれ以上獲物を襲うことはないのです。
 しかし人間は違います。その違いは、農耕によって人間が貯蔵することを覚えたことによると思われます(思いつきですいません)。食料が貯蔵されることによって、一度に大量に食べることが可能となりましたし、逆に量をコントロールしながら食べるという知恵も身につくことになりました。すなわち、浪費と節約という二つの相反することを同時に身につけたのです。
 ここに書いたように、人間が節約する目的は、結局のところ、それを使うためです。節約してお金を貯めるのは将来の不意の出費に備えるためであるといってもよいでしょう。つまり、節約してお金を貯めるのはいつかそれを使うためなのです。
 では時間の場合はどうかというと、その場合は「ほかの目的で使う」ためであるといえます。通勤時に足早に歩く人が多いのは、歩く時間を節約することで浮いた時間をほかのことに使いたいと思っているからだと考えられます。速く歩くことで1本遅い電車でも間に合うようになれば、その分だけ余計に寝ていることも可能になります。あるいは早めに会社に行ってのんびりすることもできるでしょう。部活をやっている学生であれば、朝練の時間が増えることになります。
 最近いわれている資源の節約はどうかというと、既にあなたが入手している資源の場合は、節約によってそれを使う時期を先延ばしすることができます。逆に、あなたがまだ手に入れていない資源については、あなたが節約することによって他の誰かがそれを使うことになります。
 このことは国単位で考えてみるとよくわかります。既に日本に輸入されている石油は、国民が節約することによって使い切るまでの期間はそれだけ長くなります。その一方で、節約をしない他の国が石油を輸入することになりますから地球全体でみれば消費量は変わらないことになります。資源に関してはすべての国が節約を心がけない限りこうなってしまうのです。
 ですから、あなたが資源を節約すればそれが環境を保護することにつなると思うかもしれませんが、それが実際にどれだけの効果をあげているかは誰にもわからないのです。

 いずれにせよ、節約するということはそれを使うためであるといってもいいと思います。ただし、節約によって貯めたものをいつまでも使わないでおくという選択肢もあります。お金を貯めるのが生き甲斐になって、通帳の残高が増え続けるという場合がそれです。それで最終的にどうなるかというと、本人が死ねば相続税がかかってきますから、税金分とられることになり、結局は損をします。といっても相続税で納めたお金は他の人のために使われることになるので、社会全体で見ればやっぱり使われることになります。そうはいってもなかなか納得できるものではありませんが・・・
 また、経済情勢に不安のある国では、北朝鮮のようにデノミが実施される(多くの場合預金の引き出し制限を伴います)ことも考えられます。個人のレベルではこの場合丸損ということになります。

 節約というのは一見とてもすばらしいことのように思われがちですが、どのような使い方をするかということを問題にしているのであって、金・モノ・時間を消費するということに変わりはありません。これは、人間が生きていく以上、金・モノ・時間を消費せざるを得ないのですからしかたのないことであるといえます。節約によってあなたが生み出した余剰の金とモノは、あなたがいつまでも使わなければ結局は他人が使うことになるという事実に気づいている人はあまりいないと思います。
 だから節約などする必要はないと申し上げているのではありません。節約を否定するつもりはありませんが、節約することを過剰に美化するのはいかがなものかと申し上げているのです。

 景気が悪いのは老人がお金を貯め込んで使おうとしないからだ(貯蓄のかなりの部分が高齢者によるものであることは事実です)という指摘があって、だからなんとかして年寄りにお金を使わせるようにしようという主張があります。昨年実施された後期高齢者医療制度というのも、高齢者の貯蓄を吐き出させることを目的に狙い撃ちにしたのではないかと勘ぐることができるのですが、仮に老人たちが貯金をばんばん使ったとしても景気がよくなることはないと考えるようになりました。
 また、景気が悪いのは消費が減っているからだとも考えていましたが、最近ちょっと考え方が変わってきたのです。
 というのも、日本の国ではモノやサービスを媒介としないお金のやりとりの方が大きくなってしまったからです。モノやサービスを媒介としないお金のやりとりとは何かというと金融と保険と行政組織です。リーマン・ショックの際にさんざん言われた実体を伴わない経済の代表格が金融と保険です。これらは付加価値を生み出さないのですから、経済成長に寄与することはありません。国内の産業に資金を投資すればまだいいのですが、実際にはそうではなく有利な投資先を求めて海外に資金が流出しており、そのあげくに大損したというのが昨年のリーマン・ショックだったのではありませんか?
 また、国民から集められた税金の一部は公共投資のように社会に資金を環流させる目的で使われますが、残りは行政組織を維持するために使われます。その一例として、昨年実施された定額給付金の支給には約800億円の事務経費がかかったといわれています。行政の事務経費がどれだけ巨額になろうとも経済成長に寄与することはありません。なぜかというと、それらはサービスを媒介とする取引ではないからです。
 極端なケースを考えると、何も産業のない山奥の村に立派な役所だけがあったとします。
このような役所が提供する住民サービスが果たして村を潤すでしょうか? そうだというなら、過疎化している地域ほど役所を立派にして大勢の公務員を雇用すればいいことになります。理屈からいけば、彼らの給料が地元を潤すことになるはずです。けれどもそんなことをしたらたちまち財政再建団体に転落してしまうのは目に見えています。つまり、行政の組織がどれだけ巨大なものになろうとも経済成長を促す要因にはならず、むしろ住民が重税にあえぐことになるのです。
 日本の経済における通貨の流通に占めるこれらのモノやサービスを媒介としない産業・組織のウェイトが高くなりすぎた以上、国民の消費を増やしたところで、その大半はこれらの産業・組織に流れて行ってしまうので、国内の経済成長を促す要因にはならないだとうと思われます。それよりも、貯蓄を吐き出してしまうと、将来自分が病気になったとこの治療費が支払えなくなる恐れもあります。最終的には自分の葬式代も残らないことになるかもしれません。

 人間が、自分が使う金・モノ・資源をコントロールするという意味で節約は重要なことです。しかし、それ以外のことに色気を出してしまうと何のための節約なのかわからなくなってしまいます。
 新潟大学では付属図書館の屋上に太陽光発電パネルを設置したという新聞報道がありました。それによって年間70~80万円の電気料が節減できる見通しとのことです。しかし設置費用は約4500万円かかったそうですから、設置費用を回収するには単純計算でも60年以上かかることになります。それよりも、その前に太陽光発電パネルの方が壊れてしまうのではないかと心配してしまいます。新潟大学では、「学生の地球温暖化への関心を高め、大学の取り組みをPRすることが導入の目的」と説明していますから、地球温暖化を阻止するには身銭を切らなければならないというメッセージなのかと思ってしまいます。
 太陽光発電とは火力発電所の稼働率を下げることで石油の消費量の削減につなげるという目的(その割に夜間や天気が悪くて十分な日照が得られないときはどうするのだろうと心配になります)で導入が促されているのだと思っていましたが、そのためには回収の当てもない設備を導入するために資金を費やさなければならないとは思っても見ませんでした。
 そのことで日本の石油の消費量が減ったとしても、その分を他の国が輸入すればそれで終わりです。そのために、日本の国民が身銭を切るというのは国際貢献の新しい形なのかもしれません。
 でも、世界中の誰も感謝してくれないだろうな。
 
by T_am | 2010-01-13 00:10 | その他
 私には結石ができやすいという体質があります。石といっても軽石のように細かい粒が結晶化したものであり、みなさんが想像されるような堅い石ではありません。結石というのは腎臓から膀胱までの尿の経路で結晶化したものをいい、胆嚢にできる胆石とは異なります。
 私の場合、三十歳のときに初めてできて、このときは石が大きくなりすぎていたので超音波による破砕術によってとってもらいました。(カテーテルとワイヤーを尿道口から膀胱を経て尿管の石があるところまで挿入されたときは、麻酔をしていたとはいえ、激痛が腰に走りました。看護婦さんが5人がかりで私の手足を押さえつけていましたから、中には暴れる人もいるのでしょう。処女を失うときの痛みとはこういうものなのかということに思い当たりました。それくらい痛かったのです。)
 一般に結石は直径1cm までの大きさであれば自然排出が可能といわれており、よくビールをたくさん飲むといいというのはおしっこによって流し出すことができるというものです。しかし、それ以上の大きさになると途中でつかえてしまうので、外科的治療法によって取り出さねばなりません。昔はメスを入れる方法しかありませんでしたが、現在では超音波による破砕術などの身体に対する負担の少ない療法が開発され定着しています。
 結石はじっとへばりついていれば全然気づきません。動くと痛みを伴うのです。尿管は腸のように蠕動運動をしており、それによって腎臓でつくられた尿を膀胱に送っています。結石が動くと尿管の壁に当たり、それが痛みをもたらします。その痛みは腰痛として感じられますが、腰の関節による痛みとは異なり、突然発生します。それも石が大きくなればそれだけ痛みもひどいものになっていきます。
 腰のあたりに突然痛みが生じていつまで経っても収まらないというときは結石が疑われるので、泌尿器科を受診し、エコーをかけてもらえば簡単に石を確認することができます。その場合、痛み止めの座薬を挿入すると嘘のように痛みは消えてしまいますし、尿管の蠕動を抑制する薬を飲むのも効果があります。
 私の場合、2回目に結石ができて以来ほぼ数年おきに結石ができてきましたが、すべて薬を飲んでいるうちに自然に石が排出されました。きっと尿管が広がっているのでしょう。
このたびは(お菓子の)柿の種を真ん中で二つに割ったような大きさの石が出ました。今までの石に比べると大きめであり、それだけに出るまでの間苦労がありました。
 結石は尿管から膀胱に排出されるとそれまでの痛みが消えてしまいます。小さな石であればそのままおしっこといっしょに排出されてしまいますが、大きめの石になると尿道につかえたりしてすんなりと流れてはくれません。
 今回の場合、年末に尿道の途中(つまりペニスの中)で異物がつかえた感覚が起こり、我慢できる程度の痛みとおしっこの出が悪くなるという状態が十日間ほど続きました。残尿感があるわりにおしっこがちょろちょろとしか出ないために気分的に晴れないだけでなく、もしもこのまま尿道が塞ってしまったらどうなるのだろうと心配もしたのですが、このたび無事排出されました。実にめでたいといわねばなりません。
 排出されるときは、それまで詰まっていた物が一気に押し流される感じがペニスの中程で起こり、次の瞬間には石が外に出ていました。あれだけ切ない思いをした割にはあっけなく終わったのでなんだか拍子抜けしてしまいました。

 体内で石が結晶化するというのは、その人の体質によるところが大きいようです。できやすい人は私のように何度でもできるのですが、日頃の食生活に注意することでそのリスクを多少なりとも軽減することは可能です。
 まず第一に、水分を多めにとること。ビールを飲む口実にするのもいいでしょう。
 第二に、トイレをなるべく我慢しないこと。
 第三に、みかんなどに含まれるクエン酸は結晶化を抑制する効果があるので、少量でもいいから持続的にとるようにすること。

 それにしても尿管・尿道というのはけっこう広いものなのですね。出てきた石を見て、こんなのがペニスの中でつかえていたのかと思ったら、人体というのは不思議なものだなとつくづく思いました。
 
by T_am | 2010-01-10 10:20 | その他
 藤井財務大臣が辞任しました。通常国会が始まる前に財務大臣が辞任することは「異例」ということですが、あり得ないはずのことが起こったと解釈すべきでしょう。
 そもそも政治家が自分の健康問題を表明することは、自らの政治生命に終止符を打つ行為であるといえます。藤井財務大臣の場合、昨年の衆院選のときに引退する意志を表明していたところ鳩山現総理に説得されて翻意したということですから、政治家であり続けることに執着はなかったと解釈できます。
 そうすると、あとはこの時期(来年度の予算案をつくって通常国会での審議を待つ段階)に辞任することが責任放棄になりかねないにもかかわらず辞任したということですから、藤井大臣の中でそれに見合うだけの理由があったとみるのが妥当でしょう。マスコミはそれを小沢幹事長との確執であると報じていますが、真相はわかりません。
 確実にいえることは、鳩山総理がそれ(この時期に財務大臣が辞任する理由)を取り除くことができなかったということです。つまり、総理大臣の権力がそれほど強くはないということを露呈したわけであり、この内閣にはその命運を握っている誰かが存在しているということになります。
 問題は、総理大臣が替わってもその体質が変わることはないのではないか? というところにあります。はっきり言ってしまうと、選挙の際に大量の票を動員できる組織の意向を汲んだ誰かがこの国を動かしていこうとしているということになります。
 「選挙の際に大量の票を動員できる組織」というのは、自民党政権時代には、農家・医師会・商店街店主・産業界・特定郵便局関係者・遺族会などがありました。自民党の凋落はこれらの組織を切り捨てる政策に舵を切ったことに始まったといえます。民主党政権の誕生は、これらの組織が集票機能を果たさなくなったところで浮動票を取り込んだこと、そして連合という巨大な組織票を手に入れたことが大きく寄与しているといえます。
 
 今回の藤井財務大臣の辞任は、民主党の支持組織の意向を汲み上げて政策として実現するプロセスが機能不全に陥りつつあるという事態を象徴しているように思えます。
 多数派といっても異なる支持組織の集合体にすぎず、その利害が相反するという事態が発生することは当然のことでもあります。政治家というのはその利害を調整するために存在するのであり、その頂点に立つのが総理大臣であるといえます。
 しかし、この時期に財務大臣が辞任することになったというのは、肝心の鳩山総理がその調整能力をもはや失っているというふうに解釈することができると思います。したがって、この内閣はいつ瓦解しても不思議ではないと理解するのが妥当であると思った方がいいといえます。
 ただし、今年の参議院議員選挙の前に内閣が倒れることは民主党にとって大ダメージとなりますから、選挙までは保たせるはずだといっていいと考えることができます。ところが、参議院議員選挙に勝てば鳩山内閣が退陣する理由がなくなりますから、その時点で民主党内において激しい権力争いが起こるものと予想されます。つまり、選挙に勝つためには小沢幹事長が必要であるというのは誰もが認めることですが、選挙に勝った後は、もはや不要と考える勢力が登場するだろうということです。

 いずれにせよ、政治理念(この国をどのような方向に導いていくのか)よりも政局によってこの国の行方が左右されるという状態がまだしばらくは続くということでもあります。
 そのような状況を招いたのは、全体の利益よりも自己(が属する組織)の利益を優先して考えるという私たちに責任があるといえます。政治家や官僚のせいにしている限り、何ら変わらないと思うべきです。
by T_am | 2010-01-07 23:34 | その他
 正月三が日はゴミの収集がないので、ゴミが溜まります。どこの家でもそうだと思いますが、食品のトレイやペットボトルのかさばること、それも年末からの分もあるのですから結構な量になります。それを見ているうちに、ゴミというのは人間の経済活動の状況を写す鏡になるのではないかと思うようになりました。

 スーパーマーケットが新しく出店するときに、その地域の家庭から出るゴミを調べてどの店で買い物をしているかを調べる、という話を聞いたことがあります。今でもそんなことをやっているかどうかは知りませんが、確かにゴミの内容を調べれば、その家がそういう生活をしているかがわかるだろうということは否定できません。
 生鮮食品の場合、ほとんどがトレイに入れてラップをかけていますから、買えば買うほどトレイが増えていくことになります。すなわち、家族の多い家、育ち盛りの子供がいる家などはそうでない家庭に比べてどうしてもゴミの量が増えるはずです。
 また自分で料理をつくると気づくのですが、食事をつくるとどうしても野菜くずなどのゴミが出ます。100% 外食をすればゴミは減るのでしょうが、そんなことをしていたら財布が保たなくなります。つまり、人間が生きていく以上どうしたってゴミが出るのです。 
 ゴミの量が増える要因はいくつか考えられます。

1.家族が増えた。
2.育ち盛りの子供がいる。
3.たくさん買い物をしている。

 逆に、これと反対の状況になればゴミの量はそれだけ減ることになります。

 私が住む新潟市では平成20年6月からゴミ(燃えるゴミ、燃えないゴミ、粗大ゴミの3種類)が有料化されました。それ以外の資源ゴミ(食品トレイなどのプラスチック包装容器、ペットボトル、古新聞、空き缶空き瓶など)は無料のままです。
 市のホームページでは毎月の家庭ゴミ排出量の推移が公表されています。

http://www.city.niigata.jp/info/haiki/gomi/gomiryou.html

 それによれば、ゴミの有料化以来ゴミが減少しているというコメントがつけられています。確かに前年同月と比較するとゴミの量(重量)は減っているのですが、今年の6月以降は微増傾向が続いています。
 
 なぜこんなことを書いているかというと、ゴミの排出量(=焼却量)を減らすためにゴミの有料化をするというのが新潟市の説明であり、最初の1年間はその通りになったのですが、生活実感としてゴミというのはそんなに減るものではないと思うからです。
 ゴミを有料化することはゴミの排出を抑制する効果があるかもしれません。しかし、ゴミが増えたり減ったりする要因はそれ以外にもあるはずです。ざっと考えただけでも次のようなものがあります。

1.人口の変動(21年11月末現在では、新潟市全体で前年同月よりも100人増えています)
2.消費の増減
3.自然災害の後片付け(滅多にあることではありませんが、ゴミは増えます)

 実は、ゴミ袋の有料化よりもこういった要因の方が、ゴミの排出量に及ぼす影響力が強いのではないかと思えてなりません。また、家庭ゴミをコンビニなどのゴミ箱に持ち込んでも家庭ゴミは減ることになります。そこまで図々しい人はそうはいないと思いますが、自家用車の車内ゴミをコンビニのゴミ箱に捨てている人は多いのではないでしょうか(コンビニは大いに迷惑していることと思いますが)。
 しかも、不景気でそれだけ消費が減っているはずなのにゴミが微増しているのですから、景気が回復すればさらにゴミが増えるのではないかとも予想されます。
 こうして考えてくると、ゴミ袋を有料化したことの効果というのは実は測定が非常に難しいといえるのではないかとも思います。せめて新潟市が公表しているゴミの排出量のデータが種類(燃えるゴミ、燃えないゴミ、粗大ゴミ)別に公表されていればいいのですが、燃えるゴミと燃えないゴミの組成割合(平成19年と20年の比較)しか公表されていません。
 ゴミが有料化された最初の年のゴミの排出量が減ったのは粗大ゴミ(前年までは無料だった)を出さなくなったからではないか、つまり家の中に残っているのではないかという疑いを捨てきれないのですが、粗大ゴミの推移が公表されていないので確かめようがありません。
 
 そもそもこういう統計データというのは、自分に都合のいいものを公表し、都合の悪いものは出さないというのが普通ですから、発表を鵜呑みにするのも考えものです。
 ゴミの有料化というのは本当に効果があるのか疑問は残ったままです。
 また、不景気だけれどもゴミの排出量は減っている状態と、ゴミは増えているけれども景気はいいという状態とどちらを選ぶかといわれれば、ほとんどの人は景気がいい方を選択すると思います。(消費が増えてもゴミを減らすことができるという主張は理解に苦しみます。簡易包装に切り替えても結局ゴミが増えることに変わりはないのですから。)
 もともとできもしないことを、さもできるかのように説明して市民に負担させているのではないか? 案外私たちの社会というのは、こういうコスト負担が積み重なって高コスト社会になってしまっているのではないかと思います。それでもまだ財源が足りないと自治体も政府も主張するのですからきりがありません。
 増税して財源不足を補ったとしても、何年かすればまた財源が足りないと言い出すことは過去の経験からして明らかです。日本の人口は減少期に入っており、その分社会的なコストは減っていくはずなのです(人口1億人の国と5千万人の国とでは国家予算の規模が違うということです)が、いっこうにその気配はありません。不思議だと思いませんか?
by T_am | 2010-01-06 23:03 | その他
 正月三が日はゴミの収集がないので、ゴミが溜まります。どこの家でもそうだと思いますが、食品のトレイやペットボトルのかさばること、それも年末からの分もあるのですから結構な量になります。それを見ているうちに、ゴミというのは人間の経済活動の状況を写す鏡になるのではないかと思うようになりました。

 スーパーマーケットが新しく出店するときに、その地域の家庭から出るゴミを調べてどの店で買い物をしているかを調べる、という話を聞いたことがあります。今でもそんなことをやっているかどうかは知りませんが、確かにゴミの内容を調べれば、その家がそういう生活をしているかがわかるだろうということは否定できません。
 生鮮食品の場合、ほとんどがトレイに入れてラップをかけていますから、買えば買うほどトレイが増えていくことになります。すなわち、家族の多い家、育ち盛りの子供がいる家などはそうでない家庭に比べてどうしてもゴミの量が増えるはずです。
 また自分で料理をつくると気づくのですが、食事をつくるとどうしても野菜くずなどのゴミが出ます。100% 外食をすればゴミは減るのでしょうが、そんなことをしていたら財布が保たなくなります。つまり、人間が生きていく以上どうしたってゴミが出るのです。 
 ゴミの量が増える要因はいくつか考えられます。

1.家族が増えた。
2.育ち盛りの子供がいる。
3.たくさん買い物をしている。

 逆に、これと反対の状況になればゴミの量はそれだけ減ることになります。

 私が住む新潟市では平成20年6月からゴミ(燃えるゴミ、燃えないゴミ、粗大ゴミの3種類)が有料化されました。それ以外の資源ゴミ(食品トレイなどのプラスチック包装容器、ペットボトル、古新聞、空き缶空き瓶など)は無料のままです。
 市のホームページでは毎月の家庭ゴミ排出量の推移が公表されています。

http://www.city.niigata.jp/info/haiki/gomi/gomiryou.html

 それによれば、ゴミの有料化以来ゴミが減少しているというコメントがつけられています。確かに前年同月と比較するとゴミの量(重量)は減っているのですが、今年の6月以降は微増傾向が続いています。
 
 なぜこんなことを書いているかというと、ゴミの排出量(=焼却量)を減らすためにゴミの有料化をするというのが新潟市の説明であり、最初の1年間はその通りになったのですが、生活実感としてゴミというのはそんなに減るものではないと思うからです。
 ゴミを有料化することはゴミの排出を抑制する効果があるかもしれません。しかし、ゴミが増えたり減ったりする要因はそれ以外にもあるはずです。ざっと考えただけでも次のようなものがあります。

1.人口の変動(21年11月末現在では、新潟市全体で前年同月よりも100人増えています)
2.消費の増減
3.自然災害の後片付け(滅多にあることではありませんが、ゴミは増えます)

 実は、ゴミ袋の有料化よりもこういった要因の方が、ゴミの排出量に及ぼす影響力が強いのではないかと思えてなりません。また、家庭ゴミをコンビニなどのゴミ箱に持ち込んでも家庭ゴミは減ることになります。そこまで図々しい人はそうはいないと思いますが、自家用車の車内ゴミをコンビニのゴミ箱に捨てている人は多いのではないでしょうか(コンビニは大いに迷惑していることと思いますが)。
 しかも、不景気でそれだけ消費が減っているはずなのにゴミが微増しているのですから、景気が回復すればさらにゴミが増えるのではないかとも予想されます。
 こうして考えてくると、ゴミ袋を有料化したことの効果というのは実は測定が非常に難しいといえるのではないかとも思います。せめて新潟市が公表しているゴミの排出量のデータが種類(燃えるゴミ、燃えないゴミ、粗大ゴミ)別に公表されていればいいのですが、燃えるゴミと燃えないゴミの組成割合(平成19年と20年の比較)しか公表されていません。
 ゴミが有料化された最初の年のゴミの排出量が減ったのは粗大ゴミ(前年までは無料だった)を出さなくなったからではないか、つまり家の中に残っているのではないかという疑いを捨てきれないのですが、粗大ゴミの推移が公表されていないので確かめようがありません。
 
 そもそもこういう統計データというのは、自分に都合のいいものを公表し、都合の悪いものは出さないというのが普通ですから、発表を鵜呑みにするのも考えものです。
 ゴミの有料化というのは本当に効果があるのか疑問は残ったままです。
 また、不景気だけれどもゴミの排出量は減っている状態と、ゴミは増えているけれども景気はいいという状態とどちらを選ぶかといわれれば、ほとんどの人は景気がいい方を選択すると思います。(消費が増えてもゴミを減らすことができるという主張は理解に苦しみます。簡易包装に切り替えても結局ゴミが増えることに変わりはないのですから。)
 もともとできもしないことを、さもできるかのように説明して市民に負担させているのではないか? 案外私たちの社会というのは、こういうコスト負担が積み重なって高コスト社会になってしまっているのではないかと思います。それでもまだ財源が足りないと自治体も政府も主張するのですからきりがありません。
 増税して財源不足を補ったとしても、何年かすればまた財源が足りないと言い出すことは過去の経験からして明らかです。日本の人口は減少期に入っており、その分社会的なコストは減っていくはずなのです(人口1億人の国と5千万人の国とでは国家予算の規模が違うということです)が、いっこうにその気配はありません。不思議だと思いませんか?
by T_am | 2010-01-06 23:01 | その他
 あけましておめでとうございます。
 正月とお盆は多くの人が帰省することから学生時代の同級会が開かれる時期でもあります。同級会に出るといつも思うことがあり、今回はそのことを申し上げたいと思います。

 同級会の様子を写真に撮ってくれる親切な人が毎回何人かいるのですが、デジカメとパソコンが普及したおかげで、後日その写真を見ることが簡単に見ることができるようになりました。従来は、写真を送るといっても郵送では切手代がかかるので、人が撮った写真を見せてもらうということも難しかったのです。今では、ネット上で写真を公開することができるの(「フォト蔵」やインターネットディスクなど)で、重宝しています。
 私の年代は、部長職に就いていたりして、それなりに重責を担っている立場の人が多く、普段の苦労が偲ばれるところです。それだけに会社では、仏頂面をしていたり、悪相をしているだろうと思われるような人でも、同級会の場ではみんなニコニコしているのです。若い頃であれば、酒に酔って口論となることもあったのですが、円満かつ穏やかな雰囲気に終始しています。それだけ歳をとったということなのかもしれませんが、仕事中には見せない顔をしているような気がしてなりません。
 それだけ無防備に接することができるのが同級会のいいところなのでしょう。回を重ねても毎回出席という人もいます。

 同級会である以上、かつての恩師にも声をかけるのですが、流石にご高齢になっているので、しだいに先生方の出席率は下がってきています。もちろん亡くなった方もいらっしゃいますし、闘病中で出席できないという方もいらっしゃいます。こちらが歳をとれば先生方も齢を重ねているのですから無理もないと思います。
 皆さんは当たり前と思うかもしれませんが、先生というのはいつまで経っても「先生」なのですね。今回初めてそのことに気がつきました。
 卒業して社会に出て数十年経つわけですから、もはや先生から教わることは何もない(かもしれない)ので、社会人としては完全に対等の立場にあるといっていいのですが、それでも先生は先生です。
 なぜ相変わらず「先生」なのかというと、こちらが「先生」として遇しているからです。それではなぜ相変わらず「先生」として遇するのかといえば、そういうふうにすることで私たちの社会はうまく回っていくということが幼い頃からの経験知として私たちの身体の中に組み込まれているからだと申し上げる以外ありません。
 すべての人間は平等であるという考え方は近代になって登場したものですが、実際にはこの社会はところどころデコボコしており、完全にフラットというわけではありません。というのは、人間は誰しも、誰かに指示することもあれば誰かに指示されることもあるからです。完全にフラットな関係ではそうはいきません。
 この社会はそうやって回っています。人間的にまるで尊敬できない上司でも、あなたがそのいうことを聞かなければならない理不尽さもこれに由来しているのです。それが理不尽であることに気づいている人、すなわち自分には他人にあれこれ言うだけの資格がないのではないかと思っている人は他人に対しへりくだった態度をとることができるようになりますし、まるで気づいていない人(それが当然であると思っている人)はどんどん傲慢になっていきます。
 それはともかく、私たちが卒業後数十年経っても相変わらず「先生」として遇するが故に、先生方も「先生」として振る舞うのですが、学生時代のように上から目線で物を言うということはありません。先生方もわきまえているのでしょう。それよりも、自分のことを相変わらず「先生」として扱ってくれることを素直に喜んでいるように思われます。だから元気でいるうちは同級会に出席してくれるのかもしれません。

 
by T_am | 2010-01-03 20:27 | その他