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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

<   2009年 12月 ( 11 )   > この月の画像一覧

 先日、友達と食事をしているときに、奥さんから嫌われていると告白した男がいました。なんでも「キモイ!」といわれたそうで、落ち込んでいるのかと思えばそうではなく、むしろ開き直っているようにも見受けられました。
 結婚して子供まで設けている夫に向かって「キモイ!」というのは尋常ではありません。同性としては同情したくなる出来事なのですが、何か理由があるはずだと思いながら、話をしていると一つのことに思い当たりました。

 私もこのブログでかなり理屈っぽいことを書いていますが、この友人はさらに上を行きます。普通の人は理詰めで考えているようでいて、どこかに情緒や論理の飛躍があったりする(私も例外ではありません)のですが、彼は違います。徹底的に理詰めで話しを進めるのです。なかなかできるものではないと感心して話を聞いていました。

 話をするときに、男と女では異なる話法を駆使する傾向があります(もちろん例外もありますが)。概して女の人は相手に共感してもらえるように話を進めます。女の人が、その日の出来事など自分が経験したり遭遇したことを話すのを好きなのは、共感してほしいからなのです。ところが、そのような話の大半は夫にとって取るに足らないことのように思われるので、相槌は打つけれども実は何も聞いていないということが起こります(思い当たることがあるでしょ?)。
 男の場合はどうかというと、相手を説得するように話をする傾向が強いといえます。男のコミュニケーションのかなりの部分は、言った通りに相手に動いてもらうということに費やされます。有無を言わせぬ高圧的な言い方をする人もいますし、友人のように理詰めで話をして納得させようというタイプの人もいます。反則技として、わざと泣き言を言って相手の同情をひくというのもありますが、あまり多用しないほうがいいでしょう。

 理屈で相手を説得するというのは、相手がその通りせざるを得なくなるという長所もありますが、心底そう思っているわけではないという欠点もあります。理屈は確かにその通りなのだけれども腑に落ちない、ということが起こる可能性がかなり高いのです。
 たとえば、社長が従業員に向かって「不況で注文が減っているのは君たちも知っての通りだが、会社の業績はかなり悪化している。経費の節約をして対応してきたが、このままでは倒産することにもなりかねない。そこで冬のボーナスを3割カットさせてもらうことにした。苦しいのはわかるが会社も苦しい。なんとか我慢してもらいたい。」と言う状況を想像してみてください。どこにでもありそうな話です。
 この社長が言っているのは「理屈」であって、従業員の側に反論の余地はありません。嫌々ながらも受け入れざるを得ないのです。

 理詰めで相手を説得するというのは、極端な場合、この社長と従業員のような関係(服従と不満)をもたらすことになります。
 人間というのは不思議なもので、正論を言われるとその通りと思うのですが、同時に心のどこかで反発しているものです。

 その通り 思えば余計に腹が立ち

 冒頭でご紹介した友人の例がまさにこれにあたると思います。ただし、これは推測であって、友人の家庭をみているわけではないので、違ったことが原因である可能性も否定できないのです。たとえば、奥さんに対ししつこく変態プレイを要求したとか・・・

 家族に対し「理詰め」という話法でしか話をしない夫や父親は家族から煙たがられてもしかたがないと思います。そのような話法はコミュニケーションの手法としては中の下といってもいいかもしれません。
 最下等は高圧的一方的に押しつけることであり、理路整然と話をするのはそれよりはましですが、やはり一種の「押しつけ」であって、一緒にいて癒されるということはありません。
 理屈で相手に説明しなければならない局面はありますが、いつもそうだというものでもないでしょう。たまには異なる話法で家族と話をするというのもいいのではないかと思います。

(反省)
 ここまで書いてきて、論理の展開のしかたが、「こういうことをするとこういう不幸なことを招きますよ。だからこうした方がいいですよ。」というものであることに気づきました。この修辞法は要約すると、私の言うことを聞かないと不幸になりますよ、というものですから、善良なる一市民を目指す者としては避けたいところです。
 そこで訂正。

 大村益次郎(戊辰戦争のときの官軍の総司令官。明治二年に暗殺された。司馬遼太郎さんの「花神」の主人公でもあります)は、「お暑うございます」と挨拶されると「夏は暑いのが当たり前です」と答えて相手を閉口させたそうです。世渡り下手もここまで行くと笑い話になってしまいますが、理屈を並べるのは、やはり時と場合を考えてからにした方がいいようです。
 釈迦は人を見て説法のしかたを変えたといいます。せっかくの思いも相手に誤解されたり、伝わらなければ何にもならないと思いませんか?
 
by T_am | 2009-12-30 12:39 | その他
 平成21年11月14日に、APECの最高経営責任者サミットで講演した鳩山総理は「友愛の船」構想を提唱しました。これは自衛官にNGOのメンバーや東アジアの人々が乗り込み、災害救援などの活動に従事するというものだそうです。この構想は1ヶ月後にオバマ大統領が来日した際にも鳩山総理から説明しようとしたところ、オバマ大統領から話の腰を折られたというおまけがついています。
 鳩山総理が提唱する「友愛」という言葉にひっかかるものがあったので、今回調べてみました。

 この場合手っ取り早いのは、やはりご本人の発言や文章にあたることなので、「わがリベラル・友愛革命----鳩山由紀夫(『論座』96年6月号より、要旨)」を読んでみました。以下、その一部を引用します。



(前略)すでにさまざまなところで述べたことだが、私は友愛精神の本質は自己の尊厳の尊重にあると説いている。宇宙の中で生かされていることに感謝し、偶然ではなく必然としてこの世に生かされている自分自身の可能性に目覚め、自己の尊厳を高めることに最大の努力を払う。自己を高めて始めて他者に優しく振る舞うことができる。自愛が利他を生む。意見を異にしてもそれを許容し、品格を信頼し友情を結ぶことができる。これが友愛精神である。



 いかがでしょう。特に難解な言葉が使われているわけではありませんが、私には最初この文章がよくわかりませんでした。その理由として考えられるのは、私の読解力が劣っている。あるいは、筆者の文章がおかしい。そのどちらかです。この場合、前者の可能性が高いことは否定しきれないのですが、鳩山総理がかつて書かれたこの文章を検討してみます。

 まず「自己の尊厳の尊重」という表現と「自己の尊厳を高める」という表現が私には理解できませんでした。「尊厳」という言葉には、尊いものであって侵してはならない、という意味があると思っていました。何が尊厳をもたらすのかというと存在そのものであり、何が尊く侵してはならないのかというと人格になります。すなわち、尊厳という言葉は人格の属性を表すことばであると思っていたのです。
 したがって、尊重するのは人格そのものですし、高めるのも己の人格であると思っていました。
 それでも「自己の尊厳」という表現を「己の人格」と置き換えれば文章の意味が通じるようになるので、勝手にそうすることにしました。
 次に、ひっかかったのが「品格を信頼し友情を結ぶ」という件です。人間でいう品格とは、人格が磨かれることによって自然と身についてくる節度、見識、態度、姿などが見事である様を指す言葉です。あるいは単に品のよさを指す場合もあります。したがって、品格というのも個人の属性を示す言葉であり、人間自身を指すものではないと思っていました。信頼するのはその人自身であり、その人の属性ではないはずです。見た目がかわいいとか弁舌がさわやかであるとか、属性の方を信用してしまうと、たいていは後で後悔することになります。
 それはともかくとして、鳩山由起夫氏が友情を結ぶに値すると考えている人というのは品格を備えた人だということになりますから、そうおいそれといるものではありません。
 
 さらに混乱するのは、「意見を異にしてもそれを許容し、品格を信頼し友情を結ぶことができる」とつながっているところです。前半と後半が並列で「できる」と書かれていますから、どちらも同じ人のことを指しているものと思われます。
 そうすると鳩山由起夫氏が「意見が異なってもそれを許容することができる」人というのは、品格を備えた人に限られることになり、そういう人は世の中に多くはいないということになってしまいます。
 そう考えると、友愛精神というのは一部の限られた人たちの間にのみ成立するものであるということになります。
 その証拠に、鳩山友愛塾(鳩山邦夫氏が塾長代行を勤めている。鳩山由起夫氏も塾長代行であるが現在は求職中とのこと)の設立趣意書には次のように書かれています。



 友愛の淵源は、クーデンホフ・カレルギー伯(汎ヨーロッパ運動主催者)の友愛革命を原点とし、その目的は人類の人格の尊厳を基調としての相互尊重、相互理解、相互扶助であり、人道主義、人格主義、協力主義、そして騎士道、武士道までも包含した謂わば紳士と淑女の人間関係の涵養であり、その核心は母性愛を根源とした人間や自然に優しい世界の醸成であります。



 ここには、友愛の目的は「謂わば紳士と淑女の人間関係の涵養」(「設立趣意書」から引用。以下同じ。)であると明記されています。鳩山友愛塾というのは、そのような「有為の人材を育成」することで「この友愛を規範とし、個の確立をはかり、世界に平和と人類の幸せを実現する為ために設立された」とのことです。
 「有為(ゆうい)の人材」というのは、将来大きな仕事をしそうな才能を持った人のことをいいますから、これも世の中にそう多くはいないことがわかります。

 友愛というのは、分け隔てなく愛を注ぐという意味ですが、鳩山家の人々が考えるのは己の人格を磨いた、いわゆる会員制倶楽部のようなものがあって、そこに所属する人々が友愛の主体であるというもののようです。
 別に、自己を高めなくとも他者に優しく振る舞うことができると思うのですが、この人が友愛という言葉を使うたびに上から目線でものをいわれているような感じがするのはこういうことだったのかと納得がいきました。
by T_am | 2009-12-29 01:06 | その他
 12月24日の共同通信社のサイトで「熱帯林3分の2消失の危機 国際研究チーム試算」という記事が掲載されていました。

 これによると、米国、英国、オーストラリアなどの研究者で組織する国際研究チーム「陸域炭素グループ(TCG)」」というのがあって、そこがまとめたレポートには、「森林に関するデータがそろっている73の途上国について、森林の総面積や経済的に価値がなく、簡単に農地に転換されてしまうような森林の面積、森林保護区の面積などを分析。これまでの各国の森林面積の変化などを加味して、長期的に破壊される危険性が高い森林の面積を推定した」ところ、「現存する熱帯林のうち破壊される危険が高い森林は、アジアの森の57%、中南米は63%、アフリカは67%に達することが判明」したというものです。
 これを読んで大変だと思う方もいらっしゃるでしょう。けれどもこれは「推測」であって、確実にこうなるといっているわけではありません。「破壊される危険が高い」と書いてあるにすぎないのですから。
 そうかといって、そんなことにはならないと否定することもできません。

 熱帯林をどうするかはそこに暮らす人たちが決定権を持っています。そこに住む人たちが、自分たちも飢えることなく豊かな生活を送れるようになりたいと考えることは誰にも止めることはできません。

 先日行われたCOP15ではたいした成果もなかったと報じられていました。その理由の大きなものとして、先進国と発展途上国との意識の違いがあげられています。
 先進国は、過去に自分たちが行ってきた「環境破壊」を反省し、これが今後地球規模で進展するならば気候変動を引き起こし、人類にとって大きな脅威となっていく、という心配をしています。これに対し途上国では、先進国のいう脅威があることは理屈としてわかるが、それ以上に自分たちだって豊かになる権利がある。先進国が環境破壊を行った結果今日の豊かさを享受しているのだから、自分たちに対し、そういうことはやめろというのはおかしいのではないか、と主張しています。
 なんとなくうやむやにされていますが、CO2の排出量は化石燃料(特に石油)の消費量に連動しています。
 現代の文明は石油に依存しているのですから、その社会が豊かになるということはそれだけ多量の石油を消費するということを意味します。
 ガソリンの価格が昨年高騰しました。今は少し落ち着いていますが、かつてのように1リッターあたり100円を切るような水準になることはもうないだろうと思われます。というのは、世界的に石油の需要が伸びているからです。需要が増えれば値段が下がらないのは当然のことであり、その背景には中国やインドの経済成長があります。誤解を招くかもしれませんが、これらの国での石油の需要が伸びたことが、世界全体の石油の消費量を押し上げることになりました。その分CO2の排出量も増えることになるのです。
 だからといって、中国やインドに対して石油の消費を減らすべきだという理屈は成り立ちません。自分たちは湯水のように石油を使っているのですから。
 COP15という会議体は、先進国も石油の使用を制限するようにするから途上国も協力してほしい、ということをCO2の排出量削減というスローガンに託して議論した場であると理解することができます。だからこそ途上国が反発し、中国がそれを上手に利用した結果、会議が紛糾して実質的なことは何もまとまらなかったのです。
 
 話はちょっと寄り道しますが、中国という巨大な国が維持できているのは経済成長を持続しているからです。民族問題、貧富の格差の拡大、官僚組織の腐敗など様々な問題を抱えていながら、あれだけ巨大な国が崩壊しないでいられるのは資本主義を導入し経済成長路線に転換したからです。とりあえず豊かになることができている以上、現体制に対する不満はそれだけ抑えられることになります。
 その代わり中国の経済成長がストップするようなことになると、それまで隠れていた不平不満が一斉に噴き出すことになり、最悪の場合はソ連のように国家が崩壊することになります。
 経済成長を続けるためには、中国が使うことのできる資源が安定的に確保されなければなりません。だから中国は中東やアフリカなどの発展途上国に対し積極的に働きかけているのであり、COP15では中国のこれらの国に対する影響力が強くなっていることがまざまざと見せつけられました。
 今回中国がCO2の削減を表明しましたが、それはGDP対比という計算方法ですから、経済成長が続く限りCO2の排出は増えていくことになります。こういうことを打ち出してきたのは、CO2の排出削減に世界的な関心が高まっているだけに、非協力的であると思われては困るけれども経済成長を放棄するわけにはいかないということから、とりあえず体裁だけ取り繕ってみたというものでしょう。
 本音はCO2の削減などどうでもいいというところにあると思われます。
 こう書くと、中国はけしからんではないかと思われるかもしれませんが、先進国でも本音は似たようなものであるといえます。地球全体での排出量削減が必要であるというのは認めても、自国の削減義務はできるだけ軽いものにしたいという気持ちが先進国の間にはあります。それが自分の国で使うことのできる石油の消費量に結びついてしまうからです。
 
 地球温暖化問題というのは、地球の温室効果が過剰に働いて気候変動を起こすのではないかという懸念を政治が利用したものです。地球が温暖化しているという様々な「証拠」が次々と報告されますが、それに対する反論がまともに取り上げられることがないというのは、この問題がすでに政治問題になってしまっていることを物語っています。
 それでは何が問題視されているのかというと、これまで再三述べてきたように石油問題なのです。石油資源は無限にあるわけではありませんから、いつかは枯渇してしまいます。それは避けられませんが、そうなるまでの間自分たちが使うことのできる石油を確保しておきたい。それには他人に使わせないようにするのが一番であるけれども、石油を使うなというわけにもいかないので、CO2の排出量増大=地球温暖化という構図を持ち出して、だから各国とも石油の消費を抑制しましょうという論理を展開しているのです。ところがそれだけでは賛同を得ることができないものですから、排出権取引という架空の取引によって金儲けができる仕組みが提唱されました。
 考えてみればこれほど奇妙な制度はありません。CO2の排出権が取引されるというのはCO2の排出量が減っていないということを意味します。推進論者は、CO2の削減が進まない事業者や国に対してペナルティを科すことでCO2の削減が進むはずだと主張しています。そこだけみればその通りなのですが、推進論者たちはCO2の排出が人間の経済活動(すなわち石油の消費)によって発生していることに触れていません。つまり工業生産や流通、消費、人の移動という活動が活発に行われる限りCO2は発生し続けるのです。排出権取引によって移動した資金はそこで新たな経済活動の原資となるのですから、それだけ余分にCO2が発生することになり、それでは全体のCO2削減に寄与することにはなりません。
 また、排出権取引制度を設けることで省エネ技術の開発や導入を促すという論理もありますが、エネルギー効率が高まったことによってエネルギーの消費量が減ったという事例は過去に一度もありません。そのことはオフィスのコピー機の性能が高くなればなるほどコピーの枚数が増えるという事実や車の燃費がよくなれば長距離ドライブが増えるということをみればわかることです。
 にもかかわらず、行政府が排出権取引に積極的なのは、取引に伴って手数料を稼ぐことができるからです。つまり金儲けの材料とするために地球温暖化が問題であるといっているのです。
 こういう架空のものを対象にして取引をするというのは健全な姿ではありません。額に汗してお金を稼ぐのではなく、金が金を生む仕組みが蔓延すればそれだけ不幸になる人が増えるという事実を忘れてはなりません。
 地球が温暖化するとこういう被害が発生するということを並べ立てて人を不安にさせておいて、「それを避けるために排出権取引を行いますから協力してください」とか「地球温暖化対策のために環境税を設けますから負担してください」というのは霊感商法の手法と変わりません。政治家や官僚が率先して霊感商法に乗り出そうというのですからもはや世も末といってよいでしょう。

 私たち日本人は豊かな生活を送っています。住居やほとんどの職場では冷暖房が完備されていて暑さ寒さに苦しむことはありません。また、下水道や浄化槽も普及しているので衛生的な生活を送ることができます。休日になれば自動車や飛行機に乗って旅行に出かけることもできます。そういう生活を送ることができるのも、かつてあった自然林を破壊し、山を切り開き、地面をコンクリートとアスファルトで覆うことにしたからです。(養老孟司先生はこれを「都市化」と呼んでいます。)
 そういうことをしてきた私たちが、熱帯林が消失すると蓄えられていたCO2が大量に放出されるのではないかと心配し、これらを保護しなければならないと考えるのは都会人の身勝手というものです。自ら熱帯林に移り住んで森を保護するというのであれば別ですが。
 熱帯林にすむ人々にも豊かになりたいと願う権利はあり、私たちがそれを奪うことは許されません。他人の権利を奪う者は自分の権利が奪われても文句は言えないからです。

 ではどうしたらいいのか?

 結論をいってしまうと、CO2の削減とか地球温暖化とかいうことを気にしないのが一番いいのです。この問題を政治利用する人たちも、金儲けに利用しようともくろんでいる人たちも、庶民の心配につけこんでいるのですから。国民がこの問題に関心を持たなくなれば、そのような動きは衰退していきます。
 地球の温室効果を食い止めるために2050年にはCO2の排出量を80%以下にしなければならないという指摘もあります。理屈の上では毎年4%ずつ減らしていけば40年後には80%削減されることになりますが、所詮は机上の空論です。それは石油の消費量を80%削減することが本当に可能かということを考えればわかります。今の2割しか石油を使わないでこの社会が維持できるとはとても思えないからです。
 CO2の排出量を減らすというのは実は石油を含む化石燃料の消費量を減らすということに等しいのです。でも政府はそういうことをきちんと国民に伝えようとはしません。言えば経済界はもとよりあらゆるところから猛反発を食らうことは確実だからです。
 しかし、CO2が地球温暖化の犯人であるというシナリオから導き出される結論は、もはや石油を使ってはいけないという以外にありえません。そのことは現代の文明社会のあり方を否定して中世の生活様式に戻ろうというようなものです。それが不可能であることは明白です。かといって地球温暖化という危機を煽ることもやめられないので、2050年の削減目標などという意味のないことを持ち出してお茶を濁さざるを得ないのです。
 
 正月を海外で過ごすために成田空港からおよそ4万7千人の人が出国したという報道がありました。その中には、レジ袋削減に協力するためにマイバッグを持ち歩いているという人もいることでしょう。またエコ家電やエコカーに買い換えたという人もいるでしょうし、もしかすると太陽光発電装置を自宅に設置したという人もいるかもしれません。
 ところが、ジェット機が海外に飛ぶために排出するCO2の量はこれらの「努力」を帳消しにしてしまいます。地球温暖化を防ぐために、レジ袋は駄目だけれども海外旅行は構わないというのが私には理解できません。

 雰囲気に流されて、意味のないことに取り組むのはもうやめにしませんか?

 今の生活水準を維持していたい。自分たちの子や孫の世代にも同じ生活水準ができるようにしてやりたい。私たちがそう考えるのであれば、石油資源が残っているうちに代替えエネルギーの技術を確立することに心血を注いだ方がましです。石油を初めとする化石燃料が枯渇してしまえば、人類は薪と炭を燃料にしなければならなくなります。そうなれば車も動きませんし、飛行機も飛ばなくなります。海上輸送は帆船に頼ることになり、陸上輸送は人馬に頼ることになります。中世の生活に逆戻りせざるを得ないのです。

 石油資源の減少がはっきりと目に見えるようになると、おそらく石油の奪い合いが起こると思われます(戦前の日本はアメリカに頼っていた石油の輸入が絶たれたことにより仏領インドシナに軍を進めて石油を確保しようとしました)。
 しかし、紛争や戦争は石油の浪費につながります。それだけ石油が枯渇するXデーの到来が早まることになるのですが、紛争の当事国の指導者たちはそのようには考えません。むしろ競争相手が減れば自分の取り分が増えると考えるのです。
 あるいは、世界の人口が今の半分になればCO2の排出量も(理屈の上では)半分になります。けれども世界大戦でも起こらない限り人口が半減することなどありません。だからといって人口を減らすために戦争を起こすなど言語道断であり、許されるものではありません。

 このように考えてくると、いつか必ず訪れるXデーに備えて代替えエネルギーの開発に優先的に取り組まなければならないことがわかります。
 そのことから目をそらして、金もうけや石油の奪い合いにうつつを抜かしていると、そのツケは高いものになそうです。
 日本だけでみると、これから人口が減少していくという局面に入りつつあることは、むしろ時宜にかなったものであると考えることができます。残り少なくなった化石燃料を少ない人数で分け合うことは十分可能でしょう。それもなくなってしまい、薪と炭に頼る生活を余儀なくされたときには、自然林が再生可能な範囲内で伐採を行い、かつ植林していかなければなりません。そういう時代には、人口が少ないほうが自然にかかる負荷が少なくなります。
 人間も地球上で生きている以上、自然の包容力を超えて人口が増えていくということはありません。現在の人類の総人口は地球という限られた自然のキャパシティを既に超えていると思います。それを可能にしたのは石油や他の化石燃料を活用したからなのですが、それらがなくなれば、人類の総人口は自然のキャパシティの範囲内まで縮小することを迫られます。
 そういう状態になるまでにはまだ時間的な余裕があると思いますが、地球温暖化の方に目が行っているために、エネルギー問題を重視する人はあまり多くありません。

 数十年数百年という長期に渡ってみれば気候は変わって当たり前であり、人類がその変化に介入するというのは無理な相談です。数年おきに発生している冷夏や猛暑、暖冬や豪雪という局地的な気候現象でさえ私たちにはどうすることもできないのです。それなのにもっと大きな地球規模での気候の変化を食い止めることができると考えるのは、地球温暖化という現象の原因がCO2などの温室効果ガスの濃度が高くなっているからだという仮説が正しいと信じられているからです。
 仮にその仮説が正しいとすると、温室効果を食い止めるためにはCO2の濃度を下げなければなりませんが、それは既に述べたように石油などの化石燃料の消費量を劇的に減らさなければならないということです。でも、そういうことは政治家もいいませんし、官僚も口を拭っています。そんなことはできるものではないと誰もがわかっているからです。そこでCO2の排出削減という何だかよくわからない言い方をしてごまかしているわけです。
 できもしないことに巨額の予算をつけるために環境税という新税を設けたり、排出権取引市場を創設して手数料収入を稼ごうというのが日本の温暖化対策論者の本心です。他の先進国ではさらに、自分はともかく他国(特に途上国)の石油消費量を抑制したいというエゴが加わっています。キリスト教を奉じるこれらの人々の中には、たとえばシーシェパードのように、正義のためには自分が何をしようと許されると考えている人たちもいて、事態をややこしいものにしています。
 一方途上国では、先進国から援助を引き出すことには関心があっても(だからCOP15に参加したといえます)、自分たちがCO2の排出削減義務を負うのはまっぴらだと考えていますから、今後各国が共同歩調をとってCO2の排出削減に取り組もうという合意が成立する可能性はきわめて低いと思われます。万一何らかの合意が成立したとしても、それが履行される可能性はきわめて低いと申し上げないわけにはいきません。
 政治家や官僚たちが国民に対し世界の情勢はそのような状況にあることを誠実に打ち明けるとは到底思えません。鳩山内閣は環境税の導入を見送ることにしましたが、諦めたわけではありませんから、いずれまた時機をみて環境税の導入を目論むものと思われます。
 したがって、このことについてもはや右往左往しない、政府やマスコミがいうことを鵜呑みにせずにわからないときは判断を留保する、というのが我が身を守る最善の手段となります。
 私たちがレジ袋をやめてマイバッグを持ち歩いたり、エコ家電・エコカーに買い換えたり、自宅に太陽光発電装置を設置しても、人類が石油を消費する以上世界全体のCO2濃度は確実に増えていきます。私たちが環境税を負担することになってもCO2の排出量が減ることはありません。
 自分が騙されていることに気づかないというところが霊感商法の巧妙かつ悪質なところであり、被害者たちの思考を停止させることで霊感商法は成立します。善良な人ほど自分の思考が停止していることに気がつかないので被害に遭いやすいといえます。
 地球温暖化をめぐる動きを俯瞰してみるとこうなっています。
1.南極の氷やヒマラヤの氷河が溶けているなどの「今起こっている危機」が紹介されています。
2.このままでは大変だということで、各国が掲げたCO2の削減目標はなぜか「15年後の2025年」であったり、「40年後の2050年」であったりしています。これはそれまでの間温暖化の進行が止まらないことを意味します。
3.そして、経済界は自分の国が過大な削減義務を負わされることを警戒しています。

 こうしてみると、大変だと騒いでいる割には、政治家も官僚も経営者たちも温暖化の防止に真剣ではなく、心配しているのは庶民だけであることがわかります。
 その庶民の心配につけ込んでいる人たちがいると考えれば地球温暖化問題が霊感商法のようなものになっているということになりますし、逆に政府や経営者たちはもっと真剣に取り組むべきだと考えることもできます。
 しかし、何度も申し上げますが、そのような善良な人々がどれだけ「自分にできること」をやってCO2の削減に協力してもCO2の排出量が減ることはないのです。まじめに努力することでかえって世の中が悪くなっていくということがあります。教育行政などはその典型的な例ですが、地球温暖化もそうだといえます。
 
by T_am | 2009-12-27 08:37 | その他
 新潟市が大雪となり、早朝から交通機関が混乱しました。新潟というと雪国というイメージがあるようですが、新潟市そのものは雪が積もることが珍しく、ちょっと雪が積もると交通機関が麻痺するのです。
 新潟空港でも欠航が相次ぎました。大阪へ行く用事があったので、朝から空港で飛行機が飛ぶのを待っていた(結局欠航しました)ときに聞いたアナウンスで次のようなものがありました。

 お出迎えのお客様にご案内いたします。千歳空港○○時発●●●便は、新潟空港の除雪が延期されているため千歳空港に引き返しました。ご了承くださいますようお願い申し上げます。
 引き続きご案内申し上げます。新潟空港●●時発千歳空港行き▲▲▲便は欠航いたします。ご搭乗予定のお客様はご了承くださいますようお願い申し上げます。

 了承するという言葉には、「受け入れる」というニュアンスがあります。ですから、「ご了承ください」という場合は、どうか文句を言わないでね、という意味が込められることが多いようです。しかし、いわれる側にすれば、既成事実となっているので「嫌だ」といってもどうしようもありません。空港のカウンターで職員に食って掛かっている人もいましたが、素直に受け入れがたいという気持ちが働いたのだと思います。結局は諦めて帰って行きましたが、こういうときの窓口の職員というのは気の毒だと思いました。
 そう思うと、「ご了承ください」という言葉には「諦めてください」という意味で使う場合もあるのだと気がつきました。

 そういえばこういうアナウンスもありました。

 新潟空港の除雪の完了はさらに2時間遅れて14時となる予定です。新潟空港発7時50分発の大阪伊丹空港行き516便は14時以降の出発を予定しております。ご搭乗をお待ちのお客様にはどうかご理解くださいますようお願いします。

 さすがに「ご了承ください」というのは気が引けたのでしょう。「ご理解ください」という言い方をしていましたが、これには「ごめんね。我慢してね。」という言外のメッセージが込められていたように思います。
 日本語は奥が深いですね。(結局新幹線で大阪まで行きました。)

追記。新潟空港の除雪は結局16時までかかったそうです。7時50分発の大阪行きの機体は昨夜のうちに新潟空港に到着していたのですが、大阪へ飛んでもその後の運行スケジュールに組み込むことができないので、結局欠航になりました。17時25分発の大阪行きは沖縄から飛んできた飛行機が今度は大阪へ向かうという運行スケジュールなので、こちらは無事に飛んだとのことです。
 飛行機というのは1便が欠航すると、その機体を使って運行するすべての路線が欠航せざるを得ないということなのだそうです。
by T_am | 2009-12-18 00:34 | 言葉
 天皇と中国の習近平国家副主席の会見が急遽決まったことを巡る問題について、12月14日の小沢幹事長の記者会見の模様が読売新聞のサイトで詳しく報じられています。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091214-OYT1T00888.htm?from=main4

 著作権の問題があるので、発言の内容はこのサイトを直接ご覧いただくとして、この中で小沢幹事長が指摘していた「天皇の国事行為は内閣の助言と承認で行われる」という条文の解釈について、異論があるので申し上げることにします。
 憲法第三条には、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」と書かれています。国事行為の内容については第七条で規定されており、第1項から第8項までは事実上内閣が決定するところを天皇が遂行することになり、天皇には拒否権がないことがわかります。ところが、第9項の「外国の大使及び公使を接受すること。」および第十項の「儀式を行ふこと。」については、いちいち内閣が天皇に奏上しているわけでないというのが実情でしょう。これらの行為は実務にあたる部分ですから、宮内庁が窓口となって天皇に奏上し、天皇の了承を得て(実際に天皇個人が拒否することはないと思われます)、最終的に内閣に報告するのでしょうが、内閣としても「承認」しないことはない、というのが従来の慣例であっただろうと推察されます。
 憲法の条文を素直に読めば、天皇の意志決定の主体は天皇個人にあるということがわかります。だから内閣は天皇に対し「助言」するのですが、天皇の意志に対して内閣が最終的に拒否権を持っているというふうに解釈するのが自然です。つまり、天皇は自分自身こういうことをやりたいと思っても、内閣が反対すれば押し通すことができないということになります。
 ですから、外国の要人に会うかどうかを決める主体は天皇にあるのであって、内閣が「どこそこの国のナントカいう高官にはあっておいた方がいいですよ」と勧めることはできても、それ以上のことはできないと解釈するべきであると思います。
 ところが小沢幹事長は、外国の要人のうち天皇が誰に面会するかは政府が方針を立てて決定するといっているわけです。あからさまにいえば、政府が決めた人間に天皇が面会するのは当然であり、それは天皇のスケジュールの中で最優先に扱われるべきである、といっているのと同じことになります。
 こういうのを「助言」というのでしょうか? 私の国語感覚では、むしろ「指示」や「命令」という用語を充てた方が適切であると思います。

 それはともかくとして、小沢幹事長の会見の発言を読むと、この人は、自分が習副主席の便宜を図ってやったことが、中国政府に対して自分の政権内での存在感を示したと計算しているのだろうということがわかります。そのことに対し宮内庁長官が異を唱えたのがおもしろくないのでしょう。だから「何とかという宮内庁の役人がどうだこうだ言ったそうだけれども」という上から目線での物言いが口をついて出るのですし、憲法を引き合いに出して自分を正当化しようとするわけです。人間は怒ったときにその本性が現れるものであり、意外と底の浅い人物であることが露呈した記者会見であったと思います。

 そもそも内閣の決定といいますが、その決定をさせたのは誰かといえば小沢幹事長であることは誰もが知っていることです。小沢幹事長が143人もの民主党議員を引き連れて中国に行ったのはなぜかといえば、中国政府に自分の存在感をアピールするためであると理解するのが妥当でしょう。いったいあの訪中団は何だったのでしょうか? 
 小沢幹事長は、習副主席と天皇を会見させるべきだといった事実はない、と否定していますが、その言葉を信じる人間はいませんし、天皇を「政治」利用したという事実は拭えません。国益にかなうならばまだしも小沢一郎個人の利益のためであることも周知の事実です。

 民主主義が存続する条件は、自分と異なる意見の持ち主の存在を受け入れることです。表現の自由はそれを担保するために設けられていると考えることができます。
 もしかしたら、自分が正しいと思っていることが実は間違っているかもしれない。もしかしたら、世の中には自分が考えているよりももっとすばらしい考え方があるかもしれない。このような姿勢がないと、自分の方が正しいと主張して譲らない人同士の対立がやまないことになり、結局は力の強いものが正しいのだという社会に陥ってしまいます。
 小沢一郎という政治家が語る言葉には、自分と意見が異なる人間を認めないという文脈を読み取ることができます。そういう政治家が他人に対し「民主主義を理解していない」と大見得を切るのをみると唖然としてしまいます。

 天皇を天皇たらしめているのは何かというと、血と教育と自覚に尽きるといえます。特に、この自覚がもたらす自制心の強さというのは余人が真似できるものではありません。
 私には天皇を敬うという感覚はありませんが、それでも天皇が国民の目に見えないところで払ってきたであろう努力に対して敬意を払う気持ちはあるのです。
 そういう人を利用して何とも思わない人間に対して憤りを禁じ得ません。
by T_am | 2009-12-15 23:39 | その他
 NHKドラマ「坂の上の雲」がオジサンたちの間で人気を集めているようです。私もオジサンですからもちろん欠かさず観ています。

 こうして映像化された作品を観ていると、この作品のテーマが文明というところにあるのではないかと思ってしまいます。
 司馬遼太郎さんが書いているように、文化が地域や国や宗教に固有のものであるのに対して文明は人類に普遍的なものです。たとえば数学や物理学のような学問を文明といってもよいでしょうし、技術を文明ということもできるでしょう。

 歴史は生き物のようにダイナミックに動いており、年表を覚えるように静止画像としてとらえたのではなかなか理解することができません。だいいち無味乾燥で少しもおもしろくないといえます。
 江戸幕府が行った鎖国は海外の文明から日本を閉ざすものでした。それでも江戸期を通じて長崎の出島から針ほどの光が差し込んできており、それは蘭学という形で広まっていきました。同時に、豊臣政権による米を商品化する制度を受け継いだことで商品経済が、徐々にではありますが、津津浦々にまで浸透していき、読み書きそろばんを通じて庶民の間にも計数感覚を身につける人が増えていくという状況をもたらしました。その結果、江戸時代の中後期には独学で科学的合理的思考法を身につけた日本人も登場するようになりました。
 一方、世界は大航海時代を迎えており、捕鯨や海上貿易はますます盛んになっており、日本は補給基地として各国から注目されるようになり、交易の申し入れをする船が幾度も日本を訪れるようになりました。鎖国を続けていた日本人にとって、これら異国の人間の到来は誠に迷惑なものでした。
 このままでは日本は外国人に蹂躙されてしまうという危機感は攘夷運動に発展していきましたが、彼我の軍事力の差は如何ともしがたく、そのことに早期に気づいた薩摩・長州藩では開国して積極的に外国の文明を取り入れるべきだという思想が起こりました。
 幕末というのは、海外からの圧力に対しあいかわらず日本を閉ざしたままにしておこうという勢力と、開国によって外国の文明を取り入れることが日本を救う道であると信じる勢力の衝突の時代であるとみることができます。片方は徳川家を守ることが日本を守ることだと信じていましたし、もう一方は日本を守るためには徳川家を中心とした体制ではもう駄目だと見切りをつけていたのです。
 
 その上で、日本が外国の文明に向かって扉を開けたのが明治維新であるとすれば、明治期はこれら海外の文明国の中で一人前の存在になろうと日本がけなげな努力を続けた時代であるといえます。
 坂の上の雲ではその様子を三人の主人公を通じて描いています。けれども、作者自身が語っているようにこの三人は決して特別な存在でなく、彼らがいなければほかの誰かが同じようなことをやったに違いないと思われます。というのは、この三人は明治期の日本人の代表として選ばれたのであって、彼らがやり遂げたことは非凡ですが、その思考法は文明そのものだといえるからです。
 秋山好古はコサック騎兵と比較して明らかに劣る戦力をカバーするために当時最新鋭の兵器だった機関銃を導入しましたし、弟の秋山真之はバルチック艦隊を全滅させるために必要なことは全部やっておくという考え方で作戦を立案しました。また、早逝した正岡子規は俳句に写実主義を導入したことで知られています。

 このように文明という視点で日本史を眺めると、日露戦争というのは日本が文明社会に変質していく一連の流れ(それは江戸時代から始まっています)の中で、一つの頂点に位置するといってもよいと思います。
 だからこの小説に描かれた明治という時代はカラッとした明るさに満ちあふれています。従来の明治時代に対するイメージは、天皇という絶対君主制が確立した時代としてとらえることにより、暗く貧しい時代というイメージがつきまとっていました。確かに貧しかったことは事実であり、悲惨な出来事も数多く起こりましたが、同時に明るさもあった時代だったと思います。

 この間の、オバマ大統領がノーベル平和賞の授賞式で行ったスピーチの中で、次のような一節がありました。


Somewhere today, a mother facing punishing poverty still takes the time to teach her child, scrapes together what few coins she has to send that child to school -- because she believes that a cruel world still has a place for that child's dreams.

 今日も世界のどこかで、ひどい貧困の中にあっても子供の勉強を見てやる時間をつくりだし、なけなしの小銭を集めては子供を学校に通わせる母親がいる。彼女の境遇は悲惨でも子供の夢を叶えることはできると信じているからだ。

 
 相変わらずの意訳ですが、オバマ大統領自身こういう母親を気高いと考え、尊敬していることが伺えます。
 司馬遼太郎さん風にいえば、長い坂の上にぽっかりと浮かぶ雲を目指して歩き続けるようなものだということになるのでしょう。そういう人たちがつくりあげた時代が明治という時代であると作者は主張しているのです。
by T_am | 2009-12-15 01:31 | その他
 コペンハーゲンで開かれているGOP15の模様が連日のように報道されています。主に伝えられているのは先進国と新興国の対立であり、この問題に関心のある人ほど、各国がこんなことで地球温暖化が食い止められるのだろうかと心配していることと思います。
 けれども京都議定書のときもそうでしたが、COP15で議論されているのは政治問題であって、科学的な根拠に基づくものではありません。どのような合意が採択されようとも大気中のCO2濃度に与える影響は「不明」なのです。
 シンプルに考えると、CO2を増加させる要因は次のようになります。

・動植物が排出するCO2
・自然火災などによって発生するCO2
・人類が化石燃料を消費して発生させるCO2

 一方CO2を減少させる要因としては次のものがあります。

・植物が吸収するCO2
・海水が吸収するCO2

 地球全体のCO2が増えるのか、それとも減るのかということは、これらをトータルして差引きすればわかるのですが、いずれも推定値しかわかっていません。というのは誰にも測定できないからです。
 わかっているのは、産業革命以来CO2濃度が高くなってきているということであり、その原因として、化石燃料の消費増大と森林破壊が考えられる、というものです。このことに私も異存はありません。
 地球全体でのCO2の排出量と吸収量が均衡すればCO2濃度は横ばいのままとなりますし、吸収量の方が大きければCO2濃度は減少に向かいます。逆に、排出量の方が大きければCO2濃度は高くなっていきます。
 理屈は実に単純であり、そうなると次の関心は、CO2濃度を減少させるには人類がどれだけCO2の排出量を抑制すれば達成できるのか? というただ一点に向けられます。
 ところが、このことを数値で示したものを見たことがありません。

 地球全体のCO2吸収量の見積もりは○○億トンであり、これに対し現在の排出量は●●億トンであると推定される。その差は△△億トンであり、人類が化石燃料を燃やすことによって発生するCO2の合計▲▲億トンの■■%を占める。そのため、人類が年間に消費する化石燃料の量をこの■■%分減らさなければならない。それを石油・石炭・天然ガスに割り当てると、年間に採掘できる原油量の上限は◎◎バレルとなり、石炭は**億トン、天然ガスは??立方メートルだけを採掘するようにすれば、これ以上森林破壊が進まないということを条件に、大気中のCO2の濃度は横ばいとなる。したがって、化石燃料の採掘量をこれ以下にすれば、それだけCO2濃度を低下させることができる。

※あるいは、1年間に上昇するCO2濃度からも1年間に増加したCO2の量△△億トンを求めることもできます。

 本来ならば、最初にこういう論理が提供されてそれから議論がスタートされるべきでしょう。消費できる化石燃料の総量が決まってしまえば、あとはそれをどれだけ効率的に使うによって、化石燃料がそれだけ大勢の人に行き渡ることになります。そうでないと、価格が高騰し、それに耐えられるだけの財力を持った国や企業、個人は化石燃料を使うことができますが、そうでない国や人々には行き渡らないことになります。
 そうならないようにするために、燃費のいい自動車のエンジンをつくる技術をわが国は提供しましょうとか、複数の国が共同で今よりも優れた太陽光発電の技術を開発していきましょうとか、あるいは、大量輸送機関として自動車よりも鉄道の方が優れているので、わが国は高速鉄道の技術を提供しましょうという議論がなされるべきです。理想としては。
 
 しかし、実際に政治家と官僚たちが集まって議論しているのは、自国の削減目標値を実効性のないものにしようということと、とにかくみんなで減らしましょうという根拠のない呼びかけばかりです。その結果、CO2の排出量は少しも減らないということになることは目に見えています。
 この問題は、どの国が(あるいは誰が)CO2をどれだけ削減するかという目標を設定しようということ自体無茶だということを意味しています。新興国にすれば、「自分たちにも経済的に豊かになる権利があるのだし、そもそも現在のCO2濃度は先進国が招いたことではないか。その責任を負うのは先進国であって自分たちではない。」と考えるでしょうし、先進国は先進国で「自分たちも努力をするので、新興国も協力していただきたい。そのための資金援助をするから。森林破壊はこれ以上拡大させないでもらいたい。」と主張しています。
 もはや、問題の重心が地球全体のCO2濃度から自国のCO2削減目標がどこに設定されるのかというところに移っているので、仮にそれが達成できたとしてもCO2濃度に対してどれだけの影響を与えるかは不明です。

 COP15の報道を見聞きするうちに、良心的な人ほど、早く何とかしなければならないと心配することと思います。その結果、省エネ家電に買い換えるとか、エコカーに買い換えるとか、自宅に太陽光発電の設備を設置するだとか、「自分にできることから始めよう」という意識が高まるかもしれません。
 それはとても気高い気持ちであり敬意を払うのですが、「このままだとあなたは不幸になりますよ」といわれて霊験あらたかな壺を買うのと大差ないように思います。こう申し上げると怒られるかもしれませんが、意志決定の根拠がきわめて情緒的であるということは否定できないのです。

 大事なことほど理性的に決断しなければなりません。 

 そういう意味では、COP15という会議は意味のないことを議論しているといえます。政治家も官僚も地球のCO2濃度のことは差し迫った問題ではないという意識でいるからこのような議論の展開になるのですから、普通の人である私たちが心配することはありません。
 たぶん何らかの合意書が採択されるでしょうが、それは少なくとも二十年以上先の目標を決めるものでしょうから、誰も責任を負うつもりがないことは明らかです(少なくともそのとき自分は現役を退いているという人ばかりですから)。誰も責任をとろうとしない人たちによってなされた約束がはたして約束といえるのか、甚だ疑問ですが、その程度のことしか議論していないのがCOP15という会議なのです。
by T_am | 2009-12-13 10:54 | その他
 ニュースをみていると、私たちはどうやら無駄な努力をしているのではないか、と感じるときがあります。
 地球も、私たちが住む日本も、これまでずっと変化を続けてきました。ただし、それは長いスパンでの話です。人間の寿命はせいぜい120年くらいですが、日本は約二千年(縄文時代も含めると一万年近く)の歴史があります。これが地球になると三十数億年という気の遠くなるような長い時間軸を有しています。
 日本の歴史や地球の歴史に比べると、私たちが持っている時間軸の目盛りは余りにも短いといえます。そこで、私たちが様々な出来事について考えるときは自分が持っている時間軸に沿って考えるということになりがちです。
 五十年前、私は幼児でしたので当時の記憶はほとんどありません。物心がついてから今日までの間に自分が経験したり見聞きした出来事に基づいて考えるしかできないのですが、その間に起こった変化というのはタカがしれています。その間の日本の変化や地球の変化も微々たるものですから、今後日本や地球が変わっていくということを受け入れることができないのです。
 人間は誰でも、今の状態がいつまでも続くものと思いがちです。あるいは、過去と今を比較すると、過去の姿の方が正常であり現在は異常であると思い込んでしまうものです。したがって過去の正常な姿に戻すべきである。このように考えてしまう傾向が私たちにはあるのです。

 このことは私にもあてはまりますし、この文章をお読みのあなたにもあてはまることです。たぶんすべての人間にあてはまるといっても間違いではありません。しかしそれらはすべて「錯覚」であるといえるのです。

 今日の私たちが抱えている問題は、すべてこのような「錯覚」が生み出したものだと考えることも可能です。もう少し正確にいうと、地球温暖化、不景気、少子化・人口減少などの現象を私たちが問題だと思っているのは、すべてこのような「錯覚」に基づくものである、ということです。
 この世に存在するもので、永遠に不変というものはありません。どれも少しずつ変化しています。けれども私たちが持っている時間軸の目盛りではそれがわからないことも多いのです。
 これらの現象を、変化を続けている中の一局面であると理解するのか、それとも問題であるととらえるのかによって、私たちのとるべき対応がまるで違ったものになります。
 問題だと認識すれば、では元の正常な状態に戻すにはどうしたらいいのか? という発想に結びつきます。しかし、それらの現象を問題としてとらえるのではなく、変化しつつある中の一局面であると理解すれば、自ずと違った対応が模索されることになるはずです。

 どちらのとらえ方をするかは人によって異なります。また、どちらのとらえ方が正しいのかということは実は誰にもわかりません。私自身は、自分のとらえ方の方が適当ではないかと思っていますが、もしかしたらもっとうまく説明できる論理があるかもしれないとも思っています。
 どちらの考え方も実証不可能な仮説に過ぎないのであり、仮説である以上何が正しいかではなくうまく説明できるのはどれか、という視点で判断する方が妥当です。

 地球温暖化を問題だと考えている人たちは、今の状態は異常であり、あってはならないことであると思っています。これに対し、地球の温暖化といっても長い時間軸の中での変化の一局面であると考える人たちは、そのことによって発生するメリットを活かし、デメリットにより私たちが被る被害を最小限にするにはどうしたらいいか? このような発想をします。
 地球温暖化という言葉を、最近マスコミに取り上げられている他の言葉(たとえば「不景気」「少子高齢化」「人口減少」「新型インフルエンザの流行」「普天間基地の移転」「日米間の核密約」など)に置き換えても同じです。
 
 私がこのように思うのは、世の中には「時代の流れ」というものがあって、それは誰にも止められないと思うからです。
 たとえば、人間は新しい政治体制をつくることができますが、それを永続させることはできません。そのことは歴史をみれば明らかです。ローマ帝国は共和制からスタートしましたが、やがて共和制が行き詰まると皇帝という絶対的な権力を持った中央集権体制に移行しましたが、やがて国そのものが消滅してしまいました。日本の歴史をみても、王制があり、次に武家による封建制が登場し、それが行き詰まると明治政府が誕生して中央集権体制に変わり、現在は中央集権体制を残した民主主義体制に変わっています。今後は地方分権に基づく共和制に変わっていくかもしれません。また、現在の民主主義体制が永遠に続くという保証もどこにもありません。もしかしたら独裁体制に移行する可能性も否定はできないのです。
 このような変化をもたらすものが何であるか、人類はまだ解明できていません。そのような潮流は人間の社会にもありますし、自然界にも存在します。それがもたらす変化は誰にも止めようがないのです。
 潮流を押し止めようとするのは無理な相談であり、美しいと映るかもしれませんが、無駄な努力であるといえます。
 その代わり、潮流に乗ることはできるのであり、自然界ではそれができた生物種だけが生き残ることができたことを忘れてはなりません。これを自然淘汰といいますが、何も過去の出来事ではありません。現在も絶えず進行していることなのです。

 このように考えると、「こうしなければならない」という唯一の正解は存在しないことがわかります。むしろ正解は無数にあるといえますが、共通するのは「潮流に乗っているか」ということです。
 したがって、先ほど列挙した出来事にも、こうすればその問題が解決できるという解答は存在しません。それよりも、単なる変化の一局面に過ぎないと理解して、どうすればその流れに沿って行動できるか、そのように考える方が遙かに合理的であると思います。
 今まで述べてきたことをたとえ話で申し上げると、大河の水が濁っているのは環境上問題であり、あってはならないと考えるようなものです。だからといってすべてを濾過して人が飲めるようにするのが不可能であることはちょっと考えれば誰にでもわかることです。しかし、そのごく一部を人が飲めるようにすることは十分可能です。
 できもしないことに人と物と金を注ぎ込むのは壮大な浪費です。もしかするとその努力の途中で思わぬ技術の発見があるなど副産物もあるかもしれませんが、収支バランスを考えると大幅な持ち出しとなることに変わりはありません。税収よりも赤字国債の発行額の方が大きくなるというのが今のわが国の状況なのですから、資金と人的資源の注ぎ込む方向をそろそろ再考した方がいいと思います。従来の思考法に基づいて今まで一生懸命やってきた結果がこの状態なのですから。
by T_am | 2009-12-12 00:12 | その他
 普天間飛行場(通称「普天間基地」)の移転問題に関するニュースが連日のように報道されています。当初嘉手納基地への統合案を検討していた岡田外相もすっかり憔悴した様子がテレビに映し出されていました。
 あちらを立てればこちらが立たない。この問題はもはや調整のしようがないところにきていると思います。
  
 この問題の背景には基地周辺の騒音被害が深刻なものであること、および在日米軍兵士による犯罪発生率が群を抜いて高いことがあります。しかも日米地位協定の不平等性がそれに拍車をかけています。
 軍事行動に限っていえば、派遣先の国の法律によって阻害されたのでは軍の行動に支障をきたすので、その国の法律の適用を免除するという地位協定が結ばれるのが一般的です。しかし、日米地位協定に関しては軍事行動以外の行動にまで拡大適用されているところがあって、それだけ日本の法律が踏みにじられていると考えることができます。
 きっかけは1995年の米軍兵士による少女暴行事件でした。3人の米軍兵士に対して逮捕状を取っても、起訴までは身柄を引き渡されないという日米地位協定の理不尽さによって駐留米軍に対する大規模な反対運動が起こり、日米双方で協議した結果、十分な代替施設が完成し運用可能になった後に普天間飛行場は日本に返還されるということになりました。その移転先(代替施設)候補地としてキャンプ・シュワブが選ばれたのです。
 しかし海上ヘリポートの建設は環境破壊を伴うという問題もあって一筋縄ではいきません。また莫大な移転費用の負担問題もありますし、普天間飛行場が返還されるときの原状回復義務が米軍にはない(たとえ土壌汚染があっても米軍は関知しないということになる)という問題もあります。さらには広大な飛行場跡地(約24平方キロメートル)の利用を巡る利権の問題もあります。

 このように難題が山積みされて進展がないところに民主党への政権交代が起こり、岡田外相によって普天間飛行場の嘉手納基地への統合案が蒸し返されました。これには嘉手納基地周辺の住民が猛反発していることは周知の通りですし、社民党は社民党で米軍基地の存在そのものを否定しようとしています。その一方でアメリカはキャンプ・シュワブへの移転は日米の合意によるものなのだから早く履行せよと強硬な態度に出ています。
 まさに八方塞がりともいえる状況に陥っているのですが、鳩山総理が何を考えているのかが伝わってきません。いったいどうするつもりなのでしょうか?

 選択肢はいくつかあります。

(その1)
 「政権交代したのだから、今までの話は全部なし。もう一回ゼロからスタートして協議しよう。」とアメリカに呼びかけるということが考えられます。しかしこれは立場が圧倒的に強い方がいえる論理であって、日本の立場はそうではありません。また、沖縄県民の大半も納得しないでしょう。アメリカとの信頼関係は失われますし、沖縄県民の間に不満がくすぶることにもなって鳩山内閣にとって大ダメージを与えることになりそうです。

(その2)
 すべての在日米軍に対し日本からご退場願う、という案も考えられます。社民党の皆様はきっとこうしたいのだろうと思われます。その場合、日米安保条約を一方的に破棄するか、あるいは米軍が果たしていた役割を今後自衛隊が果たすからといってアメリカを説得する方法もあります。その代わり軍事費が大幅に増大することになり、それだけ経済を圧迫します。そもそも集団的自衛権の問題も解決できていないのですから、この案は夢物語のようなものです。
 仮に日米安保条約を破棄して、「今後日本は専守防衛のための軍事力に徹する。防衛に関しては他国の力を借りることはない。」を宣言することは可能かもしれません。しかし、軍備というのは常に仮想敵国を想定して配置していくのが常識ですから、このような態度を日本がとることは、理想的かもしれませんが、国際感覚が欠落していると自ら暴露するようなものです。地理的に見れば、日本列島がロシアと中国に対し蓋をしている格好になっているという事実を忘れてはなりません。中国が台湾に固執し、ロシアが北方領土を絶対に手放そうとしないのは、それらの領土を確保することが太平洋に向かって風穴を開ける効果をもたらすからであり、それだけこの国の島々の軍事的価値は高いのです。
 にもかかわらず、「今後日本は軍事的に孤立するので、どの国の援助もお断りします。」と宣言するのはいかがなものでしょうか。あっという間に尖閣諸島は奪われてしまうでしょうし、それをアメリカが黙ってみているとは思えません。
 ただし、在日米軍基地の問題を根本的に解消しようとするならなばこの方法以外ありません。その代わり日本が抱えることになるリスクも極めて高いといえます。

(その3)
 日米合意に基づいてキャンプ・シュワブへの移転を進めるが、その間に平行して日米地位協定の改正を求め、対等の関係をアメリカとの間で築き上げる努力を続けるという案も考えられます。
 もともと在日米軍に与えられた理不尽ともいえる特権が数々の問題の発端となっているのですから、この改正を求めるのは日本として当然の権利であるといえるでしょう。米艦地位協定がどのようなものであるか知りませんが、おそらく日本と似たり寄ったりではないかと思います。それならば、韓国と共同歩調をとってアメリカと粘り強く交渉していくということも視野の中に入れることも可能ですし、アメリカに与える影響力もそれだけ大きなものになるものと思われます。日本は日本に課せられた義務を誠実に果たしていく覚悟があるが、その代わり日米関係はフィフティ・フィフティだよとアメリカに訴えるやり方がこれです。日米同盟はそれだけ強固なものになる可能性が高い反面、中国との関係がそれだけ冷ややかなものになると予想されます。つまり、日本がアメリカの軍事戦略の中に組み込まれることを自らの意志で選択したことになるという、もはや後戻りのできない一歩を踏み出すことになるのです。
 また、社民党は無視された格好になるので、連立から離脱することも十分考えられます。もっとも今後社民党が勢力を伸ばすということはまず考えられませんし、政党としての存在理由は既に失われているといえます。

 以上、ざっと考えて3つの選択肢を考察してみました。
 鳩山総理は近々アメリカに対し、日本の意志を伝える意向のようですが、いったいどのような考えを伝えるのか興味は尽きません。時間が経てば経つほど火の手は盛んになっていくので、できるだけ早期に沈静化を図った方が内閣の受けるダメージは少なくなります。
どの選択肢を採用してもマイナス効果の方が高いようなので、総理も苦渋の決断をしなければならないと思います。
 それでも、現在もっとも愚かな判断は結論を先送りにすることです。それによって満足する人は誰もいませんし、皆に不満を持たせることになるのですから。
 いずれにせよ、対応を誤れば鳩山内閣の命取りになりかねない問題であるといえます。
by T_am | 2009-12-08 00:13 | その他
 このたびは非常に示唆に富んだメールをいただき、ありがとうございました。いただいたメールについてずっと考えているうちに、マスコミ報道の今後のゆくえということについて思い当たりましたので、今回はそのことについて書きます。
 今回行われた事業仕分けに関する報道について、セイヤさんからのメールを引用させていただきます。


 時折みられるマスコミの記事は「仕分け人らから投げかけられる質問の多くは“主計官による視点」というが、それは違うと思います。全てを聞いているわけではないが、都合30時間くらい聞くことができたが、「質問の多くは」とイッパヒトカラゲにしてはいけませんよ。主計官の視点が正しくかっとうなものであれば良いことだし、少しではあっても主計官視点ではない視点が出てくれば、それこそ強調してあげて報道するのがジャーナリズムの務めでしょう。ま、実際、僕が聞いた部分では主計官作成シートに頼っている会話は少ない。


 やはりね。というのが僕の感想です。誰かが発言したことについて原文にあたらないでマスコミの報道を鵜呑みにするわけにはいかないと思っていましたから。
 マスコミは事実を細切れにして自分に都合のいい部分だけを取捨選択することがあります。
 マスメディアには容量制限という足かせがあることは僕にもわかることです。新聞の紙面は限られていますし、テレビやラジオにしても放送時間が無制限にあるわけではありません。限られた枠の中で事実を伝えるためには、取捨選択が行われるのは必然的であるといえるでしょう。
 けれども、何を切り捨てるか、その上で残った事実をどのような文脈で紡いでいくかによって、送り手の側が読者に与える印象をコントロールすることができる、ということはもっと広く知られてもいいのではないかと思います。そうすることで良心的な送り手であれば自制心が生まれるでしょうし、受け手の側も注意深くニュース報道に接するようになるでしょう。
 けれども、セイヤさんが感じたように、現実はそうではありません。
 送り手の側にある種の先入主があってそれに基づいてニュースが作成されている、と感じることが多々あります。
 このたびの事業仕分けが財務官僚の書いたシナリオに沿って行われたという報道がまさにそれです。どうやらマスコミは政府(すなわち政治家と官僚たち)を悪者にしたいようであり、その傾向は百年以上も前から続いています。国家権力を監視することは政府の悪口をいうことであると思っているのでしょうか。
 もっともマスコミの悪口ばかりをいうのはフェアではないと思います。というのは、情報の受け手である僕たちの側にも問題があるのであって、マスコミはそれに迎合していると考えることもできるからです。
 人は自分のみたいと思うものを見て、聞きたいと思うことが耳に入ってくる生き物です。マスコミといえども企業ですから、自社の売上を上げるには読者を獲得しなければなりません。したがって、大衆が今何を知りたがっているか、ということに対してマスコミはとても敏感です。
 ちょっと前の酒井法子に関する一連の報道がそうでした。あれほど過熱したのは読者(視聴者)がそれを知りたがったからマスコミの方でそれに応えたのだといえます。このように、マスコミが敏感に反応する対象のことを庶民感情といっても間違いではないと思います。

 事業仕分けに関するマスコミの報道から読み取れる文脈は、次の通りです。

1.官僚は悪者である。
2.民主党の政治家は官僚の影響力を極力排除しようとしているが、見かけ倒しに終わるのではないか。
3.仕分け人たちの言動は一方的過ぎるのではないか。

 1.については古典的なイメージであり、事実そのように思われても仕方のない部分が官僚側にあることも事実です。2.は民主党の議員たちの経験不足を危惧する思いと「出る杭はたたく」という意地の悪さからきているものですから、マスコミと大衆が共有している感情であると考えてよいでしょう。
 事業仕分けの中で官僚たちがやり込められるのをみて喝采を送った人も多いのですが、弱いものを贔屓したくなるのも日本人の特徴ですので、3.の感情も芽生えてきました。
女性教育会館の理事長の「私の話も聞いてください。一方的にただ質問に答えろというのは心外です。」という発言は繰り返しテレビに流されました。事業仕分けが「公開裁判」であるという見出しが載りだしたのもこのあたりからです。


 今回の事業仕分けの根幹にあるのは、「金が無いよ、どーして収益を上げないの、事業化して民間営業発展につなげる意識を持たないのか、コスト計算をしてから売上額を算出しなさい」ということ。

 セイヤさんのこの指摘は冷静ですね。 
 事業としてやるからには少なくとも収益が上がるようにしないと成り立たなくなります。どんなに崇高な理念に基づいた事業でも赤字を続けていいというものではありません。建物をつくって行う事業であれば、いずれ必ず修繕が発生します。電球が切れた、トイレが詰まった、空調が動かなくなった、等々。建物というのは小さな修繕が繰り返された後に大規模な修繕が必ず発生します。そのときの原資はどこから持ってくるかというと、毎年の収益を積み立てておいてこれらの原資に充てるのです。
 収益が上がっていないために必要な修繕もできなければ、もちろん再投資もできない企業というのは世の中にいくらでもあります。けれども誰も助けてくれるわけではありません。すべて自分たちで何とかしなければならないのですが、それもできない企業というのは早晩姿を消す運命が待っているといえます。
 国がやる事業も原則的に同じことがいえるのであって、赤字の事業を継続して無制限に税金を投入した結果、財源が不足しているので増税させてもらいます、といわれたのではたまったものではありません。
 とはいえ、セイヤさんの次の指摘には半分賛成半分反対というところです。


 スパコン予算削減が「先端科学予算削減はけしからん!」の象徴となっているが、「クラウドコンピューティング時代に変質して行っているのだから、もうスパコン時代ではないよ」と事業仕分け人は明確に言い切った上で削減意見を述べている。その部分の報道が無い。

 
なるほど。その上であの「世界で二番目ではだめなのですか?」という発言になったわけですね。これなどもマスコミが恣意的にカットした事例ということになるのでしょう。発言者の論旨をねじ曲げるかのようなカット編集は受け手の判断を誤らせるだけで有害であると思います。
 ところで、問題をスパコン予算削減に限るならば、僕も予算削減には反対です。というのは、学問というのはそもそもパトロンがいなければ続けていくことができないからです。金を出す以上何らかの見返りを期待するのは当然でしょうが、それでは学問は育ちません。
 ビジネスマンが好きなのは、「いつまでに」という期限を切って結果を求める管理スタイルです。そのやり方を学者に対して用いても何の成果も上がりません。「がんの特効薬はいつまでにできるんだ。ちゃんとしたスケジュールを出せ。」こういわれてスケジュール表を出せる研究者がいると思いますか?
 それではなぜ、学者に対し研究費を支給するのかというと、学問の副産物として生まれる技術が富を生み出してくれるからです。特に先端技術ともなればそれをさせる周辺技術の裾野は膨大なものになり、先端技術が進化していけばこれらの裾野にある技術も一緒に進化していきます。その代わり、この場合の出資者である文部科学省に収益をもたらしてくれるわけではありません。果実にありつくのは他の人々です。それでも学問に対する研究費を支給し続けないと、いずれ日本はあらゆる技術を外国から買ってこなければならないようになってしまいます。これが予算削減に反対する理由の第一。
 スパコンの予算削減を判定した事業仕分け人の発送はユーザーの視点に立っています。「クラウドコンピューティングの時代に変質していっているのだから」という論理によってそれがわかります。しかし、クラウドコンピューティングというのはネット社会をユーザーから見たときにあたかもクラウド(雲)のように内側がよくわからないという状況を示す用語であって、何かの技術を指す言葉ではありません。一方スパコンはネットワークというよりも計算速度を速めることによって従来は不可能だった計算を可能にするという技術ですから、この二つを比較することはできません。つまり、「クラウドコンピューティング時代に変質して行っているのだから、もうスパコン時代ではない」という仕分け人の発言は論理として成立しないのです。
 ユーザーの視点に立てば、その時代のNo1の性能をもつコンピュータを調達すればいいではないか、何も日本が自前で開発する必要などとこにもないのではないか、という論理を展開するのは当然でしょう。事実、この論理に立って生産拠点を海外に移している企業もたくさんあります。すなわち人件費の安い国で生産すれば、その方が生産コストが下がるので、いいのではないか。何も人件費の高い日本で生産する必要はないはずだ。というものです。
 このような論理は一見パーフェクトのようですが、ユーザーが自由に使えるお金がどこから生まれるのかということが無視されています。日本には資源がないのですから、外国から資源を輸入し加工して輸出することで外貨を稼ぎ、その貿易収支の黒字で今までやってくることができたのです。国内の生産拠点が海外へ流出すればその結果貿易収支は赤字になってしまいます。言い換えればお金が海外へ流出するということですから、その分のお金をどこからか調達しなければなりません。そのことに苦しんでいるのがアメリカであって、ドルが基軸通貨でなければ、諸外国が国債を買ってくれていなければあの国はとっくに破綻しています。
 日本の技術が世界の二流三流の水準であれば、日本製品を買ってくれる国など世界中のどこにもないようになります。値段が安いならまだしも、これだけ高い人件費がかかっているのですから同等の性能の製品であれば日本製品の方がどうしても高くなってしまいます。それでも日本製品を買ってもらうためには、日本が技術力で常に世界の最先端にいなければならないのです。
 こうなるともはや国家戦略の範疇ですから、単なる事業仕分けで扱っていい分野ではなくなるのです。これが予算削減に反対する理由の二番目です。

 話がずいぶん脱線してしまいました。
 今回の事業仕分けに関するマスコミ報道と、事業仕分けそのものをウォッチしていたセイヤさんの話を比較するとマスメディアの限界ということを考えないわけにはいきません。
 ニュースの受け手である読者に迎合しないと売り上げを伸ばすことができないというのがマスコミの宿命であり、しかも媒体の要領が制限されているという制約の下ではマスコミが国民といっしょになってこの国をミスリードしていくリスクが極めて高いといえます。
 ミスリードのうねりに自分が巻き込まれないようにするには、セイヤさんのようにニュース・ソースに直に接するのが一番確実な方法です。けれども現実的にそれは不可能です。そうなると、判断は自分でするから事実をありのままの形で伝えてもらうにはどういう方法があるか、ということになります。
 せめて議論の速記録や録画をネット上に公開してもらえないか、未編集のニュース・ソースをネット上に公開してもらえないか、と今は考えています。そのために有料の会員登録が必要であればそれも致し方ないと思います。
 その一方で新聞やテレビのニュースづくりは従来通りやってもらってかまいません。判断は自分でするので、そのような余計な解説や解釈のついたニュースは不要だからです。
 自分にとって本当に重要な情報は報道されないところにこそある。セイヤさんからもらったメールで、こういうことを考えさせられました。
by T_am | 2009-12-06 15:36 | セイヤさんへの手紙