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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 世論調査の結果が報道されました。ご覧になりましたか?
 今回の調査(共同通信社によるもの)の結果気になったのは次の4点です。

1.鳩山内閣の支持率が相変わらず高い水準(63.7%)にあること。
2.首相個人の偽装献金問題で首相の説明に納得していない人が多い(74.9%)こと。
3.このほど行われた事業仕分けを評価する声が多い(77.3%)こと。
4.民主党のマニフェストにあった各種手当ての実施・高速道路の無料化に対する賛成意見がばらついたこと。

 「民意」とか「国民の総意」というのは単なる言葉の綾であり、そんなものは確定できるものではないとわかっているのですが、今回はこの調査結果を読み解いてみたいと思います。

 独断を恐れずに申し上げるならば、国民(これも言葉の綾です)の多くが望んでいるのは、非自民党的な政治手法であるということに尽きると思います。鳩山内閣を支持する理由のうち最も高いのが「世辞改革を期待する」(37.2%)でした。後はドングリの背比べという結果ですから、政治改革に対する期待が突出しているといえます。
 民主党に政権が移ったというのも、自民党的な政治に辟易した人々が民主党に投票したからなので、民主党がその期待に応え続ける限り「国民」から見放されることはないといえます。評論家やマスコミが鳩山内閣をこき下ろしているにもかかわらず内閣支持率が高いのはなぜかをずっと考えてきたのですが、今回の調査結果を見て、評論家やマスコミの視点と「国民」の視点とが乖離しているということに気づきました。
 今回行われた事業仕分けの評価が高いのも、非自民党的な政治手法を求める国民の意識が調査結果にあらわれたものだと解釈することができます。これだけ高い評価を得たのは議論の内容を完全公開したからです。評価すると回答した人のうち54.8%が、評価する理由として「予算編成の課程を公開することに意義があるから」と答えています。従来は省庁間の折衝という形でしたから何が行われているのか知ることはできませんでした。それを完全公開したのですから、傍聴を希望する人、ネットでの中継を固唾を呑んで見守る人が続出したのも当然でしょう。マスコミも「国民」の知りたいという思いを汲んで、できるだけ「絵になりそうな場面」を選択的に報道したことにより、事業仕分けは大きな「イベント」となりました。
 世論調査の中で、事業仕分けを来年度以降も継続すべきだという声が83.6%もあるのは、このような審議の公開制を確立すべきだという考えによるものだと思われます。まことにその通りであると思います。鳩山総理は、事業仕分けの開始前に、来年も実施することに否定的な見解を述べていました。その理由は明らかではありませんが、推察するに、政務三役が政策を決定して官僚はそれを遂行するという役割分担の確立が民主党の目標ですから、理屈からいえば、来年行われる予算編成には無駄が入り込む余地はないことになります。今回の予算編成は自民党的政治手法から抜け切れていない中で行われたものですから、その中には無駄があるはずだということで事業仕分けが実施されたわけです。そのような理屈からは、例年は事業仕分けを行う必要性がなくなるのだから事業仕分けを実施する必要がないという結論が導かれることになります。
 しかし、実際には来年も事業仕分けを行うべきだとする意見が多数を占めたわけなので、民主党政権がこの結果をどのように受け止めるかが注目されるところです。無視すれば見放されることになりかねませんし、実施すれば政務三役中心の政策(予算編成)に無駄があることが指摘されるのですから、大いに迷うところではないでしょうか。

 「民意」というものがそう単純なものではない証拠に、マニフェストにあった子供手当・農家への個別所得保障・高速道路の無料化・ガソリン税の暫定税率の廃止についての調査では、どの施策も「実行すべきだ」と回答した人が過半数に達しなかったということをみてもわかります。鳩山内閣を支持するといっておきながら個別の政策については慎重になるというのは、まさに「総論賛成各論反対」を絵に描いたような結果となりました。
 これを、改革には賛成するが個人の負担が増えるのは困ると考えている人が多い、というふうに解釈するのがもっとも合理的であろうと思います。このことは、有権者は民主党のマニフェストを支持して投票したわけではない、と理解するのが妥当なところでしょう。では何を望んでいるのかというと、自民党体制が長く続いたことにより政治家と官僚が癒着し国家を食い物にしてきたという構図を改革してほしいということです。
 先の衆議院議員選挙の前に、私は、民主党政権が誕生してもそれはワンポイント・リリーフとしての役割しか期待されていないと考えていました。政権を取ってもそれに伴う実力がないのだからどうせ長続きしないだろうと思っていたのです。今も民主党政権が長期化すればそれだけ弊害が大きくなるという危惧を持っており、適当なタイミングで政権交代してもらわないと大変なことになると思っています。
 しかし、将来の受け皿となるはずの自民党は、党内改革を進めるべき若手議員が落選してしまい、頭が固くなった老人しか残らなかったので、このところまるで精彩を欠いています。したがって、民主党が改革に取り組んでいるという施策を打ち出す限り長期安定政権の実現も夢ではないと思います。
 ただし、オバマ大統領の支持率が徐々に低下しつつあるように、具体的な成果をあげないと内閣支持率は逓減していきます。
 そういう意味で、人間というのは熱しやすく冷めやすいものですから、総理大臣ほど割に合わないポストはないと思います。健康を害しかねないほどの激務に耐えているにもかかわらず、人からほめられることは滅多にありません(悪口を言われるのはしょっちゅうです)し、最後は決まって罵られながら退陣しなければならないのです(例外は小泉元総理だけ)。

 私自身はかつてこの欄でも申し上げたように、民主党が目指す政治改革には反対です。安定多数を誇る政党の国会議員が大量に政府に入り込むというのは、政府を監視する第三者がいなくなるということにつながるからです。歴史をみるとそのような体制の国家の国民はあまり幸せにはなれなかったといわざるを得ません。
 また、温暖化対策税の導入にも反対です。鳩山総理はCO2の大幅(というよりも無謀な)削減を表明していますが、全く意味のないことに国家のリソースをつぎ込もうとしています。そのあげく排出権という架空のものに対する取引市場を制度化しようというのですから、リーマンショックからいったい何を学んだのかといいたくなります。あれほど「実体経済」という言葉が使われていたではありませんか。リーマンショックとはひらたくいえば、金儲けのために虚構のシステムにお金をつぎ込んだ挙げ句罰が当たったというだけのことです。CO2の排出権という架空のものを取引の対象とするシステムをつくって、それで本当にCO2の排出量が減ると考えているのであれば、その頭の悪さはもはや救いがたいといえます。
 もっとも人間は、自分を納得させるために自分をも騙そうとする生き物ですから、排出権取引市場の創設をもくろむ人たちの頭の片隅では、排出権取引を制度化してもCO2は減らないと気づいているはずです。CO2を減らそうとするならば、人間の活動を量的に縮小することが避けられないのです。1億人いれば1億人分のCO2が排出されます。経済が高度化すればそれだけ一人あたりの排出量は増えていきます。誰だって自分の生活レベルを落とすのは嫌ですから、全体のCO2排出量を減らそうとするならば人口が減る以外に方法はないのです。
 省エネ製品や太陽光発電がもっと普及すればCO2の削減が可能になるのではないかと思っている人がいるかもしれませんが、今の日本は世界でもっとも省エネが普及している国であるにもかかわらず、CO2の排出量がずっと増え続けているという事実を考えれば、それはまやかしであることがわかります。誰でも現状に満足するのではなく、もっと快適な生活を望んでいる以上CO2が減ることは絶対にないと断言できるのです。
 そんなものにいくら資金をつぎ込んでも何にもなりません。したがって温暖化対策税というのは無駄なお金の使い道の典型であるといえます。一部の人の金儲けには寄与するかもしれませんが、大多数の人はその人たちに貢ぐために税負担をすることになるのです。

 このように、私の考えは「民意」とはかけ離れており、民主党政権はまだ当分の間続くものと思われます。
by T_am | 2009-11-30 23:02 | その他
 私たちが生きていくうえで、私であることを証明しなければならない状況が発生することがあります。「本人確認」のために役所や銀行の窓口で運転免許証などを提示させるのがこれです。

 個人を特定する手段として通常用いられているのは、住所と氏名です。氏名だけでは同姓同名ということもありますが、住所と組み合わせることにより、その組み合わせに該当する人は世界中に一人しかいないということになります。
 ただし、これは個人を特定する手段、すなわち自分を他人と区別するための手段に過ぎないので、他人による「なりすまし」を防ぐことはできません。「なりすまし」による被害の例としては、自分が知らないうちに結婚していることになっていた、というのがあります。あるいは、金銭消費貸借契約書の連帯保証人に妻の名前をかかなければならないが、妻がとても承知してくれそうもないという場合、他人に署名を代筆してもらうということも考えられます。
 このような「なりすまし」を防ぐためには、今その場に存在する人間は間違いなく自分であると証明する手段が別に用意されなければなりません。
 そのためのツールとして、運転免許証や健康保険証、学生証のような「この世に一つしか存在しない物質」が用いられています。印鑑証明書+実印という組み合わせも法律の世界ではよく用いられています。これらの身分証明書を他人に提示することで、自分が間違いなく本人であることを納得してもらうことができる、ということになっているのです。
 この仕組みが問題なく機能するためには、「これらのツールを携行しているのは本人以外にいるはずがない」ということが前提となっています。このことは、これらのツールを他人に貸し与えてはならないという「常識」によってのみかろうじて支えられています。
 しかし、現実には印鑑証明と実印は勝手に持ち出されるということが至る処で行われていますし、運転免許証なども紛失すればそれで終わりです。また世間知らずの学生が自分の健康保険証を他人に貸したりするということもあるでしょう。その場合に自分が蒙った被害は自分の責任において解決しなければならない、というのが原則です。

 このような物質による証明手段のほかに、近年では「本人しか知り得ない情報による証明」という手法の採用が増えています。
 そのうち一番身近なのはパスワードでしょう。
 パソコンを立ち上げるときにパスワードを入力するというのは、セキュリティに無関心でない企業であればどこでも行われていることです。また、4桁の暗証番号がキャッシュカードに設けられているのもそうです。
 このような情報による証明という手法も、それを知っているのは本人しかいない、という前提に基づいて成立しています。ですから、本人しか知らないはずの情報が他人に漏れてしまうと、「なりすまし」が起こる危険性が高くなります。

 考えてみれば物質や情報はなくしたり盗まれたりする可能性が排除できません。そこで「なりすまし」を防止する究極の手法として本人の身体を用いる方法が開発・実用化されています。センサーを使って指紋や声紋・虹彩などをあらかじめ登録しておき、その都度照合するというものです。他人がこれをまねるというのは極めて難しいので、とても有効な手法であるといえますが、センサーが壊れたり、プログラムに不具合があってシステムがクラッシュしてしまうと、識別そのものができなくなるという弱点を抱えています。私のパソコンには指紋識別装置がついていますが、OSをVISTAからWindows7にアップグレードしてしばらくしたら識別システムがクラッシュしてしまいました。結局Windowsが立ち上がらなくなってしまったのでやむなくVISTAに戻すことになりました。指紋識別装置のWindows7用のドライバが提供されていないことが原因なのですが、精巧なシステムほど案外脆いということがわかったように思います。

 閑話休題。ところで、なぜ私が私であることの証明が要求されるのでしょうか? 思いつくのは次の二つの条件が重なった場合です。
 第一に、それを行使できる権利を持っている人が制限されていて、あなた自身がそのメンバーであること。そして第二に、システムにとって権利を行使するメンバーが記号であること。当然あなたも記号であるとみなされているということになります。
 どういうことか、いくつか例を挙げて説明します。
 たとえば店へ行って買い物をするという権利は、代金を支払う能力があれば誰にでも認められてものですから本人確認を求められることはありません。しかし、酒やタバコを買う場合本身分証明書の提示を求めることがあるといわれています。これは、未成年に酒やタバコを売ってはならないとされているからです。スーパーやコンビニの店員にとって来店客は名前も知らない単なる「客」という記号に過ぎないのですが、通常は大人と子供の区別がつくので大人に対して身分証明書の提示を提示を求めることはしません。提示を求めるのはその客が未成年ではないかと疑われるときです。つまり身分証明書の提示は販売を拒否する口実として使われているのです。
 役所に住民票をもらいに行くときに、窓口で運転免許証などの本人であることを証明する書類の提示が必要となりますが、それというのも、住民票が誰彼構わず発行していいというものではないことと、あなたが(ということは私も)窓口の役人にとって単なる「住人」という記号に過ぎないという二つの条件が重なっているからです。
 これはキャッシュカードでお金をおろす場合も同様です。ATMでお金を引き出すことができる人は限られています。しかも機械にとって目の前の人間は単なる記号ですから、それが何者であるかを識別する必要があり(そのためにキャッシュカードがあります)、なおかつそれが間違いなく本人であることを確認(暗証番号はそのためにあります)しないとお金を出すわけにはいかないのです。
 システムにとって、お金をおろそうとしたり住民票の交付を要求する人間が現れたときに、その要求を受け入れてもよい相手かどうかを判断するために、相手に対して自分であることの証明を求め、それがあらかじめ登録されている本人と合致した場合に、システムはその要求を受け入れる。こう考えてよろしいかと思います。

 かねてから議論されている国民総背番号制はこの仕組みを行政全般に広げようというものです。現在は、医療(健康保険証)・警察(運転免許証)・労働保険(雇用保険)・年金(年金手帳)・戸籍(戸籍謄本と住民台帳)などの分野においてそれぞれ所轄官庁が別個に管理しているために、ある意味重複が起こっています。国民背番号制は国民一人一人に番号を割りふり、その番号によって個人を識別しようというのですから、実現すれば行政の事務コストは大幅に削減することができることになります。その代わり、自分の番号が誰かに盗まれたときに発生する被害はそれだけ大きなものになりますし、政府がその気になれば国民を監視する強固な体制を築き上げることも可能となります。
 今回の事業仕分けを通じて提起された問題のひとつに、行政が負担している事務コストが膨大な金額に登ることがありました。それは官庁が行政法人に発注する事業が再委託されることを前提にしている(受託した公益法人は自分のところの人件費分を引いて他の機関に下請けに出しているというもので、これを「中抜き」というそうです)のですが、それ以外にも各省庁が同じことをバラバラにやっているというムダも指摘されていました。
 国民総背番号制はそれを解消する切り札となる可能性が高いのですが、その代償も高いものになると予想されます。一人一人の人間は善良な部分もあり、利害得失が絡まなければ人間は信頼できると思いますが、いった組織の中に組み込まれてしまうとこの限りではありません。もともと人間は他人を記号として扱うときに、いくらでも冷淡になれるものです。その傾向は濃淡の差はあってもすべての人間にみられることですから、国民総背番号制という画期的なシステムを導入することで、自分を単なる記号として扱うかもしれない他人に対し、自分のすべての権利の管理を委ねる気にはなれません。すべての組織人が善良で自己の利益よりも公共の利益を優先させるというのでれば別ですが、そんなことは望むだけムダというものです。

 さて、現代社会において自分が自分であると証明することは自分の権利を行使するために必要であると申し上げました。私たちは、自分で望んでいないにもかかわらず、システムから記号として扱われています。個人がシステムと向き合う限り、どこまで行っても記号であることから解放されません。そして私たちが記号である限り、システムから理不尽な扱いを受ける危険性を抱えています。それは自己の権利の行使とは異なる次元の出来事です。
 人間にとって記号とは、その存在を認識してはいるが具体的な理解を伴わないというものです。したがって、数式を扱うように記号である人間の運命を簡単に左右することに何のためらいも覚えないようになるのです。
 たとえば政治家や官僚にとっての「国民」という言葉、マスメディアにおける「読者」や「視聴者」という言葉が記号となります。また企業にとって「社員」というときも記号として用いられていますし、中には「顧客」という言葉も記号として扱っている企業もなります。これらに共通するのは、自分たちとは異なるなんだかぼやーっとした存在をひとくくりにして呼んでいるというものです。
 近代社会は、個人を記号として扱おうとするシステムに対し、戦って自己の権利を勝ち取るということの繰り返しの上に成立していると考えられます。日本はどちらかというとその例外に属す国であるといってよいでしょう。だから今日保証されている様々な自由が、他人によって奪われるかもしれないなどとは誰も考えないのです。

 幸いなことに、私が私であることを証明する必要のない人たちというのも存在します。それは家族であり、親戚であり、友人でもあります。これらの人々にとって私は記号ではなく生身の個人ですから、そもそも自分が何者であるかを証明する必要がないのです。
 そういう人たちといっしょにいると、とても気持ちが休まるので、そういう人を増やしていくことが自分をハッピーにする方法ではないかと思います。
 考えてみると、自分を記号としてではなく生身の人間として理解してくれるというのは、自分もまた相手に対してそのように接しているということの裏返しであるといえます。
 したがって、他人を記号として扱う者は自分が記号として扱われても文句はいえない、他人を生身の人間として接する者は自分もそのように接してもらえる、ということに行き当たります。
 私が私であることの証明を絶えず要求される社会というのは住み心地のいいものでないことは確かであるといえます。
by T_am | 2009-11-29 11:21 | その他
 事業仕分けの内容が完全公開されましたが、それを逐一ご覧になった方はそういないのではないかと思います。誰でもそれほど暇があるわけではありませんよね。ほとんどの人が新聞やテレビのニュースによる断片的な報道をご覧になっていることでしょう。かくいう私もそうですが、今回はそのことを踏まえて考えてみたいと思います。

 従来の予算折衝の手法と異なるのは、次の2点に尽きると思います。

1.仕分け人と呼ばれる人たちが、予算の削減ありきで議論していること。
2.そのために議論の内容が公開されていること。

 事業仕分けという手法が法に基づくものではなく、そこでの結論も強制力を持たないとはいえ、衆人環視の下で「廃止」とか「見直し」という結論が出されればそれを無視することはできなくなります。この後どのように予算編成が行われるのかは知りませんが、財務省にすれば財政支出を削る格好の材料を得たことになります。
 また、民主党にすれば、ムダな予算を削るということで取り組んでいるのですから、正義は自分たちにあり、これに抵抗する官僚たちは悪であるという構図ができあがっている点が大きな追い風になっています。今回の事業仕分けによってどこまで概算請求の削減ができるかわかりませんが、議論が完全公開されたことで関心を集めていることは否定できません。
 しかし、鳩山総理が認めているように、事業仕分けという手法は今年限りのものと思って間違いないでしょう。来年になれば事情が変わってくるからです。というのも、今年であれば、脱官僚が徹底していない段階での予算請求なので、ダがあるという理屈が成り立ちますが、来年はそうはいきません。脱官僚を謳って、実権を大臣・副大臣・政務官に集中させる体制をつくっているのですから、その体制下でつくられた事業計画案にムダがあるはずがありません。仮に、来年も事業仕分けを実施して予算のムダを正すということが行われるのであれば、それは民主党の政権運営を自ら否定するにつながるからです。
 このように今年限りの事業仕分けなのですから、できる限り大きな成果を上げたいというのが民主党の本音でしょう。削減できる金額が大きくなればなるほど、従来の体制に問題があったということになり、それを糺すことで新しい体制の正しさがアピールできるわけです。
 それだけにあざといことも行われやすいといえます。
 今回、仕分け人たちが用いた論理は経済的合理性というものでした。その事業がどれだけ効果を上げたのかを徹底的に追求することで、事業そのものの正当性に疑問符を突きつけるという手法は、ときに説明する側の反発を招き、思わぬ「見せ場」も提供することとなりました。仕分け人たちの賢いところは、このような質問を浴びせることで、事業そのものが大して効果を上げていないことを官僚たちに答えさせ、作業を見守る第三者の中に「廃止」や「見直し」が当然であるという雰囲気をつくりあげたというところでしょう。そのために、答弁する側に対し、質問に対する回答以外の発言を許さないという姿勢を貫きました。誘導尋問であると非難されてもしかたのない進め方ですが、予算のムダを削減するという錦の御旗が仕分け人たちにある以上、実に巧妙なやり方であるといえます。

 今回多用された「費用対効果」というとらえ方は、その論理に立つ限り何人も反論できないという利点があります。しかし、よく考えてみると、その事業がどれだけの経済効果をもたらしたかということについては誰にも測定できないということもわかるのです。
 たとえば、麻生政権が実施した家電のエコポイント制度について、どれだけ経済効果があったか測定できる人がいるでしょうか? 確かに一時期家電量販店の売上高は盛り返しましたが、大手企業の業績をみると、むしろ売上高で前年実績を割っている企業が多いのも事実です。
 また、高速道路の通行料金の土日千円はどうでしょうか? 土日の通行量が増えたことで、サービスエリア施設の売上高は増えているでのしょうが、逆にCO2の排出量も増えているはずなので、CO2の削減という面での支出が増えることになりそうです。
 科学の実験であれば、その結果がどのようなものであったかについて厳密に測定することが可能でしょうが、社会科学の領域においてはそのような正確な測定というのは不可能です。唯一可能であるのは、こうだろうという「推測」であって、それが正しいかどうかを検証する術はありません。
 つまり、私たちは不確かなものを経済効果といっているに過ぎないのです。正しい稼働なのかもわからないものを私たちは鵜呑みにしてきました。本四連絡橋やアクアラインの建設は、こららの橋をつくることによって自動車の交通量はこうなるという予測が行われ、それがもたらす経済効果はこうなるということで、巨費を投じてこれらの橋を建設したのです。そのことがムダであったとはいいませんが、交通量が当初の予測よりも下回っており、そのために料金値下げする羽目になったのは記憶に新しいところです。

 仕分け人たちが、事業の正当性を判別するために、その事業の費用対効果を取り上げるというのに私は違和感を覚えます。正確かどうか誰にもわからないものを根拠に正当性を判断するというのは、アクアラインや本四連絡橋をみてわかるように、とても危険なことであると思います。
 さらにいえば、このような経済の原理だけで判断できない分野が「政治」にはあるはずだということもいえます。スーパーコンピュータは予算の大幅削減、ロケットの開発は来年度予算から見送りということになってしまいましたが、これらの事業の成果物である「ロケット」や「スーパーコンピュータ」がどのような経済効果をもたらすのかと訊かれれば、そんなものはない、といわざるを得ないでしょう。しかし、それらの先端技術を実現可能にするためには周辺技術も一緒に進歩していかなければなりません。この周辺技術が産業界にもたらす影響というのは大きなものがあるのです。
 さらにいえば、そのような技術者を育成するというのも必要不可欠なのですが、そのような視点は「費用対効果」という座標軸上には存在しません。「世界第二位で何か問題があるのですか?」という質問があったとのことですが、どこに価値を置いて考えているのかということが明白になっていると思います。
 企業の管理者や経営コンサルタントであれば、このような経済的合理性を座標軸にして判断するという姿勢が必要でしょうが、政治というのはもっと高い次元で物事をみなければならない分野です。

 事業仕分けというのは、イベントとしてはとても面白い見せ物でしたが、こんな調子で何でも決められたらこの国はずいぶんと息苦しい国になるのだろうなと思ってなりません。
 事業そのものの妥当性を議論することも必要でしょうが、日本が抱える問題は、むしろ事業を実現させる手法にあると思っています。
 今年支給された定額給付金の財源はおよそ2兆円という話でしたが、そのための事務経費はおよそ800億円とのことです。エコポイントと商品の交換やエコカーの購入補助金の支給についても事務経費が発生しているはずです。それらがスムーズに行われているかというと。どうもそうではないようです。
 政府が予算を計上して行う事業はすべて事務経費が伴います。もちろんそれも含めて予算計上されているはずなのですが、事務処理が複雑で手間のかかるものであれば、事務経費が占める割合もそれだけ高いものになり、結果として経済に及ぼす効果はそれだけ減ってしまうことになります。
 また事業によっては、外郭団体や独立行政法人を経由するものもあり、その分だけ経費が上積みされることになります。各省庁が外部に委託している調査もそうです。委託先は自分が必要な経費を確保した上で、作業をさらに下請けに出す場合があり、そうなるとなにもわざわざそんなところを経由する必要はないのではないかと思ってしまうような「調査」がずいぶんあるように思います。A省庁から某研究所に対し1千万円で発注された調査を、某研究所は民間の調査会社に三百万円で下請けに出し、そこからさらに別な会社に対し六十万円で孫請けに出す、ということだってあるわけです。
 結局それらの委託作業は、天下りしたOBの人件費を捻出するために行われているようなものです。実際に作業を行うところにもっと安い値段で直接発注すれば税金の無駄遣いもそれだけ削減できるはずだと思うのですがいかがでしょうか。
 そのためには、同期間の出世レースの中で最終的に事務次官だけが生き残り、後は全部定年前に退職しなければならないという現在のあり方を変えていく必要があります。そういうところにメスを入れないで、単に天下り禁止といったのでは誰もいうことをききません。

 政府が行う事業の中にはムダなものがあると思いますし、崇高な理念に基づいて実施されている事業でもムダな経費の使い方をしている場合があると思います。そういう実態に手をつけないでおいて、予算のばらまきを行い、そのあげくにこのままでは赤字国債が増える一方であるという理由で増税が必要であるというのは、何か間違っていると思います。 どうも財務省は自分たちの権力を強化するために増税を持ち出しているのではないか?増税によって財源が増えても、同じような税金の使われ方がされる限り、たいして効果があがらないまま再び財源不足に陥るような事態になるのだろうと思います。
by T_am | 2009-11-22 17:13 | その他
 11月8日付けの朝日新聞に政府がやろうとしているたばこ増税を歓迎する社説が掲載されました。読んでいて呆れてしまいましたので、少し長くなりますがその全文を引用します。


たばこ増税―結果は減収でも大歓迎
 国民の健康を守るため、たばこの税金を大幅に上げて、欧州諸国並みの価格にする。
 厚生労働省の要請を受けて、政府税制調査会での議論が始まった。財源ではなく、健康問題としてたばこの増税が議論されるのは初めてのことだ。
 たばこは肺がんだけでなく、心筋梗塞(こうそく)などさまざまな病気の原因になる。しかも、吸う本人だけでなく、周囲の人の健康を害し、とりわけ子どもへの被害は深刻だ。
 国民の健康のためには、価格を上げて消費を減らすなどの対策が重要だ。だが、自民党政権下では、税収を確保したい財政当局やたばこ産業を背景にした政治家たちによって、消費減につながる対策は阻まれてきた。
 鳩山由紀夫首相は「環境や人間の体の面から、増税がありうべしかなと思う」と後押しする考えを明らかにしている。今こそ、国民の健康を守るために、思い切ってカジを切るときだ。
 日本人男性の喫煙率は、10年前に5割を切り、徐々に下がってきてはいるものの、なお約4割で国際的にも非常に高い。女性は約1割と低いが、若い女性では増えて、全体では横ばいを続けている。喫煙大国といっていい。
 その背景には、たばこ価格の安さがあるに違いない。20本入りたばこ1箱は、英国で約850円、フランスで約550円と、日本の300円に比べて、円高を考慮してもはるかに高い。
 日本も批准した世界保健機関(WHO)のたばこ規制枠組み条約でも、喫煙率を下げるには、価格を上げることが不可欠とされている。
 財政当局には、増税で価格が上がり消費が減れば、現在約2兆円の税収が減るとの心配が当然あるだろう。
 しかし、厚労省の科学研究によれば、たばこによる病気の治療費は毎年1兆3千億円、労働力の損失や火災による損害などを含めると、損失は5兆~7兆円に上る。人々が健康になることも考えれば、たばこ消費が減っても得られるものの方がはるかに大きい。
 喫煙者の8割は禁煙を望んでおり、また1箱500円なら5割強、1千円なら約8割の人がたばこをやめるという調査結果もある。とくに若者は手を出しにくくなるに違いない。
 600円から段階的に上げる案も出ているが、本当に効果を考えるなら、1箱1千円も十分に検討に値する。
 もう一つ重要なのは、民主党の政策集にある通り、たばこ産業の「健全な発展と財源確保」を目的とする四半世紀前のたばこ事業法を廃止し、健康を守ることを目的とする新しいたばこ規制法をつくることだ。
 政府が日本たばこ産業(JT)の大株主であるのは、今の時代にふさわしいことだろうか。株を売却すれば、貴重な財源になるはずだ。



 いい機会なので、ひとつひとつ検証していきます。
 まず、たばこは健康に害を及ぼすということに異論はありませんが、喫煙者として、自分のことは自分で決めるのでほっといてくれ、というのが偽らざる気持ちです。「たばこが様々な病気の原因になる」というのは、正確にいうと、「様々な病気の原因になることがある」というものであって、喫煙者でも病気にかかっていない人はいくらでもいます。したがって、このような書き方は事実をねじ曲げるものであるといえます。
 「しかも、吸う本人だけでなく、周囲の人の健康を害し、とりわけ子どもへの被害は深刻だ。」とあるのは、副流煙のことを指しているのでしょうが、これだけ分煙化が進んでいるのに何をいっているのか、と思います。
 たばこの煙が嫌いだという人がいることは百も承知しています。だからこそ、たばこを吸わない人と同席しているときはたばこを吸わない、などのマナーを徹底する方が大事なのであって、社会的にたばこ規制しようというのは間違っています。マナーによって自発的に分煙化が達成されている社会と、規制によって強制的にたばこを吸わせないようにする社会とでは、どちらが成熟しているかは一目瞭然ではないでしょうか。
 さらに、「とりわけ子どもへの被害は深刻だ。」と書いていますが、こういう書き方をすれば誰も反論できないだろうという筆者の意図が見えるようです。これも、こどものいるところではたばこを吸わない、吸いたければ席を外す、というマナーの問題です。むしろ、たばこよりももっと深刻な問題(いじめ、虐待、性的虐待など)があるはずですが、私たちの社会は未だにこれらの問題に対する効果的な対策を見いだしてはいません。こどもの心配をするならばそちらの方を取り上げてはいかがなものかと思います。
 朝日新聞の社説はたばこそのものを社会から大胆に減らしてしまおうというものであると理解していますが、それならばたばこの栽培・製造・販売・喫煙を禁止する法律をつくりましょうといえば済むことです。大麻が禁止されているのですから不可能なことではないはずですし、たばこによる健康被害を根絶する可能性は、大幅な値上げよりもはるかに高いといえます。
 また、イギリスとフランスのたばこの価格と比較して、日本のたばこははるかに安いから喫煙者が多いのだという理屈ですが、それならばこれらの国の喫煙率も紹介すべきでしょう。そうでなければ論理として成立しません。
 実際にはどうかということを見ると、イギリスもフランスも男性の喫煙率(23%と28%)は日本(41.3%、OECD Helth Data 2007より。以下同様。)よりも低いのですが、女性の喫煙率は日本よりも高いという結果(日本 12.4%、イギリス 23%、フランス 19%)が報告されています

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2214.html

 朝日新聞の論理ではたばこの値段を上げれば喫煙率は減るはずですが、女性の喫煙率に関してはイギリス、フランス、日本を比較すると、そういう論理は成り立たないということがわかります。
 このように、事実をきちんと伝えないで、自分の意見を正当化しようという姿勢はマスメディアとしては失格であるといわざるを得ません。自分に都合のいい情報だけを流し、そうでないものは黙殺するというのでは、もはや報道機関ではなく広告会社であるということになります。
 確かに、値段を大幅に上げればたばこを買えなくなる人が出てくることは間違いないでしょう。しかし、アメリカでは貧困層に喫煙者が多いという報道もあるくらいですから、単純に値段を上げればそれで解決するというのは乱暴であり、無責任です。朝日新聞の見識を疑わざるをえません。
 また、「厚労省の科学研究によれば、たばこによる病気の治療費は毎年1兆3千億円、労働力の損失や火災による損害などを含めると、損失は5兆~7兆円に上る。」と書いていますが、人間は誰でもいつか必ず死ぬということを忘れもらっては困ります。これだけ医療が発達している日本においては、事故死や災害による死亡、自殺などを除けば死ぬときは必ず病院のお世話になるのですし、生きている限り誰でも病気になることは避けられません。さらに、インフルエンザにかかるのはインフルエンザウィルスに感染するからですが、ウィルスが体内に侵入してきても発症しない人がいるように、病気にかかった原因をこれということに特定することは難しいのです。つまりたばこを吸っても吸わなくても、人はいつかは病気になるものですし、最後には死んでいくのが人間という生き物です。
 朝日新聞の理屈がおかしいのは、この1兆3千億円が日本の医療費の総額に占める割合を掲げていないところにあります。この割合が日本人の喫煙率よりも高いのであれば、たばこが社会にもたらす被害が無視できないものであることを私も認めます。しかし、実際にはそうでないのですから、この数字も、自分の主張をもっともらしく見せるために出している数字であって意味はないということになるのです。

 想像するに、この社説を書いた人はたばこが嫌いなんでしょうね。だからたばこを吸う人が許せないのでしょう。ずいぶん幼稚な精神構造をした人だなあと思いますが、自分に都合のいいデータだけを見せて自分の主張を正当化しようという姿勢は看過できません。本来、政府がそういうことをしようとするのをチェックするのがマスメディアの責務ではありませんか。政府と同じことを堂々と社説欄でやっているのですから、朝日新聞はもはや報道機関ではなく広告会社であると申し上げるのです。

 個人の権利ということを考えると、たばこを吸う人にも権利があるように、たばこの煙が嫌いという権利も等しく認められるべきです。そこから導き出される合理的な結論は分煙化を徹底するということであり、たばこを禁止するというものではありません。個人の思惑を他人に押しつけるのはやめていただきたい。


追記
 これは朝日新聞の主張ではありませんが、日本のたばこの値段は欧米に比べて安いのだから、もっと高くしてもいいのではないか、という人がいます。
 個人がそういうことをいうのは構いませんが、政府の人間がそのような発言をすることがあります。
 本来、物価水準の違う諸外国とものの値段を比較することに何の意味もないのですが、あえて申し上げます。
 そういうことは牛肉やガソリンの値段をアメリカ並みに安くしてからいってもらいたい、と。
by T_am | 2009-11-13 07:41
 このたびパソコンのOSをVISTAからWindows7にアップグレードしました。無事終えることができましたが、作業開始から完了まで4時間かかったので、途中で寝てしまいそうになりました。
 前評判通りVISTAに比べると幾分動きが軽くなったような気がします。今回のバージョンは、いわゆるマイナーバージョンアップですので、基本的なところはVISTAを踏襲していくつか改良を施しているということになります。

 今回の変更でユーザーが戸惑うのは、クイック起動バーが廃止されたことではないでしょうか? クイック起動バーとは、スタートボタンの隣にあって、あらかじめ登録してあるソフトを、そのアイコンをクリックすることで起動することができるというランチャーのことです。これのおかげで、いちいちスタートボタンから辿ってソフトを起動させる必要もなく、また編集中のウィンドウを閉じて画面上のアイコンをダブルクリックしてソフトを起動するという煩わしさから解放されていたわけです。
 Windows7ではそれがどうなったかというと、下記の図のように、タスクバーに統合されてしまいました。 


c0136904_21511269.jpg



(登録されているソフトのアイコン表示)
 スタートボタンの右側に小さいアイコンが並んでいるのがご覧いただけると思いますが、これらがここに登録されているソフト(自分で登録することができます)です。


(起動中のソフトの表示とウィンドウの切り替え)
アイコンのまわりに半透明の枠がかかっているのが現在起動中のソフトで、作業中のソフトはこの枠が白く光るようになっています。(バックグラウンドで動いているソフトは、従来と同様にタスクバーの右側のタスクトレイに表示されています)
 この白く囲まれているアイコンの上にマウスポインタを持ってくると、現在開いているウィンドウの縮小表示がファイル名といっしょにその上に表示されます。従来は、現在開いているウィンドウのファイル名が表示されるだけでしたから、ずいぶんとわかりやすくなったといえます。
 さらに、縮小表示された画面が複数ある場合そのどれかをクリックすると、それがデスクトップの最前面に拡大して表示されます。この方法でウィンドウの切替を行うわけです。複数のウィンドウを開いて並行して作業することが多い人には便利な機能であると思います。


(最近使ったファイル名の表示)
 また、タスクバーに登録されているアイコンを右クリックすると、そのソフトで最近編集したファイルがリスト表示されるようになっています。さらに、ファイル名の右側にあるピンをクリックすると、そのファイルが常に表示されるようになるので、同じファイルをよく使うという人には便利な機能です。
 その代わり、従来クイック起動バーに多数のソフトを登録していた人が、それを全部タスクバーに登録すると、タスクバーがアイコンだらけになってしまうことになります。アイコンの大きさは「大」と「小」の2種類があり(この図は小さいアイコンを表示)、大きいアイコンを使うとタスクバーの領域がそれだけ使われてしまいます。起動中のソフトは、図のようにアイコンが白く囲まれるとはいえ、慣れるまで時間がかかりそうです。
 ところで、ソフトをどんどん起動していくとタスクバーがどうなるかを試してみたのが下の図です。


c0136904_21521453.jpg



 右端に上下を切り替えるボタンが表示されているのがおわかりいただけるでしょうか。後に起動したソフトは下の段に表示されることになります。

 
(デスクトップの表示)
 クイック起動バーにあった「デスクトップの表示」アイコンがなくなったと思ったら、右端の日時表示の右側の縦長のボタンに変わっていました。なかなか気づきにくいボタンですが、マウスポインタをここに置くと開いているウィンドウがすべて透明になるので、デスクトップに時計などのガジェットを置いているときに容易に確認することができます。マウスを動かすとウィンドウが元に戻るのでそのまま作業を続行することできます。


c0136904_21531218.jpg



 このように、早く、より使い勝手がよくなったWindows7ですが、VISTAやXPを使っているユーザーがわざわざアップグレードするだけの価値があるかどうかというと、何とも難しいところです。
 Windows XPが登場したときは、それまでのWindowsの弱点(すぐ落ちる)が克服されていたので乗り換えるだけの価値がありましたが、XPもVISTA(重いという弱点はありますが)も既に一通り完成しているOSであり、通常の使用に充分耐えるものでした。したがって、ユーザーがWindows7に乗り換えるメリットは何かというと、実はそれほどないのではないかというのが、実際に使ってみた上での感想です。
 もちろん新しいものが好きだという人には、好奇心を充分満たしてくれるので、それだけで入れ替える価値があるOSであるといえます。


(負担のかかる視覚効果)
 Windows7もVISTA同様に「凝った」画面のつくり方をしています。起動待ちの画面もセンスのいい絵画に変更され、全般に美しさが漂っていて、ユーザーを満足させてくれます。
 その反面、視覚効果を処理するために、かなりのリソースを必要としているようです。
 パソコンの性能は、CPUの速さ、メモリーの容量、ハードディスクの読み書きの速さ、グラフィックチップスの速さとビデオメモリの容量によって決定されます。VISTAでもそうでしたが、Windows7でもこれらのハードウェアの性能がどうなのかを確認することが可能です。コントロールパネルのうちシステムから「パフォーマンスの情報とツール」をクリックすると、Windowsエクスペリエンス インデックスが表示され、個々のハードウェアの性能が点数で評価されたものが表示されます(初めてこの画面を表示するときは測定しないといけません)。


(パソコンの性能)
 パソコンとしての性能は、もっとも性能が劣るハードウェアが足かせとなります。そのため、Windowsではもっとも性能が劣る点数を基本スコアと呼び、そのコンピュータの性能の目安として理解するようにしています。
 たいていのパソコンはグラフィックス(通常の画面表示)とゲーム用グラフィックスの点数が、他のハードウェアに比べると比較的低くなるようです。私が使っているパソコンではグラフィックスのスコアが3.5(ゲーム用グラフィックスは3.9)でした。他のハードウェアは軒並み5点台をたたき出しているので、私のパソコンはグラフィックス性能が足かせとなりかねないことがわかります。
 スコアの詳細についてはWindowsのヘルプを参照していただくことにして、どうしてこんなことになるのかを述べると、専用のグラフィックス装置を搭載していないパソコンが多いこと、仮に専用のグラフィックス装置を搭載していてもビデオメモリの容量が少ないとこの点数が低くなるのです。
 VISTAもWindows7も視覚効果のためにパソコンにかかる負荷が大きくなっています。専用のビデオメモリを搭載していないパソコンでは、メインメモリの一部がグラフィックスに割り当てられるのでその分処理が遅くなります。特にパソコンでゲームを楽しみたいという方は、専用のグラフィックス装置と専用ビデオメモリの容量をチェックしておかないと後で後悔することになります。


(必要にして充分な性能とは)
 新しいパソコンに買い換えるときに、メーカーがWindowsエクスペリエンス インデックスを公開してくれればいのですが、そんなことをするメーカーはありません。自殺行為になりかねないからです。
 店頭で展示品の電源が入っているようであれば、コントロールパネルのシステムから基本スコアをチェックすることが可能です。基本スコアが3点台以上のパソコンであれば、一応オールラウンドで使うことができると思っても差し支えないようです。

 仮に、私がパソコンを新しく買い換えるとしたらどのようなスペックの製品を選ぶかというと、次のようになります。

CPU  Intel Core2Duo 2.1GHz以上
メモリ 2GB以上
グラフィックス nVIDIA製のグラフィックスカード搭載かATIのグラフィックスカード搭載。ビデオメモリは512MB以上
ハードディスク sATAで250GB以上の容量。7200回転

 性能のいいパーツを積めば早くなるのは当たり前ですが、それだけ値段も高くなります。これくらいのスペックであればそれほど高くなるわけではない割に、性能的には充分であると思います。ノートブックでも良心的なメーカーの通販価格はこれくらいのスペックのパソコンで10万円前後となります。その代わりソフトは自分でインストールしなければなりませんが・・・
 値段が安いパソコンはそれなりの性能しかありません。しかし、ご自分がパソコンを使う用途は何かを考えると、ネットとメールくらいだという人はそれほど高い性能のパソコンでなくとも不満を感じることはないと思います。ゲームをがんがんやったり、画像処理を大量に行うという人はやはり高い性能のパソコンでないと満足できないと思います。
 要は自分がパソコンを使って何をしたいか、それさえ抑えておけば買い物で公開することはないといってよいでしょう。
 Windows7に乗り換えるかどうかも同じことだと思います。毎日のように長時間パソコンに向かっているという人は、やはり使い勝手のいい方がいいでしょうし、あまり使わないという方はそれほど高いお金をかけて買い物をする必要なないといえます。もしかするとパソコンがなくても困らないということにもなるかもしれません。
by T_am | 2009-11-11 21:57 | その他
 独自性が後天的に備わる属性であるとすれば、先天的に備わっている属性が唯一性です。平たくいえば人間は一人一人皆違うという、ただそれだけのことなのですが、今回はそのことについて考えてみたいと思います。

 人間の身体を構成する元素は皆同じであり新陳代謝の仕組みも一緒ですが、私とあなたが異なるように、人間は一人一人皆異なります。これを唯一性といい、あらゆる生き物についてあてはまることです。唯一性は人間がつくったものにもあてはまりますし、自然界に存在するものについてもかなりあてはまるといえます。

(「もの」における唯一性)
 たとえば、私の家の隣には墓地があって、そこには数十基のお墓があります。墓石というのは規格品に過ぎないのですが、某家之墓と文字が刻まれ、墓地に設置されることによって(その家の人たちにとっては)唯一性を備えることになります。墓地にあるすべてのお墓がそうです。
 ここで興味深いのは、お墓の唯一性というのはその家の人たちにとってのみ当て嵌まることであり、赤の他人には全く関係ないということです。墓地に行くと自分の家のお墓はわかるけれども、その隣のお墓がどこの家のものやらわからないという人は多いと思います。墓参りをする人にとって、自分の家のお墓はこの世に一つしかないものですが、それ以外のお墓は単なるお墓(ワンオブゼム)として目に映っているのです。
 日本人の場合、「もの」の中に唯一性を見つけ出す能力に長けているといえます。産業用ロボットが工場に導入されると、それに「モモエちゃん」という名前をつけて大事に使ったという事例がかつて報告されました。同様に、ご自分の車を大事にされている方も多いと思います。愛車、愛機、愛器、愛読書、愛唱歌、愛蔵版、愛用品など自分が使うものに特別な感情を持つことは決して珍しいことではありません。
 それというのも、人がそこに唯一性を発見した瞬間にそれはただの「もの」ではなくなるからです。それまでは、ただの「もの」として十把一絡げに扱われていたのが、そこに唯一性を発見することで、その人にとって特別なものに変わってしまうということを意味しています。
 会社の備品であるパソコンや電話機にシールを貼っているOLさんを以前はよく見かけたものです。あるいは、自分の車にステッカーを貼ったり、ぬいぐるみを飾っている娘さんをたまに見かけます。これらも、そうすることでそれらのパソコンや電話機や車に唯一性を与えていると見ることができると思います。もっとも、最近は会社の備品を私物化する行為はけしからんという考え方もあるようですが、たかがシールを貼るくらいで会社の備品を大事に使ってくれるのであれば少しくらい大目に見てもいいのではないでしょうか?

(人における唯一性)
 人間は生まれた瞬間、いや母親のお腹に宿った瞬間から生命としての唯一性(Only One)を備えているといえます。そのことを母親は感覚的に知っています。では父親はどうかというと、最初は理屈で理解しようとするように思われます。これがあなたの子よ、といわれれば身に覚えがあるだけに否定するわけにもいきませんし、なんだか実感がわかないというのが正直なところでしょう。それでもいっしょに過ごすうちに、これが自分の子どもなんだということが少しずつわかってくるものです。
 人間の唯一性というのは、私とあなたが違うように、本来その人に備わっているものであることは何人も否定できません。けれども、人間はときとして他者の唯一性を無視することがあります。
 唯一性を無視された人間は、その他大勢とみなされます。この、「その他大勢」というのは、それぞれ区別する必要がないということ意味しますから、どうしてもぞんざいに扱われることになります。
 したがって、親というのはわが子の唯一性を認めてあげる最初の人間であり、また最後の砦とならなければなりません。
 人が嬉しいと思うのは、大きく分けると次の5つとなります。

 人から認められたとき
 人から褒められたとき
 人の役に立ったとき
 人から愛されたとき
 思ったことが実現したとき

 はじめの4つはいずれも他人が関わっていることに注目していただきたいと思います。子どもにとってもっとも身近な他者は親となります。そのように考えると、この4つが子育てに密接に結びついていることがおわかりいただけることと思います。幼稚園くらいの子どもが親の手伝いを嬉々としてするのは、そうすることで自分が認められ、褒められたうえに親の役に立ったと感じることができるからです。このことから、人を導くにはこの4つを満たしてやることが不可欠であるということがわかります。
 人を導くといえば教師がすぐに思い浮かびます。教師も生徒の中に唯一性を発見することが要求されます。教師が親よりも大変なのは、親が接する子どもはせいぜい数人ですが、教師はその数十倍の人数の生徒を見なければならないというところです。そこが、教師が世間から敬意を払われる所以なのですが、それができない(ゆえに敬意を払われない)教師も存在するというのはいつの時代も同じです。
 なお、他人の唯一性を認めようとしない人間が密かに軽蔑されるという風潮は昔からあり、この社会が拝金主義に偏ってしまうのをくい止める効果を上げています。

 唯一性も独自性も共に、「かけがえのない(Onle One)」というところに行き着きます。この不況下でも業績を伸ばしている企業は何らかの独自性を備えた企業であるといえるのですが、面白いことにそのような企業では他者の唯一性をきちんと理解し尊重するという姿勢を堅持しているのです。
 ベストセラーになっている坂本光司さんの「日本でいちばん大切にしたい会社」(あさ出版)には、そのような会社の事例が紹介されています。ここで紹介されている会社は決して大企業ではありませんが、共通することは、人の役に立つことを自分の喜びとするという経営者の姿勢が会社の隅々にまで行き渡っているということです。
 「お客様」というお行儀のいい言葉をどの経営者も口にします。ところがその大半の経営者にとって「お客様」とはワンオブゼムであり、口では立派なことを言っていても本心では客のことをこれっぽっちも考えていないということが見え隠れしています。自社の商品を購入してくださる「お客様」ですらワンオブゼムなのですから、その会社の従業員もワンオブゼム(つまり誰でもいい)として扱われています。誰でもいいのですから給料の安い方が会社にとっていいに決まっています。そのような会社の考え方が従業員にも伝わりますから、一生懸命にやろうという気持ちは次第に薄れていきます。製品の品質やサービスのレベルはこうして低下していくので顧客の信頼を失うことになり業績はさらに悪化していきます。そうなるとコストを削減するという理由で人件費が削られることになりますから、従業員のやる気はますます失われていきます。
 このような負の連鎖の発端は何かというと、他人の中にある唯一性を発見し尊重しようという姿勢が欠落していることに由来します。この人たちはお客に褒められることよりも経営マスコミに褒められることを好み、お客に認められることよりもアナリストに認められることの方を優先して考えます。
 アメリカではそのような生き方を貫いて、年に数十億円という報酬を受け取る経営者もいることは事実です。それは動物の身体に寄生するダニのようなものであり、たっぷりと血を吸って肥えた後は、宿主の体力が衰えると次の宿主を求めてさっさといなくという子とを繰り返しています。後には体力が衰えてがたがたになった会社と従業員が残されるのです。
 このような生き方をサクセスストーリーと捉え自分もそのようになりたいと思うのか、それとも軽蔑するのかはその人が持つ価値観によって異なります。
 そんなことはあり得ないとわかっているのですが、仮に、他人の中の唯一性を認めずこれを無視するという人ばかりの社会になったとすると、それは地獄と呼ばれるのかもしれません。逆に、他人の唯一性を尊重する人ばかりの社会に(なることも決してありませんが)なったとすると、ずいぶん居心地のいいものになるだろうと思われます。
 実際には、この両者が入り交じっているのが私たちの社会です。
 ただし、自分の唯一性ばかりを主張し、他者のそれを決して認めようとしない偏った人格の持ち主が増えていることも事実です。けれども、どういうわけかこの人たちには自分の独自性を磨こうと考える意思はなく、他人の成功事例と同じことをしようという思考法から抜け出すことができません。その限りにおいて、この人たちは自らをいくらでも取り替えが利く消耗品に貶めているといえるのですから何とも皮肉なものであると思えてなりません。
by T_am | 2009-11-11 00:40 | その他
 あなたがいないと困る。こういわれるのはサラリーマン冥利に尽きると思います。というのは、ある特定の分野においてはその人よりもすぐれた人が社内にいないということだからです。
 では、実際にその人が退職したら会社がつぶれるかというと、もちろんそんなことはありません。その人が抜けた穴は替わりの人によって、それなりになんとか埋められていくものです。
 それでは、なぜこのような人物評価が生まれるのかというと、その人がやっていることは自分たちにはとうていできそうもない、と思われているからです。その場合、その人がどんなことをやっているのか、ある程度まではわかるけれども自分にはそれをトレースすることができないという認識がつきまといます。
 他人がやっていることを見て、あれなら俺にもできると思う場合と、あれなら俺の方がもっとうまくやれると思う場合とがあります。
 三遊亭円窓さんがその著書「ふてくされ人生学―古典的生き方のすすめ」の中(だっだと思います)で、芸の上達具合について触れた際に、先達から聞いた話としてこのことを書いています。すなわち、他人の落語を聞いて、あれなら俺の方がもっとうまくやれると思ったときは実は同じくらいのレベルであり、あれなら俺にもできると思ったときはまだまだ遠く及ばないのだということなのだそうです。
 自分自身の経験に照らしてみても、その通りであると思います。落語家だけでなく、サラリーマンも日々精進を怠ってはならないということなのでしょう。

 このように、自分の独自性について他人から評価してもらうことはとてもありがたいことですが、その反面陥りやすい罠が二つあると思います。
 一番目は、自分のポジションを守ろうとするあまり、自分の仕事をブラックボックスにしてしまうことです。つまり、その人がいないと何もわからないという状態を意図的につくりあげてしまうことがこれにあたります。周囲にとっては迷惑なことなのですが、その分本人の存在感と発言力は増すことになります。なぜなら、その人しか知らないのですから、どうしてもその人の言うことを聞かなければならなくなるからです。
 そういう状況に陥ることを防ぐために、人事部がちゃんと機能している組織では定期異動という制度を設けて、2年から3年サイクルで担当者を異動させることによって仕事がブラックボックス化すること防いでいます。しかし、物事には常にプラスの側面とマイナスの側面があるように、数年サイクルで人が替わる組織ではそこそこ仕事ができるようになったところで担当が替わってしまうので、より高度な仕事に取り組むだけの時間と経験が与えられないというデメリットもあります。
 そこで、スペシャリスト育成という人材の登用制度が導入されるわけですが、情報の独占と仕事の不可視化というリスクはつきまといます。そして、成果主義や実力主義という人事評価制度はこのことに拍車をかけます。このような評価制度のもとで自分が高い報酬を継続して得るためには、自分の能力を高めるよりも自分のライバルとなりそうな人を蹴落とす方が確実だからです。だから、部下に対して何も教えない、ことあるごとに嫌がらせをし、さらには人前で罵倒するといういわゆるパワハラが発生することになるのです。
 パワハラによって会社を辞める人が増えているというのにはこのような風潮も影響を与えているように思います。もっとも、パワハラを行う上司の中には根性の曲がった屑みたいな人格の輩もいるのですが、そういう手合いは直近の部下だけなく、パートタイマーや派遣社員といった自分よりも立場の弱い人間に襲いかかるので区別がつきます。

 閑話休題。二番目の罠は、その仕事をいつまでもやり続けなければならないことになりかねないというものです。それも定年退職するまで。
 仮に、あなたが三十代そこそこだとして、今やっている仕事を定年退職するまで続けろと言われたらどう思いますか? 冗談じゃないと思うでしょ。けれども、あなたの替わりとなる人が社内にいないというのはそうなる可能性が高いということなのです。同じ仕事を毎年やっている限り、給料はそれほど上がっていきませんし、昇進することも難しくなっていきます。そんなのイヤですよね。
 ではどうするかというと、あなたがやっている仕事を部下に教え込み、自分の代わりにやらせることで空いた時間を使って、自分はもっと高度な仕事に取り組む以外に方法はないのです。当然そのための自己啓発は不可欠となります。
 経営者が行う投資は有形固定資産と無形固定資産に向けられますが、サラリーマンは自分に投資することを考えるべきだと思います。それは、お金と時間を費やすということであり、それを惜しんでいたのでは自分を変えることはできません。
 そうはいっても給料が安くてお金がないという人は、せめて「考える」ということに自分の時間を使うべきです。毎日くたくたになって帰ってきて、お風呂に入ってご飯を食べて(たまに奥さんとセックスをして)寝るという毎日を繰り返していたのでは何も変わっていきません。
 その人がさほど重要な評価をされていないとしたら、その人がやっている仕事がさほど重要なものではなく、その人の替わりはいつでもいると思われているということでもあります。

 近代以降労働者の雇用が保護されるようになったのは、雇い主の気まぐれによって解雇が乱発されると社会が不安定になる(バカでワガママな殿様が出てくる時代劇ではそれによって困っている人が大勢登場します)ことから、解雇権を制限しているものです。しかし、雇用が保護されるのは常用雇用といわれる人たちであり、派遣社員などはその庇護下にはありません。
 会計基準がグローバル化されつつあることによって、経営者は四半期ごとに利益を計上していなければ株価が下がる、もしくは融資が受けられなくなるという恐怖に囚われるようになりました。経営者にとっては人件費も経費ですから、できるだけ削りたいと考えるわけです。かつて従業員を解雇するのは、そうしなければ会社が潰れてしまうという場合に限られていましたが、今日では会社の利益額を確保するために従業員が解雇されるという事態に陥っています。人材派遣制度というのはそのための装置として用いられています。
 このような時代において個人が自衛するとすれば、あいつの替わりはなかなかいない、そのように思われる人間になることがまっとうな道だと思います。
by T_am | 2009-11-08 08:48 | その他
 標題にあるように、たばこ増税の検討と地球温暖化対策税(環境税)の導入準備が始まりました。小沢環境大臣によると、環境税はすべての化石燃料に課税され、税収は地球温暖化対策に充てられるとのことであり、2010年度からの導入を求めているとのことです。
 一方のたばこ増税に関しては、長妻厚生労働大臣は、健康の問題もありヨーロッパ並の金額にする必要があるのではないか」と述べています。

 庶民感覚からすると、やたらと増税をもくろむ政府はロクでもない政府であると昔から決まっています。
 民主党はマニフェストで色々な補助金や支援金の支給を約束していますが、その財源は無駄な予算を削ると述べていました。それをみる限り、増税をしないとはどこにも書いてはいないのであって、国民が勝手に増税はないものと思いこんでも民主党に責任はないということなのでしょう。
 高速道路の無料化やこども手当などの創設のための財源はどうするのか、無駄な予算を削ると言っても本当にできるのか、という指摘は政権発足前からあり、増え続けてきている赤字国債のこともあって、多くの国民には日本国政府には財源が乏しいという意識が刷り込まれてしまいました。
 そのようなタイミングで登場してきた「地球温暖化対策税」と「たばこ増税」ですから、それほど大きな反対は起こらないのではないかとも思われます。なんといっても名前のつけ方が抜群です。地球温暖化は今後人類がなんとしても避けなければならない事態として繰り返し報道されていますし、たばこは健康に悪いというのが定説となってしまったからです。増税はイヤだけれども、まあ仕方ないんじゃないの、という受け止め方がされるわけです。そこまで考えて増税を打ち出しているわけですから、非常に狡猾であるといえます。

 ちょっとだけビジネスマインドに沿った話をすると、コストを減らすにはどうしたらいいかというと、凡庸な経営者とリーダーは節約ということを訴えます。休憩時間中は室内の蛍光灯を消しましょうとか、コピーを取るときは裏紙を使いましょう、とか指示するわけです。以前訪問した会社の女子トイレには「小は1回まで。大は2回まで。」という張り紙がしてありました。なんでそんなことを知っているかというと、その会社の女子社員に聞いたからです。別に女子トイレに忍び込んだわけではありません。
 しかし、歴史をみても節約や倹約で成功した改革は一つもありません。江戸時代の三大改革である享保の改革、寛政の改革、天保の改革はすべて失敗しています。女子トイレに張り紙をしていた会社も今はなくなってしまいました。
 資源を節約することは大切であるという考え方に同意はしますが、それが改革であると考えるのはあまりにも浅はかであると思います。
 有能なリーダーや経営者はむしろ廃止することと継続することを明確に指示するものです。今までやっていたことでも使命を終えたものはきっぱりと止める、という決断ができるのが有能なリーダーであるといえます。廃止するから経費が削減できるのであって、その一方で収入を増やす手当をきちんとしておくから業績が改善するのです。あれもやるこれもやる、その上に新しいこともやる、というのでは資金がいくらあっても足りないことになり、財務状況はいずれ火の車になることは目に見えています。

 鳩山総理の所信表明演説の中には次のような一節がありました。


 私と菅副総理のもと、国家戦略室において財政のあり方を根本から見直し、「コンクリートから人へ」の理念に沿ったかたちで、硬直化した財政構造を転換してまいります(以下略)


 おっしゃることはごもっともですが、それから1週間もしないうちに、その閣僚から増税案が表明されるというのは、この人たちは物事を上っ面だけ見てたいして深く考えていないのではないか? と疑問に思ってしまいます。もしくは官僚のレクチャーを受けるうちに「たぶらかされて」しまったがのどちらかでしょう。もっとも、総理自身も増税もやむを得ないという意見を述べているのですから底が知れます。

 たばこ増税について長妻厚生労働大臣は、「先進国(欧米のことでしょう-筆者注)に比べて日本のたばこは安すぎる」ので増税しても構わないのではないかという趣旨の発言をしています。この人は年金問題の追求をみる限りもう少し骨のある人かと思っていたのですが、こういう論理で物事の判断をされる人だとは思いませんでした。欧米先進国はすべてにおいて日本よりもすぐれていると本気で思っているのでしょうか? 「アメリカでは・・・」とか「ヨーロッパでは・・・」といういい方をする人は昔から絶えることはありませんでした。その対句として「それに比べて日本では・・・」と続くのですが、こういうことを臆面もなく述べる人間は、学校の成績はよかったかもしれませんが、はっきりいって「バカ」であると思います。
 その人の気持ちの中には、「アメリカやヨーロッパは日本よりもすぐれている。そのことをお前たちは知らないだろうから俺が教えてやる。」という意識が見え隠れしています。もっとあからさまにいえば「お前たちは劣っているけれども俺だけは違うんだぞ」という上から目線で物をいっているということがわかるのです。
 欧米にも(あんたのように)屑みたいな人間はいくらでもいるし、見習ってはいけないことだっていくらでもあるじゃないか、こう考えるのが普通でしょう? それなのに、ヨーロッパのたばこの平均価格は600円しているのに日本は安すぎる、という論理は根拠も何もないということに自分で気づかないのでしょうか? 経済のグローバル化とかグローバルスタンダードというかけ声に踊らされてひどい目に遭っているというのに、何一つ学習していないから「バカ」だというのです。
 昨年から始まったメタボ検診といい、今回のたばこ増税といい、国民の健康増進のためといいながらたいして効果のないことに厚生労働省は取り組もうとするのですね。本当に国民の健康を心配するならば、たばこの製造と販売を全面禁止すればいいのです。でもそんなことはあり得ないと誰もが思うでしょう。なぜかというと、国民の健康などどうでもいいと思っているのが厚生労働省だからです。その証拠は、原爆症や水俣病の認定が訴訟問題に発展したことをみれば明らかです。薬害エイズや薬害肝炎の問題も同じです。国民の福祉や健康なにどまるで関心のない人たちがたむろするところが厚生労働省という役所なのです。

 地球温暖化対策税に関連して、あまり報道されていないことを申し上げておきます。
 家庭や企業で行われた太陽光発電によって生じた余剰電気を買い取ることが電力会社に義務づけられていますが、その買い取り価格を従来の2倍に引き上げることが決まっています。これにより買い取り価格は1kWhあたり48円となり(発電コストは1kWh47円程度といわれています)ますが、そのための負担金として電力料金に1kWhあたり10銭を上乗せすることが認められています。つまり、国民に広く薄く負担させて集めたお金で太陽光発電で生じた電気を買い取ることが決まっているわけです。そういうことをこっそりやっておきながら、この上まだ増税しようというのか、というのが正直な感想です。
 国がやる事業というのは必ず事務経費が発生します。それはなにかというと官僚たちの人件費であったり、なんとか協議会やかんとか機構とかいう関連団体に委託する業務の報酬として支払われる費用です。もちろん通信費も含まれるのですが、事務経費の割合が民間に比べて高いというのが行政がやる事業の特徴です。したがって地球温暖化対策税というもっともらしい名前の税金が徴収されたとしても、そのうちの何パーセントかは事務経費で消えてしまうのですから、これでは官僚とそのOBたちの収入源を確保してやるようなものです。


 目新しいことに飛びつくのは無能で有害な経営者。
 倹約を訴えるのは凡庸な経営者。
 取り組むことと廃止することを明確に示すことができるのが有能な経営者。


 政治とは、つまるところは国民と企業から集めた金をどこに分配するかという業務です。インフラ整備のように、それが呼び水となって投下した税金の何倍もの経済効果をもたらすものもあります。しかし、これだけ赤字国債を発行してもなお国民の間に閉塞感が漂っているというのは、今までのお金の使い道が間違っていたという証拠である、と考えるべきでしょう。
 その検証もきちんとしないうちに増税案を打ち出すというのでは、民主党の皆様も自民党の皆様と大差ないということを自ら暴露しているようなものであると思います。
 
by T_am | 2009-11-02 23:06 | その他
 その人の替わりがいくらでもいるというのは、本人にとっては屈辱的な事態であると思うのですが、大半の方はそのようには考えないようです。
 どこの職場にも、仕事を頼んだときに「できません」とか「私の仕事じゃありません」という人がいるものですが、自分の存在意義を自ら否定するようなものだということに気づいていないとみえます。
 あるいは、他人がやっていることをみて、いいと思ったら自分もやってみる、という習性が人間にはあります。この習性は学習に取り組む動機付けとなるのですが、情報が多い現代社会では、かえってそれに振り回されることもあるようです。
 若い女性の化粧法というのは、コギャルといいヤマンバといい、今のagehaといい、本人が熱心になればなるほど他の女性と見分けがつかなくなるという不思議な現象をもたらしています。それはお前が爺だからだ、といわれればその通りなのですが、異性から自分をきちんと識別してもらえないかもしれないというのは、自分の子孫を残す戦略としてはやはりまずいと思います。
 これと似たようなものとしては、面接のときの受け答えマニュアルがあります。こう訊かれたらこのように答えましょうというものですが、人事担当者にいわせると、誰もが似たり寄ったりのことしかいわないので、うんざりするそうです。

 年頃の女の子にとって、自分をかわいくみせることは極めて関心の高いことがらでしょうし、就活に臨む学生が、変なことをいって面接で失敗するよりは無難な受け答えをしておく方がましであると考えるのも無理はないと思います。このような戦略はギャンブル性が低いので失点が最も少ないという特徴があり、場合によっては確かに有効なのです。
 それがどんな場合かというと、危機にさらされているような状態を想像していただいたらよろしいと思います。そのような状況下では他の個体と区別しにくい方が生き延びる可能性が高いのです。
 シマウマが群れで生活するのは、ライオンに襲われても、どれか1頭が犠牲になるかもしれませんが、その間に逃げ延びる可能性があるからです。この場合、自分が襲われる確立は 1÷(群れの中の個体数)となり、大きな群れになるほど自分が生き延びる確率は高くなります。しかし、単独で生活していると、ライオンに襲われたときは逃げおおせるか捕まるかのどちらかしかありません。群れで暮らす場合よりも生存の可能性はかなり低くなってしまいます。
 ですから、他の個体と区別しにくくするというのは、もともとは弱者が生き延びるための戦略なのです。

 企業から採用してもらったり彼氏をゲットするというのは、よく考えてみると、「自分の中にある他人とは違ったもの」を見つけてもらうということにほかなりません。「他人とは異なる何か」があなたの中にあるからこそ選んでもらえたと考えることができるのです。(人を好きになるときはその人の中に「在る」ものを見つけ、熱が冷めるときはその人ができないことを数え上げるものです。)
 ただし、たとえばキャバクラの面接はこの通りではありません。店にとってキャバ嬢というのは消耗品ですから、ある程度かわいくてそこそこ受け答えができればそれで充分なのです。
 それでも他店から引き抜きが来るほど優秀なキャバ嬢になると、やはり「他人とは異なる何か」を持っていると認めないわけにはいきません。一方、替わりがいくらでもいると思われている人は店からは消耗品という扱いを受けるだろうということは、私にも想像がつきます。

 他人と同じことをしたがるというのは、自分一人取り残されることが原因で蒙るダメージは他人といっしょでいることで回避できるという心理も働いているといってよいでしょう。
 何か資格を持っていた方がいざというときに有利だからと(みんなが言っているので)、勉強して資格を身につける人は後を絶ちません。その昔、自動車運転免許を持っているからという理由で採用してもらえた時代がありましたが、その後免許保有者が増えるにつれて、運転免許は持っているのが当たり前という時代になりました。もはや運転免許があるからといって採用試験のアドバンテージにはならないのです。
 また、たとえばデイサービス専門のヘルパーのように、大勢の人が殺到する職種というのは待遇がどんどん悪くなっていきます。介護報酬が切り下げられたこともありますが、一人辞めてもその替わりがいくらでもいるという状況が続く限り、労働条件が大幅に改善されるというのは期待できそうもありません。。

 以上のように考えると、個人の生き残りという点からは、他人と同じことを目指すというのは努力の割に報われることの少ない戦略であると思います。
by T_am | 2009-11-01 15:17 | その他