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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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昨日のニュースで、小池加茂市長が日本郵政の取締役に就任するということが報道されていました。
小池市長といえば、亀井静香の身内としてつとに有名なひとですから、
なんだかんだいっておきながら、結局は自分の影響力を確保するための人事じゃねーか、
という思いを強くしました。
もはや問題点は、脱官僚に反するということではなく、所轄大臣による公の組織の私物化ということに移りました。。

あんた、今までえらそーなこといってたけど、私利利欲のためだったわけね。ふーん。
by T_am | 2009-10-28 23:23 | その他
 先週末かかりつけの医者に血圧の薬をもらいにいったら、患者がいつもよりもずっと多いのにびっくりしました。同級生でもある医師にたずねると新型インフルエンザではないかと心配して来る人が多いのだそうです。
 現に小学校中学校では、学級閉鎖・学年閉鎖・学校閉鎖が相次いでいます。けれども熱を出して休んだ子どものすべてが新型インフルエンザに感染していると断言できるわけではありません。簡易検査では単にA型としかわからないからです。

 そうはいっても、新型インフルエンザの患者数が推計で1週間に六十数万人発生したというニュースを聞くと、誰もが不安になるのはやむを得ないと思います。だからワクチンを早く接種してほしいと思うのも当然であるといえます。

 ただし、私自身はひねくれ者なので、新型インフルエンザは季節性インフルエンザと毒性において大差ないのだから大騒ぎする必要はないと考えています。感染者が多いのは免疫を持たない人が多いからであって、一度感染すれば免疫ができるのでそれ以上かかることはありません。したがって、感染者のピークを迎えるまでにまだしばらくかかるでしょうが、それ以降は次第に沈静化していくことは明らかです。
 新型インフルエンザに感染しても、大半の人は安静にしていればそのうち治ってしまいます。むろん中には重症化する場合も数パーセントの割合で発生するでしょうが、そのような人のために大病院の窓口を開けておくことが必要です。インフルエンザにかかったのではないかと心配だからといって大病院を訪れるのは、高度な治療を本当に必要とする他の人々の治療を遅らせることにもなりかねません。ですから最初はかかりつけの医師に診てもらうというのは、万一あなたが重症化したときに速やかな治療が受けられることを担保することにもつながるのです。また、インフルエンザにかかっていないことを証明してもらいに医者に行く(濃厚感染者の疑いがあるといって休ませた従業員に対し、証明書を提出させて出勤を認めることにしている会社もあります)というのは、治療を必要としている他の患者の迷惑になります。
 私は医療の専門家ではありませんが、これくらいのことはわかります。わからないのはワクチンが何のために用いられようとしているのか? ということです。
 ワクチンといえばポリオなどを思い出しますが、そこから連想されるのは感染の予防ということです。しかし、その後の報道をみる限り、新型インフルエンザのワクチンは感染予防よりも重症化するのを防ぐものです、というのが目につきます。
 それならばそうと、厚生労働省とマスコミはもっときちんと説明すべきでしょう。たとえば次のように。
 
 新型インフルエンザといっても安静にしていれば大半の人はそのうちに治ってしまいます。けれども感染者のうち数パーセントの割合で重症化する場合があります。健康な成人が重症化することはほとんどありませんが、子どもや老人のように免疫力の弱い人、または糖尿病や腎臓病などの持病を抱えた人、妊婦さんなどは重症化する可能性が健康な成人よりも高くなります。幸い、インフルエンザワクチンを接種するとそのような重症化を防ぐ効果が期待できます。
 ただし、ワクチンを接種したからといってインフルエンザを完全に予防することはできません。また、重傷化のリスクを軽減するといっても完全ではないのですから、安易に考えるのは禁物です。ワクチンを接種した後も規則正しい生活を送ることで自分自身の免疫力を高めておくことが可能となり、感染した場合の重症化を回避できる可能性はさらに高まります。せっかくワクチンを打っても、暴飲暴食をしたり不規則な生活を送ったのではせっかくの効果も期待できなくなる可能性が高くなるのです。

 厚生労働省も、中途半端な情報を小出しにすることがかえって国民を不安にするということに、いい加減気づいてもよさそうなものですが、残念ながらそういう気配はありません。あいかわらず情報が小出しにされており、それをマスメディアが要約するものですから何が何だかわからないという状況に陥っているのが、インフルエンザワクチンの接種です。

 理想をいえば、1億2千万人の国民の全てに行き渡るだけのワクチンが確保できればいいのですが、それは不可能です(また、その必要もないと私は思っていますが)。しかし、医療の専門家たちは、インフルエンザの発症者が数千万人にものぼれば数万人の死者が出ることになりかねないのだから、そのような事態になることをできるだけ回避しようと考えています。それは医療に従事する者の良心といってよいでしょう。しかし、ワクチンの数が限られている以上、社会に与える効果を極大化するにはどうしたらよいかを考えなければなりません。
 そうなると、ワクチンを接種すべき人をグループ化して、優先順位の高いグループから順に接種していくという考え方が出てくるのは当然であるといえます。
 これまでワクチンの接種は2回必要といわれていました。ところが、先々週になりますが、厚生労働省が16日開いた専門家会議の席上、健康な成人を対象にした臨床検査の結果多くの対象者では1回でも効果があることがわかったという報告が行われ、13歳以上は1回接種でよいという意見に一致したという内容の報道がなされました。これを聞いて、ワクチンの接種を受けられる人の数が増えると喜んだ人も多いと思います。なぜならそういう報道がされたからです。
 専門家会議でどのような話が出たかは次のサイトで知ることができます。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091016-00000011-cbn-soci

 これに対し、厚生労働省の足立政務官が疑問を呈し、19日になって自ら選んだ医師3名と1回接種でよいとした際のメンバー2人を呼んでヒアリングを行いました。その理由は、専門家会議の意見は検討段階の意見であって、行政としての方針は週明けに決めるつもりでいたところ、あたかも1回接種で決定したかのような報道がなされたことによって意思統一をする必要があると判断したということのようです。
 どのような報道があったかというと、たとえば産経新聞は次のように報じました。

「 新型インフルの国産ワクチンの接種回数について、厚生労働省の専門家会議は16日、免疫が上がりにくいとされる「1歳から13歳未満の小児」以外は原則1回接種とすることで合意した。厚労省の調査で、「1回接種でも効果がある」とする結果が出たため。来週にも1回接種の方針が正式決定する見通し。
 2回接種を想定した場合の2700万人分から大幅に増加し、4000万人分の国産ワクチンが確保されることになる。接種可能人数が増えることで、接種のスケジュールが全体的に前倒しになるほか、輸入ワクチン(4960万人分)が使われる予定だった高校生や高齢者にも国産ワクチンが使われる。
 また、輸入品の接種効果も調査中で、こちらも1回で効果が確認されれば、国内生産分と合わせ全国民にワクチンが行きわたる計算となる。
 厚労省は、海外で「1回接種で効果が得られる」との報告が相次いだことから、9月に20~50歳代の健康な男女194人を対象に調査。接種の3週間後に効果を調べたところ、1回分のワクチン量を打った96人のうち75人(78%)で効果があった。2回分の量を打った98人では86人(88%)に効果が確認された。(後略)」(10月17日産経新聞より)

http://sankei.jp.msn.com/life/body/091017/bdy0910170202000-n1.htm


 一方足立政務官が開催したヒアリングの内容は以下のサイトでかなり詳しく読むことができます。

http://lohasmedical.jp/news/2009/10/20010545.php#more


 ここで、16日に行われた専門家会議の問題点を整理してみます。

 この会議で報告されたのは、健康な成人に対しワクチンを1回打った試験の結果です。本来であれば、1回打ちしたグループと2回打ちしたグループの結果を比較しなければ1回でよいという結論を導くことはできません。
 インフルエンザワクチンを2回接種するというのは、1回目の接種と2回目の接種との間を1~4週間あけた方が効果が高い(ブースター効果)という経験知が存在します。だから、最初は2回接種といわれていたわけです。
 ところが、季節性インフルエンザの場合、成人は過去に似た型のインフルエンザウィルスに感染した経験があるために、1回のワクチン接種でも効果が期待できるという考え方も成り立ちます。海外で13歳以上は1回でよいとしているのは、それくらいの年齢に達していれば過去に似た型のインフルエンザにかかったことがあり免疫の記憶が残っているだろうという考えに基づいています。
 今回報告された試験の内容は、1回分の分量を打ったグループと2回分の分量を1度に打ったグループの比較ですから、何回接種したらよいかという疑問に答えることはできないと考えるのが普通です。わかるのはワクチンの分量が多い方が効果が高かったということくらいです。
 2番目の問題点は、成人に対する試験の結果が13歳以上の人すべてに当て嵌まるとしていることです。季節性インフルエンザで脳症を発症しているのは乳幼児が多いのですが、新型インフルエンザではそれよりも年齢が高い中高校生でも脳症が発生しています。したがって、13歳以上の中高校生は重症化するリスクが成人よりも高いと考えるべきですが、それが無視されています。

 このように、ちょっと考えてもおかしいと思うようなことでも「専門家による意見の一致」という錦の御旗を振りかざすことで、それが堂々とまかり通るわけですから、いったい専門家とはなんなのかと考えてしまいます。
 これは想像ですが、新型インフルエンザのワクチンが国内産で2700万人分しか確保できないことから、国民の非難を恐れた厚生労働省の役人たちが書いたシナリオに基づいて行われたのが16日の「専門家会議」なのだと思われます。しかも、マスメディアがその思惑に沿った報道をしてくれたわけですから、ニュースが流れた17日は笑いが止まらなかったのではないでしょうか。

 思えば、桝添禅厚生労働大臣が深夜の記者会見をやってみたり、宇宙服のような防護服に身を固めた検疫官を空港に配置させて水際作戦を展開してみたりと、厚生労働省の役人たちが火勢を大きくしてきたように思います。今までさんざん煽り立てておきながら、国産のワクチンが用意できるのは2700万人分しかないとなって、さぞ慌てたことでしょうが、こういうのを身から出た錆というのです。
 さらに悪質だと思うのは、ワクチン接種を希望する人は自分で予約しろ、と肝心なところで突き放すようなことをしている点です。医療現場に予約希望が殺到することは火を見るよりも明らかです。現場の医療従事者たちは、それをさばく一方で患者の治療にあたらなければならないのですから、厚生労働省のやり方は無責任極まりないといえます。
 自分たちは必要なだけのワクチンを手配したのだから、後は自分の知ったことじゃない、という意識が感じられて非常に不愉快です。現場の医師や看護師、さらに事務職の人たちは自己の良心と使命感で動いているのですから、せめて彼らがやりやすいようにサポートすることを考えたらどうなのでしょうか。

 あんたたちは現場でできないことをやるから存在意義があるんじゃないのか? いったい誰のために仕事をやってるんだ?
by T_am | 2009-10-27 23:43 | その他
 大和百貨店が新潟県内の3店舗を閉店すると発表して関係者が驚きと憤りを感じている様子が報道されたと思ったら、今度は新潟の三越からマクドナルドが撤退するというニュースが報道されました。
 実をいうと、このニュースを見落としていて、セイヤさんから教えてもらうまで知らなかったのです。迂闊でした。

 マクドナルドという会社は、店長職のサービス残業のもの凄さで物議を醸したことがありますが、そんなに悪いイメージを持っていません。
 10年くらい前まではイケイケで店をつくっており、スーパーの店頭に出店しているサテライトというタイプの店はその時代の産物です。サテライトの店舗では厨房の面積も限られているために提供できるメニューにも限界があって、売上げも充分ではないようです。
 同社をみていると、こういう店を次々と閉めて、その代わりにドライブスルー店舗をどんどん出店していることがわかります。マクドナルドのドライブスルー店舗というのは車が列をなしており、客単価も高いようですから、相当高い売上げをつくっているものと思われます。他の飲食店でも真似をしてドライブスルーを設ける店が出てきています。
 そのマクドナルドも一時は業績が落ち込んで、希望退職者を募るなど荒療治をせざるを得ない状況に追い込まれました。それだけに、不振店舗で好転が見込めない店舗はスクラップする代わりに、売上げが見込めるドライブスルー店舗の出店を積極的に行っているようです。
 このように店舗のタイプをドラスティックに変更して成功した企業にヤマダ電機があります。同社では十数年前から小型店舗をスクラップして大型店にシフトするということを積極的に行ってきたおかげで2兆円企業にまで成長しました。

 ですから、マクドナルドが衰退している繁華街立地の店舗を閉めるのも企業として当然の選択であると思います。また、大和も私企業である以上、いつまでも不採算店を続けるわけにはいかないと判断したのも理解できることです。

 ご存じのように、大和の撤退に対して地元商店街は考え直してほしいといっており、市長も反対の意思表明をしています。そういいたくなる気持ちもわかるのですが、ちょっと違うんじゃないかとも思うのです。
 というのも、僕のように郊外に住む者にとって中心商店街がなくなっても別に困らないからです。わざわざ中心部まで行かなくても近くに店はいくらでもあるのですから。
 こういうことを書くと中心市街地に住む人の反感を買うだろうなと思うのですが、決して喧嘩を売っているわけではないのです。

 私にとって中心市街地にあるお店は、なくても困らない店と替わりがいくらでもある店ばかりです。そして、たぶん新潟市民の大半が私と同じように感じていると思います。
 余人をもって代え難いという人と、その人の替わりはいくらでもいる、という人とではどちらが大事にされるか,
あるいはどちらが蔑ろにされるかはいうまでもないと思います。
 今回の大和の撤退劇で反対意見を述べている人たちの主張は「百貨店という核店舗がなくなると商店街の集客力は極端に落ちる」という一点に集約されます。それは事実なのでしょうが、私が当事者であれば恥ずかしくて口が裂けても言えない言葉でもあります。なぜなら、自分の店が、なくなっても構わないどうでもいい店であると市民から思われているということを自ら認めることになるからです。でも、誰もそんなふうには考えません。
 中心商店街の衰退してきたのは駐車場が少ないからだとか、交通が不便だからだとか、あるいは郊外に大型店ができて客が奪われたからだとか、全部他人のせいにしているのです。衰退している本当の理由は、そこにあるお店はどこにでもある店であって替わりはいくらでもあると市民から思われている、というところにあります。
 そこに手をつけない限り、中心商店街はこれからも衰退していくことでしょう。いくらイベントを実施しても人が戻ってくることはありませんし、活性化対策と称して税金を投入するのはドブに捨てるようなものです。
by T_am | 2009-10-26 23:41 | セイヤさんへの手紙
 お金というのは本来、お金以外のものと交換するためのにあるので、「もの」(サービスや労働力、情報なども含みます)を提供する対価として受け取るものです。自分が提供する「もの」は、他の誰かから買い取った「もの」を原材料としてできあがっています。 あなたの目の前にあるパソコンは、部品メーカーがつくった部品をパソコンメーカーが組み立てた「もの」です。さらに、そこにはソフトという「もの」も組み込まれており、そのトータルの姿があなたのパソコンとして目の前にあるのです。
 あなたのパソコンを構成している部品の値段の合計は、パソコンの購入価格よりも低いのが通例です。10万円で買ったパソコンであれば、その部品やあらかじめ組み込まれているソフトの値段の合計は5~6万円くらいになると思われます。その差額は何かというとパソコンメーカーによる組み立て費用であったり、販促費などの経費が含まれており、さらにはパソコンメーカーの利益が含まれています(これらの総称を粗利益といいます)。それが小売店を介して購入したものであれば、さらに小売店の粗利益も含まれることになります。メーカー直販で買った方が安いというのはこのためです。小売店の粗利益(商品によって異なります)の分だけ安く買うことができるからです。
 粗利益のことを付加価値と呼ぶことがあります。
 原材料が同じであってもやり方によって付加価値は変わってきます。たとえば、ビールの中瓶の小売価格は1本250円くらいですが、普通の飲食店で頼めば1本500円くらいになります。この差額が、その飲食店が提供する付加価値です。ところが、しゃれたレストランになると1本700円くらいになります。でも、高いと思わないでしょ。
 そういうお店では、提供する料理や内装などの雰囲気、従業員の接客などが付加価値を向上させており、客にとってそういう場所で食事をするという満足感を得ることができるので、誰も高いと思わないのです。
 このことは工業製品にもいえることです。100万円の自動車と200万円の自動車と500万円の自動車を比べると、それぞれ部品が違うということがわかりますが、乗り心地も全然違っています。そういう付加価値をいかにつけられるかがメーカーの腕の見せ所となるのです。

 人間が生産し提供する「もの」は、すべて最終的に消費につながっていきます。それは川の流れのようにイメージすることができます。消費を海とするならば、小売店や販売店は河口にあたり、その上流に組み立てメーカーがあり、さらに上流には部品メーカーが存在します。もっと上流に遡ると、そこには原料や材料を提供するメーカーがあり、源流ともいうべきところまで遡ると鉱山や油田にたどり着きます。(この各段階を結びつけているのが物流です。)
 このことをまとめると次のようになります。

1.社会はたえずものが流通しており、それを媒介するものがお金である。
2.ものの流通が活発であれば、それだけ動くお金も大きくなり、社会に活気が出てくる。
3.流通の各段階で人間は労働力を提供してお金を得ており、消費の原資となっている。
4.消費があるから供給がある。
5.消費が衰えれば供給はだぶつく。

 前回も述べたように、日本社会に漂っている閉塞感は労働力の対価として得る賃金がカットされ続けてきたことによる消費の減退が企業の業績を悪化させ、さらに人件費をカットする方向に圧力をかけているという悪循環に基づきます。
 そうなった要因は二つあり、一つは海外からの輸入品による安売り圧力であり、もう一つは自己資本比率を高めるために、企業が利益の大半を内部留保にまわしてしまい、賃金を押さえつけてきたことです。
 ものを安く供給してもなお利益を確保するためにはコストをカットしなければなりません。人件費をカットするためにとられたのが派遣の導入であり、製造業派遣が解禁されたのもそのためであると考えて差し支えないと思います。日本社会全体で非正規雇用者(パート・アルバイトを含む)の割合が増えているのは、各企業が人件費を圧縮することにいかに熱心に取り組んできたかということの現れです。
 コストをカットするという圧力は仕入れ先である部品メーカーにも及んでいます。部品メーカーは販売先が限られており、納品先との力関係をみるとどうしても発言力は弱くなります。たとえば原油価格が上昇して生産コストが上昇してもそれを価格に転嫁することができない企業が多いのです。したがってここでもコストをカットする努力が求められることになり、そのしわ寄せは人件費にも向かいます。さらに、部品メーカーには中小企業が多く資金力に劣るので、新規の設備投資をする余裕がないという会社もあります。やむを得ず老朽化しつつある設備を使い回ししているのですが、そうなると生産性が向上することもなくなりますし、いずれは納品先の要求に応えられなくなってしまうことも予想されます。そうなると新しい納品先を探すか、それができなければ倒産するしかない、ということになります。

 機能としての流通は上流から下流、さらには河口(消費)までの流れが確保されなければなりません。
 極端な例ですが、中越沖地震(2007年)の際に自動車メーカーに部品を供給しているリケンの柏崎工場が被災したために、自動車各社では一時的に生産停止を余儀なくされたということがありました。
 流通の流れの中に身を置く企業は、自社の替わりがいくらでもきくというとき、その存在意義は危うくなります。逆にリケンのように唯一無二の存在であるような企業は、大小を問わずその重みを増すことになります。

 冷たいいい方になりますが、機能としての流通が確保されればものは流れていくのですから、過程がシンプルになればそれだけ最終価格は安くなります。パソコンは通販で買った方が安いというのはその実例です。
 ただし、このような流通の改革はある程度の時間をかけながらゆっくり進めないと社会に大きなダメージを与えることになります。不要となった過程では企業が倒産し失業者が溢れてしまうので、短期間で行われてしまうと影響が大きいのです。
 流通過程がシンプルになることで発生する余剰人員はどうすればいいのかというと、新たな流通を創出してそこに人員を吸収するようにすればいいのです。千人の人を養ってきた流通経路が改革によって500人の人間しか要らないようになれば、500人がはじき出されてしまいます。そこで新たに500人を必要とする流通経路を創出してやれば、人の吸収が可能となります。オバマ大統領によるグリーン・ニューディールなどはその典型的な例であるといってよいでしょう。
 ここで重要なのは、誰かがつくらないとものは存在しないということです。存在しないものは流通のしようがありませんし。また、新たにものがつくられからこそ経済活動がスタートするわけです。したがって、国の基幹産業はものをつくる産業であるということであり、国を身体にたとえると、ものをつくる産業はお金という血液を生み出す細胞のような役割を担っているといえます。
 製造業のうち大企業によって日本経済がリードされてきたというのはやむを得ないことであり、今後もその傾向は続くと思いますが、国内でものをつくる産業すなわち企業を新しく育成することに目を向けていかないと日本の未来は暗いと思います。今はそれらの分野に資金と人材を誘導する政策が必要です。
 バブルが崩壊した後に、建設業に100万人単位で人が流れていきました。それを支えるために国債を増発してまで公共事業が行われたのですが、つくったことが重荷となる箱物や採算の合わない巨大事業にも資金が注ぎ込まれ、お金の使い方としてはあまり効果のないことが行われてきました。一千億円の公的資金を注ぎ込むのであれば,その事業が稼働することによって1千億円以上の新たな経済効果が生まれなければ取り組むだけの価値はありません。そうでない事業を続けてきたから、途中で息切れをして、公共事業削減ということをやらざるを得なくなったわけです。
 そういう意味で民主党政権が主張する無駄な予算の削減というのは理論的に正しいのですが、経済効果の測定は難しいものであり、発表される経済効果の大半は支出先の変更にとどまっているといえます。
 高速道路の利用料が土日祝日は千円までとなり、各地のサービスエリアが混雑する光景がテレビで紹介されていました。当然売店の売上高も増えたわけですが、それは高速道路を利用しなければほかのことに使われたであろうお金がここで使われたに過ぎないのではないか、と思えるのです。一方でプラスの経済効果があったとしても、その分他方で広く薄くマイナスの経済効果が発生している(たとえば、旅行に出かければ普段利用している近所の食品スーパーのその日の売上げはそれだけ減ることになります)といえます。したがって、貯金を下ろして高速道路を利用するのでもない限り、社会全体の消費が増えることにはなりません。

 消費を拡大させるには、新たに流通する「もの」が増えることと支出に費やすだけの所得が確保されることが必要です。これ以外の目的で実施される施策(予算)には効果があるとは思えません。
by T_am | 2009-10-25 22:21 | その他
 社会を人体にたとえると、お金は血液に相当します。身体が小さければそれ相応の血液の量があれば充分ですが、身体が大きくなればそれだけ多くの血液(お金)が体内を循環することが必要となります。
 人間の身体でも血液が行き渡らなくなると、その部分が壊死することがあります。壊死は細胞(個人)単位でも起こりますが、組織(企業、団体、地域)でも起こります。そのことは別な機会に申し上げることにして、今回はまず、お金はどうやってつくられるのか?ということを考えてみたいと思います。

 そんなの簡単じゃん。日銀でしょ。

 残念でした。日銀(実際には東京、神奈川、静岡、滋賀にある製造工場)で自在に紙幣の印刷ができるのであれば、そもそも赤字国債を発行する必然性はなくなります。歳入が不足したら、その分紙幣を増刷すればいいのですから。
 しかし、そんなことをすればたちまちインフレが起こってしまいます。というのは、通貨の価値とは、「お金と交換できるもの」の総量に等しいからです。ものの総量が増えないのに通貨の発行量(=供給量)が増えれば、その分通貨の価値は相対的に下落するからです。その代表的な例が、第一次大戦後のドイツで起こったハイパーインフレで、このとき物価は1兆倍になったそうです。こうなるともはや財布だけでは用をなさないので、トランクやリヤカーでお金を運んで買い物をするという漫画をみた記憶があります。ちなみに1億円(1万円札で1万枚)はちょうどアタッシュケース1個分の大きさとなります。 ここでちょっと整理してみます。

 お金の供給量>お金と交換できるものの総量  
 → お金の価値が相対的に下がるので物価は上がります(インフレ)。

 お金の供給量<お金と交換できるものの総量
 → お金の価値は相対的に上がるので物価は下がります(デフレ)。

 一見すると、物価が下がった方が生活は楽になるのではないかと思いがちですが、物価が下がるということは、ものが売れないために値段が下がるということでもあります。値段が下がっても収益を確保できる企業はともかく、大半の企業では収益が悪化するので、そのしわ寄せは経費の削減や仕入れ原価の引き下げに向かい、すべての取引先を巻き込み、従業員の給料もカットされることになるのはおわかりいただけると思います。そうなると消費者の購買意欲は減退しますから、ますますものが売れなくなります。
 したがって、経済成長という言葉があるように、低い率でのインフレ状態が持続するというのが、みんながハッピーでいられる状況をもたらすといえます。

 それでは、低い率でのインフレ状態はどうやったら実現できるのかというと、消費の拡大が続くことが必要です。拡大する消費に対応するために企業では増産体制が敷かれることなりますから、売上げが増えて業績は向上し、増加した収益の一部が従業員に還元され、消費意欲をさらに刺激します。また、経費や仕入れも増えるので取引先をも潤します。さらに収益の一部は設備投資に向けられるので、他の産業(建設業や機械メーカーなど)にお金が流れ込み、そこの業績も好転させることになります。これらの企業でも業績が向上したことで、その一部は従業員に還元されるので、社会全体の消費をさらに拡大させることにつながります。

 消費が拡大していく要因は主に二つあり、一つは人口が増えていくこと。もう一つは可処分所得が増えていくことです。
 家計でも、子どもが一人増えるたびに支出が増えていくことは、子育ての経験のある方であればよくご存じのはずです。子どもが一人増えるたびに食費と教育費が増えることは避けられません。社会全体でも同じことがいえます。社会全体の消費は、一人あたりの消費×人口であり、生活レベルが落ちていかない限り、人口が増えればその分総消費も増えていくのは自明の理です。
 二番目の要因である可処分所得の増加については、どなたも経験的におわかりいただいていることと思います。ほしいものがあってもお金がなければ我慢しなければなりません。クレジットやローンを組んで買うこともできますが、支払い能力の限界を超えて買い物をすればやがて支払い不能に陥ってしまいます。しかし、可処分所得が増えればそれだけ消費にまわせるお金が増えることになります。昇給したときやボーナスが出たときに、夕食のおかずが一品増えるというのは、自由に使えるお金が増えることで生活がそれだけ楽になるという喜びの表現でもあります。

 バブル崩壊後の日本はずっと不況の中にいるというのが実感です。昨秋のリーマン・ショックまでは景気の上向き加減が続いていたといわれていますが、それは経済成長率だけをみた話であって生活実感を伴わない観測に過ぎません。バブル崩壊後のリストラや賃金カットによって可処分所得は増えていませんし、派遣などの非正規雇用者も増えているので社会全体の消費も伸び悩んでいます。百貨店の販売額の下落傾向は止まりませんし、同じことは量販店にもいえることです。また、自動車の登録台数も2000年と2003年に前年比をクリアしたものの、それ以外はずっと前年割れを続けており、これも下落傾向が続いています。
 一方、人口の方はどうかというと、2006年をピークに日本の人口は減少局面に入りました。出生率の改善が望めない以上、今後も人口の減少に歯止めがかかることはないものと思われます。
 
 そのような状況の中で、みんながハッピーでいられるように、消費を拡大することで低い率でのインフレを持続するには、一人一人の可処分所得を増やしていく以外にありません。
 麻生政権で実施されたエコポイント制度やエコカー減税と補助金の支給、高速道路の千円乗り放題というと政策は、消費の拡大を目的としたものでしたが、一時的な効果しか期待できないという欠点がありました。
 鳩山政権に代わってこれから実施されようとしている各種補助金制度は、自民党政権のそれとは目的が異なるように思えます。つまり、生活者や農相従事者などを「支援」するために実施される色彩が強いといえるのです。
 もらう側にすれば、これらの補助金は「ないよりもまし」と感じているでしょうが、だからといって生活が楽になるということに結びつくとは限りません。支援策というのは、ある一定レベルを保障するというものですから、最低限プラスアルファの支給額しか期待できません。それよりもむしろ、自分で働いて得た収入が増えることの方がはるかに効果は大きいと思います。(母子家庭などの社会的弱者に対する生活保護や高度医療を必要とする人に対する医療費保障などは外すことはできないのはいうまでもありません。)
 
 給料が増えない、非正規雇用労働者が増え続けるというのは、企業が人件費がコストとみなしているからです。利益=粗利益(売上げ-売上原価)-費用(コスト)ですから、売上げが減れば(売上原価も減ります)コストを減らして収益確保に走ることは、営利を目的とする以上避けられません。それでもバブル崩壊までは人件費には手をつけること(露骨な人減らしと減給)にはためらいがあったのですが、バブル崩壊後の不況はそのためらいを一蹴してしまいました。リストラが行われたことで終身雇用がなくなり、ついで成果給が導入されたことで年功序列型賃金体系が崩れてしまいました。さらに、正社員を派遣社員に置き換えて、人件費をいかに減らすかということに主眼が置かれるようになりました。
 このことは経営者の身勝手のようにみえますが、このような「改革」を行なう企業の株価は却って上がったのですから、社会(というより私たち自身)も、利益を至上のものとする考え方に同意署名したのだといえます。
 お金を、国中を巡る血液とするならば、利益の追求を至上のものとする考え方はお金の偏在を積極的に推進することにつながります。それは、誰かが富を集めればその割を食う人たちがそれだけ出てくるということを意味します。当時、その考えに署名同意した私たちは、自分が割を食う立場になるかもしれないなどとは思ってもみませんでした。社員にリストラを宣告する人事部長は、自分がクビになるかもしれないとは思いません。むしろ自分だけは例外であるという根拠のない確信を抱いていたはずです。
 国民の間に、ある種の気分が蔓延したときに国の舵は切られます。小泉構造改革といわれていますが、当時国民がそれを支持したからこそ改革路線に舵が切られたのであって、今日それが修正されようとしているのはそれがもたらした悲惨さに私たち自身が絶えきれなくなりつつあるからです。決して一部の政治家だけに責任があるのではありません。

 今必要なことは、労働者を使い捨ての消耗品とみることを止めて、働いた分に応じてまともな給料を支払うことが当たり前であるという社会的な合意が形成されることです。政府がどれだけ補助金を支給しても増え続ける弱者を救済することはできません。逆に、補助金が増えていけばそれを賄う財源を確保するために増税が行われ、却って弱者の生活を圧迫するという皮肉な事態の到来を招く恐れもあるのです。
 では、今何をするべきかというと、ものをつくる産業を支援することであるというのが私の考えですが、これについては改めて申し上げることにします。
by T_am | 2009-10-24 11:48 | その他
 亀井静香金融・郵政担当相が推進している返済猶予制度に関する法案が国会に提出される見通しとなりました。伝えられるところによれば、中小企業の債務の「返済猶予期間は最長3年」とし、「利息の一部の支払いも猶予」されるのだそうです。といっても、これだけはどのような制度になるのかさっぱりわかりません。あれこれと推測することはできますが、不確かな情報に基づいて合理的な判断ができるはずがないのですから、右往左往する以外ありません。政府も罪作りなことをするものだと思います。
 返済猶予制度によってもっとも迷惑するのは金融機関であることは明らかです。特に中小企業に対する貸し出しの多い中小金融機関ほど、その影響を強く受けることになります。利息の支払いが猶予されれば、それだけ収入が減ることになりますから、金融機関の収益は当然悪化します。
 ところが、それだけの犠牲を金融機関に強いておきながら、どのような効果があるのかがわかりません。自分の頭の悪さを吐露するようで気が引けるのですが、返済猶予制度は借金を棒引きする徳政令ではないので、返済しなければならない時期を先送りするだけであるといえます。
 それによって財務活動によるキャッシュフローはプラスになることはわかります。その分だけ資金繰りが楽になるはずですが、それは企業の業績が今後も変わらないということが前提条件となります。
 なんらかの理由により業績が悪化すれば、せっかくの資金もその穴埋めに使われてしまうので、あっという間に消えてしまいます。見方によっては返済が猶予された分だけ、倒産を先送りできることになるのかもしれませんが、それでは根本的な解決策とはいえません。
 また、返済猶予制度の適用は企業による申し出に基づくものになる可能性が高い(全国の中小企業に対し例外なく認めるということになると、倒産する金融機関も登場するからです)のですが、返済猶予を自ら申し出るとなると、「うちの会社は相当危ない」ということを公言するようなものですから、そのような会社に貸し出しをする金融機関が果たしてあるだろうか? という疑問がつきまといます。
 亀井大臣は、「中小の金融機関の貸し出しが不自由にならないような手当てをいま一生懸命、検討している」と述べています。この発言を素直に解釈すると、そのための公的資金の導入を検討していると理解することができます。つまり、返済を猶予しても企業が倒産すれば貸し倒れになってしまうわけです。しかし、元本が返済されないので、金融機関の資金はそれだけ逼迫することになります。そうなると企業が追加融資を求めても応えることができなくなって、結局倒産してしまえば、みんなが共倒れする危険性があるわけですから、公的資金を導入することでそれを回避しようというのでしょう。
 実は、それが功を奏するのは返済猶予期間中に中小企業の業績が回復することが必須条件となります。猶予期間が明けたけれども、あいかわらず青息吐息という状態では、公的資金を導入した分だけ今よりも悪くなることになります。
 こうしてみると、返済猶予制度が生きてくるのは、猶予期間中に企業の業績が回復するような起死回生の一手を打てるかどうかにかかっているということがわかります。つまり、返済猶予制度というのはあくまでも補助的な政策であり、補助的な政策をどれだけ並べても経済が回復するとは思えません。
 現在の不況と閉塞感は、国の隅々にまでお金が回らないような状況に陥っていることに由来します。収入の格差と地域間の格差が定着し、ややもすると拡大しつつある状況なのですから、人間にたとえると慢性的な貧血に苦しんでいるようなものです。
 過去においては、公共投資という「輸血」をすることで貧血症状を緩和させる政策がとられてきましたが、身体のあちこちで動脈硬化をおこしているために、末端部分にまで血液が巡っていかないという事態が起こっていました。
 小泉内閣によって、その輸血量が激減したために、急速に貧血症状が悪化してきたというのが今の日本の姿です。
 返済猶予制度というのは、その貧血状態を一時的に麻痺させるというものであって、貧血を解消するものではありません。メインとなるのは、国の隅々にまでお金という血液を巡らせる仕組みに作り直すという政策なのです。
 したがって、これらの政策は自動車の両輪のように本来セットで提出されなければならないのですが、肝心の部分が示されてはいません。
 残念ながら民主党政権が打ち出している政策(子ども手当や高校授業料無償化、あるいは高速道路の無料化や農業所得保障制度など)は、今のところどれも補助的な政策ばかりであり、栄養失調の患者に対しビタミン剤を大量に処方するようなものです。
 そういう部分に対して財源を割くというのは極めて危険であると申し上げざるを得ません。
by T_am | 2009-10-19 23:14 | その他
 今の日本で最も割に合わない職業といえば、たぶん教師ということになるのだろうと思います。というのは、教師に対する要求は年々増え続けてきており、それができないときは不適格教師というレッテルを貼られてしまうからです。
 教師の仕事をざっとあげてみると、授業をどのように組み立てるかという事前の準備があります(これは、本人の要領のよさにもよりますが、良心的であればあるほど時間がかかるだろうと容易に予測することができます)。そして、時々行われるテストの採点(ときには問題づくりもしなければなりません)をし、記録につけるということもしなければなりません。
 さらに担任になると、生徒指導というものが加わり、生徒の一人一人をみなければなりません。小中学校では年に数回保護者との面談もありますから、その準備も大変です。
 また、部活の顧問になるとさらに時間をとられることになります。昔と今を比べると、顧問となっている教師の取り組み方・時間のかけ方というのは雲泥の差があると思います。それだけ今の教師は時間を割いているということです。
 ほかにもいろいろとあるのでしょうが、ざっとみても教師はこれだけのことをやらなければなりません。そこに、何かしら問題が発生しようものなら、パンクしても不思議ではないと思います。
 みんなよくやっていられるな、と思うのです。
 オーバーワークになったときの人間の行動のひとつに、「放置する」というのがあります。つまり、「何もしない」というものです。それがやっかいなものであれば、見て見ぬふりをすることで過負荷となることを避けようという心理が働くのです。
 今までやってきたことと同じことをやり、新しいことに手をつけない限り、オーバーワークになることはありません。ベテラン教師が陥りやすいマンネリ(授業内容が毎年同じという教師は昔もいました)もそれにあたります。
 もう一つは、徹底的に割り切って自分の権利を主張することです。「勤務時間外ですからこれ上のことはできません」とか「休日なので休ませていただきます。部活の指導はできません」とかね。

 ところが、親にしてみれば、自分の子どもを預けているのですから、教師に対して何らかの期待を持つのは当然であり、やむを得ないことであるといえます。自分の期待したことを教師がやってくれれば、「いい先生にあたってよかった」ということになりますが、そうでなければ「あの先生はなにもしてくれない」と不満を持つようになります。

 今の親は昔の親に比べると教育に対する知識をけっこう持っているので、それだけ教師に対する注文が増えていると思います。そこに、学級崩壊、校内暴力、いじめ、学力低下、等々の問題が発生すれば、その責任の所在は誰にあるのだという声が起こり、教師が槍玉にあげられることになります。

 安倍内閣のときに教員免許の更新制度が導入され、今年から実施されました。当初はいわゆるダメな教師の免許を更新しない(つまり排除する)ということを念頭においていましたが、その後、文部科学省によれば「定期的に最新の知識技術を身につける」という目的に変わっていきました。これをまともに受け取れば、まことにけっこうな制度であるといえると思います。
 しかしこの制度には日教組が反対しており、それを支持基盤とする民主党政権はこの更新制度を廃止する意向を打ち出しました。
 10月14日、文部科学省の鈴木寛副大臣はマニフェストに掲げている教員養成課程の6年制や専門免許制の導入に伴い、スタートしたばかりの更新制度を廃止する考えであることを発表しました。6年制というのは従来の4年制に加え、大学院での2年間の修士号取得を免許の条件とするほか、従来は2~4週間だった実習期間を1年間に延ばすというものです。また専門免許は従来の免許の上級免許にあたり、実務経験8年以上の教師が2年間の研修を経た上で取得できるというものだそうです。
 6年制にすることに対し、当然反対する声もあがっており、その理由として教師としての適格性は学歴とは関係ない(大卒でもダメ教師はいるし、短大卒でも優秀な教師はいる)以上6年に延長するのは無駄であるというものです。
 また免許の更新制度廃止に対しても、現状を見る限り教師たちは真剣に講習を受けており、講習する側の準備と受講する側の意欲によって大きな効果が期待できるとして反対する声もあり、まさしく正論であるといえます。
 さらに更新制度廃止に反対する意見として、せっかくダメな教師を排除することができる制度を設けたのになぜ廃止するのだ、というものもあります。
 9月14日付の産経新聞の「主張」欄では次のような意見が述べられていました。


(前略))
 また教師は自分の授業を客観的に評価される機会が極めて少ない。ベテランがマンネリ化し、学級崩壊を招くケースも報告されている。指導法を見直す機会としても、更新制は意味が大きい。
 輿石氏(民主党参院会長のこと。輿石氏の支持母体は日教組である。筆者注)は過去にも「教員の政治的中立はありえない」などと耳を疑う発言をした。だが政権が代わったからといって、教育の重要施策が特定団体の意向などでねじ曲げられることは許されない。
 家庭や地域の教育力低下が懸念される中、公教育再生のカギを握るのは教師だ。適切に評価し、鍛える更新制を機能させねばダメな教師が増えるばかりだ。



 産経新聞らしい論調であるといえばその通りですが、この文章が、ダメな教師が今日の教育の改革を阻む要因となっているという前提で書かれていることは明らかです。
 でもね。ダメな教師というのはいったいどのような教師をいうのでしょうか? 授業が下手? 学級崩壊をくい止めることができない? いじめがあっても見て見ぬふりをしている? 校内暴力が起こっても対処できない?
 
 生徒が教師に服従するのは、ある種の「約束事」に基づいています。その約束事というのは、「先生のいうことをきかなければならない」という至極単純な義務感に由来します。子どもが親のいうことをきくのは、そのように躾がされるからです。これを我慢という言葉に置き換えてもできるでしょう。ときには地域社会がそれを子どもに教えることもあります。
 けれども何らかの事情によって、我慢することを覚えなかった子どもや我慢しなくてもいいのだと思った子どもは、いとも簡単にこの「約束事」を踏みにじります。それは教師の責任でしょうか? 「家庭や地域の教育力低下」と「主張」の筆者も指摘しているように、その原因は家庭(もっとはっきりいえば親)や地域社会にあると考える方が自然でしょう。
 しかし、そのことはあまり取り上げずに、教師の対応が悪いこと(つまり、ダメ教師)の方が問題だとする論調があまりにも強いといえます。
 今の教育に問題があると感じているというのは理解します。だからといって改革の必要性を声高に叫ぶ人の中には、自分たちが現場の担当者である教師の足を引っ張っているという自覚がない人も見受けられるのです。
 たとえば体罰は、その用い方によって躾にもなれば暴力にもなります。暴力になるかどうかは用い方の問題(高校生の頃体育教官から、平手打ちをするときは鼓膜が破れない程度に気をつけていると聞かされたことがあります。つまり、相手が怪我をするかどうかが暴力と躾の境界であるというわけです)であって、体罰そのものは単なる手法に過ぎません。けれども体罰が全面的に禁止されて久しいので、教師たちは強力な手段をひとつ奪われた状態が続いています。それでも時折体罰をしたといことで新聞沙汰になることがあり、その場合、教師は校長といっしょに生徒の自宅に出向いて謝罪することが通例になっています。今日の日本社会は偏ったところで過敏になっているような気がしてなりません。

 何か問題が起こって自分がその被害者になったとき、その責任の所在を他人に追求しなければ気が済まない人というのはいくらでもいます。その人たちに共通するのはデタッチメントという特徴であり、これじゃ友達もいなくなるよな、と思わざるを得ない人が多いのです。
 その中でも特に頭の悪い人は、他人の責任を追及するときに、「文書にして出せ」とか「いつまでにやるんだ」と機嫌を自己申告させるよう圧力をかけることを平気で行います。挙げ句の果てに「ちゃんと謝罪しろ」とか、甚だしい場合には「土下座して謝罪しろ」と要求するのですが、自分の気が済めばそれで問題が解決すると思っているあたり救いようがありません。そういう頭の悪い人たちが、意欲のある教師たちを萎縮させ、自信を失わせているのです。(これはパワハラを行う上司にもいえることであり、仕事をさせるためというよりは自分の憂さ晴らしのために部下が存在していると勘違いしているのです。これもまた救いようのないバカであるといえます。)

 長々と書いてきたのは、熱心に生徒を指導している教師を何人も知っているからです。その人たちの邪魔をするようなことはしたくありませんし、これからも研鑽を積んで生徒の指導にあたっていただきたいと思います。
 学級崩壊やいじめ、学力低下という問題があることは私にもわかります。しかし、その責任を教師に押しつけて、問題を解決するためといっては制度をいじっても、かえって現場の教師のやる気を削ぎ、時間を奪う結果になっていると思うのです。
 教員免許の更新制度に伴う講習の実施というのは、意欲のある教師にとってはとてもいいことだと思います(意欲のない教師にはいい迷惑でしょうが)。それよりも、ダメ教師には免許の更新をせず失職させるというのは異常なことではないかと思います。第一に、ダメ教師の定義が明らかではないこと、第二に、人事評価について信頼性のおける手法が未だに確立されていないこと(講習後の試験に合格しなかった教師がダメ教師であるという判定には合理的な根拠があるとは思えません)、第三に、解雇権の濫用にあたると覆われるからです。
 懲戒解雇というのであれば誰もが納得するでしょうが、ダメ教師については確立した定義もなければ合理的な人事評価の手法もないわけですから、どのような教師が教員免許の更新を拒否されるかというと、恣意的に行われる危険性が高いといえます。したがって、更新制度について文部科学省が「定期的に最新の知識技術を身につける」ことを目的としていることは理に適ったものであると評価することができます。

 一方、民主党政権が打ち出している6年制については、修士号の取得を教師になるための条件とする理由に合理性があるとは思えません。また、専門免許についてはどのように運用されるのかがまだ明らかにされていないのではっきりとしたことはいえませんが、専門免許を取得しても仕事の内容が劇的に変化するのでなければ意味がないといえます。
 免許というのは、それを持っている人にしかできないことがある(大型トッラクやバスは大型免許がないと運転できません)からこそ意味があるのです。
 しかし、学校においては、生徒に教える仕事に上級も下級もありません。たとえば、普通免許しか持たない数学教師は1次方程式しか教えられないが専門免許を持つ教師は2次方程式を教えることができるという区分を設けたとして、それがばかげていることは誰でもわかることです。
 となると専門免許の活用方法としては、それがないと管理職(教頭や校長)になれないということくらいしかないと思われます。
 しかし、それならば昇格試験というもっと手軽で安上がりな方法があるのですから、わざわざ高い費用(=税金)と大勢の人手と時間をかけてまで設ける意義のある制度なのかという疑問が拭えません。それこそ「無駄な予算」ではないでしょうか?

 人は誰かが認めてくれることで嬉しいと感じる生き物です。逆に、誰も認めてくれる人がいないと寂しさと空しさを感じるようになります。さらにいえば、誰かが自分を否定すると自分の存在意義に疑問を感じるようにもなっていきます。
 私たちは他人の責任を執拗に追及することによって憂さ晴らしをしていますが、それは他人を追い詰めるだけの不毛な行為であることが多いのです。
 教師たちに同情せざるを得ないのは、絶えず保護者たちからプレッシャーをかけられているだけでなく、本来は彼らの味方であるはずの官僚と政治家たちが、改革の名の下に、彼らの足を引っ張ることに異常な熱意を燃やしていることです。
 いっそのこと教育に関わる官僚と政治家を大幅に減らした方が、余計なことができなくなるので、日本の教育にとってははるかに有益ではないかとさえ思うのです。
by T_am | 2009-10-16 23:26

 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いはほ)となりて 苔のむすまで

 日本人であれば誰でも知っている歌ですが、その意味するところは、主君の寿命(治世と解釈しても同じ)が末永くいつまでも続きますように、というものです。ただし、それでは芸がないので、「千代に八千代に」というように語呂のいい言葉を並べています。
 千代は千年、転じて非常に長い間という意味を持っています。また、八千代というのは、「白髪三千丈」とか「母をたずねて三千里」というのと同じで、非常に大きな数字を表すためにデフォルメした表現方法であって、八千年という具体的な時間をあらわすものではありません。ではなぜ「八」なのかというとその方が語呂がいいからです。「七千代」とか「九千代」では言いにくいでしょう。非常に長い年月である「千代」と「八千代」を重ねて用いることで印象を強めているわけです。
 さざれ石というのは小石のことであり、昔の人は、動物と同じように石も時間とともに成長して大きくなると考えていました。しかし、実際にそれを目撃した人はいないので、気が遠くなるほど長い年月をかけて石が成長していくのだと思われていたのです。したがって「さざれ石の巌となりて」というのは、小石が大きな岩となるまでの極めて長い時間をあらわしています。その上に、苔産(む)してくる時間も追加されているのですから、まことに抜かりがないといえます。
 
 いくら賀歌とはいえ、このような大げさなことをいわれると、そこまで自分が長生きするはずはないとわかっていても悪い気がしないものです。これから結婚する二人に向かって、「永遠の愛」と持ち上げてみせるのと同じことです。そういう縁起のいいことをいわれて怒り出す人はまずいませんから。
 
 「君が代」という言葉の意味は主君の寿命であり、同時にそれは主君の治世という意味も持ちます。治世という方にウェイトが置かれると、主家(たとえば天皇家)というニュアンスが加わってきます。つまり、個人は寿命を迎えても主家がいつまでも絶えることなく連綿と続いていくことによりその統治も同じように続いていくという、そのときの政治体制を賛美する歌にもなるのです。君が代が事実上の国歌とされたのは明治時代のことですから、このような思惑も働いたのかもしれません。
 おそらく、この歌を奏上された古代の天皇は、ずいぶん大げさなことをいう奴だなあ、と面はゆく感じながらも決して悪い気はしていなかったのではないかと思います。特に女帝の場合であれば(自分の子孫を大切に思うということに関しては男よりも敏感ですから)満更でもないと感じたのではないでしょうか。(もっとも、傍らで聞いている高位高官の中には、こいつおべっかこきやがって、と苦々しく思った人もいるかもしれません。)

 このように考えてくると、君が代というのは、たとえば新年を言祝ぐときの歌、それも前の年が豊作でみんながニコニコしているときにこそ似合う歌であるということができます。一方、戦火がもう何年も続いており、たまたま冷害で大凶作となったところに疫病が大流行している、などという状況には似つかわしくない歌であるといえるでしょう。
 そうなると、平和で豊かな時代の言祝ぎとして謳われる種類の歌であるということになります。
 また、今の政治体制を維持するということは、豊かで平和な時代がこのまま続くということが前提となるわけですから、君が代には国家の平和と繁栄を祈念しているという意味が含まれている、と考えることも可能となります。

 以上述べてきたように、君が代自体は縁起のいい歌でしかなく、決して人心を惑わすものではありません。しかし、それを解釈するのは人間ですからどのような解釈を当て嵌めることも可能です。銃やナイフが便利な道具にもなる反面、凶器にもなるということと同じように、君が代という歌も、用い方によっては道を誤る道具となります。だからといって道具そのものには罪はないのですから、これを否定したり、貶めたりするのはいかがなものでしょうか。
 見ていると、君が代に賛成する人も反対する人も、どちらも自分の主義主張を通すための道具としてこれを利用しているような気がしてなりません。
 君が代という歌の意味は、日本の国が乱れることなく平和と繁栄がいつまでも続きますように、というものであると割り切って理解すれば無害の歌であると思うのです。そのためには、あるがままをきちんと教えるということが前提となることはいうまでもありません。
by T_am | 2009-10-14 21:38 | その他
 公という言葉には、秘匿してはいけないもの、私物化してはいけないものというイメージが備わっているように思えます。
 公は私とセットになった概念であるといえます。
 社会の中に存在する無数の「私」は放っておけば無制限に拡大していく傾向があるために、それらの「私」を抑制すると同時に、「私」同士がが互いに衝突するのを防ぐ緩衝地帯としての役割を担っているようにも見受けられます。
 以下は余談ですが、常用字解によれば、公は「宮廷の中の儀礼を行う式場の平面形」であり、「ここで行われる儀礼・行事が公事・公務(おおやけの仕事)である」と解説されています。江戸時代「公」には「お上」という意味があった(公儀=幕府のこと)のはこのようなところから来ていると思います。さらに、宮廷で行われる公事や公務は等しく国民にかかわることですから、偏りがないということから公平・公正・公共という言葉が生まれてきました。
 また、「八」には開くという意味があり、公の古い字形は下半分が「口」であったことから入り口を開いて公開すると意味であると漢字源では解説しています。すなわち、おおっぴらにして包み隠すことをしないという意味になります。
 一方、「私」の源字である「厶」には、三方から取り囲んで隠すという意味があって、公とは反対の言葉であるともしています。私語(ひそひそ話)や私利(自分のためだけの利益)、私物化(独占すること)などはこの隠すという意味から来ている言葉です。そういえば私有地(他人が勝手に入ることができない土地)というのもそうですね。
 このように、公と私には相反する意味(片方はおおっぴらにする、もう一方は隠す)があるのですが、互いに光と影のようにセットで考えるべきであると思います。
 たとえば、この世のすべてが「私」に属してしまうとどうなるかというと、自分のものでないものはすべて誰か持ち主がいるということになりますから、自分の家から一歩も外に出ることができなくなってしまいます。なぜなら道路は誰のものでもないからこそ誰でも自由に歩くことができるからです。そうなると自分の土地だけで自分の食べるもの、飲むもの、着るものを調達しなければならなくなり、そんなことは不可能であるということがわかります。逆に、この世のすべてが「公」に属し、誰のものでもないということになると、たぶん人類は他の動物との生存競争に勝つことはできなかったと考えられます。もしくは今でも石器時代の暮らしをしていたかもしれません。(社会主義体制は、私有財産制度を廃止し生産手段を共有するというものでしたが、共産党幹部および官僚という特権階級を生み出し、結果として自滅してしまいました。)

 公と私はほどほどがちょうどいいのだといえます。「私」が強すぎると弱肉強食の世の中となり、今日のような格差の拡大と固定化を招いてしまいますし、その一方で「公」が強くなりすぎると個人の自由が損なわれます。かつての社会主義国に見られたように、「公」に名を借りた強権政治体制が登場することにもなりかねません。

 ここで気がつくのは、「私」は人間の欲望に基づくものですが、「公」は人間が創作した概念に過ぎないということです。既に述べたように、「公」はともすれば無制限に肥大しがちな人間の欲望を制限する作用を持ちますが、それは一人一人の自制心に頼らざるを得ないのです。だから、海岸で誰かが空き缶を捨てれば、次に来た人も安心して空き缶を捨てることになり、海岸はたちまちゴミの山と化してしまいます。
 このように「公」には危うさが伴うのですが、日本人は「世間の目」という概念を発明することで、この危うさを補強してきました。店などで子ども連れの母親が「そんなことをするとお店の人に怒られるからやめなさい」と叱る光景が以前はよく見られたものです。このような叱り方は、親の主体性(自分の子どもが悪いことをしたら親がまず叱るのが当然だという考え方)を損なうということで最近はすっかり見かけなくなりましたが、公の場では、この場にいない第三者の目を子どもに絶えず意識させることになり、その結果として自制心を養うという効果があったことは否めないと思います。
 それでも人間が群れの中で暮らす限り、少しずつ「公」という概念を身につけて育っていきます。ただし、それは自分と同じレベルの人間の群れの中ではわからないのであって、誰か自分よりも上の人(たいていは年長者)から教わらなければなりません。「公」を教えてくれるのは、自分よりも上の人たちですが、「公」を踏みにじるのもまた自分よりも上の人たちです。目上の人たちが「公」を蹂躙することが度重なると、誰もが「公」を蔑ろにするようになります。
 今日の社会で「公」に属すると思われているのは無数にあり、私たちはそのいずれかにかかわっています。もっとも身近な「公」といえば会社がそれにあたると思います。企業は社会の公器であるという格言と通じるところがあるのですが、かつて本田宗一郎と藤沢武夫が「会社は個人のものではない」として身内を入社させず、揃って現役を引退したときに世間の喝采を浴びたのは会社を「公」としてとらえる意識の琴線に触れたからです。逆に、自分の息子に跡を継がせるというのは、私企業である以上法理的に少しもおかしくないのですが、どのような経営者であってもきまりが悪いようです(それでも跡を継がせるのが普通ですが)。また、「同族会社」という言葉にある種の負のイメージがあるのも、「公」に反するという負い目によるものであるといえます。会社に対する「公」のイメージは、その会社が大きくなればなるほど、また知名度とともに強くなるようです。そこに属する社員もまた「公」に属する者として、不祥事などを起こせば、それだけ風当たりは強くなります(人間には、高みにある者を引きずり下ろすことに快感を覚えるという底意地の悪さが備わっています)。
 現代では「公」の筆頭といえば、役人・教師・警察官・消防署員・自衛官といった公務員があり、これに議員が加わります。これらの職務に就く人が汚職や不正、あるいは性犯罪などの不祥事を犯すたびに、「国民は自分たちが属する社会に対する敬意をうしなってしまう」(司馬遼太郎「この国のかたち・汚職」より)ことになります。それが社会に与えるダメージは、同じことを民間人がした場合よりもはるかに大きいために、これらの公的職業に就く人に対する風当たりはそれだけきついものとなり、ときには揶揄の対象となります。真面目に勤務している公務員の中にはそれが憤懣やるかたないという方もおられることと思いますが、現実にそのような事件が後を絶たず、日本の社会を暗くして来ている以上致し方のないことであるといえます。
 権力の暴走を防ぐために三権分立があり、さらにこれを補完するために様々な制度(たとえば検察審査会など)が設けられているのですが、決して完全ではありません。仕組みを整備することで個人が犯すミスは防止することができますが、故意に基づく犯罪行為を防ぐことはできないのです。

 「公」は社会を維持する上で不可欠の要素です。それは「私」がのさばってくると容易に蝕まれていきます。その結果、自分が属する社会に対する敬意と愛着が失われていき、殺伐とした世の中になっていくことは皆様が常々感じているとおりです。それを防ぐには一人一人の自制心に期待する以外ないというのが実情です。

 私がする行為はどこかで誰かが見ていてくれる。
 よい行いはきちんと認めてくれる人が必ずどこかにいてくれる。
 だから、私がする悪い行いは、その真似をする誰かがいても不思議ではない。
 もしかすると、その誰かとは私の子どもたちであるかもしれないのだ。
by T_am | 2009-10-13 00:27 | その他
 ちょっと前のニュースですが、大阪府の橋下知事が、非常識なメールを知事宛に送ったという理由で保健所勤務の女性職員を厳重注意しました。
 このニュースを読んで、大阪府庁にはまだ組織の二重構造があるのかなと思った次第です。組織の二重構造というのは、喩えていえば、民間企業の社員が社長の命令を無視して労働組合の委員長の指示に従う、というようなものです。民間企業における組合活動が労使の対立から協調に路線転換がされてからは、このような風潮は旧国鉄や教育の現場で散見されていました。
 行政組織のトップである知事よりも強い影響力を行使できる機関があれば、職員はそちらを優先し、知事に対し敬意を払わなくなるのも頷けます。知事に対し「お前」呼ばわりする職員が百人程度いるということですから、正規の組織の中にインフォーマルな勢力が相当深く入り込んでいることが想像されるのです。
 勤務実態がない職員に対し、咎めることもせずに給料を支払い続けたという事例は各地の自治体にありますが、そのような報道を見聞きして憤りを感じるのは、彼らが本来公のものである行政組織を私物化していると思うからです。政治家や官僚による汚職を許せないと思うのも同様の意識によるものです。

 この稿は、大阪府庁の中には権力の二重(もしかすると多重)構造があるというただひとつの仮定に基づいて書かれています。したがって、そのような構造は存在しないということであれば、知事の処分は単なるモラルの徹底という問題となります。
 橋下知事が就任した当初から知事に対し反発する職員の姿が報道されてきており、今回の騒動もその流れを汲むものであると思われます。そこに私は組織の二重構造の存在とモラルの頽廃を感じるのであり、これを看過しておくことは行政改革を不可能にすると考えるのです。
by T_am | 2009-10-11 20:44 | その他