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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 核兵器の持込みに関する日米間の密約の存在を巡って散発的に報道が続けられています。昨日は、高知県から外務省に対し、高知港に寄港を希望している米海軍救難艦の核兵器搭載の有無を照会したところ、口頭で「核兵器を搭載する能力がない以上、政府として核兵器を搭載している疑いを有していない」という回答が25日あった、という報道がなされました。従来であれば、「核兵器の持込みに関する米軍からの事前協議がない以上、核兵器はない」という回答を繰り返していたそうであり、岡田外相の密約の真相究明に掛ける意向を踏まえての変更とみられています。外務省幹部は「より真実に近い回答に変えた」と話しているそうです。

 インドのことわざで「ひとつの嘘を証するために70の嘘をつく」というのがあるそうです。嘘がばれないようにするために次々と嘘を重ねなければならないというのは、どなたも思い当たることがあるのではないでしょうか。

 余談はともかくとして、今後イージス艦(核兵器搭載能力を有する)が入港することがあったら外務省はどう回答するのかぜひ知りたいところです。きっとまた、「核兵器の持込みに関する米軍からの事前協議がない以上、核兵器はない」と回答するのでしょう。それしかいいようがないのですから。
 米海軍の艦船の中には核兵器を搭載しているものがあることは疑いようのない(そして確かめようのない)事実であり、それらが日本に寄港することは充分あり得ることです。とはいうものの、米海軍も日本国民の核兵器アレルギーは心得ていますし、そもそもどのような兵器を搭載しているかは作戦上の秘密ですから、「この艦には核兵器が搭載されています」などと認めるはずがありません。
 都道府県や野党(といっても今では与党になりましたが)もそのことを知っていて政府に問い質すことを繰り返してきたわけです。
 1960年の日米安保条約改定の際に「事前協議制度」が設けられましたが、当時の藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日大使によって、「米軍機の飛来や米海軍艦船の領海内への侵入、寄港時における現行の手続きに影響を与えるものとは解釈されない」という合意がなされました。ところが、この合意が次の池田内閣に引き継がれなかったために、63年に大平外務大臣とライシャワー駐日大使が会談して、「(日本に立ち寄るだけならば)事前協議と書いてあるけれども別に協議して頂かなくても結構ですよ」ということを確認しました。要するに核兵器持込みオッケー(ただし国内への持込みは事前協議の対象)ということになったわけです。
 そのような背景があるものですから、地方自治体や野党から「米軍が核兵器を搭載したまま日本に立ち寄っているのではないか」という質問があっても、政府は答えることができないという状況に陥ってしまいました。
 「米軍に確かめてみます」と答えても米軍が回答することはありませんし、政府による調査を受け入れるということもないことはわかっていますから、「米軍からは回答がありませんでした」と答えれば余計疑われてしまいます。したがって「確かめるので時間をください」という手は使えません。また、「核兵器はありません」と言ってしまえば、「よく調べもしないでどうして、ないと断定できるのか」と追求されるに決まっています。いっそ「わかりません」といってしまえば、その瞬間に無能力者であるという烙印を押されてしまいます。
 そこで、政府が編み出した回答が「核兵器の持込みに関する米軍からの事前協議がない以上、核兵器はない」というものでした。この木で鼻を括ったような文章には、そこで議論を一方的に打ち切るだけの力があります。同時に、万一核兵器の持込が露見しても事前協議の申し入れをしなかったアメリカが悪いのであり、日本政府の関知するところではないと言い逃れできるという狡さも兼ね備えています。さらには、政府はこれ以上この件に関わらないという強い意思(?)も表明されています。その代わり聞いている方は「今回寄港した米軍の船に核兵器が積まれているはずがない」などと信じる人は誰もいないという状況をつくり出しました。
 そういう状況が五十年近く続いてきた中で、今回「密約」があったという証拠が出てきたわけです。

 外交と防衛に関しては、国民に明らかにできないことというのがいつの時代にもある、ということは私のような素人にもわかります。試みに自衛隊の統合幕僚長を国会に呼び出して、「自衛隊が仮想敵国として想定している国はどこか?」という質問をしたとしても、「そんなものは想定しておりません」と答えるのが目に見えています。仮想敵国の想定がないのであれば、1980年以降日本が毎回必ず参加しているリムパック(環太平洋合同演習)はどこの国の軍隊を想定して演習しているというのでしょうか。
 これも、「聞いている方には信じてもらえないけれども、他に答えようがない」問題のひとつです。

 共産党はこの問題に対して「国民をだましてきた」と非難していますが、誰も政府のいうことを信じてはいませんでしたし、そういうことをしてきたから自民党は今回の選挙で見放されたのだともいえると思います。
 ですから、今回の問題で議論すべきは次の二点に絞られるべきだろうと思います。

1)日本の防衛戦略をどうするのか。
 従来通りアメリカとその同盟諸国と一体となって防衛を考えるのか、それとも独自の力で独立と防衛を維持しようとするのか。
 前者を選ぶのであれば、日本の港を米軍に提供するのは当然であり、その作戦行動のためにどのような兵器を搭載していようと文句をいう筋合いはないということになります。逆に独自路線を掲げるのであれば、アメリカに対し、日本から出て行けと言えるようになります。もっとも、その代償は高くつくでしょうが。

2)機密情報であっても旬を過ぎたものは公開するという制度
 アメリカやイギリスが規定の年数を経た外交文書を公開しているのは、歴史研究の対象とすることで気づかなかった過去の過ちを明らかにし、現代の国の舵取りに活かそうという狙いがあるためです。これは、人類が経験的に得た知恵のひとつであるといってもよいと思います。日本にも情報公開制度というのがありますが、制度としてはまだまだ不十分であるといえます。
 一度起こった事故を繰り返さないという予防とパニックを防止するためにもっとも重要なことは正確な情報を提供することです。昨年起こった食品の偽装問題で、情報を隠そうとした企業は潰れてしまいましたが、第三者を入れて正確な情報を検証した会社は生き延びることができました。国もまったく同じであると思います。
 今回の件で事務次官OBたちが語り始めているのは、このような議論をするためにはいい機会であると思います。また、情報公開法の制定時に危ない文書を破棄したという外務省の隠蔽体質は責められるべきです。しかし、これを規制する法律がない以上、運用は結局官僚任せになってしまいます。
 民主党政権は政治家が官僚をコントロールすることを考え、実行に移そうとしていますが、システムというのは担当者が変わっても機能し続けるものでなければなりません。将来民主党が政権を失ったときに、官僚の隠蔽体質が復活するようでは意味がありません。
 官僚のこのような傾向を個人の責任としていくら追及しても根絶することは不可能です。せっかく政権交代が実現したのですから、新しいシステムづくりを期待したいところですが、岡田外相が指示した報告起源である11月末以降、どのようなことが起こるのか注目したいと思います。
by T_am | 2009-09-27 14:56 | その他
 民主党のマニフェストで高校の授業料を実質的に無料化するというものがありました。当初は保護者からの申請に基づき各家庭に直接給付するという考え方でしたが、実際にスタートするにあたり、文部科学省で検討したところ在学証明書の提出など市町村の負担が大きいうえに事務経費も推定で数百億円規模になること、さらに授業料に充当される保証がないという理由で、間接方式の方がいいということになったとのことです。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090913-OYT1T00923.htm

 そういわれれば、なるほどそうだろうなと思ってしまいます。給付金を受け取っておきながら授業料の支払いに充てない(あるいは充てられない)家庭もあるだろうということは充分想像できることです。制度の目的を考えると間接方式というのは妥当であると思います。
 今回の報道で驚いた(というよりも呆れた)のは、直接給付方式だと事務経費が数百億円規模になるという推定です。4500億円のお金を支給するのに数百億円の経費がかかるというのはいったいどういうことなのでしょうか。
 そういえば定額給付金を支給する際にも、事務経費がおよそ800億円かかるということを聞いた覚えがあります。必要書類の印刷代の他。広報のための広告宣伝費なども含んだ金額なのでしょうが、今回の件といい、それにしても経費がかかりすぎだと思いませんか?
 何かやろうとするときに、これだけ巨額の経費を費やさなければ実行できない組織というのは何か重大の欠陥を抱えていると指摘せざるを得ません。読者がお勤めの会社で何かをやろうとしたときに、事務経費に総投資額のおよそ4%を費やす(公租公課は別です)ということがわかれば、経営者は激怒するのではないでしょうか。

 今回、間接方式を選択することにしたというのは、そういう意味でごくまっとうな感覚であるといえます。逆にいえば、今までそういうことがまったく議論されずに実施されてきたということになるのですが、官僚たちが予算の執行にあたっていかに無責任であったかということがわかります。
 わが国官僚組織というのは、穴の空いたホースで水を送るようなものであり、充分な水を送り込んでいるつもりでも途中で水漏れしてしまい、ホースの先端まで満足に水が届いていないという現象が起こっています。そのような状況を放置しておきながら、国の借金が増え続けているので増税は避けられないと主張するのは恥知らずというか、ほとんど詐欺であるといっていいと思います。
 政治家の役割は政策を立案して官僚に実行させることにあるわけですが、官僚組織のあり方についてもメスを入れていくのも政治家の役割です。そういう作業に取り組んでいかないと、鳩山総理が再三指摘した「予算のムダ」は明らかになっていきません。財源が確保できなければ増税もやむなしということになり、そのときは民主党が国民に愛想を尽かされるときでもあります。
 利益の極大化というビジネスマインドを政策に持ち込むべきではないというのが私の考えですが、組織のあり方についてはビジネスマインドによって設計するべきであると思います。しかしながら、今までの日本の行政が行ってきたことは、組織のあり方は非ビジネス的でありながら政策はビジネスマインドに傾いているという奇妙なものでした。民主党の中には、主張は自民党と正反対でありながらやっていることは自民党といっしょ、という人たちが大勢います。その人たちは官僚組織のあり方に手をつけることに猛反発するでしょうが、そこに手をつけない限り民主党政権に未来はないといえます。
by T_am | 2009-09-25 22:25 | その他
 鳩山首相が環境サミットで、日本のCO2の削減目標を1990年対比で25%減とすることを表明しました。ただし、日本だけでが高い目標を掲げても効果は低いので中国やインドの参加も促し、それらが前提であるといういい方もしています。
 京都議定書では、日本の削減目標は90年対比マイナス8%でしたから、またずいぶんと思い切った目標を掲げたものだと思います。これを気宇壮大とみるか、あるいは大言壮語とみるか、はたまた荒唐無稽とみるかは人によって異なりますが、鳩山総理をはじめとする民主党の皆さんは大真面目であることに間違いありません。
 何度も書いてきたように、CO2には温室効果があることがわかっていますが、それが地球温暖化の原因であると言い切るほどに人類の科学はまだ進歩していません。過去に何度も地球をおそった寒冷化(氷河期)の原因だってよくわかっていないのです。
 ですからCO2を何パーセント削減するかというのは、もはや科学の議論というよりも各国の政治の問題であると理解した方がいいと思います。

 CO2削減を唱える人というのは、実はそれぞれ様々な思惑を持っているといってもよいでしょう。一番多いのは、地球温暖化防止の為にはCO2を削減しなければならないと善意で考えている人たちです。それ以外に、CO2削減は金(ビジネス)になると考えている人たちもいますし、石油資源確保の材料にしようとしている人たちもいるようです。
 そんな中で、政治がこの問題をあつかうということは、政治家(そして官僚)達は純粋な善意で物をいっているのではないということを知っておいて損はありません。もしも、純粋な善意で動いている政治家がいるとすれば、失礼ですが政治家としては無能であると申し上げざるを得ません。もっと優先順位の高い課題がいくらでもあるからです。

 CO2削減が金(というと見も蓋もないのでビジネスということにします)になるとはどういうことかというと、まず考えられるのが排出権取引です。これはCO2を排出する権利というのを認定して、それを売買できるようにするというものです。いってみれば架空の権利ですから、そういうものが長続きするはずがありません。排出量を削減できなかった国に対する懲罰的制度だといっても、あれは前政権が勝手に決めたことでありわが国はCO2削減の枠組みから離脱する、といってしまえばそれで終わりです。
 CO2削減をビジネスとして捉える考え方は、むしろ、新しい技術の開発と設備の導入による経済効果を期待するものです。
 新しく開発された技術と設備を導入して(つまりお金を払って)も、それが今まで以上の利益をもたらすのであれば全体での経済効果はプラスとなります。ソーラーパネルを屋根に取り付けて家庭でも太陽光発電をとりいれたら、電気料が大幅に安くなったというのであれば効果はあると思います。このときに、得をした電気代の何年分でソーラーパネル設置費用が回収できるかということも大事です。運が悪ければ、回収に20年かかってその間にソーラーパネルが壊れてしまったということもあるかもしれません。この場合、その人にとってはマイナスの効果をもたらすことになります。
 現在、改正省エネ法によって、小売業などの事業所でも設備の入れ替えが検討されるようになりました。特に使用電力に大きな割合を占める照明と冷蔵庫、空調などが対象となるようです。
 電球型蛍光灯は白熱電球に対して寿命は4~8倍、消費電力量は4分の⒈以下ということから、世界的に切換が進みつつあります。現在では安い東南アジア製のものも出回っています。これに対し、最近注目されつつあるLED照明は蛍光灯よりもさらに寿命が長く(およそ5倍)、消費電力量も少ない(白熱電球対比5分の⒈)というものです。難点はまだ値段が高いというところにあり、今後量産が進むにつれて安くなっていくものと思われます。
 また、火力発電所もつくられた年代によってエネルギー効率にばらつきがあります。古くなっている火力発電所に最新鋭の設備を導入すればそれだけ効率は高まり、CO2の排出量はそれだけ減ることになります。
 このように、新しい技術を開発して、それを各企業や家庭に導入してもらえれば、開発した企業は利益を上げることができますし、購入した企業や家庭にもメリットがあるならばみんながハッピーでいられるということになります。したがって、CO2削減策を進めることは経済活動にとってプラスになるという期待も成り立つのです。だから、政治問題となるのでしょう。
 鳩山総理が90年対比25%削減を打ち出したのは、「日本もやるのだからあなたの国でもやりなさい。そのための技術と設備は日本が売ってあげますよ。」という深慮遠謀に基づくものであれば、政治家としてたいしたものだといわざるを得ません。

 断っておきますが、これらの動きによってCO2の削減ができたとしても、それが地球の気候にどのような影響を与えるかは誰にもわからないということを忘れてはなりません。地球の気候には長期的な傾向(温暖化と寒冷化)と短期的な現象(冷夏、猛暑、暖冬、豪雪、干ばつ、集中豪雨、颱風、竜巻など)があり、私たちの生活に被害をもたらすのはもっぱら短期的な現象の方です。現に、温暖化といわれていながら今年のように冷夏となる年だってあるわけですが、それを回避することは今のところ人類には不可能です。仮に、CO2の削減が温暖化阻止につながったとしても、相変わらず異常気象は発生するでしょうし、そのたびに何らかの被害が発生するのは避けられないのです。

 ちょっと意地悪ないい方になりますが、自分が稼いだお金を人間はどうするかというと、貯金をしておくか使ってしまうかの二者択一となります。エコを推進して経費を節減しても同じことです。
 節約して得たお金を使ってしまえば、それだけ新たなCO2が発生することになります。ドライブに行けばその分の燃料を消費するわけですし、買い物をしても、その製品を作ったり運んでくるためにCO2が発生しているのですから、消費が拡大すればその分CO2が増えるという道理です。
 では、使わずに貯金しておけばいいのではないかというと、そのお金は国債という形で国に吸い上げられるので、何らかの公共事業に使われることになりそこでもCO2が発生します。
 これは企業においても同じことがいえます。 
 新しく開発された技術に基づく設備を導入してCO2と経費を節減できたとしても、その分の利益が労働者に配分されたり投資にまわされることによって新しい経済活動に費やされれば、その分CO2が新たに発生することになります。もっとも、日本企業は自己資本比率が低いといわれているので、利益が増えても労働者に配分せずに内部留保にまわす可能性があるのですが・・・。
 このようにみてくると、CO2の排出量は経済活動の規模に比例するということがわかります。CO2の排出量を減らそうと思うならば、経済活動を縮小する以外に方法はありませんが、そんなことをいう政治家はいません。経済活動が拡大し続けなければ繁栄はないというのが資本主義の前提だからです。

 以上のことから、鳩山総理の大言壮語が日本国民をハッピーにしてくれるのかどうかは今後の成り行きを見なければわかりませんが、もしかすると私たちを不幸のどん底に突き落とす可能性があることも否定できません。最悪のシナリオとしては、削減目標が達成できなかったために、途上国から排出権を購入する羽目になり、その財源として炭素税を国民が負担するというものです。家計レベルでは可処分所得が減ることになるので、それだけ貧乏になるということでもあります。

 それにしても、その国のCO2の排出量というのはどうやって計算するのでしょうね。本来測りようのないものなので、何らかの計算式に基づいて決めるのだと思いますが、計算結果が不確かなものであることは間違いありません。そういう曖昧なものに一喜一憂するというのもバカげたことだと思います。
by T_am | 2009-09-25 12:44 | その他
 民主党政権がスタートしました。なかなかエネルギッシュに自民党政権とは違うというところをアピールするしています。
 そのなかで、従来と明らかに違うという点に目を向けてみると、

1)副大臣、政務官という形で政治家を官僚組織の中に百人は送り込む。
2)事務次官による記者会見の廃止
3)事務次官会議の廃止
4)一般行政に関する民主党議員の議員立法の禁止

 これらに尽きると思います。
 1)~3)は官僚の実権を奪い、政治家が指示をした通りに動けばよいという組織に作り替えることが目的であると思われます。官僚というのは、政策を遂行する立場の人をいうわけであり、政策を決定するのは政治家なのですからここまではわかる気がします。
 4)については、いささか疑問を感じてなりません。法律の起案ができない議員は存在価値を失うと思うからです。
 そもそも三権分立の思想は、国家権力を三権に分けた制度設計をすることで互いに監視するによって、その暴走を防ぐということを目的としていたものです。しかし、小選挙区制により政権与党が国会(この場合は衆議院)で過半数を握ってしまっているわけですから、国会に対し行政府の監視という役割を期待することは難しくなっています(このことは自公政権下でも同様でした。衆議院で安定多数を握っていたおかげで参議院で否決された議案でも衆議院で再議決することができました)。
 今回当選した民主党の衆議院議員たちがことごとく良心を欠落しているとは申しませんが、国会議員と行政府高官との一体化が進むことにより、国会による行政府の監視機能が事実上失われることになるという心配が生まれています。
 今回、党の指示により一般行政に関する議員立法が禁止されたわけですから、民主党の議員諸氏は自己の良心よりも党議に従う方を優先させなければならないということが明らかになったわけです。

 では、自民党の場合はどうだったのかというと、党と内閣という権力の二極構造があって、族議員たちが行政に介入していたという事実があります。それでも中選挙区の頃は、自民党が行き過ぎていると国民が判断すれば対立勢力である社会党に投票することで自民党が好き勝手できないようにお灸を据えるということが可能でした。つまり。国会はそれなりに機能していたのです。
 ところが小選挙区制度が導入されて、与党が大勝することが可能になったおかげで、国会が行政府にブレーキをかけるということが難しくなったのです。それでも参議院議員選挙で安倍内閣が大敗することで、かろうじて国会はその存在意義を国民に示してきました。それがあるから今回の民主党の大勝という事態になったのだと解釈することができますが、衆議院においては単独過半数、参議院でも社民党と国民新党を合わせれば過半数を超えるわけですから、もはやブレーキをかける勢力は存在しないといってもいい状態になってしまいました。
 幸いなことに、来年参議院議員選挙があるので、その結果によっては民主党にブレーキをかける勢力を参議院に築くことができるかもしれません。逆に、参議院でも民衆党が単独過半数を握るようになると、もはや自民党は誰に遠慮することなくやりたい放題のことができるようになってしまいます。

 小沢一郎幹事長の影響力があまりにも強くなりすぎたのではないかとの懸念があちこちで表明されています。以前書いた(「情けない出来事」)ように、ここに参議院議員会長の輿石東氏が加わると、政権運営に絶大な影響力を持つインフォーマルなポジションが成立することになります。
 立花隆さんのように、小沢幹事長がかつての田中角栄のように闇将軍として民主党を牛耳るのではないかと心配する意見も多数見受けられます。

 小沢一郎=闇将軍
 輿石東=闇の副将軍(ただし、こちらは次期参院選挙次第という危うさがあります)

 こう書くと、このお二人には誠に失礼だと思うのですが、権力がこの二人に集中する事態を招く懸念を否定できません。
 鳩山総裁以下の党幹部がそれをくい止めようと思うならば、政府部内での議論を逐一公開すること(現に議事録公開の必要性を認めています)が必要です。さらにいえば、マスコミは丁寧にそれを報道すること、そして今回民主党に投票した有権者たちがそれに目を通し自由な議論を闘わせることが不可欠であると考えます。
 今回の選挙で、私たちは民主党に大き過ぎるかもしれない力を与えました。前回、同じような信託を得た小泉純一郎という人は権力に固執する気持ちが希薄だったせいか、総裁任期の満了とともにあっさりと政権を投げ出しました。しかし、小沢一郎、輿石東という二人がそうであるとはとても思えないのです。
 民主党がこれから行おうとしていることは、ともすれば国会が行政府が打ち出した政策を追認する機関に成り下がる可能性があること、そして、その政権運営に対し行政府のいかなるポジションも有さない二人の政治家が絶大な影響力を行使しかねない状況であることを指摘せざるを得ないのです。

 今回の選挙で私たちは民主党に大きすぎるかもしれない力を与えました。
 その責任は私たち自身が負わなければなりません。もちろんマスコミも同様です。
 
by T_am | 2009-09-21 22:21 | その他
 情報には与えられる情報と、自分でとる情報との2種類があります。与えられる情報というのは、新聞やテレビ、雑誌が提供する情報がその典型ですし、学校で教師による授業もそこに含めて考えてよいと思います。
 私たちは子どもの頃から様々な情報を与えられてきているので、情報というのは与えられるのが当たり前と思っています。この、他人が自分のために何かするのは当然という意識は現代人に根強いものがあり、人間関係の不協和音の原因となっていることがありますが、そのことについては稿を改めることにして、今回は情報ということについて述べます。
 与えられる情報というのは、その発信者によって既に何らかのフィルターがかかっていると思っていいといえます。この情報を提供すること(あるいは提供しないこと)は自分にとってどのような利益をもたらすか、または不利益をもたらすかという判断をすることは人間にとって当たり前のことですから、提供される情報の中には部分的にカットされたものもありますし、極端な場合には都合のいいところだけを切り貼りされたものもあります、さらにはまったく提供されないものもあります。

 ひとつ例を挙げましょう。
 新型インフルエンザが夏場にあっても流行しているということは既にさんざん報道されていることです。その中で、新型インフルエンザ(「新型インフル」という略語が私は嫌いです)にかかった患者が死亡したという報道が相次いでいます。
 インフルエンザに罹患した患者が合併症を起こして死亡した事例というのは過去にもありました。しかし、昨年まではそれが報道されることはありませんでした。新型インフルエンザに限って死者の発生が全国ニュースで逐一報道されるという状況が起こっています。なぜかというと、そこにはニュース性(別な言葉でいうと「珍しさ」)があるからです。したがって、新型インフルエンザ患者の死亡者数が今後増えていく(ということは例年のインフルエンザ患者の死亡者数に迫っていくということでもあります)と、いつの間にか報道されなくなっていくものと思われます。
 つい数種間前まで、一週間の患者の推定発生数が報道されていましたが、今ではそんな報道はされていません。それだけニュース性を失った(つまりありふれた出来事になってしまった)からなのです。
 その出来事をマスコミが報道するかどうかの判断基準のひとつに「ニュース性」があげられます。「犬が人を咬んでもニュースにならないが、人が犬を咬めばニュースになる」という言葉があります。これは、その事実を報道することで視聴者(読者)に大きなインパクトを与えるものを選択的に報道し、そうでないものは黙殺するという性向がマスメディアにはあるということを端的に現している言葉です。ですからマスコミにとって、その出来事の社会的重大性よりもニュース性の方が優先されることがあると理解しておくべきでしょう。
 ここにもマスコミも営利企業ですから、このようなフィルターをかけて報道する対象を選別するというのはやむを得ません。ただし、なんのために情報を伝えるのかという内省が欠けていると、いわゆる「やらせ」の問題が起こったように、社会的信用を失ってしまいます。

 人を不安に陥れるような情報が流されれば、誰でもその続報を知りたいと思うのは当然の心理です。新型インフルエンザの患者数が1週間でこれだけ発生した(ただし推定値)とか、どこそこで死者が出たというニュースがこれにあたります。しかし、それならば毎週定期的に新規の患者数を報道したり、新たな死亡者発生の情報を流し続けるべきでしょう。特に死亡者の場合、季節性インフルエンザによる死亡者とみられる人が毎年どれだけ発生していたとみられるかも報道して比較できるようにするべきです。
 そのような事実が報道されることで、新型インフルエンザに対し、私たちがどのように理解し、対応したらいいのかが誰でも判断できるからです(教育の目的はこのような判断ができる人を育てることです)。
 重要なのは、判断するのは国民であって、マスコミはその材料を提供することが使命であるという謙虚さを失ってはならないということです。
 けれどもマスコミがそういうふうに考えているとは思えませんし、国民の側もマスコミに対しそれを要求しているというわけでもありません。常に、与えられた情報によって、「なんだか怖いわ」と怯えてみたり、「政府は何をやっとるんだ。けしからん!」と憤慨しているわけです。つまり情報といっしょに結論もマスコミから提供されているのに、それを疑問に感じていないのです。

 今回の衆議院選挙で自公政権が崩壊したように、私は国民の判断力というのはそう捨てたものでもないと思っています。要は判断に必要な適切な情報がきちんと提供されればいいのです。逆に、偏った情報しか提供・報告されなければどんなに頭のいい人でも判断を誤ることになります。
 これに対し、紙面が限られているとか放送時間が限られているという言い訳をマスメディアはするのですが、本音は、視聴者(読者)とはこういう情報を流しておけば満足するのだから、関心を持ちそうもない情報は提供しても無駄だと思っているところにあります。別な言い方をすれば、視聴者(読者)をそれだけバカにしているといえます。
 酒井法子の保釈後の記者会見の様子を、各社ともあれだけ多くの紙面と時間を割いて報道したのも同じ「期待」に基づくわけです。一個人の薬物使用というありふれた犯罪に過ぎないのにあれだけ置くのスペースと時間を割くというのは、その方が視聴者(読者)がくいついてくると期待があるからこそ、そのように采配しているという証拠であるといってよいと思います。

 ですから「与えられた情報」だけで判断するというのはとても危険な場合があります。特に、その情報からは特定の結論しか導くことができないというときが要注意です。
 企業においては、有能な経営者ほど現場の生の声を知りたがる傾向があります。というのは、黙っていれば部下は偏った報告しか上げてこないことを知り尽くしているからです。ところが無能な経営者はそういうことをせずに、部下が上げってきた報告だけで判断しています。そして、その経営者が厳格であればあるほど上げられる情報が偏ることになっていくというのは皮肉なことです。
 与えられた情報を吟味するには自分が既に持っている知識と経験だけではダメで、自分で情報をとるということをしなければなりません。しかし、大多数の人にとってはそういうことをしている余裕もなければツテもないというのが実態です。せめて科学的思考法について教育訓練がなされていれば情報を扱う場合にも応用が利くのでしょうが、そういうことは大学でも理科系の一部でしか行われていないのが現実です。
 それでは与えられた情報を鵜呑みにするしかないのかというとそうでもありません。自分を不安に陥れたり憤慨させるような情報は、鵜呑みにするのではなくその続報を待つことです。本当に重要で、あなたが関心を持ち続けていることであれば必ず続報が目に入ってきますし、その内容は次第に詳細なものになっています。そのときに自分で考えて判断すればよいのです。いつの間にか報道されなくなったものは、それほど心配しなくてもよかったと判断して差し支えないといえます。
 また、専門家(大学教授など)が担ぎ出されてきた場合、その問題に対してその人がどのような解決策(あるいは対応策)を提示したかをみていればよいのです。問題に対し解決策を提示して一般市民を安心させることができるから専門家といわれる(これは武田邦彦先生の指摘によります)のであって、それができない人は評論家(最近はコメンテーターというようですね)と呼ぶしかありません。評論家やコメンテーターは自分の意見を述べて議論するのが仕事ですが、議論をしたから簡単に結論が出るという問題はほとんどありません。読者がその議論に加わる(これも情報をとることに含まれます)のも結構ですし、そういう考え方もあるのかと耳を傾けるのもまた健全なあり方であるといえます。
 人は誰でも自分が見たいと思うものを選択的に見るものですし、聞きたいと思っていることは優先的に耳に入ってくるものです。つまり、情報の受け手の側にもフィルターが存在するのであって、そのことを自覚していないと判断を誤ることがあります。古来、もっとも有効な情報の取り方は他人の話を聴くということであることに変わりはありません
by t_am | 2009-09-20 19:53 | その他
 今日は彼岸の入り。隣の墓地にも彼岸花が咲いています。


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 学生の頃奈良へ行ったときに田んぼのあぜ道に咲いているのを見たのが初めてでした。変わった形をした花だなと思ってそれっきりだったのですが、今日久しぶりに彼岸花を眺めてきました。
 おかげで、彼岸花が独特の形をしているのは、同時に6本程度のつぼみが咲くからなのだということがよくわかりました。これが彼岸花のつぼみです。


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 彼岸花は、稲作の伝来と共に持ち込まれたといわれており、毒を持っていることから田や墓を荒らす動物を防ぐ為に植えられたとのことです。そういう意味では彼岸花も「外来種」なのですが、二千数百年を経た今日では日本の秋の風景として定着しています。
 なお、彼岸花は株分けによって増えるので、日本のすべての彼岸花は遺伝的に同一であるとのことです。このあたりソメイヨシノに似ていると思います。
 ですから、あぜ道やお墓に彼岸花が咲いているということは、誰かがわざわざ植えたということになります。そういえば、隣の墓地は雑草もなく、いつもきれいに手入れされていることに気がつきました。
by T_am | 2009-09-20 19:50 | 写真日記
 ちょっと前の出来事になりますが、オバマ大統領が高校で「一生懸命勉強しなさい。そうすることで国に貢献することができる。」という意味の演説を行いました。
 麻生前総理や鳩山総理がおなじことをしたら大騒ぎになるはずです。たとえば、麻生前総理が高校生に対し、例の人を見下したような調子で次のように言ったとします。

「俺も、まあ勉強はそんなにできたわけじゃないけど、それでも一生懸命勉強したおかげでこうして国の役に立つ仕事に就いているわけだ。君たちも、勉強が好きがどうかは知らんが、一生懸命勉強してだな、お国のために役に立つ人になっていただきたい。こう思うわけです。」

 たぶん、マスコミが一斉に反発しただろうと思います。教育基本法を改正するときに愛国心を盛り込むかどうかであれだけ騒いだのですから、これは鳩山さんが言っても(もちろん言い方は異なるでしょうが)同じ結果を招くと想像できます。
 そう思うと、日本人とアメリカ人とでは国に対する考え方が違うのだなということを今更ながら考えさせられました。

 大正生まれの私の義母は「男の子は国の宝だから」という言い方をします。また、司馬遼太郎さんは「この国のかたち」というテーマで文藝春秋の巻頭文を連載していました。ここでいっている「国」というのは言うまでもなく日本のことです。それだけに、このような話法に違和感を覚えることはありません。
 しかし、現代の日本人が「国」という言葉を用いることはあまりないように思いますし、その分だけ「国」というものを意識することも少ないのではないかと思います。もちろん、WBCで日本チムが勝てば喜びますし、日本人がオリンピックで金メダルを取ればやはり嬉しいと思います。こころの奥には、「日本」という国があるのでしょうが、普段それが表に出てくることはあまりないと思います。
 江戸時代には「藩」という意識はありましたが、「日本」という国を意識していた人はほとんどいませんでした。明治維新によって、天皇を中心とした中央集権国家を建設する中で「国」という概念が導入され、国民の間に広まっていったのです。
 私の義母や司馬遼太郎さんはその末裔であるといえると思います。
 先の戦争で日本が負けると、それまでの体制がすべて否定されるという時代がやってきました。その時代のうねりの中で国と自分を対比して考えるということは教育課程からきれいに消し去られてしまいました。
 戦後教育を受けて育った日本人は、国というのは自分とは無縁のところで存在しているものだと思っています。自分が物心ついたときには既に日本という国は存在していましたし、自分が死んだ後も国は残ります。自分が国に関与する出来事といえば、数年に一度行われる選挙で投票することくらいしかありません。その一票も国の行く末を決定するほどの重みがあるとも思えません。マスコミが伝えるニュースからは、政治家と言うよりも政治屋と呼んだ方がぴったりするような人たちが相変わらずうさんくさいことに精を出しているように見えます。自分には関係ない世界の出来事である。そのように考えて選挙を棄権する人も多いのではないでしょうか。

 日本人の両親から生まれればその子どもは自動的に日本人になりますが、アメリカの場合は、自分たちの先祖が海を渡ってやってきて大きな努力を払ってこの国をつくったという歴史的事実がアメリカ人の中にすり込まれています。その人たちをまとめるために星条旗に忠誠を誓うということが求められるのですから、忠誠さえ誓えば人種や民族は原則的には不問とされています、そこが日本人とアメリカ人との違いです。日本人は特に意識しなくても日本人ですが、アメリカ人の場合はアメリカ人になるのです。
 ですから、オバマ大統領が高校生に対し「一生懸命勉強して国に貢献してほしい」といっても、それは当然のこととして受け止められます。
 しかし日本では、国が国民に対して奉仕を求めるということ自体タブーとされています。先の戦争で大きな犠牲を払ったという記憶がそうさせているのでしょうが、国民からあまり尊敬されていない人物に限って国民が奉仕するのは当然という発言をする傾向があることも反発を招く要因となっていると思います。

 日本では「愛国心」という言葉は公には使ってはいけない言葉のようになっていますが、その代わり「社会」という言葉はしょっちゅう用いられています。「社会に貢献する」という理念を掲げている企業はいくらでもありますし、「社会奉仕」「社会勉強」「社会の一員として」という用語もあるくらいです。
 ここでいう「社会」というのは、「自分が属している自分のまわりの世界」という位の意味です。「社会」という言葉をひっくり返せば「会社」となるように、自分にとってそれだけ身近な存在であるということがわかります。

 私たちは自分のことはよく考えます。自分のまわりのこと(すなわち「社会」)も時々は考えます。しかし、それよりも大きな概念である国ということについて考える習慣を持っていません。
 それはなぜかというと、「国」という概念は外側の世界に対して存在する内側の世界という認識があって初めて成立するからです。明治維新の原動力はこのまま何もしなければ欧米列強に侵略されてしまうという危機感でした。そのような社会的合意が形成されて初めて、「藩」という意識を捨てて「日本」という統一国家をつくることができたのです。
 そのように考えると、現代の日本人に「国」という意識が希薄であるのは、戦後六十数年続いた平和ボケの産物であるということがわかります。安保条約によって日本の防衛について真剣に考えなくてもよいという状況がこれだけ長く続いているのですからそれも当然でしょう。ですから、防衛という職務に携わる人々は絶えず「外側の国」を意識せずにはいられないために、愛国心の強い人が登場するのも当然といえます。

 このように平和ボケでいられたことが、今までの経済的繁栄をもたらしたことは事実です。したがって今後も防衛のことなど考えずいられる体制を維持した方が我々にとって有利であるという考え方も成り立ちます。その場合、アメリカが覇権を握っているという現在の世界の情勢がこのままいつまでも変化しないということが大前提となります。世界史をみればどんなに隆盛を誇った大帝国もいつかは凋落する運命を免れることはできません。パックス・アメリカーナにもそろそろ陰りが見えてきているように思われます。
 アメリカが覇権を唱えている間は日米安保条約に寄りかかっているのが、たぶん日本にとってベストの選択なのだろうと私も思います。しかし、いつか世界のパワー・オブ・バランスが変化して、日本人が海の向こうの外国を強烈に意識しなければならないときが来ることは間違いありません。
 そのときは、日本人がもう一度「国」という存在を意識するときであり、明治維新のような動きが起こるものと思います。そのような「時代」になれば外交センスに長けた人や軍事的な才能に恵まれた人が綺羅星の如く登場するはずです。時代が人をつくる(@坂口安吾)のですから、現代の日本に外交センスが欠落しているというのも、時代がそれを要請していないと理解することもできます。つまり、埋もれた才能の持ち主はいるのですが時代が必要としないために表に出てくることがないということなのです。
 そうはいっても、戦前の日本がいつの間にか迷走していったように、未来の日本が迷走に陥らないという保証はどこにもありません。国民を煽ろうとするマスコミと簡単に扇動される国民がいる限り、むしろ、その可能性は十分にあると思います。政府だけに責任があるのではあるのではなく、国を誤らせるのは無知な国民であるという事例は、アメリカ国民が選んだブッシュ前大統領によって起こされたイラク戦争に見ることができます。

 したがって国民の質を高めていく地道な努力が今のうちから行われていなければならないのであり、そのためには国とは何か、自分たちは国とどのように関わっていくのかという真面目な議論がされること、それが教育に反映されていくことが必要だと考えます。
by T_am | 2009-09-20 05:59 | その他
 鳩山内閣が17日発足しました。「官僚依存を脱した政治を実践」すると鳩山総理は表明しています。
 そこで気になったのは、9月13日付けのニュースで、民衆等の輿石東参院議員会長が地元甲府市内の記者会見で「来年の参院選にまっすぐ走らなければならない人もいる。参院から副大臣、政務官が何人欲しいのか。こちらが『やらない』と言えば、内閣がうまくいかないこともある」と語ったと報道されていたことです。ニュースの解説では参議院には2人以上の閣僚枠を求めたたとされています。
 実際の閣僚の顔ぶれを見ると、参議院からは千葉景子法務相(当選4回)、直嶋正行経済産業相(当選3回)、北沢俊美防衛相(当選3回)の3人が入閣しています。これを見る限りでは輿石会長の「恫喝」が受け容れられたように思われますし、同氏の参議院における発言力はいっそう強まったと考えるべきでしょう。
 
 輿石東という人は旧社会党出身の国会議員ですが、やっていることは自民党とまるで同じであるといってよいでしょう。支持基盤と主張内容は違っても自分の政治力を発揮するための手法は主義主張を問わず共通するということを教えてくれる格好の材料となったといえます。ここのところを突き詰めていくと、自民党のやり方がダメだと思われているのが現在の状況ですが、実際には自民党のやり方というものはなく、能力がなくても当選回数を重ねることができる現在のシステムと、個人の能力よりも政治勢力を考慮して閣僚人事が行われてきたことが問題であったということがわかります。
 かつて自民党がやっていたように、閣僚人事を個人の能力ではなく派閥や組織の都合を優先して行ってきた結果が、国会での質問にまともに答弁できない大臣の登場を招き、結果として「官僚依存」という体質になっていったことを考えると、輿石氏のような要職にある人がこのような発言が公然と行ない、またそれを許容する体質を拭いきれない民主党が「官僚依存からの脱却」というスローガンを掲げているのは、何かの冗談なのではないかと思ってしまいます。

 今回大量に誕生した民主党の新人議員を称して「小沢チルドレン」というそうです。誰が命名したか知りませんが、この言葉が連日のようにマスコミで用いられ、それらの議員団を要する小沢一郎氏の影響力は無視できないということもいわれています。
 このことは、かつて田中角栄がロッキード事件で逮捕された後も、最大派閥の盟主として「闇将軍」といわれながらも自民党内に絶大な影響力を行使したことを思い出してしまいます。別に小沢氏は刑事被告人となっているわけではありませんが、党の(事実上の)最大の実力者が入閣もせずに影響力を温存しているという構図が健全なものであるかどうか、ちょっと考えてみればわかると思います。失政があればそれは担当閣僚と総理の責任ということになりますが、民主党最大の実力者が責任を追及されることは決してありません。もっとも安全に権力をふるうポジションについたといえます。権力の源泉は勢力の大きさであるという論理は田中角栄に象徴される自民党の論理でした。それと同じことが民主党内で起きようとしているのです。

 鳩山内閣では、事務次官会議を廃止し事務次官による記者会見も廃止するという目に見える改革を行うようですが、官僚依存から脱却するには官僚以上に有能な政治家が登場しなければなりません。今回の内閣の顔ぶれが、どれほど有能な人たちであるか私にはわかりませんが、民主党が内部に矛盾を抱えたまま政権を担当したということだけは記憶しておく必要があります。
 これらの矛盾を解決するための方法は議員定数を大幅に縮小して、能力を持った議員でなければ政治活動ができないという状態に持っていくことだと考えます。
 政治は数である、というのが従来の常識でした。「小沢チルドレン」というのは、民主党が同じ状況に陥っていることを皮肉った命名であるかもしれませんが、そのことが却って「政治てゃ数による力である」ということを追認していると思います。そして、そのことにはっきり異を唱えるマスコミや有識者がいないのは情けない出来事であると思います。
 民主党は、「官僚依存からの脱却」を謳う前に、「数に依存する政治からの脱却」を訴えるべきでしょう。でないと、次の選挙で民主党は大敗することになると思います。それでも、それで責任を負うのは鳩山さんであって小沢さんではないというところが民主党の新しい体制のミソであるといえます。すなわち、言ってることは違ってもやってることは自民党といっしょ、ということになるのです。
by T_am | 2009-09-18 22:24 | その他
 仕事では名刺管理にデータベースを使っています。最初は人の真似をして、ポケットの付いたファイルに入れていたのですが、枚数が増えてくるにつれ挫折してしまいました。保管するスペースが足りなくなったからです。
 次に取り組んだのが、市販のソフトに名刺のデータを入力するというものです。これはしばらく続きましたが、相手にファクシミリを送るための送付状をつくる際にFAX番号の写し間違いが頻繁に起きたために次第に嫌になっていきました。
 よくパソコンに向かいながら電卓をたたくという漫画のような光景を目にしますが、私がやっていたことも似たようなものでした。住所録ソフトの画面を開き、FAX番号を記憶してワードでつくったFAX送付状に入力し直すということをやっていたのです。その際に写し間違いをするというのは、私の個人的な能力の問題ですから誰を恨むこともできないのですが、どちらも同じパソコンの中で処理しているのに、なんで人間が打ち直しをしなければならないのか?という疑問を持つようになりました。
 そこで色々と試行錯誤しながら、アクセスとワードの差込印刷機能をを組み合わせて連絡先を管理するというしくみをつくりあげました。これだとアクセスのデータに基づいて、FAX送付状の宛先が自動入力されますし、メールソフトの立ち上げもワンクリックできるのでずいぶん重宝しています。
 しかし最近、電子データの検索という手法に疑問を感じるようになりました。
 私の場合、保管されている名刺データは約三千件あり(ただし95%は使われることはない)ますが、電子データで検索するのは一瞬で完了します。その代わり相手の名前や会社名をど忘れする(歳のせいかそういうことが多い)とお手上げとなってしまいます。それを回避するために、備考欄に書き留めてあるキーワードで検索できるとか、その人が関わった案件名で検索するという機能も設けているのですが、結局のところ、こちらが指定したキーワードに合致しないものは絶対に引っかかってこないということに気づいたのです。
 データベースについて定義すると、特定のルールに基づいて管理されているデータの集まり、であると考えて差し支えないでしょう。だから引き出しの中に適当に書類を放り込んでいればそれはデータベースとはいえません。その代わり、すべての書類を放り込んでいるのであれば、それは(探すのが大変でしょうが)データベースであるといえます。
 ここで重要なのは、データベースを利用する人は自分が知っているデータしか利用できないということです。自分が一人でつくりあげたデータベースであれば、その中身はすべて知っているはず(忘れていることもあるでしょうが、それは知らないとは別のこと)です。また、共有しているデータベースであれば、自分が知らないデータも含まれてきます。それでもそのデータの内の一部(名前やタイトルなど)でも知っていれば検索することが可能です。でも、知っている要素が一つもないデータは検索することができません。当たり前ですが。
 Porta(国立国会図書館デジタルアーカイブ)というサイトがあります。

http://porta.ndl.go.jp/

 これは、国会図書館を始めとした協力機関が保有しているデジタルアーカイブを一元的に検索できるサービスです。著作権保護期間の切れたもの、著作権者の承諾を得たもの、文化庁長官の裁定を受けたものをスキャンして画像(青空文庫のものはテキストファイルもしくはhtmlファイル)で提供する(書誌で提供する場合もあり。著作権が残っている本はこの方法となります)という野心的な試みであり、興味のある事柄について調べたい人にとっては非常に有益なサービスであるといえます。

 これは無い物ねだりになるのですが、コンピュータは、データベースに登録されていないデータを絶対に検索することはできません。Portaのようなデータベースもインターネットに含まれるので、インターネット事態が巨大なデータベースであるといえます。しかし、誰かがそこにアップしないデータは、GOOGLEであろうとYahoo!であろうと検索することはできないのです。Portaで検索できない場合も、まだ登録されていないということになります。つまり、コンピュータには、誰かが新規でデータを入力しない限り、既に保存されているデータしか扱うことができないという制限があることになります。よく考えれば当たり前のことなのですが、私たちはそのことを忘れがちであるような気がします。

 以上のことをまとめると、次のようになります。

1)そこに存在しないデータにはアクセスできない
2)知っている要素がまったくないデータを見つけることはできない

 このうち、2)については、コンピュータに頼る限り自分にとって未知のデータはいつまでも未知のままである、と言い換えることもできるかもしれません。

 このあたりが、人間とコンピュータの違いであるということになります。データベースに存在しない未知のデータは、誰かが入力してくれるのを待つしかありません。しかし、人間は未知の領域を知る術を持っています。それが勉強するということであり、勉強することによってそれまで見えなかった世界が見えてくるようになります。広い意味でいえば、上の学校に進学する、新しいサークルに入る、人と出会うということも未知の世界を知る術としてカウントしてもよいと思います。
 人間は変わることができるというのは、以前とは違ったものが見えるようになることを指しています。そして、自分が変わることに興奮を覚えるようになると、人間は勉強が好きになっていきます。
 ここで特記しておかなければならないのは、自分が変わるということと功利的な思考法とは常に相反するということです。こういう選択をすれば自分にこういうメリットがあるという考え方は既知の価値観(世界)の延長の上にあることですから、その人にとって未知の世界は無縁のものとなり、ときにはそれを拒絶するという行動に結びつきます。別な見方をすれば、その人の能力はそこで止まってしまうということになります。でも、そのことを自覚していない人は、会社組織の中では結構多いのです。

 以前も書いたことがありますが、Webブラウザのブックマーク(お気に入り)はその人が何に関心を持っているかを露骨に現しています。エロサイトしか見ないオジサンのブックマークはエロ系ばかり増えていく、といえばお心当たりのある方もいらっしゃるのではありませんか?
 もしも、あなたのブックマーク(お気に入り)の内容が、1年前と質的に変わっていたとすれば、それはあなた自身がこの1年間で変わったという証拠となります。
 ついでにいっておくと、このような変化をコンピュータには期待することはできず、人間だけの特権であると断定してもよいと思います。ですから、コンピュータは思考を助ける道具の一つと割り切って接する方が、依存するよりもはるかに健全であるということになります。
by T_am | 2009-09-16 22:10 | その他
 バブルが崩壊してから、景気がよかったという実感がありません(私の場合バブルの恩恵とも無縁でしたが)。当時よりも国民の可処分所得はむしろ下がっているので、一般消費がその分低迷するのも無理もないことだといえます。
 こういう状態が長い間続いたために、私たちの意識の中で、景気がよくなればすべてよくなるという期待があること事実です。景気がよくなれば雇用が回復するから派遣の問題も新卒者の就職難も解決するはずだし、中高年層の賃金と賞与のカットもなくなるので家計破綻による自殺者も減るはずだ。つまり、諸悪の根源は不景気にあると誰もが思っているのです。

 でも本当にそうだといえるのでしょうか?

 現在の日本社会が抱えている問題を個人レベルで表現すれば、可処分所得が減っていることによって思うように消費ができないということになると思います。つまり、私たちが抱えている不満は、欲しいものがあっても思うように買うことができず、我慢しなければならないというものです。確かに医療費や教育費は年々上昇していますし、賃金はさほど増えていません。正社員として就職できずに派遣労働者にならざるを得ない人は、充分な給料をもらうことができません。このような状況の中では、人は我慢することを強いられます。
 そこで、自分たちが我慢を強いられているのは景気が悪いからだと理解するのが無理もないことだと思いますし、そのような状況下で政府による失政や官僚による無駄遣いと、天下りという税金の横領のような制度が報道されれば、政権の交代を希求するのは当然であるといえます。

 厚生省の国民生活基礎調査室の「国民生活基礎調査」によれば、1世帯当たりの平均可処分所得金額のピークは平成9年の549.9万円(世帯人員1人当たり222.7万円、平均世帯人員2.95人)でしたが、平成19年では443.3万円(世帯人員1人当たり207.1万円、平均世帯人員2.69人)にまで低下しています。

http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL02020101.do?method=extendTclass&refTarget=toukeihyo&listFormat=hierarchy&statCode=00450061&tstatCode=000001031016&tclass1=000001031845&tclass2=000001031886&tclass3=000001031893&tclass4=&tclass5=

 1人当たりの可処分所得が約15万円下がる中で、日本企業は単価を上げるために製品の高級化高額化を進めてきたので、国内消費が低迷するのは当然といえます。その分を輸出で補ってきたのですが、企業が得た利益は内部留保に回されており、製造業の利益剰余金(企業が得た利益を配当や人件費などに回すことなく留保しているお金。ただし、会社の金庫室にその分の現金が積まれているわけではありません。)は、平成10年度で87兆2千億円でしたが平成19年度では124兆2千億円にまでふくらんでいます。

http://www.mof.go.jp/kankou/hyou/g677/677.htm

 この数字をみると、製造業の経営者たちは利益を労働者に配分することなくしっかり貯め込んでいる極悪人であるかのように思いがちですが、かつて日本企業は国際的にみて自己資本比率が低いと指摘されていたわけです。したがって企業にとっては利益剰余金を増やして自己資本比率を高めてきただけのことであり、いわばグローバル化を進めてきた成果なのだから何が悪い、と開き直ることもできるはずです。さすがにそういうことを公然と口にする経営者はいませんが、これも国際競争力をつけるため、ひいては日本のためと考えているのではないかとも思われます。
 したがって、大企業を悪者にして批判する勢力がある一方で、当の大企業は頑としてこれに応じることはないと推測することもできるのです。

 消費したくてもお金がなくて我慢している国民が大多数を占めている以上、国内消費が拡大することはありません。自民党が執ってきた政策は公共事業を増やすことで通貨の流通量を増やせば末端の消費者の所得も増えるはずだという理屈に基づくものでしたが、実際には非効率で無駄の多い制度によって穴の開いたバケツでせっせと水を運ぶようなものでした。ですから国民が満足するような結果にはならなかったのです。
 これに対し、民主党の政策は、そのような無駄を廃して捻出したお金を国民の間に直接ばらまくというものです。支出に見合う原資を確保できればいいのでしょうが、そうでなければ増税して財源を確保することになります。どうなるかはやってみないとわかりませんが、自民党も民主党も総需要を増やすことを目標としていることに違いはありません。

 総需要を増やすという立場に立つ限り、少子化や高齢化という現象は頭の痛い問題となります。どちらも消費を減少させるからです。
 そこで、高齢者に対しては何とか貯蓄をはき出させるという政策が執られることになり、その一例として後期高齢者制度が導入されたのだと思います。
 また、政府内に少子化担当大臣を設けて何とか出生率を高めようとしていますが、さほど効果が上がっているわけではありません。既に人口ピラミッドが逆三角形となっている以上、寿命によって高齢者が減ればそれだけ総人口は減少することになります。少子化の要因は女性の高学歴化と社会進出にあると思われますが、今更それを制限することは不可能ですから、少子化に歯止めがかかることは実は期待できないのです。人口が減少すればその分だけ経済の規模も縮小するので、当然経済成長率もマイナスとなっていきます。
 
 このように考えると、政治が介入することによって総需要を拡大させようとする政策は長期的にはさほど効果をもたらさないということがわかります。自民党が執ってきた政策は、格差を国際水準並みに拡大させしかも固定させるという結果に終わりつつあります。民主党が執ろうとしている政策も総需要が減少していく傾向が変わらない限り、国民1人当たりの負担が増大するという結果を招くことは明らかです。
 まるで日本が出口のない迷路に入り込んでいるかのようにみえますが、それというのも私たちが消費を増やし続けるという前提に立って物事を考えているからです。今の日本(と同時に世界)は、消費が増えるという前提に立って制度設計がされています。資本主義制度というのはそういうものであり、消費が増えなくても別に構わないという考え方に舵を切ることは資本主義を否定することにつながりかねません。それでも現在私たちが抱えている問題を解決する道筋はそれ(消費が増えなくても構わないと割り切ること)以外にないように思います。(だからといって社会主義を選択しようというのではありません。社会主義が人類を幸福にしないことは既に実証されています。)
 それはお金に右往左往する生き方を見直すことによって可能になると思います。お金はないと困りますが、ではどれだけあれば充分なのか、という問いに対する解答として私たちが用意しているのは「あればあるほどいい」というものです。だから、私たちはお金があるという前提で人生設計をしています。学校を出て就職をするのは当然としても、自動車も持ちたい、何年か経てば結婚もしなければならない。そうすれば子供も生まれる。子供が生まれれば充分な教育を授けてやりたい。その間に家も建てたい。等々・・・
 これらの局面ごとにお金が必要となりますが、そのときにお金があればあるほどいいというのが私たちの正直な感情です。それに替わって、どれだけお金があれば自分は充分だと思えるのかという解答を見つけることが、今後大きく変わっていく世の中を私たちが生きていく上で重要になっていくように思われるのです。
by T_am | 2009-09-13 23:06 | その他