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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

<   2009年 08月 ( 14 )   > この月の画像一覧

 関東に住む人と一緒に大阪で会いました。その人はマスクを着けており、マスクをした人を久しぶりに見た思いでした。新潟ではマスクをしている人はいませんし、大阪でもいません。そのことを述べると、
「こっちの人は誰もマスクをしてねえんだよな。東京じゃマスクしてる人が結構多いんだよ。」
「たぶん、大阪の人は前回の騒動で懲りたんですよ。でも東京ではマスクをしている人が多いんですか?」
「結構多いよ。」
「やっぱりあれですか?公共的な施設の入り口には消毒用アルコールのスプレーボトルが置いてあるんですか?」
「そうだね、商業施設はどこも置いてるよ。」
「へえ、ずいぶん徹底してるんですね。」

 群集心理というのでしょうか、周りの人が自分と違うことをしているのを見ると、自分が取り残されたような不安を覚えることがあります。マスクの予防的着用も、消毒用アルコールの設置もそのような心理から広まっているものと思います。
 マスクも消毒用アルコールも在庫が品薄になっていると聞きます。これらの対策が有効ではないとは申しませんが、健康な人がこれらの在庫を消費することで、リスクを抱えている人々(妊婦や基礎疾患を抱えている人)に行き渡らなくなる可能性が増すように思います。

 最近の新型インフルエンザ報道で気になるのはワクチンのことです。新型だけにウィルスに対する免疫を持っている人がいないので、季節性インフルエンザよりもかかりやすくなっており、患者数は最大五千万人くらい発生するのではないか、という予測もあります。これに対して、厚生労働省の見積もりではワクチンの必要数は最大で5300万人分となっています。しかし、ワクチンを製造するウィルス株が思うように増えないことから全数確保が難しいということも報道されており、充分な数のワクチンが行き渡らないことから優先的にワクチンを接種する対象と順位を9月中に決めて10月下旬から接種を開始する予定とのことです。

 これら一連の報道を見聞きしていると、あたかもワクチンが特効薬であるかのように扱われているような気がしてなりません。ワクチンとは、感染を予防する目的であらかじめ体内に抗体をつくっておくために接種するものです。したがって、インフルエンザの場合、流行期を迎える前に接種しなければなりません。既に新型インフルエンザの全国的な流行期に入っているということですから、本来ならば既に接種が始まっていないといけないはずです。ところが接種の開始は10月の下旬であるというのですから、理解に苦しみます。

 と、ここまで書いたところで、もう一度事実確認をしておこうと思い、ネットを漁りました。以下は8月28日付けの中日新聞からの引用です。

「全国5000の定点医療機関から報告されたインフルエンザの患者数は23日までの1週間で1万1636人に上り、1施設当たり2・47人になったことが28日、国立感染症研究所のまとめで判明した。ほとんどが新型インフルエンザとみられる。
 感染研は、報告をもとに全国の患者数は約15万人に上ると推計した。前週の推計では約11万人だった。学校が再開する9月以降は、患者数がさらに急増する可能性もある。 前週の患者数は7750人、1施設当たり1・69人で、それぞれ大幅に伸びている。(以下略)」

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/swine/list/200908/CK2009082802000259.html?ref=rank

 この記事の中には一つの事実と、二つの推測が書かれています。事実とは、何型かわからないけれども5千カ所の医療機関からの報告を集計するとインフルエンザの患者が1週間で1万1636人発生したということがわかった、ということです。
 推測の一つ目は、そのほとんどが新型インフルエンザであるとみられる、というものであり、二番目の推測は、全国では患者数は15万人発生しているというものです。その前の週が11万人という推計でしたから4万人だけ余計に発生したということになります。 ここで注意しなければならないのは、11万人とか15万人というのは推計値であって実測値ではないということなので、新型インフルエンザの正確な患者数は誰もわからないということです。

 ところが、SAFETY JAPAN では次のような記事を掲載しています。

「1週間で11万人の新患が発生」で、ついに「流行期入り」宣言

 新型インフルエンザが、ついに日本でも流行期入りをした。ここ1週間で11万人もの患者が新規発生しており、勢いがついている。ご存じのように冬を待たずに流行するインフルエンザは日本では例外的。それだけに注意が必要だ。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20090824/175990/

 元々の発表は、1週間で11万人の患者が発生したと推測されるというものでしたが、この記事ではもはや確定した情報であるかのように扱われています。
 伝言ゲームというのは、情報が伝わっていくうちに少しずつ変化していき、しまいにはまったく違った内容になってしまうというものです。マスコミ報道を見聞きしていると、この伝言ゲームが横行しているのではないかという疑問を持ってしまいます。
 ニュースを伝える紙面や時間は限られているのですから、ニュースソースの情報量が膨大であればどうしてもそれを要約するという作業が発生します。有能で誠実な記者であれば、ニュースソースの言わんとするところを正確に伝えようとするのでしょうが、現実にはそうではないことの方が多いようです。つまり、最初に結論があって、そこに導くようにしてニュースをつくっているケースが多いということです。
 マスコミといっても資本主義社会における企業であることから逃れられないので、読者や視聴者をいかにして引きつけるかということがニュースづくりに反映されます。そのための手法として、情報を小出しにすることと感情を煽ることが日常的に行われています。
 テレビを観ていて、いいところでコマーシャルになったという経験をお持ちの方は多いと思います。これなどが情報を小出しにする典型的な例ですね。新聞であれば連載記事や掲載面を分けるというのがこれに該当します。
 感情を煽るというのは、読者や視聴者の良心・正義感を刺激する場合もありますが、昨年から目立つのは、不安をかきたてることやりかたです。
 覚えておいででしょうか? 昨年、ガソリン代や食品の価格が急騰したときは、マスコミはこれでもかこれでもかというくらい周到に報道していました。しかし、その後価格が下落局面に入ると、それを伝える記事は激減しました。
 同じことは、今年春の新型インフルエンザの国内侵入の際にも行われました。最初の患者らしき人が成田空港で発見されたときは桝添厚生労働大臣自ら深夜の記者会見に臨むというものものしさでしたので、それだけ大変なことなのかという衝撃を国民に与えたと思います。その結果、健康な人が大勢マスクをして外出するようになりましたし、患者が発生した地域への出張や旅行を自粛する動きもありました。ご丁寧なことに、企業の対応策がどうであるかをマスコミが紹介していました。そのあげく、流行地域からの旅行者に対し宿泊拒否をするホテルまで現れました。
 ところが、その後新型インフルエンザといっても、季節性のそれと毒性において大差ないということがわかってからは、夏場になれば流行も収まるという先入観もあって、報道そのものが減っていき、騒動も急速に鎮静化していったことは記憶に新しいところです。
 ところが、その後夏になってもコンスタントに患者が発生していることが明らかになり、遂に新型インフルエンザによる死者も発生しました。
 現在は、国民の不安を煽るようなニュースばかりが選択的に配信されています。
 ワクチンの製造数が不足している。どのような人に優先的にワクチンを接種するのか。ました。新型インフルエンザによる死者が発生した。甲子園に出場した高校のチームで集団感染があった。同じく応援団でも集団感染が発生した。等々。
 その合間に、感染を予防するにはマスクが効果的ですとか、丁寧な手洗いが必要ですという報道もされるものですから、不安に駆られている人々が飛びつくのも無理はないと思います。

 マスクや手洗いをすることの有効性を否定するものではありません。しかし、すべての日本人の需要を満たすだけの商品在庫は存在しませんし、これからも不可能でしょう。ということは、それらの商品を手に入れるのは早い者勝ちということになります。その結果、健康で何ら問題のない人がマスクをしている中で、妊婦や人工透析・糖尿病などの基礎疾患を抱えていて、本来であればマスクによる予防が必要な人に行き渡らないということも考えられます。
 健康で何ら持病を抱えていない人が新型インフルエンザに感染しても、数日すれば快方に向かいます。また、タミフルやリレンザはウィルスの増殖を抑えることで症状の悪化をくい止める薬であって、インフルエンザを治す薬ではありません。タミフルへの耐性を獲得したウィルスが発見されたというニュースがありましたが、もともとインフルエンザを治す薬ではないのですから、不安に思う必要はありません。今までだって、タミフルを飲んでも利かなかったという事例はいくらでもあるのですから。
 インフルエンザに感染しやすい人というのは、疲労や寝不足などによって体力が落ちて本来持っている免疫力が低下している人です。ですから真っ先にしなければならないことは、規則正しい生活をするということです。そう考えると、大会期間中緊張を強いられる高校野球の選手と、夜行バスという強行軍によって甲子園球場に駆けつけ炎天下の中の応援で体力を消耗する応援団に集団感染が発生するのも当然であることがわかります。マスクをしているから大丈夫と安心して、無理な残業をさせたり、深酒や夜更かしをするのでは意味がないのです。

 マスコミによる「伝言ゲーム」は一般市民に受け継がれます。その結果、理性的に振る舞えば何でもないことでも大きな問題に発展するという経験を私たちは何度もしています。
 伝言ゲームの害を防ぐには、正しい情報を提供することに尽きます。その点、わが国のマスコミは(NHKといえども)あまりアテにしない方がいいように思います。
by T_am | 2009-08-28 23:10 | その他
 元航空幕僚長の田母神俊雄さんが、衆議院選挙の候補者の応援演説で、広島市で開かれた平和記念式典について「広島市民も広島県民もほとんどいない。被爆者も被爆者の2世もほとんどいない。並んでいるのは全国からバスで集まってきた左翼ばかり」という趣旨の発言をしたと、ニュースで取り上げられていました。
 こういう場合、その人がどういう意図で発言したかは、マスコミが報道する発言内容を鵜呑みにするわけにはいきません。記者によって発言が要約されたり、言い換えられたりするからです。甚だしい場合は前後の文脈を無視して、過激な言葉だけを取り上げて報道するということもあります。
 「事実は一つ。解釈は無数。」(開高健)ということを考えると、マスコミによる報道もしょせんは数ある解釈のうちの一つに過ぎないと思って見聞きした方がよいのです。

 そういうわけで、いつもなら田母神さんがどのように言ったのかの動画を探してテキストを起こすのですが、探し方が悪いせいか動画を見つけることができませんでした。そこで今回は推測で申し上げますことをご容赦ください。

 田母神さんの主張は、抑止力としての格の保有は有効であり、積極的に取り入れるべきであるというものですから、核廃絶を訴える広島の平和記念式典に対し、否定的な発言をするのは当然であろうと理解できます。
 他人がいかなる思想信条の持ち主であろうとそれを侵してはならず、その表現の自由を保障するというのは、自分の思想信条の自由とその意見を社会に向かって表明する自由を担保する唯一の方策です。
 しかし、表現の自由というのは放恣を許容するものではありません。あらゆるスポーツと格闘技にルールが設けられている(戦争でさえも戦時国際法というルールが設けられています)ように、表現の自由にも守るべきルールがあります。
 そのひとつに、その人の言動を批判することは構わないが、その人の出自や身分によって批判してはならない、というものがあります。
 田母神さんは、先の講演で「左翼ばかり」という言葉を使っています。この言葉はどのマスコミも用いていますから、おそらく本人の言葉であると思って差し支えないと思うのですが、議論においてこのような物言いはルール違反であることを指摘しないわけにはいきません。

 お前は○○だ。

 ○○の中にありと新湯差別用語を当て嵌めていただければ、このような修辞法がそこで議論を一方的に打ち切るものであることがおわかりいただけると思います。
 同様に、

 あいつは○○だ。(この場合も○○には、あらゆる差別用語が入ります)

 という指摘にも、○○という差別用語が持っているマイナスイメージによって、「あいつ」を裁いてもらいたいという期待が込められています。しかしながら、議論の目的は他者と自分との違いを明らかにする中でどうやってその溝を埋めることができるかをさぐることであって、相手を論破することではありません。自然科学の分野では客観的事実という反証を示すことで相手を論破することが可能ですが、それ以外の分野では反証を示したつもりでも実は解釈の相違(事実はひとつ、解釈は無数)にすぎないので、自分の法が正しいとい言い切ることはできないのです。
 そうはいっても対立する相手を論破したいというのは、人間の持つ欲求のひとつですから、掟破りをしてでも意見の異なる相手を論破しようとすることがあります。今回の田母神さんの講演もその例に漏れないと思うのです。

 では何が掟破りかというと、意見の異なる相手に特定のレッテルを貼るということがそれにあたります。それがどれほど劇的な効果を持つかということは、中世の魔女狩りや人種差別、思想信条・宗教による差別、出自のよる差別、自分たちと異なる者を意図的に作り上げることによる差別(いじめ)を思い浮かべてください。
 批判すべきはその人の行為であり、存在ではありません。
 他人にレッテルを貼り付け、そのマイナスイメージによってその人の言動や人格までも否定しようというのは自由な議論を封じることになり、思想信条の自由と表現の自由を侵害する行為です。そのような行為を看過し、あるいは同調することは、巡り巡って自分の自由を否定することにつながります。他人の自由を侵害して何とも思わない人が、あなたの自由だけは侵害しないという保証はどこにもないのです。

 余談を申し上げると、私自身、「あんた、バカじゃないの?」ということがありますが、それは「こいつに喧嘩を売ってやろう」と決意したときであり、もはや問答無用というときに限られます。ただし、喧嘩が生み出すものは何もないというのも事実ですから、自分を守るという場合以外は喧嘩はしない方がいいに決まっています。
 もっとも、交渉においてときには相手と喧嘩をするということもあります。その場合でも「左手でつねりながらも右手は握手したまま」という原則は堅持しなければなりません。

 このたびの田母神さんの発言は平和記念式典を貶めるもの、というニュアンスをマスコミによって付加されたて報道されたように感じられます。それも「無数の解釈のうちのひとつ」として考えればそのままにしておいて差し支えないのでしょうが、レッテルを貼るというルール違反がある一方で、(核兵器廃絶は)自明の真理であるという思い込みが重なったのでは議論がかみ合わないと思います。

 抑止力としての核兵器の保有は現実的な選択肢であり有効である、という田母神さんの主張に対し、マスコミや反対論者たちは無視を決め込むのではなく、きちんと反論すべき時期に来ていると考えます。
 私自身は、核兵器は従来型の戦争に対する抑止力にはなるでしょうが、対ゲリラ戦という新しいタイプの戦争に対しては無力であると思っています。その証拠に、ヴェトナム戦争ではアメリカは核兵器を使うことなく撤退する羽目になりました。また、敵国の首都を攻略して、相手に降伏させるという従来の戦争観に立てば、イラク戦争はアメリカの完全勝利だったといえます。しかし、その後の「戦後処理」はゲリラに邪魔をされて遅々として進んでいません。アメリカ兵の戦死者は、戦争時よりもフセイン大統領を逮捕してからの方がはるかに多いという事実は、この戦争がゲリラ戦に突入していることを示しています。
 双方の軍事力が正面から衝突するというタイプの戦争では、軍事力が優勢な方が勝つに決まっています。しかし、ゲリラ戦になるとこの方程式が通用しないのです。
 核兵器を持つことで他の国から攻め込まれなくなるという論理は相変わらず有効であり、田母神さんもそのことを言っているのでしょうが、現実には、それ以外のタイプの戦争、すなわちゲリラ戦に対する備えが求められる時代に入っています。ゲリラ戦に対する研究が真面目に行われない国では軍隊は過去の遺物になりかねません。

 旧日本軍の敗因は、世界の変化に目を背け自分の都合のいいように解釈することで、過去の成功体験にいつまでもしがみついていたことにあります。従来型の戦争に対して核兵器が有効であるという観念に囚われて、それ以外のことに目を向けないというのでは旧日本軍と同じ轍を踏むことになります。また、核兵器廃絶は問答無用の自明の真理であるというスタンスも健全な議論を封じ込めることになり、結局は国をミスリードすることにつながると思います。それではいつまで経っても自衛隊は浮かばれません。
by T_am | 2009-08-28 05:16 | その他
 麻生総理がまた失言をしてくれました。「金がないなら結婚するな」という趣旨の発言だそうですが、どういう仕事をしたかよりも失言の方が話題の多い人だったと後世から評価されるのかもしれません。
 今回の失言は、8月23日夜都内で行われた学生主催のイベントでのできごとだったのことで、きちんと検証してみようとネットを調べてみましたが、残念なことに質問者がどう発言したかがよくわかりませんでした。報道機関によってその発言が要約され、しかも微妙に異なって伝えられています。

(47NEWS)
結婚資金が確保できない若者が多く、結婚の遅れが少子化につながっているのではないか

(朝日新聞)
若者に結婚するだけのお金がないから結婚が進まず少子化になるのではないか

(毎日新聞)
若者に結婚資金がなく、結婚の遅れが少子化につながっているのではないか

(時事ドットコム)
お金が掛かるから結婚できず、少子化が進んでいるといわれているが

(Yahooニュース)
結婚資金がなかなか貯まらず婚期が遅れ、ひいては少子化を招いているのではないか

 言葉は違いますが、意味は次の通りであると思います。

1.お金が貯められないのでなかなか結婚できない
2.だから、結婚が遅れる
3.生まれてくる子供の数が少なくなる

 たぶん、発言者の意図は1.の前半である「お金が貯められない」というところにあるのでしょうね。それを少子化という現象に結びつけて、政治に責任があるのではないかと問うているわけでしょう。その背景には就職難や正社員になれない若者が増えているという認識があるものと推測されます。

 これに対する麻生総理の回答は動画(というよりも録音)が残っていたので、それをテキストに書き起こしてみました。

 えー 金がねえから結婚できねえとかいう話だったけど、そら、金がねえで結婚しねえ方がいい、俺もそう思うよ。そら、うかつにそんなことはしないほうがいい。(以下略)

http://www.47news.jp/movie/general/post_3189/ 

 
 いつもの、べらんめえ口調ですから、だいぶリラックスして答えていたものと思われます。この後で、俺は金がなかったわけじゃないけど結婚は遅かった、とか、きちんとした仕事をしてきちん稼いでいるということが、(男も女も)相手に尊敬の念が持てる、という意味の発言が続いています。

 べらんめえ口調にしては歯切れが悪いのがこの人の特徴で、それというのも質問と回答がまるでかみ合っていないからです。相手の発言の意図をくみ取ることができず、前半の「お金が貯まらないから結婚できない」というところしか頭に入っていません。後半の少子化という言葉はすっかり忘れているのです。
 はっきりいって、相手とコミュニケーションをとることがここまでできない人というのも珍しいと思います。

 マスコミ報道では、就職先がなかったりワーキングプアの状態にある若者に配慮を欠いた発言というコメントが付け加えられていました。事実その通りなのですが、それもこの人には他人の気持ちを理解するという能力が極めて乏しいというところに由来します。
 他人の気持ちをくみ取るという素質は、程度の差はあれ、ほとんどの人に備わっているものです。ところが、素質はあってもその気がなければ能力は開花しません。つまり、他人の気持ちを理解できない人は、そもそも理解しようという気持ちに欠けている事が多いといえるのです。
 
 他人との会話の中で、相手の詰問をはぐらかすという高等テクニックはあります。それはユーモアによって笑いを誘うことで初めて可能になるのであって、麻生総理のように訳のわからないことを並べたてたのでは、「この人、何をいってるの?」と、誠意と知能を疑われるのがオチです。
 本人は冗談のつもりで話していることが少しも冗談になっていない、というのも麻生総理に対してしばしば指摘されていることです。それも他人の気持ちを斟酌しようという気持ちが当人にないのですから、当然であるといえます。
 それでよく政治家が務まるものだと不思議でならないのですが、もしかすると、相手の話に耳を傾けないという人の方が、政治家に向いているのかも知れません
by T_am | 2009-08-25 07:01 | その他
 インフルエンザは冬だけの病気かと思ったらそうではないということがわかりました。新型インフルエンザに感染している患者数が7700人を超えたという報道があり、今回はそのことについて考えてみます。
 春から夏にかけてインフルエンザの流行は終息するというのが従来いわれていたことですが、現実はそのようになっていないようです。インフルエンザウィルスは乾燥した空気のもとで感染するということですから、夏場のエアコンの使用によって空気が乾燥している(エアコンには除湿効果があります)というのがその原因として考えられます。エアコンによって身体が冷えたり、喉が痛くなる人がいれば、インフルエンザに感染する可能性はそれだけ高くなります。
 だとすると、現在患者が発生しているのは新型インフルエンザだけなのか? という疑問が起こります。エアコンによって乾燥した空気のもとでは、すべてのインフルエンザウィルスが感染する環境が整っていると考えられるからです。
 この疑問をかかりつけの医師(彼は高校の同級生です)に投げかけてみたところ、従来型インフルエンザに感染している人もいるとのことでした。彼が言うには、今回これだけインフルエンザウィルスの患者が発生しているのは新型ということで医者がインフルエンザの検査をするようになったからだ、というのです。つまり、去年までは夏場にインフルエンザの検査をすることはなかったので、高熱が出ても夏風邪という診断がされていたということです。彼のクリニックではB型インフルエンザに感染している人が見つかったそうです。

 そうすると現在の日本では新型インフルエンザに感染した患者が日々増えているが、在来型のインフルエンザに感染している人も同じように増えているということになります。しかし、厚生労働省もマスコミも医療機関に従事する人は誰もその事実を公表しようとはしません。報道されるのは、新型インフルエンザのニュースばかりです。
 そのあげく厚生労働省は、新型インフルエンザの全国的流行が始まったという宣言を発表しました(8月21日)。
 同時に、新型インフルエンザのワクチンが5300万人分は必要という政府の見積もりに対し、国内の生産能力は1300万人から1700万人分であるという報道もされています。
 夏場のインフルエンザの流行に対し、「8月としては異例の事態です」とNHKのアナウンサーが発言していました。
 一般人がこのようなニュースを耳にすれば不安に思うのは当然でしょう。
 
 でもね、よく考えてみましょう。
 現在流行しているといわれている新型インフルエンザの毒性はそれほど強いものではなく、今までのインフルエンザと同じくらいであるといわれています。昨年まで、従来型インフルエンザの流行にあたりワクチンが5300万人分必要だと厚生労働省が発表したことがあったでしょうか? それを受けてワクチンが1300万人分も生産されたという事実があったのでしょうか? 実際には、どの方のインフルエンザが流行するかわからないという状況の中で、たぶんこの方が流行するだろうという予測に基づいて予防接種が行われていたのではなかったのですか?
 その結果、毎年冬になるとインフルエンザは流行し、学級閉鎖となる事態が日本中で起こってきました。中には、インフルエンザが引き金となって重症化したり命を落とした人もいたはずです。にもかかわらず、そのことは一切報道されなかったのです。

 現在の日本では、新型も従来型も含めてインフルエンザの患者が発生しています。
 その症状に大差はないにもかかわらず、患者数が公表されているのは新型インフルエンザにかかった人だけです。
 その上で、新型インフルエンザのワクチンの生産能力が足りないという指摘がされています。
 さらには、新型インフルエンザへの対応として、企業が公表した対策(出張の自粛など)をとるのかがマスコミによって報道されています。

 昨年までであれば単なる夏風邪としてかたづけられていたにもかかわらず、今年になってきちんと検査したことでインフルエンザであることがわかったわけです。つまり、インフルエンザウィルスは夏でも感染しているということがわかったのですから、少しも「異例の事態」ではありません。厚生労働省とマスコミにはそのことを国民に対しきちんと告げる義務があるはずです。

 このように偏向した報道は、きちんと検証しなければ統計の数字を鵜呑みにしてはいけないという原則に忠実であれば防ぐことができます。にもかかわらずそれをしないというのは、科学に対して無知なのか良心が欠落しているのかのどちらかです。そういう人たちが政府とマスコミには多いという事実を教えてくれただけでも奇貨とすべきでしょう。
 桝添厚生労働大臣は選挙の応援演説で全国を駆け巡る暇があるならば、正確な情報を国民に伝えるという努力をすべきだと思いますが、どうやらそういうことには関心がないようです。もしも気づいていないとすれば、それは学者とはいえません。そういう人でも次期総裁候補として取りざたされている自民党の人材不足は深刻な状況にあるといえます。

 読者に申し上げます。新型インフルエンザが流行しているといっても少しも慌てることはありません。むしろ、右往左往することはこの春の愚行を繰り返し、かえって社会を混乱させることに与するといってよいでしょう。
by T_am | 2009-08-21 21:33 | 科学もどき
 毎日暑い日が続いています。それだけ汗をかくということであり、ご自分の体臭を気にされている方もいらっしゃると思います。
 そこで今回は、体臭を気にしなくてもよくなる洗濯の仕方をお話しします。

 暑い日にご自分の体臭が気になるという方は、特定の洋服(Tシャツやワイシャツ・ブラウス)を来た日に限って臭いがするという事実に気づいていらっしゃいますか?

 人間は汗をかくと同時に、皮膚の表面の皮脂も剥がれ落ちて下着に付着します。ある程度の温度と湿度によって活発になった最近の働きによって皮脂が分解されるときに体臭が発生します。流れ出る汗の量が多ければ、皮脂は下着を通り越してワイシャツやブラウスにも付着します。いったん皮脂が付着した繊維は、温度と湿度の条件が満たされれば最近に酔って分解され体臭を発するようになるのです。

 やっかいなことに、繊維に付着した皮脂は水洗いでは落とすことができません。

 そこで、熱湯によるつけ置き洗いの出番となります。
 それを着ると決まって体臭に悩まされるというTシャツやワイシャツ・ブラウスをバケツに放り込み、洗剤を入れてから、服を脱いでお風呂に持って入ります。
 給湯器の温度を70度以上にして、バケツの中に熱湯を充分に注ぎます。
 湯船に浸かったり身体を洗う合間に、時々押し洗い(素手でやると火傷するので手桶を使うとよいでしょう)して、お湯がバケツの中で流れるようにしてやります。こうすることで熱湯が繊維の間を通るときに皮脂が溶け出すのです。
 一時間半ほどつけ置き洗いしてからバケツのお湯をあけ、そのまま40度くらいのお湯をかけて洗剤を洗い流します。いきなり水をかけると繊維が縮むことがあるので注意しましょう。
 洗剤を流したらそのまま放置して、常温にまで冷めるのを待ちます。
 あとはそのまま脱水機にかけて干すだけです。(洗濯機でもう一度水洗いしても構いません。)

 体臭を防ぐには制汗剤を使うという方法もありますが、皮膚の弱い人には向きません。また、朝は涼しかったので制汗剤をつけ忘れて出かけたところ、日中になって暑くなったというときは体臭がするのではないかと気になってしまいます。

 今回ご紹介した方法は、お風呂に入りながら手軽にできるうえに、特にお金もかかりません。また、汗染みによる黄ばみもかなり落とすことができます。

 なお、洗剤は何グラム入れたらいいのか、などの些細なことを気にするのはやめましょう。おおらかに考えることが幸福への切符を手に入れることにつながるのですから。
by T_am | 2009-08-21 00:12 | 科学もどき
 衆議院選挙の告示が行われ、選挙カーが走るようになりました。各党のマニフェストも公表され、マスコミや識者による点検・比較が紙面を賑わせています。
 中には、今後の日本をどうするのかという理念が欠如しているという指摘もあって、その通りだと思うのですが、考えてみれば今の大勢の延長でものごとを考えるのが政治家という人種ですから無理もないといえます。
 どのような国にするかという理念はいったんできあがると、それが破綻してどうにもならない局面に至るまで堅持しようとされるものです。その証拠に、この国を導く理念の変更は過去500年の間にわずか3回しか行われませんでした。
 1回目は、江戸幕府の成立期に徳川家康と彼の後継者たちによって。2回目は明治維新のときに。3回目は敗戦後に。いずれの場合も、それまでの体制が実際にクラッシュするか、クラッシュする前にそれを回避する処方箋として提示されたという点で共通しています。

 敗戦後の日本にとっての理念とは民主国家の建設でした。それがもたらす果実は永久に続く(と思われた)経済成長が前提となっていました。経済成長を実現するために用いられた手法は、政府が産業界に介入してこれを育て上げると同時に、公共投資によって需要をつくり出すというものでした。集団就職などで地方から都市部に向けた人口移動が意図的に行われ、都市の郊外をこれらの人々が住む地域として開発していったのも、成長する産業界に対し、安定的に労働力を供給するという目的に沿っていました。
 その結果日本は世界有数の経済大国となることができましたが、物事にはプラスの側面とマイナスの側面がつきまといます。現代は、かつての「手法」のマイナス面の方が強くなった時代です。
 それを打開するために、市場原理主義に基づいた構造改革が小泉元総理によって行われました。しかしその結果は、貧富の差を拡大したあげく格差が固定化するというものでした。つまり、大多数の人たちが働いて創造した利益が一部の人に集中し、都合が悪くなればいつでも切り捨てられるという社会を到来させたのです。もっとも、この点ではアメリカの方がはるかに悲惨であり、それに比べれば日本はいくらかまし、という状況です。

 今回の選挙の最大の関心事は、政権交代が実現するかどうかというところに尽きます。それはまあよいとして、民主党と自民党のマニフェストを見ると、国民に提供する「果実」のことばかり書かれています。
 ここでいう「果実」とは国家の制度という1本の巨木に実るものであり、富という言葉で表現することもできます。
 一人の人間の労働力はタカが知れています。家内制手工業では生産力は労働人口に比例します。一人一人の持つ労働力の総和が生産力になるのです。しかし人間は、自分たちが暮らす社会にお金を媒介としてものが動くメカニズムを導入しました。それにより、人は自分の労働力を多彩なモノに交換することが可能となりました。 やがて産業革命により個人が持っている労働力の何倍もの生産力が実現するようになったのですが、これらの変化はことごとく国家の制度の中に組み込まれてきました。
 近代国家という制度は、個人が持っている労働力の総和以上の富を国民にもたらす魔法の仕組みであるといえます。その点日本は世界有数の高い効率を誇る制度を持った国だったといえます。
 富が「果実」である以上、それをもたらす制度が順調に機能していなければなりません。ところが、日本という国の制度が至るところで金属疲労を起こしていることはご賛同いただけると思います。
 そこのところをどうするのかというところには頬被りして、国民に対しこのような果実を提供しますといっているのが、各党が公表したマニフェストの実態です。
 自民党も民主党も財源さえ確保すれば国民に対し果実を提供できるという点ではまったく同じ考え方をしています。それは集めてきた税金をばらまくということです。そこで、財源が足りなくなれば増税するとはっきりいっているのが自民党であり、民主党も似たようなことをいっています。いずれも自らの無能無策を天下に暴露する行為であり、麻生総理といい鳩山代表といいよく恥ずかしくないなと不思議でなりません。

 民主党の主張は、果実の実りが悪くなったのは巨木に寄生木(やどりぎ)のようにまとわりついているものがあって栄養分を吸血しているのだから、それらを排除すれば豊かな実りが実現できるというものです。そのために、政府の中に新たな組織を設け、実行部隊として国会議員を百人規模で省庁に送り込むとしていますが、これは自己矛盾を孕んだ施策であるといえます。というのは、ポストが増えればそれに見合って仕事がつくり出されるからであり、その分だけ組織の末端の仕事量を増やします。そのため全体の仕事量が減るということはないのです。
 自民党の場合、そういうことさえも書いてありません。マニフェストの行間を読み取れば、国債を発行して国民にばらまきを実行するが、将来の増税によってそれを回収するつもりであることがわかります。麻生首相は責任力という不思議な日本語を連発しています。自民党の歴史は、失言によって辞めさせられた閣僚を除けば、失政の責任を取った政治家は誰もいないというものです。そのような政党の党首が今さら何を言うか、というのが正直なところであり、責任力というなら過去の度重なる失政に対して知らん顔をしている政治家と官僚に責任を取らせてから言え、と思ってしまいます。

 時代が人をつくるという指摘があります。もしも徳川家康が関ヶ原で敗れたとしても、いずれ別な徳川家康のような武将が登場し、似たような幕府を開いたことと思われます。同様に、明治維新を成し遂げた英雄たちは時代の後押しによって登場したものであり、たとえば西郷隆盛のような人は別な時代にうまれていれば、近郷の人々から情が豊かで目と身体の大きい人と思われて終わったことと思われます。
 時代が変わるときは、これからはこういう方向に進むべきだという暗黙の合意が形成されるときでもあります。それを思うと現代はまだ機が熟していないということになります。それまでは今の状態が続くのかと思うと気が重くなるのです。
by T_am | 2009-08-20 23:12 | その他
 今住んでいる家の隣が墓地なので、2階のベランダから一望に見渡すことができます。13日は墓参りに来る人が朝早くから夜の7時頃まで続いていました。
 お参りに来る人が何組もあるお墓はしだいに御供の花が増えていき、どんどん立派になっていきます。お墓によっては1組しかお参りに来ないものもあり、そういうお墓はまわりと比べるとちょっと寂しいように見えます。
 墓地の中には戦死した人のお墓もあって、まわりのお墓よりもずっと背が高くひときわ立派なものになっています。そういうお墓もお供えの花が1組分だけしかないので、やはりちょっと寂しげに見えます。
 考えてみると、お墓参りをするといっても、自分が知っているご先祖様はせいぜい祖父母までであり、曾祖父母になると名前も知りません。そういう人が多いのではないでしょうか。つまり、故人を知っている人が生きている間は墓参りに訪れてくれるでしょうが、その人たちも亡くなってしまったら誰もお参りしてくれないようになってしまうわけです。
 今のお墓は、昔に比べると大きさといい高さといいずいぶん立派なものになっています。この辺は地主が多いせいか隣の墓地のお墓はどれも立派で、私の背丈よりも高いお墓がいくらでもあります。墓地の中を歩くと、お墓の森の中を歩いているかのように感じて、よその墓地とは明らかに違います。
 お墓をたてるのは遺族なのですから、どんなお墓をたてるのかは遺族の気持ちしだいです。故人を大切に思う気持ちとまわりのお墓に見劣りのしないものをたてたいという思い、それを可能にする財力がこのようなお墓の森を出現させたのでしょう。嫌ないい方ですが、人の気持ちがお金に換算される仕組みの世の中になっているわけです。そういえば、葬式の代金を値切る人はいないと聞いたことがあります。その支払いも現金一括払いですから、今後の高齢化もあって葬式産業の未来は明るいということが、私のような素人にもわかります。
 しかし、そのようにして立派なお墓をたてても、故人を知っている人が途絶えればそれで終わりとなります。隣の墓地にも、誰もお参りに来なかったお墓があります。それも立派なお墓であるだけに、この家の人はいったいどうしたんだろうと思ってしまいます。もっとも家族揃って海外旅行でもしているのかもしれませんが、何だかわびしい様子が漂っています。
 自分を知っている人はどうせいつかはいなくなるということを思うと、何もそんなに立派なお墓をたてなくてもいいのではないか、という気もします。
 自分で墓を建てるのであれば、墓石は膝の高さまで。そこに墓があるという目印になればそれでよく、私の子供や、(まだいませんが)孫が死んでしまった後は忘れられて野に帰るような墓が望ましいと思います。

 墓参りは死者に語りかけるための行為であると割り切ってしまえば、人目を気にする必要もなくなります。
 それにしても、前総務大臣が郵政会社の社長人事を巡る問題で辞任したときに墓参りをする様子がテレビのニュースで流れていましたが、なんだかわざとらしいと感じてしまいました。ああいうプライベートなところをテレビカメラに撮らせるという神経が、私には理解できません。

(補足)
 隣の墓地には、戦死した夫のためにその妻が昭和15年にたてた墓があり、お墓の森の中でもひときわ高くそびえ立っている。陸軍歩兵の上等兵として亡くなったこの人とその妻がどのような人であったか私は知らない。墓石に勲八等功七級と刻んだのは、夫がどういう人であったかを残そうとした妻の意志によるものであろう。
 戦死した兵士のために家族がたてた墓というのは全国にあり、立派な墓が多い。この墓も残された妻にとって可能な限り立派なものにしたかったのだと想像される。
 この墓には、今年一組だけ墓参者があった。
by t_am | 2009-08-15 06:37 | その他
 今日は8月15日。日本の敗戦記念日です。この頃になるとマスコミは戦争の悲惨さを繰り返し報道します。非戦闘員への無差別爆撃の悲惨さ、その究極の形としての原爆投下。外地から引き上げてきた来た民間人の苦難。あるいは戦争にかり出された兵士の体験。いずれも戦争をしてはいけない理由として充分な説得力を持っており、戦争を知らない世代に語り継ぐだけの価値があると思います。

 にもかかわらず憲法を改正しようと主張する人たちがいます。

 そこで今回は、なぜ戦争をしてはいけないのか、を考えてみます。
 わが国でも戦争体験のある人たちは、二度と戦争をしてはいけないと考えています。意外に思うかもしれませんが、金日成も生前はそう主張していました。
 この人たちに共通しているのは、自国が攻め込まれたという体験です。つまり、戦争の悲惨さを知っているのは戦争に負けた(もしくは自国領土に攻め込まれた)経験のある人たちであるということであり、戦争に勝った側の人間にはこのような知識もないので、戦争を忌避するという発想がないのです。
 同様に、戦争に負けるはずがないと考えている人たちにこのような悲惨な戦争体験をいくら聞かせてもまるで意味を持ちません。戦争に負けたからそうなったのであって要するに勝てばいいんだろう、というのがこの人たちに共通する心理です。それが決して特殊なものではない証拠に、日清戦争が終わったときも日露戦争が終わったときも、戦争の悲惨さを憂える声が日本の世論となることはありませんでした。先の戦争に負けて初めて気がついたのです。

 だからといって、戦争体験を語り継ぐことが無意味だというのではなく、問題はそれを聞く側にあります。自分たちは戦争に勝ったとしても、負けた側はこのような悲惨な体験を強いられているという想像力を持つべきなのです。
 戦争開始を決定するのは権力を握っている一部の人間であるにせよ、それを後押しするのは常に「無邪気な」国民です。日清戦争と日露戦争を経験していながら、当時このような想像力を持っていた人は皆無であったといっていいでしょう。
 それを国家によるマインドコントロールであった、というのは事実として拝聴すべきでしょう。現実に、日本という国と民族の優秀さを信じ込んでいた人は多くいたわけですから。

 しかし、現代の私たちは違います。

 歴史上初めて手にした表現の自由という武器が私たちにはあります。それを活かすかどうかは、自分で考えることができるかどうかにかかわっています。自分で考えることができる出発点は「想像力」を持つことです。殴られれば痛いと感じるように、他人を殴ればその人は同じように痛いと感じます。自分がいじめられれば辛いと感じるように、他人をいじめればその人にも同じ苦痛をなめさせることになります。他人の痛みを自分の痛みのように感じることのできる想像力を持つことができれば、戦争をしてはいけないということは自明の理となります。逆に他人の痛みに無関心であるならば、戦争はいつ再発しても不思議はありません。

 それでも、戦争に勝てばいいのだと考える人は後を絶ちません。
 しかし、現代において戦争に勝つというのは時代錯誤となりました。交戦国の一方が無条件降伏したという事例は日本が最後ではないでしょうか。そのすぐ後に起こった朝鮮戦争は未だに決着していません(法的には韓国と北朝鮮とは休戦状態にあるということになっています)し、ヴェトナム戦争では米軍が撤退に追い込まれました。イラク戦争でもいずれ米軍が撤退することになると思われます。
 戦争は軍隊同士が行うものですが、空爆という非戦闘員に対する無差別攻撃が一般化してからは、正規軍でない組織(レジスタンス)が戦争に参加するようになりました。なお、周囲が正義であると認めた場合をレジスタンスといい、そうでない場合をテロと呼び犯罪者扱いをしているだけのことであり、どちらの場合も、当人にしてみれば正義の戦いであることに違いはありません。
 テロリスト(あるいはレジスタンス)に資金と武器が供給される限り、戦争は決して終わりません。むしろ被害は戦争を仕掛けた側の方で大きくなっていきます。
 
 戦争を開始するかどうかはソロバン勘定によってのみ決定されなければなりません。戦争に費やす費用と戦争に勝って相手からふんだくることのできる賠償金の額を比較して、絶対に収支がプラスになるという計算が成り立ったときにだけ戦争をするのでないととんでもないことになります。日露戦争当時のロシアはこの計算ができなかったために、革命によってロマノフ朝が滅び最後の皇帝であるニコライ2世はシベリアに流された後、ウラル地方のエカテリンブルクで一族郎党と共に処刑されてしまいました。
 絶対に勝てるという見通しと相手から最低でもこれくらいは賠償金をとれるという計算があって初めて戦争が割に合うようになります。

 戦争を巡る熱狂と権力者の凋落は、最近ではイラク戦争を起こしたブッシュ大統領が絶好の事例です。再選されるときは熱狂的な支持を得ていた(小泉元総理とはほとんど親友といっていい間柄にもみえました)にもかかわらず、2期目の終わりにはアメリカ自身もすっかり疲弊してしまい、史上稀にみる劣悪な大統領だったという烙印を押されてホワイトハウスを去る羽目になりました。
 それというのも戦争による収支計算を誤ったからです。もっとも、ブッシュ前大統領の側近には、戦争による国家の収支よりも自分の縁故者の収支を優先させた人が多かった(軍の機能の一部を民営化するという史上二番目の事例をつくりました。最初の民営化は傭兵の登場であり、その歴史は古くまで遡ることができます。)という事実はありますが、そういう人物を側近に任命したのは大統領なのですから、同情する余地はないといえます。

 このように、現代では戦争がゲリラ戦となりかねず、無政府状態になった国からは賠償金をふんだくることができません。したがって戦争に勝っても儲かるという計算が成り立たないのです。
 こういう考え方は不謹慎であるという批判を受けるかもしれません。しかし、それくらいの計算能力さえも持たない指導者が率いた国は滅んでしまうという経験を私たちの両親や祖父母の世代はしてきました。
 国の指導者に求められるのは子供じみた正義感や、国民感情を煽る才能ではなく、冷徹な計算能力に基づいた理念です。そして、どのような指導者を選ぶのかという責任は常に国民の側にあります。



 安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから

 これは広島の原爆死没者慰霊碑の碑文です。誰が「過ち」を犯したのかという議論があって、アメリカが原爆を落としたのだから「過ちは繰り返させませんから」とすべきだという意見があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%AD%BB%E6%B2%A1%E8%80%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91

 しかし、この文章を素直に読めば、むしろ「過ちを繰り返さない」と誓っているところに力点が置かれていることは明白です。
 では、「誰が」誓うのかといえば、この碑文を読んで心を動かされたあなた自身なのです。


(この碑文は、Let all the souls here in peace ; For we shall not repeat the evil. と英訳されている。)
by T_am | 2009-08-14 22:52 | その他
 石川県には「とり野菜みそ」という味噌があって、北陸三県で販売されています。鶏肉と野菜とうどんをこの味噌で煮込んで食べるのですが、これが滅法おいしいのです。普通の鍋料理は具だけを食べて、鍋の汁を飲むということはしません。ところがこのとり野菜みそ鍋は、味噌味の利いた汁もうまいのでつい飲んでしまいます。
 以前石川に行ったときに、このとり野菜みそを買って帰り、家でみそ鍋にして食べたことがあります。ところが石川県で食べたほどにはおいしいと思いませんでした。同じとり野菜みそを使っているのに不思議なこともあるものです。
 いろいろと考えた末に、石川県とでは水が違うのではないか、という仮説に思い至りました。食品の中には水が含まれています。とり野菜みそも同様であり、現地の水を使ってつくられています。その水の成分と私が住む新潟の水の成分とが異なるのは当然であるといえます。つまり水の相性がよくないからそれほどおいしいと思わなかったのではないか、と思うのです。
 
 水といえばH2Oと表示されるように、水素原子2個と酸素原子1個が結びついて水の分子が一つできています。蒸留水(つまり純粋な水)は、飲んでもまったく味がしません。というよりもそれ以上飲みたいとは思わないのが蒸留水です。
 私たちが普段飲んでいる水は、純粋な水ではありません。殺菌され、人体に有害な成分は除去されていますが、人体に必要な栄養素であるミネラルが含まれています。これは水道水であっても同様です。ですから、ミネラルウォーターが売られていてしかも人気があるというのが今ひとつ理解できないのです。たぶん、ミネラルウォーターにはミネラルは含まれているけれども水道水には含まれていないという誤解があるのではないか、と思います。確かに。昔の水道水は臭かったり、変な味がしてそのままではとても飲めたものではありませんでしたが、現在では改良されて充分飲むに値する品質になっています。冷たく冷やしておけばミネラルウォーターだよといって出されてもわからないはずです。逆に、ミネラルウォーターであっても常温になるとそれほどおいしいとは感じなくなります。小さなペットボトルに入っているミネラルウォーターは買ってからすぐ飲むことを想定しているので冷蔵ケースの中に陳列されています。大きなペットボトルのミネラルウォーターがそうでないのは、買ってすぐ飲むわけではないからです。消費者は他の飲料と一緒に冷蔵庫に入れて、ある程度冷えてから飲んでいるはずです。
 こんなことを書いているのは、ミネラルウォーターを買うなというのではありません。それほど有り難がる必要はないですよと申し上げているのです(メーカーに対する営業妨害という点ではあまり差はないかもしれませんが)。
 このことは、食品スーパーで会員向けに無料供給されているマイナスイオン水の類についてもいえることです。これらの水を使って料理したものは水道水よりもずっとおいしいという人がいますが、私にはわかりませんでした。自分は味について特別に敏感であるとは思いませんが、鈍感であるとも思いません。むしろ、特別な水だからといってそれを有り難がるというのはその人の思いこみに過ぎないと思っています。金箔を入れた日本酒というのがあります。金箔を入れてもそのまま排泄されるだけ(金は地球上でもっとも安定した物質であり水やアルコールに溶けることはありません)なので、随分もったいないことをすると思うのですが、身体にいいからと有り難がって買っていく人もいます。

 水にはミネラルが含まれていて、その成分は地域によって異なります。
 新潟は水がいいから日本酒もおいしいといわれており、そのことは事実として間違いはないのですが、ほかの県で造られている日本酒はダメなのかというとそんなことはありません。真面目で誠実な造り方をすれば新潟県以外でもおいしい日本酒は造れますし、おいしい日本酒はいくらでもあります。
 地域によって水の成分が異なるのですから、ある地域の水と別な地域の水との間には相性がいい場合と悪い場合があるかもしれません。したがって、食材と調味料に相性があるように、その地域でとれた野菜をその地域の水を使って調理するというのが一番おいしい食べ方なのではないかと思います。
by T_am | 2009-08-14 06:35 | 科学もどき
 地方分権の最終形として道州制ということがいわれていますが、今ひとつ議論が盛り上がらないようです。
 そもそも地方分権とは、国がやることを外交・防衛・通貨管理など国でしかできない分野に絞り込み、それ以外はすべて地方で実施するということを指しています。イメージとしては、いくつかの共和国による連邦制ということになります。
 地方分権という流れが必然的であるのには、少子化による人口の減少=総需要の減少という未来予測があります。富国強兵策によって国の勢力が右肩上がりで伸張していった時代は強力な中央集権国家が必要でした。しかし、人口が停滞しやがて減少する局面では大きな中央政府というのは重荷になってきます。そこで、行政の単位を数百万人から数千万人という規模にまで分割して、小回りのきく地方政府をつくろうというのが地方分権の趣旨です。
 地方分権が必要だと思うもう一つの理由は、行政のサイズが小さい方が住民の参画がしやすいからです。自分たちが住む地域の未来は自分たちが決める、というのが市民社会のあり方であると考えます。

 道州制というのは、現在の都道府県の単位では財政面で不安があるということから、いくつかの都道府県をまとめてある程度の規模にしようということから浮上してきた構想です。
 地方分権をどのような形にするのがいいかは今後の議論を待たなければなりませんが、道州制という区割りを導入することに私は反対です。どのような分割案が主流となるのかはわかりませんが、道州というくくりは経済(GDP)の規模を基準に決められることになるのでしょう。一つの県では財政規模が小さいのでいくつかまとめれば規模が大きくなるという発想です。
 それは地図上でえいやと線を引き、国境を定めることに等しい行為です。
 中東やアフリカの地図を見ると国境が直線となっている国がいくつかあります。それは白人たちが、現地に住む人たちの事情を無視して勝手に国境を設けたからです。
 国というのは本来、共通する要素を持った人々の間で自然発生的にできあがるものです。同一の民族、同一の言語、同一の文化や生活習慣を持つもの同士が集まって共同体をつくり、それが外敵に対抗するために統一国家に発展していったというのが自然な歴史の流れです(明治維新がそうでした)。
 地方分権が目指すのは、外交と防衛と通貨以外は地方に任せる体制をつくるというものですから、地方は国家に等しい権力を持つことになります。その国家づくりにあたって、GDPなどの経済指標を基準に線引きをするというのは人類史上初の試みです。
 一つの道州の中には、違う風土(大都市もあれば過疎化しつつある山村もある)に住む人々がいて、異なる方言と生活習慣を持っています。それらを一括りにするというのは随分乱暴な話であり、地図に定規を当てて引いた直線を国境として決めた白人の野蛮さを嗤うことはできません。
 人間が自分の都合で国境を定めた場合、富の偏在は地域や民族、生活習慣・文化に沿って発現し、それらの相違をくっきりと浮かび上がらせます。主流派である集団Aのもとには富が蓄積されていきますが、そうではない集団Bはいつまで経っても貧しいままであるという事例は世界史上いくらでもみつけることができます。当然AとBは反目しあい、流血騒ぎに発展することも珍しくありません。旧ソ連や中国における少数民族問題がそれにあたります。道州制の場合、経済指標を基準に国づくりが行われるのですから、そこでの価値の基準が経済性の追求となってしまう恐れが多分にあると思います。そうなると、経済的効率の悪い山間部や島嶼部が置き去りにされる心配が出てくるのです。
 大都市の経済効率の高さは水や食料を田舎に依存して始めて可能になっているということを、市場原理主義者たちは考慮しません。田舎は大都市に水や食料を供給する代わりに自分たちの生活と環境を維持するために大都市で生産された富を分配してもらう、という相互に依存的な構図が大都市と田舎の間にはなければならないのですが、あまりにもないがしろにされていると思います。
 地方分権は、自分たちのことは自分たちが決めるという制度ですから、行政のサイズがある程度小さい方が小回りが利いて有利になります。
 今後、少子化による人口の減少は総需要の減衰を招く一方で、石油がピークアウト(新規に発見された油田の埋蔵量が毎年の原油の生産量を下回ること。こうなると残っている石油資源を使い切ればそれで終わりということになる)を迎えるXデーがいずれやってくるということを忘れてはなりません。そのときまでに代替えエネルギーが確立されていないと、現在の生活と人口を維持することは不可能となってしまいます。
 道州制という発想は、今まで通り石油が使えるということを前提としているので、その前提が崩れた場合、道州制そのものも崩壊してしまいます。
 そのように考えると、地方分権のサイズは、その地域で自給自足ができる単位を基準に考えるべきでしょう。
 石油がピークアウトを迎えれば、東京のような大都市はいずれスラム化し活力を失って、人口が周辺部に移動するという事態が起こると思います。それが何年先になるかはわかりませんが、それまでの間に田舎を抱える地方政府に力(包容力)をつけておくことが必要であり、そのためには権限の大胆な移譲が行われなければなりません。
 それが可能になれば、たとえば教育立国を目指す地方政府があってもいいということになります。教育立国といっても東大合格者数を競うものではなく、技能を持った様々なスペシャリストたちを10代の後半(高校生の頃)から組織的に養成していくというものです。前回も書いたように、医者を養成する課程が高校に設けられていけない理由はありません。(もっとも医者を養成するには年数がかかるので、そのような学校を高校と呼ぶのは適切ではないでしょうが。)このように、カリキュラム編成の自由が大胆に認められた学校がいくつもできあがれば、それを目指して全国から人材が集まってきます。教育機関に大幅な自治権を認めれば、その卒業生の何割かは学校に残ることが期待できます。そうやって優秀な教授陣が揃えば優秀な学生がそれに惹かれてやってくるようになり、学校はますます発展していきます。若い人が大勢集まれば活気があふれてくるので、地方にも大きく貢献することになります。
 そのようなことが可能になるのは、地方政府がある程度小さい規模でなければなりません。
 
 大都市と田舎の格差が現実にある以上、地方分権制度が確立されたとしても、大都市に偏在する富を田舎に配分するという作業は連邦政府の重要な役割として残ります。そのためには消費税という全国民に平等に課税する手法ではなく、大都市固有の税を設ける必要があります。これは連邦政府に納入される税であり、これを田舎に配分する財源に充てるわけです。
 このような配慮さえもなければ、道州制の導入や地方や田舎をますます疲弊させることになります。石油がピークアウトを迎えれば、いずれ大都市がそれまでの人口を支えられなくなるわけですから、そうなったときの受け皿は田舎にしかありません。その田舎が荒廃していたのではそれもできなくなるのです。

 地方分権は必要なことだと私も思いますが、道州制の導入は下手をすると亡国の制度となるかもしれません。
by T_am | 2009-08-13 08:41 | その他