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カクレ理系のやぶにらみ

tamm.exblog.jp

時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 「タスポ」を発行する日本たばこ協会が、特定の個人が自販機を利用した日時や場所などの履歴情報を検察当局に任意で提供していたというニュースが報道されました。

http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009072501000753.html

 日本たばこ協会の関係者は、「法に基づく要請には必要に応じて渡さざるを得ない。情報提供については会員規約で同意を得ていると認識している」と述べているとのことです。
 たぶん本心は、「もともとそういう機能を持たせてつくったカードなのだから、捜査当局に情報を提供して何が悪い」ということなのだろうと思います。

 タスポが単に成人識別のためだけのカードであるならば、自販機の購入ボタンをオンにする機能だけで充分なはずです。ところが、個人がタバコを購入した日時と場所が記録されているというのは、そういうことができるようにデータベースとハードウェアが設計されているということにほかなりません。つまりタスポの保持者の行動を監視することができるように制度設計がされているということです。
 このことはタスポが導入される時点で十分予想できたことであり、今回の報道は「やっぱりそうだったのか」と確認された点で意義があると思います。

 タスポの情報が犯罪捜査に使われるということは、法律がそうなっているのでどうにもなりません。ほかにもクレジットカードの使用記録や携帯電話の通話記録が、必要に応じて捜査機関に開示されています。また、防犯カメラやNシステムのように、定点で人の動きを監視するシステムもあり、これらのデータも犯罪捜査に活用されています。特に警察が設置している街頭防犯カメラシステムは設置数も多く、犯人の検挙に役立っているとのことです。なお、意外なところではN700系新幹線ではすべての車内デッキに防犯カメラが設置されているとのことあり、不倫旅行をするカップルはN700系新幹線を避けた方が賢明かもしれません。

http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/seian/gaitoukamera/gaitoukamera.htm
http://tetudo-toribia.e-tabida.net/075/310/n.html

 国民を監視するシステムが整備されればそれだけ犯罪捜査に寄与するところが大きいということは認めますが、個人の行動が監視されることになりかねないという不快感を感じます。
 犯罪者とは法を犯した者をいいますが、その法律はいくらでもつくることができるということを忘れてはなりません。
by T_am | 2009-07-26 21:39 | その他
 民主党では大臣・副大臣・政務官などで与党議員を100人以上政府に送り込み、中央省庁の政策立案・決定を実質的に行う考えであるとのことです。それだけ強力に行政(官僚)をコントロールするという決意のあらわれなのでしょうが、見方を変えれば立法と行政の一体化がそれだけ進むということであり、その点自民党以上であるといえます。
 民主党のこのような考え方の根底にあるのは、次の衆議院議員選挙で民主党が第一党になればそれは国民の選択によるものである、という論理です。国会議員の好きな言葉に「国民の審判を仰ぐ」というのがありますが、私はこれはとんでもない誤解であると思います。なぜならば小選挙区制では死に票が多すぎるからです。

 小選挙区制では選挙区ごとに当選者は1人しかいません。そこで当選するためにどれだけ得票すればいいのかを試算してみましょう。この場合、当選を左右する要素として「投票率」と「立候補者数」の二つが考えられます。当選者が1人しかいないということは、他の候補者たちよりも1票でも多く獲得すれば当選できるということです。たとえば立候補者が3人いる場合、最低でも34%の得票率で当選できることになります。しかし、これは実力が伯仲した候補者が3人いる場合のことであり、実際には泡沫候補も立候補する場合があるのでそれは除外して考えるべきでしょう。ということは事実上の一騎打ちとして考えることもできるということになります。この場合、有効投票数の51%を得票すれば当選は確実となります。
 そこで、投票率にこの51%という得票率をかけたものが、当選するために必要な有権者の支持率ということになります。

  投票率     得票率   有権者支持率 
80%  ×  51%  =  40.8%
   70%  ×  51%  =  35.7%
   60%  ×  51%  =  30.6%
   50%  ×  51%  =  25.5%


 投票率が70%の場合、投票した人のうち最低でも35.7%がその人に投票すれば当選できるということがわかります。ただし、第三の候補が泡沫候補でなく、三つどもえの選挙戦を繰り広げたときは、この数字はもっと下がります。それはすなわち、死に票がそれだけ増えることを意味します。このように小選挙区制では、有権者の過半数が投票しない人でも当選してしまい、他の候補に投票した人の意志は切り捨てられる特徴があります。
 今回は民主党に追い風が吹いているので、民主党候補者に対する有権者の支持率はもう少し高くなるものと思いますが、それでも選挙に勝ったからといって、国民が民主党を選択したと思うのは間違いです。
 小選挙区制になってから、勝てば官軍という言葉が当てはまるようになりました。その典型的な例が先の郵政解散選挙です。このときも、棄権した人も含めると、国民の7割近い人が自民党に投票しなかったにもかかわらず、結果として自民党が大勝することになりました。その後を継いだ安倍内閣のときに参議院選挙で自民党が大敗したのは、国民の過半数は自民党を支持していなかったということの証左でもあります。

 小選挙区制というのは、このように問題の多い選挙制度なのですが、国民の過半数が信任しているわけではない政党が政府に多数の議員を送り込んで、これを運営しようというのが民主党の考え方です。(自民党では族議員たちが官僚と利害が一致していたので、似たり寄ったりであるといえます。)
 しかし、それでは国会はますます機能しなくなってしまいます。
 行政という国家権力の発動機関に対して、その行動を監視するというのが立法と司法に課せられた使命ですが、政権党と政府との一体化が進めば国会の監視機能は麻痺してしまいます。(既に自民党と公明党の連立政権が何度も強行採決を繰り返して来たことは記憶に新しいところであり、国会は事実上政府が打ち出した政策の追認機関に成り下がりつつありました。)
 三権分立という制度は、行政が突出した権力を持つとどうなるかという過去の反省に基づいて導入されたものです。政府が強力であり過ぎるとどうなるかは、海を隔てたお隣の国を見ればわかります。餓死寸前の状態にある国民を無視して軍備の増強に邁進する国があるかと思えば、国内の少数民族を弾圧してその財産と生命を脅かしている国があります。
 日本ではどうかというと、政府が提出した法案が圧倒的に多いのが実情であり、これはすなわち官僚に都合のいい法律が制定されていることを示しています。それだけ司法が機能しなくなるのです。
 その一方で、国会と政府の一体化が進めば、政府に歯止めをかける機関はマスコミだけとなってしまいます。
 もしも民主党政権が官僚に都合のいい法律や制度を全部廃止するという英断を下せば別ですが、そのような可能性は極めて低いと思います。仮にそのようなことが行われたとしても、立法と政府の新しい癒着の形態はいずれ別な形で弊害が現れてくるものと思います。

 民主党の政策では、衆議院の比例区の定数180人を80人削減するという案も盛り込まれています。政策よりも人気が優先するという問題を抱えている比例区ですが、弱小政党でも国会に議員を送り込むことができるという面も持ち合わせています。にもかかわらず定数を80人削減してしまうと、弱小政党は消滅してしまう可能性が極めて高くなります。
 議員定数を削減することに私も賛成しますが、問題は小選挙区+比例区という現行の制度にあるのであって、肝心の小選挙区に手をつけずに比例区の定数だけを削減するというのは国をミスリードするものであるといえます。

 選挙で第1党となった政党の党首が国会で首班指名を受けて組閣するという議院内閣制には国民の意思が反映されやすいという面もありますが、既に述べたように小選挙区制のもとでは逆に国民の意思が無視される可能性が高いといえます。
 さらに、内閣改造によって閣僚が短命に終わるので、官僚に対するコントロールが充分にできなくなるという欠点も否定できません。大臣よりも族議員の方が官僚に対する影響力が強いという実態は、かつて田中真紀子と鈴木宗男によって明らかになりました。そうなると大臣になるのは自分の経歴に箔をつけるためということになり、むしろ閣僚が短命だった方がそれだけ自分の番が回って来やすいと歓迎していた向きもあるくらいです。

 戦前に一度消滅した日本の政党政治は戦後再出発しましたが、六十年経つうちに制度疲労を起こしているように思えます。
 それを改革して日本にも二大政党体制をつくろうということで小選挙区制が導入されました。確かに自民党と民主党という二大政党ができつつありますが、それも形だけであり実力が伴っていないと思います。というのも議員数が多すぎるからです。
 小選挙区制を導入したもう一つの理由は、どぶ板選挙が行われることで選挙にかかる費用が安くなるという効果を見込んでいたこともあります。中選挙区にまんべんなくポスターを貼り選挙カーが巡回するというのはそれだけお金がかかります。また選挙演説も津々浦々まで行き届かないという弊害もあります。
 しかし、見方を変えれば、これらのことは政治家が普段何もしていないということの証拠にもなります。任期中何の実績も残していないので、選挙になると大量のポスターを貼ったり選挙カーを動員することで自分の顔と名前を覚えてもらわなけらばならないわけであり、また、それ以外何もできないというのがこの国の選挙の実情です。したがって選挙を金のかかるものにしたのは議員自らの怠慢であるといえるのです。にもかかわらず、金のかからない選挙にするということで小選挙区制に変えたというのは、病巣に手をつけないまま小手先の対応をしたようなものです。
 別に小選挙区制でなくとも、議員定数を大胆に削減すれば二大政党はできます。そのためには、国がやることを外交・防衛・金融など地方ではできないことに絞り込み、それ以外はすべて地方に権限を委譲するということが必要です。そうなれば国会議員の評価が地元に対する利益誘導ということから解放されるので、議員の「世襲」が行われるということもなくなります。
 その上で、議院内閣制をやめて、直接選挙で選ばれた首相が閣僚を任命するように改革した方がいいと思います。議員が閣僚に任命された場合、兼任は物理的に不可能なので議員を辞職しなければりません。
 少数の議員に充分な経費と権限を与えて政府を監視させる。そのために首相から議会の解散権を取り上げる必要があります。要するに、知事と県議会の関係を想像していただければいいので、それを国のレベルでも実現させようというものです。
 ただし、これは憲法の改正を伴うので実現は非常に困難です。そのためには、この国の方向はどうあるべきかという議論が行われ、世論が収斂していかなければなりません。

 今回民主党が提示した政策には八方美人的な性格(誰にでもいいことをいう)が強く表れています。後でボロが出なければいいのですが。
by T_am | 2009-07-26 08:26 | その他
 人間が下す意志決定に唯一の正解というのはありません。ただし、より「ベターである選択」というのはあります。その代わり、物事にはプラスとマイナスがありますから、Aさんにとってはもっとも好ましいと思われた選択肢が、Bさんにとっては満足できないものである、ということもあり得ます。
 それでも選択をしなければならないときはしょっちゅうあって、意志決定には試験問題とは異なり模範解答は存在しません。
 私たちが犯しやすい過ちは、自分であればこうするという選択肢がその場合の模範解答である、と勘違いすることです。

 日本では長い間、会社の利益のためには法を犯したり、社会道徳を無視して目に見えない他人に迷惑をかけても構わないという考えが支配的でした。昨年あれほど問題になった食品の偽装表示事件はそのような意識が根底にあって起こったものです。また、公害問題というのもこのような意識によって引き起こされたといえます。
 ここで注意しなければならないのは、私たちは、自分の行為の被害者が明白である場合心理的にブレーキがかかるけれども、被害者がはっきりしないときは躊躇することはないということです。身近な例でいえば、空き缶のポイ捨てや海岸にゴミを捨てて帰るというのも、それによって迷惑する人が定かではないので、平気でできるのだと思います。
 ところが、企業のように社会に与える影響が大きい存在が、自己の利益のためには法を犯したり社会道徳に反する行為をしても構わない、と考えて行動することのもたらす被害は思いの外大きいということがしだいに明らかになってきました。そこでこれらの行為が発覚したときは声高に非難され、ときにはこれを罰する法律やルールが制定されるようになりました。コンプライアンス(法令遵守)を企業が意識するようになったのはこのためです。

 食品の偽装表示が発覚した企業の記者会見で、そこの工場長が「社長に言われて逆らえなかった」という意味のことをいっていました。サラリーマンであればどなたもこの言葉が理解できるのではないでしょうか? 
 この言葉には二つの意味があって、自分がやったことに対する責任転嫁と社長のイエスマンである人間が評価され出生していく企業の内部事情がよくわかります。この会社では売れ残って返品されてきた食品に対し、賞味(消費)期限の日付を付け替えて再出荷することが模範解答だったわけです。
 一般に、国や企業も含めてあらゆる組織にはこのような独自の模範解答が存在します。それは組織の体制を維持する上で必然的に発生してくるものです。模範解答を躊躇することなく実行できる人間が組織の中で評価されしだいに力を得ていくというのは、どこの組織にも見られることです。
 異なる価値観の持ち主にとってこのような模範解答の存在は苦痛を感じますし、組織に新しく入ってきた人にとって奇妙に感じることもありますが、いったん模範解答に慣れてしまうとこれほど楽なものはありません。というのも、自分で考える必要がないからです。他人に与えられた言葉やフレーズを唱え、その通りに行動していると高揚感を得ることができるという性質を人間は持っています。組織が強固でなければならない独裁国家や社会主義国家でスローガンが多用されるのはこのためです。

 その体制を維持するために組織の中では模範解答が自然発生する、というのは避けられないことですが、二つの問題を抱えています。
 第一の問題点は、模範解答が強制力を伴うようになるということです。「社長に言われて逆らえなかった」というのはこのことを如実にあらわしています。つまり、その組織の中では模範解答に対して誰も反対できないような雰囲気になっていく、と考えて差し支えありません。
 二番目の問題点は、模範解答がしだいに強力になっていき、その強制力が頂点に達したところで組織は崩壊するということです。
 これはどういうことかというと、多様性が維持されている環境がもっとも活力に溢れたものであり、逆に多様性が損なわれた環境ではそこに暮らす生物は偏った方向のみに順応していくので、いざ環境が変化してしまったときに対応しきれずに滅んでしまうことがある、という事実に基づいています。
 会社の利益のためには法を犯したり社会道徳を無視しても構わないという模範解答は、誰もそれを咎めないうちは、やりたい放題のことができるので次第にエスカレートしていきます。ところが、マスコミによって取り上げられ世間の非難を浴びると、その会社の売上げは極端に落ちてしまいます(スーパーではいち早く商品撤去という対応がとられましたし、料理店では客が激減しました)。最悪の場合、会社が潰れてしまいますし、運良くそれを免れたとしても、自社だけで改善することはできないの外部から人(新しい遺伝子)を入れなければならないようになります。
 この問題点は、あらゆる種類とレベルの組織につきまとうので、運悪く組織の崩壊に立ち会う羽目になった人は悲惨な体験をすることになります。

 かつての日本を振り返ってみると、幕末の頃の模範解答は「攘夷」でした。そのエネルギーによって江戸幕府は消滅しましたが、新たにできあがった明治政府の方針は「開国」と「近代化」による「富国強兵」であり、「攘夷」の影も形も残りませんでした。
 明治政府の「富国強兵」はやがて「大東亜共栄圏」に発展していきましたが、先の戦争で崩壊してしまいました。
 戦後登場したのは「高度成長」です。そのおかげで日本が世界有数の経済大国になったことは否定できません。その過程で公害という環境問題が発生しましたが、これも何とか克服し現在は環境先進国になることができました(薬害という問題も同根であるといえます)。ただし、被害者の救済は未だ完了していません。そうするうちに「高度成長」ということは誰もいわなくなりました。
 その代わりに、今の日本で模範解答とされているのは、「市場原理」であり「CO2削減」ではないかと思います。「市場原理」の方は小泉改革に対する反発やブッシュ政権の失政によって一頃ほどの勢いは失われているようにもみえますが、その信奉者はまだまだ数多くいます。
 一方の「CO2削減」は、国やマスコミがこぞって煽るものですから、私のようなひねくれ者には少し息苦しさを感じてなりません。
by T_am | 2009-07-24 07:40 | その他
 民主党の公約概要をご覧になりましたか?

・中学を卒業するまで子ども一人当たり年間31.2万円の手当を支給する。
・公立高校の授業料を無料化する。
・年金の課税を見直して年金減税を実施する。
・高速道路を無料化する。
・中小企業の法人税率を11%に引き下げる。
・すべての労働者に雇用保険を適用する。
・職業訓練期間中、月10万円の生活手当てを支給する。
・医師や看護師の不足を解消する。
・介護従事者の賃金を引き上げる。
・学校や病院の耐震化を加速する。
・住宅用の太陽光パネルを設置すると半額を助成する。
・環境に優しい自動車に買い換えると最大で30万円の補助金を支給する。
・農業、林業、畜産業、水産業に所得保障制度を導入する。

http://www.dpj.or.jp/flyer/flyer200906/index.html


 こうしてみると、麻生政権以上の大盤振る舞いをすると民主党は約束していることがわかります。しかし、本当にそんなことができるの?と疑問を持つ人も多いのではないでしょうか。今年早々と決まった補正予算を執行するためにおよそ三十兆円という赤字国債の発酵が必要であるといわれていました。それ以上の大盤振る舞いを、単年度ではなく数年間に渡って行うにしても、しようという以上、最大の課題はその財源をどうするかということに尽きるのですが、民主党は官僚主導の政治をやめ、予算をゼロベースで見直すことで可能になると説明しています。
 なるほど、理屈は確かにその通りであり、特に官僚主導はやめなければならないということには同意するのですが、民主党の目指す政府のあり方と矛盾があるように思えてなりません。
 これらの政策をみてわかるように、民主党のが目指すのはいわゆる「大きな政府」です。「大きな政府」というのは、「小さな政府」(自由主義に基づき政府が市場に介入するのを最小限に抑えて、個人の自己責任を重視する。したがって、公共サービスを提供する機関であっても民営化しようとすることがある。小泉改革はこの「小さな政府」を目指したものであるといえます。)に対する反対概念です。簡単にいうと、政府が市場に介入することで総需要をコントロールして経済成長を持続させ、同時に国民生活の隅々まで面倒を見るというものです。国民に対し高福祉を実現しようするものですが、その代わり国民は高負担を強いられることになります。
 民主党の財源確保の主張の根底にあるのは、現在の官僚制度という予算の執行制度は無駄が多いという認識です。このことにも異論はないのですが、官僚制度の改革に手をつけるには、少なくとも各省庁の局長以上の役職者は政治家が自由に任命できるようにしなければなりません。ということは罷免することも自由にできるということになるので、議院内閣制度の下では政権党による行政府の支配が徹底することになり、プラス面も大きい代わりにマイナス面も大きくなります。
 その次に、国が行っていることを財源とともに大幅に地方に移譲することです。たとえば教育行政は国がやらなければならないというものではなく、地方に任せた方がかえって国益に叶うと思っています。
 こういったことをやろうとするには、政党の中に相当の調査企画能力が備わっていなければなりません。長年にわたった自民党政権によって、そのような機能は官僚に依存するという体制になってしまっています。それを政治家がやろうとするには、それなりの経費と人材を確保しなければならないのです。
 前々回、国会改革の方が先であるということを申し上げたのはこのことがあるからです。すなわち、議員の定員を大幅に減らすことは、一人当たりの議員が使える経費と人材を大幅に増強することにつながります。それだけ大きな権限を議員に与えるわけですから、きちんと仕事をしない議員は選挙によって退場していただくという意識を国民も持たなければなりません。

 民主党がそこまで考えているのであればともかく、すくなくとも官僚と五分以上に渡り合っていける議員がどれだけいるかといえば、非常に心許ないのではないかと思えます。そのような状態で、民主党が掲げる公約を実現していこうとするには、どうしても官僚に依存しなければなりません。すなわち「官僚主導」に歯止めがかからないのではないかという疑念が生じてくるのです。
 そうなると、これだけの大盤振る舞いをした後に残るのは巨額の財政赤字となり、いずれ大幅な増税が避けられないということになります。
 国民の高負担によって高福祉が実現されるのであれば、北欧諸国の国民のように諾々と従うのでしょうが、日本の官僚たちがつくりあげきた制度では、100億円の税金を注ぎ込んでも100億円分の効果を上げることが期待できません。調査費などの名目で関連団体にお金が注ぎ込まれるからです。漢字検定教会の理事長は逮捕されましたが、官僚たちがつくった制度は法の裏付けがあるので司法によるチェックも働きません。
 大勢的には民主党が主張することに間違いはないと思うのですが、それを実現するだけの能力がこのとうにあるかどうかがネックとなります。自民党が長期間政権を担当できたのは官僚という協力者がいたからですが、民主党はそれを選択することはできません。
 さて、今後日本はどの方向に進んでいくのでしょうか?
by T_am | 2009-07-23 06:58 | その他
 村上春樹さんの1Q84には、筋肉を伸ばすストレッチがどんなにすばらしいものであるかが実に魅力的にのべられています。その箇所を読むと、誰かきちんとした知識と技術を持った人が自分にもストレッチを教えてくれないかなあと、つい思ってしまいます。

 そこで今回は、私が知っているO脚を矯正する体操について述べます。拍子抜けするほど簡単なので、よかったら試してみてください。奥さんに教えてあげると感謝されるかもしれません。

 片手を机において身体を支えるようにして、バレリーナのように片足をそのまま後ろにゆっくりと上げていきます。上体が多少前のめりになっても気にする必要はないので、およそ90度まで上がったら、そのまましばらく維持します。次に反対側の足を同じように後ろに上げてみます。
 そして、両足のかかとを揃えるようにして立つと、軽度のO脚であれば膝がぴったりくっついているのがおわかりいただけるはずです。(膝がくっつかないという人でも前よりもすき間が狭くなっているはずです。)

 私の場合、どこからみても完璧なおじさんなので、べつにO脚でも構わないのですが、歳のせいか長時間座っていると股関節が痛くなることがあります。そういうときにこの体操をすると、痛みがなくなります。

 人間の身体というのは不思議なものですね。
by T_am | 2009-07-21 00:56 | 科学もどき
 日本は民主国家ですが、政治に民意が反映されているかというとそうでもないように感じられます。というのは投票によって議員を選ぶということは、その議員に白紙委任状を預けているようなものだからです。俗な言い方をすれば、任せっぱなしにしてあとは無関心といっていいと思います。
 ところが、苦労して国会議員になっても、高度に専門的な仕事なので、一人では何もできないようになっています。特に、一年生議員は何をなったらいいのかも定かではなく、どうしても政党や派閥に依存しなければなりません。
 国会議員の公式ホームページを見ると、どの議員も自分の活動報告というサイトを掲げていますが、それを見ると日本の国会議員がどのようなことをしているのか、皮肉な言い方をすれば何をしていないかが一目瞭然でわかります。

 国会議員の仕事は、政府の監視と法律をつくることの二つに尽きます。そのために国政調査権と不逮捕特権が与えられているのですが、国会での質問の様子をみる限り、患者に対し布団の上から按摩をしているようなもどかしさを感じてなりません。

 国会議員の中には、投票要員に甘んじている人も多いように思われます。すなわち、議員立法に携わるわけでもなく、何かの委員会に所属はしているものの、独自に調査するということもせずに官僚の提出した資料を眺めているだけで採決に参加するというものです。
 そうでなければ、地元に対して道路や学校をつくるなどの利益誘導に精を出している人もいます。でもそれは、市議や県議の仕事でしょう。

 国会議員は国民の代表である以上、三権分立においてもっとも力をもたなければならないのが立法府です。しかし残念なことに、官僚がいなければこの国はまわっていかないのが現実です。そうしたのは国会議員であり、それを許したのは国会議員に利益誘導を期待してきたわれわれ国民です。
 今取りざたされている地方分権というのは、地方のことは地方で決めさせてもらいたい、地方で決められないこと(外交・防衛・金融など)は国で決めてもらいたいというものです。
 政治というのは、国の中で偏在する富を税という形で吸い上げて他方に分配するという撒水機のような役割を持っています。しかし、何でもかんでも国が面倒みるということになると、富の分配に携わる人がそれだけ多方面に渡って必要になります。だから国会議員の定数が増えてきたのだといえると思います。
 衆議院の議員定数は480人、参議院は242人となっています。その上で、現在の国会で自民党と民主党が提出した法案(いわゆる議員立法)の数をみると、自民党 9本、民主党 28本となります。(法の改正案を含む)

 自民党 http://www.jimin.jp/jimin/kokkai/171/teisyutu/index.html
民主党 http://www.dpj.or.jp/news/?num=15770

 一方、共同通信によれば政府が提出した新規法案の数は69本あります。

 http://www.47news.jp/CN/200907/CN2009071801000530.html

 政府提出法案が圧倒的に多いのが気になります。そもそも政府が法案をつくる中には自分たちの都合のいいようにつくった法律もあります。
 うろ覚えですが、東京から大阪までのJRの運賃は在来線を乗り継いだ場合と新幹線に乗った場合で同じ金額となります。しかし、実際のキロ数は新幹線の方が短いので、厳密に計算すれば新幹線の運賃の方を安くしなければいけません。この問題に対する訴訟が昭和50年に起こされましたが、昭和53年の第85回国会において国鉄運賃法の改正法案が自民党の小此木彦三郎議員などから提出され、新幹線のように「既設の営業線に増設された場合には、既設の営業線の営業キロを適用するのが通例となって」いるものを法として定めて追認するということが決まりました。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/085/0290/08510180290002c.html

 この国鉄(当時)と政府にとって都合のいい法案は議員立法という形で提出されましたが、運輸委員会において賛成多数ですんなり可決されてしまいました。官僚がお膳立てをして議員に通してもらい、議員は官僚に貸しをつくるという構図が目に見えるようです。有能なスタッフというのは確かに重宝するものですが、有能であればあるほど彼なしでは何もできないという状況に陥る危険性も高いといえます。その結果、日本は官僚がいなければまわっていかない国になってしまったのです。

 おかしいと思うようなことでも、それを認める法律がつくられて合法ということになってしまえば、司法の出る幕はありません。極端ないい方をすれば、法律さえつくってしまえば、それが既存の法律と矛盾しない限り、何でもできるということになります。
 そういうことを監視するのが国会議員とマスコミの役割なのですが、現実には与党議員は賛成要員に過ぎないので、野党がどれほど反対してもいざというときは強行採決が行われますし、たとえ参議院で否決されたとしても衆議院で再可決するという道もあります。そのような形で成立しても法律であることの有効性に変わりはありません。
 
 三権分立における立法の優位性を担保するためには、個々の議員が「実力」をつけなければなりません。そのためには議員定数を大幅に削減し、議員一人あたりの経費予算を大幅に増やすことが有効であると考えます。議員が自前のスタッフを雇い調査をし、法案を作成して提出するということが可能な状況をつくる代わりに、そういうことをしない議員には落選していただく。また、議員が閣僚に就任する場合には議員を辞職していただく。そういう制度にしないと、国会と国民が政府を監視するという機能が果たせないと思います。
 したがって、当面の課題としては公務員制度の改革よりもむしろ国会の制度改革の方が優先順位は高いと思います。それによって、国と地方の役割が明確に分かれていくことで地方分権というのも現実味を帯びてくるのですが、いかがでしょうか?
by T_am | 2009-07-19 08:52 | その他
 自民党が混乱しています。
 加藤、武部、中川といった3人の元幹事長が両院議員総会の開催を要求したかと思えば、古賀選対委員長と尾辻参院議員会長が辞意を表明するという事態が起こりました。その後、総会開催を求める議員署名が必要数に達したということですが、この動きは既に報道されているとおり、麻生総裁のままで選挙に突入すれば自民党のダメージは計り知れない、ひょっとすると自分の当選も危ないという危機感によるものです。
 自民党が混乱している原因を突き詰めていくと、この党は、政権党であるということを唯一の共通目的として集まった政治家たちの、しょせんは寄り合い所帯に過ぎないというところに行き当たります。
 本来、政権というのはこの国をどのような方向に導いていくのかという政略を実現するための手段であるはず(「政策」はそのための手法に過ぎません)ですが、自民党の場合は政権をとることが目的となっており、目的と手段をはき違えている人たちの集団が自由民主党という政党です。
 それでも戦後しばらくは、産業を育成して生産された製品を輸出することで外貨を獲得し、国を豊かなものにしていくという政略が掲げられていました。この政略に沿って数々の政策が実行されるなかで、当時の首相が野党議員から国会の場で「総理は財界の男メカケ」と決めつけられるという珍事も起こりました。
 しかし、現在の日本は貿易によって国を豊かにするということの実現が疑わしい国になってしまいました。観光立国といってみたり、アニメやマンガを日本の誇る文化といいだしているのは、製品の輸出に代わって貿易収支を黒字にする道を模索しているように、私には思えます。それでも1億2千万人国民を養うだけのパワーはないといっていいでしょう。したがって、今回のエコカー購入の補助金やエコポイント制度の導入のように、産業界よりの政策をやめることはできないのです。

 民主主義国家において政権をとるということは選挙に勝つということなので、人気取りを目的とした政策が臆面もなく行われるという欠点が露呈することがあります。その財源不足を赤字国債によって補うわけであり、そのツケは未来の納税者たちが支払わなければなりません。
 そこまでやっても、自民党政権に愛想を尽かしている有権者がこれほど増えたという事実に対し、自民党議員の皆様がやっていることはちっとも変わっていません。都議選敗北の総括が必要だという主張は、麻生総裁の代わりにもっと人気のある人を総裁に据えれば衆議院選挙がそれだけ楽になるという安易な考えに基づいています。
 今まで政略を曖昧なままにしておきながら人気取りのための政策を乱発してきたということに対して反省しようという気持ちはさらさらないのが自民党議員の皆様なのです。

 本当は森政権の終わりとともに自民党も末路を迎えるはずでした。ところが小泉総裁というスーパースターが登場したことで息を吹き返すことができたものですから、これに味を占めた自民党の皆様は安倍晋三という人を小泉総裁の後継者として擁立しました。しかし、その人気は長続きせず、健康状態の悪化もあったのかもしれませんが、首相が途中で辞任するという失態を犯しました。それでも自民党議員の皆様は学習するということがありませんでした。福田さんが辞任した時点でもっとも人気の高かった麻生さんに総裁の椅子を預けることによって、自民党総裁選は人気投票と化してしまったのです。
 
 仮に麻生下ろしが奏功して次の総裁が決まったとしても、次の選挙で自民党が惨敗することは確実であるといってよいと思います。桝添さんのような比較的人気の高い人が総裁になったとしても、その人気もいずれ地に墜ちることは確実です。いい加減、初心に返って真面目で地道な活動を続けたらいいのに、と思うのですが、それよりも次の選挙で自分が当選するかどうかの方がずっと大事という人が今回騒いでいるようです。

 いっそのこと学習能力のない議員諸氏には次の選挙で落選してもらい、今の時代に有効な政略を示すことができない自民党は一度解体した方がよいと思います。
by T_am | 2009-07-17 00:53 | その他
 個人情報保護法が平成17年4月に施行されてから4年が経ちました。この法律が施行されたおかげで随分窮屈になった気もしますが、それだけ誤解も多いようです。そこで今回は個人情報というものについて考えてみることにしました。

(個人を特定できる情報)
 個人情報保護法で定める個人情報とは、生存する特定の個人を識別できる情報であり、他の情報と照合することで特定の個人を識別できる情報(社員番号や学籍番号など)も個人情報に含まれるとされています。
 では個人を特定するためにはどのような情報があればいいのかというと、その答えは簡単で、住所と氏名の二つが揃えば個人を特定することができます。同姓同名という人は世の中にいくらでもいますが、同じ名前(「純」「晶」「正美」「薫」など)の男女が結婚しない限り、住所まで同じということはまずありません。
 ですから、あらゆる申込書(病院の診察申込書やポイントカードの入会申込書も含む)と契約書には住所氏名を自署することになっているのです。
 なお、政治家などの公人や芸能人、スポーツ選手、学者などの著名人は名前だけで個人を特定することができるので、この人たちにとっては住所も属性情報となります。

 住所と氏名がわかれば個人を特定できるのですから、それ以外の電話番号・性別・年齢(生年月日)・職業・勤務先・出身校・年収・家族構成・メールアドレスなどは個人の属性ともいうべき情報です。これらの個人の属性情報は、個人を特定するための個人情報とセットにならない限り、意味を持ちません。同様に個人情報(住所・氏名)だけでは情報としての価値はそれほど高くありません。
 たとえば、私の個人情報(住所・氏名)が名簿業者の知るところとなって、私宛に学習塾の案内が送られてきたとしても、直ちにゴミ箱行きとなります。(これがバイアグラの購入を呼びかけるダイレクトメールであれば5秒ほど迷うかもしれませんが。)
 すなわち個人に関する情報とは、個人を特定する情報とその属性情報がセットにならない限り、それを使う者にとって価値は低いということがいえるのです。

(個人情報が悪用された例とその対応)
 私の高校の同期の連中は横のつながりが比較的強く、活発に同期会を開催してきました。その活動の一環として、同期会名簿を作成して配布していたのですが、この名簿を使って同期の女性にストーカー行為を働いていた男がいたということがわかりました。その男というのも同期の人間です。
 この事件の教訓は、人間には信じていい人とそうでない人がおり、無条件で他人を信じるのは構わないが、その結果の責任は自分が取らなければならない、ということです。
 以来、同期会では名簿の配布をやめてしまいました。もちろん、同期会の案内を発想する必要があって名簿を作成するのですが、幹事だけがそれを持っており、一般には配布しないということです。

 同様の心配があるのでしょうか、学校でもクラス名簿というものが作成されないようになりました。実際に事件が起こったかどうかは知りませんが、生徒と保護者の名前・住所・電話番号・職業が書かれた名簿がなくなったことは事実です。しかし、それでは緊急時の連絡に支障をきたすということで、生徒の名前と電話番号だけを書いた連絡網のリストが配られています。さすがにこれに異議を唱える父兄はいないようです。

(情報はなんのために集めるのか)
 個人情報保護法が施行されてから、組織の中の情報すべて、その程度によって「社外秘」「秘」「極秘」などのランク付けがされるようになりました。その結果、真面目な人ほど守秘義務ということに神経をとがらせるようになったといえます。「この情報は「秘」扱いだから社内といえども関連する部署でなければ閲覧をお断りしてます」というように。
 その結果、多くの会社や組織で仕事がやりにくくなったという不満が湧いていることも事実です。なぜそんなことが起こるのかというと、情報とその秘密保持ということについてあまり議論せずに制度を導入するからです。

 取引の開始にあたり、「秘密保持契約書」を締結したり、「秘密保持誓約書」を提出させることがあります。企業法務のしっかりしているところほど、この運用が厳格に行われているようですが、残念ながら、これらの書類を結んだり提出させることは、多くの場合、過剰反応であり、また気休めに過ぎません。
 というのも、通常の取引であれば企業情報が流出して被害を被るということはほとんどないからです。割とよくあるのは、スーパーの開店日がライバル企業に漏れるということです。この場合、仕入れ先かチラシの印刷所から漏れたに決まっているのですが、それでライバル企業がチラシをぶつけてきたとしても、やはり開店には多くの人が詰めかけます。開店にはそれだけの吸引力があるのです(だから紳士服店のチラシは年中「開店」と文字が使われています)。そのようなときに、ライバル企業がチラシをぶつけてきたことでどれだけの損害が生じたというのは誰にも算定することができません。スーパーが仕入れ先やチラシの印刷所と守秘義務契約を結んでいたとしても、誰が秘密を漏らしたのかという立証もしなければなりませんが、それは不可能です。しかも損害額の算定が不可能であれば相手に対し請求できないのですから、契約自体が意味をなさないことになります。つまり意味のない契約を結んで安心しているということになるのです。

 情報は何のために集めるのか? ということをここで考えてみましょう。何のためかというと、アクションを起こすため、というのが私の回答です。
 経営者やスタッフ、ラインの長が業績の数値を見たり分析するのは、次の一手をどうするかという判断材料にするためです。
 そんな大げさなものではなくても、動物としての人間も、日常では五感を通じて得た情報に基づいて身体を動かしています。道を歩いているときに目の前に水たまりがあれば、それを避けて通ります。これも目の前に水たまりがあるという情報に対して、それを避けて通るというアクションを起こしているわけです。
 つまり、情報の存在理由は、それを入手した人がアクションを起こすことができるというところにあるのです。したがって情報は、原則的には、できるだけ多くの人の目に触れるようにするべきであるということになります。
 アメリカ政府は一定期間経過した外交文書を公開していますが、これは歴史の評価を政府がするのではなく、公平な第三者である歴史学者の手に委ねようというものです。核の持ち込みに関する秘密文書など存在しないというのが外務省の見解のようですが、どちらのスタンスが健全な国家づくりに寄与するかといえば、答えは自ずと明らかであると思います。

(個人の属性情報はプライバシーとなりうる)
 個人の属性情報は、それが個人を特定する情報と結びついたときに始めて意味を持つということを申し上げました。時々、週刊誌で、芸能記者による座談会として、芸能人のプライバシーを暴露するという企画を目にすることがあります。この場合、芸能人をAとKというようにイニシャルで表示しているので、わかる人にはわかるけれども、わからないひとにはさっぱりわからないというものになっています。読者はそれが誰のことを指しているのか知りたいと思うでしょうがどうすることもできません。また真偽のほども検証のしようがありません。したがって、これらの企画はうわさ話と同列に評価されるべきであって、よっぽどほかに載せる記事がなかったんだろうな、と思うことにしてます。
 個人の属性情報の中には、その人にとってプライバシーともいえるものが含まれています。では、プライバシーとは何かといえば、「他人に知られたくない個人の属性情報」という定義が可能だと思います。
 ここで、プライバシーには2種類あって、誰にでも共通する普遍的な事項とそうでない特殊な事項がそれにあたります。
 このうち、特殊な事項(アタシには夫も子供いるけれども、週に1度10歳年下のボーイフレンドとセックスしている、など)は当事者が明かさない限り余人が知ることはできません。それだけに侵害されてはならないプライバシーであるといえます。
 難しいのはだれにでも共通する普遍的な事項というやつで、職業・勤務先・出身校・年収・家族構成などがそれにあたります。これらの情報が、他人に知られたくないものであるかどうかはその人によって異なります。中には他人に知られても構わないという人もいれば、他人に知ってもらいたいという人もいます。こういうのは合コンのときによく見られるようです。

女「ねえ、タナカさんてどこに勤めてるの?」
男「○○テレビだけど。」
女「えー! すごいー! あそこってお給料いいんでしょ? タナカさんもいっぱいもらってるんじゃないの?」
男「うーん、1千5百万円くらいかな。」
女「きゃー! すてきー!」

 以上のことから、個人の属性情報には次の権利が付与されると考えるべきではないかと考えます。

1.相手に知らせる権利と知らせない権利
2.それを第三者に公開することを許可する権利と拒否する権利

 そして個人の属性情報を扱う者は、その規模の大小を問わずずべて、この権利を尊重する義務を負うべきであると私は考えます。
 具体的に申し上げましょう。
クラス会の幹事は、名簿を作成するために卒業生たちに調査票を送ります。そこには住所・氏名・旧姓・電話番号・携帯電話の番号・メールアドレス・勤務先などの記入欄が設けられるのが普通です。
 一方受け取った方には次の選択肢があると考えてはどうかというものです。

1.調査票を返送しない権利(今後関わりを持ちたくないという場合)
2.調査票の全項目を記入して返送するが、これとこの項目は第三者に公開しないで欲しいと指定する権利(クラス会の案内は送って欲しいけれども、幹事以外の人間からあまり干渉して欲しくないという場合)
3.調査票のうち、他人に(幹事にも)知られたくないところを空白のまま返送する権利

 幹事は個人から返送されてきた(あるいは返送されなかった)調査票に基づいて名簿を作成しますが、ところどころ空欄が生じることになります。調査票が返送されなかった人に対しては、氏名欄が旧姓のまま、それ以外の項目はすべて空白ということになります。
 ここで注意すべきは、クラス会の場合、名前だけで個人を特定することができるので、それ以外はすべて個人の属性情報になるということです。したがって、その扱いはプライバシーとなることも考慮しなければなりません。

(結論)
 個人を特定する情報としての個人情報と個人の属性にかかる情報とでは扱い方が異なる。原則として個人情報は公開されていいと考える。個人の属性情報はプライバシーとして、その扱いは本人の意志に従う。ただし、名前だけで個人が特定できる可能性があれば、住所もプライバシーとして扱う。したがって会員に送られる名簿においては、住所も個人の属性情報となる。なお、名簿を作成する目的によっては属性情報であっても開示を前提とする場合(クラスの連絡網のように)がある。この場合個人はそれに異議を唱えることができない。
 
(補足)
 属性情報の開示を拒否して自分が得られる利益とそれによって被る不利益の総量がどのようになるかはあくまでも個人が判断しなければなりません。つまり自己責任において行われるべきであるということになります。
 また、名簿作成の目的によっては属性情報開示の権利は制限されることがあります。クラス連絡網を作成する場合、生徒の名前と電話番号が最低限必要となります。にもかかわらず、電話番号は属性情報であり個人のプライバシーである、と主張してその掲載を拒むことはできません。このあたり、公共の利益のためには個人の利益は制限されることがあるという原則に基づいています。
 いかなる組織や集団に属そうとも、個人の権利が無制限に担保されるということあり得ません。というのは無制限に行使された権利は必ず他人の利益と相反するようになるからです(夏が終わると海岸がゴミだらけになっているというのはその典型的な例です)。そうなると争い事が起こり、人間の社会は無数の争い事によって機能しなくなってしまいます。
 そこで、個人の権利を制限するための知恵として、道徳やマナー、あるいは法律や契約といった権利の濫用を制限する手法が編み出されてきたのです。そうすることによって、個人が享受する利益の総量が社会全体で最大化するということが可能になります。そんなものよりも自分の得る利益にのみ関心があるという人であっても、基本的にはこの社会から追放されることはないというのが今の日本のいいところなのですが、その代わり、自分の利益が確保されれば他人はどうでもいいと考えている人は、同じ考えを持つ他人から被害を受けても文句を言う資格がないのではないか、と個人的には思います。実際にはそんなことはないのですが。

 個人情報保護法は、個人のプライバシーについて混乱している部分があって問題のある法律だとは思いますが、個人情報を扱う事業所に対する規定であって、いかなる場合においても個人の権利を無制限に保護するというものではありません。
 ここのところを誤解している人が多いように感じます。
by T_am | 2009-07-13 06:37 | その他
 お風呂から上がったときはバスタオルで身体を拭くというのが一般的ですが、このときにバスタオルで身体を「拭く」よりも、ぱんぱんと叩くように使った方が効果的です。
 どういうことかというと身体を拭くというのは、タオルで身体の表面の水分の大部分を拭き取り、残ったわずかな水分は自然蒸発することによって身体が乾く、という二つの段階によって完了するからです。
 タオルと身体の表面の関係は、より乾いている方に水分が移動するというものです。最初はタオルの方が乾いているので、身体の表面についている水分を吸い取ってくれますが、そのうちにタオルも濡れてくるので、それ以上水分を吸収しなくなります。だから私たちは、身体を拭くときは常に乾いているところを使うわけです。
 ところがタオルで叩くようにして身体を拭くと、絶えず新鮮な空気が身体の表面に送り込まれることになるので、多少の水分が残っていて(それ以上水分を吸い取らない)も蒸発しやすくなります。

 ばーちゃんが手ぬぐいを振り下ろして股ぐらをパーンと叩くというのは(あまり見たいとは思いませんが)、新鮮な空気を送り込むことで乾燥させやすくしているのだと理解できます。そうした方が乾きやすいということを経験的に知っているのですね。

 だから風呂上がりにタオルをぱんぱんと叩くようにして、身体を拭くというのは、それだけ早く身体が乾くのです。
 他愛もないことですが、このやり方はタオルの表面積が小さいとき、または1枚のタオルを二人で使わなければならないとき(どのようなシチュエーションであるかはご想像にお任せします)において、特に効果的ですから、覚えておいて損はありません。特に、幼児と一緒にお風呂に入るお母さんは、これを覚えておくとバスタオルが節約できるのでお勧めです。
by T_am | 2009-07-12 04:57 | 科学もどき
 1Q84のBOOK1の最後の章で、天吾の年上のガールフレンドがかれの睾丸を愛撫するシーンが描かれています。(ちなみに、作者はこの女性の名前を明らかにすることはせずに、単に「ガールフレンド」とか「彼女」という普通名詞で呼んでいます。明確な意図に基づいていることはたしかなので、それは何かを想像するのは結構楽しいことです。)

 その「彼女」が天吾の睾丸を撫でながら会話を交わすシーンがあるのですが、決して下品ではなく、官能小説のように読者の劣情をそそるわけでもなく、むしろ、こういうのも悪くないよね、と思ってしまうところが興味をひきました。
 
 たぶん、ほとんどの女性は、機会があれば男の睾丸に興味を持つのではないでしょうか。なぜならば、それは彼女たちが持たない器官だからです。堅すぎもせず柔らかすぎもせず、触れると袋の中で動き回るのですから、女の人が触りたがるのも無理はないのかもしれません。
 それは扱い方によっては男にとって急所となることを彼女たちは知識として知ってはいるものの、純粋に好奇心によってさわりたがるようです。したがって、男が嫌がればそれ以上さわることはしなくなりますが、そうでなければ彼女たちの気が変わるまでさわり続けるのではないかと思います。
 男には彼女たちが持たない器官がそのすぐ側にもうひとつあります。彼女たちがそちらをさわるときは性欲に結びついているか、そうでなかったとしてもやがて性欲を呼び覚ますことが多いようです。したがって、この二つの器官は女性にとって異なる受け止め方をされているのではないかという気がしてなりません。
 Y染色体があるばかりに胎児は男につくりかえられる(胎児の身体の基本仕様は女です)のであって、そうでなければ睾丸は卵巣となる運命にあります。男と女の違いはY染色体の有無という単純な事実に由来しますが、その結果もたらされた変化というのはお互いの理解に余るものがあります。

 ゆえに、こう考えることができると思います。

 男の睾丸を無邪気にさわることができる女性は、とても健全な精神の持ち主である。なぜなら、それはコミュニケーションを欲する意思のあらわれであるから。
by T_am | 2009-07-10 07:01 | その他