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カクレ理系のやぶにらみ

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時間のある方はお読みください。軽い気持ちで読み始めると頭が痛くなります。

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 宮崎県の東国原知事が次の衆議院議員選挙への意欲を示しています。これに対して、まだ任期の途中なのだからと訝しく思う人も多いようですが、出馬の条件としてつきつけた総裁候補になれること、知事会の決定を一字一句修正することなく自民党のマニュフェストに盛り込み4年以内に実行すること、の2つがあまりにも高いハードルであり、果たして知事の思惑通りいくかどうかはわかりません。
 私には、東国原知事が重大なことを見落としているように思えます。それは知事と国会議員との違いについて、ひと言でいってしまうと「自分で決められるかどうか」ということに尽きます。
 亡くなった今東光さんが、参議院議員になったにもかかわらず1期で辞めてしまったときに、その理由として「一人では何もできないから」ということをおっしゃっていました。
 国会というところは、多数決で決定するところですから、どんな名論卓説を展開したとしても、しょせんは数の論理に屈してしまいます。だから、力のある政治家ほど派閥やグループをつくり、そのボスになろうとします。一方、それほど力がない政治家は、いわゆる「陳笠」となってボスのために尽くす代わりにボスの援助を受けるという道を選択します。すなわち、一年生議員はどこかの派閥に属さないとやっていけないのです。したがって、自民党といっても一枚岩の組織ではなく、色々な派閥やグループが水面下で絶えず主導権争いをしている政党であると理解すべきです。
 知事は自分で決めることができますが、国会議員はそうではありません。東国原知事が目指そうとしているのは、そういう世界です。
 同氏がこれだけマスコミに露出してこれたのは、彼が現職の知事だからであって、国会議員になってしまえば、その瞬間に「タレント議員」といういささか手垢のついた分類に括られてしまうことになります。したがって、国会議員になった場合、政治バラエティ番組か日曜日の朝にやっているような政治家を集めた討論番組の準レギュラーとなることはできるでしょう(テレビ局も彼が出演すれば視聴率がとれると計算するから)が、そういう国会議員は既に何人も存在しています。
 その中での最大の出世株は桝添厚生労働大臣でしょう。ただし、この人は人気だけで大臣になったわけではありません。こつこつと積み重ねてきた実績が自民党幹部たちに評価されて、政策審議会長に就任しました。桝添氏は当時の安倍内閣を批判することが多かったのですが、内閣の改造の際に年金問題を抱える厚生労働大臣に抜擢されました。これは年金問題などに安倍内閣が本気で取り組むという姿勢をアピールするための人事であったと思います。以後、福田内閣を経て、現在の麻生内閣でも厚生労働大臣を務めているのですから、その点は流石であると認めなければなりません。
 東国原知事の言動を好意的に解釈すれば、地方の要求を国に実行させるには、国の中枢に入り込まなければならないと考えたのだろういう判断もできますが、それにしてもずいぶん思い切ったことをするものだというのが私の感想です。

 そうこうしているうちに、大阪府の橋本知事が横浜市の中田市長と会談し、次期衆議院議員選挙で支持政党を表明するために、自治体首長のグループを立ち上げる方針を決めた、というニュースが25日になって伝わりました。
 これは非常に賢いやり方だと思います。
 知事や市長といった地方自治体の首長たちがグループをつくり、選挙のたびに支持する政党を表明するという動きは、自民党や民主党にとっては無視できないものとなります。昔と違って、自治体首長の知名度は高くなっていますから、その人たちが自分たちの政党を支持してくれるのか、あるいは対立する党の支持に回るのかで選挙に与える影響は大きく変わってきます。
 自民党にせよ民主党にせよ、自分たちの政党を支持してもらえればそれだけ選挙が有利になるわけですが、その代わり見返りを用意しなければなりません。首長のグループが、支持する代償として政党に要求するのは、地方に対して権限と財源を委譲せよというものです。政党の側も選挙で勝つためには、この要求をある程度受け入れないわけにはいきません。
 したがって、この構想が橋下知事の思うとおり実現するならば、地方から国が変わることにつながっていく可能性が開けて来ると思います。
 ただし、自治体の首長の中には自分の支援団体とのしがらみを抱えている人もおり、自由に支持政党を表明できるという人(完全に無所属でなければなりません)がどれだけいるかというと疑問です。また、政党の側も首長のグループという院外勢力にキャスティングボートを握られるのは好まないはずなので、グループの切り崩しなどいろいろな工作をしかけていくものと予想されます。
 そうすると橋下知事の構想は、その実現までに様々な紆余曲折が生じるものと思われますが、近々衆議院議員選挙があるとされているこのタイミングにおいては絶好のチャンスであるといえます。その効果は橋下知事がどれだけの首長をグループ化できるかにかかっています。まさに時間との勝負といってもいいでしょう。
by T_am | 2009-06-26 03:20 | その他
 麻生おろしが活発になってきました。山本拓衆議院議員(福井2区)を始めとして自民党総裁選の前倒し求める国会議員が108名いるとのことです。
 政権党にとっては総理大臣は顔のようなものですから、人気のない総理を抱いている自民党の代議士諸氏の心痛を察すると、誠にお気の毒と申し上げざるを得ません。

 しかし、よく考えてみると、人気のない総理の下では選挙を戦えないから交代してもらいたい、というのは何とも情けない話だと思います。だってそうでしょう。比例区はともかくとして、選挙区では有権者は個人に対し投票するわけです。このままでは選挙に勝てないと公言する選挙区の国会議員は、今までたいしたことをしてこなかったということを108名の国会議員たちはカミングアウトしていることになります。
 そういう国会議員は落選した方が国のため、有権者のためにはいいと思います。普段からきちんと政治活動をやっており、その成果を選挙区の有権者に知らせるという努力をしていれば、そのときの総理がどうであろうと有権者の選択がゆらぐことはないはずだからです。
 そのときの情勢で投票行動が変化する人たちを浮動層と呼びます。この人たちは政治家の失政やスキャンダルに敏感に反応するので無視できるものではありませんが、自分の選挙区に浮動層が多いという議員は、普段何をやっているか有権者にはわからないということの証明でもあります。
 麻生総理という人は、戦後最低の総理のうちの一人(最低といっても一人しかいないとは限らないのが日本の不幸)ですが、それでも麻生おろしに費やすエネルギーがあるのなら、自分の選挙区の有権者から信任されるような活動を普段からしておく方が遙かに効果的だと思うのですが、議員諸氏にはそのような発想はないようです。

 比例区という制度は、名簿の上位に名前を連ねていれば、棚からぼた餅式に議員になれるというものです。この人たちに必要とされる能力は名簿の上位に置いてもらうための政治力だけですから、比例区の名簿づくりの実権を握っている人の方を向いて仕事をするということになり、国民は二の次となります。昔は、こういう議員を陳笠と呼んでいました。
 いいかげん比例区という制度はやめてしまって、その分議員定数を減らした方が歳費も減るのですから、国民は全然困りません。
 今回、総裁選の前倒しに賛同している国会議員108名の名簿を見たわけではありませんが、それぞれの思惑があってのことと思います。特に言い出しっぺである山本拓議員の場合は、今後の党内での発言力を確保しようという思惑があるものとみられます。
 しかし、有権者にすればそんなことはどうでもいいことであって、自分たちの暮らしをよくしてくれる政治家がいればその人に一票を投じたいという気持ちに変わりはありません。しかしながら、そういう人はどこを探しても見つからないので、棄権したり、あるいは次善の策として、今いる候補者に投票するしかないと諦めているのです。

 以前、民主党は自民党の代打としてしか国民に認識されていない、ということを申し上げました。というのは、民主党の議員がやっていることは自民党の議員のそれと大差ないからです。
 西松建設の献金問題が事件となったときに、小沢元代表に対する批判の声が高まりました。その理由は、次の選挙で不利になるからというものでした。民主党の議員諸氏もしょせんは自民党議員と同レベルであるということを満天下に晒したわけです。

 日本をおかしくしている原因の大半は官僚制度にあると思いますが、それが止められないのは法律の起案能力のない議員が多すぎることにあります。つまり、国会議員とは名ばかりでまともな法律の立案すらできない議員が多いので、政府がどんどん法律をつくるわけです。
 このたびの108名というのは、中には立派な人格をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう人たちであると決めつけて差し支えないと思います。(しかしながら、そういう議員を当選させる有権者にも責任はあると言わざるを得ません。)
 それでも、あえて問います。あなたちは、どこを向いて仕事をしているのですか?
by T_am | 2009-06-23 21:16 | あいまいな国のあいまいな人々
 人間はものごとを理解するときに、善いか悪いかの二元論で捉えがちであるといえます。もっと大胆にいえば、好きか嫌いかといってもいいと思います。
 私たちには、自然界に存在するすべてのものと身の回りで起こるすべてのできごとを、このどちらかに分類して理解しようとする性質があります。
 その代表的なものがマスメディアによる世論調査であり、「あなたは麻生総理を支持しますか?」という質問などは、典型的な二元論に基づく設問です。この設問に対しては、一応「どちらでもない」という選択肢も用意されていますが、回答を集計する際に注意を払われることはまずありません。指示する人の割合がどれだけあるかが常にクローズアップされて取り上げられています。

 以下、余談となりますが、自然界に存在するものと身の回りに起こる出来事(長ったらしいので、以下「事象」と書くことにします。ですから、以後「事象」とあったら、それは「ご自分の身の回りのありとあらゆるものとできごと」であると思ってください)は、本来人間の思惑とは別個に存在し、また発生しています。人間はそれらの事象について、自分にとって都合のいいもの「善い」とか「好き」というグループに括り、都合の悪いものを「悪い」とか「嫌い」というグループに括る傾向があるのです。
 微生物によって有機物が分解されることを腐敗といいます。どこかの国では政治家や官僚に対する悪口として使われる場合もありますが、この用法は本来の意味ではありません。
 微生物によっては有害物質をつくるものもおり、この場合腐敗は食中毒の原因となります。また、有機物が分解されて悪臭を発する物質(硫化水素やアンモニア)が生成されて腐敗臭を放つこともあります。このように、腐敗というのは人間にとって都合の悪いことが多いのですが、微生物による分解がチーズや納豆など人間にとって都合のいい物質をつくる場合は発酵と呼んでいます。その場合、いくら臭くても「発酵臭」ということになります。
 腐敗も発酵も、微生物が有機物を分解するという作用に変わりはなく、人間にとって都合がいいか悪いかによって言葉を使い分けているに過ぎません。

 事象を二元論で分類することは、人間にとって世界をわかりやすいものにします。なんだかよくわからないものを、いつまでもそのままにしておくのは私たちにとって落ち着かないものであり、それよりも白黒をつけてすっきりしたいという欲求は誰にでもあります。

 すべての事象にはプラスの面とマイナスの面とがあり、それは人間の都合とは無関係に発現し、ときには人間を弄ぶかのように振る舞います。
 たとえば、雨がまったく降らずに干害ということになれば、飲料水や農業・工業用水が不足してしまいます。毎年のように報道される四国の早明浦ダムの貯水率は水不足の象徴のように扱われています。
 適度に降る雨は、人間にとって恵みの雨となりますが、狭い範囲で短時間に大量に降ると今度は洪水をもたらすことになります。
 雨の降り方は人間の思惑とは無関係に決定されますし、また人間がどうこうできるものではありません。

 ところが、人間が制御できると思われている悪い自然現象があります。
 そのひとつは紫外線です。紫外線はシミやそばかす、皮膚ガンの原因にもなりますが、微生物に対する殺菌作用があります。このように、紫外線は人間にとって有用でもありますが、ときとして害を及ぼすものであります。そこで、文明国の人間は紫外線をカットする道具を発明し、商業ベースで流通させています。試みに「UVカット」というキーワードでネット検索をしてみると、実に多くの商品があることがわかります。
 これだけ多くの商品があるということは、それを購入する人がいるということでもあります。つまり、そういう商品を使うことで、私たちは自分の皮膚に到達する紫外線量を減らすことができると考えているということの証左であるといえます。もちろん、中には気休めに過ぎないという場合もあるのですが。

 二番目の悪い自然現象は地球温暖化です。その主な要因は大気中の二酸化炭素ガス濃度の増加であると考えられているために、今後これが増加すると今よりも地球の温暖化が進行すると考えられています。
 そのため、日本では官民を挙げて、二酸化炭素ガスの排出を抑制しようという呼びかけがなされています。今年になって、二酸化炭素ガスの排出を従来よりも抑制すると政府が認めた製品については、その購入(というよりも買い換え)にあたり補助金を支給するという施策がとられました。エコカーの購入に対して減税を行い、なおかつ補助金も支給するというのがそうですし、エコとして認定された家電製品を購入するとエコポイントがもらえることになりました。エコポイントというのは、その点数に見合う他の商品や有価証券と交換できるというものです。
 これらの施策は、二酸化炭素ガスの排出削減に貢献するという理由をつけて大手企業を業績不振から救済することが目的ではないのかとすら思えます。というのは、これらの製品が本当に二酸化炭素ガスの排出削減に効果があるのであれば、政府は企業に対し、そうでない製品をつくった場合は罰金を科すという選択肢だってあったはずだからです。世の中に流通する製品がずべて二酸化炭素ガスの排出に効果があるのであれば、何もせずにいても二酸化炭素ガスの排出は減っていくことは小学生でもわかる理屈です。ところが、政府は経済対策のために、エコカーやエコ家電の買い換えを促進する目的で、これらの購入者に対して補助金(エコポイントも同様です)を支給することにしました。その財源は、未来の私たちが収める税金です。今日借金をしてお金を使うのは政府ですが、その借金の返済金は私たちが収める税金が充てられます。もしも返済に支障をきたすようであれば、当然税金を上げて財源確保が行われることになります。
 つまり、自分が買ってもいない自動車や家電製品の購入に対して支払われた補助金やエコポイントのために、税金を負担するというのが今回成立した補正予算の実態です。
 でも誰もそのことに文句をいいません。
 なぜかというと、日本では二酸化炭素の排出は悪であるということになっているからであり、目先の儲け話につい目が眩むという人間心理も大きいと思います。

 先週の土曜日、NHKで「SAVE THE FUTURE」という番組があり、その中の公開討論コーナーに斉藤鉄夫環境大臣が出席していました。その中で、日本がなぜこれほどまでに高い目標を掲げて二酸化炭素ガスの排出削減に取り組んでいるかという大臣の発言があり、その要旨は「経済成長の著しい中国に対し二酸化炭素の排出削減を促すと、『日本は今までさんざん二酸化炭素を排出したきたのだから、まず率先して削減したらどうか』といわれるので、まず率先垂範しないと中国に対していうことができない」という意味の発言がありました。
 斉藤大臣のこの発言は、二酸化炭素の削減は科学的必然性に基づく人類の課題ではなくて、実は政治問題であるということをあらわしています。
 地球温暖化が進んだときに、その影響をどの国がどれだけ受けるかというと、中国の国土面積は日本の25倍であり、人口は10倍あるので、中国は日本に比べてそれだけ多くの被害を受けることになります。にもかかわらず、中国では二酸化炭素の削減よりも経済成長の方を優先させているのですから、国土も狭く人口も少ない日本が中国の心配をするのは余計なお世話であると思います。
 現実に進行しつつある地球温暖化を阻止するのであれば、二酸化炭素の排出を無条件で現在の水準よりも減らさなければなりません。しかし、現実はそうではありません。2005年の段階で世界に占める日本の二酸化炭素の排出割合は4.7%に過ぎません。一方中国は19.0%を占めており、実に日本の4倍の二酸化炭素を排出しています。ということは、日本が8%の削減を実行しても、中国で二酸化炭素が2%増加すれば、日本の努力は水の泡となってしまうということです。

http://www.jccca.org/content/view/1040/781/

 しかし、斉藤大臣の発言はそうではありません。日本は今までさんざん二酸化炭素を排出してきたのだから、中国に理解してもらうためには、日本が率先して削減する必要があるということをいっています。しかし、現実には中国の二酸化炭素の排出量はすでに日本のそれをはるかに凌駕しています。中国の十年は日本の四十年に相当するのですから、日本が過去にさんざん排出してきた二酸化炭素の量に、既に中国は追いついている可能性が極めて高いのです。しかもその差は今後広がる一方であることは容易に想像できます。にもかかわらず、大臣はそのことにはひと言も触れていません。

 失礼ですが、あなたは本当に日本国の大臣なのですか?

 したがって、政治家にとって二酸化炭素の排出削減というのは、科学的必然性に基づく人類の課題であるとは思われていないということがわかるのです。
 誤解しないで頂きたいのですが、二酸化炭素の排出を政治的に扱うことがけしからんと申し上げているのではありません。むしろ、その排出量を政治的に扱うことは必然であるとさえ思っています。
 そのことは、二酸化炭素の排出量という言葉を「世界の富」という言葉に置き換えて考えてみればわかります。
 世界中の富の総量は有限ですから、それをどの国がどれだけ手に入れるかという問題に置き換わります。事実、帝国主義の時代は、まず強い国から順番に富を手にしていくというものでした。現在は、それが武力ではなく経済力という力に変わっているだけのことです。
 二酸化炭素の排出量に総量規制をかけようとすれば、どの国がどれだけ排出できるかという問題になってしまいます。排出可能な総量は現在の実績値よりも少ないことが感覚的にわかっているのですから、それは言い換えれば、どの国がどれだけ削減するかということになります。この難題を解決するのは政治しかありえません。したがって、二酸化炭素の排出削減という問題は政治問題であるということになるのです。
 私が卑劣であると思うのは、そのようなことには口をつぐんでおきながら、国民に対して二酸化炭素を削減しましょうと呼びかける政治家と官僚たちです。その片棒を担いでいるマスメディアは、国際感覚と政治感覚が欠落しているかあるいはよほどあくどいかのどちらかであると思います。
 その際に用いられている論理が、二酸化炭素の排出は悪いことであり、それを削減することは善いことだという二元論なのです。

 二元論は、なにしろ善いか悪いかのどちらかしかないのですから、誰でも善い方を選ばないわけにはいきません。国家権力が二元論を利用するときは、必ずロクでもない結果を招いており、そのツケを払わされるのは常に国民です。今年の例でいえば、自分が買いもしないエコカーやエコ家電製品を他人が購入するための補助金を捻出するために、税金を負担しなければならない、という状況になってしまいました。そのために、何年後かには消費税率が引き上げられる可能性もあるのです。
 しかしながら、国民である私たちが二元論による思考に囚われている限り、自らの運命を変えるのは相当難しいと言わざるを得ません。

 では、「善い」か「悪い」かに囚われない考え方とは何かというと、ひとつ最近の事例をご紹介しておきます。

 6月16日の読売新聞に、村上春樹さんのインタビューが掲載されていました。その中で村上さんはこう述べていました。

「今年2月、僕がエルサレム賞を受賞した際も、インターネットで反発が盛り上がったようだ。でもそれは僕が受賞するか拒否するかという白か黒かの二元論でしかなく、現地に行って何ができるかと一歩つっこんだところで議論されることはほとんどなかった。」
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm

 エルサレム賞を受賞するべきか拒否するべきかという二元論に囚われる限り、村上さんがやったように、現地へ行ってその国の人々にメッセージを述べるという選択肢はうまれません。そして、そのことに思い至ることがないというのが私たちの現実でもあります。
 村上さんの姿勢は、意見が対立したときに両方のメンツを潰さないところで落としどころをみつけて手を打つ、という日本人の得意芸とは異なる次元のものです。そのような発想こそが、私たちを「システム」の蹂躙から救う蜘蛛の糸であると思うのですが、それが欠けているからといって悲観することはありません。
 今日できなくても、明日か明後日にはできるようになっていればいいのです。
 そのためには、まず自分の等身大の姿を見つめることから始まるのではないかと思っています。
by T_am | 2009-06-22 23:30 | あいまいな国のあいまいな人々
 日本語は音節の少ない言語なので、同音異義語が多いという特徴があります。たとえば、「はし」という言葉は、それだけだと川に架ける「はし」なのか、ご飯を食べるときの「はし」なのか、それとも物の末端の「はしっこ」を指すのかわかりません。
 このため、文章では漢字で表すことによって意味がわかります。しかし、会話では音だけを頼りにするので、言葉のアクセントや前後の文脈によって意味を判断するしかありません。
 紛らわしい話言葉で、「いいです」というのがあります。肯定と拒絶という相反する意味があるので、注意しないとどういう意味なのかわからないことがあります。

「ねえ、カノジョー、お茶しない?」
「いいです!」

「ねえ、カノジョー、お茶しない?」
「いいですよ。」

 最初の例は肘鉄を食らっているわけですが、後の例は意外なことにOKをもらっています。その違いは何かというと、「!」と「よ」の違いに過ぎません。日本語って難しいですね。


 誰でも知っている童謡で「あかとんぼ」があります。歌を聴くとこんな感じです。

 ゆうや~け こやけ~の~ あかとんぼ~
 おわれ~てみたのは~ いつのひ~か~


 実をいうと、子どもの頃は、赤とんぼに追いかけられた歌だと思ってました。
 そういう例はほかにもあります。これも、誰もが知っている「故郷(ふるさと)」の冒頭はこのように聞こえます。

 う~さ~ぎ~ お~いし か~の~や~ま~
 こ~ぶ~な~ つ~りし か~の~か~わ~


 最初聴いたときは、「山でバーベキューをして食べたウサギの肉はおいしかったなぁ」という意味だと思っていました。

 どちらも、もちろん私の間違いです。
 「あかとんぼ」の歌詞をよく聴くと、3番目に、

 じゅうごで ねえやはよめにいき
 おさとのたよりも たえはてた


 というのがあるので、冒頭の部分は、自分の子守をしてくれていた「ねえや」の背中におんぶしてもらってあかとんぼを見たことを思い出している、ということがわかります。
 三木露風のつくったこの詞は、一番から四番まである中にきちんとストーリーと時間の流れ(現在から始まって、遠い過去に遡り、次いでその後のことを思い出し、最後にまた現在に戻ってくる)があって、非常によくできていると思います。味わい深い詞と曲の良さによって歌い継がれて来たのだと思います。

 歌というのは、短い詞を音として聴くしかないので、このような勘違いが起こりやすいといえます。特に日常使っていない文語が使われていると、「追いし」を「おいしい」と勘違いするようなことも起こります。
 先生がきちんと意味まで教えればいいのかもしれませんが、子どものうちは歌の良さというか味わいまではわからないものです。それよりも、間違った意味を覚えたまま大人になったけれども、後になって間違いに気づくことで、かえってその歌の良さに気づくということもあるので、そんなに目くじらを立てる必要はないのではないか、という気がします。

 次に、人間が言葉の意味を判断するときに視覚の影響も受けるという事例をご紹介します。
 往年の名作アニメ「巨人の星」の主題歌は次のように始まります。

 思いこんだら 試練の道を
 行くが 男のど根性


 このときに、野球のグランドをならすための、あのいかにも重そうなコンクリートのローラーを、足腰を鍛えるために一生懸命引っ張っているシーンが重なるのです。

 おっもい~こんだ~ら~ しれん~の~み~ち~を~

 テレビからこういう歌が流れてくるので、てっきり、

 重いコンダラ、試練の道を
 行くが 男のど根性

 
 こういう意味であると勘違いした人が多いようです。つまり、あのコンクリートのローラーのことを「コンダラ」というのだと思いこんだということで、こういうオジサンは結構多いようです。

 また、アクセントによる勘違いというのもあります。
 古い歌ばかりで恐縮ですが、サザンオールスターズのデビュー曲で「勝手にシンドバッド」という歌があり、その最後の部分はこのように聞こえます。

 むなさ~わぎの~こしつぅき

 歌詞をちゃんと聴いていれば勘違いすることはないのかもしれませんが、これが「胸騒ぎ残し 月」というふうに聞こえていたのです。後になって、「胸騒ぎの腰つき」であり、女の人のウェストからヒップにかけての動きの悩ましさを謳ったものらしいということがわかりました。
 この作者の詞は、歌詞カードをちゃんと読まないと何をいっているのかわからないものが多く、お金を出してCDを買わなければなりません。ただし、歌詞カードを読んだからといって意味がわかるとは限らないので、そういうときは、そのうちわかるようになるかもしれないからあまり悩まないようにしよう、と割り切ることにしています。
 そういえばその昔、亡くなった忌野清志郎の「わかりやすさ」と比較していた人がいました。日本語の美しさという観点で、忌野清志郎=いい、桑田佳祐=ダメ、という結論でしたが、あまり意味のない比較であったと思います。
 何をいっているか意味はわからないけれどもこの歌が好き、というのは確かにあって、外国の歌などはその最たるものでしょう。子どもの頃聴いたモンキーズの「Daydream Belieaver」は何をいってるのか全然わかりませんでした(今もあまり変わってません)が、それでもいい歌だなとということはわかりました。
 その歌が自分に縁があれば、いずれ自分にもわかるようになる。だから、ちゃんと聴くということが欠かせないのです。歌でも人の話でも。
by T_am | 2009-06-21 08:40 | その他
 臓器移植法改正案が衆議院で可決されました。いわゆるA案です。

 改正案の焦点は、現行法では認められていない「15歳未満の脳死段階での移植を認めるかどうか」ということです。この法律のために、臓器移植を受けなければ命を失うかもしれない子どもが、寄付を募ってアメリカへ行き、臓器の移植手術を受けるということが行われてきたという事例がいくつも報道されてきました。

 改正法には4案あって、相違点は次の通りです。(NHKニュースに基づく)

(A案)
 年齢制限をなくしたうえで、本人の意思がわからなくても家族が承諾すれば、臓器提供を認める

(B案)
 臓器提供ができる年齢を12歳以上に引き下げる

(C案)
 年齢制限は変えず、脳死の定義をより厳格にする

(D案)
 年齢制限はなくすものの、15歳未満からの臓器提供は、家族の承諾に加え、第3者機関が適切かどうか判断する

 このような議論が出てきたのには、果たして脳死は人の死といえるのか? という疑問があるからです。医療が今日のように発達するまでは、人の死というのは単純な現象でした。すなわち、呼吸が止まり、次いで心臓が止まることで瞳孔が開く(光をあてても小さくならない)ことが確認されると、その人は「死んだ」とみなされました。
 しかし、医療が発達したことで、脳の機能が完全に失われていても人工呼吸器によって呼吸が継続しており、心臓も動いているという状態が出現しました。これを脳死といいます。
 脳の機能が失われている以上、意識が回復することは考えられないのですが、脳死者の中には脊髄反射によって身体を動かす人もいるとのことです。
 
 こうしてみると、「死」には、本人にとっての「死」と、家族にとっての「死」の二通りがあることがわかります。私にとって、自分が死ぬということは意識が失われ二度と目が覚めることがない状況に陥るということです。もっと正確にいうと、死に至るまでの間たぶん苦痛が押し寄せるであろうと思いますが、その感覚がどこかの瞬間でぷつんと途切れる、それが死ぬということです。だから、自分が死ぬまでの間のことしか自分には関係ないということになります。
 一方、家族にとって、私の意識が失われて二度と目覚めることがないということが理屈ではわかっていても、現実に身体が温かく呼吸もしているという状態であれば、それは「死」として受け入れがたいというのは当然であると思います。

 したがって、「死」という現象は、立場によって受け止め方が異なるということがわかります。
 このことが脳死は果たして人の死といえるのか? という疑問に結びつきます。
 臓器移植提供意志カードは、自分が脳死状態になったらあらかじめ指定する臓器を移植してもらって差し支えない(あるいは臓器を提供する意志がない)ということを示すものです。しかし、このカードの普及率は低く、また、15歳以上でなければ意思表示が認められないという制限(民法961条の規定、15歳以上の者は遺言の意思表示ができる、に基づく)もあります。このように、本人の意思が確認できなければ臓器移植ができないために、移植をすれば命が助かるという患者の数に比べ、臓器移植が行われる件数が圧倒的に少ないという状況にあるのです。
 
 改正A案は、年齢制限を撤廃し、臓器移植提供意志カードがないために本人の意志が確認できなくても家族の同意があれば移植を可能にする、というものです。
 本人に臓器を提供する意志があれば何の問題もありません。あとは、適合する患者がいれば移植手術が行われますし、そうでなければそのまま埋葬されることになります。

 臓器移植という問題は、突き詰めていくと次のように集約されます。

1.自分は臓器を提供する意志があるかどうか。
2.家族が脳死状態になったときに、自分は臓器の提供に同意するかどうか。

1の設問にあらかじめ回答が用意されていれば、2の設問は不要となります。しかし、健康な人でそういう問題をきちんと考えている人が多いわけではないので、大部分の人は1の設問に対する回答を用意しているわけではありません。そこで、この改正案Aが参議院でも成立したならば、2の設問を突きつけられる人が今後増えることになります。

 改正案Aは、家族に同意を強要するものではありません。しかし、実際には医療従事者によって臓器提供の説明が行われることで、少なからず悩む家族も多いだろうということは容易に想像できます。目の前に横たわっている大切な人の臓器を提供することは他人の生命を救うことになるかもしれませんが、その代わり、自分が、目の前にいる家族の心臓を止めることに荷担することになるという事実と向き合わなければなりません。逆に、自分が同意しなければ、そのことで、この地上のどこかにいる誰かが死ぬかもしれないという罪悪感もつきまとうのです。
 人間である以上、そういう立場に置かれたら悩むのが当たり前ですし、その人に対し、どちらかを選べと迫るのは酷であるといえます。

 2の設問に対する回答は、同意するか、そうでないか、という二者択一しかありません。臓器の提供に同意するのでなければ、それが拒否であろうと、あるいは自分には判断ができないということであろうと、不同意として括られてしまいます。悪いことに、この設問に対する模範解答というのはありません。本人に相談できればいいのでしょうが、その本人の意識がないのですから、あくまでも自分たち家族で決断しなければならないのです。
 そして、そこで下された判断がどのようなものであろうと、第三者はこれを等しく尊重しなければなりません。そうでなく、そのことによって他人から責められるようでは、家族が救われないからです。実際には、社会の風潮はそうではなく、つらい選択をした個人に冷たく当たるということが散見されています。だから今回の法改正は時期尚早だという主張もあるようですが、私はその考えには与しません。個人が下した決断のつらさを斟酌して、これを尊重するという精神が社会に横溢しない限り、いじめや嫌がらせといった陰湿な行為は後を絶たないのです。

 今回の法改正は、脳死状態にある家族を抱える人たちにとってつらい選択を迫ることになります。
 それを承知で申し上げるのですが、人間には、どんなにつらい選択でも結論を出さなければならないときが訪れることがある、と思います。このような場合、どれが正解であるということはいえません。どれを選んでも苦痛を感じるのですが、それでも逃げないということが人として必要なことなのではないか、と私には思えるのです。
 これは、臓器の提供に同意せよといっているのではありません。同意しないという回答があることも、第三者は尊重しなければならないのですから。

 もちろん、そのような立場にはなりたくないと思う人もいらっしゃるでしょう。それも否定するわけではありませんが、いい機会ですから、自分がそういう家族の立場に立ったらどうするかについて、考えてみることはあながち無駄なことではないと思います。
by T_am | 2009-06-18 23:37 | 科学もどき
 司馬遼太郎さんの名著「坂の上の雲」をドラマ化する作業がNHKによって進められています。「坂の上の雲」という小説は、明治時代の日本が何を目指し、そのためにどのように振る舞ったかということを三人の主人公(正岡子規、秋山好古、秋山真之)を通じて描こうとしたものです。

 少し余談を続けます。
 江戸幕府の理念は一言でいうと、明日は今日の延長であり今日とと何ら変わるところはない、というものでした。この論法で行くと、十年後の未来であろうと百年後の未来であろうと、明日の積み重ねの果てにあるわけですか変化はないことになります。徳川家康、秀忠、家光という三代の将軍はこのために様々なことを禁止しました。その最たるものは徳川家光による鎖国であったといえるでしょう。すべては徳川家を守るためでした。
 しかし、孤立を続ける日本とはまったく無関係なところで科学が進歩し、産業革命によってそれまでとは違った文明が登場しました。この間の世界の消息は、長崎に設けられた出島というピンホールを通じて日本にもたらされていました。
 江戸幕府の終焉は、新しい文明が世界を席巻する嵐に日本が呑み込まれるかどうかを日本人が選択した結果であるといえます。当時の日本人が選んだのは、国家として自立する道でした。
 現代からみると、明治時代というのは暗く貧しい時代であったかのように見えます。極東の農業以外ろくな産業のない島国が、欧米列強の侵略を免れるために近代国家の仲間入りをしたあげく、身の丈以上の無理を重ねたのが明治という時代です。
 日露戦争というのは、日本という国家が独立を維持するために不可避であった戦争でした。「坂の上の雲」はその時代を描いた小説です。

 連合艦隊の作戦を一手に立案し、日本海軍を勝利に導いていったのが秋山真之ですが、司馬遼太郎さんはこのように書いています。(「海濤」より引用)

 真之は、兵理について、
「兵理というものはみずから会得すべきもので、筆舌をもって先人や先輩から教わるものではない」
 ということを、かれはのちに海軍大学校で講義したことがある。
 かれは、会得する方法を懇切に教えた。あらゆる戦史を読んで研究せよ、読める限りの兵書を読むべきである。その上でみずから原理を抽象せよ、兵理というものは個々に研究して個々が会得するしか仕方がないものだ、といった。要するに教科書は個々が作る以外にない、ということであった。

 ここでいう「兵理」とは、戦術のことであり、平たくいえば、どうすれば勝つことができるかということを指しています。
 それは文字や言葉でもって伝えることはできないと、この希代の作戦家は述べているのです。
 ここで注目しておきたいのは、こういう場合にはこうすればよいという対処方法を覚えるのではなく、様々な事例から原理を抽出せよ、と述べていることです。こういう場合にはこうすればよい、というのは確かに効果があるかもしれませんが、その代わり「こういう場合」でないときは役に立たないということでもあります。
 したがって、状況に応じてなし得る最善の行動はただ一種類しかないという考え方をする限り、人間は無限のパターンを覚えなければならないことになります。しかし実際には、こういう場合はこうしたらいいという解答がわかっていない、未知の事態が起きることだってあるわけです。
 つまり、パターンを覚えることよりも、パターンを研究することでむしろ原理を発見することの方がはるかに重要であるということです。原理とは、言い換えれば「考え方」であるといってもよいと思います。

 ものごとの表層だけを見ている人がいます。このような人は、こういう場合には常にこうするのがよいという理解の仕方をします。その人にとって、優先すべきは「何をするか」あるいは「何をしてはいけないか」、ということであって、「目的は何なのか」、という思考が欠落していることが多いのです。

 作業ではなく仕事をするということは、何をどのようにするかを自分で判断しなければならないということです。
 たまに、考えるのは自分の役割であって、部下は自分が指示したとおりに動けばいいのだ、と勘違いをしている上司がいます。こういう上司に限って、ああしろ、こうしろ、と細かいところまで口を挟み、部下が自分の指示と反対の意見を述べようものなら烈火のごとく怒ります。
 これでは部下は育ちませんし、やる気をなくしてしまいます。
 自分が知っているパターン通りの行動しかできない部下には、決まったパターンしか派生しない仕事を与えるべきであり、万一パターン外の出来事が起こったときは直ちに報告して指示を仰ぐ、ということを普段からしつけておくべきです。
 未知の出来事が起こったときに自分で解決策を考えることのできる部下には思い切って任せてしまうという方がいいと思います。心配であれば、部下に対し、行動に移す前に自分に相談に来るようにしつけておけばいいのですから。

 上司と部下とは何が違うかを一言でいってしまうと、持っている情報の質と量が違うというところにあります。こういう場合にはこうしたらいい、というのは情報の量に属しますし、問題が発生したときはこういう考え方で対処する、というのは情報の質の部類に属します。いずれも体得するには本人の努力と時間と経験が必要です。

 将来伸びる人というのは、仕事ができる人の側で、その人のやり方をじっと見ている人です。さらに伸びる人は、その人の考え方(どういうことを考えてそのようにするのか)を見つけ出そうとする人です。考え方がわかっていれば、違ったパターンの問題が起こっても応用して対応することができるからです。
 しかしながら、このような仕事の覚え方は、ときとして上に迎合するという人格をつくり出すことがあります。何をすれば上司やトップが喜ぶかを敏感に察知するというのは自分の利益に直結することですから、何をするかの判断基準の上位に「どうすれば上司やトップを喜ばせることができるか」ということが居座りやすいのです。
 したがって、仕事をやる上での考え方を身につけるのと同時に、自分はどっちを向いて仕事をしているのかという自問自答を忘れるべきではありません。
by T_am | 2009-06-17 23:29 | その他
 昨夜は酒の飲み比べを行ってきました。新潟でワイナリーを経営している本多孝さんと日本酒の醸造元を持っている田中康久さんのご厚意によるものです。(ほかにも場所を提供してくださったイマイさん、プロデュースをしてくれたセイヤさんの尽力もあるのですが、最後は酔っぱらってしまい充分に折りを述べることができませんでした。ごめんなさい。そして、ありがとうございました。)

本多孝さんのワイナリー「フェルミエ」   http://fermier.jp/
田中康久さんの醸造元 「加茂錦酒造」「加藤酒造」

 お二人とも真面目で、かつ志を持っている経営者です。こういう人たちがつくる酒は無条件で信用していいといえます。
 昨夜はこのお二人が造った酒を数々飲み比べをしたのです。実に贅沢な一夜でありました。
 その酒の味は、実際に飲んでみないとわからないのですが、ひとつだけあげておくと、フェルミエのワインを飲みながら焼きたてのパンを食ったらうまいだろうな、と思ったことです。
 私が考える愛着の湧く街の条件は、腕のいい小児科医がいること、うまいパン屋があること、うまい酒を売っている酒屋があること、おいしい料理を出してくれる料理屋があることです。よく考えると、このすべてを満たす街というのはそうはないのではないかと思います。
 
 酒というものは、飲む方にとっては気楽にああだこうだといって構わないのですが、つくる方にとってはとても難しいものであるということが、今回の飲み比べでよくわかりました。突き詰めていくと、いい酒とは何か?という自問自答を繰り返さなければならないからです。
 ところが皮肉なことに、「いい酒」ではないけれども売れているということも世の中にはあるのであって、何が「いい酒」かという確立した定義はないのです。

 新潟の地酒(特に越乃寒梅)を有名にしたきっかけは開高健にあり、そこには三倍醸造による「飲むと必ず悪酔いする酒」に対する批判精神がありました。しかし、現代は先人が認めた酒をただ有り難がって、それを手に入れるためには金に糸目をつけないという風潮が強いように思います。
 私は酒に関しては素人ですが、自分の感覚を信じることにしています。値段が高いかどうかよりも、酒を飲みながら食べる料理がおいしいと思うか、あるいはもっと飲みたいと思う酒であるかどうかが、私にとっての「いい酒」の基準です。
 そういう意味で、このお二人がつくろうとしている酒は信頼していいと思うのです。

 志を持った経営者をもう一人ご紹介しておくと、新潟市東堀9番町で「霜鳥」という料理屋をやっている田中広記さんは、われわれに絞りたての醤油を振る舞ってくれました。この店は料理の素材の持つおいしさを塩蔵したり乾物にしたりすることでいっそう引き立たせるというコンセプトで運営されているとのことです。(違ってたらごめんなさい。田中さんのお話を伺ったときにはすっかり酔っぱらっていたのです。)この「自家製」の醤油は絞りたてだけあって、(原酒がそうであるように)どことなく「とんがった」味がしましたが、香りは抜群でした。醤油というのは料理に香りをつけるための調味料でもあるということを思い出した次第です。

 こういう自分の志に忠実で熱心な人たちがつくる酒や料理をリアルタイムで味わうことができるというのは人生の醍醐味であるといってよいと思います。
 こういう人たちがいるということは、まだまだ日本も捨てたものではありません。
by T_am | 2009-06-15 22:48 | その他
 町内の側溝清掃がありました。何が辛いといって、コンクリートの蓋を外す作業ほど疲れるものはありません。去年までは手作業でやっていたのですが、今年は道具を買ってきました。
 手作業で側溝の蓋を持ち上げようとすると、前屈みにしゃがみ込まなければなりません。そしてすき間に指を引っかけて挟み込むようにして蓋を上に持ち上げるのですが、このとき両手は、蓋を挟み込む方向の力と上に持ち上げようとする力と2方向の力を出さなければなりません。ある程度引き上がったところで手を持ち替えて、本格的に持ち上げることになります。この間ずっと上半身は前屈みになっているので腰にかかる負担は大きくなります。一方、下半身は上体を支えるために踏ん張らなければならず、力の使い方としては実に無駄の多いやり方であるといえます。だからものすごく疲れるわけです。

 私が買ったのは「どぶた郎君」といって、2つの金具を真ん中でX字型に組み合わせただけのシンプルな構造をしています。X字型の下の両側に45度の角度でツメがついていて、これを側溝のすき間に差し込みます。上の両側にある穴につり上げ金具を引っかけて持ち上げるという仕組みです。
 この道具がよくできているのは、各パーツが中央の支点を中心に自在に回転するようになっているので、ツメをすき間に引っかけて「どぶた朗君」を上に持ち上げると、X字型のパーツが内側に回転しようとするので下端にあるツメが蓋のすき間を締め付けてくれます。つまり、人間は上に持ち上げる力だけ使えばいいということになるのです(実際には両足を踏ん張る力も必要ですが)。
 一般に重いものを持ち上げるときは、体軸に近いところで背筋と腕を伸ばした状態で下半身を使って持ち上げるというのがコツです。こうすると持ち上げた荷物は腰の位置にきます。ここで肘を曲げてさらに高い位置で持とうとしたり、荷物と身体の間にすき間ができているとそれだけ余計な力が必要になるので、著しく疲れます。
 「どぶた朗君」では、このように体軸に近いところで全身を使って持ち上げるということが自然とできるようになっており、かなり楽に、あの重いコンクリートの蓋を外すことができました。「どぶた朗君」(ホームセンターで4980円で買ってきました)のほかにも様々な道具が発売されているようです。

 力を効率よくつかって重いものを動かすには色々なやり方があります。

 てこの原理は力点(力を加えるところ)と作用点(ものを動かすところ)とでは(力の強さ)×(動かす長さ)が同じということを利用しています。支点からの距離が力点では作用点よりも遠くにあるために、(動かす長さ)が大きくなる反面(力の強さ)は少なくて済みます。作用点はこの逆で、(動かす長さ)が短くそれだけ強い力が働きます。
 腕相撲でハンデをつけるために、力の弱い人は手首よりも肘寄りのところをつかんでもらうと互角以上の勝負ができます。これも、てこの原理の応用です。(もう一ついうと、手首を自分の身体にできるだけ引きつけるという必勝法もあります。手首が身体から離れていると、それだく多くの力を使わなければならないからです。)
  また、ものを動かそうとする方向に、力を加える方向を揃えることができると、それだけ力の効率はよくなります。バットの真芯にボールが当たるとそれだけ遠くに飛びますが、芯を外れると詰まった打球となってしまい、ゴロやフライになってしまいます。これはバットを回転させる方向にボールを打ち返すと、バットが持っている運動エネルギーがそのままボールに伝わっていきますが、芯を外してしまうと、バットの回転する方向とボールが打ち返される方向が違ってしまうので、ボールに伝わる運動エネルギーにロスが生じるためです。(テニスでもスイートスポットにボールを当てないときちんと打ち返すことはできません。)
 ほかにも摩擦をできるだけ減らすという方法もあります。タイヤを運ぶときに転がして運びますよね。これがそうです。また、ドラム缶やガスボンベを傾けて回転させながら運んでいくというのもその応用です。どちらも、持ち上げて運ぶよりもはるかに少ない力で運ぶことができることはおわかりでしょう。

 力の発生源は自分の筋肉だけではありません。

 介護の現場では、寝ている人の上半身を起こすときに、介護者は片膝をついて寝ている人の横に坐り、自分の手を寝ている人の首の裏側にまわしてから、そのまま自分の身体を後ろに倒すようにして相手の身体を起こすというやり方が使われています。
 腕の力だけで起こそうとすると結構大変なのですが、これだと力の弱い女の人でもたいした力を使わずに寝ている人を起こすことができます。というのも、相手を起こすために重力(この場合は自分の体重)を利用しているからです。その分意識して使う力(つまり筋肉)は少なくて済みます。

 このように、道具を使ったり、体の使い方を工夫することで力を効率よく使うことができるのですから、日常生活に応用できる分野は案外多いように思います。
by T_am | 2009-06-14 15:34 | 科学もどき
 鳩山総務大臣が辞任したことが大きく報道されています。
 おそらく激励の電話やメール、ファックスが多く寄せられたことでしょう。この後で総選挙があるのですから、今大臣を辞めることで失うものは何もないばかりか、やめて得るものは大きいと思います。

 辞表提出後のぶら下がり取材の様子が報道されています。

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090612mog00m010019000c.html

 「大臣はどのような気持ちで辞表を出されましたか。」という記者の質問に対し、「世の中、正しいことが通らない時があるんだなと、今はそういう思いですね。どんなに不透明で悪事を働いていても、私がそのことをはっきりと説明を世の中に対してもしてきましたが、今の政治は正しいことを言っても認められないことがあると。」と答え、さらに「まあいずれ、歴史が私の正しさを証明してくれると。歴史と言っても50年、100年先じゃなくて、1年以内にも証明は出るのではないでしょうか。」とも述べています。

 笑止千万という四字熟語の見本のような発言ですが、極めつけは「自分だっていっぱい失敗してきた人間ですが、汚れたことをやる人間は許せない、それを許したのでは政治にはならない、というのが私の信念だから。」という発言です。
 今問題にされている「国営マンガ喫茶」という施設を百億円以上の金をかけてつくろうとするのは、「国民の財産をかすめ取ろう」とする行為ではないというのでしょうか。今回成立した補正予算には、各省庁がどさくさに紛れて盛り込んだ無駄遣いが実に多いのです。その財源は赤字国債なわけですから、自分たちの利権利得のために国民にその借財を払わせよう(消費税率は12%にすべきだという声も出てきています)としています。その補正予算を通した内閣の総務大臣だった人が、この鳩山邦夫という人です。

 結局、この人はカッコいいことをいっていますが、それは自分の人気取りのためであって、自己の信念に基づいているわけではないと判断せざるを得ません。
 こういう手合いが現場のやることにいちいち口出しすると、現場が混乱してしまい、何一つ実現できなくなってしまいます。責任をとる覚悟もないくせに、現場に対してああしろこうしろと介入するのは卑怯です。こういうことがあると現場で真面目に働いている人間の士気が著しく低下してしまいます。

 今回の一連の動きを見ていると、表面には現れませんが郵政に対し影響力を維持したい官僚と自己の利益に結びつけようとする政治家が組んで起こしたどドタバタ劇であるといってよいと思います。
 この件に関して、色々な政治家が発言していますが、どれもそれぞれの思惑があることがわかり、百鬼夜行という感じがします。こういうときに、その人が高潔な人であるか、あるいはさもしい人であるかがよくわかります。誰がどのような発言をしていたか、よく記憶しておきたいと思います。
by T_am | 2009-06-12 22:01 | あいまいな国のあいまいな人々
 日本郵政の西川社長の進退を巡って鳩山総務大臣が気炎を上げています。9日の参院総務委員会での集中審議の場でも、総務大臣はかんぽの宿譲渡問題について「国民の財産をかすめ取られそうになった責任を取ってほしい」と糾弾しています。同時に、「政争とか選挙はまったく関係ない。国民の常識が政界の常識、私の常識でなければならない」という発言もあったとのことです。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090609/plc0906091913016-n1.htm

 当事者である西川社長はよく耐えているなと感心してしまいます。私だったらとっくにキレているからです。

 鳩山総務省にお聞きしたいことがいくつかあります。

 グリーンピアの施設は建設費の数パーセントという金額で売却されました(建設費1953億円に対し売却額48億円)。グリーンピアは国民の社会保険料で建設した施設です。売却が決まったときあなたは何をしていたのですか? (同様の事例は雇用能力開発機構が持っていた施設の売却のときにもありました。中には二千万かけてつくったプールが1050円で売却されたという事例もあります。)

 かんぽの宿は毎年約40億円の赤字を計上しています。あれだけ巨額のお金を投じてつくった施設が赤字になった責任の追求はどうしたのですか?


 別に西川社長を擁護しようというわけではありませんが、鳩山大臣がご自分の正義を貫くおつもりであるならば、こういう疑問に頬被りしていられないと思います。
 正義を標榜しておきながら、ケースバイケースで正義を使い分けることをスタンドプレーといいます。

 問題の本質は、売却額が安いことではなくて、公費を投じてそのようなお荷物をつくったことであり、赤字を垂れ流してきたことにあります。既に述べたように、かんぽの宿だけではなく、グリーンピアや雇用能力開発機構がつくった施設など、お荷物になった施設はいくらでもあるのです。いったい誰がつくったのでしょうか? 
 そういうところには一切触れないで、売却額の安さだけを問題視するのは見当違いであり、卑怯です。

 私が西川社長だったら集中審議の場でこう言ったと思います。

 私を責める前に、このような不良債権をこしらえた人々の責任を明らかにすることの方が先ではないかと思います。不良債権をこしらえた人がのうのうとしていて、不良債権の始末をする人間だけが責められるというのは民主国家としていかがなものでしょうか?一国の大臣ともあろう方が、よもやこのような不正義を見逃すとは思えません。きっと厳正に対処してくださるものと信じております。
by T_am | 2009-06-10 00:05 | あいまいな国のあいまいな人々